後鳥羽院と定家2

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 後鳥羽院は、和歌のみならず、小弓、競馬、笠懸、相撲、蹴鞠、水練などスポーツや、琵琶、白拍子舞、今様、鶏、囲碁、将棋、双六、など、まあありとあらゆる遊芸に喜びを見出し、それらの名人たちを身分に関係なく集め、競わせることをこよなく楽しんだ。

 水無瀬離宮における遊興の時の、この「専制的な文化的支配」王の上機嫌な声が聞こえてくるようである。いっぽう、和歌と出世のことしか念頭にないような定家は、そのくせ院の遊興には馴染めず、院の強引な享楽趣味にたいする苦々しい思いを、いじいじと日記に書きつける。

 承久二年(1220)、順徳天皇の内裏歌会で、定家が自分の不遇を訴えたとも受け取られるような述懐歌を詠んだ。このことがきっかけで定家は後鳥羽院の勘気をこうむり、しばらく謹慎蟄居させられた。

 もともと定家の家族には鎌倉方の縁者が多く、将軍実朝に『新古今』などを贈ったり、また求めに応じて実朝の和歌の合点、批評などもしていて、そんなこんなでどうも後鳥羽院と定家はだんだんそりが合わなくなっていったようだ。

 そして承久三年である。後鳥羽院は鎌倉の北条義時追討の宣旨を下すが、京軍はまたたく間に敗走。後鳥羽院は隠岐へ流され、結局その地で生涯を終えることになる。GHQたる鎌倉方の下、京に後堀川天皇が置かれ、文化は九条家によって監督される。定家は、あの恐ろしい祝祭熱狂的後鳥羽院と正反対の柔和で思慮深い後堀川天皇に安堵と喜びを感じた。

 後堀川天皇は、1232年、定家に『新勅撰和歌集』の撰進を命じた。が、間もなく不幸にも突然の崩御。が、九条道家は定家に編集の続行を命じた。ところが、道家はその仮奏覧本に後鳥羽院や順徳院らの和歌があまりにも多く含まれているのを見て、これ鎌倉方に見つかったら、ちょっとやばいのではということで、これらをすべて削除するように定家に命じた。

 この『新勅撰集』は、1235年に完成したのであるが、おそらく当初、定家が後鳥羽院の和歌をもっとも多く入れていたのであるからには、彼は後鳥羽院御製をそれだけ認めていたのであろう。じっさいには鎌倉を慮ってすべて削除された。そして入首歌最多は藤原家隆であることが、この集の傾向を想像させる。

 この頃の定家は、千五百番歌合当時は、歌人たちは自分で素晴らしいと思って詠んでいたが、今見ると、まったく尋常の歌とは言えない、自他の恥と言うべきだ、と日記に書き、また定家の息子為家の妻の阿仏尼は、後に定家は『新古今集』を「あまりにたはぶれ過ごしていた」と言っていた、と書き残している。

 他方、隠岐での後鳥羽院は、あの黄金時代の和歌をどのように考えていたのであろう。『隠岐本新古今集』で、多くの歌が削除されたが、新古今歌風を築いてきた歌人たちの歌を、その割には減らしていない、少なくとも定家の歌をとくに減らすようなことはしていない。あの時の輝かしい美を否定していない。

 隠岐に流されてからの後鳥羽院と京に居る定家とは、一度も連絡し合った形跡はないようだが、しかし、二人はこの長い期間を通じてお互いを高く評価し続けていたと思われる。

 そのような、田渕氏のお話でありました。


    
 

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後鳥羽院と定家1

 田渕句美子著『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』という本を読んだので、今回はこれを紹介しよう。

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 後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子として、治承四年(1180)に生まれた。この三年後の寿永二年には、平家一門は安徳天皇を伴って西海に渡っている。
 そして、後鳥羽天皇はわずか四歳で、三種の神器なしで即位した。

 十九歳になった後鳥羽天皇は、四歳の土御門天皇に譲位し、上皇になって、思いのままに羽を伸ばした。後鳥羽上皇は、何にでも興味をいだき、熱中する質であった。

 和歌に関しては、天皇時代に詠った形跡はなく、正治二年(1200)、二十歳にして近臣たちと歌を詠み始めたと思ったら、その夏には唐突に百首歌(歌合)を催すと発表。この『初度百首』の作者たちは、後鳥羽院その人をはじめ、親王、内親王、大臣、天台座主ら、様々な身分の者を加えるという画期的なものであった。

 ここで、後鳥羽院は家定の和歌に魅了される。たとえば、

 梅の花にほひをうつす袖の上に
    軒もる月の影ぞあらそふ

 馥郁たる香を放つ梅が夜の中に浮かび、その香が涙で濡れた袖に移り、そこに屋の軒端から漏れる月光が宿り、梅の匂いと月光がまるで競い合うかのように袖にうつり混じり合うのを「月の影ぞあらそふ」と表現した。人の生身の姿は消し去り、感覚を重層させる耽美的空間を作りあげた。このような歌に後鳥羽院は芸術的興奮を覚え陶酔した。

 これ以後、院は頻繁に和歌会を催し、院自身も猛烈なスピードで上達していった。一年後には、空前の〈千五百番歌合〉を催すに至る。歌合は一つのテーマに一対の和歌をおき、どちらが勝ちか判定する、右勝ちとか左よしとか、後鳥羽院は和歌で勝敗を判じる文句の工夫を凝らしたりしている。たとえばこんな判歌のかたちで、―

   六百三番 左勝

 なく鹿の声に目覚めてしのぶかな
    見果てぬ夢の秋の思ひを  前権僧正

    右 

 たづねても誰かはとはん三輪の山
    霧の籬に杉たてるかど    雅経

    院判歌

 のぶ夢つがつさめぬの月
    わたる山の々の秋風 

 つまり左僧正の歌が勝ちであると「しかぞよき(鹿ぞ良き)」と、フレーズの頭の語で言っている、しかも、元の和歌を、さらに展開させて詠みこんでいる。歌会を始めて二年もしないうちにこんな芸当を可能にした後鳥羽院の才やいかに。

 そうして、その半年後には『新古今和歌集』の撰進を、定家、家隆らに命じ、しかも同時に、頻繁に歌会を催している。和歌所には多数の書写役、校合係、目録作成係らがひしめき合い、食事もままならぬほどもう大変な騒ぎであったらしい。三年後、大急ぎで『新古今和歌集』奏覧、竟宴(竟宴とは、天皇親撰の宴を示す意味)

 しかし、何と!その明くる日から、さっそく後鳥羽院は『新古今』の切り継ぎ(改訂)を命じ、以後頻繁に行われる。和歌所の役人たちは、今のようにパソコンのない時代、このたび重なる切り継ぎには、うんざりしたことであろう。

 定家も日記『明月記』に後鳥羽院に苦々しい思いをぶちまけている。「仰せによりまた新古今を切る。出入り、掌を反すが如し。切継ぎをもって事となす。身において一分の面目もなし。…」こんなことが六~七年続いたらしい。


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後鳥羽院1

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 承久の乱(1221年)は、天皇が武士によって、つまり天皇家以外の者の手によって、流罪になった日本史上初めての例である。

 『日本史要覧』には、「後鳥羽上皇が幕府に摂津の長江・倉橋両荘の地頭罷免を要求」とあり、幕府はこれを拒否。武をよくする後鳥羽上皇は自ら創った軍団をもって戦ったが、負けて隠岐に流された。

『新古今集』撰進の院宣が下りたのは1201年(建仁元年)、その完成の竟宴が催されたのは1205年(元久二年)、しかしその後も後鳥羽院は切り継ぎを繰り返し、最後に成ったのは1210年(貞元四年)。和歌所に勤めていた定家は院の恣意に振り回されている様子を日記に書きとめている。

そして、隠岐への配流の身になったとはいえ、『新古今』再編纂の情熱は衰えなかった。後鳥羽院は約二千首を何度も何度も繰り返し詠むうちに諳んじてしまったという。そこでも切り継ぎは行われ、いわゆる『隠岐本』が成ったのは1235年(嘉禎元年)という。30年以上『新古今集』編纂に心を注いでいたというからには、われわれがそれを読むに際して、個々の歌もさることながら、やはり全体の流れや歌の配列、構成に注意して読まねばならいようであるが、小生はまだ通読してはいない。

一見、承久の乱で勝った幕府(北条氏)が政権を、負けた後鳥羽院が詩歌を取ったという、その後の日本の二元論的あり方の基が形作られたようにも見えるが、院自身は武の人でもあり、いわば古代的な〈まだ〉政治から離れられない時代の、あるいは離れたくない性分の人でもあった。

政治から離れ純粋詩に没入しようとしたのは藤原定家であった。丸谷才一著『後鳥羽院』によると有名な「紅旗征戎吾事ニ非ズ」という文句を彼は日記『明月記』に二回書いている、一度は定家20歳のとき、1180年(治承四年)、平清盛が福原遷都し、源頼朝が伊豆で挙兵した年であり、もう一度は60歳、承久の乱が起ころうという時だ。

後鳥羽院の和歌に、

 あはれなり世をうみ渡る浦人の
    ほのかにともすおきのかがり火

 という一首がある。これは、「あはれ」は「哀れ」と「阿波」、「世」は「夜」、「うみ」は「海」と「倦み」、「ほのか」は「仄か」と「帆」と「焔」、「ともす」は「灯す」「伴」「艫」、「おき」は「沖」「起き」「隠岐」を掛け、その重層性によって意味の複合体が生じている。肝心な点は、この歌は承久の乱以前に創られたことである。

 つまり後鳥羽院は、東の武士団が謀反を企てており、いずれ彼らと戦うことになっており、そして負けて隠岐へ流される、という予感をもっていた、と丸谷氏は言う。この話を聞くと、小生は、ロベルト・シューマンがまだ二十歳にもならないころ、自分がライン川で溺れ死ぬ夢を見たという話を思い出す。

 続けて丸谷氏は、院は「さきにまづ悲劇的想像力、といふよりもむしろ自分を悲劇の主人公に仕立てて楽しむ自己陶酔的な癖があったと思はれる。…彼は、心の奥で恐れながら憬れ、憬れながら恐れてゐた島で配所の月を見ることに成功するのである。」

 この観点に立てば、『新古今集』巻十八の巻頭に菅原道真の歌十二首を載せ、それを『隠岐本』でも削除しなかった意味が浮かび上がる。院は道真の悲劇に魅惑され、敗北を思慕していたのであり、これは定家の預かり知らぬところであった。

 丸谷氏の考察は、承久の乱は、関東vs京、あるいは武士vs天皇という意味を超えて、政治と文学とのかかわりあいを示唆してスリリングである。定家は、政治という現実に完全に背を向けることによって、徹底的に抽象的・形而上的美を目指す。後鳥羽上皇は、自身政治にコミットしながらも、政治すら詩の一素材であるように願って行動する。

 奥山のおどろが下も踏み分けて
   道ある世ぞと人に知らせん 1633後鳥羽院

 見わたせば花も紅葉もなかりけり
   浦の苫屋の秋の夕暮   363定家

 定家のこの歌を後鳥羽院は『隠岐本』では削除した。塚本邦雄は、このことについて院にたいする怒りを隠そうとしなかった。

 芭蕉は俳諧を夏炉冬扇のごとしと言ったそうだ。つまり詩は現実には何の役に立たぬもの、のみならず余計なモノだ。しかし、現実とは何か?

 ティラノサウルスがトリケラトプスを喰らい、雄と雌とが子孫を残すために大地を揺るがす生々しさが現実であろうか? 人間の生も、もし言葉が無かったら、現実とはそのようなものであろうか? しかし、そこには〈現実〉なる言葉すら存在しないのではないか。

 三島由紀夫があれほど憬れた切腹。首が飛んで血が飛び散った日、すなわち予定された〈昭和45年11月25日〉という日付が彼の最後の小説の末尾を飾る言葉でもあったとは。が、彼はあの瞬間〈現実〉を完成させたのであろうか。

 『新古今和歌集』はいろいろな問題を含んで豊富である。この歌集編纂に参加した歌人たちは、現実は言葉の側にあるという信仰を深めるために生きたのではないだろうか。




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西行5

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 まあ、とにかく、小生は、日本語がこのような危機を通過して、鍛え上げられてきたことを、日本人として嬉しく思う。小生は日本語を信じる。その広さを、しなやかさを信じる。もっとも他の国に生まれたわけではないから、他の言語は知らないけれど。

 日本語は歌を詠うには適しているが、外交には適していないと言うような人がいるが、小生はそのような意見には与しない。外交が弱いのは日本語のせいではなく、日本人気質と戦争で負けたためである。今や英会話が必要だと言うが、それは優れた技術を持った配管工が必要だという意味で必要なのである。現場の人は必要な技術を身に付けねばならない。

 日本語は論理を繰るには不適だという人がいるが小生はそうは思わない。そう言う人は論理の何たるかを知らない人だ。西洋の哲学者たちはよく知っていた。それに、日本語の不備を指摘して止まない人が、「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人が言った」というのと同じで、日本語の不備を日本語で上手に語っているのである。

 日本語に、我、僕、俺、私、小生、自分…などがあるということは、じつに細やかな話が出来るということではないか。もし、それが論理と関係ないというならば、論理は正確には数学に還元されるしかない。これこそ普遍的な言語である。


  
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西行4

    

そして、塚本氏は〈詩と真実〉の禁忌の領域に入っていく。すなわち塚本は若い時分の藤原定家に扮してこう独白する。

「歌つくりである僕の中のもう一人の歌よみが、いつも西行上人のやうに歌いたがってゐた、と言へば気障に聞こえようか。けれどもこの暗く微かな欲求は前衛グループの僕たちがみな無意識にもってゐたはずだ。僕たちの誰もがあの方のやうには生き直せないのと同様、樹立した歌風を毀すことはできない。」

「僕は自分のプロソディ(作詩法)に誇りをもってゐる。他の連中は妄信してゐる。そのリゴリズムと華美な禁欲主義の桎梏の中で、あの方の真実の告白、正述心緒の歌は、技術的な低さと無関係に、僕へのカタルシスとなり得た。」

「僕の信ずる短歌にくらべると上人の歌は、その多くが散文的だ。散文的なその歌い方のいかに短歌てきなことか。素朴で、人恋しい粉黛(ふんたい=化粧)なしの人間の歌のいかに懐かしいことか。」

「歌ふことのよろこびを知ってゐた、万葉以来のうたよみ、他人がさういふ時、ぼくは顔を顰めて鼻の先で笑ひもしよう。杉木立の点景ゆえに、僕の歌の紅の花も鮮やかに映じよう。けれども独りで沈思するとき、あるいは僕の負けだ、と心冷えることも稀ではない。いつの日か僕はあの方の歌をうとんじることがあらう。世界のちがひ、でかたづけることは僕の詩学がゆるさない。まずい歌は悪だ!」

「〈鴫立つ沢の秋の夕ぐれ〉これは傑作だ。皮肉ではない。僕の〈花も紅葉も〉にミクロコスモスがあるとしたら、この歌には人間がゐる。西行上人の自画像が、ひいては乱世に生きて、昨日を問はず、明日を知るべくもない人間の黒いシルエットが、逆光にくっきりと浮かび上がってくる。人は僕の歌をにくみ、この歌を愛惜しよう。そしてそのことは、僕の勝利であり、上人の作家としての真の敗北に他ならない。」

 この文を読んでいると、ふと三島由紀夫を読んでいるという錯覚に陥るのは小生だけではあるまい。思い返せば、三島も塚本も、絶対の言葉によってこの世を乗り越えようとした、あり得べき藤原定家を夢見て生きた。一方は、ついに言葉によって殺され、他方は死ぬまで言葉を不滅のアフロディテと崇めながら生き通した。

 塚本は他のところで、『新古今集』を定家vs西行の場と規定している。しかし、われわれは天才たちのドラマに煩わされないようにしよう。時には『新古今』の花園を逍遥して楽しもう、そして常に現実というわが家に還って来よう、しかしそのとき必ず微かに重苦しい気持ちが胸をよぎるのは、なぜであろうか。




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西行3

 大空は梅のにほひに霞みつつ
      曇りもはてぬ春の夜の月 (定家)

 かへり来ぬ昔を今と思ひ寝の
      夢の枕にほふ橘 (式子内親王)

 この『新古今』的な前衛的な妖しい花々の前では西行の歌は、概して素朴で、直接心から発する感じがして親しみやすい。だからこそ、『新古今』に置かれると、むしろ収まりが悪く感じる。やはりどうして彼の歌が『新古今集』にもっとも多く採られているのか、という疑問が離れないのである。

 かりに西行の歌が新古今的につまらないという観点に立てば、どういう風に見えてくるのであろう。難解で斬新なあまたの歌から推して現代の定家たらんとした塚本邦雄の諸評論を覗いてみよう。彼は生涯を通して反西行の立場を自認して憚らなかった。

 「〈鴫立つ澤の秋の夕暮れ〉にしたところで、〈心なき身〉という詞がいかにもかまととめいて私は嫌悪を催す。…〈心なき身〉の卑下自慢を上回る俗臭紛紛鼻もちならぬ似非世捨て人であることは歴然としている。」

 「〈願はくは花の下にて春死なむ〉は老優の切った下手な見得めいて嘔吐を催す。…西行の実録、逸話、伝説には、意味ありげでわざとらしく、殊勝に見えて実は気障っぽい言動が掃いて捨てるくらいでてくる。」

 ほんとうに西行の歌が先に下手たど思ったのか、伝説的な出家者の人気が先に鼻についたのか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということわざがあるけれど、もう西行の何もかもがマイナスイメージで塗りつくされている。よく引用される後鳥羽上皇の西行評「生得の歌よみ、不可説の上手」とは、えらい違いだ。

 さらに塚本氏は言う、概して平凡な歌が多いのに、多く採られているその故は、『新古今』は後鳥羽院によって造られた、濃淡、強弱、明暗の巧妙な配合からなる一巻の絵巻物であるから、西行の作は定家らの作を際立たせる緩衝剤にすぎない。美酒佳肴に飽きた通人がとどのつまりは一杯の水をこそ不変最高の甘露と称えるのだ。

ここまで言うのは、ちょっと偏見が過ぎるのではと言いたくなる。が、それには塚本氏なりの理由がある。

 『新古今』とは何か。新しい歌とは何か。塚本氏は俊成に成り代わって語るところは、「西行の人物と歌柄の野性を最大限に利用したいと思ふ。古今集以来の血族婚で畸形化した歌、惨憺たる自家中毒症状の歌の、毒を制する毒として。」「西行は直接体験を詩的経験より高いものと自負してゐるやうだ。私の逆説がかれには通じない。即物性の新鮮さは暗い心理の中で生きる、といふ逆説を。」


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西行2

     

小生の疑問はこうである。彼の歌は『新古今和歌集』に、どの歌人よりも多く採られている。しかし『新古今』の雰囲気と『山家集』の雰囲気とはかなり違う。しかし彼の歌が『新古今』に一番多く採られているという事実は、当時の編者らが西行の歌がよいと当然思ったからではないか。

 桜花夢かうつつか白雲の
   絶えてつれなき峰の春風 (家隆)

 春風の花をちらすと見る夢は
  さめても胸のさわぐなりけり (西行)

 まあ、例えばこんな違い。『新古今』の雰囲気とは言っても、一言では言えないくらい広いけれど、小生おもうに、『新古今』の技巧の向かっていく先は、歌が観念上のただの言葉遊びになってしまうぎりぎりの繊細さと巧みさである。たとえば、有名な定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり…」である。

小林秀雄は上手いことを言った、『山家集』を読んでいるとどうってこともない歌が、『新古今集』の中に置かれると断然光って見えてくる、というようなことを。良い歌なのかどうかはともかくとして、なるほど違って見える。この違いはすなわち、西行は世を捨てて山の中の庵で、花鳥風月の表現に心を燃やしたというような人ではなかった、非常に強い自意識の持ち主であった、そしてそれがそのまま歌になった、ということに他ならない。

ちょっと穿った見方かもしれないが、『新古今』の当時の歌人らは、自分たちの美学上の危機を西行が救ってくれるのではないかと期待したのではないだろうか。危機の行く先は、反動として遠く〈古今伝授〉という奇怪な暗い秘義を生むきっかけになったのではないか。

あの時代に、つまり12~13世紀に、西行のような思索家と、『新古今和歌集』のような美の爛熟とが出現したことを、小生は驚きの目をもって見る。ここで力をも入れずして天地を動かす歌の沸騰と崩壊とが起こったように感じる。


 
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西行1

  

いまNHKの大河ドラマで「平清盛」をやってますね。あれを見ていて、気になるのは、やはり佐藤義清(のりきよ)です。まあ、出家しちゃったから、あまり出てこないかもしれませんが。西行ってあんな人だったんだろうか、ほんとうに待賢門院への恋が出家のきっかけだったんだろうか、とかいろいろ穿鑿したくなりますね。

 ここでこんな声が聞こえてきます。「まあドラマなんて創りモノだからほとんどが事実ではない。」と。それに対して小生はいいたい、では事実はどこにあるか。当時書かれたものが、事実であると思うのは無邪気で人がよすぎる。古今東西、書かれたものは書かれたものにすぎない。それに人は本当に〈事実〉を知りたいと思っているのであろうか。

 リンゴが木から落ちた。もしこれが事実だとすると、なるほどこれは事実にすぎない。これが、どのような容態であるか、美しかったのか、死を連想させたのか、あるいは月の運動を連想したのか、要するに人の心がそれに関連してどう感じたかが面白いのではないか。ドラマが面白いのである。

 それに対して、そうだ人の心が事実なのだ、事実を知りたいというのは本心を知りたいということなのだ、と人は言うかもしれない。それには小生も同意しよう。ただ、人の心は〈本心〉があると言うにはあまりに微妙過ぎて、ゆえにドラマの良し悪しが生ずるのだ、と付け加えねばならない。

 それはそれとして、佐藤義清こと西行は、23歳にして妻子を捨て出家したのは、彼の心によほどのことが起こっていたはずである。仮に待賢門院との交情がきっかけになったとしても、それはきっかけであるにすぎない、彼の心中深く隠された思いが、出家(世を捨てる)という形をとったきっかけであるにすぎない。もちろん当時、〈出家〉するということはそうめずらしいことではなかったようだが。

ある女に惚れて妻子を捨てたというだけの話なら、今の世にもゴマンとある限りなく〈事実〉に近いつまらない話である。西行は出家後おそらく待賢門院には逢って!はいないだろうし、出家したと言っても、完全な僧侶になって仏事に専念したわけでもない。それどころか、鳥羽上皇や崇徳院の成り行きを気にかけ、かつての北面時代の一部の仲間たちとの交友を保ち続けた、という話を信じたい。

要するにあの当時、律令制が土地争いを治めきれず、武士が政治にコミットし始めようとする猛烈な変革期に政治から完全に心を離すことはできなかったであろうし、また当時は上皇も大臣もよき歌人でもあった。彼はたんに世の中が厭になって逃げたとは思われない。こういう歌を信じる限りー

  世の中を捨てて捨てえぬここちして
       都はなれぬ我が身なりけり

だから彼の表面だけを知って、じつに曖昧な奴だと思った人は当時から多かったであろう。しかし、じっさいに彼に会ってみれば、彼の心の中の何か強い確信めいたものに触れて、自分の彼に対する誤りに気付いた人もまた多くいたのではないかと思う。

彼ははまだ若いころから武士(とはいってもこの時代いわば在地武装農民、都においては貴族の番犬)の身分でありながら和歌を詠った。まだめずらしいことだ、彼には歌の天性の才があったのだろう。小生は、以前から彼の歌を読んでいて、これが上手い歌なのであろうか、とも思い、しかし、吟じてみてじつに自然に心に響くというか、何度も口ずさみたくなり憶えてしまうような歌が多いと思っていた。有名な―

  心なき身にもあはれはしられけり
        鴫たつ澤の秋の夕暮れ

西行と言えば月と桜と吉野山を連想するのが一般であるかもしれない。しかし、彼の歌に触れていたことのある人なら誰でも、単にいわゆる花鳥風月を愛でるというものとはちょっと違うなと、感じるのではないか。小生も漠然とそう感じていていたのだが、テレビで「平清盛」を見ていて、また西行についての疑問が湧きあがってきた。


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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

漫才1

A 「いやー、この前の震災は大変でしたなぁ。家が流された人はどうなってるんやろ」

B 「でも、まあみんながみんな同じ不幸を体験したというわけでもないやろ」

A 「と言うと?」

B 「いや、中にはな、家をなくして何だかすっきりした、って人もいるんやないやろか。」

A 「そんな人おるやろか?」

B 「例えば、捨てたいけれど、捨てられずにぎょーさんモノが溜まって困っとる人とか、修繕費がものすごくかかる壊れかけた古家をもっとる人とか、多額の借金証書がある人とか。」

A 「たしかに、そんなモン無い方がええわ。」

B 「そやろ。」

A 「そりゃ、震災に感謝せなあかんわ。」

B 「震災さまさまや。」

A 「さまさまと言えば、これはええチャンスとばかりにな、ドロボーが仰山でたらしい。中には泥に半ば埋まった人からバッグや腕時計を取ってった奴らがおるらしい。」

B 「そやがな。それを狙ろて、わざわざ遠くからやってきた奴らもおるらしいな。そりゃ専門家にとっては震災さまさまやろ。」

A 「世の中にはいろんな専門家がおるもんや。」

B 「でもなぁ、逆に普段なんにもせんような人が、知らん年寄り助けに走ったり、避難所で食べ物を分け与えたり、というような話も聞くでえ。」

A 「そやがな。いざという時、人はどういう行動にでるか、それが判らん。評論家はいろんなこと言うけどな、そう言う人らもいざという時どうするか、見てみたいわ。」

B 「そやそや。ゆーこととすることと違うのが人の常や。」

A 「いやまた、言う人は本気でそれを言うとるのかどうか分からん。」

B 「そうや。お気の毒に、とかいう言葉なんかそや。うちの隣の犬が死んだ時、おれは口ではお気の毒にとゆうてやったが、本心はあのうるさい犬が死んでせいせいしたと思っとった。」

A 「そやろ。おれも隣の娘さんに可愛いと言うてやったことがある。」

B 「世の中みんなそや。だからな、マスコミには注意せなかんで。」
 
A 「そうや。注意しとる。新聞にええと書いてあるなら、悪いということやないかと考えてみるし、悪いと書いてあれば、ええことやないかと考えてみる、それくらいの習慣はついとるで。」

B 「そりゃ、ええ習慣やわ。あんた、見かけによらん、ええ男やな。」

A 「その言葉に騙されへんで。おれは隣の娘と違うでー。」

B 「いや、これは本心や。疑いも行きすぎはあかんよ。」


お粗末ごめん  →  
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『エルナニ』

  
METライヴビューイングで、ヴェルディ『エルナニ』を観た。すでに言われていることではあるが、歴史物とは言ってもストーリーは荒唐無稽である。しかし、ユゴーの原著は、読んでいないので、どうだか知らないけれど、音楽となると、別にストーリーがどうのこうのなんて関係がないな。

 オペラは、あくまで音楽であると昔から思っていたが、衣装やライトや舞台装置の見事さ、それに歌手の演技の見事さに目が奪われ続けると、ついついオペラは音楽であるということを忘れてしまう。

 と言うと、ではなぜ作曲家は、器楽曲や声楽曲を書けばいいのに、わざわざオペラを書くか、という疑問が湧く。

 考えるに、物語のある場面の登場人物の心持ちをより一層深いところから明るみに出すためだ。音楽が無ければ、たんに表面的な出来事の推移―要するにつまらない芝居になってしまう。音楽こそ真実在、すなわち心の深層の動きを暗示する。その連続が、ひと纏まりのオペラとしての作品なのだ。

 だからこそ、オペラのストーリーは荒唐無稽であっても、出鱈目であってはいけないのだ。それぞれの登場人物の心が、いわば必然的な綾をなして、展開していかなければならない。オペラを作曲している時の作曲家は、だから決してこの流れを中断してはいけない。

 二重唱・三重唱となると、それぞれの人物のそれぞれの心持が、それぞれの歌となって、全体として一つの調和したムードを生みだす。そのムードは、創られたものとは言いながら、その状況の或る真実在であって、われわれはそれを聴いて陶酔する。陶酔と言っても、それだけ目覚めているのだが。

 それに、名人の歌声を聴いているときは、人声は最高の楽器ではないかと感じる。今回の女主人公とでも言うべきエルヴィーラ役のミードとかいうソプラノ歌手は、その立派な体からなんと見事な歌声を発していたことだろう。こういうもののために、オペラから離れることができない。

 ついでにもう一つ、はっと思ったのは、最後の幕で、主人公エルナニに対して、シルヴァという老人が約束の死を迫る時の、暗い運命的なフレーズは、モーツアルトの『ドンジョヴァンニ』で騎士像がジョヴァンニに回心を迫るときのそれと何とよく似ているか。ちょっと驚いた。

 まあメロディーがよく似ているってことはしばしばあるけれど。以前FMラジオ番組で、聴者から募った〈似ているメロディー〉を毎週取り上げているのがあったけど、似ていると言えば似ている例があまりに多くて笑っちゃったな。逆に言えば、似ているということは違うということでもある。犬と猫は違う、けれども見方によれば似ている。




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テーマ : 音楽 - ジャンル : 学問・文化・芸術

雨後の庭

今年は咲くのも散るのもほんとうに遅かったですね。
早いところではもう桜が開花しているらしいですが・・・、
まだ、うちではまだ梅の名残り。

如例凡句仕奉候 

庭椅子


春雨に うたれて静か 椅子の上





雨後の庭2


紅梅の 宴のあとの 庭ひろし




雨後の花びら


 
花散って この世あの世に よみがへる


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テーマ : 俳句 - ジャンル : 小説・文学

寸劇1

Y子「先生って、本当にいろいろなことをよく知っていらっしゃる」

先生「まあ、これくらいのことは。」

Y子「先生は頭狂大学の大学院を出られたのですって?」

先生「うん、まあ。」

Y子「すごい! で、ご専門は何なんですの?」

先生「生命倫理」

Y子「えー、難しそう、何なんですの?」

先生「まあ、一言では言えないけれど、…例えば、お猿のDNAと合体させて生まれた人に人権を与えるべきかどうか、とか、…脳を移植した場合、ドナーとレシピエントと、どちらの人の名前を残すべきであるか、とか…」

Y「えっ? 何かとても難しそう。やっぱり違うわねぇ、頭大出の人が考えることは。素敵ね、先生は頭もいいし、スタイルもいいし。運動もしてらっしゃるんでしょ?」

先生「ちょっとね、健康のために。」

Y「まだまだ青年と言ってもいい体つきをしておられるわ。よくもてるでしょうね。」

先生「いや、それがなかなか女性とは縁がないんだよ。」

Y「うっそー。女性から見てとても魅力的よ。」

先生「…Yさん、ぼくと付き合ってくれない?」

Y「えっ、無理しなくていいのよ…本当はいままで何人もの女性と付き合っていたんでしょう?」

先生「そんなことはないよ。…」

Y「いや、分かるわー。」

先生「まあ、そりゃ少しは。」

Y「沢山でしょう。やっぱり違うわね、頭大出の人は、何でもよくできるのね。呑みこみも早いし。」
   

 
 
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テーマ : ショート・ストーリー - ジャンル : 小説・文学

曲水の宴

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「曲水の宴」は、テレビでちらっと見たことがあるだけですが、京都の城南宮が有名ですね。これは、いつ始まったのかよく分かりませんが、我が国では「顕宗紀」に初出です。

 「顕宗初年、三月の上巳に、後苑にいでまして、曲水の宴きこしめす。」とあって、これ西暦485年、3月6日です。『日本書紀』作者らが、かってに中国文献からとってきて編入したのかもしれませんが、まあいいでしょ。その後日本では、婦女子の祝いの習慣と一体化して、三月三日が五節句の一つ、桃の節句として今に続いています。

 中国では、書聖として有名な王羲之(おうぎし)の『蘭亭序』に有名です。西暦353年3月3日、名士たちが、蘭亭という、会稽山の麓にある自然公園にある四阿(あづまや)で、「禊事をして、流杯曲水…一杯一詠」を楽しんだとあります。

 この王羲之の『蘭亭序』は、書を習う者の必須手本ですね。小生も書道を習っていた時、よくこの書体を練習させられたものです。これは当時からよほどの名書として有名であったらしく、王羲之の書いたものをすべて蒐集していた唐時代の太宗皇帝は、死んでなお自分の陵に副葬させたという。原本はもとよりなくなっています。

 奈良の大仏で有名な聖武天皇も王羲之の書を手本にして筆の勉強をされているということを耳にした鑑真は、本物の王羲之の書を持って来日したらしいですね。聖武天皇の遺愛の品々が収められている正倉院にも、もちろん収められたのですが、平安時代は嵯峨天皇の御代に貸し出したという記録があっても、返却したという記録がなく、当時能書家としてトップを争っていた人、たとえば三筆のだれかが犯人ではないか、という話をきいたことがあります。

 曲水の宴の記述は、顕宗紀から後はずっとなく、文武天皇の時代になって、やっと見られるという。たしかに調べてみると、『続日本紀』の文武天皇701年にあります。まあ、記述が無いから行われなかったとは限りませんがね。

 『蘭亭序』の記述にある曲水の宴は、なんかとても規模の大きいものだったように想像されますが、どうでしょう。
 「此地有崇山峻領、茂林脩竹。又有清流激湍、映帯左右。引以為流觴曲水、…」(觴は杯みたいなもの)

 我が国の古の曲水の宴は、どんなふうだったのでしょうか。たぶん今の城南宮などでなされているような、小じんまりした、ささやかで、ゆったりしたものだったと想像します。



 
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浦島子伝説

 
 『万葉集』に水江(みずのえ)の浦島子(うらしまこ)の物語が長短歌として出てきます。(巻第九1740・1741)この話は、後に室町時代の『御伽草子』の中に浦島太郎として伝えられ、今では誰もが知っていますね。

 この浦島子の話は、すでに『日本書紀』の雄略天皇条にもわずかながら触れられていますし、『丹後風土記』逸文にも出て来ます。微妙な違いがあるものの、奈良時代初期にはすでに古くからの言い伝えがあって、きっと古代人たちはこの物語をよく話してたのではないかと思います。

 この物語は、小生は以前からとても気になっていまして、浦島子が海で釣りをしていると、遥かな沖合から女がやって来る、仲良くなって常世に至り、老いることなく歓楽の日々を過ごします。

 常世っていうのは、『雄略紀』では蓬莱国、『風土記』では海中の蓬山、『御伽草紙』では竜宮城なんて書いてありますが、日本はさすがに海の民なんですなぁ、そもそも我が国でいちばん偉い神様である天照大神が、あの伊勢におわしますようになったのは、『垂仁紀』にある、「この神風の伊勢の国は、常世の波の重波帰(しきなみよ)する国なり・・・ここに居たい」と仰ったので、倭姫はこの地に宮を建てたとあります。

 それで歓楽の日々ではありましたが、浦島子は故郷のことが気になって、「ちょっと家に帰って父母に会ってきたい、すぐ帰って来るから」と言う。海の娘は、「じゃ、この櫛箱をあげます、けっして開かないでね」

 故郷に帰った浦島子は、まだ三年しか経ってないはずだが、なんじゃこりゃ風景が一変している、知っている人は誰もいない、おっそうだ、この箱の中に何かヒントがあるかもしれんと、開けてしまうのですね。と、白雲が立ち、あはれ浦島子は一気にしわくちゃ老人になり、呼吸も絶え絶え、ついに死んでしまうのですね。浦島子、故郷に帰りたいなんて気を起こすから、馬鹿だねぇ、と反歌で歌われています。

 小生はこの話を思うたびに、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を連想します。詳しいことはすっかり忘れていますが、画家が美青年の美しさを残したいと肖像画を描くのですが、現実の美青年は少しも衰えず、絵の方が歳をとっていくのです。それで最後は、美青年がこの肖像画を壊すことによって、自分の老いを取り戻す、って話だったかな。たしかこれの映画版があって、その主人公は美人女優でした、彼女も老いることが出来ず、自分の映像がどんどん老いていく、とても怖い映画でした。

 常世の国に行った浦島子は、海の娘に時間を取られるのですね。そこにおいては永遠の美と悦びがあるが、じつは架空の生を営んでいるのですね。誰でも健康で心配事がないときは、このまま長く生きたいと思うものですね。しかし、よくよく想像してみると、今の幸福が百年続こうが、一万年続こうが、一日の、いや一瞬の幸福とどこが違うのでしょう。仮に一万年生きて、振り返ってみたら、きっとやはりあっという間の人生だったと感じるに違いありません。

 そのことは、例えばわれわれが住んでいるこの辺りにその昔、恐竜が何億年間ものあいだ、のっしのっしと歩き回っていたと想像しましょう。ところでその何億年間を一瞬のこととして想像しても少しも差し支えありません。正しく味わうためにはわれわれも何億年生きる必要はありません。

 そもそも時間というのはなんでしょうかね。われわれが一秒とか一年とか口にするとき、つまり時間の長さを言うときには、まあ月や太陽の運動から時間の単位を取って来るのでしょうが、頭の中では空間を測定するときのイメージを思い浮かべ、しかし心の中では空間とはちがう原理の、いわば内的な生きられる直観を感じているのではないでしょうか。

 それこそ、アウグスチヌスの言う「わたしは時間の何たるかを知っている、しかしそれを説明しようとすると解らなくなる」という類のものでしょうか。小生もそのような気がします。つまりそれは誰にとっても生きているという事実以外のものではない、と思います。

 強いて言えば、誰もが感じるあの感慨をもって、時間が経つということは老いることだ、ということだと思います。これがもっとも直接的で具体的な表現ではないでしょうか。そして浦島子伝説はこのことを逆説的に表現している古代人の直感から生まれたものではないでしょうか。



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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

二月尽の庭

今年の冬は寒かったですね。二月の駄首詠納め 
 

蕗の薹 ヒヤシンス チューリップ
蕗の薹                   ヒヤシンス                  チューリップ
 近ごろは忘れられたる球根の
    突如芽を出す枯れ草の上




梅
 梅の芽の赤の鮮やか増す日々の
    今年は遅し何をためらふ




龍のひげ
 龍のヒゲ裏庭角の岩かげに
    かくれて抱く青玉の濃さ




鉄線
 鉄線の冬枯れ枝のきたなきに
    近づき見れば新芽付けたり




やぶ椿
 やぶ椿今年は寒き春なれや
    一輪咲いて孤独深まる




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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

アウグスチヌス2

 
 
 『創世記』の初め、「神ははじめに天と地とを創造された」という部分の執拗な考察、この〈はじめ〉ということから、有名な時間論が展開されるところは、やはり面白い。

 「この宇宙を創造した神は、その前何をしていたのか」との質問に答えて、何もなさっていなかったのだ、そもそも時間も神の創造である。〈その前〉などということはありえない。・・・ このことは宇宙のビッグバン理論を耳にしているわれわれ現代人にはよく分かりますね。

 過去とはもはや〈ない〉ものであるにもかかわらず、ある。未来とはまだ〈ない〉にもかかわらず、ある。それは記憶としての、そして期待としての現在にあるしかない。測定できる時間は現在だけではないか。それが長いとか短いとか言うのは、現在には広がりがあるということにはならないか。

 測定するためには初めがとどまっていなければならない。それはどこに留まるか。それは自分の記憶の中ではないか。・・・とすると時間は私の精神において測られるのではないだろうか。未来はすべてかならず過去になる。ところで神は永遠である。そこでは過ぎ去るものはなにもなく、すべては現在にある。この永遠という現在の高さから過去の一切が流れ出す、云々。

                 *

 おそらく、アウグスチヌスが、ギリシャ哲学的言辞で(静止は動きに先立つというような)、言いたいことは、こうであろう。つまり、われわれは未来―過去を流れる歴史的時間を生きているが、もしそれをいつでもただちに無効にしてしまうような永遠(それは同時に未来も過去も含むような)に触れられていることがなかったならば、われわれは救われることがない、と。

 このことを1500年後にもっとはっきり言い表した人がいる。もっとも小生の勝手な連想ではあるが。こんなふうにー

 ギリシャ的永遠は過去的なるものであり、ユダヤ教の永遠は未来的なものである。…キリスト教の永遠は未来的なるものでありかつ過去的なるものとして瞬間(現在)に現れる。キリスト教において一切のものの枢軸をなしている概念、すなわち一切を新たになす所以のものは、時が満ちるということである。この時間の充実が瞬間であってこれは、同時に未来的なものであり過去的なものである。

 もし人がこの点に注意を払わないならば、いかなる概念をも、異端的な背信的不純物から守ることはできず、過去的なるものはそれ自身独自なものとして捉えられることなしに未来との単純な連続性のうちに留まらしめられる(かくして改心・宥和・救済の諸概念の意味も失われることになる)、未来的なるものはそれ自身独自なものとして捉えられることなしに現在との単純な連続性のうちに留まらしめられる(かくて復活・審判の諸概念は没落せしめられることになる)。
(キルケゴール『不安の概念』)




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テーマ : 聖書・キリスト教 - ジャンル : 学問・文化・芸術

アウグスチヌス1

    

 
 
アウグスチヌスの『告白』(山田晶訳)を読んだ。アウグスチヌスの著作といえば、これと『神の国』しか知らなかったが、じつは彼は非常にたくさんの論文を著した大変な著作家であったようだ。

 アウグスチヌスは354年、北アフリカのカルタゴに近い町タガステに生まれ、430年その近くの町ヒッポ・ルギウスで死んだ。壮年時代のわずかの期間、ローマとミラノに住んだ。

 この少し前の時代のローマ帝国は、ずっと以前から続いていた各地域の古代諸宗教、多数のいわゆる異教(たとえばマニ教)、そしてとくに勢力を増しつつあるキリスト教の諸派による闘争が絶えず、ついにコンスタンティヌス帝が政治決着をつけねばならなかった。

 が、それ以後も諸宗派の争いは絶えず、テオドシウス帝はキリスト教を国教化するが(391年)、それでもなお帝国は落ち着かず、さらに蛮族の侵入によって西ローマは滅亡への一途をたどり、そのために却ってローマ教会は、安定した東方教会よりも、その教義の純潔を研ぎ澄ましえたと言えようか。


 彼アウグスチヌスは悪ガキであったようだ。とはいっても、まあ当時の普通の少年であったらしいが、彼を終生悩ませたのは、どうにもならない性欲であった。16歳から女性と同棲をはじめ、翌年には息子が出来た。悪ガキ仲間と泥棒もした。しかし勉強もよくでき、知的好奇心が強く、ギリシャ哲学を読みあさり、マニ教に入信。敬虔なキリスト教徒であった母親を嘆かしめた。

 マニ教は、霊と肉との、善と悪との絶対的二元論で、『旧約』を否定、キリストは肉体ではなく精神そのものとしていたそうだ。アウグスチヌスは29歳の時、マニ教の司教ファウストゥスに会って話をする機会を得たが、そのときファウストゥスの考えがあまりに浅いのに失望して、マニ教に対する疑いが芽生えた。

 それから彼はローマに赴き、翌年ミラノの修辞学の先生に推挙される。そこで司教アンブロシウスに遇い、その人格および『聖書』の解釈の深さに感銘を受け、以後キリスト教正統派信仰に傾いていった。
 
 31歳時、母の勧めで12歳の女性と正式に結婚。いままでの女性とは決別。プロチヌスらを耽読。

 33歳時、母死す。北アフリカに帰って友人たちと修道院生活をする。37歳時、あるきっかけでヒッポ・レギウスの司祭にならされ、43歳時には司教になり、生涯そこにとどまった。

 彼の後半生は論争に明け暮れた。それがそのまま彼の思想の発展となり、信仰の深化となった。マニ教に対しての大きな論点は、悪の存在とキリストの受肉という点である。マニ教は悪の根本的存在を肯定する。対してアウグスチヌスは神が創ったこの世に悪はない。被造物たるわれわれの意志が神に向かず無に帰ろうとする、そこに悪が生じる。マニ教はキリストは光の子、精神であって、肉体をともなってこの世に来ったのではないとする、対してアウグスチヌスは、キリストは確実にこの世の歴史的存在でもあると言う。

 それから対ドナティスト論争。彼が生まれ、最終的に司教をしていたのは、アフリカである。このころの当地のキリスト教徒たちはローマの教会の腐敗を知っていた。すなわちドナティストは、聖なる人でも一度でも信仰を汚した者による秘跡は無効である、と主張する。対してアウグスチヌスは、教会は完全ではない、そしてわれわれはみな弱い人間であるから、過ちを犯しても悔い改めた者には寛容であるべきだと主張した。

 罪を犯すことについて人間の自由意志を重んじたペラギウスという僧に対しては、アウグスチヌスは、すべては神によって創られた、そして人間の善い行いへ向かう意志は神の恩寵によるのであって、人間の自由意志によるものではない。悪い行為、つまり罪は人間によるものであるが、それは己の弱さの自覚が欠けているからであり、それゆえにこそ神の恩寵を乞わねばならない、となるらしい。

 この『告白』は、あくまで神の前での告白であり、女性の肉体から離れられない自分、司教になってからさえ夢の中での自分をコントロールできない自分の最終的な弱さの告白、そして異教信仰からの回心と、それはあくまで神の恩寵であって、この神はキリスト教正統派の教義が示す神でなければならないことを、ギリシャ哲学やプロチノスをふんだんに援用しながら、追及している。





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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『紫式部日記』3

 〈女房たちの取次での応対がまずいというのは、べつに語彙が少ないというわけでもなく、理解力がないというわけでもなく、ただしくじったらどうしようとか恥ずかしいという不安に捉えられて、ついつい逃げ腰になるからでしょう。いったん宮仕えという仕事に就いた以上、上手に応対するという大人のしきたりに従おうとすべきではないの。

 こんなところが、斉院方に侮られるのじゃないかしら。しかし、だからと言って、自分の方こそ優れており、他の人は見ても聞いても解るまいと自信過剰になって相手を軽蔑するのは道理に合わないわね。他人を非難するのは容易であり、自分の心を適切に配るのは難しいはずですが、そうは思わないで、まず自分こそ賢ぶって他人を無視したり、世間を非難したりするところに、むしろ浅薄な心のほどが見えますね。〉

 こういう態度も、〈やまとだましひ〉が薄いということは明らかですね。いずれにせよ、極端な態度は、精神のしなやかさを欠いていると感じます。

 しかし、紫式部はあれほどしなやかな態度を推奨しておきながら、自分はついつい無口になってしまう。他の人たちから見ると、お高くとまっている、打ち解けず人を軽蔑している、などと言われる。しかし、話してみると、打ち解けやすく、おっとりしているとも言われます。

 紫はたんに自分の好きなことを同僚に話すことさえとても難しかったでしょう。また自分の才をひけらかしたくもなかったでしょうし、ひけらかすことによる嫉妬の渦にのまれることも極力避けたかったでしょう。人によって様々とは言え、自分のあり方、自分の気持ちを人に説明するのが何とも困難であることをどうしようもなかったでしょう。

 とりわけ宮中では、自分こそと思い、人の気持ちを理解しようとする人が少ないがゆえに、紫の無口は、あの子供らしい女房の恥ずかしさや気遅れ、引っ込み思案からくるものではなく、億劫なのであり、面倒なのであり、どうせ理解されないのなら、どうとも思え、じっとしてにこにこしているのが一番
という気持ちが強くなっていったのでしょう。

 終わりの方の手紙らしい部分。

 〈何ごとにつけ、世の中は煩雑で憂鬱なものでございます。〉
 〈後は仏道修行のみです。私は罪深い人間ですから、出家できるかどうか。〉
 〈それでもまだ他人の口を心配している私は思いきれないのでしょうね。いったいどうしたらいいのでしょう。〉

                

                                


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テーマ : 歴史上の人物 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『紫式部日記』2


 宮中では連絡はもっぱら手紙だけれど、これが途中でしばしば盗みとられる。『枕草子』でも他人の手紙を盗み読みする場面があったし、ここでも披露されています。それをなんと紫式部が読んで、その内容にたいして怒りがこみ上げてきて、批判をするのですが、それがじつに面白いですね。

 〈賀茂の斉院にお仕えしている中将の君が他所に出した手紙を、ある人がうまいこと手に入れて見せてくれたのだけれどね。こんなこと書いてあるよ。

 豊かな情趣と分別という点で斉院に仕える女房たちこそ最高である、斉院さまはそういう女房を見分ける目をお持ちだ云々、とね。中将の君は世の中を馬鹿にしてるわ。そんなこと言うのなら、斉院方はそれほどの和歌を出してみなさいと言いたくなるわ。

 そりゃ、斉院は、ここ宮中のように大勢の人々がいる訳ではないし、人の出入りも少なく、仕事も少なく静かで、ちょっと浮世離れしていて、心行くまで花鳥風月を愛でたり、風流事を語り合ったりする余裕があるでしょうねぇ。われわれだって、もし斉院にお仕えするとしたら、自然と優雅な振る舞いも出来るでしょうに。

 ここ中宮方では、いま派閥争いはなく、おおむねゆったりしているし、何と言っても中宮さまはあまりあだっぽい心はお好きでないので、いっそうみな人前にでるような態度は取りません。もちろんまれにはそうでもないオキャンがいまして、そういう人に男たちが気安く「中宮方の女房は引っ込み思案だ、お高くとまっている」などと言うのです。これは、欠点でもあるけれど、まあ誰でも良いところがあれば悪いところがあるという程度だと思うけど。

 まあ正直言えば、たしかに彰子中宮さまは、あまりに内気でいらっしゃる。出過ぎたことを言って失敗はしないかと心配されるあまり、気がおつきになっても黙っていようとなさる傾向があります。そして女房たちもそのお気持ちに添うあまり、全体が地味な気風になってしまったのです。

 しかし、今は中宮さまも成長されて、世の中の本当の姿や、人の心の善し悪しや、行き過ぎも不足も、お解りになっておられる。殿上人らのお気持ちも御承知でいらっしゃる。それで地味な気風を改めたいと御思いであるが、ここの若公達もすでにここの気風に順応してしまっているので、なかなか改まらないのね。この宮中という散文的な所では、日常の言葉を情趣的に聞いたり語ったり、あるいは人と気のきいた応答をさらりと出来る人が少なくなったと、殿上人らは言ってるそうですね。私はよく知らないけれど。〉

 遠まわしであっても自身の所属する中宮サロンを批判していますね。ここから紫式部の思想が積極的に出て来ます。

 〈殿上人がお立ち寄りになって、彼らに対してちょっとした返事をしようとするときに相手の気分を害するような態度はいけませんね。なかなか上手に応対できていないらしいですね。殿上人が、気がきく女房はめったにいないとおっしゃているようじゃありませんか。どうして憎たらしいほど引っこみ思案なのがよいのでしょうか。また逆に、どうして締りがなくあちこちとでしゃばるのがよいのでしょうか。その時々の状況に応じて上手く心を用いることがじつに難しいのですね。〉

 この心の用い方は、『源氏物語』のなかで〈やまとだましひ〉と呼んでいるものです。これは、理論の規定のもとに、あるいは感情のままに動くのではなく、さらに言わせてもらえば善悪にも捉われることなく、その時々に応じてそれらを利用しえる才ということになるのだろうと思います。




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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

山本五十六

 いつまでも微熱が続く。たいてい午後になるとだるくなり何となく体の節々が痛む。熱を測ると37度半ばくらい。これが治るまで待っていては見逃してしまうかもと思い、意を決して映画「山本五十六」を観にいった。

 この映画の主人公はもちろん山本五十六であるが、一人の新聞記者の心を通して、開戦にいたる経緯、そして戦争および終戦時の国内世論を描写しているところが新しい点であったのかな。

 それにしても、この頃はCGというのか、大掛かりなセットを作らずとも、広大な戦闘場面をかなりな臨場感をもって映し出されるようになったものだ。

 ともあれ開戦に至るところはよくわかって、高校の現代日本史の授業で見せればいいのにと思われた。昭和18年山本五十六の乗る飛行機が南方で撃墜されそれで終わりとなるかと思っていたら、その後に尾びれが付いていて、敗戦そして戦後の一部を新聞記者が見る所で終わる。

 戦前・戦中にそれいけとばかり対米戦を後押ししていた編集長らしい人が、戦後ただちに〈民主主義〉という語を大きく掲げていこう!と豹変するところなど、マスメディアの体質を物語って面白かったが、せっかくそこまで描いたのなら、どうしてGHQの検閲に触れなかったのだろうと不思議であった。

 日本は戦争に負けたというよりも戦後に負けたと小生は強く感じている。あの時点から7年近くに及ぶGHQのラジオ、新聞、あらゆる出版物の徹底的な検閲および歪曲的公表に触れないで、戦後を語ることが出来ようか。

 『坂の上の雲』まではよかったが、その後の軍が悪かったなどとの言説がまことしやかにまかり通っているのも、いまだにGHQの影響大なることをものがたる。

 まあ、いつの時代も、マスメディアというものはそんなものだ。


 つい先日、NHK番組の連続番組「日本人とは何か」だったけ、その第一回目「福沢諭吉と中江兆民」というのがあった。それを見ていて、あれっ?と不思議に感じたことがあった。それは、外交に関するところで、両者の意見を披露するところ、兆民の「国際外交も個人の付き合いと同じ道徳をもってしなければならない」との主張を解説者が述べていたのに、福沢の個人道徳と外交との峻別についてはまったく触れられていなかったからだ。

 この福沢の大事な主張を対比的に提示しないのは大きな片手落ちだと思い、早速NHKにその理由を問い合わせてみた。答えて曰く「たしかにどこそこで福沢はそのように語っている。・・・ご意見ありがとうございました云々」答えになっていない。

 まあ、いつの世もマスメディアとはそんなもんだ。われわれはいつもそれによって動かされている。だからテレビや新聞なんぞ見ない方がよい、とは思いつつ、つい見てしまう。
ああ、また熱でてきそう。



 
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うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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