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良経の二首

  夢の世に月日はかなく明け暮れて
       または得がたき身をいかにせむ
 

西行のようでいて、しかし西行のようにいわば時代と対決した心の深さというものはない。ここには身分も才能も有り余るほど恵まれた若い詩人のアンニュイからの危機が迫る。ややもすれば理屈っぽくなりがちな思想歌だが、青年の素直な心がストレートに歌われていると感じる。今この歌を詠ずると、「または」という言葉の意味合いと響きが効いていて、歌の姿がすっきりしと感じられる。

   見ぬ世まで思ひ残さぬながめより
       昔にかすむ春の曙


 これほど意味がとりにくい、しかし一部の粋人の心を蠱惑してやまぬ歌を他に知らない。かく言うぼくもこの歌は長らく気にはなっていて、しばしば頭に浮かぶ。

 清少納言の文体の春の曙は、現代のコマーシャリズムにぴったりな、そのイメージは明瞭・鮮烈で、瞬間に万人にそのエッセンスを理解させる。この良経の歌はまったくその反対で、その曙は茫洋としていて、空間的奥行きも不明瞭で、時間的にも現在が未来でも過去でもありうるようなものである。

 来世にも心残りがないように今の素晴らしい春の曙を堪能しよう。しかし昔見た春の曙はもっと美しかったはずだが、それはもう漠とした思い出としか言いようがない。しかし今見る春は純粋な現在のものとは言い難く、どうしても過去の記憶に沈んだ〈あの春〉の修飾を受けたもの、つまり現在の知覚は思い出の力によっている。あの過去は、あの思い出は何だったのだろう。失われた時は〈存在〉していて、現在に呼び掛けている。しかしこちらからそれを求めることは不可能なのだ。
ぼくの勝手な解釈。

藤原良経(1169~1206) 『新古今和歌集』仮名序を執筆、巻頭歌の作者。従一位摂政太政大臣。亨年38.


     

     
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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

家隆の二首

  桜花夢かうつつか白雲の
       絶えてつれなき峰の春風


 本当に桜花であったのか。あれは夢ではなかったのか。いやあれは白雲だったに違いない。というのは、それがどこかに消えてしまったのは、風が運んでいったからだ。この風。私の頬にふれる峰から吹いてくる風。この感触は夢ではない。そしてこの春風は私の想いになんとそしらぬ様子で吹いていることか。いや、つれないのは雲と風の共謀か。それにしてもあの桜花の幻影は眼の底にまだ揺曳している。この歌の調子がとてもよい。「つれなき」が「常なき」となっている伝本もあるが、「つれなき」のがいいと思う。

   旅寝する花の木蔭におどろけば
       夢ながら散る山桜かな


 旅の途中、桜木の下で寝ていて夢を見た。その夢は満開の桜が突然散る夢だったのだ。その夢にハッとして目が覚めた。見ると桜はかすかな風に散り始めていた。夢も現も花は散るのだが、〈おどろけば〉という言葉が効いていて、ハッとして目が覚めて見る景色の万華鏡的効果がこの歌の魅力である。

 この歌からただちに連想する歌は、『平家物語』の忠度の〈旅宿の花〉

  行きくれて木の下蔭を宿とせば
     花や今宵の主ならまし
 

これは忠度が敵兵に討たれた後に、箙から発見された歌であって、忠度のそして平家の運命を予見している。源平の合戦という日本中が血で染まったような、今なおわれわれ日本民族の心の底に暗い主調低音となって響き続けているような大きな出来事。これに耐えて生き続けてきた当時の人々のよりどころとなったのは、もちろん仏教もそうであろうし、それより小生は大きな二つの同時代の文学、『新古今和歌集』と『平家物語』だったと思う。


       

       
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経典の音楽

平安時代の初めの円仁という偉いお坊さんが、阿弥陀経を読誦(どくじゅ)するときに、どうも声音だけでは面白くないと思って、尺八で伴奏させた。ところが、このお経の中の一節「成就如是功徳荘厳」という所が、うまく吹けない。読誦と合わない。それで、比叡山にあるお堂の南東の扉にむかって吹いて練習をさせていたら、空中で音がした。そしてその音が告げるには、「如是」という部分に〈や〉という音を加えて「如是や」と誦えよと。それで、うまくいったようで、以後〈や〉を加えて誦えるようになった。

 これは、『古事談』にある話です。この話からあらためて思うことは、経典を読むのに、ただ読んでいてはいけない、音程を上げたり下げたり、引きのばしたり詰めたり、抑揚をつけて、場合によっては読み方を変えたり、要するにそれらしい、そのお経の内容にふさわしい歌になるように詠むのがよい、ということですね。

 思いみれば、イスラム教の町では至る所で、明け方などに、あのコーランの一節と思われる文句が歌われているのを、テレビで耳にすることがよくありますね。いや、ぼくはあの歌がとても好きです。アザーンていうのかしら、じつにうっとりさせる、よい声で、われわれの耳にはやはり中東のリズムに聞こえますね。きっと祈っている人は、心から祈っている積りでしょうが、それが歌(音楽)に聞こえるのですね。歌はほんとうに嘘をつかないなと思う。つまり、歌っている内容は知らないけれど、あの節回しはあの辺りの民族のものだな、って思う。ということは、ああいう節回しでもって表現せざるを得ないことこそ、あの民族の魂なんだな、と思う。

 ユダヤ教やキリスト教の賛美歌なんかも、じつに素敵な音楽に聞こえる。とくにキリスト教音楽は、多様に展開して、いわゆる西洋音楽になりますね、その一つのmilestoneは、有名なバッハの「マタイ受難曲」ではないでしょうか。

 ところで、お経ではないけれど、神話はどう語られていたのだろうと想像する。ホメロスの物語は、どういう風に語りあるいは歌い継がれていたのだろう。とても知りたいのは、わが国の上代の人たちは、『古事記』の神話をどのように語り継いでいたのだろう。冒頭の「あめつちの・はじめのとき・たかまのはらになりませる・かみのみなは・あめのみなかぬしのかみ・つぎに・・・」これをどういう風に語って(歌って)いたか。ああ、テープレコーダーがその時代に無かったのが残念だ。

 上代の人たちは、神話に関して、文字や意味の分析に頼って衰弱してしまったわれわれとは全然違う、もっと豊富で直接的なものを感じて生きていたに違いない。文字という、いわば余計なモノを必要としない、語りだけで充溢していた生、日常そのものが感嘆であるような生を、大昔の日本人は生きていたに違いない。

少なくとも、そのような想像をせずに『古事記』を読んでも、その意味だけを捉えようとして読んでいても、それこそ何の意味もない、間違いだらけの捉え方になる。現在のわれわれの陥り易い読み方を捨てて本文に当たるのは何と難しいことかと、30年以上をかけて『古事記伝』を書いた本居先生も口を酸っぱくして仰っています。



     

     
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葛城行き4

二上山に沈む夕日に西方極楽浄土を見るのなら、考えてみれば、この旅は、西方極楽浄土に始まって、またそこに終わった感がある。というのは、僕はまったく忘れていたが、四天王寺の西門にある例の鳥居だが、あれは寺がある東から西の海へ入り日を拝むためであった。なるほど、『弱法師』にある、「極楽の東門に 向ふ難波の西の海 入り日の影も 舞ふとかや」と言われるほど、中世では、すでに四天王寺は、洗練された西海極楽浄土への入口として有名であったのだ。

あの時代、日本の玄関は西に向いていた。日本人は西からやってくる渡来文化にいかに憬れていたであろう。仏教は中国から伝わったというものの、もとはチベットの向こうのインドからきたものだ。西方極楽浄土への憧れは、われわれが想像するよりは、もっと芳しい、一種の華やかさを伴っていたのではないのかな。

折口先生は語る―

わが国には、仏教が入ってくる以前から、日を拝む信仰があった。その昔、女たちは野遊び・山籠りという風習があって、どこと言うことなしに、東に西に日を追って廻っていたが、最後に行きつくところは、山の西の端、西の海に沈む日輪を拝んで見送った。

それが、仏教が入ってきて、その経典の影響は深く、いわば習合がおこって、いつしか洗練された形式、日想観を生んだ。ましてや彼岸中日ともなれば、日輪への憧れは頂点を極めた。そこへ天台の僧源信が「山越の阿弥陀図」を描き、それは彼の生まれ故郷の当麻と切り離せないものがあった。そのようなことから、中将姫の「蓮糸当麻曼荼羅」の伝説が生まれたらしい。

     憧れは 彼岸を待たぬ 病かな



     


     
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葛城行き3

明くる朝、朝食を済まし、橿原神宮へ参る。以前にも訪れたことがあるが、こんなに広かったかなと思う。

   橿原神宮


家内安全を祈願し、改修の募金一口二千円を寄付し、大池を見る。遠景が墨絵のそれのようで、静かで、どことなく古代的だ。沢山の鴨がピーピーという鳴き声を立てながら、水面を滑るように、こちらに向かってやってくる。餌でも持っていればやるのだが。

   鴨池


社務所の横にちょっと変った大きなクロガネモチの木がある。根元のところどころに小さな赤い実が落ちている。数個拾って、後に家の庭に植えた。たぶん生えてこないだろうけれど。

帰りがけ、手水所で、熟年というより老年に近い夫婦が手を清めていたが、奥さんの方が杓を口に持って行ったので、こうして漱ぐのだと教えてやった。へえ?という顔をしたものの教えた通りやった。そして、「ありがとう」と言った。てっきり中国人だと思っていたら、(たぶん)日本人だった。

それから、車を取りにホテルに戻り、橿原考古学研究所附属博物館へ行った。ここはじつに素晴らしい。それこそ石器時代から中世まで、一望のもとに詳細に見渡せた感があった。文字よりも物のほうが、はるかに説得力がある。しかもわが所有する小さな謎の焼き物の正体が判った。これは大きな収穫であった。館内には案内人が何人かいて、その中の一人と楽しく話しながら、見て回ることが出来た。しかし、そのためにだいぶん時間が過ぎた。

  冬晴れに わが陶片の 謎解けぬ

 急がねばならない。自然、足は当麻寺に向かう。もう一度あの伝説の当麻曼荼羅を見ておきたかったのだ。当麻寺に続く背後の二上山に沈む夕日に憧れるあまり、ついに眼(まなこ)に如来が映った、それを蓮の糸で織り上げた布に一気呵成に描いて成ったのが西方極楽浄土を思わせる曼荼羅図であった。この中将姫の伝説は、折口信夫の『死者の書』を読んだ時から、ずっと心の隅にあった。ましてや、桜井・飛鳥を訪れたときは、自然に二上山は目に入る。そのたびごとに、気になる問題のようにもやもやと蘇った。

  夕日影 ながめて寺の 騒ぎかな 

二上山の山頂には大津皇子の墓がある。万葉集に触れたことのある人なら知る、この文武両道に秀でた伝説的な皇子は若くして処刑される。皇子はその前に斎宮として伊勢に居るお姉さん(大伯皇女)に〈密かに〉会いに行っている。皇子の妻・山辺皇女は殉死。この話は東征に向かうヤマトタケルを連想させる。


大津皇子の屍が葛城の二上山に葬られた時、お姉さん大伯皇女の作った歌(万葉165)

  うつそみの 人なる我や 明日よりは
      二上山を 弟(いろせ)と我(あ)が見む


 『日本書紀』には、大津皇子は謀反が発覚し処刑されたと書かれているが、その真相はともかく、詩文芸に優れ、剣をとっては敵なし、性格あまりにも豪胆、その上、美男で礼儀に篤いとなれば、われわれは惜しい男を亡くした、と思うと同時に、彼には不吉な運命が予定されていたと感じる。

当麻寺はとても広く、その全部を回ろうとするとだいぶん時間がかかる。とりあえず本堂の、あの曼荼羅(江戸時代の転写らしいが)を見て、とはいえ暗くてじゅうぶん見えない。しようがないので、ポスターを買って出る。それから講堂と金堂内の仏像を拝んで、帰るさ少し境内をぶらぶらしているうちに、せっかくだから中之坊という寺の庭園を拝観した。

ぐるりと書院を巡ると裏手に庭園がある。池に囲まれた島にサルスベリと思われる木がひときわ目立つ。静かだ。誰もいない。そよともしない池の面に浮かぶ変色した睡蓮の葉が、無住の侘びしさを醸し出している。唯一あちこちに真っ赤な実をつけた千両が地味な庭に華やぎを与えている。

  中之坊庭


  巡りきてふと振り返りまぼろしか
       池のほとりに立つわれを見る


もう2時だ。すぐ近くの食堂に入って、あまり美味しくないうどんをすすり、さあどうするか。

二上山に登って大津皇子の墓参りをしておきたい。ここから直接登ると、一時間半かかるらしい。今の身体ではちょっと自信がない。竹内街道沿いの駐車場からだったら30分くらいで登頂できると、昨日博物館員から聞いたから、時間的にも、体力的にも、その方がよい。しかし、このコースは帰り道からは遠ざかる。途中の道路の混雑を予想して、できれば3時までにどこかの高速入口に入りたいと思っていたが、今は2時半だ。無理である。大急ぎで登れば、ひょっとして途中で息苦しくなるかもしれない。二上山は断念して、帰途に着き、途中余裕があれば長谷寺にでも寄っていくか、という考えが頭をよぎる。

しかし、今回は葛城だけに絞るべきではないか、しかももう二度と訪れることはなかろう、はやり無理をしてでも二上山へ登っておくべきだ、と考え直した。
当麻寺から10分ほどで街道沿いの登山口駐車場に着く。出来るだけリュックを軽くして、さあ出発。

  二上山登り


初めのうちは軽快に登る。しかし、このペースが30分も続くわけがない。誰にも遇わない。ときにこの道で大丈夫なのだろうかという不安がよぎる。一人の女性が降りてくる、路を尋ねると、これでいいと答える。もう少し行くと一人の男性が降りてくる。声をかけても、黙って通り過ぎる。結局、二上山の雄岳・雌岳の間の「馬の背」というくびれの所に着くのに30分かかった。

  馬の背

さあ、ここからが大変だ。高い方の雄岳は左、すぐ近くらしい雌岳は右。しかし、ここまできた以上、大津皇子の墓がある雄岳に登頂しなければならない。長い休憩は反っペースを狂わす。息が鎮まるのを待たず、雄岳を目指して歩きだす。やはり急激に苦しくなってきた。初めのうちは30歩歩いて、1分休憩、最後は10歩歩いて休憩。死の直前の苦しみに耐える練習になってちょうどいい、と自分に言い聞かせて頑張った。予想より早く10分余りで頂上に着く。あまりパッとしない小さな神社がある。剥げかかったペンキで「葛城坐二上神社」と書いてある。若いカップルが拝んでいた。肝心の大津皇子の墓はどこだろう。さらに向こうに下り道がある。たぶんそちらの方にあるのではと見当をつけて行くと、あった。

   大津皇子墓


なるほど、少し樹木が邪魔してるけれど、ここから飛鳥一帯はすぐ眼下にある。奈良盆地のほとんどを見渡せる。なぜ彼の墓をここに移したのか解った。


   飛鳥全景

   大いなる 魂(たま)よこの地を 見つづけよ

ゆっくり墓を一巡し、記念に小石を一つ拾って、雌岳に急いだ。雌岳の頂上には、石のベンチが円を描いて置かれ、そのまん中に石の日時計のようなものがある。

   雌岳


ここで、熟年夫婦に出遭った。二人はよくこの山に登りにくるそうだ。散歩にちょうどいい距離だという。なんと健脚なんだろう。僕がこれから駐車場まで降りて行くと言うと、登った道とは違う道を教えてくれた。下山途中で、遠くに大阪湾の海が微かに見える。また大きな石窟の祠の跡(岩屋)と石切り場の跡を見た。この辺りは、奈良時代以前から、古墳に使う石が取れたそうである。岩を切った跡や大きな石塔が散在している。

彼らに礼を言って、駐車場手前で別れた。後は、帰るだけである。とにかく二上山に登ったという満足感が体に満ちていた。奈良盆地を横断する高速道路を飛ばした、右後方に沈む赤い夕日を感じながら。

  二上山全景


やはり、予定より1時間くらい遅れたせいか、途中から高速道路は大渋滞の予報、それで一般道に降りたが、やはり渋滞。この辺りで、正面やや右手に月が出てきた。まんまるい大きな、金色がかった、『サロメ』にでてくるような気持ちの悪い月である。時おり、小さな雲の断片が月を過る、その一瞬、雲の周辺が金色に照らされて妖気を放つ。こんな不気味な光景にさらされながらも、快い疲労感に浸っていた。

   わが魂の 炎は月に 吸いとられ

         

         
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葛城行き2

一日目:朝8時すぎ:
名古屋出発→四天王寺(午前11時)→仁徳天皇陵、昼食→歴史博物館。午後2時までに、葛城方面(葛城山、一言主神社など)→夕方、橿原のホテルへ。

二日目:ホテル→橿原神宮→橿原考古学研究所付属博物館→(その時の体調次第で変更可能)→当麻寺、昼食→(竹内街道)二上山→午後3時ごろ下山→帰路。

しかし、実際は予定通り行かないもの。初めからいけなかった。ナビの指示通りに行ったら、大阪市内を北から南に縦断するコースを走らされたら、やっぱり渋滞していて、ここでだいぶん時間を喰った。ようやく四天王寺に着いたはいいが、こんどは駐車場にすぐには着けず、だいぶん焦った。

   四天王寺鳥居


四天王寺の西の入り口には鳥居があった。なんでお寺に鳥居があるのか、前のお菓子屋のおばちゃんに訊いたら、真西に入り日が見えるからという。ということは、この鳥居は四天王寺のためではなく、海に沈む夕日すなわち西方浄土のためにある、ということか。

  寺よりも 浄土に行きたし 冬の海

手水所で、中国人の女の子たちが、柄杓から口へ直接水を飲もうとしていたので、そうするのではなく、水をいったん手に受け、それで口を漱ぐのだよと、実演して教えてやった。彼女たちはすぐ了解して「ありがとう」と日本語で、さわやかに応えた。

これが聖徳太子の建てたお寺か、例の独特の建築様式なんだな、しかし、残念なことに、五重塔は修繕中で、すっぽりと鉄骨と布で被われていて、何にも見えない。

   四天王寺修理中


  修理日に 寺を拝むぞ おもしろき

広い境内を一周して、看板の図と説明で再確認をしていたら、そこでうろうろしている一人の白人女性旅行者がいた。五重塔が修理中で見れなくて残念だね、と話かけたら、何か恥ずかしそうに言っている。よく聞き取れないので、この寺は日本でいちばん古い部類のお寺なんだ、7世紀初めに一人の天才が居てね・・・、ところで僕はこれから車で、そう遠くない所にある日本で最も大きな御陵を見に行くけれど、もしよかったら連れて行ってあげるよと言ったら、喜んでついてきた。

駐車所の出口を出たところで、ナビをセットしたのはいいが、高速道路入り口周辺には分かれ道や交差点があって、どうしてもうまく高速道路に乗れない。隣に座る彼女の話に神経を集中させていたのも大きな原因だ。結局大きく二・三回同じ道を回り、ようやく高速に乗れた。恥ずかしく大汗をかいた。まあ、事故を起こさなかったからよかった、と考えよう。

  緊張で 大汗をかく 寒の路

聞くところによると、彼女はフィンランド人だ。学校ではまずフィンランド語とスウェーデン語を、次に英語を学んだ。どうしてそんなに英語が流暢に話せるのと訊いたら、英語の映画をよく見たとのことであった。(学校時代、フィンランド語字幕付きの英語の映画をよく見た?と)

御陵と思われる松林が見えてきた。うまい具合に、仁徳天皇陵のすぐ前の専用駐車場に入れることができた。しかも、そこではヴォランティアのガイドが何人かいて、いろいろ図を見せて説明してくれたのが有り難かった。ぼくは彼女に得意の独断的・自己流の英訳をしてあげるだけでよかった。解ってくれたって? さあどうかな。

   仁徳天皇陵


  厚着して 説明を聴く 御陵前

それから、ガイドに奨められるままに、前にある博物館に入った。展示物をゆっくり見て、ここの古墳群の映画を見た。世界遺産登録に精出しているようだ。二時から始まって、15分くらいで済んだが、まだ昼食もとっていないし、出来れば他の歴史博物館も行きたいと思っていたが、もう時間がない。すぐ横のカフェに入って、飲み物を飲みながら、彼女と話をした。彼女は日が暮れるまで、小生の行くところに付き合おうとしているかのようであったが、小生は、葛城は大阪からはちょっと遠いし、一人でゆっくり歩き回りたい、申し訳ないが、ここでお別れしなければならないと、説明した。もちろん最寄りの駅への行き方は、カフェの人に訊いて教えてあげた。

   道連れと 別れていそぐ 冬の午後

遅くなった。真っ直ぐに葛城に向かった。まず葛城山にロープウエイで行こうとした。しかし、駐車場がだいぶん乗り場から下の方に離れたところしかない。ロープウエイは動いているようだが、ぜんぜん人(ひと)気がない。何だか、乗る気が失せた。それで一言主神社に参った。ここには葛城一言主大神が祀られている。その昔、雄略天皇ですら、その御前では畏まったほど神威があったが、いつしか(平安時代に入って)仏法呪力を体得した役小角(えんのおづぬ)にこき使われるほど、力を無くしたという。

   一言主神社


   山の神 冬籠りして 時をまつ

それから、その辺りをぐるぐる廻り、冬の夕闇が迫る葛城の空気を吸った。橿原のホテルへ行く途中、葛城市歴史博物館に寄った。

   大和路の 独り歩きに 暮迫る

橿原神宮駅のすぐ近くのホテルに着いたのは、六時を少し回っていた。辺りは真っ暗で、駅前の広場も森閑としていた。しばらく部屋で休憩をしてから、食事に出た。しかし食堂は一軒もない。しようがないので、駅を一巡するように歩いた。しかし、車は走っているものの、明かりがあまりなくてしんとしている。ようやく駅の向こう側に一軒麺類の店があったので、ちょっと迷ったが、さらに歩いても他の食堂は見つからないかもしれないと思い、ここに入った。お客は一人いるきりである。小生が入ってしばらくして、その客は出ていった。お客一名にたいして店員二名とはさみしい限りだ。駅の近くで、こんな帰宅時間に、いつもこんな調子なんだろうか。

   とにかくに 夕餉を食し 安堵する

  
         

         
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葛城行き 1

あなたの〈心のふる里〉はどこですか、と尋ねられたら、さてどう答えよう。難しいところだ。ぼくのような遍歴の持ち主なら、一般には、自分が子供のころ育った田舎の町と答えるべきであろうが、ぼくは、どうも素直にこの町だと言えない。もちろん、この田舎の町は、ずいぶん昔と変わったとはいえ、中心の東海道沿いの家々はほとんど昔のままだし、周りの山山や川の形や色は同じで、見れば懐かしいし、しばしば想像裡に思いだす。

 祖母や両親は、死ぬまで(病気になるまで)、この古い家に住んでいた。中庭の主木であるモチの木は、昔とちっとも変らない。座敷の欄間、扁額、襖絵などを見ると、やっぱり子供のころが思い出される。父が初めてステレオを買ったとき、この座敷の天袋の下に、それ用に作った板敷きの上に置いて、アメリカのスタンダードナンバーやチャイコフスキーをよく聴いていた。もちろん、これらは大切な、懐かしい思い出ではあっても、この家を含めてこの町、この地域が〈心のふるさと〉と呼ぶには、なにか抵抗を感じる。ちょっと違うような気がする。

 なぜだろう。懐かしい、大切な思い出ではある。とはいえ、どうもあの家、あの地域から離れていたい、とも思う。ぼくと同じように田舎で育ち、都会に出てきて住みついた人は、共感してくれるだろうと思うが、あまりにも近しい、あまりにも親密だった所があるにもかかわらず、いったんそこから離れてしまった者は、ふる里は遠くにありて思うものという気持ちも確かに生じてくるし、また一種の後ろめたさも手伝って、反って離れ続けていたい、という気分に陥る。
ざっと言って、この所は好きにつけ悪きにつけ、思い出のいっぱい詰まった場所であって、大人になるまでの、ふる里(経る里)である。あえて〈心のふる里〉などと言う必要はない、と思いたい。

 そう考えると、〈心のふる里〉とは、むしろまだよく知らない所、しかし長い間なんとなく心が惹かれている所、憧れの地、たえず訪れてみたい地、要するに「ゆかしい」という古語がぴったりな地、そのように考えると、ぼくにとっては、飛鳥地方、漠然と奈良盆地一帯が、それである。とはいっても、足を運ぶようになったのは、ここ7~8年くらいのことであって、行くと言っても年に一・二回、だいたい周る場所を決めて、日帰りか一泊でいく。

 ただ、漠然と飛鳥地方とは言っても広い。その中で、このところずっと気にはなっていても、その一部だけしか行ったことがなかったのが、その南西方面の葛城である。その昔、葛城氏が勢力を誇っていた辺り。今の愛知県の尾張氏も元々はその辺りの出と聞いている。

葛城と難波(大阪)を結ぶ、竹内街道も一度通ってみたい。そこには聖徳太子ゆかりの御陵や墓が移し置かれた王陵の谷がある。古代に、いわゆる〈近つ明日香〉と言われた地方だ。そのまま西へすすむと丹比道(たじひみち)となり、今の堺市の百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵が有名)に通じている。

         *地図4


計画を立てた。ついでに、まだ見たことがない四天王寺と仁徳天皇陵に参って、その足で、竹内街道を通り、葛城に行くことにした。一泊二日のドライブだ。(12.24-25)


          

          
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師走晦風景

 セザンヌの実生活はいかなりしか
     視覚で世界をたえず壊して


  完璧な無風の中を音もなく
     茶色の一葉ゆっくりと降りる


  停年の友を送って帰宅すれば
     心の中に大穴のあく


  終日の小雨にしほる日の丸を
     見つつ思ふ過ぎにし年月


  この晦日またこゆるとは思ひきや
     わが目にまぶし水仙の白



   


     
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土偶ファン

小生は最近、土偶が好きになった。今は好きを通り越して感嘆している。少し前に日本に来ていたフランスの〈ローセルのヴィーナス〉を見に行ったのだけれども、これはとても古く、約25000年前のものであるという。これは岩を削ったレリーフだが。

ローセロのビーナス


 動物の角から水を飲もうとしているところか。とても写実的で、乳房は垂れ、腰回りが太い、じつに立派な女性のレリーフだ。いったい〈女性〉とは何か?

 やはり20000年 BC年ころに創られたという小ぶりの女性像が、ウイーンにある。「ヴィレンドルフのヴィーナス」と言われるものだ。

ヴィレンドルフのヴィーナス


 これは、ローセルの物よりも一段と女性を強調している。頭が仏像のらほつを並べたようで面白い。頭部はこれで充分なのだ。これも石の彫刻である。〈女性〉とは創造の神でなくてなんであろう。

これなどに較べると、長野県出土の土偶〈縄文のヴィーナス〉と名付けられた造形美には度肝を抜かれる。縄文中期っていうから、だいたい3000年 BCか。
 
縄文のヴィーナス


 躯幹は極端にシンプルに十字形とし、下肢をどっしりと、臀部から大腿を、触らせてもらいたくなるほどむっちりと膨らませている。乳房も象徴的突起で済ませている。頭はヘアースタイルか被り物のデザインか分からないけれど、これまた象徴的かつ表現的であって、顔があまりにも初々しい。ここには、われわれが決して真似ができないようなものがあるのを感じないではいられない。

 これに対し、青森県は〈東北のヴィーナス〉をもつ。

東北のヴィーナス

これも3000年BCあたりだが、もう少し若いと聞く。脚が長く、腰が後ろに張って、パンタロン姿のパリジェンヌと言いたくなる。上肢と顔の詳細をいっさい省き、頭部は豊富な髪を単純に表し、ケープのごとき胸の抽象化はあまりにも見事で、見れば見るほど、その洗練はパリジェンヌを越えている。

もう一つ、長野県出土の〈仮面の土偶〉。これを出さずにはいられない。縄文後期というから2000年BC以後か。

仮面のヴィーナス

 これは、あまりにも力強い。もう参ったとしか言いようがない。見れば見るほど、生みだす力そのものを感じないであろうか。ふと〈ムスビのカミ〉というコトバが浮かぶ。

 縄文時代の土偶は、他にも宇宙人のような、チベットの神とデメキンと交雑したような、いろいろな言語を絶する土偶がある、ネットで見ることができるから、みなさん、〈黙ってゆっくり眺めて〉見るといいよ。というのは、われわれは、どうしても頭で理解しようとしてしまいがちだからだ。
紀元前の人たちが自然の力の前でどのように感じて生きていたかは、決して頭から入ってゆくことは出来ないように思う。スターウオーズではないけれど、信じて感じなければならない。これは何を表しているのだとか何とかかんとか考えたくなるような、ちっぽけで閉鎖的な知性の介入を拒絶できれば、遠い昔、人々が「カミ」という言葉を生みだした、ある非常に充溢した現場に、ひょっとして触れることができるかもしれない。そんな風に想像する。


       

        
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師走初旬風景

  
  家族して水槽洗ふ寒の日に
      おどろくメダカの動きのおそし



  マーラーの二番は冗長さりながら
      あれも一つの慰めと認む



  昨夜来落葉の積もる通学路
      子供らの蹴って後の静もり



  一面に落葉散り敷く前の道
      その暖かさをそっと歩めり



  木枯らしの合間を抜けて見える空
      その青の巧妙なたくらみ



  庭師切る枝葉を集め大奮闘
      家族も庭も晴れ晴れとなる



  CTやあっという間の検査にて
      はかなき夢を見る暇もなし



  西欧の百年前にまいた種
      実りのすぎて手もつけられず



      


     
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歌集『遥』 選6

 昭和20年、日本の大都市は、おおむね焼け野原になった。そして占領軍が入ってくる。昨日まで「皇国のために命を捨てん」と言っていた学校の先生も、突然「今日から日本は民主主義の国になりました」と言う。まだ本当に戦う気構えであった純粋な若者たちは、自分たちが信じていた価値が嘘であったと教えられた。可哀そうに、彼らはどんなにか傷ついたであろう。この中には、ついにヤクザ仲間に入ってしまった者もいたと聞く。なんと心が痛むことか。

 民主主義と邦訳されたdemo-cracy(じつに気持ちの悪い単語だ)をもたらした米軍は日本を占領すること6年半に及ぶ。その間、日本人の言論の検閲は徹底していた。ここにわが家に残る親戚の手紙がある。

 検閲2  検閲1


昭和21年の手紙。封筒の底には「OPENED BY…MIL.CEN.-CIVIL MAILS」とのシールが貼ってある。一般の主婦の手紙までかくのごとくである。ましてや、公共放送・出版物などはGHQの意向に沿うもの以外は、すべて排除されたのだった。「日本は軍国主義の悪い国であった、無謀な戦争を仕掛けた、今や正義のわれわれが民主主義を与えよう。」というような世論操作は見事なものであった。

なにせ当時、日本人は食うや食わずの状態だった。そんな状態の彼らの頭に、朝から晩まで、彼ら戦勝国のプロパガンダが、呪術師の叫びのようにがんがん流されて、マインドコントロールが成功しないはずはなかった。

 しかし、とにかく生きなければならない。日本人はいつまでも嘆いていてもしようがない。どうせ生きていかねばならないなら、前向きに生きるにしくはない。日本人はとても素直だ。蟻が壊れた巣を直すように、みなが協力して一生懸命、がれきを撤去し、新しい家を建てた。

 しかし、彼ら欧米人の言う民主主義とは物質的利己主義、その自由追求権の保障ではなかったか。それは確かに人間の真の在り様の一例であると小生は思うが。だが、それはどことなく、日本人の伝統的心性にはそぐわないのではあるまいか。民主主義というものには、空高く風に舞う木の葉のように観念的で、どうもわれわれのじっさいの日日の生活感情とは相容れぬものがある…と後になって気付いてはみたものの、われわれの頭は混乱し、今やどうしたらいいのか誰にも分からない様子である。

 まあそういうことで、とにかく、さだ子は、いつまでも敗戦を悲しみ嘆いていても、しようがなかった。とにかく生きねばならない。昭和20年、夫の帰国と共に、主婦として前向きに生きようとする。ほどなく、幸運なことに彼女は懐妊し、新たな生きがいが湧く。

   清き児を恵み給へとひたすらに
     母となる身は祈りつ暮す


   母の名に生きる日日をば想ひつつ
     針もつ午後の陽ざし明るし


   早咲けるトマトの花を数えつつ
     夏きたりなばと語りあひけり


   胎動に喜びの声あげたまふ
     夫の瞳の明るき夕べ


 昭和21年8月、長女を出産す。

   わが息の絶えんかと思ふ苦しみも
    産声聞けば夢のごとく消ゆ<


  慕はれる母としならん一筋に
     乳ふくませつ思ふ夏の日


 敗戦直後、この年から昭和25年にかけて、日本にベビーブームが起こる。父母になったこの世代は、責任感と希望に燃えて、地に足をつけて一歩を踏み出したはずなのだが…。


        

        
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ヴェルディ『オテロ』

 ヴェルディのオペラ作品の中でもっとも好きなのは何でしょう、とマニアたちに尋ねてみたら・・・。やっぱり『ナブッコ』ではないかしら、わが想いは黄金の翼に乗って、イタリア万歳に涙よ、あるいは『椿姫』に捧げし歌よ、いや『トロヴァトーレ』の例のウン・ジャカ・ジャッジャに昇天だわ。いや、『リゴレット』だよ、いや『運命の力』ですわ。忘れちゃいませんか『アイーダ』に決まりですよ・・・なんて、結局なんでもいいの、人それぞれなのでは、ありませんの。

 では、小生は、変わった視点から一つだけ『オテロ』を取ることにするか。いや、断然『オテロ』だ。先日たまたまこのオペラ映画を見たからね。でそのとき、誰が何について言った文句か忘れたけど、「耳におけるシェイクスピアの恐怖」って文句を思い出したよ。

 人間という生き物の恐ろしさと弱さと救い。いやこのオペラ作品は、ヴェルディの『トリスタン』だな、聴きながら、ふとそう思ったとたん、その考えから離れることは出来なくなった。

 小生の勝手な空想だが、晩年のヴェルディは、どうしても、やはり彼の『トリスタンとイゾルデ』を創りたかったのではないかな。音楽そのものが物語(愛の死)を導くがごとき楽劇風だし…。

 しかし、両者は根本的に違ってくる。ヴェルディの愛の二重唱には、〈死への予感〉はあるが、ワグナーのような〈死への誘い〉はない。トリスタンの悲劇は、変な言い方だけど、それほど悲劇的ではなく、むしろ非常に甘美なものである。死にたくなるほど甘美である。ヴェルディの『オテロ』は非常に悲劇的で、フィナーレで死を悟ったデスデモナは柳の歌を歌う。彼女の運命はオフィーリアのそれと重なって見える。

思うに、人生とは不条理そのものであり、そのことをそのまま、ヴェルディは歌う。その根源を、いわば悲劇の中の神話性を、垣間見させてくれるのであり、そう言い方をすれば、ワグナーはむしろ、神話や民話に内在する悲劇性を派手に大写しする。

 南方と北方の違い? さあ、どうかしら。



     


     
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万葉の歌

 『万葉集』の中でいちばん好きな歌は何って訊かれたら、どう答えようかと空想していたら、ふと出てきた言葉が、「朝影にわが身はなりぬ玉かぎる」なんだね。ところが続き下の句が出てこない。そこで調べてみると、この歌は、

  朝影に 我(あ)が身はぬ 玉かぎる 
     ほのかに見えて 去(い)にし児(こ)ゆえに


 (参っちゃたな、一瞬ちらっと見えたあの素敵な子、どこの子やろ、あの子のことがつねに頭に浮かんできて、もうやせ細っちゃたよ。)

 じつはこの歌は重出歌で、まったく同じ歌が『万葉集』の二か所で出てくるのです。想像するに、たぶん奈良時代にはこの「朝影に・・・」という歌は、若者の間では頻繁に口に上っていた流行語だったのではないのかな。

 『万葉集』が世に出たのとほぼ同時代に書かれた『日本霊異記』にある話で、ある男が野原を歩いていて、いい女に出会った。二人は結婚し子供もできた。ところが、その男の家の犬が女に吠えたり噛んだり。ついにその女は狐の正体を顕して逃げいってしまう。残念に思った男は歌を詠うのです、

  恋はみな我が上に落ちぬたまかぎる
      はろかに見えて去にし子ゆゑに


 (あらゆる恋心が私の上に落ちてきたと思われるほど恋しい気持ちだ、あの去っていった女のために。)

ついでに、面白いのは、女狐が逃げようとするときに、男は言うの、「いつでも待っているから、来て、そして寝ようね」と。女はその言葉(来て、寝よう)を忘れずに口すさんでいるうちに、〈来つ寝〉というようになったとか。 冗談みたいだね。

 ところで、この重出歌、同じ歌ではあっても、原文はどう書いてあるのかを見ると、一つは、

  朝影 吾身成 玉垣入 
      風所見 去子故
 (2394)

 もう一つは、

  朝影尓 吾身者成奴 玉蜻 
    髣髴所見而 往之児故尓
 (3085)

 だいぶん違います。後の方には、助詞(尓、奴、而)が書いてあって、これ前者の略体歌に対して非略体歌と言って、時代が違うんだそうですね。ま、それはともかく、『万葉集』は、御存じのようにすべて漢字で書かれていて、なかなか難解で未だに解読できない歌もあるようです。

 とはいえ、逆に解読できた歌は本当に解読できたのか、ひょっとして間違っているのではないか、という疑問がありますね。まさにそのようで、いったい奈良時代は、発音やリズムはもとより、じっさいどのようにコトバを詠んでいたのか難しいそうで、今なお専門の先生方が解明にはげんでおられますね。

 本当にどう読んでいたのか、一つだけ有名な例をあげますと、人麿で有名なこの歌、

  ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて
       かへり見すれば月かたぶきぬ


 原文は、東野炎立所見而反見為者月西渡 です。

 『万葉集』が編纂されてから、まもなく(9世紀)仮名文字が発明され、そのころから歌人たちは、『万葉集』の歌の解読をはじめました。いったいそのころは、上の漢字の羅列をどのように読んたのか判っていません。

 白石良夫著『古語の謎』によりますと、平安時代末(1184年)に書写された「元歴校本」では、「あづまのの けぶりのたてる ところみて かへりみすれば つきかたぶきぬ」と読んでいて、その後ずっとその読みを踏襲していた。しかし、江戸時代に入り、学僧である契沖が、東野は〈ひむかし〉あるいは〈はるのの〉と読むべきと提唱し、荷田春満は、東を〈あけがたに〉と読むことを提唱したのです。そして、江戸中期に至って、賀茂真淵が「ひむがしの のにかげろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ」と訓じたのですね。学問的にはこの読みはずいぶん無理があるようです。が、この真淵の〈創った〉読みが人麿の歌として相応しい、として以後だれもこの読み方にあえて異を唱えることなく、現在に至っているのだそうです。人麿がこう詠んだという確証はないにもかかわらず。

 要するに、古代の歌をどう読んだのかは、その時代時代の学問的研究成果と歌人らの古代への想いおよび音響的感覚によって決まるように思われます。それにしても、紀貫之をはじめとして、各時代の天皇や藤原家の面々、時の政府高官や僧、江戸時代の国学者は言うに及ばず、鎌倉武士たちでさえ、万葉集の受容・解釈・保存・書写に、何と情熱を傾けてきたのだろうと驚かざるをえません。(その辺は、小川靖彦著『万葉集と日本人』に詳しい)。それはちょうど、ギリシャの学問が、ローマ、中世キリスト教およびイスラム教世界を経て現在に至るまで、いかに大事に保存・解読・書写・研究されてきたかを思い起こさせます。
  
 もちろん、『万葉集』受容には、純粋に学問的動機もあったけれど、大いに政治的にも利用されたのですね。とくに中世においては、天皇親政を目指した醍醐・村上・後三条・白河・二条天皇は言うに及ばす、徳川家康、明治新政府、戦前の昭和政府は、諸本に加えて『万葉集』の保存・普及につとめたのですね。裏を返せば、日本人はそれほど『万葉集』の権威を認めていたと言えます。

 『万葉集』は、天皇から一般人に至るまで、歌数こそ少ないけれど、兵士、主婦、遊女、ちょっとおかしい人、乞食、罪人まで、あらゆる人たちの歌を含んでいて、小生などは、そこが面白いと感じるのです。この、いわば国民的歌謡集という性格は、今なお、歌会始における天皇・皇室以下万民の詠歌をもって新しい年が始まるという伝統に繋がっているのですね。もちろん、歌会始は王政復古を目指した明治政府の叡知によるものですが。

 今の神道は明治政府が創った国家神道だとは、よく言われるところではありますが、小生は、明治政府が創ったいろいろなシステムは、もちろん今となっては修正すべき綻びがいっぱいあるでしょうが、おおむねの所は共感するものです。共感できること出来ないことは、奈良時代に創らようが、明治や昭和時代に創られようが、時代に関係ありません。また、それぞれの時代は、それぞれの困難な課題があったはずで、それを思わずに、そう軽々に批判するものではありませんね。

 わが国の歌の伝統。これは本当に古い話で、そもそも歌は何時から始まったのか。スサノヲ命の「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」か、さらに古いイザナミ・イザナミの唱和から始まったとも。ともかく、わが国は神話が始まったときに歌があった。

 初めに触れた「朝影に 我が身はなりぬ・・・」の歌も、文字の使用が始まったずっと前から、人々は日常的に口にしていたのかもしれませんね。
   


     

     
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永遠の0

先日、息子がテレビで「永遠の0」をやるから、一緒に見ようと言ったので、見た。これは、小説が出た時、有名になったので、題だけは知っている。太平洋戦争のときのゼロ戦乗りの話だということも、見当がついていた。

 見ていて人並みに涙が出たところもある。しかし、この作品はしっかり纏まっていて、言いたい所はハッキリしていると思った。それは、主人公のパイロットがどうして最後に特攻員として出撃していったか、である。

 主人公は最も腕が立つパイロットであった。だが、妻子をもち、必ず家に帰ってくると約束していたから、危うい戦闘の最前線から常に離れた位置につけていた。とうぜん周囲からは非難の目で見られる。

 しかし、戦局もだいぶん不利になってきた昭和20年の戦闘で、多くの同僚や部下の戦闘機が次々に敵機に撃ち落とされ、死んで行くのを目の当たりにして、彼の心は揺らぎ始める。

 そうして、ついに彼は必死の特攻攻撃に自ら志願し、果てる。大局的に見て無意味とは知りつつ、どうして彼は最後に行動を変えたか。それは、多くの仲間が死んで行ったのに自分だけが生き残ったならば、生涯負い目を感じて生きなければならないと〈判断〉したからではない。

 それは言葉では表せないものだ、とたまたま生き残ったお祖父さんは孫に語る。まさに、そうである。それが結論だ。主人公の行為に、合理的な説明などできるものではない。にもかかわらず、われわれは彼に共感できるのである。

 彼の行為は意識的な判断によるものではない。もっと積極的ななにか、もっと強い力、必然とでもいうようなもの、ある深い宗教的感情とでもいうようなものに動かされたのではないか。

彼の特攻は敵空母を破壊することだ。もはや勝敗には関係がない。それは多くの敵兵士を殺すということなのだ。殺人である。それで思いだしたが、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公である青年が、強欲の塊のような老婆を斧で叩き殺す。あの瞬間の感じを小生は忘れることはできない。やはり不器用にも、〈ある深い宗教的感情〉と名付けるしかないようなものを感じたのだった。(殺人がどうして宗教的、などと問わないでほしい。)

いや、両者は根本的に違うかもしれない。しかし、いずれにせよ、彼らの行為は、一切の意識の集中を超えた、あたかもリンゴが木から地面に落ちるように、物理法則に限りなく近い必然として共感できるのである。神の命令と言ってしまうのは易しい。われわれは、彼らの行為の前では、一切の説明的言辞を断念し、沈黙するしかないのである。


     

     
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選挙権など

 最近、選挙権が20歳から18歳に変更されるということで、不安を感じるという意見を耳にする。また、高校では先生が国政についてどのように教えたらいいのか難しいという。小生に言わせれば、高校では、目下のわが国の政治状況の主だった所を教え、それについて各政党や各国の意見をすべて紹介し、生徒たちに議論させればいいではないか、と単純に思う。

 ところで、話は変わるが、小生は天邪鬼である。例えば、祝日には国旗を揚げる。何十年も前からそうしている。この地区で揚げている家は二軒くらいだ。ところで、もし時代が変わって、ほとんどの家が国旗を揚げるようになったとしたら、その時は、小生は揚げないようにしようと考えている。つまり、人と同じことはしたくないのだ。それほど天邪鬼。ひねくれ者なんだ。以下は、そういう者の意見である。

 小生は、議会制民主主義なるものによる政治は、「船頭多くして船山に上る。」と同義語だと思っている。だから以前は選挙には行かないほうがいいと思って、行かなかった。

 ある時、近所にドイツから来た先生がいた。小生が「選挙には行かない」と言ったら、彼は、「選挙に参加しないのだったら、どんなことになっても政治的な口出しをしてはいけない」と言った。小生答えて「政治には何の興味もないし、不平不満もない。どうなっても文句を言うつもりはない」と。しかし、いつ頃からか、小生は堕落して、多少の不平不満を口にしたりするようになった。そのころから選挙に行くようになった。

 ところで、人間というものは、どうも上等の生き物ではないから、為政者でもちょこちょこ悪いことをしたり、甘い汁をすったりするものだ。まあ、それほど大したことはないがね。それにしても、こんな平和が飽きるほど続くと、かえって、誰か、政治家でも草莽でもいい、松陰とか西郷のような、偉大な大犯罪者・大殺人者が出てきてくれれば何と面白かろうと期待してしまう。

 世には変わった人が沢山いる。民主主義体制はそれらの人すべてを許容しなければならない。

私は国家を認めない、コスモポリタンである、と公言している人もいる。(もっともこう言う人は、おうおうにして安全な国家の中で心安らかに生活しているものである)。

あるいは、こんな生ぬるい平和な地域には住みたくない、スリルのない人生なんて生きるに値しない、と言って、犬ぞりで北極圏を横断しようとしたり、戦闘地域での戦いに参加しに行く人もいる。

あるいは、私は動物を殺すことに無限の快感を感じる、できれば人間も殺してみたい、という人もいる。

あるいは、人間はみな平等である、皇室は金の無駄遣いであるから廃止すべし、人間も犬猫と同じく、食べて寝てウンコする動物である、と主張する共産党の人たちもいる。

そうかといえば、人類は堕落している、もっと霊的に昇華しなければならない、まず彼らをサリンで皆殺しにして、その後、大平和国家の建設に取り掛からねばならない、という壮大な理想に燃えた人たちもいる。

挙げようと思えばきりがない。が、とにかく人間は一筋縄ではいかぬ生き物だ。民主主義体制の国家は、こういう変わり者の集団を排除せず、まとめていかなければならない。これがどんなに大変なことか、民主国家がどれほど危ういものかと、プラトン翁も不審している。

独裁国家というと人は悪いイメージをもつが、徳川時代は軍事独裁体制であった。いかなる理由があっても、体制を少しでも揺るがすような罪を犯せば、問答無用の斬首。しかし、そのお陰で、250年の平和のうちに、人々は安心して仕事にいそしみ、なんと多くの学問や演劇絵画などの諸芸術が栄えたことであろう。

われわれは、政治に関心がなくても幸福に暮らしていけるし、政治に大いに関心があっても不幸たりえる。もし、幸福が大事であるなら、まず自分が幸福にならねばならない。
小生は、徳川時代に生きた良寛のことをよく考える。小生は彼の書の魅力を歳とともに解るようになった。彼はごく自然に、素直に、怠け者として生きた。誰でも知っているように、彼は托鉢すなわち他人からの施しで生きていた。子供と遊ぶこと、好きな本を人から借りて読むこと、詩を書くことを、心から喜んだ。服は一揃え、布団も一枚あればよく、それ以上のモノをもらえば、人にあげた。住まいは風雨をしのげる小部屋があればよく、小さな机と書く物があれば、それで満足だった。彼の明るい素直な人柄は村の人々を惹きつけた。政治に関心を持とうと叫ぶ社会改革派の人々は、良寛のことなど知りたくないであろう。

自由・平等・博愛そして人権も加えるか。そういったものを訴える人々はどういうつもりなんだろう。その心のルーツは、王や貴族らをギロチンにかけ、その首から血が迸り、頭が落ちるのを見て、拍手喝采することだった。それは、共産主義のルーツと同じく、一言で定義できる、―ルサンチマン。

          *

政治とは、国民から税金等で得たお金をどのように配分するか、それを決めることなんだな、ざっくり言って。そういえば昔、ある評論家が、選挙権などは仕事をしている人(金を稼いでいる人)にのみ持たせるべきだ、だから15歳でも仕事をしていれば選挙権をもつべきであり、30歳でも脛かじりは持たせない、また専業主婦には持たせない、と書いていたな。これはすっきりしていい考えだと思ったが、家事も立派な仕事であるという風潮である現今、通らない意見だろうな。

お金の配分を決めるには、政治家たちが何に価値を置くかによって決まる。願わくば民族の伝統ある宝を大切にして欲しいものだ。しかし、本当の価値は個人の生き方を通してしか顕にならないのではないかな。

われわれ凡人には幸福が一番大事なのだろう。しかし、小生は、例えばゴッホの生涯を想うとき、あやうくノーと言ってしまいそうである。彼は、その性格ゆえ、若いころから携わる事ごとに裏切られ、遂に画家という天職を得るのだが、ほどなく精神の病に侵され、病院で過ごす。病は昂じて37歳で自殺するに至る。売れた絵は生涯で一枚しかなかった。ただ一人、彼の弟だけが彼の天才と苦しみを理解した。そういう彼の生涯と絵を想う時、幸福は価値ではないと、はっきり言える。  不一


     

         

         
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いつ死ぬのか

ちょうど一年前の11月、このままだと、お前の寿命はとても一年ももつまい、と小生の腹を切り開いて、つぶさに内臓を観察した外科医は、小生に完全な黄色い銃(注1)を突きつけて、宣言した。

 それで、小生は自分の余命を半年と思い定めて、いちおう身辺整理らしいことをしたつもりである。しかし、予定の青葉若葉の季節を過ぎ、越すに越されぬと思っていた酷暑の季節さえ過ぎると、なんだか覚悟がゆるんできて、気の抜けたビールを飲んでいるような気持ちになる。こんな調子では、またいつものようにだらけた生活に戻ってしまうようで恐い。

 夏ごろはまだ、眠りにつく前は、明日は生きていないかもしれないと自分に言い聞かせ、朝目が覚めて空を見ると今日も一日が与えられた、ささやかながら楽しんで生きようと思った。しかし、この頃は、その日の充実より、いついつ紅葉をどこへ見に行こうとか、車を新しいプリウスに換えようかなとか、つまり明日のことを考えてしまう。もうじき死ぬのだと思う瞬間は、食事時の腹部不快感の時だけだ。

 それでも、ほんとうは内心は近々死ぬと思っている。主治医は余命半年くらいと言っても、たぶんそれは一年~一年半くらいのことだ。それに、だいたいそうなるケースが多いし。べつに何とかして寿命を延ばしたいという気概が湧いてこない。あと一カ月生きようと、20年生きようと、同じようなものだ。あとはいつものような喜びと苦痛を繰り返すにすぎない、と思ってしまう。どのように考えても残りの時間は決まっているのなら、こう思ったほうが気が楽ではあろう。

 もちろん、家族のことを考えると、もう少し生きて少しでも役に立ちたいとは思う。だからちょっとは薬を呑む。しかし、これはまったくの錯覚かもしれないとも思う。たぶん小生が居なくとも、それはそれなりに巧くやっていくだろうし、それどころか、小生が居ない方がうまくいくのかもしれないとも思う。まあ、すべては神のみぞ知る、であって、結局もう後のことはあれこれ考える必要はない。

 ところで小生の場合、きっと死ぬ直前までけっこう元気で居られるような気がする。それが嬉しい。うんと長生きしたところで、とても見苦しい体になって、おしっこチューブを入れられ、オムツをはかせられて、手足を振わせ、口からたわ言と泡を吹き、日夜、関節や臀部ジョクソウの痛みに苦しみ、そのうえ根性悪の介護員に痛めつけられるようになるだけだ。こんなことをしてまで国家予算を齧りつづけるのは、まっぴらごめんだ。そう思うと、ほんと小生は幸せである。

 考えてみると、小生ばかりではない、死はじつは誰にでも背後から迫っている。誰もそれが見えないだけだ。60歳を越えれば、体のどこかに血栓やガンが発生していてもおかしくはない。いや若い人だってそうであるし、明日交通事故に遭うかもしれない。しかし、だからと言って、そのことを心配してもしようがない。もちろん死というものを考えたい人は考えればいい。それも一つの面白いテーマではある。

 小生が人生でもっとも不思議に思うことは、人の死と誕生、とくに誕生だ。それに較べると、幽霊やUFOの出現なんてどうってことはない。赤子が母体からオギャーと生まれてくる瞬間ほど、小生にとって神秘的で驚嘆すべきことはない。人間の誕生は、この宇宙におけるまったく新しい花の創造であると感じる。なんでこの人の世は、こんなに色とりどりの、まるで永遠に回り続ける万華鏡のように、いろいろな人が生まれ続けるのか…まさに光彩陸離とはこの光景だ。


注1 完全に黄色い銃 = マッキガン(笑)


               

               
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シネマ歌舞伎

先日、映画で歌舞伎、「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)を観た。田舎から江戸に出てきた、あばた面の単純で金持ちの絹商人が、吉原一の花魁(おいらん)に惚れて、結局は捨てられる話だ。
 
 この絹商人である次郎左衛門は勘三郎。花魁、八ツ橋は玉三郎。平成22年の舞台である。

次郎左衛門は単純でお人よし、一目で八ツ橋に惚れてしまい、一途に吉原に通いづめ、とうとう身請けの約束までするが、いよいよという時になって、八ツ橋の昔からの情人の知るところとなり(この場面は権八という焚きつけ役の働きが面白いのであって、知っている人は誰でもオテロを思いだすに違いない)、そのため彼女は、不本意にも、大勢の人前で散々悪態をついて、身請けの約束を反故にしてしまう。まさかの話に次郎左衛門は茫然自失。訳を知った彼は、事情を了解し里に帰るが、その後、久しぶり吉原を訪れ、彼女と和解すると見せかけ、持ってきた刀で殺してしまう。

じつは、この演目は、大学時代に観たことがあって、今回映画を見ていて、その時の舞台が彷彿としてきた。その時は、花魁が六代目歌右衛門、次郎左衛門が先代幸四郎だった。六代目歌右衛門は、玉三郎と同様とても妖艶だったけれど、その眼差しには、ちょっと凄みのある、こちらが蛇に睨まれた蛙になったような、一種抵抗できないような冷やかな誘惑の趣があった。それに較べると、玉三郎はむしろ美々しく、薔薇の花のような甘い色気がある。

今回の勘三郎の演技はとても細やかで、あのときの幸四郎はむしろ粗野な印象を与えたように思うが、何分ずいぶん昔のこと、この漠然とした記憶はあてにならない。

それにしても歌舞伎の面白さは、やはり演技、つまりその物語の流れや状況に応じたちょっとした所作の的確なタイミングと、見得を切ると言うように、ある重大な心理的瞬間にそれに相応しい型を見せるところにあるのではないかな。舞台背景や衣装の見事さ、ストーリーの面白さや奇抜さは、大して問題ではないな。というより、そんな物に頼っているようでは本格的ではない。

しかしまあ、映画となると、一人の演者の演技はアップでしっかり見ることができてよいが、全体が見れない、離れた両演者の演技の掛け合いが見れないことがある。つまりカメラマンや編集者によってけっこうセレクトされていて、いわばそういう強制の下でしか観ることができない。それに、なかなか掛け声がしにくいのが難点だ。


              


              
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熊野

 紀伊の国、熊野は今でこそ特急電車で名古屋から3時間で行けるが、鉄道がなかったその昔は、紀伊半島は山が深く、海岸線は概して岩がせり出している。ただでさえ半島という地形は交通に不便な、いわば閉じられた土地である。反面、海には開けており、ここ熊野は海に繋がる古い話が伝わり、古代的な気がいまなお漂っている。

 鬼が城

 熊野には奇岩が多い。この海岸は波の浸食によるものか、大きくえぐられて、鬼が口を開けているようにも見える。伝説によると、桓武天皇の御代、この辺りに出没する鬼と呼ばれていた海賊多娥丸を坂上田村麻呂が成敗した、そこからここを鬼が城と名付けたとある。

鬼が城祈り
鬼が城13 (2)

 鬼の棲む岸壁険したえまなく
     とどろく波に泡の飛び散る


  徐福宮

 その昔、一説によると、中国は秦の時代とも、徐福なる人が不老不死の仙薬を求めて、海のかなたを目指して出帆した。そうして辿り着いた所がこの地であり、ついにここで生涯を終えたそうである。はたして徐福は目的を果たしたのだろうか。どういう思いをこの地にいだいたのだろうか。

徐福宮小
 海と集落に囲まれて、こんもりと楠の木の塊があるでしょう、その木の脇に小さなお社(徐福宮)がある。

  思ひきや海の誘ひに乗りし人
     つひにこの地に骨うづむとは


 花の窟(いわや)神社

 イザナミの命は火の神を生んだ時、陰部に大やけどを負って、その為に死んだ。そして黄泉の国に行く。そこは出雲の地であるはずなのだが、なぜか『日本書紀』の一説には、イザナミ命が亡くなられ、紀伊の国の熊野の有馬の村に葬られた。ここの人、この神の魂を祭るは、花の時に花をもって祭る、とある。現在は、年二回のお綱かけ神事として残っている。

イザナミ神社小 2

 御神体は、拝殿に祀られているのではなく、高さ45メートルの巨岩である。これはどう見ても女陰岩に見える。とても神さびていて、目の前に立つと、現代人である小生でも敬嘆してしまう。日本一古い神社と言われているのも大いに諾うところだ。

イザナミ岩2
 ポスター

 火の神を生みしイザナミやうやくに
     熊野の海に癒されい坐す


 七里御浜

 波が強く、泡が舞って霧となって、海浜は靄がかかっているように見える。

七里浜小


 波高き海岸線の果ての果て
     靄(もや)たちこめる夕日影みゆ

 
 毎年8月17日には、この海岸で大花火大会が催され、5尺の大花火が海面に映し出されて、こよなく見事なものであるらしい。この日には熊野市内外の交通が制限され、すでにすべての宿が来年の予約はいっぱいであるという。

  夢に見る海を圧する大花火



     

     
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秋日阿保歌

     秋日阿呆歌 (終日あほか…)

  天高く馬や豚らのよくこえて
     われらが腹のかてとなるかも


  行楽は飽きぬ(秋来ぬ)食欲満たすため
     神よわれらをゆるしたまへ
 

  赤や黄や色めくもみぢ見に来るも
     人は色めく浮世話に


  帰り来ぬ今をあしたと写真撮る
     人のあはれさ時のむなしさ


  分け入っても分け入っても益もなし
     薄が原にお宝はなし


  訳言っても訳言っても石あつめ
     分かってくれる人はなし(笑)



 先日、熊野の浜辺で見つけた石。デザインが出色

 
     熊野石18
      約3cm×4cm


           

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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

『神々の沈黙』

   ジュリアン・ジェインズ著 『神々の沈黙』 雑感

 宇宙の広がりは有限なのだろうか、無限なのだろうか。そして宇宙が誕生した以前はなにがあったのだろう。自分はどうしてこの地球上にいま生きているのだろう。灼熱の球体にどうして生命が誕生したのだろう。一体何のために。

 この様な事を考えて、ぞっとしたことがない人は、いないであろう。時に訊かれることがある、「あなたは神を信じますか」と。小生はためらうことなく、信じていると答える。そして付け加える、しかし自分が信じる神は、自然と言い変えても、少しも差し支えがない、と。しかし、よく考えてみると、それは宇宙生成の話まではいかなくとも、目の前にある動植物のあまりに手の込んだ生き方を思うだけで、われわれ人間の知能を遥かに超えたものを感じ、その感じを「神を信じる」と表しているように思う。つまり、自然に対する驚異の念を〈神〉と言っている。

 それにしても、生命というものは不思議なものだ。ぬるくなった地球上のあるときに、海の中で単細胞の生物が誕生した。その後、それは変化し、分化し、進化して、非常に多くの生物種が生じた。それらは捕食しあい、あるいは利用しあい、共生しあいして、いま地球上に何万種の生物が生きているのか知らないが、おそらくすでに滅んでしまった種の方が多いのだろう。

 想像するに、この宇宙には、地球のように、生き物が存在している惑星はたくさんあるのではなかろうか。そして、一旦そこに単細胞が出現すると、生命はその惑星に粘着し、何時しか何万種の異なった生物となって、その環境に驚くほど適した、あまりにもバラエティに富んだ生き方をするようになる。

 とにかく生命がある惑星に、一旦取りつくと、もう何が何でもそこで生き延びようとしているように見える。火山の大爆発、地震や津波、巨大隕石の衝突、繰り返す氷河期などの、あらゆる困難を乗り越えて、生き延びようとしているように見える。だからこそ、生命はあの手この手でいろいろな種となって、そのどれかが生き延びればよいというように見える。DNAはそれを知ってか、たえず新しい変異を生みだしている。それは生命の指令によるものなのか。

 そうして自分は今ここに生きている。自分の属している人間種は、今や地球上でもっとも繁栄している生き物である、かつて恐竜がもっとも繁栄していた動物であったように。われわれホモ・サピエンスもいずれ滅びるのであろうか。

 紀元三万年前~二万五千年前に、ネアンデルタール人が消えてゆき、われわれの祖先ホモサピエンスが生き延びたという。なぜそうなったのか。諸説あるけれど病因説がもっとも納得できそうだ。それにしても、両者の大きな違いは、解剖学上から推定では、言語能力における違いらしい。会話ができるようになって、生活の様々な場面で、とくに狩猟において、ホモサピエンスは圧倒的に有利になった。

 さて、ここからが『神々の沈黙』の著者、ジュリアン・ジェインズの推論なのだが、言葉の始まりは、もっとも重要な行動、つまり狩において、仲間に知らせる「呼び声」だった。そして、その叫びの強さによって、状況を指し示す。その音の差異化、次にたとえば「より速く」というような意味を生ずる修飾語(修飾的叫び)を生みだし、このことが様々な石器を生みだす契機になった。そして、叫びに少しずつ変化が加わり、ついに名詞を生みだすに至る。

 これは、紀元前二万五千年~紀元前一万五千年に起こった。そして、それと軌を一にして、洞窟の壁などに絵を描き始めるようになった。事物を表す名詞は新しい事物を生じさせる。

 ジェインズは、この頃の人間には、われわれ現代人がイヤでも持っている〈意識〉がなかったという。だから、仲間から頼まれた仕事をし続けるには、意識的に持続させることができないので、いわば他動的な誘導が、すなわち〈内なる声〉が、必要であった。その内なる声を、彼は〈幻聴〉というのだが、それは脳のどこかの部分が司っているに違いない。

 そして、この〈幻聴〉こそ神々の起源であるとジェインズは主張する。かつて、おそらく地球上のあらゆる古代民族において、宗教をもたない民族はなかった。そこの人々には、要所要所において、行動を誘導してくれる神の声が聞こえていた。で、この声はどこから聞こえてきたのであろう。

 解剖学的におおざっぱに言えば、いまわれわれの脳においては、(右利きの人間においては)左半球に言語を司る中枢がある。だから、その部分に脳梗塞が起これば、右半身不随と失語を生じる。では、その部位に相当する右半球の領域は何をしているのか。

 ジェインズによると、神々の命令が、まさに右脳のその領域で発せられ、それが、左右脳をつないでいる前交連という神経線維束を通って、左聴覚野に話しかけたり、聞かれたりしていた。そうして、いわゆる統合失調症の人たちが幻聴を聞いている時、同じことが彼らの脳にも起こっているとジェインズはいう。もちろん現代の彼らの聞いているのは神の声とは限らない、いろいろな声である。多くは文化的に規定された優越なる声である。重要なことは、彼だけの耳にしか聞こえないのであり、その言葉はあまりにもリアルなのである。

 ホメロスが書いたと言われる『イリアス』の登場人物は、読んだ人はよく知るところだが、いざという時いつも誰かの神が働いてくれる。ジェインズは言う、彼らに「主観的な意識も心も魂も意思もない。神々が行動を起こさせている。」「とにかく何らかの決断が要求されることがすべて、幻聴を引き起こすに足る原因になった。」「この声こそが意思だったのであり、意思は神経系における命令という性質をもつ声として現れたのであり、そこでは命令と行動は不可分で、聞くことが従うことだった。」
 『イリアス』の物語りは、いったい何時から語り伝えられていたかは不明だが、とにかく紀元前10世紀よりうんと以前の人たちには、神々の声が聞こえていた、つまり統合失調症状態だった。

 しかし、いつしか神々の声は聞こえなくなっていった。それゆえ人々は自分というモノを考えざるを得なくなった。自分の時間空間的な位置を、自分の像を、歴史を、〈物語化〉しなくてはならなくなった。このことの過程を、エジプトやメソポタミアの遺文、とくにホメロスやプラトンらの著作と旧約聖書を、とくにその言葉の語源的検討を、ジェインズは長々と述べている。

 どうして神々の声が減衰し、意識が発達してきたか。一つには、脳の左半球優位の人間が、右半球の機能を徐々に習得していった。つまり神々の声の役割を得ていった。交易などで多少多様な人々との交わりにおいて、いわば自分を投影することが始まった。激しい争いが続いた。そのとき、たまたま神々の声に従えなかった人々や、うまく他人を欺いた人たちが、むしろ生き延びた。そういう人たちの遺伝子が広がるとともに、意識を習得する能力が広がっていった。それらは、紀元前二千年くらいから始まったという。

 神々の声の衰退が進むと同時に、人々は幸福な幼年時代のノスタルジアに浸るように、神託・神懸り・預言・占い・憑依などに縋るようになった。そうして、詩もそうだった。
 その時期に、詩はそもそも遠くから神々によって詠われたものだ。つまり古代では、預言者と詩人は分けられぬものであって、もともと語られていたのは、韻文であった。(これには全く同感だ。)古代の詩が、語られうというよりも歌われるということは、詩歌もおもに右半球の働きによるものではないか。

 それで結局、著者は何がいいたいのか。意識はもともとDNAに組み込まれたものではなく、学習されたものであり、抑圧された昔の精神構造の痕跡の上で、われわれは危ういバランスを取りながら生きている。選ばれた人、例えば、統合失調症の人が自分にしか聞こえない声に従うように、われわれも信念をもって行動しうる。古代人の行動と偉人の信念による行動の起源は同じなのだ。もはやわれわれ凡人には、知識の増加とともに思案に迷い、思い切った行動ができない。

 結局われわれの行うこととは・・・。

 エデンの神話とはなにか。神の恩寵の喪失、人間の堕落、失われた純真さ、そういう風に考えること自体が、人類最初の偉大な意識的〈物語化〉としての位置を占める。そうして、著者ジェインズ自身が、この本を書くのも、結局やはり〈物語化〉しようとする営為なのだ、と言っているのは、自説正当化であり、自己卑下でもある。

 なんか、あまりにも、はしょった話し方になったけど。

 この『神々の沈黙』という日本語タイトルの、原題は「The Origin of Consciousness in the Breakedown of the Bicamerarl Mind」だということで、直訳すれば、「二中枢の心の崩壊における意識の起源」とでもなる。訳者は、Bicameral Mind というのを、二分心と訳しておられる。解りやすく言えば、二つの心とは、神々の声と人間の意識ということに他ならない。

 ジェインズの線でいくと、思うに、あらゆる芸術家は神々の領域をもたねばならない。その領域からの声が強ければ強いほど、すぐれた芸術を生むのではなかろうか。それなくしては、いかに作品に苦労の跡が見られようと、まあいわばただの理論すぎない。

 世界中のどこの地域でも、多かれ少なかれ、古代の神ムーサの息吹が蘇る。幸か不幸か、わが国においては、だいぶん薄れてきたとはいえ、つねに神々の微風がいたるところに吹いているのを感じる。それは、たとえば詩歌となって残っており、いまなお多くの人々が、俳句や短歌などをたしなんでいるのみならず、若い人たちも自然に新しい言葉の遊びを楽しんでいる。言の葉の幸はふ国。これが〈やまとごころ〉とか〈日本人的〉といわれるものなのであろうか。

 すべて神の道は善悪是非を、こちたく定せるようなる理屈はつゆばかりもなく、ただゆたかに、おほらかに、みやびたるものにて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなへりける。(宣長)


 
     

     
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壺狂い

 この季節になると、陽射しが伸びて、障子を明け放った部屋の畳は奥深くまで照らされて、部屋全体がとても明るくなる。空気は乾いていて、縁側で日に当っているのが心地よい。

 いなかの家では、離れ座敷の床の間に壺などを置いて眺めていたものだが、他人に住まわせてからというもの、そういうことはできなくなった。しかし、この季節、秋の午後、柔らかい日差しに当った床の間は、信楽の古い壺がよく似合う。そして、その情景がつねに瞼に浮かんでくる。

 思い返せば、いっときとは言っても、30歳前くらいからしばらく20年間ぐらいは、焼き物とくに壺にはずいぶんハマっていたものだ。今までどれくらいの壺を手に入れたり、手離したりしただろう。この期に及んで、かなり多くの壺だけでなく骨董がらくたを手離したが、どうしてもまだ手元から離れない壺が4個残っている。


 小生が骨董屋で初めて買ったのが、中国の明の時代のものだと思うが、小さな青磁の花器だった。それは、ほんとうに好きで買ったものではない。なんとなく一つ骨董といえるものが欲しかった。いろいろ迷っているうちに、店の主人がこれを買っておきなさいと言われるままに、買ったものだ。永らく持っていたが、いつぞや手離した。しかし、それを買ったおかげで、中国陶磁を書物や骨董屋や美術館などでずいぶん勉強させてもらった。たとえ5万円で買ったものを5千円で売ったとしても悔いはない。

 以後、いろいろな骨董屋を巡った。そしてレパートリーはずいぶん広がった。最終的に手元に残したのは、やはり日本のモノと朝鮮モノだな。さてその中での4この壺を紹介しよう。

   1.


小百姓 小百姓2


 これは、ある骨董屋で何度も手にとってみて、とても好きになった小壺である。好きになった物を、長いあいだ思案し、何度も触らせてもらって、ついに額に脂汗を書きながら買った初めてのモノだ。これは、江戸時代中期~後期の越前焼で、いわゆる〈おはぐろ壺〉だ。骨董屋の主人が、さすが貴方は良い目をもってますなぁと、おだてた。

 これのいいところは素朴な鉄釉がのって、小さいながら、灰冠り、釉だまり、ひっつき、火ぶくれがあって、見所が多い。幾つかの疵さえ見どころである。しかしそれらすべてがあまり派手ではないのが、この小壺のいいところだ。〈小百姓〉と命銘した。とはいえ、、冬の午前、これに椿の一二輪でも活ければ、あっと変身、たちまちのうちに〈通小町〉になる。

 もし三途の河の渡し守が、一つだけ持って行ってもいいと言ったら、これをもって行くかな、小さいから邪魔にならないし。

 2. 

秋日和2 秋日和3

これは、鎌倉時代の信楽焼。表面がずいぶんすすけていて、穴も空いている。たぶん、竹林かどこかに雑に捨てられて半分土に埋もれていたのではあるまいか。それゆえ釉薬はむろん艶もない。しかし、この土味とだいだいっぽい色は、まぎれもなく古信楽のものだ。もちろん古信楽には、もっと茶色~灰色っぽいものもあるが、この赤松色系に小生は惹かれるのであって、これこそ、秋の午後の柔らかい日差しに当って、最高の美しさを発揮する。〈秋日和〉と命銘した。


  3.

木曾殿1 木曾殿2


これもかなり初期に買ったものだ。たぶん11世紀の猿投(さなげ)窯か常滑窯か。とにかく平安時代のものは、猿投から常滑にかけて、今の名古屋の東側から知多半島にかけて、似たような土である。聞くところによると、知多半島有料道路を作った時に、ずいぶん窯跡があったそうだが、工事を遅らせるわけにはいかず、埋もれた焼き物をずいぶんつぶしていったそうだ。

 三筋壺という3本の筋が入った壺がこの時代のこの辺りによくあるが、この壺は5筋、しかもすべての筋が肩より上に引かれている。これは珍しい。この壺の魅力は、見ての通り、窯の中での激しい燃焼のために飛び散った小石と釉薬だ。口がきれいに割られているのは、おそらく骨壷か経筒入れとしてかに利用したものではあるまいか。このほうが蓋をしやすいだろうから。

  4.

一文字 一文字2


これは、朝鮮の李朝時代の壺というより大徳利か。灰色の上に刷毛ではいたような白い線が全体を取り巻いている。だからこういう柄を刷毛目という。この壺の特徴は、何と言っても、胴体にすっぱりと白い釉の部分が抜けているところだ。これをもって、小生は〈一文字〉と銘をつけた。朝鮮モノはかなり好きで、特に一般民衆が使った素朴な茶碗などが大好きで、小皿を何枚か持っている。漬物なんかを並べるとすごくいい。朝鮮の雑器の素朴な味わい、そのなんとなく侘びしげなところがいいとする柳宗悦に同意する。だから、王族の使用したあまりにも美しい白磁はむしろ好きではない、というか、一時は好きであったが、飽きる。

 それにしても、壺のよさというか、焼き物のよさは、見るだけではだめで、触らねばわからない。だんだん慣れてくると、見ると言っても、触るように見る。触覚で見るようになる。穴のあくほど見つめるのだが、その時の心境は、このモノを〈よく〉見ようとしていることである。この点が最高の魅力であるべきだと思おうとしている。これを恋心と言うのだろうか。悪いようには見ない。悪い所があるとしても、それには目もくれない。世には女狂いがいるが、彼らは、きっと女の肌触りに見果てぬ夢をいだくのであろう。それとおなじように、壺狂いにとっては、壺に、どんなに見ても、いじくり回しても、飽くことがない深遠を夢見るのである。

これは、まあ結局は、惚れた者の弱み。馬鹿者の道楽・・・。。

 
      

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読経の声

わが家のお寺は浄土真宗である。葬式やら法事やらでお坊さんが詠うお経が長たらしくて、いつも苦痛に感じる。だから、このところずっと法事は断っている。お金だけ出して、そちらでよろしくやっといてください、という塩梅である。この苦痛はなぜなのか、考えて見るに、あの坊さんがお経を詠うあいだ畏まっていなければならない。それから、あの文句というか歌詞というかが気に食わない。内容はよく分からないけれど、とくに「ナミアブダブツ」が気に食わない。あの音楽というか、抑揚がとくにイヤだ。なんか田舎っぽい。ちょっとしか聴いてないけれど、他の宗派の歌のがずっと洗練されているように感じる。それから、決定的には、あのお坊さんの声が気に食わない。やや高音で、割れたような嗄れ声だ。これで「ナーモアーミダーブウー」と何回もやられたら、気持ち悪くて汗が出てくる。
ましてや、もし死んでからもしばらくは音が聞こえるとしたら、あの窮屈な棺桶の中であれを聴かなければならないとしたら発狂モノだ。

 それで、あるとき知人に、違う宗派のお寺に換えたい、真言宗なんかは銅鑼など鳴りモノがあって歌も楽しそうだし・・・、と言ったら、換えないほうがいい、浄土真宗のほうが安上がりだからという。しかし、お布施料なんかそう違うものなのか。小生は、多少高額でも、いい声で詠ってくれて、袈裟もあでやか、鳴りモノつきのグッド・パーフォーマンスをやってくれれば、その方がいいと思う。

 つい先日、『古事談』(鎌倉時代に書かれたゴシップ集)にこんな記事を読んだ。題として「頼宗(藤原道長の息で右大臣)、定頼(公任の息)により読経練磨の事」とある。要するに、頼宗が、読経の名人である定頼に、読経を教えてもらう話だ。

 頼宗は定頼について読経を習う。中宮彰子のサロンに、小式部内侍という女房がいた。この人は和泉式部の娘であって、母と同じく、好色であった。頼宗も定頼もこの女を愛した。あるとき、定頼がこの女房の部屋を入ろうとして覗いたら、ななんと、頼宗はこの女房と抱き合っていた。先手を取られていたのですな。そこで定頼は得意の美声で法華経を読んで帰った。と、女房は歓喜のあまり、頼宗に背を向けて大泣き。頼宗も枕に涙を流してしまった。頼宗は定頼に負けたと思った。それからというもの、頼宗は一大決心、法華経を読むこと万回にして、覚えてしまった。

 本の注には、頼宗は愛欲に溺れる自分の迷いから法華経で抜け出すことができた、というように書いてあるが、そうかなぁって思いません? むしろ定頼の美声によって、女の心を取られた、それほど読経というのは男の魅力であるのだ、と気付いたのではないのかな。

 平安時代の物語などでも、よく読経のことに触れていますが、当時は、読経を詠むということは、いわば芸能であって、自由なリズム、節廻しで、オペラ歌手のようにいかに良い声で詠えるか、これが当時の貴族の教養の一つであったよう。定頼は法華経を、きっと往年のドミンゴのような声で詠ったのでしょうね。


       

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谷崎文学一面

知人とちょっと近代日本文学についてしゃべっていたら、また何か小説を読みたくなって、谷崎潤一郎の『卍』を読み返したんだけど、なかなか面白いね。とくに語り口がなんとも。関西弁が効いている。落語的エンターテインメントというのか、まあ、ありそうもない滑稽な話ではあるが、よく考えて見ると、いやいや現実のあり様そのものであるわ。つまり人間は美や性欲にとりつかれたら、どんな悲喜劇をも大真面目に演じるものだ。

 それから、もう一つの主題。とはいっても作者はそんな風なことが言いたいのではないと思うけど、〈世間〉というものの緊縛の強さなんだ、なぜ人は世間の噂にかくも強い恐怖を感じるのか、直接何の危害も加えるわけでもないのに。まあ、いま時分の子供ら、ラインというのかしら、友達と思っていた子に、一旦悪いうわさが広められたら、えらくいじめられるという恐怖をもって生きているらしいね。仲間から疎外されることの恐怖。ここからまた人は喜劇を演じなければならぬ。これが物語を前に前に進める。

 谷崎っていう作家は、書き始める前から、しっかり計画を立てて書いていくタイプではない、と本人も言っている。そこが、彼の作品の幾つかの終わり方を唐突で、意外に単純なものにしている。中期の傑作群では、中世の文学や伝説から物語は始まり、鼓、琴、あるいは三味線の音を背景に物語は展開し、終わりかたは、謡曲風の幻想、例えば、『八島』のキリ√春の夜の波より明けて、敵(かたき)と見えしは群れ居る鷗、鬨の声と聞こえしは浦風なりけり、高松の朝嵐とぞなりにける・・・とでもいうようにfade away する。後年の傑作『少将滋幹の母』は、ちょっと蛇尾って感じ、まあこの辺で終っておこうとう感じがする。要するに谷崎の作品は、もちろん面白いのだけれど、計画性がなく、どこで終わらせてもよい、という印象を与える。『蓼食う虫』は、謎めいた終わり方で、それがかえって、茫洋とした印象を残している。

 『蓼食う虫』は、優柔不断で新しいタイプの若夫婦と昔風の頑固親父。若い夫婦はすでにセックスレスで、お互いに別れることに決めているが、それを実行する具体的な時を言いだすことができない。妻の方の頑固親父は、伝統的な日本的感性を、とはいっても江戸時代のいわゆる下町情緒を、根底にもっている。その象徴が、この作品では文楽なんだな。若い夫婦がいくら新しいタイプの人間といっても、やはり根底には世間を恐れている。だから、おそらく彼らの行く末は、結局親父の言うとおりになるのだろう。

 それにしても、谷崎の好む下町情緒、これは荷風のような「下品」なものではない。それは洗練された上方の三味線の音であり、着物の柄である。『卍』においても、目に付くのは、二人の女性が交わす手紙の絵柄の美しさであり、他の彼のすべての作品においてそうであると思うが、とくに『細雪』においては、着物の絵柄の美しさの頻繁な描写には、興味のない読者は辟易してしまうであろうけれど、それは『源氏物語』を、そのなかでもとくに紫の上の感性を連想してしまうね。

 そういえば、昭和18年、陸軍省の圧力で『細雪』の連載が禁じられたそうだが、あの時代に昭和時代を画する作品を谷崎が書いたことは、おのれの芸術のみに身をささげた彼の〈図らずも〉の反時代的行為になった、つまり、戦前の、よく軍国主義だということで非難される時代がじつはかくも見事な伝統の美を蔵していたことが、戦時中に突如として発表されたことは面白いね。あっぱれ、大拍手。



       

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国会周辺漫談

 「自衛隊は危険な地域には絶対に行かせない。後方支援といえど、万一、鉄砲の弾に当って自衛隊員が死ぬようなことがあってはならん」

 「はい、閣下」

   ・・・・

 「閣下、大変でございます。暴風雨のために転覆しつつある大型漁船から救援の報せが入りました。約100名の乗組員が助けを待っているそうです。気象庁によりますと今後風雨はだんだん強くなるとのことです。」

 「うーむ。じゃが自衛隊員をそんな危険な所に行かせてはイカン。そのまま放っておけ。」

 「はい、閣下」

           *

 「とおちゃん、今度できた日本の戦闘機はすごい性能らしいね。」

 「うわさではね。しかし、実際はどうなんだろう」

 「とおちゃん、哨戒機も潜水艦も日本のは、世界一・二を争うようだね。日本の軍隊はけっこうすごいのだね」

 「坊や、日本には軍隊はなくて、あれは自衛隊なんだよ。」

 「でも、とおちゃん、隣のスミスさんは自衛隊の事を軍隊って言ってたよ。」

 「坊や、日本国憲法で軍隊をもってはいけないと書いてあるから、あれは自衛隊なんだよ。」

 「言葉変えれば、すべてよし、なんだね」

 「そうだよ、坊や、おまえは賢い子だねぇ」

          *

 「とおちゃん、アンポ法案がどうのこうのって、沢山の人が騒いでいるでど、なんなの?」

 「パパもよく解らないけれど、あれは、自衛隊が外国で外国人を救うために武器を使ってもいいのかどうか、っていう問題じゃないのかな。」

 「他の国には悪い人たちが沢山いるのだね。大事な遺跡を壊したり、女学生をさらっていったり、平気で虐殺したり、だから難民がいっぱいいるのだって。世界の良い国の軍隊がそういう悪い奴をやっつけに行かなければいけないね。自衛隊もやっつけに行かなければね、パパ」

「いや、自衛隊は悪いやつらをやっつけることはできないのだよ。」

「どうしてなの、パパ。日本の憲法には、どんな国も自国のことのみに専念してはいけない、全力で崇高な理想と目的を達成する、と書いてあるよ。」

「ははは、坊や、誰もそんなことを信じていないよ。憲法の言葉なんてただ恰好をつけるために書いてあるのだよ。どこの国も本当は自分の国さえよければいいのさ、儲けられそうな時だけ、助けに行くのだよ。」

「書いてあることはただ格好なの?」

「そうなんだよ。大事なのは恰好なんだよ。大人は憲法に書かれていることを文字通り信じてはいないのだよ。」

「う~ん、本音と建前ってやつだね、国連と同じだね、パパ」

「おお、そうだよ。お前はなんて賢い子なんだ。」

         *

 「戦争反対! アメリカの力に屈するな! 平和憲法を守れ!」

 「おばちゃん、戦争反対って、いま戦争している国に行って言わなきゃ」

 「そんな怖い国に行って、そんなこと言えるか、アホ!」

 「おばちゃん、おばちゃんが必死で守りたがっている憲法はアメリカの力に屈して創られたものだけど・・・。」

 「うるさ子やねー。昔は昔、今は今。昔のことをほじくり出さんといて!」

 「でもなぁ、今もすぐ昔になるよ。」

 「ほんまうるさい子やわ。ごちゃごちゃ難しいこと言わんといて!」

            *
 
 わが民は禅問答に大真面目。先哲曰く、「絶対矛盾的自己同一」。(笑と拍手)

 シェイクスピアならこう言ったかも、この世のすべては喜劇の素材に成らざるはなし。



     

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マコンデ彫刻 2

妻の実家の近くに古いビルがある。その2階に目立たない古美術店があった。古美術店とは言っても、じつはガラクタ屋といった方がいいほど、世界中の古今のモノが、ほとんど無秩序に、所狭しと置いてある。木製の浮輪や古い金魚鉢、南洋のサンゴや貝殻、古代ローマ風の彫像、ヘンなマッチの玩具、プラスティック製の蛙、得体のしれない茶碗や壺、南米の織物や焼き物、東欧かどこかの蝶や玉虫、壊れた楽器、・・・。当時、小生は主に古い東洋の焼き物に関心があったが、ふと片隅に置かれていた何体かの黒い彫刻に目がとまった。マコンデ彫刻と小生の出遭いである。以来、何度この店に足を運んだことか。それはまた、そもそも商売になるのかならないのか、こんな世界のガラクタを目立たぬ一角に集めている店主の非常な魅力の故でもあった。
 彼の紹介で、マコンデ彫刻を扱っている他の店にも足を運ぶようになったころ、折しも博物館でマコンデ彫刻展が開かれ、その魅力にますます取り憑かれた。結局、10年くらいの間にちょうど10体の彫像を買ってしまった。

その幾つかを紹介しよう。

  マコンデ小1  マコンデ小2 

 高さ60cmほどの彫刻である。台座にあたる部分を見てよく解るが、エボニー(黒檀)の木は、大部分を占める中身は黒いが、外側は白っぽい、皮は薄茶だ。たいていの作品は、このように白っぽい部分まで残している。この作品は、とても不安定で、いかに彫刻前の木の形がゆがんでいるかが分かる。おそらく作者は、この木の紆余がもつイデアに従って鑿を振るったのであろう。

 小生はまずこの作品のスタイルに魅了された。なんと見事なスタイルだろう。不安定のなかの安定。重心の位置の微妙な計算は、魂の軽やかさを保証している。そんな感じだ。どちらが正面というようなものではない。どこから眺めても、それぞれのいわば意味があり、その立体的総合は、結局一つの〈作品〉を目指している。

    子供up3
     上部のアップ

一見、二人の人が重なっているように思われる。しかし脚は二本しかない。子供が母親におんぶしてもらっているのかもしれない。それなら、母親の頭部は非常に単純化されているし、見ようによっては、象徴化された女陰のように見える。マコンデ族にとっては、それは土地の豊饒と生命のシンボルであって、そういう目でもって見れば、作品全体が自然のリズムを表しているように感じる。

 次の作品は1m20cmを超えて、重い。 

  レズ上半分
      上半分

 レズ腹
     腹部  
 レズ頭部 
     頭部アップ


 明らかに二人の女性が絡んでいる。さらに蛇が纏いつき一人の頭に喰らいついている。しかしエロティックという語の現代的意味の衰弱した目でもって見てはならない。彼らにとって蛇は再生のシンボルであり、それに喰らいつかれている女性は、呪術の威力によって減弱した精力を回復しつつあるようだ。その精力とは種の維持を超えて、生きんとする根源的な力とつながっている。また一つの乳房は腰のあたりに付いているが、マコンデ彫刻の世界では珍しくない。体の一部はたんに一部であるのではない、体のどの部分にでも連続しており、それどころか生者と死者、自然のあらゆるものと融合しうるものなのだ。生命は自然の隅々にまで浸透し、全体は個を含み、同時に個は全体を含んでいる。

 これは、大阪万博の出品作の一つである。高さ1m強。一番初めに手に入れたものだ。

    木の妖精1

    木の妖精up
               上部のアップ            

木の皮と白っぽい皮質の部分を後ろに残し、浮き彫り風に仕立てている。三匹の木の妖精であろうか、一番上は目をきっと見開きこちらを睨んで、その鼻は大きく強調されており、下の二匹の子供を守っているようである。呪術に縛られた世界では、精霊はわれわれの生命力に対して、善意に働くか悪意をもって働くかが、とても強い関心事である。これはちょっと怖い。

 これは具象的な作品である。高さ40cmくらい。左手でトウモロコシを喰らっている。右手に持っているものは何であろう。果物か何かの器具か。左足で支えているものは粉ひきの道具か、よく解らない。

    お爺さん前

    お爺さん背部

具象的と言っても、よく見れば、体に対して頭部が大きく、扁平化しており、腕や特に脚が華奢だ。だが、何よりもこのバランスがいい。日日仕事に従事し、手を休める時間があらばこそ、大急ぎでトウモロコシを喰らう男の無頓着な姿には、じつに生命の存在感そのものが溢れている。

 これらの作品の作者は分かっている。1960年代は、この様な名人がけっこういたようだ。もちろん中には単なる形式的・表面的な模倣品を創るような彫刻家もいたではあろうが…。しかし、その後の国情不安定の下、小さなお土産品はしばしば見かけるが、あの彼らの〈芸術〉は、今はどうなっているのであろうか。
    

        


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マコンデ彫刻 1

まずはマコンデ族の紹介。

アフリカの原住民の一部族であるマコンデ族は、そのむかし西の方からやってきたという。そしていつ頃からか、大陸の東部海岸に近い、現在のタンザニア南部からモザンビーク北部にかけての高原に住み着いた。その高原は、Nyasa湖からインド洋に流れるRuvumaという大河が国境を画している。

 約50万人といわれる(1970年代。現在はもっといるそうだ。)マコンデ族が住むその高原は乾燥して土地はやせているが、気候は温和で危険な野獣も少ない。なぜ彼らは水の豊富な川沿いで住まなかったのかというと、そこはマラリヤや眠り病などの感染が多いからという。

 彼らは、歯をやすりで研ぎ、顔や体にタトゥーを施し、成人女性は上唇に円盤を嵌め、この見かけで以て他から恐れられ、何百年と孤立を保ってきた。ポルトガル領であったモザンビーク側のマコンデ族はとくに遅くまで伝統文化を保ち、〈文明化〉されず、閉鎖的であった。1960年代の独立戦争によって、彼らの多くはタンザニア側へ逃れた。このことが彼らの文化を世界に広めるきっかけとなった。

 アフリカの諸部族でもよくみられるが、マコンデ族もダンスを好み、儀式では、踊り手はMapikoという仮面をかぶって踊る。Mapiko仮面は、木製の黄色かピンクで色づけされた丸顔で、とげとげの歯と伝統的なタトゥーを施され、われわれから見るととても不気味である。

 あらゆる民族同様、農耕儀礼・成人儀礼があるが、男子においては、何カ月の儀礼中、木や粘土で創った小立像でもって考えるよう教育される。それらは、日常の習慣や歴史に関係しており、具象的な像・象徴的な像・抽象的な像など様々である。

 マコンデ族の文化の源流とでも言うべき神話がある。

むかしむかし、Ruvuma渓谷のある所に、人というべきにあらぬ生き物がやって来た。彼は水浴びをしたこともなければ、髪の毛も伸びたい放題で、飲食すこぶる僅少であった。
 ある夕暮れのこと、彼はこの場所で立ち止まることにしたが、やがてとても退屈になったので、一片の木を取り、手でもってそれを削り、彼とほとんど同じ姿の像を創った。その夜、この像を傍らに立てて眠った。明くる朝、その像に生命が宿って、女性になった。喜んだ彼らは一緒に水につかり、彼は完全な男になり、彼女は完全な女になった。そして彼らはRuvumaの川岸に住むようになった。
後に、女に子供ができたが、生まれた子は死んでいた。それで、彼らは川岸の他の場所に移動したが、そこでも生まれた子は死んでいた。さらに他の川岸の場所に移動したが、生きた子は生まれなかった。ついに彼らは川岸から離れた乾いた高原に移住した。そこで彼らは生きた子供を産むことができた。この子がマコンデ族の始祖である。

 像が生命を得たのは立てて置かれたのであるから、彼らは死者にも生命が続くように立てて埋葬するし、川から1時間以上の距離をおいて住居を建てる。アダムのように男性が女性を創ったようにも思えるが、男性らしき生き物を男性として顕したのは女性である。マコンデ族は、多くの古代民族と同じように、女性を豊饒の根源と見る。母親は尊敬され、死んだ母親は女神のごとく崇拝され、完全な母系制である。個人とは女系のたんなる連結点にしか過ぎない。

 最初の母が木から生まれたという話は、彼らが儀礼の仮面や彫像を、もっぱら木でもって始めたことから生じてきたとは、大いに考えられるが、初めは木の種類をとくに選ばなかったようだ。ところが、最近(20世紀に入ってから?)ebony(黒檀)を彫刻家は好んで使用するようになった。

 この硬い木は、いつしか、堅固さと永続性の象徴となったからかもしれない、あるいは、外見上は決して美しくないこの木に特有な様々な形がマコンデ族彫刻家たちのインスピレーションを刺激するようになったのかもしれない。

 彫刻家たちは、野外にシートを敷いて仕事をする。彼らは一片の木を手や脚の上で何度も転がしながら見つめる。心が決まったら、大胆に鑿をふるう。彼はいわば木に宿る精霊の呼び掛けに導かれて仕事を進めるようだ。

 以上、Roger Fouquer 著『The makonde and their sculpture』(1972)に拠る概説。

 ところで、マコンデ族の彫刻家と言われるほどの人たちの作品がわれわれに知られるようになったのは、1960年代に入ってからで、とくに1970年(昭和45年)大阪万博においてタンザニアの芸術作品として出品され、一部の人たちの注目するところとなった。聞くところによると、彼ら愛好家らは1974年に「マコンデ友の会」を結成し、その後しばらくの間、展覧会などを開いていたそうである。現在伊勢市にマコンデ美術館を開いている水野氏もその一員であったとのことだ。それから数年後である、小生がマコンデ彫刻に出くわしたのは。





   


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沖縄にて

  沖縄県平和祈念館
 
  戦死者名刻むモノリスあまた立つ
     海空につづく不思議な空間


  執拗になげきうらみに固まれる
     記念館内異様に明るし


  ひめゆりの塔

  健気なる少女の首にひかる汗
     火煙のなかにほのかに見ゆる


  死にゆける兵士に水を与へんと
     鉢もつ少女の瞳うつくし


  斎場御嶽(せーふぁうたき)(琉球聖地)

  飽きもせず常世ながむる王たちは
     支配権のみ保つにあらず


  生きるとはかくも難しきものか
     自然に秘める力を頼む


  昔も今も不安を生きる人間は
     呪術・医術・迷信が要る


  八重山諸島

  ゴージャスなホテルは建てど変はらぬは
     深い密林透明の海


  シュノ―ケリング

  カラフルな珊瑚花園にたゆたへば
     先祖も魚なりしことを知る



     

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堺事件

 それにしても、明治維新というのは、知れば知るほど、考えれば考えるほど、不思議で完璧な出来事のように思えてくる。なんでや、江戸時代という泰平の世、盤石であったはずの徳川幕藩体制が、いつの間にか、あれよあれよと言う間に崩れていって、一朝気が付いてみれば、静かにクーデタは終わっていた。あはれ、昨日の総大将はカヤの外。残された子分たちは後始末に追われるばかり。

 ちょうどその頃、いわゆる戊辰戦争のさ中、堺の港でフランスの水兵11人が、土佐藩士たちによって殺されたという事件が起こった。世にいう堺事件である。外国人が日本人によって殺される事件は、生麦事件をはじめ、数年前からしばしば起こっていた。それにしても、これほどの沢山の外国人が一度に殺された事件はめずらしいし、もうこのころは、〈攘夷〉の嵐はだいぶん鎮まってきていたはずだと思っていたが…。

事件の概要はこうである。フランス軍艦が堺港で測量を行っていた間に、水兵らが上陸し、どうも悪ふざけをやっていたらしい。付近の住民の要請により、その地域を警備していた土佐藩兵らが水兵らを捉えようとしたら、水兵らは逃げた。そのとき、水兵の一人が土佐の歩兵隊旗を奪った。それを梅吉という旗持ちが追いかけて彼を倒し、隊旗を取り返した。すると、水兵らが銃を発射したので撃ち合いになった。船に逃げ戻ろうとした水兵を、藩兵たちは結局11人殺害した。

土佐の隊長二人は、責任者である自分たちが責めを負うと言った。しかし、それだけではフランス公使ロッシュの気がおさまらない。英蘭などの同情も手伝って、彼は、日本政府に強く当り、陳謝、賠償、下手人らの処刑を要求した。結局、発砲した覚えのある藩兵ら16名を含めて20人が切腹を仰せつかることになる。彼ら16人はただの一平卒であったが、ありがたくも士分として切腹できることに喜びをみいだした。

正午、フランス側代表を含め並みいる人々の前で、型通りの形式で、一人として過たず堂々と腹を切り、介錯される。ある者は、フランス人たちに、「自分は国のために死ぬ。日本男児の切腹をよく見ておけ」とか言ったそうな。ところが、11人が切腹を終え、12人目の橋詰という人物がさてやるぞと腹に手を当てたその時、フランス代表らは、突然その場から退出した。それを見て、役人は「しばらく」と橋詰を制した。退出したフランス代表らは、その場に帰って来なかった。言うところによると、彼らの行為には感服した、もうこれ以上は死ぬ必要はない、残り9人については日本政府に助命を乞うと。

出鼻をくじかれ困惑する残りの罪人たち、何故と問えど、肝心のフランス代表の前でなくては切腹の意味がないと目付けは答えるばかり。それで結局のところ、彼らは、浅野家(広島藩)と細川家(熊本藩)において一時預かりの身となった。二カ月ほどして、彼らは流罪に処せられることとなった。しかし、どうも得心がいかぬ。許されたはずなら、どうして流罪になるのか。目付け答えて曰く、あなたがたは先に逝った11人の苦痛に準じる刑を受けねばならないと。(そんな理屈がどこにある)彼らは苦笑するしかなかった。

数カ月後、明治天皇即位のゆえの特赦を受け、無事高知に帰国したのだが、念願の士分は叶わなかった。

          *

この堺事件の一ヶ月くらい前、神戸で備前兵の行進の前を横切った一アメリカ人水兵が射殺されるという事件があった(備前事件)。発砲を命じた備前兵は、パークスら外国人の要望により、切腹を命じられた。この兵士の切腹を見たアーネスト・サトウは、その一部始終を『一外交官の見た明治維新』のなかで詳しく、感動的な筆致でえがいている。

そして彼は書いている。この時の死刑執行と、引き続く堺で11人の死刑執行とについて、「ジャパンタイムズ」の編集長は、法による殺人たる死刑執行に臨んだのはキリスト教徒としてけしからぬ、また腹切りというイヤな見世物に(西洋人が)臨席したのは恥であると語っているが、それは大きな間違いである、むしろ、自分はこの刑罰を実行させ、立ちあったことを誇りにしている、と。

 「腹切りはイヤな見世物ではなく、きわめて上品な礼儀正しい一つの儀式で、・・・はるかに厳粛なものだ。この罪人と同藩の人々は私たちに向かって、この宣告は公正で、情けあるものだと告げたのである。」もっとも、彼が堺事件において一方的に土佐藩兵が無害な非武装のフランス水兵11人を殺害したとしているのは、日本人の報告よりもフランス人の報告を信じたゆえであろう。

しかし、「死刑を宣告された20名中11名の処刑がすんだとき、(フランス)艦長が執行中止の必要があると判決したのは、実にいかんであった。なぜなら、20人はみな同罪であるから、殺されたフランス人が11人だからとて、これと一対一の生命を要求するのは、正義よりもむしろ復讐を好む者のように受け取られるからである。」

この様に書くアーネストは、常に文明国イギリスというものを背後に感じていたようだ。もっぱら通訳者・翻訳者として活躍していた彼であったが、自国人に対しても、他の西洋諸国人に対しても、日本人との交渉に臨んでも、いざというとき毅然とした態度を持していた。

 堺事件は、森鴎外の小説で有名だが、鴎外の淡々とした簡潔な文体、三島の言を借りれば、〈冬の日の武家屋敷の玄関先〉のような凛とした文体は、この事件を描くに相応しい。そして、アーネスト・サトウの視点から見て、この事件はなんと日本的な、深い問題を蔵した事件であることかを、あらためて思った。


  
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歴史とは

このごろこんな風に考える。
歴史とは何だと問われれば、とりあえずそれは過去のことだ、過去の記憶のことだと答えよう。しかし、それはたんなる思い出ではなく、努めて思い出そうとしなければならない。思い出そうとすると、その姿はいよいよ鮮明に浮かび上がってくるが、絵画を前にしている時のように、ますます多くを語りたくなるが、いっそう語るに困難を感じるようになる。つまりより生き生きとなるのである。

 小生はだんだん歴史が好きになった。なんでこんなに面白く感じるのか。それは、歴史には決まり切った回答というものがないからでもあるし、また事件や人物の精妙さというか味わいは尽きせぬものだから、とも思う。あのとき、なぜ彼はああしたのだろう。あの事件はなぜあのような方向に進んでいったのだろう。あれこれ想像できる。そしてやっぱりあの人は、ああいう人にちがいない、どう表現しようもない、とにかくああいう不思議な独特な生き方をした人なんだ、あの事件は独特の色彩を放っている、と感慨を新たにする。

 ところで、過去の出来事は繰り返さない。この繰り返さないという点がとても大事な点だと思う。明智光秀があのとき本能寺に向かった。その事件は二度とありえないことである。明智光秀という人は二度と現れないであろうし、彼が生きた時代もあの状況も二度とやって来ないであろう。東条英機という人も二度と存在しえないし、ましてやあのときの各国の状況の絶妙な組み合わせが再びあり得るわけがないし、したがって〈あの戦争〉も二度と起こり得ないのである。すべては唯一、一回きりである。だからこそ過去の出来事を知ったところで何の役にも立たないのである。

 過去の出来事としての歴史は何の役にも立たない。このことはしっかり肝に銘じておかねばならない。二度とないということは、取り返しがつかないということだ。泣いても悔やんでも叫んでも、あのときを再び生きることはできない。懸命に働いたあの瞬間も、恋人とのあの甘い瞬間も二度と体験することができないし、死んだ母に二度と逢うこともできないのである。しかし、だからこそ、惜しいからこそ、あの時のことをより鮮明に思い出そうとするのだ。そこに様々な想いがまといつき、想いが思い出の創出に手を貸す。ここから歴史という尽きせぬ泉の味わいがそこに生じる。歴史というものは、そういうものではあるまいか。

 したがって、歴史を知ってこれからの行動の役立てよう、というのはお門違いである。この宇宙の歴史に二度と同じ状況はないし、同じDNAの配列をもった人間も存在しない。われわれは、つねに全く新しい状況に直面して、日々新たな工夫をしなければならない。過去の例を参考にするとは、たんなる気休めの効果があるに過ぎない。

 歴史を知る? それは必要なことかもしれない、しかしまたなんとおこがましい言葉だろう。われわれは歴史に流されるだけだ。もし歴史の流れが現実的な力をもつとすれば、それは巨大な津波のように圧倒的な力であって、われわれ人間がどうこうできるものではない。未来の状況を語る人は、新しい〈現実〉がやってきてそれに対処しなければならないときが来れば、おおむね以前の発言の虚しさを知るであろう。なんとえらそうな理屈を述べようと、ちょうど山にこもる修行僧が、誰もいないところでたまたま川で洗濯する女の脚をみて、谷から転落するように、圧倒的な〈現実〉の前では、われわれは無力である。

 自分ですらこうである。ましてや政治や経済の偉い先生方が、「五年後はこうなる」と様々に異なった意見を平気で述べているのは、無責任を通り越して、ほほえましく長閑な光景である。そのうち誰も思わぬ事が起きるよ。

要するに、現実とはけっして生易しいものではないし、未来は予見できない、という常識に還ればよいのである。


     


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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

8月15日 4

 
 反省やおわびをすればよき人と
     思ひこんでる子供らがゐる

 マスコミは国民のお太鼓もちよ
     戦争中も平和のときも

 戦争はもうごめんと言ふもし勝たば
     さうは言はぬといふことを知らず

 ワタクシノ嫌ヒナ人ノ面付(ツラツキ)ハ
     正義の味方 弱者の味方



  

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『薔薇の名前』

いつか読もうと思っていた小説の一つ。

時は1327年、場所は北イタリアの僧院。

 教皇を頂点とするキリスト教会が、その秩序を危うくしうる派閥の僧を異端審問にかけて粛清してゆく。ヨーロッパ中に吹き荒れたこの嵐はついにこの僧院に及んできた。この僧院には、過去に様々な派閥に属していた僧たちが集まってきているのだった。それと前後して、僧院内で殺人事件が次々と起こる。その事件のなぞとは・・・。

 この僧院には、キリスト教関係の文書が大量に保存されているが、誰もがその文書を自由に閲覧することは許されてはいない。すべての文書の管理は文書館長ただ一人の手にゆだねられている。

 文書の保管場所は迷路のような異形の建物であり、さらにこの内部には、文書館長しか知らない秘密の部屋がある。そこには禁断の文書が保存されている。そして密かにその在り処を嗅ぎつけ、それに触れた若い学僧たちが、何者かに殺害されてゆく。

じつは、この殺人事件は、今は盲目となっている元文書館長である老僧が仕組んだ罠によるものだった。この事件の謎を解くために一人の人物が要請された。この人物(主人公)は元異端審問官であったが、皇帝派と組んだフランチェスコ会に属する僧であった。

お察っしのとおり、この物語は教皇派と異端派(フランチェスコ会はその最大派閥)との対立がベースになっている。両派は、執拗に〈清貧論争〉に明け暮れる。つまりキリストは物質的な何物をも持たなかったのかどうか。その問題に関して、異端派は徹底して清貧を主張し、己もかくあるべしと行動する。しかし、教皇派は弾劾する、その行き着くところは精神的アナーキーであり、ISのごとき、非道な暴力集団に堕しているではないか、これを地上から排除しなければならないのは当然ではないか、と。

では、例の禁断の文書とは何か。なぜ学僧の好奇な目から隠されなければならないのか。なぜその文書が読まれるのを文書館長はかくも恐れるのか。それは、教皇派にとって何か不利になることが書かれているのではなか。しかもそれは、中世ヨーロッパとって最も権威ある者によって書かれたものではないか、と読者は興味をそそられてゆく。

もしかして、それはアリストテレスの失われた『詩学』の一部ではないか、と主人公は疑を深めるが、それは図星であった。かの盲目の元文書館長である老僧は言う、「あの人物(アリストテレス)の著した書物は、キリスト教が何世紀にもわたって蓄積してきた知恵の一部を破壊してきた。」ひょっとすると、それはもう神の否定の一歩手前ではなかろうか。信徒たちがあれを読んだらどうなる。すべてのこの世の掟は、人間的なパロディ、笑いとなって発散されてしまう。それゆえ、この文書に近づいた学僧たちを生かしておくわけにはいかない、と彼は物語の終わりの方で白状する。

主人公は、こういういわば神への信仰でがんじがらめになった人たちには笑いがないことを指摘して言う、「悪魔は精神の倨傲だ。微笑のない信仰、決して疑惑に取りつかれることのない真実だ。」じつは、神への過度の愛からこそ反キリストは生まれてくるものだ、と。

物語は、キリスト教の歴史に秘められた人間の心の暗い洞窟に、ロウソクのほのかな光を灯して進んでいくようだ。

ところで、殺人の手段はどうなの、どうして盲目の僧が人を殺せるのって。まあそれは言わないでおこう。めんどだし、これから読む人もいるだろうから。


     

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この季節 2

蓮の花芽が一本出てきているのに気が付いた。今年はもう咲かないのかな、と思っていた。というのは、この春は、必要な根の間引き・土の入れ替え・肥料やりなどを、だいぶん手抜きしたから。

   蓮芽小
 

数年前までは、かなり熱を入れて世話をしていたけれど、このところ面倒になってきて、だんだんいい加減になってきている。それでも春になると、今まで連綿と続いてきたこの蓮を根絶するのは惜しいと思ってしまい、一根また泥の中に埋める。

まあ絶やしたところで、だれ一人として気にしないだろうし、それに種のストックはまだ山ほどある。しかし、やはり花芽が出てきて、それが日増しに大きくなるのを見るのは嬉しいものだ。

むかし真っ白なヒメ睡蓮を栽培していたことがある。あれは、蓮に較べると、花弁が直線的でキリリとしていて、その規則正しさは、貝殻のように、自然の幾何学性を主張している。それに対して、蓮の花は柔らかく、いわば包容力がある。

仏さんの台座に描かれているのは、蓮か睡蓮か解らないことがあるけれど、おおむね日本人にとって蓮のほうが仏教的なイメージを、極楽浄土を思わせるのじゃないかな。

いつのころからか、歳と共に夏の蒸し暑さに弱くなってきて、夏の一カ月は、スイスとかカナダとか北海道、長野の山中とか、とにかく涼しく乾燥しているところに逃げたいと思うことがよくある。まったく実行しないけれど。

しかし、〈この夏〉は、小生にとって特別だ。もう二度と夏を味わうことはあるまいと思っているから、クーラーのきいた部屋にばかり閉じこもらずに、この蒸し暑さを、この苦痛をしっかり味わおうと思う。

考えてみれば、どんなに苦痛と言っても、夏は一度でも猛烈に暑い日がなかったらつまらない、気の抜けたビールみたい。冬も同様、苦痛だが猛烈に凍てる日がなく過ぎ去ったら、つまらない。やはり日本には四季があってこそ、味わい深いものだ。

季節の変化がもたらす期待と惜別の情、これがいい。そういえば、いつも息苦しい夏がやってきたと思う頃、かえって期待することは、お盆を過ぎたら、あの虫の声が聴けるということだ。それがあるからこそ夏もウエルカムよ、と思う。

晩夏の夜、あの虫たちの合唱がなんと心地よいことか。以前、あの声を何時でも聴きたいと思って、録音して聴いていたことがあるけれど、ダメだね、録音では。やっぱりあの季節に、あの空気の中で聴かなければ。ゆく夏を惜しみながらでなくては。微かに感じる秋風のもたらす不安の中でなくては。

だから、いつも思うのだね、庭の雑草を取っている時、あまり取り過ぎると虫たちがやってこないから、完全に取らないようにしよう、奥の方は残しておこうと。





     


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この季節

この季節、クマゼミの鳴き声が「もう起きろ、もう起きろ」と、耳元でせっつく。時計を見るともう7時を回っている。カーテンを開けると、年老いた人間をけだるくさせるような夏の空がすっかり広がっている。

 顔を洗って、キッチンでグレープフルーツを切る。なんか今朝は心が躍っている。気が付くと頭の中で、ビートルズの「I saw her standing there」が鳴っている。ははーん、このためなんだと気が付く。

 昨日you tubeでこの曲を聴いたのが、ずーっと続いているのだ。人は眠っている間に完全にリセットされるのではないのだね。では、眠っている間に、この音楽はどこにあったのか、鳴っていたのか。

 すでに今、体の隅々まで震わしているリズムギターの刻みは、眠りの間、自分の体の内で続いていたのか、それとも自分の外にあったのか。人は容易に記憶っていう言葉を使うけれど、記憶というのはじつに何と言うか…。要するに、どうして過去が現在に蘇るの。

 まあいい。こんな暑い夏の午前、難しくことを考えるのはよしたほうがいい。それよりも、いつものように朝食後は、庭の空気を吸い込みながら、メダカに餌をやる。

  餌めだか


 餌をばら撒くと、口をパクパク開けて群がってくるのが面白い。まるで新興宗教の信者だ。教祖から見るとこんな風に見えるのか。人間とはかわいい動物だ。キリスト教の神から見ると・・・いやそんなはずはないだろう。

 夏の花。サルスベリ。ムクゲ。ヒメムクゲ。クソカヅラ。サルスベリは紫がよい。

   サルスベリとムクゲ


 枝垂れ梅もこの時ばかりと存分に葉をつけお化けのようになっている。これがまた暑苦しい。


   夏の枝垂れ梅



 いつも〈初夏〉という言葉から連想するイメージ。

簾(すだれ)が微かに動く風通しのよい部屋から海を見ること。

氷の入ったガラスコップにコカコーラを注ぐ時の爽やかな音。…

 そこではキイス・ジャレットのピアノのタッチが調和する。その音は風に吹かれて部屋から夏空に抜けていって、後に残ることはない。気が付くと、いろいろな人種の人たちが、あちこちのテーブルや砂浜で、アイスコーヒーを前に、静かに話合っている。

 そんな空想をしていると一匹の蚊が腕にとまる。一瞬、針を皮膚に差し込むのを確かめて、パチンとつぶした。玄関先に蚊取り線香をたく。この香はいいものだ。それにしても、蚊はやはり好きになれない。

 子供のころ、扇風機の羽の白や薄水色がとても新鮮だった。それが電気屋さんの店で回っていて、前に付けられたリボンが揺れる。それが涼しげだった。今でも、それほど暑くないときには扇風機を回す。扇風機の首振りの微風を背後に感じるときは、なんと心地よいことか。

 この心地よさはエアコンでは決して味わえない。でもエアコンの心地よさというものもある。わが家に初めてエアコンが、当時はクーラーと言っていたが、クーラーが付いたのは、たしか中学三年の夏だったと思う。父が一つの和室を洋室に変え、その部屋に付けたのだった。

 小生は、夏休みを利用して、しばらく長野県に逗留していた。帰ってきて、あの和室がすっかり洋風の応接間に変わっていて、その部屋の涼しさ、というより冷たさに感動した。あの時の感覚は今でも肌に残っている。カーテンは細かいメッシュの黒色で、庭の景色もとても涼しげに見える。

 そして、新式のステレオから流れている曲は、とは言ってもその瞬間流れていたかどうかは、じつははっきりしないが、マントヴァーニ・オーケストラの「シャルメーン」だった。それがまた新鮮だった。…すべてはあの時代の日本人の夢だったのだ。

 夏の思い出は、芋づる式に次々と浮かんでくるけれど、書き続けてゆけば、あまりに煩雑になるだろうから、今はここまでにしておこう。



    「まくらのさうし」ふうに書いたつもりやけど…。


   

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NYに行く 4

誰でも知っているように、ピカソは生涯たえず作風を変えていった画家だ。それは、早熟の天才がどんどん新しい局面を創造していったとも言えるし、既成品をどんどん壊していったとも言える。彼のような非常に多産な画家については、もう言葉を失うしかないけれど、小生にとっては、この作品を前にしていると、何と言うか、驚きと一種独特の不安で満たされる。一言で、〈存在の爆発と新しい神話の誕生〉

この絵をキュービズムと言っても、べつにかまわないが、いわゆるキュービズムからは決して出てこないものがある、あるいはそういうにしてはあまりに豊富である。また抽象絵画と言ってもよいが、この画面には、明らかに5人の女性が見てとれる。

人は目がなければ描くことはできない。抽象化から絵画芸術は始まったという人があるが、でたらめに色や線や面を配することはできない。どうしても目の前の具体的なものから始めなければならない。近年、でたらめに絵の具を塗りつけたり振りかけたりして、絵画作品とする人たちがいるが、小生に言わせれば、それは宝くじを買うようなものだ。極めてまれに心を動かす作品も生まれようが、99%以上がカスである。

一万五千年前の人たちが洞窟の壁に描いた動物や人は、模倣であるか、それとも抽象化であるか。石器時代の女性の土偶は模倣か抽象化か。実際これらを鑑賞する人は、石器時代の人たちは何ゆえこの様なものを描いたのだろう、あるいは創ったのであろう、と考える。想像するに、まず対象に対する驚きが根本にあろう。そして描いたり作ったりするのは、対象を捉えようとすることではあるまいか。対象を捉えるとは、その内奥の特徴的な力を捉えることだ。動物や女性がもつ力を捉えようとすること、それはその力の源泉に近づきたいという誘惑、その力をふたたび呼び起こし、その力に少しでも与ろうとすることに他ならない。それら絵や彫像は純粋に模倣でもないし抽象でもない。むしろ模倣と抽象とが同義となるような行為ではなかろうか。

それは、すなわち強いて言えば、呪術と言いたくなるあるものではあるまいか。彼らの行為は、模倣・抽象という現代語のもっと向こうの、もっと原初的な行為、すなわち呪術、それは宗教のごく初期というか、根底にある衝動だ。われわれ現代人は、芸術と宗教と分けて考えるが、しかし、石器時代は、いわばそれらが混じり合っている未分化なある行為である。

いつも思うことであるが、われわれ現代人にもかすかにそう感じられるときがある。ペンダントをつけたり、要するにおしゃれをするとき、自分に新しい力が加わったような気がする時があるではないか。おしゃれをすること、それは美的行為か呪術的行為か。

ラスコーの壁画や縄文土偶を思い浮かべよう。小生はどうしても、あれらに超自然的な力に対する驚き、畏怖と祈願とが入り混じったものを感じる。あれらを前にすれば、牛や女性の存在そのものに対する驚き、畏怖や祈願が一体になった、ある感覚に襲われないか。だが、こういう感覚を素直に表しがたいのは、われわれはもはや古代人でないからである。

つねづね思うことであるが、現在のわれわれの感覚・思考でもって過去の人たちの心を考えることはできないのではないか。例えば、その昔、世の中に、オレンジと紫としかなかった時代があったと仮定しよう。そのとき、オレンジ色は、単一で基本的ないわば原色であったのである。いろいろな色を知っている現代人から見ると、オレンジ色は黄色と赤色とが混じったものだ、と断じる。しかし、当時の人たちが見るオレンジ色は基本的な単色であったのだ。そこには黄色も赤も含まれてはいない。そもそも黄色も赤もなかったのである!

そういう意味で、石器時代の人たちにとって、描くことは、〈呪術的なある単一な行為〉なのであって、われわれの言うところの分化した呪術と絵画との混じったものではないだろう。その行為はオリジナルな単一なものである。いつの時代についても、われわれはいまの感覚でものを言ってはいけない、と思う。芸術の起源は呪術的なある行為であって、芸術はそこから分化・発展してきた、そしてたえず変化しつづけてきたのであって、それでも今なお太古の残響が微かに残っている。現代芸術とはさらに哲学的、科学的、思想的、装飾的な意味が加わってきていて、じつに多義にわたり、また同時にそれらを排除し、純潔を守ろうとするようなある行為である、と言えまいか。

今となっては、大なり小なり芸術とは、われわれの感覚から日常生活によってつけられた手垢を落とそうとしてくれるものではないかとよく思う。われわれのすべての能力は、もっぱら生きるための、明日の生活のための効率のみに捧げられているように見える。しかしそこから目を転じて、何でもいい、何かをじっと見つめてみよう。するとそこから今まで知らなかった或る世界を垣間見ることができる。その世界とは、おそらく人間と自然とがどこまでも親密であるような関係であって、その多彩な相の一部をわれわれは見ることができる。絵画芸術とは、そのための案内図を提供するものではないか。つまり、われわれが自然の秘密を知ることができる早道は、いわゆる芸術を通してなのだ。

休むことなく新しい世界の入口を叩いては開けようとして、そのために膨大な作品を描いたピカソにとって、この『アヴィニョンの娘たち』は、その最大の力仕事であったように感じる。小生にとって、絵画の意義を考えるのに、ほとんどこれだけで充分だ。


   アヴィニョン2


もっとよく見ろ、もっとよく見ろ」と、
後ろに居る客観の影が背中を押す。
「目をつぶれば、描くべきものはないぞ」

存在が爆発する。
空間を破って形が現れる。
圧倒的な力をもって脱皮しつつ
女神たちは未聞の叫びを発する。
「表面は裏面。裏面は表面。全ては鏡像。」

先史のある窪みから
小刻みに溶岩が噴きだして次々に形を為す。
人間色の微妙な色が浮き出てくる。
わずかに残った青い空間が垂れ落ちて凝縮する。

誰か、捧物をたてまつったのは、
ああ、ついに新しい天の岩戸伝説が生まれる。
そして、ピカソはシャーマンになる。



     

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NYに行く 3

 さて目的の絵とは、近代美術館(MoMA)所蔵の、ピカソ作『アヴィニョンの娘たち』なのだ。小生がもっとも衝撃を受けた絵だ。20歳代のいつだったか覚えがない。

アヴィニョン2


ついでに見てくれ、恥ずかしながらこれ、小生が27歳のときに真似してデッサンしたもの。


アヴィニョンデッサン小


そのころまた、たしか京都の大原に行った時に、陶器のお皿に何でも好きなものを描いて、後でそれを窯で焼き上げて送ってくれる露店があって、そのとき記憶で描いたものとヴァリエーション。

  ピカソ皿小2 (2)


笑っちゃうね。恥の上塗りもいいとこ。しかし当時絵と言えば、これがいつも頭から離れなかった。

さて、この美術館に入って、この絵がある5階に行ったのだけど、直行するのはためらわれた。心の準備ができていない。しばらく入口のものから順々に見て、目と心を慣らしてから見ようと考えた。しかし、不安もあった。もし直前に他の作品に感動してしまったり、あまりに多くの名画を先に見て疲れ、心身の調整ができず、目的の本命に感動しなかったらどうしよう。

それから、こういうこともある。以前からつねづね考えていたことだけど、本物が模倣品より、よいとは限らないのではないか、という疑問である。本物偽物というのは大した問題ではなく、むしろこちらの鑑賞準備状態が問題なのではないか。思えば、われわれ日本人は西欧の芸術を、例えば音楽はレコードで聴き、絵は印刷で見、本は翻訳で読んできたのである。みんな偽物である。しかしわれわれはそれでもって楽しみ、吸収してきたのではないか。

だからわれわれは多くの誤解をしてきたのだ、と人は言うかもしれない。しかし、誤解ほど面白いものはない。少なくとも、非常に個性的な誤解は正解より面白い。もちろん、個性的でありさえすればよいとは全然思わないけれど。むしろ個性的などというものは余分なことである。言いたいことは、要するに、こと芸術鑑賞に関するかぎり、正解も誤解もありはしない。感動したり、夢をもらったり、喰い入る深浅があるだけだ。

とはいえ、芸術に意味がないがないかというと、またそうとも言い切れないと感じる。言語芸術は、言葉の意味に触れずに味わうことはできない。言葉の有する意味を度外すれば、それは音楽になろう。では純粋な音楽に意味はないかというと、なかなかそうとも言い切れない。言葉による意味はなくても、音楽自体がもつ意味がある。そのことを鋭敏に感じとったワグナーは、あのような長大な〈楽劇〉を創った。書かれた文字についても同様で、書を見るごとに思うことだが、文字の意味にまったく触れずに味わうことは難しいとはいえ、見る人は書体そのものに意味を感じている。絵画についても同じことが言える。色彩の配置や線や形態が意味をもつ。

ところで、作品の意味は、作者が意図したモノであろうか。もし作者の中にすでに意図が内在していて、作品の意味は、その意図を明るみに出すのだとすれば、芸術作品ではない。むしろ意図は、作品の後で、あるいは作品の制作過程で、後から出てくるものではあるまいか。少なくとも、実際の制作から何らかのバイアスを受けるのではないだろうか。晩年のセザンヌの筆はとてもストイックである。けっこう多くの作品に余白がある。それは彼が意図しようとしたものをどうしても出せなかったというよりも、むしろ作品の方が彼に筆を入れるのを禁じたのだと、小生は感じる。つまり、作品には作者のあらかじめの意図を超えたものがあるのではないか。創造には、多かれ少なかれ何か神秘な付加がなければならないのではないか。

で芸術とはなんだろう。と話がどんどん逸れていくけれど、このMoMAの五階の作品群を見て、じつは考えていたのは、そのことなのだ。考えていたと言っても、結局は不毛な同語反復に終わってしまっただけだけど。…で、歩いて行くうちに、壁に掛けられている絵はだんだんと19世紀から20世紀へ近づいて行く。と、カメラやスマホを持つ人だかりがある。彼らが向かっているはゴッホの『星月夜』だ。小生も眺めた。遠くから見ると複製で見るのとそっくりだ。

 ゴッホ人々


もっと近寄って絵筆の一刷一刷を見たい。しかし、カメラを絵に向けている人が多く、絵にあまりに近寄るのは憚られた。しかし、ある瞬間、思い切ってうんと近づいて見ていたら、監視員に制された。たしかに何億円もする絵に小生の汚ない息を吹きかけてはいかんだろうな。

小生があるとき気付いた絵の見方なんだけど、まず適当に離れた距離から〈全体〉を見る。それから、うんと近づく。作者が絵筆を持って描いたであろう距離に近づいて、自分も作者になったつもりで、画家が描いたであろうと思われる順番に筆を入れていく。或る程度そうしたら、もう一度眺めながら後退する、するとピタッとくる距離がある。あたかも3Dの絵が浮かび上がってくるように。こういう瞬間に全体としての絵を掴んだという気持ちになる。いつもうまくいくとは限らないけれどね。

それにしてもゴッホの絵を見るのはつらい。彼の生涯を知ってしまっているからね。彼には見えたんだ、月や星があんなに強烈な渦巻く光を放っているのが。願わくば、彼の生涯をまったく知らずに彼の絵をゆっくり見たいものだ、そのときどう感じるであろう。えらくぎらぎらした絵だなと思うだけで通り過ぎてしまうかもしれないけれど。しかしまた、知っているからこそ、いつぞやゴッホ展で見た『ひまわり』の黄色に感動できたのだと思う。あれは、何というか、強烈な幸福への希求、あるいは仏陀の絶対安心とでもいう言葉が浮かんでくる。

 『星月夜』から目を転じると、左手の向こうの部屋に、ちらっと『アヴィニョンの娘たち』が見えた。見たというより、向こうに見つめられたような気がした。ああ、見つかってしまったか。そんな感じで、なんかちょっと気が動転して、おろおろしてしまった。その瞬間、頭を掻いていたかもしれない。




NYに行く 2

すでにニューヨークをよく知っておられる方たちにとっては当たり前のことではあろうけれど、初めて訪れて目に付いたところを少々語ろう。

 まず何と言っても道路が混んでいる。イエローキャブ(タクシー)は、トヨタカムリが多い。日本ではやや大型の車ではあるが、向こうでは大きな感じがしない。それだけ、一般に大きめの車が多いような気がする。そして世界中の車が走っている。一般の車の色は比較的黒が多い。日本に多いシルバーはほとんどない。バスは大きくてエンジン音も大きい。車間距離10cmで曲芸のように走っているから、警笛がうるさい。車道も歩道も凹凸が多い。

 マンハッタンは、ここ20年くらいに建ったと思われる50~60階くらいの新しいぴかぴかしたビルが林立しているが、それ以外、とくに周辺部は、その半分以下の高さの、いかにも古くて落ち着いたビルが多くい。薄茶色のビルの上辺や窓枠などの擬古典主義的な装飾、あるいはまたウエストサイド物語のあの赤煉瓦の壁と裏階段、マンションの最上階や一階の植え込みと鉄格子。そんな建物の側の歩道には街路樹が影を落として、その木漏れ日の中を歩いていると、何とはなしに懐かしいという感慨が湧く。

 ふと思った、もし自分が20代の若者だったら、どういう気持ちでこのニューヨークの街を歩くだろう。いや、より正確に言えば、真っ先に浮かんだのは、もし自分が20代だったら、こんな風には感じないだろう、という思いだった。きっとそれほどノスタルジックな気分に呑まれていたのである。戦後のアメリカの黄金時代の映画や音楽に、今の若者もわれわれと同様に接しているであろう。しかし、それらが自分の来し方に混じり合うということは、彼らにはまだないであろう。ましてや、われわれの親たちが夢を育んだあの時代の空気を、ほんのわずかであるが、われわれもまた覚えているあの空気を、嗅覚的に知ることはないであろう。いかなる世代も、他の世代には伝え難い想いをもっているものだ。ITにまみれた超高層ビルの谷間にも、なお昔日の夢をいだく小生の耳に、夕暮れのようなパセティックな響きが聞こえてくる。おそらく今の若者、あの9・11を幼くして知った若者たちは、われわれとはまた違った、未来への期待と凋落とが混じり合った新しい響きを聞きとっていることだろう。

 道路は概ね京都のように碁盤目をなしていて、南北をアヴェニュー、東西がストリートと言い、東・南から順番に番号が付けられていて、馬鹿でもすぐ分かるようになっている。これは合理的で、とくに旅人には親切でよいと思った。朝食はホテルの近くに店が多く、そこでは多くの種類のパンやハム、野菜、果物などがあり、好きなだけ注文して、そこで食べる所もある。歩きながら食べてもいる人もちょいちょいいる。たいていはホテルに持って帰って食べる。しかし、とにかく一様にみな包装がしっかりしていて、ナプキンというか紙を沢山つけてくれる。とても勿体ない、もっとシンプルでいいのにと思った。だから、歩道のゴミ箱は溢れていることが多く、ゴミ収集車も大きいのが目に付いた。どこもかも建物はエアコンが効かせ過ぎであって、これも勿体ないと思った。さすが、資源の豊富な国の人たちは、われわれとは感覚が違うと強く思った。

 思いだしたが、飛行機はデルタ航空(アメリカ)だったけれど、もう5分もいると寒くてたまらないほど、エアコンが効かせてあって、(もっとも一万メートル上空はマイナス50度c以下だから、ここでは暖房の節約と言うべきかもしれない)、しかし、白人は、大人も子供もみなTシャツ一枚で長長時間、平気な顔をしているのには、驚かされた。小生は後に寒さ対策として、ズボン下、上着とマフラーを常に用意した。美術館では若い女の子などはタンクトップと恐ろしく短いショートパンツ姿で、これなどは小生の眼には半裸といってよく、こんな姿でエアコンの効いたところに、よく何時間も平気でいることよ、とあきれた。

 いたるところで人々が話している言語の多様性。一番多く耳にしたのはスペイン語(たぶん)、次に英語、それから中国語であった。ホテルの受付や観光案内所での英語は、小生の耳には難解であった。メトロポリタン・オペラ劇場では今何をやっているのか尋ねたら、「キンガナーイ」と言う。何じゃらほいと首をひねっていると、ケン・ワタナベと言ったから判った、「キング・アンド・アイ」なんだ。別にとくに見たいと思わなかったから行かなかったけれど。まあこんな程度のリッスニング力で、よく来たものよ、自分にはまだまだめくら蛇の若さがのこっているなと嬉しく思った。ついでにすぐ近くにカーネギーホールがあったから、何かやっていたら聴こうと思って行ったが、ろくなモノをやってないと思ったからやめた。まあ疲れてもいたんだろう。

 ヒルトンホテルとはいえ、作りはそうよいとは思わなかったし、水周りの直しのいい加減なこと、プロがやったとはとても思えない。また風呂の蛇口の操作の分かりにくいこと、筒状の取っ手を引けば水が出るのが判ったけれど、硬いのなんのって、老婆だったら絶対に出来ないだろうと思った。それから、櫛も髭剃りも歯ブラシも湯沸かし器も冷蔵庫もなく、困った。日本のおもてなし様式に慣れてしまっている小生は、アメリカン(グローバル?)スタンダードに無知であったことを今まさに知ったのだった。日本はガラパゴスの亀、絶滅危惧種なのか? グローバル化しなければならないなんて冗談言うなよ。

 まあ、とにかく日本に育った小生から見ると、アメリカはほんとうに人種の坩堝だな、言語も肌の色もいろいろだし、だからとても背の高い人やとても低い人が均一の頻度で居る。セントラル・パークでは、一人でにこにこして踊っている(ように見えた)オジサンがいた。近くへ寄ると一ヶ月くらい風呂に入っていないような匂いがした。映画俳優のようなピカピカしたドレスを着た金持ちそうな人もいるし、夕方になると歩道に座って「Homeless Help me…」など書いて、缶缶を置いている人たちも毎日見かけた。3人のそういう人に1ドルくらいだけどあげて、観光客だと言うと「Have a nice trip」などと返してくれる。そう言えば、最後の日の夕方、そういう老人がいて、缶缶を振っているので、何セントか入れてあげたら、何か話したがっているので、少し話をした。するととてもにこにこして上機嫌になった。ははー、このオジサンはこれが楽しみなんだなと思うと、こちらも楽しくなってくる。ホテルに帰って、カップラーメンに目がとまった。日本から持ってきたものだ。湯がないから、食べること能わず、ずっとそのままテーブルに置いていたのだ。最後の朝に枕銭といっしょに置いておこうと思っていたのだけど、急にさっきのオジサンにあげようという気になった。

 それで、そのカップラーメンと買ったばかりのメロンパンと水をもって、オジサンのところに行った。ところが、オジサンの姿はどこにもない。なんだもう仕事止めたのかとちょっとガックリ。帰り道、隣のブロックに女の子が「homeless help me…」を書いたボール紙とコップを前に置いて、膝を抱えて坐っている。20歳くらいか。顔を見ると表情は暗い。この子にさっきの飲食物に1ドル札を添えてあげた。カップラーメンについて説明をしたついでに、アメリカに来た理由などをしゃべっていて、つい彼女の隣りに坐り込んでいたんだ。するとたぶん中国人と思われるが、母子が通りかかった。お母さんは1セント硬貨をもって、女の子のコップに入れようとした、そのとき同時に子供(10歳前くらいか)に、自分の写真を撮らせようとした。その刹那、女の子はあわててボール紙の立て札を隠し、コップを引き下げ、その母に何か叫んだような気がするが、はっきりしない。それが、突然の素早い動作で、何かちょっと危険なことが起こりそうな感じがして、小生も一瞬身を引いた するとお母さんはコインを入れるのをためらったが、結局入れず、ややあって子供の手を取って遠ざかって行った。その瞬間、小生は何が起こったのか了解した。女の子は元の状態に戻った。小生は言った「なんで写真を子供に撮らせようとしたのか理解できない」と。女の子は言った「私もそうよ。あのような人は嫌いだわ」…彼女は小生に握手を求めた。小生も彼女の仕事の邪魔をしたくなかったから、握手をして別れた。そのとき、ついうっかり「good luck」と言ってしまった。しまったと思ったが、後の祭り。この言葉はこういう状況で使うべきでないと思った。

 ほんとうに世の中には、いろいろな人が居るものだ。1ドル札を恥ずかしそうに入れて、さっと立ち去る人もいれば、あのお母さんみたいな振る舞いをする人もいる。


       


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NYに行く 1

生まれて初めてニューヨークに行った。若いときに非常に感銘を受けた絵を、いつかは一度、本物を見てみたいと漠然と思っていたのだが、このところ絵のことを考えていたら、ふと見に行こうと思い立った。全行程、たった一週間、一日中自由にできるのは、なか4日である。もちろん、本命の一つさえ見ることができれば、それでいいのだけれど、せっかく地球の反対側まで行くのだから、ついでにあの市にあるお宝を存分に見てやろうと思うのは自然の情だ。

 近代美術館にある目的の絵については後で言うとして、とりあえずニューヨークについて感じたことをちょっと触れたいと思う。まず、4日間の行動の概観。

1日目 まず本命の近代美術館(MoMA)へ。開館から閉館まで一日を過ごす。夜、川向うからとエンパイアステートビルの上からマンハッタンの夜景を見る。

2日目 開館から閉館まで、メトロポリタン美術館(MET)で過ごす。帰りセントラル・パークを通る。

3日目 午前グッゲンハイム美術館。午後、再度METで閉館まで。その後、夕食のため、市内をぶらつき、偶然大聖堂とグランドセントラル・ステーションを見る。

4日目 開館から午後3時まで、再再度METへ、3時~閉館までフリッツコレクション美術館へ。

 ということで、ほぼ予定通り、効率よく美術館巡りをできたのだけれど、想定外のことは、METにあれほどのお宝があるとは思っていなかったので、連続三日間、足の痛いのも忘れて通うはめになった。それでも、とても見足りなかった。

 話のついでにMETのことから話すことにしよう。もちろんこの世界的に有名な美術館はとても広いということは想像していた。だから、開館30分前にしてすでに入口の左右に長蛇の列ができているのを見ても、そう心配はしなかった。きっとこれらの人が、中に入ったら、散らばってしまうであろうし、たいていはいわゆる〈ニューヨーク観光客〉で、ここにせいぜい2時間くらい居て、出ていくだろうと思っていたから。

  MET入口1


しかし、METは小生の想像以上に広く、日頃から方向感覚には自信があるのだけれど、少なくとも初日目は、いったい自分が館内のどこをどう歩いているのか分からなかった。ホテルに帰って、館内地図を広げて、自分の足跡を思い出し、照らし合わせて検討したが、完全には解明できなかった。

 一階と二階とに、エジプト、ギリシャローマ、オセアニア、西洋中世、近代、現代、アメリカ、アジアなど計20ほどのセクションに分かれていて、それぞれが、モーレツに広く、1つ~3つの出入口をもった多数の部屋に分かれていて、迷路の秘宝館と言えばぴったりである。初日チケットを買って、そのままなんとなく入っていたのがエジプト部門で、入るや否やもう全身鳥肌。何万年前の石器から末期王朝の前まで、けっこう飛び飛びに3分の2くらい見たところで、すでに昼の1時を回っていた。焦った。ゆっくり見てはおれない。大急ぎで館内のカフェで昼食をとり、ただちに近代西洋絵画部門へ。しかし、そこまで行く途中、アジアの壺などの名品が並ぶ通路を通るさ必然的に足が止まり、また、中世美術部門の一角をさらっと通り抜けることはできなかった。中世美術がこんなに素晴らしいとは。しかし、刻々と時間が過ぎる。冷や汗が出る。とても一日では無理だ。近代絵画の部屋に到着したのは、もう4時ごろだったか・・・というようなことで、とうとう三日連続でMET詣でをする羽目になった。

それでも、結局は幾つかの部門は断念せざるを得なかった。一個一個に時間をかけてしっかり見たい、しかしそうすればするほど多くは見れない。館内はかなり冷房が効いているが、時間との戦いで熱い汗がでる。だんだん眼が痛くなって、終わりごろには目がかすんでくる。足の裏が痺れてくる。だがもうここへ来ることはあるまい、そう自分に言い聞かせて、全力を尽くす。

ギリシャのものはずいぶん沢山あったな。英仏はおもに武力で、遅れてきたアメリカ帝国は財力で、世界のお宝を手に入れたのだな。一財産を築いた長者が美術品を蒐集し、死後美術館に寄付するというのはいいことだ。おかげでわれわれはこれらを見ることができる。ギリシャの壺はなんでこんなに集めたのだろうと思うほどある。そういえば、愛知万博があったとき、ギリシャ館で見た壺が気に入った。よくできたレプリカで、きっと最後の日に展示品の一部は売ってしまうのではなかろうかと期待し、最終日に行って、これを売ってくれと言った。しばらく係員は上の者と相談した。10万円で売りましょうと答えた。馬鹿言え、模造品にそんな高値をつけるんじゃない!(もちろん本物なら1ケタ違うだろうが) 2~3万なら買うつもりだったような気がする。が、今思うに、とにかく買わなくてよかった。ギリシャ人め、楽して儲けようとするから、今のような危機に陥るのよ。

ただ一か所、非常にイヤなところがあった。最後の日に入ったアジア部門だ。ここは、入口からしてアジアは中国なりというような雰囲気になっていて、いわばこの中国館に入ってからしか、朝鮮やとくに日本のものを見れないようになっている。この造りからして、朝鮮・日本は中国の属国か一地方という印象を与える。しかも、ここ中国館は、今だけかもしれないけれど、他の部門とは違って、がんがん音楽を流して、スポットライトに照らされた現代アートを所々に配して、古代の貴重な器物は、えらく暗くて、たとえばあの周~漢の青銅器などはよく見えない。小生はこの趣味の悪さに吐き気を催したので、中の方にはとても入っていく気がしなかった。

たしかに、古代アジアにおいては中国が圧倒的な文明を誇っていたし、日本をはじめその周辺の国々は中国をお手本として文明を築いてきたことはたしかである。だからといってあたかも周辺の国々が中国の属国のごとき印象を与え、あまつさえ今の中国の発展を誇示するような、派手なパフォーマンスが許されるのだろうか。しかもここは美術館であるはずだ。日本は独自の文化を築いている独立国であることは聖徳太子以来の国是であることを知ってほしい。

少し前、中国主導のAIIBにヨーロッパ各国は参加の意を表明した。あのときのイギリスの身の変わりの早さには驚いたが、政治経済とはそんなもので、西欧諸国の強欲は今に始まったものではない。METもついに中国の財力に参ったか、と思わずにはおれない。

さらに、情けなく感じたのが日本ブースだ。中国ブースがガンガン変な音楽を流しているからだろうか、日本ブースに入る入口にはガラスの扉がある。MET広しといえど、扉があるのは、ここだけだと記憶する。おかげで、疲れた鑑賞者は扉を押してまで、入っていく気がしない。ガラスの向こうの地味でさえない所に入って行く気が起こらない。とくに外国人はそういう気持ちになるであろう。じっさい、入ってみると中は閑古鳥が鳴いている。ここがたぶんMET中で一番閑散としている。派手さで集客している中国側から見ると、もう文化果てる極東の小島という印象を与える。

しかも、何か知らんが、お宝も冴えなし、配置がいかにも悪い。れっきとした歴史をもつ日本文化が分からない。例えば、入って即、鎌倉期の仏像が一体立っていて、扉のすぐ横には二十個くらいの根付が並んでいる。どういうつもりだろう。根付は立派な日本文化である。江戸、明治~現在に至るまでを、もっと沢山、詳しい説明を付して、並べるべきである。しかも平安時代以前のものはなかったような気がする。絵巻もあまりなかった。鎌倉~江戸期のものが、ブースの初めから終わりまで混然、雑然と置いてあるのみだ。見ていると泣けてくる。

小生が考えるに、まず入り口に、スポットライトで照らされた縄文の火焔土器を、赤毛氈の上にでもでんと置く。それから、縄文から始まって、各時代の代表的なお宝を並べる。とくに焼き物の変遷、多様性は、わが国は世界随一だ。いま日本でやっている大英博物館展の百点の中に、朝鮮物の茶碗で日本で金継ぎしたものがあったが、あれはものすごく素晴らしい、割れた茶碗をあのように、模様を付した金で継いで、さらに一段と素晴らしい美術品!と見なした日本茶人の感性に脱帽だよ。あんなのも並べたい。江戸時代は、斬新な柄の着物をいっぱい並べる。ギリシャのブースでは、壺がこれでもか、これでもかと、腐るほど並んでいるのに! 大量の根付を北斎漫画の近くに並べる。それによって日本人の創造的・楽天的なユーモアのセンスを見せつける・・・
まあここでぐだぐだ泣き言を言ってもしようがない、METは日本の美術品をあまり重要視していないのかもしれない。とりあえずEmailで意見しておこう。


 

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クチナシの香 2

それから一年もしないあいだに、お婆さんは他界されたのだのだけれど・・・

 とにかくその鉢植えをもらってから、しばらく、たぶん1週間かそこら、小生はこのクチナシの香りを楽しんだ。ところで、ちょうどそのころ梅雨っぽい日々のつれづれに、一冊の本を読んでいた。その本のおかげで、小生は、明るい南国の空の下、芳しく色彩豊かな花々や優しい瞳に囲まれた、自由で怠惰な、そして神秘な日日に、遠く想いを馳せていた。その本は、ポール・ゴーギャンの『ノアノア』(タヒチ紀行)。

 生来の遊惰なたちである小生。その学生生活の夢見心地の真っただ中に、クチナシの香りがやってきたものだから、夢から覚めるどころか、(タイミングが悪い!)、夢の中で、現実感覚(クチナシの香)と美の世界(ゴーギャンの作品)とが、分かちがたく繋がり合い、溶け合い、放置するままに、年年深めあって、固定観念のようになってしまった。

もはや小生、現実にそんな桃源郷のようないいところはないととっくに観念しているが、思えば、人は、むしろ勤勉な人は、終生心に南国の海と空をいだいていて、定年後は向こうに移り住みたいと考えている人がけっこう多いと耳にする。

 いま思うに、たしかにゴーギャンは、その昔、この地上に生きていたし、彼がタヒチ島に足を踏み入れた時はすでにフランスの植民地になっていたはずで、ひょっとして彼は、南国の夢など見ていなかったのかもしれない。そして絵画は絵画であって、つまり作品の制作という手仕事には、われわれの預かり知らない実際的な工夫・努力が必要であって、それはこちらの怠惰な夢とは何の関係もないはずだ。小生は『ノアノア』に騙されていたのではなかろうか。あるいは勝手に放蕩の夢をいだいていたのではなかろうか。この期に及んで、ふとこんな疑問が浮かんできて、もういちど彼の作品に接しなくてはならない・・・。

 西洋絵画集で、主だった画家の作品を注意してざっと見ていくと、19世紀に入って、とくにドラクロワでもって、絵画はぐっと変わってくる。それはあえて言えば、色彩の配置、そのダイナミズムとでも言おうか。その後、印象派の衝撃の真っただ中で、モネなどはその道を極端に推し進めたが、むしろ印象派の影響から脱しようとして、幾多の個性的な才能が花開いた。そしてゴーギャンは一つの曲がり角、と言うよりも、彼をもって一つの大きな新しい枝が出てきたように見える、と言えばオーバーであろうか。

光を捉えようという革命的視覚実験の、あたかも巨大な新花火の爆発実験の余波を受けて、画家たちは、それぞれの資質に応じた問題に、不本意にも見舞われることとなった。その問題とは、たんに視覚的な問題ではなく、結局むしろ思想的と言っていいような問題だ。つまり、物を見るとはどういうことか、対象を描くとはいかなることか、目によって物の内奥を捉えることができるだろうか。自然に触れようとしている自分とは何かなど、うまく言葉で表すことはできないが、とにかく存在の根源に迫るような問題に触れなくてはならなかったように思われる。

ゴーギャンの新しさは、色そのものが一つの意味を、思想をもっているように描いたところではあるまいか。彼の大胆な色彩画面が、幻惑的な装飾とあいまって、何物かと戦っているように見える。小生は彼の自画像を好むが、それらは彼の表そうとしたところと隠そうとしたところの、微妙なせめぎ合いから生まれてきたように見える。

彼の『私記』のなかに、ストリンドベルクのゴーギャンへの絶縁状のような手紙を読むことができる。彼は書いている、「ゴーギャンは、窮屈な文明を憎む未開人であり、創造主を妬んで、暇をぬすんで小さな創造をする巨人のようなものであり、他の玩具を作るために自分の玩具をこわす子供であり、大衆とともに空を青と見るより、赤と見ることを好んで、否認し、挑戦するものである。」じつにその通りと思う。誰でもゴーギャンのヨーロッパ文明への憎悪、未開人の美の発見を口にする。しかし、彼はタヒチ島にのがれて満足を得たのであろうか。否。

彼が好んで表そうとした大胆不敵、不逞の裏に、彼のふと顕れる繊細さ、しかもそれをあまりにも平気で表すので、かえって人はそれに気付かない。そんな気がする。だから複雑そうに見える彼の性格は、じつはあまりに率直であることからくる、と言ってもよいかもしれない。今回、『私記』をあらためて読みなおして思うに、これは、百パーセント文字通り、信じて読まなければ、きっと間違うと感じる。
ゴッホについて書かれた部分は、こんなくだりで終わっている。「ジャン・ドランは、その著『怪物』のなかに書いている、『ゴーギャンが〈ヴィンセント〉という時、その声はやさしい』と。そのことを知らなくても、よく見抜いている。ジャン・ドランは正しい。そのわけは人が知っている。」 どんないきさつがあろうとも、ゴーギャンがゴッホと、たった二カ月といえど、生活を共にしたのは、偶然とは思えない。かれが、アルルにいるゴッホの呼び掛けに応じたのは、「ついにヴィンセントの真剣な友情にほだされて」と、さらりと書いてはいるが、じつはゴーギャンの心の最深部が望んで応じたのではなかったか。そして彼はそのことを充分意識していたと思われる。

世人は、ゴッホの異常性やゴーギャンとの付き合いについていろいろな事を言うだろう。しかし、ゴーギャンは、あらゆることについて、一切弁解がましいことは口にしなかった。それは、当時のヨーロッパ人の常識にたいする侮蔑のゆえである。彼は、ゴッホの発病後にふれて書いている「精神病院にいれられて、何カ月かの間隔をおいては充分な理性をとりもどし、自分の身の上を理解したり、人も知るあの驚嘆すべき何枚かの作品を、嵐のように描いた人間の、かぎりない苦しみだけは言っておきたい」。

ゴーギャンには、タヒチに行こうと、どこに行こうと、逃れられないものがあった。それは、当時タヒチ島はフランスの植民地であり、すでに文明人に侵されていた、という意味ではない。それは、彼自身の内部からくる強い反抗心であり、それは無限の海のような原始への尽きせぬ苦しい憬れではなかったか。

フランス人の父とペルー人の母との混血の彼は、少年にしてすでに大西洋を行き来し、その船中において父を亡くし、17歳にして見習い水夫となり、南米航路についている間に母を失っている。彼が本格的に絵画修業に乗り出したのは35歳を過ぎてからだ。43歳パナマに脱出。タヒチ島行きが叶うのは43歳のときだ。

こころ自由(まま)なる人間は、
とはに賞づらむ大海を。
海こそ人の鏡なれ。(ボードレール)

しかし、彼を南海に駆り立てたものは、いわば文明のくびきへの反逆であり、この傲岸不遜のポーズをとらざるを得ないようにしているものは、むしろ深い悲しみであった。彼の絵に反逆を見ることはできない。むしろ祈りとも悲しみとも見える。小生は、いまそんなふうに彼を理解する。『雪の日のブルターニュ』を、南国における死に際にまで筆を入れていたというエピソードを知って、いっそうその感じを強くする。

「モーレア島は水平線上にあり、太陽がそれに近づく。私は、ぼんやりとその悲しげな信仰を追っている。わたしは、これからも永遠につづく運動を感じている―断じて消えないであろう普遍の生命。
そして夜がくる。すべてが憩う。私の眼は、私の前を逃げてゆく無限の空間のなかに、ぼんやり夢を見るために閉じられる。そして私は、私の希望の悲しい進行を心楽しく感じている。」



   くちなしの香りのもとは幾重なる
       真白き花のなかにやありける


     


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クチナシの香 1

 
   この香りそのみなもとはいづくにと
          問へど白々くちなしにして

 わが家には、花の大きさが異なる三本のクチナシの木がある。一本は地植え、小ぶりの花をつける二つは鉢植え。いずれもそこら辺りからちょっと失敬して、挿し木から育てたものだ。

クチナシ小1 クチナシ大

以前にもこの香について触れたことがあるけれど。

 いつもこの季節、初夏の光の輝きをうけて、白い花を咲かせ、甘い、クリーミーな香りを放つ。家族はあまり好まないが、この香は、小生にとっては、ある思い出と分かちがたく結ばれていて、どうしてもこの季節、その思い出にふけりたいという思いからのがれられないのである。

 しかし、この香を嗅ぐとき、本当にあの時のこと、あの時に育んだ夢を思い描いているのであろうか。いや、どうもそうではないようだ。けっして、あの時のあれこれのいちいちを思い出しているわけではない。何となく漠然と、もっと正確に言えば、香そのもののが、いまだ映像として浮かびあがってくる以前の情動を包含していて、そこにはせいぜい形をなさぬ諸ニュアンスが遥曳しているだけのようであって、そして、後になってはじめて、たとえば人に説明でもしようして、その情動に問い合わせをする。そうすると向こうから答えが帰ってくる。だからうまく問い合わせをしたいものだ。〈思い出す〉とはそういうことのような気がする。

 ・・・それは、小生が大学に入った年のことであった。江戸川の近くに下宿先を決めておいた。4月には修繕が終わるはずのその家は、工事が遅れていた。大家さんは今まで住んでいたその家から、隣の新築に引っ越しをしていた。それで、大家さんは、あと1~2カ月、修繕が終わるまで、近くに仮の下宿先を手配したので、とりあえずしばらく、そこに逗留してくれと連絡してきた。

 その仮の下宿先というのは、そこから歩いて2分くらいのところにあり、黒っぽい連子格子をしつらえた、古いがっしりとした家で、いまから思うと明治期の建物と思われる、その家の玄関脇の暗い8畳か12畳くらいになる二間続きの部屋があてがわれた。どうせ一時の仮住まいだと思い、机やタンスの置きどころが定まらず、部屋の一角に運び込んだまま置いておいたような気がする。布団は広すぎる部屋の真ん中にひいて寝た。

 もとより下宿人をおく意図のない大家さんというのは、80歳くらいの老婆の一人住まい。ほかに下宿人はなし。さすが、最初に挨拶に行ったときは、この老婆の娘という人が応対してくれた。この娘家族はここから車で30分くらい離れたところに住んでいるという。

 学校から帰ると、暗い広い部屋に居て、なんとなく落ち着かない。しんとした家で、ラジオやレコードをあまりかけるのも、お婆さんに悪いような気がするし、勉強したり本を読むという雰囲気でもなかったから、やたら外出し、その辺りを散歩しまくっていた。そこは広々とした江戸川沿いで、土手からの景色はとてもよかった。富士山が朝は朝日を浴びて大きく見えた、夕ぐれは夕日でシルエットになって、黒々とした富士は小生の暗い心の中心のようにも思われて、ためにいっそう周囲の夕焼け色が華やいで、飽きず眺めたものだった。

 しかし、たぶん数日もしないうちに、お婆さんも下宿人のことを気にかけていたのか、小生が部屋に居ると、声をかけてくれるようになった。お茶でも飲みませんか。―その声を今でもはっきり思い出すことができる。―たぶん小生の部屋の隣の部屋だったと思うが、角火鉢だったかどうか、これまたハッキリしないけれど、火鉢には鉄瓶がちんちんと鳴っていたような・・・子供のころの記憶とごっちゃになっているかもしれない。お婆さんは小生を火鉢の脇に誘い、そこでお茶菓子をだしてくれた。

 この老婆は、「高砂」によく描かれる姥のように、細身・小柄で、髪型から着物まで典型的な昔の老婆であった。顔はシンプルな雛鳥のようで、歳のわりに(じっさい何歳だったか思い出せないが)目がはっきりしていた。動作も声もしっかりしていた。火鉢の炭火で煙草の火をつけ、目を細めて、さも美味そうに煙をくゆらし、話もなかなか洒脱であった。だから小生も窮屈な思いはしなかった。「学校はどうですか」「食事はどこで」「ストリップ見に行きますか」など訊いたり、関東大震災の写真を見せてくれたりした。

 かくするうちに、2カ月ほど経って、件の家の修繕は終わり、小生は予定どおり引越することになった。すぐ近くだったから、友人がリアカーを借りて手伝ってくれた。その日は小雨が降ったりやんだりで、友人が牽くリアカーの後姿がなんとも寂しげであった。小生の気持ちは、しかし〈ちゃんとした〉明るい六畳間に自分らしい巣をつくる期待が大きかった。

 前置きが長くなったが、その後である。ちょうどこの季節、だから小生が引っ越ししてから1カ月後くらいであろうか、お婆さんが小生の下宿にやってきて、これをあげると言って、植木鉢いっぱいに真っ白い沢山の花をつけた植物を下さった。その香りは音楽のように、ぱっと六畳の部屋に満ちた。


       

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『日本霊異記』

『日本霊異記』の著者は、景戒というお坊さん。時代はだいたい聖武天皇から嵯峨天皇あたりまで生きた人だ。それでこの本は、ちょうど『万葉集』が世に出た時と同じころ書かれたものだ。

 雄略天皇の御代の雷神の話から始まって、桓武天皇の御代の僧の転生話と平城天皇賛に終わる。多くは、8世紀、聖武天皇から桓武天皇の御代における怪異な話だ。この時代は大変な時代であった(いつの世も大変だけど)、とにかく戦乱につぐ戦乱、そして飢饉と疫病の蔓延で、民衆はちょうど山上憶良の貧窮問答歌さながらの状態であったろうと思われる。だからこそ、聖武天皇は巨額を投じてでも大仏を造らねばならなかったし、だからいっそう民衆の生活は苦しくなる、しかし頼るものとては仏の慈悲しかない。

 なんでこんなに苦しい生活をしなければならないのか、きっと悪いことをした報いに違いない。この本の正式名は『日本国現報善悪霊異記』というのだそうで、つまりこの世でのわれわれの行いの善悪によって、その報いがもたらされる。そのような不思議な話を聞き集めたものである。しかし、報いは一代限りではなく、世代を越えてもたらされる。前世で悪いことをしたものだから、今世で苦しい思いをする。そんな話もある。

 ここでの116の奇怪な話は、似たような話が多く、いくつかの類型に分けられる。乞食僧に施し物を拒否した者が悪い死に方をする、お経をあげることによって、あるいは仏像を作ったり、写経をしたりして、罪や困難から救われる。一時的に死んで地獄に行き知人に遇って話を聞く。役人が税金を過酷にとったり誤魔化したりして、地獄で相応の苦しみをする。

 神道は外道だと排斥する話もあれば、生贄を行う異教を捨てて仏教に帰依せよという話もある。概して、神道の神や巫女は神通力があるが、転生やあの世の報いなどに関しては、何の力をも持ちえない。心の善悪や平等というえらく道徳的な話もあれば、現世利益のための信仰を勧めもする。中には、閻魔大王の使いに対して賄賂を推奨する話もある。吉祥天女像のような美しい女が欲しいと願うあまり、ついつい無意識裡に天女像と交わってしまったお坊さん、事がばれて恥ずかしい思いをする、しかし作者は一途な信仰は叶えられると結んでいる。まあ、おおらかというか、ようするに、話はハチャメチャであって、当時の一般民衆がいかに迷信を生き生きと生きていたのかを想像できて面白い。

 それぞれの話は、どこの何某がいついつ、という言葉から始まる。中には、具体的な有名人も出てくる。藤原仲麻呂の乱で功績があったとされる佐伯伊太知は、地獄で閻魔大王にひどく鞭打たれている。傍らの人が理由を訊くと、大王の書記官が言うには、伊太知は生前おこなった善いことと言えば、法華経の69384文字を書き写しただけだが、悪いことはそれよりもっと沢山したからだと答えている。もっとも有名な話は、例の称徳天皇と弓削の道鏡の不倫の話だろう。こういうところを読むと、いまの週刊誌のようで、一の事実から百の面白い話を創作したように感じられる。

 この作者、景戒という人は本当に信仰があったのだろうか、といぶかる。終わりの方で、彼は懺悔して曰く、「ああ、恥ずかしいことだ。せっかくこの世に生まれてきたけれど、生きる手立てに苦労する。因果応報のゆえか、愛欲にまみれ、煩悩の生活を繰り返し、あくせくして身を焼き焦がしている。僧といっても俗生活をしていて妻子をも養わねばならないのに、常に衣住食にこと欠き、安らかな気持ちになれない。昼も夜も餓え凍えている。わたしは前世において他人に施しをしなかったのだ。いやしい、さもしい自分だ」と。

 そうして彼は夢を見る。夢の解釈にいろいろな辺理屈をつける。その後、彼のお堂が狐に荒らされたり、息子や大切な馬が死ぬ。これは何の前兆であろうか。陰陽道や天台の哲理の事はよく解らないし、まだ勉強もしていないので、それを避ける術も知らない。ただただ歎いているだけである、と述べている。

 いまさら陰陽道もなにもないではないか。それなら、彼は他人には因果応報や仏の慈悲について説いても、じっさい彼自身はついに、いろいろな考えに迷わされていたのではなかったか。というよりも、むしろ因果応報を考えている限り、確信に至る道は閉ざされているのではないか、と考えさせられたりもする。


     

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政治音痴の感想

 テレビや新聞で、よく集団的自衛権の問題を見る。なんであんなことが問題になるかとふと思う。それは、わが国が自分の力で自国を守れないという不安感のなさしめるところではないか。

 同盟の誓いなんて、過去を振り返れば一目瞭然、いざとなったらいかなる国が他国を守るか。アメリカなんかは、裏切る前に、いろいろともっともらしい理屈をつける。よく言えば、外交に強い。ロシアなど多くの国は、どうどうと先ず裏切る。後で下手な理屈をつける。ずうずうしいから他国から嫌われる。

 では、どうすればいいの。とりあえず自分(わが国)は強いという自信をもてるようになるべきだ。いざ戦いになっても負けないという自信を持つこと。初めから誰かに頼らなくてはならないという考えを捨て、いつも毅然とした態度を見せられるよう訓練すること。

 強力な軍事力をもつということではない。現在毎日のように、大量のハッカーが世界中の政府や大企業などに入り込んで、じつに手の込んだ方法で情報収集や破壊活動を行っていると聞く。今日の新聞にも、日本年基金機構の流出事件は中国系だとアメリカの会社が断定したとある。これは、小生の目には戦争準備状態に見える。先の大戦からはっきり判るが、軍事力のハードの部分は必要ではあるが、それより諜報力がモノを言う。

 70年前、世界最高のハイテク戦艦であった大和・武蔵も、その位置・動きは把握されていた。そもそも、ミッドウエー戦以来、わが国の通信はほぼ傍受解読されていたというではないか。それなら、いかな大和・武蔵も鉄くずに等しい。

 そういう意味でも、核戦力は不要であると考える。ついでに言えば、そんなもの持っていたって、正常な人間なら使えっこないし、朝原やビンラディンやイスラム国に洗脳された子供らなどキチ○○の手に渡ったら、こんな地球が滅びても構わぬと考えている奴らに、こちらの核武装が抑止力となるはずがない。

 むしろ、大事なことは、他国の核や化学兵器の施設やミサイル基地がどこにあるか、ミサイルや潜水艦が今どこに向かっているかを、正確に丸裸に把握する情報収集能力を持つことが、強いことの秘訣ではないかと思う。兵器は通常兵器でいい、とは言っても性能はいいに越したことはない。

 したがって、小生の提唱は、まず強力な諜報員の養成。バイリンガル・トリリンガルの人間が多くいれば、その中から優秀な諜報員が出てくる可能性が多くなる。育ちのいい日本人は諜報活動ときくと顔をしかめるが、要するに優秀な外国人と親しくなることだ。子供の内から外国語ができるようにしたいと考えている大人が多いご時世は結構なことだ。

 そして、スパイ衛星など情報収集ハイテク技術の絶えざる改良が大事だ。先に言った、他国の軍事施設の場所を正確に知ることと、パトリオットのような迎撃機械をわが国のあらゆる所に配置すること。ハッカーに対しては、遮断はもちろん、偽情報流し、逆探知破壊などの巧妙な対応ができるよう、強力な専門家を早急に養成せねばならない。毎日、わが政府高官の通信や企業秘密が外国に垂れ流しになっていると思うと、残念でならない。

 これらはすべて、他国に戦争を仕掛けるためではなく、あくまで万一の時の防衛のためであることを確認すべきである。まず防衛に自信を持てば、そんなに厳しい集団的自衛に縛られることはないと感じた。


     


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漫談 on Paris

やまと君 「そういえば、今年は年明け早々、パリで二人のイスラム教の信者二人が、なんとか言う雑誌社を襲ったけど、あの出版社なんというのだったかな」

パリ女 「シャルリエブドという週刊新聞社でしょ」

やまと君 「そうそう。そういう名だった。二人のイスラム教徒の若者が17人の命を奪ったのはショックだったけど・・・」

パリ女 「私もすごいショックを受けたわ。まさかパリでこんなことが起こるなんて」

やまと君 「でも、その新聞はいつもえげつない漫画を掲載していて、ムハンマドの風刺もよくやっていたというじゃないの。そりゃイスラムの真面目な若者は怒るよ」

移民少女 「そうよ。ひどいじゃん、シャルリエブドは。以前からイスラム教徒から抗議の声が上がっていたわ。あんなことを続けていたら、いつかはこのような事件が起こることは分かっていたはずじゃん。」

パリ女 「オー、マドモアゼル。でも殺人で仕返しをするのは最悪だわ」

やまと君 「そりゃ殺人はいかんな」

移民少女 「でも、そこまでイスラムの若者を追い込んだのがいけないじゃん。私らにとってモハメッドの絵を描くことすら考えられないし、まして面白おかしく風刺するなんて、無神経にも程があるじゃん」

やまと君 「そうだなあ。イスラム教徒がそんなに嫌がっているのに、教祖を辱めるような漫画を描くのも悪いよなぁ」

パリ女 「ムッシュー。フランスは自由の国よ。表現の自由を何より重んじるのよ。そりゃシャルリエブドはえげつないかもしれないけれど、間違っていると思ったら、どうどうと言論で反論すればいいのよ。それに、私たちイスラム教徒でない人間がムハンマドについて何と言おうとも、イスラム教徒が反発するのはおかしいわ。」

移民少女 「それにしても、私たちはパリに住んでいるのよ。一緒に住んでいるのに、私たちの神経を逆なでするようなことを、そう執拗に表現することはないじゃないの」

やまと君 「そうだなぁ。日本人なら、他人がそんなに嫌がっているのなら、あまり言うのはやめておこうと考えるだろなあぁ。」

パリ女 「だから日本は村社会って言われるのよ、ホッホッホ」

やまと君 「そうなんかなぁ。一番驚いたのは、あの事件の直後、フランス全土で300万人以上の人らが、〈私はシャルリ〉なんてプラカードを掲げて、表現の自由を訴えたことだな。そのときフランス大統領・・・なんという名前だったかな、それとドイツの首相やその他大勢の国々のえらいやさんたちも、一緒になってデモ行進したけれど、不思議な光景だな、なんか冗談かと思ったよ。」

パリ女 「オー、ムッシュー。これがフランスの伝統なのよ。わが国はずっと昔から、世俗第一主義、政教分離の原則があるの。ライシテっていうのだけどね。学校や公の場では、あからさまな宗教表現はいけないことになっているのよ。」

やまと君 「あの襲撃事件以来、フランス政府はその政教分離を学校でいっそう徹底させるべく、ラ・マルセイエズを歌わせることを推し進めているというじゃないか。これがどうもぴんとこなかたけど・・・。日本もこのごろ道徳教育だの国歌斉唱なんかを奨める傾向があるけれど、その意味はぜんぜん違うね、むしろ反対みたいだな。」

パリ女 「ウイ。ウイ。全然違うのよ。フランス共和国においては、道徳とは、宗教のもつ恐ろしい力から理性を守ることよ。それがラ・マルセイエズなのよ。ホッホッホ 国家の起源を神話や宗教に求めると独善に陥りがちだよね。そんなのからすっぱり手を切ったのだね、フランスは。国家はたんなる世俗的な統治機構とするのがスマートなのよ。ホッホッホ。」

移民少女 「フランスがそんなに道徳的な国ならば、どうして私たち移民二世・三世を差別するの。私たちは学校も職場も住まいもだんだん不利に・・・孤立化させられてきているじゃん。あの襲撃犯の若者たちも被差別感にさいなまされていたのよ。」

 パリ女 「ビアンシュール。べつに私たちは、あなたがたを差別するつもりはないわ。たしかに一部のフランス人は差別しているみたいだけど・・・。」

移民少女 「それを矯正することが先決じゃなくて」

パリ女 「政府は、今いかなる種類の差別もしないように生徒たちに徹底させようとしていますよ。これがラ・マルセイエズよ。ホッホッ。でもね、それには、まずいかなる人も、この国に住んでいる以上、この国の方針に従わなくてはいけないわ。ずっと前、イスラムの女学生が教室でスカーフをとらないので、退学させられたことがあったわね。あの処分は当然よ。」

やまと君 「あれはちょっと可哀そうじゃないのかなぁ。日本人だったら、べつに他人に迷惑をかけないならば、まあスカーフくらいしていてもいいじゃないのって思うけれどね。」

パリ女 「アロー。だから、日本人は平和ボケって言われるのよ。ホッホッホ。あんたがたは、2000年のあいだ海に囲まれて他国とそう酷い戦争が続いたことがないから、そういう発想になるのよ。私たちは、そりゃもう酷いものだった。宗教の名のもとに土地を巡って戦わない日は一日たりともなかった。戦争の原因の一つである宗教を政治から切り離すのはとても困難だったのよ。それをやっと百年前に法的に禁止するようになったのよ。フランスにとってこれほど重要なことはないわ。だから個人の信仰は尊重するけれど、公の場所でのあからさまな十字架のネックレースは禁止なのよ」

やまと君 「解ったけれど、だかといって、あんな不快な思いをさせる漫画新聞をよしとするのは、理解できんな。むしろ、あれは戦いを起こす要因の一つにはならんかな」

移民少女 「そうじゃん。あんな新聞記事が戦いを誘発するのよ。」

パリ女 「マドモアゼル。暴力はいけない。とくに現代のような、ボタンひとつでパリを消滅できるような時代ではとくにね。表現の自由は絶対だわ。もし不快な思いをしたら、言論で勝負すべきだわ。それが理性というものよ。そして論争でにっちもさっちもいかなくなったら、最後は気のきいたウイットで終わるのよ。それで両者は真の友人どうしになれるの。それがフランスのエスプリって言うのよ。ホッホッホ」

やまと君 「では訊きますが、他人に不快な思いをさせてもいいが、暴力はいけない、殺人はいけない、というのはどこから出てきたの。誰が決めたの。その根拠は何なんだい。」

パリ女 「自分の親や先生や尊敬する人の悪口を言われて不快な思いするのは当然であるとしても、それに対してさらっと流せる、あるいはそれに対して反論できるのがフランス精神よ。」

やまと君 「それは素晴らしい精神だとしても、わざわざその人の前で悪口を言わなくてもいいじゃないの。」

パリ女 「それを聞いて不快な思いをして、黙って胸の内にしまいこんで、いじいじしている人を、冴えない人とか弱い人っていうのよ。フランスではね。そしてそれがたまると、いつか爆発するわ」

やまと君 「でも世の中には弱い人もいっぱい居るじゃない。そういう人たちの心をつねに配慮して生きるのが、あなたに反発して言わせてもらえば、日本精神と言いたくなるね。とにかくわれわれは人情を大切にする。」

パリ女 「ホッホッ。例の日本人特有の、黙っていても意は通じるっていうのね。やっぱり村社会ね。一見素晴らしいわ。あなたたちは、いつも他人の目を気にして生活している。他人が自分についてどう思うかを第一に考えている。慎み深く、控え目で、美しいわ。だから、日本人はまとまりがいいのね。でも、われわれパリジェーンヌから見ると、だから日本人は個人として独立していないのよ。」

やまと君 「個人の独立と言ってみても、言葉だけ聞くと立派だけど、人は一人では生きておれません。人はいつも他人との心の交流の中で生きていますよ。僕から見ると、フランス人はわがままなんだな。わがままと言うのがイヤなので、格好をつけて個人の独立なんて言っているような気がするな。離婚が多いのはその一典型じゃないか」

パリ女 「あっはっはっは。おっホッホッホ。あなたたちだって、もっと自分で自由にものを考え行動できるようになったら、離婚も増えるでしょうに。」

やまと君 「でもね。あなたがたの言う個人の概念は、やっぱりキリスト教から来たものじゃないの、つまり全ての人は神の前では平等というのとパラレルだね。われわれ日本人は、私がいて、あなたがいて、誰誰さんがいて、皆それぞれその性格に応じて生きている。それで充分なんだ。べつに個人がどうのこうのとあらためて言う必要はない。そう考えると、個人を強調するあなたたちはやはりキリスト教文明の落し子なんだ。」

パリ女 「・・・まあ、起源のことを考えると、何とでも解釈できそうだし、今の生き方を問題にしている時に起源をもちだすのは野暮なことよ。ホッホッホ、まあ、それはそれとして、もう一つの問題、どうして殺人はいけないかって。それは、生物学的要請から来ているのよ。それを説明すると長くなるから、今日はやめとくね。またゆっくり話しましょうね。アビアントー。」





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『神曲』 2

 しかし見方によると、ここが一番面白いとも言える。ここにきて、いったいヨーロッパ中世とは何だったのか、と問わざるをえない。中世。年代的には諸説あるものの、概ね5世紀西ローマが滅んでから、15世紀東ローマが滅ぶまで。だが『神曲』を読んだ後では、小生はヨーロッパ中世を一つの理念でもって表したくなる。すなわち、キリスト教をギリシャ哲学で説明し正当化しよすとすること。プラトンの宇宙論をベースに、キリストの磔劇をアリストテレスの言葉で解明すること。全情熱が、ひとえにここに掛っているように見える。

 ローマ・カソリックに完全に帰依しているダンテに、ヴィルギリウスは言う、

「三位一体の神が司る無限の道を
 人間の理性で行き尽くせると
 期待するのは狂気の沙汰だ。
 人間には分限がある、『何か』
 という以上は問わぬことだ。
 もしお前らにすべてがわかるというのなら
 マリアがお生みになる必要はなかった。」

 三位一体説。これについてはかつて書物で調べたり、教会の神父さんに訊きにいったりしたものだが、小生の頭ではついに理解することができなかった。おそらく、さらに百年生きて考えても、小生には解らないと思う。たぶん、解らないように作られているのだ。誰も解ってはならぬ。

 しかし、天国におけるベアトリーチェはダンテに全てを説明しようとする。
アダムの罪はその子孫すべてを罪に落した。長いあいだ人類は下界で病んでいた。しかし、その時が来るに及び、神は、創造主から離れていた人性を永遠の愛の働きによって、神に、神の位格において、結びつけられた。人性は、創造主に結び付けられると、清純、善良になった。しかし人間が道を踏み外したので、天国から追放されていた。

十字架において科せられた罰は、キリストが帯びていた人性に照らしてみれば、正当な罰であり、この人性が結びついていた神の位格が蒙った非礼を考えてみると、不当な罰といえる。同じ一つの死を神もユダヤ人も喜んだが、その死によって、地が震え、天が開かれた。正義の復讐が、そののち正義の法廷によって、報復を加えられた。

 なぜ神はわざわざこの様な面倒な手続きをとったのかって。
 人間が楽園からの追放を回復するには、神が慈悲の心から人間を許したまうか、または人間が自らの手で決着をつけるかしかない。しかし、人間は自身で決着をつける力はなかった。そこで、神はその無限の愛によって、人間を許したもうたのみならず、人間が再び身を起こせるよう神自身をお与えになった。この演技こそ正義を成就するものである。これがキリスト劇の秘密であった。・・・そして、
 
 この宇宙のあらゆる物質は、神によって創られた力、すなわち形相力による。あらゆる動植物の魂は星星の光の運動が引き出したものだけれど、人間の魂には、神が息を吹き込んで、神(至上善)を慕うように創ったのだ。・・・よく解らないけど、そうなのですか。

 まあともかく、人類史において、人間に理性が突然目覚めた、そしてもっとも感受性が鋭くなった青春時代に、キリスト磔劇を目の当たりにして胸に深く刻まれてしまった。その後、ユダヤ人のある一派が、自分たちの神を巧みに利用して歴史を創った。その中心問題は決して解けない方程式だったのだ。世界を映し出していたオズの魔法使いは結局ばれてしまったが、三位一体の謎々はまだ誰も解いた者はいない。1900年の後、「真のキリスト教徒はキリストただ一人であった」と謎めいた言葉を残して発狂した哲学者もいた。

 どんなに善良な人であっても、もしこのキリスト劇を知らなかったなら、地獄に落とされていることになる。だから、プラトンやアリストテレスなどギリシャの哲人たちは、みな地獄にいる。とはいっても、彼らは何も悪事を犯してはいない。だから地獄にいるとはいっても、辺獄(リンボ)にいる。ダンテがあれほど慕ったホメロスでさえもリンボにいる。

 しかし、ダンテはやはり詩人であったと、小生は感じる。彼がどんなに中世的神学秩序を守ろうとしても、むしろそうすればするほど、彼の詩的創造力はその秩序をガタピシいわせている。そういう意味で、彼はすでに開放された新しい人間である。

 それにしても、『神曲』ほど、心の奥深くへ、地獄の底から天上の世界の果て、星星の世界まで、全宇宙の素材を駆使して物語った壮大なファンタジーを小生は、いまだ他に知らない。


     


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『神曲』 1

ダンテ作『神曲』というと、なにやら厳めしい、暗いキリスト教文学と想像するかもしれない。しかし、読んでみると、じつに面白い、奔放な想像力の傑作詩編だと感じた。むしろ、小生にはJ.ヴェルヌの『地底探険』やA.クラークの『地球幼年期の終わり』などのSFファンタジーを連想する。

そもそも神曲とは森鴎外の名訳であって、ダンテのイタリア原語では『Commedia』つまり『喜劇』であるという。たしかに、これが書かれた当時、1300年ころのフィレンツェで暗躍した人々が実名で登場してくる。彼らは、聖書やギリシャ神話などの登場人物と共に、地獄や煉獄や天国で、悔悟の涙を流したり、王党派と教皇派との対立、闘争について語ったり、いずれ現世に戻るべきダンテに頼みごとをしたりする。

 地獄、煉獄、天国にはそれぞれまたいろいろなレベルがあり、極めつけは、地獄の谷の最下層の状況だ。

「いま詩に歌うのも恐ろしいが、
 私はついに来たのだ、
 ここでは亡霊たちはみな氷漬けにされ
 ガラスの下の藁みたいに透けて見える。
 ある者は横たわり、ある者は起立し、
 ある者は頭で、ある者は爪先で立っている。
 そしてある者は弓なりに顔と足とを
 向けあっている。」

声も出ないほどの恐怖に怯えつつ先に進むと、彼はついに悪魔大王を見る。この巨大な帝王が氷地獄を創っている。この大王は色の異なる三つの顔と三つの巨大な対の羽をもっていて、羽を動かすごとに寒風が巻き起こり、氷は凍てつく。恐ろしい爪と歯は罪人たちを傷つけ、血だらけにしている。中でも最悪事を働いた三人が見える。キリストを裏切ったユダとシーザーを殺したブルータスとカシウスだ。(なんでや)

この絶望的に苦しい地獄から煉獄の地平に脱出するのが、またとても手が込んでいて、イメージしにくいのだが、それがまた猛烈に大胆なのだ。彼ら(ダンテとヴィルギリウス)は、悪魔の翼が広がった瞬間に、その毛むくじゃらの脇腹にしがみついた。そして毛を伝って下に降り、地殻の間へ這入り込んだ。そこは悪魔の腰間接のあたりで、そこは地球の中心であって、そこから先は重力が反転する。だから、ここからしばらくはダンテは上下さかさまの感覚にとらえられる。

天頂の真下にエルサレムがあり(北半球)、その天球の反対側に(南半球)着いたというのだ。そこをどんどん昇っていくと、向こうの夕方は、こちらの朝、いつしか小川が流れ、上の方に円い孔から外に出ると、星が輝いていた。・・・となる。

そうして、煉獄に踏み入れるのだが、そこでの薄明の描写が美しい。

「東方の碧玉のうるわしい光が
 はるか水平線に至るまで澄みきった大気の
 晴朗な面に集い、
 私の目をまた歓ばせてくれた。
 目を痛め胸をいためた
 死の空気の外へ私はついに出たのだ。」

そこからアルプス越えを思わせる急峻な煉獄の山を息急きって登りつめたダンテは、ヴィルギリウスの手を離れ、天国に入る。そこでは、『未知との遭遇』のように、光の饗宴が催されている。だからここではアポロン賛歌から始まる。ここで彼は最愛のベアトリーチェに導かれ、至高点に至る9個の天球をめぐり、キリスト教の奥義を教えられる。この天国篇が一番理屈っぽい。


     

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石ヲ好ム

 小生は昔から石が好きで、散歩をする時も空や家や植物を見るだけでなく、たえず面白い石はないかなと道端に注意しながら歩く。どこか旅行に行ったら必ずその地の石を持ち帰る。そして採取場所と日付を書きこむ。友人が旅行に行くからお土産は何がいいと訊かれると小さな石を拾ってきてくれと言う。だからいつの間にかけっこうな石持ちになってしまった。

 いまこれらを写真に撮って整理しようというついでに、ここに少しだけ紹介したい。

   天橋立2個
 これらはつい先日行った天橋立を歩いているとき、その海側の砂浜で拾ったもの。右はちょうど鶏卵の大きさで、花崗岩に見えるが、こんなに円くなるまで、いったい何千年・何万年のあいだ波に転がされていたのだろうと思う。
 左は、ひょっとして細石(さざれいし)ではないかと思う。違うかもしれない。表面をよく見ると貝やイソギンチャクのようなものの付着した痕がいくつかある。細石と言えば、有数の産地である岐阜県でとれたモノを以前に知人から貰ったはずだが、どこへ行ったか、家じゅう探しまわったが見つからない。大ショック。


   知多海岸石2個
これは知多半島の海岸で拾ったもの。よくあるパターンで、石が海辺の虫によってきれいに穴が穿たれている。右は鉛筆立てにしている。


   4種の石
 左上は御嶽山の頂上付近にあったもの、左下は鹿児島の海岸で拾ったもので、ものすごく軽い。右上は土佐桂浜産。右下の黒灰の石は、どーってことないそこらに転がっているようなフツーの石だが、25年くらい前か、母が春日大社の旅行から帰ってきて、「あんた石が好きやろ」と言って、小生に土産としてくれたものだから、とても捨てることはできない。


   パルテノン石
 左はギリシャのオリンピアの遺跡で、右はパルテノン神殿で拾った大理石。


   薄墨桜石
 これは岐阜県根尾村の有名な薄墨桜のすぐ横の露店で300円で買った菊花石。何日も布でこすっていたら綺麗になった。

   屋久島石
 これは屋久島の安房の海岸で拾ったもの。よくあるけど、ちょうど二種の層の部分が一つの石になっていて面白い。


   阿蘇・高千穂
左は阿蘇山、横から見ると赤色と灰色と二層になっている。右は高千穂産、ここの石はすべて直線的にシャープな割れ方をしている。


   宍道湖・本居
 左は宍道湖、右の白石は本居宣長の奥墓の前で見つけたもの


   紫式部石
 これはわが家の近くで散歩中拾ったもの。着物姿の女性に見えるでしょ。 銘 紫式部

 
ムーア石1ムーア石2ムーア石3

 この艶のある黒石は、わがコレクションの中で最高のものだ。親戚から貰ったもののような気がするが、入手先はなぜかハッキリした記憶がない。いわゆる那智黒だと思うが、自然石にしては表面がきれいすぎる。以前の持ち主が磨いたのか? 何が最高って、これほどの〈完璧な〉形はないであろうと思う。どう考えても、これほどの素晴らしい形はない。強いて言えば鞍形だが、どこからみても黄金比率というか、根源的な形というか、見れば見るほどに自然の奥儀に誘われる。これに較べたら全き球は恣意的な抽象的な完全性にすぎない。これは、正円の球に較べるとはるかに形として出来ている。ある芸術家が造ったのではないかと思う。 銘 ヘンリームーア


   矢じりなど

 数年前ある親戚から倉の隅に眠っていた大量の石をもらった。御先祖がやはり石を集めていたそうだうだ。ここには黒曜石、石器時代の矢じり、水晶、鍾乳洞の石筍などがある。他にも、知らない変わった石が山ほどある。


   雲母
これは雲母。御先祖が明治時代に北韓(今の北朝鮮?)で拾ったと裏に書いてある。妻の曾祖父は日韓併合前夜、明治43年ころからしばらく朝鮮の京城(今のソウル)にて勤務していた。


 こんな瓦の断片も残っている。
   正㤗瓦
裏にはこう書いてある。「明治45年2月22日 紫宸殿東側ニテ ○○○○(妻の祖父の名前)


 そして当時の日本や朝鮮のものらしい瓦などがたくさんあったので、しまっておいても面白くないから、玄関先の庭を華やかにし、毎日見れるようにした。

   庭瓦
   

 これも同じくその御先祖が、明治時代に拾ったもの。
    明治石


 左の白い石には、「明治38年2月5日父ニ□ヒ芸陽八木梅林ニ遊ヒ其傍ラノ河沙ニ於テ得之」と書いてある。たぶん妻の祖父の兄が書いたものであろう。

 右の赤石には、「明治辛卯(これは明治24年1891年)新嘗祭日(?)片岡兄登鞍島山得山嶺(?)此乃□□行之記念」とある。これを書いたと思われる妻の曾祖父は、まさか100年以上の後に、ひ孫の旦那が愛でてくれるであろうとは露ほども思わなかったに違いない。

 まあ、ちょっと変わった石を探して持って帰り、愛でる楽しみは安上がりだし、散歩や旅行をいっそう楽しくしてくれるし、しかも飽きることがない。

 しかし、石に興味がない家族にとっては、こんな大量の石が残されたら迷惑じゃないの、って声が聞こえる。そうだな、こんな道楽、注意しなきゃ。

   楽石注意、楽石注意(笑)



     


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真実と動き

 偽問2の系2

 われわれがふだん見ているところの世の動きは、真実在ではなく、虚像である、とプラトンは言う。あのギリシャの彫像の作者たちは一瞬の真実在を捉えようとしているようにも見える。ギリシャ人にとって、永遠とはエーゲ海の上の幻のような神々のものうい瞬間的な世界なのであろうか。

 それにたいして、キリスト教においては、永遠は絶えざる変革、絶えざる倫理的追求、絶えざる自己革新というダイナミックな動きである。彼らにとって、むしろ真実在とは動きであって、ほんらい形象は不要である。

 さて、われわれには第三の道が開けている。アキレスが亀を追い抜く。これをアキレスと亀だけに注意せず、全体像の変化として捉えると、どうなるか。たとえば画家ならそう考えるであろう。絶えざる変化を認めつつ、しかしそこに倫理的要素を混じえず、ありのままに肯定する。そこには一部を切り取るような恣意的な自己というものが消えている。むしろ自己も全体の中の一部として溶け込んでいる。ここには永遠なるものは問題にならず、無常が取って代わる。

 この自己滅却、爽やかな謙虚は、われわれ日本人が長く育んできた感性である。われわれには、キリスト教のような倫理的強さはないであろうし、ギリシャの現実から離れた晴朗な神々の世界も持たないであろう。しかし、われわれは動きや変化をそのまま〈無常〉として受け取り、その世界に身をゆだねる。そこから豊饒なる美の世界が生みだされる。「世界は美的現象として是認できるか」という西洋の問いは、わが国において自然にとうの昔に解決されている。
 

       


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昭和の日 2

 ああ〈昭和の日〉
 もろびとをしてこの時代に
 想ひをいだかざるをなからしめよ

 明治よりこのかたわが貧しき國は
 世界に伍さんと大陸に足を踏み入れ
 列強の批難を浴びぬ
 しかはあれども民草はみな互ひに
 思ひやり美しき言葉を話し、
 家を思ひて生業にいそしみ、
 日に夜をついで働きけるも

 ―いかなる星のもとなりし
 大いくさの始まれり
 若き兵士らは国を守らんと
 次々に山を駈け海をめぐりて
 命を捨てぬ 銃後の民草みな
 おのもおのもに汗流しけるが
 つひに力尽き国滅ぼされたり

 ここにわがスメラミコトは民草を
 守りたまはんとご一身をなげうち
 くにぐにを巡りたまひき
 などてスメラミコトは人と
 なりたまひしといふ声あれど
 人となりたまひてこそ民草の
 こころ動かさざりしや

 かかるがゆえに人人ふたたび
 胸を張り上を見つめ互ひ互ひに
 手をとりあって勤めをはたし
 やうやくに国土は立ち直りたり
 民草飲食豊かに絶ゆることなく
 日に日に弥栄えゆき

 ―いつしか平成の世となり
 人みなこぞりて足るを忘れ
 さらに物欲しげなる様子にて
 遊楽をきはめんと競ひあひ
 欲念の留まるところを知らず
 つひに浅ましき誇大な夢は
 はじけりて泡と消えにけり
 人々袖振り臥しまろび
 足摺しつつ歎けども
 還らぬは邯鄲の夢

 しかすがに浮かれ心は
 なほ消えやらず
 いにしへを振り返ることはなく
 おとなこどもも上も下も
 祝日を休日と取りたがへ
 さらなる逸楽をもとめつつ
 黄金週間などとうそぶきあひ
 安んじたるこのありさま

 わが父母よ 祖父母たちよ
 いかさまに思ほしめせか
 ―ああ〈昭和の日〉有名無実と
 なるぞ悲しき



       


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偽問2の系

 あらゆる動きはシンプルなものである。アキレスの歩みも亀の歩みも、現実の動きとして見た通り感じれば、分割できないシンプルな動きである。

 それを、量として、つまり平面の上の線として還元してしまうのが、幾何学であり数学なんだな。科学が成功するのは、その還元があってこそだ。

 それで思い出すのが、生物の進化の科学的アプローチだ。生命というのは、ほんとうに不思議だ。この地球上のあらゆる生命は種に分化して、それぞれの種は闘争したり、協力したりして、種としてとにかく生き延びようとしているように見える。細菌や昆虫や植物のみならず、あらゆる生き物は、あの手この手で、驚くほど手の込んだやり方で、なんとか生き延びようとしているように見える。

 おそらく地球上だけでなく、ほぼ無限の広い宇宙の幾つかの条件のよい惑星上であれば、同じように生命は其の惑星に住みつき、カビのようにまとわりついて、種として分化することによって、何とか環境の変化にも耐えて、生き延びようとしているに違いない。いったん生命がある所に生きる場所を見つけたら、何とかしてこの物質世界で繁栄しようとする。そう思うと、何のためにいったい、と不思議を通り越して、呆然とするしかない。

 で、この地球上にいる生物種の発生なのだけれど、例えば、蟻でもカラスでもなんでもいいけれど、コウモリを取り上げてみよう。コウモリはこの明るい世界で餌をとり合うなどの闘争を避けて、暗い洞窟に住む場所を見つけたという。ある時とつぜん洞窟にコウモリという種が何匹か無から発生したとは考えにくい。ある動物から分化して出現したのであろう。

 では、前コウモリの目が退化したのと、超音波装置を作りだしたのとどちらが先なのであろうか。ふつう目が退化していったから、それに代わる超音波装置を作りだしたと考えるであろう。なんで目が退化したかというと、暗いところで住むようになったからだ。それにしても、それぞれの時期があまり異なると死滅してしまうから、おそらくそれら、つまり暗い所に住む事と目が退化する事と超音波装置を持つこととほぼ同時でなければならない。たまたま出鱈目に重なったなどとは考えにくい。

 そして、一口に超音波装置と言っても、超音波を発する器官と、跳ね返ってくる超音波をキャッチする器官と同時に作らなければ意味がない。たまたまそれらが別々に偶然、意味もなく体に出現したなんて考えられない。つまり、それらは目的をもって全てが変化してきたとしか考えられない。少なくとも振り返ってみれば、そう見える。われわれは、この驚きから決して逃れることはできない。科学の分析がさらに精緻になればなるほど、むしろわれわれの驚嘆は大きくなるであろうと、小生は信じる。

 すべての生物の分化は合理的で、その変化は全体としてみるとシンプルなものである。それに対して、その流れを、科学的アプローチは細かく分断して、何枚もの画像を描く。その過程は複雑である。いったん微分したものを、後に積分して、動きを捉えたつもりになる。しかし、現実の動きそのものが抜け落ちている。ダーウイニズムとはそのようなものである。

 われわれは絶えず、現実の動きを認知する能力をもっている。その動きそのものを数学は捉えることができない。そして、われわれは逆に、動きそのものを一段と深く捉えようとする能力ももっている。それは動きを量でなく、動きそのものを、つまり質として感じる能力ではなかろうか。いわゆる芸術の源泉もここにあるのではないか。


     


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偽問 3

 言葉を〈現実〉から遊離しないようにしながら、もっとも洗練させていけば、詩と数学ということになろう。数学ほど純粋なモノはない。最も澄み切った水のようだ。しかし、その比喩はよくない。水ではなく、H2Oだ。いやこれでもまだ人間臭い。H2Oではなく、たとえば、0000110001とでも表そうか。

 前回のゼノンの問題も、数学ならこう表して、

1/2+1/4+1/8+・・・1/2^n +・・・∞=1

アキレスが亀を追い抜く地点と時刻を正確に予想する。現代数学者の頭の中では、われわれには想像もできないほど複雑難解な数式が展開されていようと、数学の現実との不即不離の関係をわれわれは信じている。なぜ、頭の中でのみ展開する抽象的な数学が実際に役立ち、それを信じることができるのか。

 それは、数学は世界のあらゆる質を量に還元して扱うことができるからではなかろうか。数学にとって、赤は700nmであり、青は470nmなのだ。これほど正確で役に立つ表現はない。

 しかし、「アキレスは亀追を追い抜くということ」に関する数学的解決に、小生は何かが欠けているという印象をもつ。それは何だろう。おそらく、そこには現実の運動がないのではなかろうか。では現実の運動って何だろう。一つ考えてもらいたい。

 もし、科学者に運動を生じて見せよと言ったとする。彼は、アキレスが亀を追い抜く映像を映し出し、それを経時的に細かく分割した映像を何枚も取り、われわれの目に非常に速く提示する。つまり映画の手法だ。それぞれの映像は一つ一つ静止画像だけれど、われわれはそれを動きだと認知する。このさい、〈本当は〉すべての画像は静止しているのだけれど、われわれは〈誤って〉認知している、と言える。

 すると、ひょっとして我々が生まれてこのかた、現実だと認識しているものは虚像にすぎないのだろうか。そう言えるかどうか?

ヒント:真っ暗なスクリーンに光点Aを映し出す。それを消して、ただちにその近くに光点Bを映し出す。それを見るわれわれは、光点がAからBに移動したと知覚する。

 この錯覚は合理的なものであるまいか。
おそらく生きるために有効な、脳がとった手段である。
手品師はこのいわば必然的な錯覚をうまく利用する。

必要な錯覚。ここから、次の系が導かれる。

1. 地域社会が円滑に保たれるために必要としてきた錯覚 

宗教 例えば、古代においては、地球上のどの地域においても生贄を必要とした。

2. 個人が円滑に生きるために必要としてきた錯覚

心理的機制 例えば、鏡に映った自分の像を無意識のうちに修正して見ている。


fabricationの諸相

 
          へっ


       




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音楽の力

 小生にとって音楽とは神である。自分の力ではどう抗いようもない力で迫ってくる。いつ頃からか、朝起きると決まって、頭の中に音楽が流れている。ジャンルはいろいろだが、比較的多いのは、子供のとき憶えた歌が多い。「はーるの、うらあらあの、すうみいだーがわー」とか「うーのはなーの、におう垣根に」とか、これらはいま春だからというわけはない。冬真っ最中でも「うーみは、ひろいーな、おおきーな」なんてこともよくある。子供の時のテレビ番組の「ホームラン教室」や「怪傑ハリマオ」、また「東京音頭」みたいなものも突然やってくる。映画音楽や、朝だのにジルベルトの「Quiet night of quiet stars」や、バルトークの「夜の音楽」やドビュッシーの「月の光」もやってくる。ワグナーの楽劇やらモーツアルトの白鳥の歌・・・、その他なんでも浮かんでくる。幸いそのうち消えていって、一日中それに悩まされることはめったにないが。今朝は、『椿姫』のアリアとセルジオメンデスの『ノールウェーの森』が交代でちらちら流れている。

 子供の時、体で覚えたものは死ぬまで忘れないものだとよく言われる。老人ホームにいる義母なども、さっき言ったことも忘れるのに、女学校時代に憶えた百人一首はいつでもすらすら出てくる。意味は解っているのかどうかわからないけれど。

 どちらかというと、わが生活は、とくに若いころは、行きあたりばったりの、つまりその時やりたいことを欲望に負けてすぐする傾向があったけれど、あるころから、おおよ20~30年くらい前か(えらく漠然としているね)、生活も忙しくなってきたためか、聴きだしたら止まりにくい音楽に関して、小生は計画を立てた。

それは、できるだけ音楽を聴かないこと。とくに好きな音楽は、偶然耳にしたとき以外は、あえて聴こうとしないこと。それらは、いつか自分に死期が迫ってきたときに、一度だけ真剣に聴こうと決めたのだった。というのは、いつでも何度でも聴ける状態だと、つい真剣に聴かないこともあるし、欲望は切りなく、そのとき飽きるまで何度でも聴いてしまう。だらしなく快感に浸る。こういった時間がもったいないと考えるようになったからだ。

その上もう一つの理由がある。それは、自然の音、風の音や川の流れ、鳥の声などが、じつに心地よく聞こえ、音楽を聴くように、これに聴き入ってしまうことがよくあるようになったからだ。ときには、鳥の声さえ聴いておれば、べつに音楽は要らないとさえ感じることがある。

 死ぬまでに、あと一度だけ味わおうと思って、じっと我慢して残しておいた音楽は沢山ある。いま数日に一曲くらいのペースでそれを聴いている。これが最後だと思うと、大いに感動し、あっこんな面があったのだ、と新しい発見もすることがある。逆になんだこんなのだったのか、聴かずに永遠によい音楽だと思い込んでいたらよかった、と思うこともある。

…しかし、何でも予定通り、そううまくいくとは限らない。やっぱりいかん。これをもう一度聴きたくなる。止めたはずの煙草を試しに吸ってみる人のように、欲望はどこからともなく復活する。

昨夜聴いたシューマンの三番目の交響曲だが、参った。何十年ぶりで耳にしたのだが、こんなに豊富な音楽だったと思ったことがあろうか。Youtubeで聴いたにすぎない。Dudamelという人の指揮だが、じつにシューマンの交響曲が音楽になっているのだ。こんなに纏まった、しかもこんなに豊富な思想をもった音楽に。

 音楽の力の前では小生は無力だ。「死ぬまで一曲一回」を守って、もう聴かないことができるだろうか、やはり誘惑に負けてもう一度聴いてしまうか、ここは考え所だ。体中から汗が吹き出る。



     


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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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