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いつ死ぬのか

ちょうど一年前の11月、このままだと、お前の寿命はとても一年ももつまい、と小生の腹を切り開いて、つぶさに内臓を観察した外科医は、小生に完全な黄色い銃(注1)を突きつけて、宣言した。

 それで、小生は自分の余命を半年と思い定めて、いちおう身辺整理らしいことをしたつもりである。しかし、予定の青葉若葉の季節を過ぎ、越すに越されぬと思っていた酷暑の季節さえ過ぎると、なんだか覚悟がゆるんできて、気の抜けたビールを飲んでいるような気持ちになる。こんな調子では、またいつものようにだらけた生活に戻ってしまうようで恐い。

 夏ごろはまだ、眠りにつく前は、明日は生きていないかもしれないと自分に言い聞かせ、朝目が覚めて空を見ると今日も一日が与えられた、ささやかながら楽しんで生きようと思った。しかし、この頃は、その日の充実より、いついつ紅葉をどこへ見に行こうとか、車を新しいプリウスに換えようかなとか、つまり明日のことを考えてしまう。もうじき死ぬのだと思う瞬間は、食事時の腹部不快感の時だけだ。

 それでも、ほんとうは内心は近々死ぬと思っている。主治医は余命半年くらいと言っても、たぶんそれは一年~一年半くらいのことだ。それに、だいたいそうなるケースが多いし。べつに何とかして寿命を延ばしたいという気概が湧いてこない。あと一カ月生きようと、20年生きようと、同じようなものだ。あとはいつものような喜びと苦痛を繰り返すにすぎない、と思ってしまう。どのように考えても残りの時間は決まっているのなら、こう思ったほうが気が楽ではあろう。

 もちろん、家族のことを考えると、もう少し生きて少しでも役に立ちたいとは思う。だからちょっとは薬を呑む。しかし、これはまったくの錯覚かもしれないとも思う。たぶん小生が居なくとも、それはそれなりに巧くやっていくだろうし、それどころか、小生が居ない方がうまくいくのかもしれないとも思う。まあ、すべては神のみぞ知る、であって、結局もう後のことはあれこれ考える必要はない。

 ところで小生の場合、きっと死ぬ直前までけっこう元気で居られるような気がする。それが嬉しい。うんと長生きしたところで、とても見苦しい体になって、おしっこチューブを入れられ、オムツをはかせられて、手足を振わせ、口からたわ言と泡を吹き、日夜、関節や臀部ジョクソウの痛みに苦しみ、そのうえ根性悪の介護員に痛めつけられるようになるだけだ。こんなことをしてまで国家予算を齧りつづけるのは、まっぴらごめんだ。そう思うと、ほんと小生は幸せである。

 考えてみると、小生ばかりではない、死はじつは誰にでも背後から迫っている。誰もそれが見えないだけだ。60歳を越えれば、体のどこかに血栓やガンが発生していてもおかしくはない。いや若い人だってそうであるし、明日交通事故に遭うかもしれない。しかし、だからと言って、そのことを心配してもしようがない。もちろん死というものを考えたい人は考えればいい。それも一つの面白いテーマではある。

 小生が人生でもっとも不思議に思うことは、人の死と誕生、とくに誕生だ。それに較べると、幽霊やUFOの出現なんてどうってことはない。赤子が母体からオギャーと生まれてくる瞬間ほど、小生にとって神秘的で驚嘆すべきことはない。人間の誕生は、この宇宙におけるまったく新しい花の創造であると感じる。なんでこの人の世は、こんなに色とりどりの、まるで永遠に回り続ける万華鏡のように、いろいろな人が生まれ続けるのか…まさに光彩陸離とはこの光景だ。


注1 完全に黄色い銃 = マッキガン(笑)


               

               
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テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

音楽の力

 小生にとって音楽とは神である。自分の力ではどう抗いようもない力で迫ってくる。いつ頃からか、朝起きると決まって、頭の中に音楽が流れている。ジャンルはいろいろだが、比較的多いのは、子供のとき憶えた歌が多い。「はーるの、うらあらあの、すうみいだーがわー」とか「うーのはなーの、におう垣根に」とか、これらはいま春だからというわけはない。冬真っ最中でも「うーみは、ひろいーな、おおきーな」なんてこともよくある。子供の時のテレビ番組の「ホームラン教室」や「怪傑ハリマオ」、また「東京音頭」みたいなものも突然やってくる。映画音楽や、朝だのにジルベルトの「Quiet night of quiet stars」や、バルトークの「夜の音楽」やドビュッシーの「月の光」もやってくる。ワグナーの楽劇やらモーツアルトの白鳥の歌・・・、その他なんでも浮かんでくる。幸いそのうち消えていって、一日中それに悩まされることはめったにないが。今朝は、『椿姫』のアリアとセルジオメンデスの『ノールウェーの森』が交代でちらちら流れている。

 子供の時、体で覚えたものは死ぬまで忘れないものだとよく言われる。老人ホームにいる義母なども、さっき言ったことも忘れるのに、女学校時代に憶えた百人一首はいつでもすらすら出てくる。意味は解っているのかどうかわからないけれど。

 どちらかというと、わが生活は、とくに若いころは、行きあたりばったりの、つまりその時やりたいことを欲望に負けてすぐする傾向があったけれど、あるころから、おおよ20~30年くらい前か(えらく漠然としているね)、生活も忙しくなってきたためか、聴きだしたら止まりにくい音楽に関して、小生は計画を立てた。

それは、できるだけ音楽を聴かないこと。とくに好きな音楽は、偶然耳にしたとき以外は、あえて聴こうとしないこと。それらは、いつか自分に死期が迫ってきたときに、一度だけ真剣に聴こうと決めたのだった。というのは、いつでも何度でも聴ける状態だと、つい真剣に聴かないこともあるし、欲望は切りなく、そのとき飽きるまで何度でも聴いてしまう。だらしなく快感に浸る。こういった時間がもったいないと考えるようになったからだ。

その上もう一つの理由がある。それは、自然の音、風の音や川の流れ、鳥の声などが、じつに心地よく聞こえ、音楽を聴くように、これに聴き入ってしまうことがよくあるようになったからだ。ときには、鳥の声さえ聴いておれば、べつに音楽は要らないとさえ感じることがある。

 死ぬまでに、あと一度だけ味わおうと思って、じっと我慢して残しておいた音楽は沢山ある。いま数日に一曲くらいのペースでそれを聴いている。これが最後だと思うと、大いに感動し、あっこんな面があったのだ、と新しい発見もすることがある。逆になんだこんなのだったのか、聴かずに永遠によい音楽だと思い込んでいたらよかった、と思うこともある。

…しかし、何でも予定通り、そううまくいくとは限らない。やっぱりいかん。これをもう一度聴きたくなる。止めたはずの煙草を試しに吸ってみる人のように、欲望はどこからともなく復活する。

昨夜聴いたシューマンの三番目の交響曲だが、参った。何十年ぶりで耳にしたのだが、こんなに豊富な音楽だったと思ったことがあろうか。Youtubeで聴いたにすぎない。Dudamelという人の指揮だが、じつにシューマンの交響曲が音楽になっているのだ。こんなに纏まった、しかもこんなに豊富な思想をもった音楽に。

 音楽の力の前では小生は無力だ。「死ぬまで一曲一回」を守って、もう聴かないことができるだろうか、やはり誘惑に負けてもう一度聴いてしまうか、ここは考え所だ。体中から汗が吹き出る。



     


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鎌倉に行く1

かつて本当に行ったことがあるのか、それとも夢の中で行ったのか、あるいはエピソードや写真からあたかも実際に行ったかのような記憶が作られていったのか、…そういう場所があるものだ。小生にとって鎌倉がその一つである。

 たしか、そのむかし鎌倉駅で乗り降りしたことがある、線路や混雑したホームの状況は浮かんでくる。しかし、鶴岡八幡宮はまったく記憶にない。大仏の前に立ったことがあるようなないような…、という感じで、じっさいには鎌倉には行ってないような気がする。

 福井の従兄弟が、彼の姉の嫁ぎ先の鎌倉へ叔母を連れていく、それに合わせてわが娘も鎌倉へ行くという、ならば小生もということで、鎌倉に向かった。電車を二回乗り換えて、鎌倉駅のホームに降り立ったとき、高架になっているし、周囲の雰囲気はあの時と違う、やっぱり来たことがないかな、と思った。しかし、あの時とはもう何十年の隔たりがあるから変わっていて当然だ・・・。

 従姉妹の嫁ぎ先の家は駅から歩いて6・7分の所にある。御主人にまず、駅の構造は昔と変わっていないかどうか尋ねたところ、変わっていないとのことであった。やはり小生は鎌倉には来ていないにちがいない。

ところで、さらに今回あたらしく勘違いをしていたことは、駅は高架だと思いこんでいたことだ。じっさいレールは地面の高さにあって、改札口が地下にあるだけなのである。このことを、帰って来てから頭の中でハッキリ確認した。この確認がなければ、あるいは確認しても、十年後にも、鎌倉駅は高架になっているという印象に強く支配され続けている可能性大である。

 親戚に行く前に、じつは先に北鎌倉で降りて、東慶寺に寄った。どうせ鎌倉に行くのなら、小林秀雄の墓参りをしておこうと思いたったからだ。参道の両脇には梅がまだ見頃で、それらの多くは概して、早くに成長を断念したような奇怪な小さな老木で決して美しい形ではない。しかし、それらが一様に参道に並んでいるところを歩いて行くと、わざとそのように造られたようにも思われて、こういう木訥というか、一見飾り気がないような、この感じがなかなかいいようにも思えてくる。これはこういう種類の梅なのか、狙って作ったものか、剪定はどうしているのか、今にして思えば、あのとき掃除をしていた庭師風情の二三人が居たが、その人らに訊いておけばよかった、残念無念。

東慶寺1  東慶寺2

 墓地と言っても平地にぎっしり並んでいるようなのではなく、大木が散在する苔むした山裾のなだらかな斜面に、墓石がぱらぱらと散在している。とても静かで、鶯などの鳥が鳴いている。ふだんから墓は要らぬと公言している小生でも、こういうところに眠れるなら墓もいいものだと思った。

   東慶寺3


この寺はもと尼寺で、縁切り寺とも言われ、女性のための駆け込み寺であったそうである。この寺の衒いのない柔らかい雰囲気はそのゆえであろうか。ちょうどやっていた仏像展を見て、帰りがけ目の前にある円覚寺にも寄った。ここはまた立派な山門をかまえた広い寺である。臨済宗の一本山、北條時宗の開基。座禅道場を有するとのこと。

 午後、親戚の家に行った。従姉妹はわれわれのために、うどんを作ってくれた。曇りだったけれど、御主人が由比ガ浜と江の島を見せてあげようと、車で案内をしてくれた。途中でとても車が混んでいたので、江ノ島までは行かず、大仏まで送ってくれた。この大仏さまは、見ようによってはえらく猫背で、長年の風雨の影響か眼の下が暗くよどんでいて、悩んでいるようにも見えて、また頬の辺りの継ぎが露骨で、ちょっと怖い印象を与える。

小雨がぱらぱらする中、すぐ近くの長谷寺へ。大きな金箔の十一面観世音菩薩像が力強く見える。奈良の長谷寺とはこの観音像の深い奇縁で結ばれているそうな。

  ありがたや 春雨けぶる 堂のうち

それよりなにより、ここには、巨木がいくつか立っていて、これに目を奪われた。

長谷寺


   観音の 威光を受けて 育ちけり

           

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ルーツ2

小生の父は養子である。だから小生は、母方の祖父母と一つ家で育った。とはいえ、祖父は小生が2歳のとき亡くなったので、はっきりした記憶がない。強いて言えば、一番古い記憶と思うが、自転車の前の方に子供用のシートが付けてあって、そこに乗せてもらい、田んぼに行って、あぜにしゃがんで手ぬぐいでメダカを掬ってもらった記憶がある、そのとき乗せていってくれたのが、ひょっとして祖父だったのか、あるいは父だったのか、定かではない。

 母や叔母から聞いているのは、祖父は小生が生まれると、三代目にしてやっと男の子が生まれてきた、めでたいことだと言って、とても小生をかわいがってくれたそうである。それで、小生は、はっきりした記憶がないこの祖父が小生を背後から守ってくれていると、いつしか信じるようになった。車の運転などで、ひやりとした経験をしたときなど、「あっ、お祖父さんが助けてくれた」と、つい人前でも口に出てしまうことがある。

 この祖父も養子であって、彼が生まれ育った所は、小生が生まれ育った家から7~8キロメートル離れた井田川という村だ。今は鈴鹿市に入っている。姓は宮崎という。祖父がわが家に来る前、じつは他に養子が決まっていた。しかし、その人が20歳になる前に結核で亡くなったため、急遽新しい養子候補を探した。なぜ宮崎家の二男である祖父がノミネートされたのか分からないが、宮崎家には12人の兄弟姉妹がおり、そのうち男子が○○人いた。当時、祖父は医者になるべく、東京の予備校で勉強していた。しかし、急遽わが家に養子になるよう要請されて帰郷した。わが家は代々、肥料商を営んでいたので、祖父はそれを継いだ。

 ところで、祖父の出である鈴鹿市井田川の宮崎家には、小生いつだったか…たぶん小学校の低学年くらいのとき2・3回連れて行ってもらったような気がする。その家の玄関先のたたずまいをはっきり覚えている。もう一度、そこを訪れたいと何時しか思うようになっていたが、是非にという気持でもなかった。

 ところが、12月だったか、ちょっと亀山市に用事で出かけたとき、たまたま亀山歴史博物館での講演会の予告ポスターに目がとまった。それは郷土の名士の一人である服部四郎という言語学者についての講演であった。演者はその人の御子息の服部旦(あさけ)という人である。そのポスターを見たとき胸が高鳴った。というのは、服部四郎さんは祖父か祖母の従兄弟であると母から聞いていて、小生はその繋がりを確かめたいという思いも頭の片隅にずっと残っていたからである。これは僥倖だ。もし、演者の旦さんに尋ねれば、その辺りの関係が判るかもしれない。

 そして、講演の日、3月1日が来た。講演の後、小生は旦さんに祖父母の名前を書いて、四郎さんとの関係を尋ねた。しかし、旦さんは分からない、しかしこの歴史博物館から少し行った鈴鹿市にある佐々木信綱記念館に藤田家の本と系図があるから、それを見ると分かるだろうと教えてくれたので、歴史博物館の係員にその本について訊いたら、すぐもって来て見せてくれた。それで、祖父と服部四郎さんとの従兄弟関係が明瞭に分かった。長年の便秘がすっきり治った気持であった。

   亀山1


 さらに、その直後たまたま祖父の甥にあたる人の奥さんであるという人に出会えた。そしてその人は、やはり藤田家系図のコピーと、わが家のアルバムにもある宮崎家の写真のコピーを持って来ておられて、それで確認させてもらった。その写真は、昭和16年1月3日に撮られたもので、祖父を含め12人兄弟姉妹が写っていて、この曾祖母の多産のゆえに表彰状が添えられている。

そしてなんと帰り、気にかかっていた井田川の宮崎の家を教えてあげようと、そこまで車で案内していただいた。 ああ、たしかに小生の記憶に残っているあの家だ。50年以上ぶりだ。そして今の当主にも会えた。確かこの人は、あの時まだ若々しい青年だった。昔のアルバムで知っている。向こうも小生のことをよく知っていてくれた。

   亀山2


 なんと実りの多い一日だったろう。神のお導きとしか言いようがない。後世のためにしっかり書き残しておけ、それがお前に託されたささやかな仕事だ、と言われたような気がした。



     


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ルーツ

わが家には系図が残っていて、それを見るとわが姓は鎌倉時代初期に作られたと書いてある。その経緯についても記載があって、『吾妻鏡』にも似たような状況が触れられていて、家名を重んじるご先祖が、こういう歴史書に関連づけて書いたのかもしれない。

 この系図によると、わが御先祖は室町時代には四国の讃岐に住んでいたことが判る。その時の何某が親に勘当されて(たぶん永享の乱(1487)で反幕府勢力についたためか)、京にのがれ、そこで知り合った朝倉氏に拾われ員弁(いなべ:現四日市市)に下った。7・8年くらい前、讃岐に行って祖先の菩提寺であったと思われる志度寺を訪ね、その頃の過去帳を見せてくれと頼んだが、そんな古い過去帳はもうぼろぼろで見せることはできないと断られた。

 なんでわが家にこの系図が残っているかというと、小生の5代前の杢米さんが江戸後期に員弁から家出をして鈴鹿の関に分家を為したのだけれど、その後、なぜか員弁の本家の重彦さんという人が明治33年に原本の巻物の系図を冊子に書き写してくれてあって、それがたまたまわが家に残っていたわけである。

 5・6年前に、この杢米さんが出てきた本家を知りたくて、苦労して見つけたことがある。昔庄屋さんをしていたという広い土地に一人で住んでおられた女性は、小生と同年代だ。そして重彦さんは彼女のお祖父さんとか言っていたが、しかし恐らく曾祖父ではないかと思う。小生の曾祖父母には実子がなかったので、彼女と同じ家系とは言え、とっくに血縁関係はない。

 ところで、小生と血のつながりのある父方の祖父母についての話は、父からほとんど聞かされていなかったし、そもそも父がどこで生まれたのかも知らなかった。つい最近になって、とは言っても10年くらい前に親戚筋から父は大阪生まれだということを耳にしたことがあったが、しかし父の死後、父方の親戚とは小生はあまり付き合いがなかったし、関心もなかった。

 ところが、2年くらい前、父の胤ちがいの弟が亡くなったとき、その奥さんから、相続の関係で戸籍謄本を見せてもらったのだが、そのとき父の祖父母が兵庫県出身であることを知って、大いに驚いたと同時に、彼らの生まれ育った所を知りたいと思った。例の如く、いつか行こうとは思っていたが・・・。

 祖母の出は、このたび改修を終えたばかりの姫路城郭のすぐ西側の材木町というところだ。旧姓を辿って一軒一軒を調べ、玄関の花に水遣りをしていたおじさんに尋ねても判らなかったが、まああのお祖母さんは結婚するまでこの辺りで育ったのだなと思ったことで良しとした。

  材木町1  材木町2
 


 ところが、祖父の出場所はよく判らなかった。戸籍に記されている住所は今はない。事前にインターネットで調べて見当はつけていたが、かなりいい加減で自信がない。それにあちこち歩き回ると疲れる。だからまず、叔母に見せてもらった戸籍謄本を出した竜野市(現たつの市)の役所を訪ねた。それが正解で、係員が調べてくれて、その場所は現在のこの辺りだと、ゼンリン地図を広げて、行き方を教えてくれた。

 その辺に行った。表札を見て回る。しかし、人影はない。全部の家を回ることは難しそうだ。かりにピンポンしても殆は出てきてくれまい、まあこの辺りということで良しとするか、・・・と思って諦めようとしたとき、近くの大きな家にお婆さんが入ってゆくのが見えた。これはチャンスと駆け寄り、かくかくしかじがの理由で石原家という古い家を探している、と訊いた。お婆さんは、この辺りには石原さんという家はない。しかし、たしかもっと南の方に石原という人がいたよ…、と言ってくれた。しかし役所で教えてくれた場所とはちょっと違う。どうしようと一瞬迷ったが、せっかくここまで来たのだから、行ってみることにした。

 それは、お婆さんの家から、1キロメートルくらいの所だろうか、広々した田園地帯で、田んぼの間に所々家がある。みな大きな家である。さっそく覗いた家の表札は、なんと石原であった。ドキドキする呼吸を整え、怪しまれぬために要領の好い説明を頭の中で繰り返してから、ピンポンを押した。

 ところが誰も出てこない。シーンとしている。門を押してみるが開かない。たぶん出払っているのだろう。しかたがないので、近くの家を当ってみる。と、次の家も石原だ・・・。そうか、この辺は石原一族の土地なのだ。きっと祖父の生まれた土地に違いない。そう思っただけでじんわりと喜びが胸に広がった。


  石原家2  


次の家にはピンポンがない。表門の引き戸を引いてみる。おっ、開いた。無断でそっと入って南向きの家の玄関に近づく。左手にある庭の向こうの部屋の廊下に座っている人影を見たので、庭石を渡って近づいた。向こうも怪しい人影を感じたのか、廊下の窓をそっと少しあけ、こちらを覗く。なんだこの不審者めという顔つきだ。小生は不意を突かれた感じで、ちょっとぎこちない挨拶と説明をした。しかし、向こうのは黙ったままでこちらを見つめる。なかなか不審を解くことができない様子だったので、戸籍謄本の写しを見せた。

すると、なるほどこの筆頭の人はわが家の曾祖父の名前だ、ちょっと待ってくれと言って、玄関から出てきてくれた。そしてなぜか今まで小生が歩いてきた門前の道に小生を誘い、広々とした田んぼのあちこちを指さしながら、辺りの地理の説明をし始めた。なんで、急にこんなことを饒舌に語り始めるのだろうと、今度はこちらが不審顔。

彼が言いたかったことは、その昔は江戸時代、石原の何某がいて、この辺り一帯の土地をもっていた。元禄時代、赤穂事件があったとき、その報を赤穂に伝える役目をしたらしい。しかし、明治の初め、この長男が、―小生が手にしている戸籍謄本の二人目の人物を指さし、―やくざ者になったたため、家から追放されたので、その弟であるこの音吉さん(曾祖父)が家督を継いだ、彼はとても真面目な働きものだったので、さらに広い何町という土地の地主になった…マーカーサーの来日後、わが土地は4反に減った、云々。

「とにかく、音吉さんがあなたの曾祖父ならば、小生の祖父はその弟だから、われわれは血のつながりがありますね」と小生は確然とした口調で言った。(じっさいは、一代経ると2分の1とすると、128分の1と薄いけどね。)それから、彼はまた小生を自宅の庭に誘って、この庭は自分が自分の趣味で造った庭でねと木々の説明をし始めた。庭を掘れば昔の石がいくらでも出てくるから、それをいくらでも利用できるのだ。あなたのお祖父さんが居たころのもので残っているものは、この銀木犀くらいかな、と庭の隅に在るやや大きい木を指さした。小生は、おおこれが祖父が見たものか触れたものかと思うと、とても懐かしい思いがして、何度もその幹をなでた。そしてその前で二人並んで記念写真を奥さんに撮ってもらった。

  石原家1


奥さんは、小生の顔を見て、そう言えば親戚の誰誰に似ている所があると言った。しかし、そう思ってみれば誰でもどこか似ている所があるのじゃないかな。そして、小生と同じ病を克服した人のことが書いてあるから、これを読めと言って数冊の雑誌を貸してくれようとした。小生は地元でもこの雑誌は読めるし、その御心だけで有り難いと言葉を返した。

石原さんは、すぐ近くにわが家の墓があるからといって、そこに小生を連れていった。広々とした田んぼの一角。また、彼は土地の話をながながとし始めた。小生は一通り墓石に頭を下げ、辺りの風景を記憶に刻みこんだ。もうこれでいいという気持ちだった。

それしても、顔を知ることもない祖父の生まれ育った家があった所に来ることができたのは、あの市役所員とたまたま遭ったお婆さんと小生の無礼な勇気のおかげであったのだ。帰りの駅まで歩く途中でうどんやに入ったが、小生の好みの味ではなかったのが残念であった。まあ、何もかもそううまくいくまい。


     


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出雲旅行

生まれて初めて年末年始の家族旅行をした。足かけ三日の出雲旅行。足立美術館、宍道湖の夕日、出雲大社、日御碕神社、玉造温泉、松江城と堀川クルーズを楽しんだ。

 宍道湖の夕日

   宍道湖夕日




    寒風に逆らって見る夕日影
        しだいしだいに大きくなりぬ




     立ち騒ぐ湖面の波の散りぢりに
          光り輝く一筋の道



 出雲大社では、冷たい雨の降る中、オオクニヌシ神の数奇な運命を思った。この神が数々の受難を通してこの国の神になったこと、出雲の話が『古事記』神代の多くを占めること、そして、この地域はその昔、一大交易都市であって、当時は日本海側が表玄関であったことを考えたり、家族一緒に写真を撮ったり、拝殿前でここでは礼と拍手はいくつどうするのか話合ったり人に訊いたりして、落ち着かず、何をお祈りしたのか憶えていない。

 松江城堀川クルーズ(雪吹き付ける朝)

      堀川クルーズ
  


    雪の日に舟乗る客の居ることの
        船主の不審晴れて出発



      松江城
  

    冬の日に似合ふすがたの松江城
        古武士のごとく凛としてをり



     


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休職?

 12月25日が仕事の最後の日であった。事実上の退職なのだが、なぜか休職扱いとなった。また来年ひょっとすると仕事に復帰できる可能性が無きにしも非ずという、ボスの心遣いからであろうか。それにしてもいただいた立派な花束は、どう考えても退職を記念するものだ。

 こちらとしては来月の前半ならまだ手伝えるのだが、たしかにそれだけで辞めるのなら、今年いっぱいで辞めた方が事務的な処理は簡単であろうと思われる。

 25日、小生も気持ちとしてはもうここで仕事をすることはあるまいと思い、自分用の小さな引き出しの中身を全部捨て、ほかの私物も整理し、最後にネームプレートから名前を書いた紙を出し、シュレッダーにかけた時は、さすがに胸に迫るものがあった。

 ここでの22年の今に続く実感がふっと切られ、一挙にもう手の届くことがない〈思い出〉になってしまったという感じ。自分は透明人間になって、しかもその瞬間まだ自分がここに、いつものメンバーが共有している空間に、まだ居るという違和感。きっと自分の葬式において、棺桶に入った自分に意識があるとしたら、そんな感じだろう。

 しかし、その瞬間が過ぎたら、仲間とよしなしごとを言い笑いあえば、いつもの日常が蘇り、ふだんと同じように、「お先に」と言って車に向かう。しかし、車の中では「これが最後なんだな」と自問自答する。

 しばらく入院して休んでいたせいか、家に居ても、もうこれが普通のように感じられる。仕事からの緊張からは解放されたが、他の義務がホッとさせてくれない。これが自分に与えられた宿命だと観念する。


     

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退院す

つひにゆく時になってわれ知れり
   ガンは密かな欲のかたまり

 正確に分からぬものは寿命なり
   名医もしらず卜者もしらず

 確率と数字からなる命とは
   いったい誰の命であるか

 長命は恩寵なるかニエットと
   背後にゾシマ長老の声

 さるにてもふと目覚めては心おもく
   これは夢かと思ふ払暁


  

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病室にて

 なにもかも 手遅れなりや 秋の暮

 病室に 一輪の花も なかりけり

 遠くすむ 子らのきたりて 華やげり

 皮肉やな 食べる話題の 盛り上がり

 息子らと 遺影を撮りぬ 帰り際

 目の奥に 入り日の朱の 沁み入りぬ


  

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手術を受ける

手術なんて眠っているだけのことだと思っていたから、ほとんど緊張というものはなかった。麻酔をかけられる瞬間は意識できるのであろうか、それは関心があった。背中の麻酔のチューブと腕の点滴のチューブとつけられて、上向きになる。巨大なイソギンチャクのような沢山のライトが眼前に迫る。酸素マスクが顔に当てられ、看護師が「眠くなりますよ」と言ったと思ったら、ストンと落ちた。これは、後で思い出して言うのだけど、快感だった。こんな風に死ねたらいいと思う。

 次の瞬間は、「○○さーん、わかりますかー」という声が聞こえてきたので、肯いた。しかし、声ははっきり出なかったような気がする。それから、人々の話声が聞こえてきて、「じゃ行きまーす」とともに、自分が手術室からどこかに動かされているのが分かった。けっこうガタガタと振動が伝わってきたからだ。とくにストレッチャーが左右に曲がるときはよく分かった。なぜなら、ものすごくお腹が痛かったからだ。これが術後の痛みか。痛みで体が震えてくる。「痛い、痛い」と出ない声を一生懸命出した。さいわいそれは看護師に伝わったようで、「痛いねー」と答えてくれた。それから背中のチューブから鎮痛剤を追加してくれたのか、〈ものすごい痛み〉は去っていった。

 いまから思うと不思議なことは、そのとき手術が思いのほか早く終わったような気がしたからだ。いま何時?と訊こうとしたが、声が出ずに、またうつらうつらしていたので、訊けなかったが、たぶん部屋についてからか、医師と妻とが何となく小声で話しているその話しぶりから、悪い予感がした。

 しばらくすると、主治医(執刀医)が、「じつは腫瘍は腹膜に及んでいましたので、最初にお話したように、胃は切除しなかったのです。しかし、幸い!この病院でなら、先進の治療法ができますから……今はぼんやりして考えられないでしょうから、また後ほど詳しくお話いたしましょう。」というようなことを言った。

 ああ、そうだったのか。それにしても、幸い先進の医療とは?…と思ったが、それより創部の痛みというか動かせないというか、その感覚とまだぼんやりした意識とで、うつらうつらしていたようだ。

 詳しくは書かないけれど、この場合の先進医療とは、一般的な化学療法の上に、さらに別の化学療法を特殊な投与方法でやることだ。これは、いまのところ、まだ治験中(ゆえに保険適応外)で症例数も少ないけれど、小生のような転移例にはとても有効らしいから是非にという。患者に少しでも希望を与えようとの気持ちも医師として当然あるであろうし、また研究者としての医師としては、当然この様な症例を手ぐすね引いて待っているのであろう。学会で発表するには、ある程度の症例数を必要とするのはよくわかる。

そして、ついでに思うことは、悪いように想像をめぐらせていくと、研究熱心な科学者はデータをついつい治験の有効性を高めようと改竄とまではいかないまでも、選択の幅を広げるとか…熱心であればある程、小保方氏が陥ったであろうような誘惑に駆られやすいのではなかろうか。

 ところで、一般的な化学療法だけでも少なくとも2種類の抗がん剤を併用する。これを、死ぬまで繰り返す。手足のしびれ、口内炎、また貧血など骨髄抑制は、ほぼ必発だろうし、肝臓などの障害も大いにありえる。その上、小生には(今回見つかったことだが)肺の感染症もある。もし化学療法を行ったら、これが悪化する可能性もある。それで、これに対しては、さらに抗生剤を併用する必要がありそうだ。想像するだに気持ち悪くなりそう。

 
 まあそんなわけで、化学療法をするにせよ、しないにせよ、そう長く生きれるわけではない。とにかく身辺整理に忙しくなる。立つ鳥跡を濁さず。それにしても、悔しいことは、切られ損、いまだに創部痛があって、充分動けないことだ。忙しいし、痛いし。


  

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ガンになる

二週間ばかり前ふと出来心で健診を受けた。ふだんまず健診など受けないことにしているのであるが、さもしい考えで、〈無料〉という文字に引っかかったのだ。

 バリウムを呑む胃のx線検査の直後、技師がちょっと影が見えますと言ったので、ぜひにと画像を見せてもらったら、あらびっくり、胃の下部にはっきりした病変がある。陰影がじつに美しい。直径は3cmはあるだろう、平たい阿蘇山のような形だ。即座にガンだと自分でも判った。

 その日の帰り道、「ついに来るべきものが来たか」という思いを繰り返した。あるいは「とうとう来たか」というべきか、あるいは「やっと来たか」と言う方がぴったりか、あるいはその「とうとう」と「やっと」の入り混じった感じ、その中間ぐらいの感じがぴったりか、これは英語の「anticipated」というのがむしろ近いか、などと考えた。

 まあ、とにかくここ何年と、そのうち命に影響を与える病気がやってくるだろうということは自分に言い聞かせて生きてきたつもりだ。べつに不安をいだいていたわけではない。人生とはいつ突然なにが起こるか分からぬものだとは、まあこの年齢になれば、了解しているつもりだ。

 健診などしなくて何も知らなきゃよかったと頭で思うのは、知ってしまった以上これを早く切除しなければならないという思いに捉われるのと、またそのためのいろいろな検査をさらにやらねばならないのが面倒だからだ。

 なにより、人並みに職場のことが気になった。まず雇い主およびスタッフに報告し、できるだけ迷惑をかけぬように引き継ぎを頼んだりして、支障なく事が運べるよう手をうたねばならないが、これもなかなか思うようにはいかないものだ。まあ、なるようになるであろうと思わなきゃ。

 家族は、もし自分が居なくなっても食べていけるものはあるであろうと漠然と思っている。我が家の金周りはどれくらいあるのかさっぱり知らないけど。ただ人並みに、田舎にある土地や墓の処分のこと、職をもてぬ妻子を残していくことはちょっと気がかりだが、まあ何れはこうなるのだから、ハムレットじゃないけど、来るものは来る、早いか遅いかだけのこと、これもなるようになる、と思わなきゃ。

 それよりも、小生の宿痾ともいうべき蒐集癖で集めたお宝というかガラクタの数々をどうするか。残されたものもこれを価値あるものか無価値なものか判断に迷い、処分にとても困るであろう。もちろん、そのことは普段から考えて最近はずいぶん処分してきたつもりだが、やはり心のどこかに〈まだしばらくのあいだ生きておれる〉という気持ちがあったのであろう。いつ死んでもいいようにと心がけているとは思っていても、はやりどこかに甘さがあったのだ。…

 いやじつはそれどころか、メダカの養育はどうなる、蓮の根分けや梅の剪定は誰がやる。思えば、自分は人一倍いろいろな欲望に浸ってきたのではないか。じつは人生の始末だの覚悟だのとは、はなはだ遠いのではないか。

 というようなわけで、けっきょく病院にかかり、この二週間のあいだに、血液尿便はいうまでもなく、胃の内視鏡検査を二回、腸の内視鏡、胸部および腹部x線およびCT検査、肺機能などのチェックで大忙し。

それにしても、詳しい検査とは恐いもので、これによって芋づる式に悪いところが発見され、さらに思いもよらぬ検査もしなければならないようになって・・・。まあ、時間はかかるし、疲れるし、出費はかさむし。

 何の症状もなかった今迄は、闘病生活というものほど、つまらない生活はないと想像していたが・・・。たまたま〈無料〉という文字に目がくらんで、健診をやってしまったらこの始末。これぞホントの「只ほど高いものはない」(笑)


  

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