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貞明皇后御歌30

御所の炎上後、大宮さま(貞明皇后)は御文庫と称する四畳半くらいのじめじめした防空壕で、三か月ほどお過ごしになった。もちろん、そこには大正天皇の御影さまが懸けられており、朝夕の礼拝を怠られなかった。『貞明皇后』(主婦の友社)によると、御所炎上の報を聞いて駆けつけた高松宮妃に、大宮さまは、防空壕の中に泰然自若として、「これで国民といっしょになった」と、さぞ御満足のように仰せられた。高松宮妃は、その一言に、御慰めする言葉を失われて、深く感動された、とある。

さもあらん。このじつにさばさばとしたところが貞明皇后の圧倒的な魅力である。家具や調度品や文書もあったであろう、持ち出さずに焼失したものは多かったであろう。しかし未練を口にする女官たちをよそに、大宮さまはいっさいの未練がましいことを口にすることはなかったという。

 1945年(昭和20年)8月20日 大宮さま(貞明皇后)は軽井沢へ御疎開になった。とはいえ、もう戦争は終わり、疎開の意味もなくなったのであるが、以前から計画されており、また折も折、大宮さまにしばらく東京を離れてくつろいでいただきたいとの両陛下の切望に従うしかなかった。

 軽井沢の地で、ふと見かけた珍しい植物〈かたしろ草〉を、東京で大変な思いをされている天皇にお贈りした。天皇は大変のよろこびになって、吹上御苑の一隅にお植えになり、詠まれた御製。

 いでましし浅間の山のふもとより
   母のたまひしこの草木はも


 池のへのかたしろぐさを見るごとに
   母の心の思ひいでらる


 大宮さまは12月に軽井沢から沼津御用邸へ移られた。そのほとんどは空襲で破壊されていたが、幼少時に田舎にお育ちになった貞明皇后は、ほんとうに田舎の生活がお好きで、勤労奉仕に来た女学生や土地の人たちと一緒に、モンペ姿でときには大はしゃぎして畑仕事に精を出された。大宮さまのあまりの気さくで明るい人柄にみな感心した。後年に至ってますます形式に拘泥せず、純朴を愛され、まごころ、童心をご発揮になり、話し相手が、ぞんざいな言葉遣いをしても、まったく意に介するところがお有りにならなかった。

    春水 紀元節
 わらはらや引き落としけむいささ川
   田芹うかべて流れゆくみゆ
       
      わらはらや=子供たちであろうか

    丘若菜
 いそいそとわか菜つむべくのぼるかな
   丘の木の間に富士を見ながら


    翁
 数を多みう孫の名すらおぼえずと
   かたる翁の幸をこそおもへ


 ここで獲れたサツマイモは、先ず御影さまにお供えし、両陛下をはじめ御親族の人たちにお領けになった。そして、一年後に東京に帰られても、このサツマイモを御所内の畑で育てられたそうである。大宮さま崩御の後の昭和天皇御製。

    母宮を思ふ
 母宮のめでてみましし薯(いも)畑
   ことしの夏はいかにかあるらむ


 あつき日にこもりてふとも母宮の
   そのの畑をおもひうかべつ


 昭和21年の暮、焼跡に再建された大宮御所に戻られた。

     春月寒
 照る月の光もしろし風さえて
   かすむともなき春の夜空に


     神苑橋 明治節
 ねぎごとは母にまかせてうなゐらの
   わたりてあそぶ神ぞののはし

      うなゐ=幼い子供

 「これでいいのです」と呟いておられる様子が目に浮かぶ。

 この年(昭和22年)10月のことである。筧素彦氏によると、ふと食堂でラジオが鳴っている、誰が聴いているのだろうと覗くと、なんと大宮さま。「まあいいから一緒に聴いておいで」と仰ったので、耳を傾けると、それは漫才だった。と次にニュースが流れた。それは、直宮以外の宮様方が臣籍降下なさるというものだった。筧氏がはっと息をのんで大宮さまのお顔を伺うと、平然として聴いておられる。
 筧氏が「まことに恐れ入ったことで…」と申し上げると、大宮さまが仰るには、眉ひとつお動かしにならず「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました」。このあまりにもあっさりとしたお言葉に筧氏はたいそう驚いたそうである。

 じつは昨年(昭和21年5月)に、加藤次官が大宮さまに、GHQの圧力による皇室問題に関して、宮様方の臣籍降下問題を、お訊ねになったのだった。その時、大宮さまは、「宮様方が納得するまでゆっくり時間をかけてください。自分は御一新のこと、何も心配要りません」とお答えになったそうだ。

 おそらく大宮さまは、皇室が永続するその本質的理由は、質素、まごころ、率直、そういう心持にあるのであって、明治以来、対外的には必要だったかもしれないが、あまりにも物質的に豊かでありすぎたのは間違っていたのでは、と考えておられた。他国の王や皇帝ではない、天皇である。天津日継である。

 この度の東北の被災地への両陛下の御慰問の映像を拝見して思った、もし貞明皇后があれを見られたとしたら、これでよしと首肯されたであろう。あの被災者たちと同じ床に膝をおつきになって、被災者の言葉に耳を傾けられ、心底からお言葉をお掛けになっている姿こそ、わが皇室の本質である、と。

     昭和23年 巌上松
 根を幹を何によりてかやしなへる
   しみ栄えたる岩のうへ松

      しみ=繁く

     昭和26年 朝空 御会始
 このねぬる朝けのそらに光あり
   のぼる日かげはまだみえねども


 この年の五月、大宮さまは狭心症の発作にて崩御。六月八日「貞明皇后」の追号を贈られる。


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貞明皇后御歌29

1945年(昭和20年)5月24日に、東京の芝、品川、大森、荏原などの城南地区に、明くる25日に、麹町、麻布、四谷などの山の手に、爆弾、焼夷弾の雨霰。当時宮内省総務局課長として現場で働いていた筧素彦氏は、この時の皇居の模様を詳しく書き遺している。(『今上陛下と母宮貞明皇后』)

 「全宮内職員は永年に亘って有事に備え、消防夫を兼任している位のつもりで空襲による火災に備え、設備も器具も衆知を傾け、訓練も永年に亘り真剣に実施してきた。それにも拘わらず、一個の焼夷弾も落下しない宮殿を、一瞬の間に猛焔に舐め尽させてしまったことは、まことにまことに申し訳ないことであり、…」と書いておられる。

 つまり、直接宮殿に焼夷弾が落ちたのではなく、晴天続きで乾燥の極に達していた宮殿の桧材に、周辺の大熱気による熱風が吹きつけ、正殿の廂に火が点いた、それがまたたく間に廊下を伝わって、宮殿全体を燃やしつくしてしまったらしい。

 筧氏は書いている、「俗に〈焦眉の急〉などというが、宮殿の焼け落ちる時の熱さは正に眉が焦げる思いであった。また、あの正殿と豊明殿の銅板葺きの大屋根が炎に包まれて焼き落ちる一瞬の、縁は黄金色に輝く緑色の大火焔の美しさには呆然たる思いであった」。

 「この夜、赤坂の大宮御所もまた無数の焼夷弾の直撃にあって全焼、皇太后陛下(貞明皇后)は危機一髪のところでお文庫(防空室―御殿からはお庭伝いに坂を下りた所にあった)に御避難になった。」

 この時までは、皇太后は大宮御所にお住まいであったが、いざというときには、二か月前に急遽作られたトンネルを通って、御文庫(地下防空壕)にお移りになることになっていた。したがって、この時以降は狭苦しい御文庫での御生活となった。

 ある女官の語る所によると、御文庫では、皇太后は、空襲で死んで逝きつつあるであろう多くの人たちの冥福を祈るために、経机に向かい端坐して、地蔵尊像や念仏文字の朱印をいくつもお捺しになっていたと。

 天皇(昭和天皇)は、空襲警報が鳴るたびに大宮御所の皇太后の身を案じられ、侍従に「おたたさま(母)は御文庫にお移りになっただろうか」と下問され、その確認を待って、御自分も宮城内の御文庫に御動座なさったという。また一方、皇太后も天皇皇后の御身を非常に案じておられたことは言うまでもない。

 そもそも、貞明皇后は、まだ妃殿下であるときから、御長男は将来の天皇となる御身たることゆえ、裕仁皇太子殿下には一歩距離を置いて接しておられた。しばしば、秩父宮殿下以下のお子様たちには母親らしい愛情表現をなされたようであるが、御長男とは気が合わなかったとか何とか言う人たちが、昔も今も同じようにいるが、そうではない、天津日継ぎの皇子に対する態度は母親のそれであってはならないのであって、子供だから大事なのではない。距離を置くとは敬意を示すということである。

 皇太后は、天皇へのお使いを仰せつかわすとき、御使いに対しても天皇へのご口上を仰るときには、御使いに向かい、かならず御起立されて、一区切りごとにお辞儀をなさって、御言葉を述べたという。ましてや、御使いから天皇のお言葉を聴かれる時の御態度も推して知るべし。

   終戦の年 雅楽 明治節
 千年へしもののしらべもすすみたる
    御代にいよいよ栄しめなむ


 小生は、この御歌に充実した御覚悟を感じる。方法は異なるとも、目指すところは昭和天皇と同じである。

天皇は天皇で、戦後復興のために御自分の役割を御自覚され御邁進になったことは、映像などでもわれわれのよく知る所である。そもそも8月9日、ポツダム宣言の発表を受けて、吹上御苑の地下防空壕内で開かれた御前会議。鈴木首相、東郷外相、米内海相、阿南陸相、豊田軍令部総長、梅津参謀総長、平沼枢密院議長、その他4名が列席。

 一億玉砕をもって最後の一矢を報いるか、ポツダム宣言を受け入れて降伏するか、意見は分かれた。そして、「陛下、何卒思召しをお聞かせ下さい」

 「ならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同感である」。

 一瞬の静寂。そして誰からともなく、涙とともに押し殺した声は、すすり泣きから号泣へ、全員の肺腑から流れ出たのであった。

 しかし、大事なことは、陛下の締めくくりの御言葉であった。「こうして戦争をやめるのであるが、これから日本は再建しなければならない。それは難しいことであり、時間も長くかかることであろうが、それには国民が皆一つの家の者の心持になって努力すれば必ずできるであろう。自分も国民と共に努力する」。

 昭和21年1月1日 新日本建設に関する詔書 天皇人間宣言 こんな茶番をされてまで…しかし、皇太后の御歌
    
     松上雪 御会始
 そのままの姿ながらにおもしろく
   降りつもりける松の白ゆき
 

 ゆく道をうづみてつもる雪なれど
   しるべの松はかくさざりけり



   

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貞明皇后御歌28

 1941年(昭和16年)

    12月ごろ 
 さざんくわの白き花ちるこのあした
   にはかにしげしひえどりの声


    読史 紀元節
 すめぐにの民てふことを心にて
   内外のふみは見るべかりけり


    幟(鯉のぼり)稀なり
 つつましき親のこころもしられけり
   立てるのぼりの少なかるにも


    棉(わた)
 耳に聞き絵に見し棉の花も実も
   おほ(生)してぞしる常ならぬ時


 10月22日 第4皇子、三笠宮殿下、高木百合子とご結婚。

      寄菊祝
 三笠山ふもとの菊は千代かけて
   ちぎりかはらぬ花に咲きなむ


    里月
 とりいれに夜もにぎはふ里なれど
   月かげのみは空にしづけし


 嵐の前の静けさだろうか。
 
    海上月
 ふな歌も遠くきこゆる波の上を
   心ひろくも月ぞてらせる


    そして、社頭祈世
 世をまもる神の心にうたへ(訴へ)つつ
  ふしてこひのむ今のこのとき


  昭和17年 連峯雲 御会始
 みねごとに朝たつくものゆくへさへ
   南の海をさすかとぞ思ふ


     光
 めしひたるたけを(猛男)の書きしその文字の
   こころの光めにはしむなり


    朝鶯 皇后宮(香淳)御誕辰
 新聞にこころひかれてゐる朝の
   みみおどろかす鶯の声


    春曉 天長節
 御夢にもみ国のことや見ますらむ
   のどけき春のあかつきにさへ


 しかし、この少し前の4月18日、米空母ホーネットから飛び立った16機のB―25が東京、横浜、名古屋などを爆撃していた。いわゆるドーリットル空襲。日本軍は数時間前から把握していたが、どうも手違いがあったらしく、高射砲も戦闘機もまったく敵機に損害を与えることはできなかったらしい。日本人の死者は86名。中国大陸に降りたB-25の搭乗員の大半はアメリカに帰還できた。

しかし、このときすでに、いわゆる〈大本営発表〉がなされていた。いったん嘘を言うと、どんどん嘘を嘘で固めていかねばならなくなる。まあ、戦時中だからしようがないか。その一カ月あまりのち、ミッドウェーになる。

 昭和18年  耐寒
 たのもしき冬にぞありける寒さにも
   勝ちとほさむと人のきほひて


    海のまもり
 皇国の海のまもりをかためなむ
   よる仇なみもかひなかるべく


     失明軍人に時計を下賜せらるとて
 慰めむ言の葉をなみ時つぐる
   うつはの音にゆだねてぞやる


 君がためまなこささげしますらをの
   こころの悩みきかまくおもふ


     軍国歳暮
 かしづきし子はみいくさに召されいでて
   親やさびしく年おくるらむ


    昭和19年  朝氷
 今朝もまた池の氷をみてぞ思ふ
   千島のはての防人の身を


     潜水艦
 仇のふね目の前にして水底に
   かくるる時のこころをぞ思ふ


     折にふれて祈り言
 民こぞり守りつづけて皇国の
   つちは踏ますな一はしをだに


 皇国はいふにおよばず大あじあ
   国のことごと救はしめませ


     折にふれて
 人として見聞きするだにうとましき
   戦ひすなりながき年月


 ますらをの命ささげし物がたり
   聞くだにわが身おきどころなし


     婦人勤労奉仕
 たわやめも身をぬきいでてみいくさの
   わざにつとむる世にこそありけれ
 

 昭和20年 社頭寒梅 御会始
 かちいくさ祈るとまゐるみやしろの
   はやしの梅は早さきにけり

 
 しかし、諸島戦地はとうに地獄を過ぎ、多くの20歳そこそこの若者が片道分の油を入れて空に舞い上がっていっていた、こんな歌を残してー

 父母様よ末永かれと祈りつつ
    征きて還らぬ空の初旅


      若尾達夫 沖縄海域にて特攻戦死
        享年22歳


  

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貞明皇后御歌27

1939年(昭和14年)日米通商航海条約を米(ハル国務長官)が破棄。その昔、ペリーやハリスが無礼ともいえる熱烈さで日本に修好通商条約を迫ったのに。

     従軍看護婦
 益荒男もうれし涙にくれぬべし
   こころをくだくをみな心に


     戦死者遺族
 行く末のながき月日を子等のため
   こころくだかむ若き母はも


 ほそぼそと煙をたててさびしくも
   月日おくらむ妻子をぞおもふ


    靖国神社大祭の行はれけるをりに
 うからどち神をろがみていまさらに
   門出のさまをしのびてや泣く

    うからどち=親戚仲間

     満州移民
 火のごとき望みにもえて行く人は
   広きあら野もひらきつくさむ


     納涼
 風の入るむろにゐながら涼むにも
   軒のかさなる町をこそおもへ


     寒夜明月
 おく霜の白き芝生に松のかげ
   黒くうつして月のふけゆく


 1940年(昭和15年)
     忠霊塔
 ゆるぎなき国のかためのしるしとも
   見えてたふとく塔のそびゆる


     押花
 なつかしき思ひ出なりや横もじの
   書のなかなる古き押ばな


 陸軍省では管轄する諸学校の入学試験から英語が外されるようになる。そういった時代、大宮さまは、女学校時代の横文字のたぶんフランス語の本を御手にとってみたくなったに違いない。その御心をお察し申し上げる。9月、わが国は、中国軍への英米の援助を断ち切る目的で北部仏印に進駐開始した。

翌年2月ハル談話「蒋介石を支え、日本を大陸に釘付けにさせておけ」。今となってはこんな風にも聞こえる、「ここまで来い。もっと疲れろ、もっと怒れ、日本はとっくに嵌まってるよん。真珠湾ウエルカムよ」

 10月、大政翼賛会の成立。これにより、婦人会、隣組長、町内会長は国家の下士官となった。生活必需品は切符制になり、ダンスホールは閉鎖され、国民服が制定される。「贅沢は敵だ」。そして11月、皇紀2600年記念式典。

      万民祝
 君が代を八千代といはふ民のこゑ
   天にとどろき地をうごかす


 そして、

      衆生恩
 物みなのめぐみをひろくうけずして
   世にありえめや一時をだに


 この時、大宮さまは、日頃の漠然たる思いにハッとお気づきなったと思う。そのことが、戦後のGHQ宮中改革にもすんなりと賛同された御態度に顕れる。


 

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貞明皇后御歌26

日中戦争始まって以来、わが国内は完全に戦争態勢に入っていった。化粧の制限、長髪禁止、一汁一菜、日の丸弁当奨励、防空演習、そしてこの年1938年(昭和13年)国民総動員法の発令。

    雪中山といふ題をよみける時に
 ますらをのつよきいぶきも凍るらむ
   ゆきふりつもる北支那の山


    従軍記者
 海くがにたたかふひとの雄ごころを
   いやひきたてむ筆のちからに


    傷病兵
 末ながき悩みのたねとなりぬべし
   いくさのにはにうけして傷は


    招魂社
 よろこびを告げまつるあり悲しみに
   袖しぼるあり大みまへにて


     軍事郵便
 待ちわびて人や見るらむ弾の下
   くぐりてきたる文のたよりを


     航空機
 御軍のかてをはこびてますらをの
  たまのを(魂の緒)つなぐ鳥船もあり


  新聞紙上にて支那人の麦かるうつしゑを見て
 みいくさ(皇軍)のちからたのみてしなの民
   心やすくも麦かるといふ


 日の丸の旗を田畑にたておきて
   麦かる民のこころかなしも
 

6月に黄河決壊事件が起こった。これは中国軍が日本軍の進撃を阻止するために黄河堤防を破壊し、大洪水を起こさしめた事件だが、中国軍は地元民らに事前に知らせることもなくやったものだから、農作物の大被害のみならず莫大な死者を出した。もちろん、中国軍は、これは日本軍がやったというプロパガンダを世界に発信。もちろん日本側は事実を発信。そして事実は隠しきれなかったようだが、各国の反応はまちまちだったようだ。

 南京大虐殺も同じ。どこの国でもそうだろうが、とくに中国は昔から、白髪三千丈ではないが、虚偽を押し通すのを国策としている。それはいいとして、戦後わが国はあまりに紳士的というか、正義は黙っておればいずれ天が味方してくれると思いたがる。じつはそれも己の弱さを隠すための虚偽であるのに、そのことに気がつきたがらぬ。

 また、この年、医療費の重圧から農村漁村の貧者を救済するために国民健康保険が創設された。

     保険
 みちの人の教へのままにしたがいて
   身をすくよかにたもてとぞ思ふ


 家のためこがねしろがね積まむより
   身のすくよかにあるやまさらむ


 そして冬がきた。冬の庭は簡素でいい。そんな中、つわぶきと次いでサザンカが花をつける。

  つはぶきのはな
 みそのふ(御園生)の菊も紅葉もうつろひて
   ひとり時めくつはぶきのはな



 

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貞明皇后御歌25

 

1933年(昭和8年)といえば、2月に日本が国際連盟を脱退。その後の事実を知っているわれわれには、もう2・26事件、日中戦争の足音が聞こえてくると言ってしまいたくなるときではある。しかし12月には、めでたし、明仁皇太子(現今上天皇)がご誕生。

     寄道祝
 人の世に栄えて久しうつくしく
   あやにたふときすめ国の道


 さきにほふ春の花より美しき
   手わざのみちのいやさかえゆく


  昭和9年 社頭雨 
 神そのはしづかにあけてみやしろの
   朱(あか)の玉がき雨にけぶれり


 虫のこゑあふるる庭に大空の
   星よりおつる風のつめたさ


 1936年(昭和11年)2・26事件 ベルリンオリンピック 日独伊防共協定 
 この年、貞明皇后で忘れてはならないのは、全国の灯台守に、金一封を下賜され、それでもってラジオ受信機を200台を辺鄙な灯台に設置することができた。その時お添えになった御歌。

 荒波もくだかむほどの雄心を
   やしなひながら守れともし火


 守る人やいかにさびしき霧ふかき
   離れ小島のともし火のもと


 船まもるこころのひかりさしそひて
   海原とほく照らしゆくらむ


 そもそも貞明皇后と灯台守との出会いは、大正12年5月のことであった。御病気の天皇のご看病で葉山御用邸に滞在中、三浦半島周遊をされた。そのとき半島の先端にある観音崎灯台を御訪ねになった。この灯台は明治の初めに建てられたわが国初の近代的灯台ということで有名であるらしい。

 このような辺鄙な場所に皇后が来訪されて、当時の吉岡台長は感激し、灯台守の生活についていろいろお話になった。灯台守という仕事の孤独や辛さをお知りになったからには、なんとか助力をしなければというお気持ちが、それ以後去ることはなかった。

 ちなみに、2006年(平成18年)、五島列島の女島灯台が自動化されて、日本からいわゆる灯台守が消えたそうだ。

 昭和12年 冬眺望
 一まちにつづく野中のかれくさに
   うすき日さしてながめ淋しも


     社頭虫
 みやしろになく虫の音は神楽にも
   たぐふと神や聞こしめすらむ

     たぐふ=寄り添う、呼応する

    たばこといふ題をよみける折に
 大御手にとりて臣らに賜はりし
   御かげしのびてたばこを見つむる

    
 つねに何かにつけ大正天皇の面影が浮かんできたのでしょうが、それを直接歌われることはめったにない。大宮さま(貞明皇后)は、この頃は宮中のしきたりを守らねばとお考えであったようだが、他方つねに新しいことや、海外事情を知るのがお楽しみであった。

 ご自分ではついに外国に行かれることはなかったが、次の歌はこの年に英国に訪問された秩父宮殿下、妃殿下をお思いになった歌である。

    海外旅行
 新しく知る楽しさのおほからむ
   日数かさぬる外国の旅


 御国たみいたるところにいそしみて
   さかゆくさまを見てかへらなむ



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貞明皇后御歌24

養蚕と言えば、古代から皇室は養蚕に関係していたし、1871年(明治4年)に昭憲皇后が御所内で養蚕を復興され、それを引き継がれた大宮様(貞明皇后)は、御結婚以来51年間にわたって養蚕を続けられた。

とはいっても、貞明皇太后は義務として養蚕をしておられてのではない。根っからお好きだったと思われる。蚕をお手に取り「おこさん、おこさん」と言って、頬ずりされていた、とか、大正2年には宮城内に養蚕所を、本丸跡に三千坪の桑畑を造られた。外出から帰られると、何はともあれ、お蚕さんと対面されたとも。

以前に紹介したと思うけれど、大正2年の御歌

    養蚕をはじめたるころ
 かりそめにはじめしこがひわがいのち
    あらむかぎりと思ひながむる


 大正12年4月30日有泉助手とともに養蚕所にて
 一年は早くも過ぎてわがこがひ
    わざまたはじむべき時は来にけり


 同5月5日
あたたけく晴れたる空に心よく
  おちゐてけふは蚕もねむるらむ


 同6月3日養蚕所4号室にて
いとなさにおくれぬといふ床かへを  
 たすくるほども楽しかりけり

   襷鉢巻して頑張っておられる姿彷彿


1932年(昭和7年)になると、明治の終わりごろには、清国を抜いて世界一位に輝いた生糸生産ではあったが、恐慌後生糸価格も暴落し、養蚕業界は大不況に陥った。この年の御歌―

 よきおきて選びさだめてこのわざに   
  なやめる人をとくすくはなむ


 何事もさかえおとろへある世なり
  いたくなわびそ蚕がひするひと


 国民のたづき安くもなるむ世を
  ひとり待ちつつ蚕がひいそしむ


 外国のひとのこころをみたすべく
  よきまゆ糸のとりひきはせよ


このころから日本の人絹織物の輸出が躍進し、いずれ諸外国から輸入制限措置をとられるようになる。

昭和20年、大日本蚕糸会総裁であった閑院宮戴仁(ことひと)親王が薨去し、昭和22年その後継者に大宮さま(貞明皇后)が推挙されるのであるが、そのとき、大宮さま曰く「陣頭に立って本当に働く総裁なら引き受けてもいいが、飾りものの名誉総裁ならお断りする」と。そうして、自ら率先して汗水流し養蚕にいそしまれたとのことであった。




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貞明皇后御歌23

貞明皇后の三大事業として知られているものは、養蚕、燈台守への救援、救癩(ライ)でしょう。
 癩病は、現在ではハンセン病と言われ、わが国ではもうほとんど発病者がいない病気だけれど、いまだ有効な薬がなかった時代は、大変恐れられていた。

 感染力はそう強くないものの、いったん感染すると、たいていはゆっくり悲惨な経過をとって死に至る。全身のあらゆるところが少しずつ侵されてくる。とくに神経や皮膚を侵すので、知覚麻痺のために外傷が絶えず、多様な皮疹が出現し、場合によっては恐ろしい醜形を呈する。

 明治40年に、癩予防の法律が制定され、癩患者は、療養所に収容されることとなった。昭和6年の「癩予防法」によって、患者は一般社会から完全に隔離された所での生活を余儀なくされた。つい最近まで、昭和50年代までは、癩病と聞けばなんとか園に入れられるというような話が、かすかに小生の耳にも残っている。感染力は非常に弱く、有効な治療薬があるにもかかわらず、わが国は遅くまで隔離政策を取ってきたことで、世界から、そして人権団体から非難された。癩病の研究・治療に一生をささげた光田博士ですら、隔離や断種を勧めたということで、評価は分かれている

 とにかく、戦前は、そして戦後も、その施設に一度入ったら、一生を、たいていは長い一生をそこで過ごさねばならない。家族も噂や感染を恐れてそうそう面会にも来てくれなかったであろう。それだから、その閉じられた世界では、畑仕事をはじめ様々な労働があり、娯楽があり、場合によっては結婚もあった。

 こういう病に悩む人たちが隔離された所で生活を余儀なくされているということお知りになった貞明皇后は、非常に心を痛め、大夫に命じて施設の様子の調査をさせ、宮中の経費を節減してまで、様々な物品や修繕費などを下賜されること生涯に及んだという。

 それは、あの華族女学校時代の記憶がトラウマのように心の底に残っていたからかもしれない。通学路にある家でじっと外を見ている女性、どうしてあのような美しい女性が結婚もせず、毎日坐っているのだろう、という疑問、そして後で知った彼女の業病。このことが鋭敏な子供の心にどう作用したか。

  1932年(昭和7年)癩患者を慰めて
 市町をはなれて遠きしまにすむ
   人はいかなるこころもつらむ


 ものたらぬ思ひありなば言ひいでよ
   心のおくにひめおかずして


 見るからにつゆぞこぼるる中がきを
   へだてて咲ける撫子のはな


 つれづれの友となりてもなぐさめよ
   ゆくことかたきわれにかはりて


 そういえば、貞明皇后は光田博士のことをお知りになって、博士の情熱にいたく賛同された。その辺の事情について、出雲井晶という人の著書『天の声』で詳しく書かれている。この本は、じつに貞明皇后の核心というべきところを捉えているのではないかと感じ、畏れ入る次第であった。

 貞明皇后崩御後、三男であられる三笠宮殿下は、皇后さまの意思を継いで、癩予防・治療の組織の先頭に立って活躍された。

 ついでに『天の声』に載っていた、施設に暮らす癩患者の歌を紹介したい。(『ハンセン療養所歌人全集』より)

 泣くなよ。

 萎え果てし右手に結びしフォークも
   今は飯食むに重荷となりし


 春猫の恋する夜半を覚めており
   青春をもたぬ背を触れあう


 かぶら売りて何をあがなはむとせし病友か
   その翌朝息たえしとぞ


 足なえの妻も厠へ入らしめて
   待つときの間の深きかなしび


 つひにつひに母の臨終にも会へざりき
   初秋の空 蒼き遠きふるさと




 

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貞明皇后御歌22

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1931年(昭和6年)と言えば、満州事変の年。二年前の世界恐慌から、わが国は満蒙へと進まざるを得ず、そして二年後の国連脱退へと、慌ただしい時。

 しかし、皇太后は完全に覚悟ができていた。自分の立場、自分の為すべきことに徹しようと、腹をくくった。日毎〈お御影様〉に礼拝することの意味は何か。それは皇室を守るためである。しかし、それは明治政府が創った皇統ではない。同じことではあるが、年表のように無味乾燥な、連綿と続く天皇を守るためではない。

 それは、大正帝といういとも不思議な、純粋な人が天皇として現れた意味を問うことである。歴史家や政略家の尊大な見解のみならず、あらゆる周囲の人たちの小利口な誤解から、あの光を守るためである。むしろそれこそ天皇のエッセンスであると悟ったからである。誤解を恐れずに言えば、血統というものの深い意味を理解したからである。

 山川という主に明治帝に仕えた女官が、その著『女官』で、じつに意地の悪い口調で、節子皇太后は〈お御影さま〉の前で懺悔していた、と書いていたのを読んで、小生は、稲妻のように、その懺悔の真の意味を理解した。

 それが、節子皇后に御講進をした筧克彦の〈神ながらの道〉であるのかどうか、小生には未だよく解らない。しかし、それがどこかで歌の道につながっているような気はする。

      春埋火
 春寒み見るだにたのし埋火の
   紅にほふ花さくらずみ

    さくらずみとは良質の佐倉炭。

 朝風のはりさすごとく吹きつけて
   春のそのふに霜の花さく

     そのふとは園生、つまり庭。

     立夏
 瑞枝さすみどりの山を白雲の
   ひまよりあふぐ夏は来にけり


     梅雨難晴
 晴れなばと思ふあまりに鳴るかみの
   音もまたるるさみだれのそら


     机上月
 虫の音につくゑのしまを離れむと
   おきたるふみに月のさしくる

     机のしまとは、たぶん小さな机。

 淋しくも月は雲間にかくれけむ
   むしの音のみを庭にのこして


     朝露
 手にとりてめでまくもほし風冷えて
   白くおきたる萩の朝露


     外国語
 きく耳にそれとはわかぬ言の葉も
  かよふこころにうちゑまれつつ


     万葉集
 いそのかみふるごとながら新しき
   歌のしをりとなるはこのふみ

      しをり=道しるべ

 古の人のいたつきおもふにも
   あだには聞かじひと言をだに



  

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貞明皇后御歌21

    


東久邇宮聡子夫人(大正天皇の義理の妹)の回想によると、「大正天皇さまが、葉山でお崩れになった時、わたしは、その場に居合わせたのですが、天皇がお崩れになると、時を移さず摂政宮さまが天皇のお位におつきになったわけですが、それと同時に節子さまは、これまでの皇后の席をさっとお下りになって、その瞬間から皇太后になられました。そのご進退のあざやかさは、ほんとにお見事というほかはありませんでした」(『貞明皇后』主婦の友社)

 そして、明くる昭和2年2月7日、新宿御苑の葬場殿で御大葬が行われ、節子皇太后は宮中から青山東御所にお移りになった。さらに、3年後の昭和5年5月に、皇太后のために新しい御殿が造られ、これは大宮御所と呼ばれるようになった。

 大宮御所には、皇太后の思召しによって別棟として拝殿と御影殿(みえいでん)が造営された。御影殿というのは、絵に堪能であった入江為守(ときに皇太后宮大夫)に大正天皇の在りし日のお姿を描かせた肖像画〈御影さま〉を、部屋の正面に掲げたからである。以後、ここで皇太后は一日も欠かさず、四方の神様と御影さまを御礼拝された。

 御影さまのご前には、季節の果物やお水、お菓子、献上物、そして日々の新聞を供えられていた。御起床の後、「ご洗面、お髪あげのあと、朝食はおとりにならず、わずかに梅干しと白湯を召しあがるだけであった。そのあとすぐに衣服をお正になり、御影殿にお入りになりなるのであった。」そしてお昼近くまで、端坐したまま長時間、皇太后は御影さまに向かって、国内外の出来事などを語っては、ご祈念なさり、あるいは観音経や時には御詠歌を誦しておられたとも。

 河原敏明氏によると、「貞明皇后は大正天皇崩御のあと、生涯喪服のような黒一色の、ロングドレスを着用しつづけた。また、毎朝二、三時間は必ず天皇の霊を祀る〈御影の間〉にこもり、日々の出来ごと、宮廷の消息などを生きる人に対するよう、声をあげてご報告するのが日課であった。」そして、それは貞明皇后の第四皇子崇仁親王(三笠宮)には実は双子の妹がいたが、男女の双子は縁起が悪いとして、ひそかに遠く奈良の寺にやり、尼僧にしてしまった。彼女には作られた戸籍と名前が与えられ、後年華道の師匠としてのみ、時々は僧院の外に出ることがあったという。節子皇太后の御影さま御祈念の裡にはこのことに対する懺悔もあったのではないか、と示唆している。(『天皇家の隠し子』)

 そして、この方、格調高い尼寺(歴代門跡は皇女か王女である)で生涯を過ごされたこの方は、河原氏の執拗な追及に最後まで屈せず、三笠宮殿下の妹であることを否定され続けたそうですが。まあ、俗世に生きるわれわれが、俗世を断ち切った方の御心をあれこれ忖度しも、無駄であること、つまり見当違いになること間違いなし。いずれ、われわれ世俗的人間の助平根性が明るみになるだけですな。

 1928年(昭和3年)~30年(昭和5年)から

     春窓
 窓の戸を立ちてひらけばまちけりと
   いはぬばかりに梅が香の入る


   五月のはじめ古き御代御代のみかどの大御筆を拝みて
 現世のわづらはしさをよそにみて
   み筆のあとに一日したしむ


     首夏風
 こがひしてほてりし顔をひやさむと
   いづればすずし初夏の風


     捨子
 ひろひあげてはぐくむ人のなさけこそ
   すてし親をもひろふなりけれ


     鳥
 御影どのに仕へまつらく思ふらむ
   みはしにちかく小鳥きにけり


     俚謡
 ひなびたるふし面白く村々の
   昔がたりをうたひつたふる


     富
 世の人にひろくたからをわかつこそ
   まことのとみと言ふべかるらめ


     虹
 よびかくる童の声に空みれば
   かけわたしたり虹の大橋


     女郎花
 薄ぎりのきぬぬぎすてしをみなへし
   おもはゆげにも見ゆるなりけり


     江辺鷺
 のりすてし葦間の船に立ちながら
   入江の波を鷺の見つむる


     神をいのる
 大神によごとまがごと聞え上げて
   清き心にみさとしいのる


     歌会
 をりをりの花に紅葉にうたむしろ
   開きてこころのぶるたのしさ

     むしろ…歌会などをする場所

     旅
 あがた人こころ尽くして迎ふれど
   むくいむすべもなき旅路にて

     あがた…地方、田舎

     古渡雨
 川しもに橋のかかりてさびれたる
   古き渡りの雨の夕ぐれ

       渡り…渡し場

     心
 清くあれうつくしかれと願へども
   にごりやすきは心なりけり


     法律
 定めては又あらたむる人の世の
   おきては何れまことなるらむ


   大正天皇神去りましてより一千日に満ちたる日、
花卉(かき)といふことを
 御影どのにうたひ上げたる言の葉の
   花なつかしく千代もかをらむ


     同じ日たばこを
 身のつかれ心のなやみやはらげて
   たばこは人によきくするなり


 そういえば、大正天皇はヘビースモーカーであられたと思う。

     読故人書
 ふる人のま心うれしわがために
   かきのこしたる書ならねども


     秋田
 ゆたかなる色こそみゆれ雨かぜも
   時にかなひし秋の田のもは


     身
 うまるるもまかるも神のみこころと
   さとれば安し世をすぐすにも



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『椿の局の記』

山口幸洋氏の『椿の局の記』は、大正天皇・皇后のもっともお側近くに仕えていた女官の思い出話で、天皇皇后の日常を臨場感あふれる言葉遣いでかかれている。

 大正天皇は漢文の素読に長けていて、漢詩をつるのも非常に速いのを目の当たりにして、この椿の局が驚いたことを以前に紹介したけれど、ほかにも面白いエピソードがある。

 この椿の局の父が鎌倉に住んでいた頃の話。葉山(御用邸)へお供した時、大正天皇は局の父が鎌倉に居ることをよくお知りになっていて、あたくしに「ここからならおでーさん(父)とこ近いだろ、おでーさんた所へ行ってきたか」と仰せんなる。「はい、まああの近いでございますけれど、まだよう参りませんでございます」ったら、「こういう近いとこ来た時、皇后さまにお願いしていくといいよ」って仰せんなる。そういう所までお気つけて頂いてね「ありがとうございます」言うと、またしばらくすっと、「行ったか」っと仰せんなるです。で、「まだよう参りません」って。今度は「どうして行かないのか」って仰せん、「こんなに近いところまで来て、どうして行かんのか」って仰せんなってね、その内に父が拝謁に上がったもんで良かったんですが、また何べんもおたずね頂くんですよ、…」

 このよく気が付いて、しつこいところが、じつに大正天皇らしく、小生思わず笑みがこぼれてくる。

 また大正天皇はとてもおちゃめだった。夕ご飯前にちょっと時間があって、侍従や女官たちが、廊下で御膳が出てくるのを待っているあいだ、大正さんが、「おお、まぶしいぞ、ライトを消せ」と仰る。それは、侍従の何とかさんと、お医者の何とかさんの頭が禿げて光っていることを言った、とか。

 また、天皇は犬が大変お好きで、沢山の大型犬を飼っておられた。それをいっぺんにぱっと放す。女官たちは、きゃあきゃあ言って逃げまとう。それをとても面白がられた。

 お上は、甘いものはあまり召しあがらない、ただ葛だけは召しあがる。そのようなお菓子をみんなに下賜くださるのがお楽しみでした。…あたしはもう、たんと頂くもんで逃げると、手えつかんで下さるもんで逃げて行くわけにもいかなんだ。あんまり下さると、皇后さまが「お目目近目」だもんで、こんな目えして御覧遊ばされるから「お上、もうそれで結構でございます」って言って逃げて行くようにする。(お上は)逃げて行かんようにギャーッと手をつかんでならしゃる。ごちそうでも山のように下さるんですよ。

 御膳召しのおりお給仕の時は、なるべく陰へ陰へ行くようにしてるんですが、お皿持ってこいって言って下さるんです。(お持ちすると)持っている手をがっとおつかみになって、御自分さんのそばから逃げて行かんように押さえて、つかんでならしゃるです。…そうしてお皿いっぱいもうこぼれます言うくらい積んでいただくわけ。そうすると皇后さまがきゅっとごらん遊ばしてんのが、…こう変なお目目でごらん遊ばされるんですね。一時はちょっと御機嫌が悪うてちょっとあのヒステリーみたいにおなり遊ばしたことあるんですよ。

 お上に、あまりに馴れ馴れしくされたときは、皇后さまはとても恐かったみたいだが、それ以外の時は、とても優しくしていただいた。「あんなに今恐ろしいことをおっしゃってならしゃたおみ口で、又こんなにかばって頂いてもったいないと思って、申し訳なかったんと思うと、もう涙が出て、お傍に出られなくなるんです。」

 牧野伸顕をはじめ、周囲の人たちを感嘆させるほどの聡明な方であられた節子皇后も、女性であることには変わりはない。

       観蓮(大正12年)
 なやましき夜半をすぐして池水の
   すめるこころに蓮の花見る

 お上が椿の局にあまりに馴れ馴れしくするので、皇后に遠慮して、権典侍(お側仕え、明治以前なら側室のこと)から命婦(奥の事務方のような仕事)に移してもらうようにしていただいたそうだ。

 大正天皇はとても心やさしい人で、昭憲皇太后(明治天皇の妻、大正帝の実の母ではない)をとても大事にしていた。「階段の、お自分さんのミヨ(足)がお悪いのに、御自分さん後ろ向きにお階段のおしたへお下り遊ばして、お手手こうお持ち遊ばしてね、…「お危のうございますよ・・・」って仰せんなって、おいたわり遊ばすんですよ。そうするとあの昭憲皇后さま、お涙ためて「恐れいります」いわしゃって、うんとにお美しいですね、・・・。

 ふつう天皇はたとえ母に対してでも、そのようにしないが、大正天皇は、そのような習慣に縛られることはなかった。

また、大正天皇は仕事にはとてもご熱心で、たとえお食事中でも、仕事上の(政治の)面会などがあれば、自らすぐ執務室に足を運ばれた。相手を待たせるか、来させるかすればいいものを、…と椿の局は不思議に思った、と。

また、新嘗祭や月初めの御神事を行われるさいの、じつに繊細きわまりない清めの準備があるのには驚かされる。このような不眠不休の作業が常に行われていることをわれわれは知らない。

 「おやすみの日はあらしゃいませんよ。日曜なんて私らのとこの国ではないんです。…だからみんな大祭やいうて遊びに行ったり、長長なって(寝て)らっしゃると、もったいない、お上はお休み遊ばされない、御寝も遊ばされんで御自分が神様の御用遊ばして、国民のために遊ばされるのに、人民は粗末な気持ちで居るって、あたくしがいつも怒るんです。」

 大正天皇は葉山の御用邸で、1926年(大正15年)12月25日に、お亡くなりになった。その年の8月10日、天皇は皇居から車で原宿宮廷駅に運ばれた。その時の様子。

 「だいぶお悪いというので葉山へおともする(お連れする)ことは、よくわかって頂いたんですが、お自動車へね召さすとき、「いや」っと仰せんなった。お自動車が分からんようにお庭の方へ自動車廻して、お庭玄関からずっとお入れしたの。おいたわしい、そんな拝見して、そんなにまでもお連れ申さんかてええのにって、あたくしとか宮内大臣、それこそ食ってかかるっちゅうか、けんかずくでね申しあげたことあります。何かきっとどっかで相談あったんでしょうと思いますね。

 自動車へは(お上を)そのごと(そなまま)じゅうっとお入れしたんですもんで、(立った格好で)おズボンを見えさすのに、こういう風にお抱えして、ほいでおミヤ(足)へおズボンこうしてあげたですもんでね。途中でまたおチョーズ(小便)がおいでんなりたいといかんからって、お袋あげてね、だから地獄の責苦ですわ。もったいなくってね、なぜそういうこをしてお連れましなきょならんのか、皇后様、良いっていうこと仰せんならなかったです。侍従さんもみんな反対、入江さん(侍従)はじいのかみ(おじいいさん)でしたが、(その反対に対する)御返答伺ってないまま、お連れまししたんだって仰ってました。…」

 「葉山の御用邸は澄宮様(三笠宮)のおややさん(赤ちゃん)の時に御別邸ならいしゃったとき出来た御別邸ですもんでね、お詰めするのにも人の寝るとこも、坐るとこもないくらい、御殿としちゃあ狭いとこです。…あたしたちも注射さしあげられるようにちゃんとしました。お側にお注射器を揃えて、消毒してお戸棚置いてみんな入れて用意してはりましたでね。…皇后様は、崩御んなるまでお召(着物)をお解き遊ばす間もなしで、お側離れずずっとおつき遊ばしてました。…でも御寿命ですからね、お若いときからおつとめ一途に、ただもう御無理ばっかし遊ばされて御体力がお弱りんなったのがご病気の始まりだったし、秩父宮様が「人事をつくした」って仰せになった通りでしたと思います。・・・


    

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貞明皇后御歌20


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  1921年(大正10年)節子皇后は天皇の御負担軽減のために、宮内大臣、牧野伸顕に述べている。

 「日記などを見るに、京都時代(明治維新より前)は、只今よりよほど簡単であったと見ゆ、明治になり復旧なされたるもの多し、日記には祭事に付き、女官が代理したるもの少なからず、御代御代の中に御弱き方も入らせられそれが為右の如き取り計らひたるものと考へらる」(『牧野伸顕日記』)

 『昭和天皇』(原武史著)によると、節子皇后は、天皇とともに、葉山や日光の御用邸に夏や冬は御滞在のことが多く、いわゆる宮中祭祀には御熱心とはいえなかったが、しかし皇太子の御外遊ころから、それまで(明治になって)創られた伝統と見なしていたはずの祭祀に、皇后は積極的に関わるようになられた。

 さらに原はこう言っている、「その背景には、おそらく大正天皇の病気があろう。貞明皇后は、大正天皇が脳病に冒されたのは、天皇と一緒に御用邸に滞在し、祭祀をおろそかにしたことに対して、神罰が当たったからだと考えるようになったのではなかろうか。皇后が裕仁皇太子に〈信仰〉の重要性を説こうとしたのは、大正天皇と同じ過ちを繰り返させまいとする母親の愛情に根ざしていたからだとも言えなくはない」と。そうして、自らを神功皇后(夫である仲哀天皇は、神の教えを信じずに早逝した)になぞらえて、香椎宮を参拝されたのだ、と。

 何かこう言ってしまうと身も蓋もないように感じる。たしかに、皇后はこの頃から、皇統の何たるかをお知りになり、祭祀を大事にされ、あらゆる迷信もふくめて宮中の伝統を率先して守っていこうとお考えになったのであろう。また、日に日に衰弱してゆかれる天皇を目の当たりにして藁をも掴もうというお気持ちになられたのは無理もない。また、筧克彦博士から仲哀天皇の話を聞かされていたかもしれない。

 しかし、大正天皇が祭祀をおろそかにして神罰が当たったとは、本当にそうお感じになったのであろうか。そのゆえに香椎宮を参拝されたのであろうか。そうかもしれない。そうでないかもしれない。そうであるならば、むしろ、皇后とはいえ、そのようにお感じになった己の罪を責められたのではなかろうか。

 1925年(大正14年)御歌から

     春夜
 酔ひしれし人のとよみもしづまりて
   都の春も夜はしづけし


     習字
 むづかしとおもひながらも習ふまに
   もじの心も得られゆくかな


 筆とれば時のうつるも忘られて
   手習ふわざぞたのしかりける


 1926年(大正15年)御歌から

    寒月
 くまざさの上なる霜につめたさを
   かさねて月のふけわたるかな


    名所雪
 びはの海はうすきみどりにみえそめて  
   雪にあけゆく比良の遠山


    鐘声
 にぎはしき都にありてきけどなほ
   淋しかりけりかねのひびきは


    雲雀
 あさ月のかげうすれゆく大空に
   たかく上がりてひばりなくなり


 あの家持の「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」の欝屈した歌から取られたのだろうか。

 しかし、八月ほとんど歩行困難になっておられた天皇は、新設されたばかりの原宿宮廷駅から、ひっそりと葉山御用邸に移される。

      庭鶴  天長節
 吹上げのみにはの鶴の千代よばふ
    声おまし(御座所)まで高く聞こゆる


      秋霜
 ふじのねのいただき白く雪みえて
   みやこの秋に初霜のふる


 11月ごろから、天皇の平癒を願う人々の姿が皇居や神宮に見られるようになる。12月24日の夕ぐれ、突然に季節外れの雷鳴と豪雨が葉山御用邸を襲った。25日午前1時25分、天皇崩御。御遺体はただちに、御本邸に移された。早朝、屋根の上から、真白い鶴のような大鳥が飛び立ったのを見た、と女官たちは語り合ったという。

 

 

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貞明皇后御歌19

1923年(大正13年)1月26日、宮中某重大事件もすっかり落着し、摂政宮(裕仁皇太子)と久邇宮良子(くにのみやながこ)女王とはめでたく御成婚の儀と相成りました。

     桃花契千年
 もろともに千代を契りてさかえなむ
   春のみ山の桃のふたもと


 天皇の御容態がだんだん悪くなるなか、皇太子の責任の重さを誰よりも深くかみしめていたのは、節子皇后ではないでしょうか。それかあらぬか、この年は、筧博士の神道講義に触発されたごとき歌が目につきます。

    新年言忘 御会始
 あら玉の年のはじめにちかふかな
   神ながらなる道をふまむと


     以歌護世
 皇神の道のまことをうたひあげて
   栄ゆく御代をいよよ守らむ


     読史
 皇孫に天降りまさねとのらしけむ
   大みことばのたふとくおもほゆ


 もちろん、嘘はないはずですが、あまり面白くないですね、こういう御歌は。それよりやはり次のような御歌がいいですね。

     わか草ところどころ
 立ちまよふ霞ふきとく春風に
   むるむらみゆる野べのわかくさ


     春風
 よのさまもうち忘れつつ草つむと
   ほてりし顔に春風ぞふく


     琴
 少女子(おとめご)の弾く手妙なる琴の音に
   松の風さへ吹き止みにけり


     深夜春雨
 ねざめして嬉しとぞきくもえいでむ
   小草そだつる春雨のおと


     苔上落花
 きはやかに色あらためし苔生には
   ちりくる花もここちよげなり


 さむくふく夕べの風に菊つくる
   人のしはぶく声のきこえる


   ときにはこのようなことも 秋夜思親
 秋の夜の長きゆめ路にあひみむと
   恋ふる心をしりますか父


 思い返せば、明治32年、自分も周囲も婚儀の準備にたいへん忙しい中、父道孝は16歳の節子姫を世俗の見納めにと、とある料亭に連れて行ってくれた。そのとき、座敷に一人の美しい芸者が呼ばれ、三味線を奏でた。そっと目を閉じた道孝は、その音楽に合わせて口ずさむ、「梅にも春の色そえて、若水くみか車井の、声もせわしき鳥追いや…」部屋にはひたひたと妖艶な雰囲気が広がっていった。

 節子姫にとって、これは思いがけない出来事であり、この時の父の心づくし、恩愛を一生忘れることがなかった。御結婚後、宮中生活においても、ときにこの父の歌った端歌が頭から去らず、ふと口にお出になることがあったという。




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貞明皇后御歌18

1923年(大正12年)御歌から

     箒
 あさまだき掃きて清むる手ははぎの
   音はねみみによきものにして


     残鶯
 世はなれし山のみ寺をとひくれば
   のこる桜に鶯のなく


     峠松
 旅人をおくりむかへてひとつ松
   山の峠に幾世へぬらむ


     夏夜
 閨のうちの夜の暑さぞたへがたき
   昼はなかなか風も入りしを


 思えば、少し前までクーラーも扇風機すらなかったのだ・・・。そんな時代を想像するだけで、もはや小生苦しくなる。

     櫛
 黒髪もみづきはたちて見ゆるかな
   少女かざせる玉の御櫛に


小生としては玉鬘を盗み見たときの心の高鳴りが何時までも消えず、なかなか思い切れない源氏の悩ましい気持ちが解らんでもない。

     故郷虫
 ふるさとのまがきの萩をみむと来て
   かはらぬ虫のこゑをきくかな


     畑茄子
 畑もりのをぢのほほ笑みさもこそと
   おもはるるまで茄子のみのれる


 幼少時育ったあの農家を久しぶりに訪れた途端、あの時の一切が蘇ってきたのではないだろうか。

 ところが、この年、日本人なら誰もが知る関東大震災が起こる。9月1日正午前。ちょうどこの時両陛下は日光の田母沢御用邸に滞在しておられた。例年なら葉山に御滞在であるところ、天皇の体調を慮り、日光に御避暑とのことであったらしい。

 『貞明皇后』(主婦の友社)によると、御用邸も烈しい振動に見舞われ、棟柱のきしる音、物の落ちる音、砕ける音が相ついだ。平素、つつしみ深い側近の人たちも、大きな悲鳴をあげて、立ち騒ぐばかりであった。
 しかし、そのとき皇后、少しも騒がず、むしろ騒ぐ人々をお制しになって、まず、不自由な天皇のお手を引いて一歩一歩庭先の広い芝生に導かれた。そして、いそいで東京に電話をし、こちらは無事であること、また東京の様子を伺うように、侍従にお命じになった。
 ところが、時すでに遅し、電話は不通状態となっていた。ただちに、伝書鳩を飛ばすようお命じになった。今の時代なら携帯で即様子が見れるが、当時は、ましてや鉄道も不通となっては、その詳細が判るまで何日もかかった。じつはその日、東京市内では150余か所から火が上がり、7割が灰燼に帰しつつあり、90000人以上の死者が出ていた。

 そのときちょうど、大命を拝した第二次山本内閣は組閣難に陥っていた。ようやく大急ぎで組閣したものの、電燈も点かぬ蝋燭の灯りのもとで行われた故、地震内閣と揶揄されたという。それにしても、この前の東北大震災も、折から経験不足の内閣のとき起こった、重なる時は重なるものだ。

 一週間ほど経って判ってきたおおよその事に皇后は心をお痛めになった。しかし、心痛にひたっている暇はなかった。東京のみではなく、国民全体の不安を解消すべく、天皇に一日も早く宮城に御戻りいただかねくてはならないと考えるいっぽう、しかし御病状は一進一退、まだ暑いさなか東京御帰還はいかなるものか、だがまた、この危急時に天皇がいつまでも日光にどどまっておられるのはよくないことだ。結局、一刻も早く東京に御戻りしていただくことを決断された。

 9月29日、節子皇后は地獄のごとき被災地に足をお運びになった。じっさい皇后は上野駅から、そのまままっすぐに上野公園自治館内の被災者収容所へ。〈見るも悲し、いかにかすべきわが心〉というお気持ちであられたであろう。宮内省巡回病院、三井慈善病院をお見舞い、そのあくる日も諸病院へお見舞い、そして何万と横死者の冥福を祈り、かろうじて避難しえた人々のテントを廻り、慰めや励ましのお言葉をかけられた。

 燃ゆる火を避けんとしては水の中に
   おぼれし人のいとほしきかな


 生きものに賑はひし春もありけるを
   かばねつみたる庭となりたる


    震災のあとのことども見も聞きもして
 きくにだに胸つぶるるをまのあたり
   見し人心いかにかありけむ


      寒夜霰
 さらぬだに秩父ねおろし寒き夜を
   あれし都に霰ふるなり


 震災から12月半ばまで、被災者の気持ちを思い温かい服を着ることはできないと、女官らの勧めを断って、外出時は夏服をお通しになった、という。

 11月23日、摂政宮(皇太子)は天皇に代わって初めて新嘗祭を行われた。その時の母皇后の御歌、

    御深夜しに数よみしける歌の中に冬暁
 ねやの戸のひまもる風のつめたさに
   あかつきおきのたへがたきころ


 この年も終わりという、12月27日、特別議会の開院式に向かう摂政宮の行列に、一発の銃声が響いた。いわゆる虎の門事件である。犯人の難波大助は「革命万歳!」を叫んで車を追ったところを捕らえられた。彼は富豪の家に育ったが、共産主義アナーキストたちに心酔し、大杉事件・亀戸事件など共産主義運動家への官憲の非道な弾圧に憤激していた。

 せっかく繊細な心をもっていながらも、いや繊細であればあるほど、イデオロギーは人の心を理解しないということが往々にして解らなくなるものだ。

 避難者の身に水をそそぎて辛くして火を免れしめし警官の却りておのが身の焼かれて命失ひけるよしをききて
 まごころのあつきがままにもゆる火の
   力づよさもおぼえざりけむ


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貞明皇后御歌17

1921年(大正10年)から崩御の年(大正15年)までの間は、天皇の心身がお仕事から離れていく過程であった。明治・大正と仕人として皇室に仕えていた小川という人が、当時の天皇の痛ましい姿を伝えている。

 「いつのときであったか、豊明殿で高官たちに御陪食をたまわったことがあった。…宴会が終わって、高官たちがぞろぞろと廊下に出てきて、陛下が奥にお帰りになるのをお見送りするために、並んで立っていた。いつもなら決してそういうことはなかったのであるが、高官たちの気持ちの中に、陛下が御病気だという観念があって気をゆるめていたのであったろう。あちこちで私語する話声が聞こえてなんとなくざわめいていた。そこへ陛下がお出ましになった。高官たちはさすがに話声はやめたが、いつものように自然に頭が下がらない。突っ立ったまま陛下を目送りするような始末である。そのとき、どうしてわたしが見たのか今でもよく思い出せないが、皇后陛下お一人が静かに頭を下げて最敬礼をしておいでになった。そこではじめて自分たちの失礼な態度に気づいた高官たちは、あわてて最敬礼をして陛下をお見送りしたのである。」(『宮廷』小川金男著)

 「当時、陛下の御病気がお悪くなってからは、何かにつけ皇后陛下は気を配っておいでになった御様子で、そういう公式のお席にもいつも皇后陛下がご同席になっていた。」(同著)

   1922年(大正11年)歌会始

 おほ海原なみをさまりてのぼる日に
   むつみあふ世のさまをみるかな


この年の春、節子皇后は天皇の御平癒祈願と前年の皇太子殿下の御外遊からの無事御帰還御礼のために、香椎宮、箱崎宮、大宰府天満宮、厳島神社に参拝の旅に出られた。

    香椎宮を拝ろがみて
 大みたま吾が身に下り宿りまし
   尽くすまことをおしひろめませ


 ここで神功皇后の霊力を一身に浴びられたこと、また大宰府にては菅原公の怨霊を和らげられたことも言うまでもない。

    大宰府神社にて御手植の梅を
 つくしがたふく春風に神そのの
   はやしの梅は香に立ちにけり


 またこの年、大隈、山県という御一新をなした藩閥の大物が亡くなった。山県が亡くなる直前、節子皇后は山県公に感謝の歌を送っておられるが―

    明治天皇御集、昭憲皇太后御集編纂なりて
上奏しける時御かたへに侍りし山県顧問の心尽しを
 ならびます神のみひかりあふぐにも
   まづこそおもへ君がいさをを


 小生はこの歌よりも前書きに注意がいく。明治天皇御集の編纂事業なったとき、傍らにいた〈山県顧問〉の心尽しに感謝されたのであった。では、山県公の政治家としてあるいは他の仕事についてはどうなのであろうか。それは解らない。しかしあの誰からも好かれない、あまつさえ嘉仁天皇にもっとも辛く当った山県公に対して、節子皇后はどのように感じておられたのか。それはそれ、これはこれ、と割り切って考えられていたのか。少なくともこの期におよんで、維新以来、彼なりにわが国のために働いてきた山県公を批判するお気持ちはなかったと思う。

 しかし、おそらく嘉仁天皇がもっと苦痛に感じたのは人の心の裏表であった。先ほどの小川氏の言の続きー

 「陛下のご病状が悪化してからは、ますます神経が敏感になられたということは前にも書いたが、陛下が御病気であるということから、女官のなかにはついうかうかと陰日向の行動をする者もあった訳だが、そういうことが陛下の神経をいたく刺激したらしく、しかもまた、陛下にはそういう行動が敏感におわかりになったらしく、そういう女官がお靴をお揃えした場合などには、陛下は決してその靴をおはきにならなかった。」

   1923年(大正12年)暁山雲 歌会始

 あかつきのきよき心にあふぐかな
   朝熊山の峯の白雲



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貞明皇后御歌16

1919年(大正8年)5月7日 裕仁皇太子成人式

    東宮の御誕辰に
 のびたちて千代のいろなるこの君の
   むかしの春をおもひいでつつ


 節子皇后は、わが子とはいえ将来天皇になる長男に対しては常に一歩下がって敬意を表していたようだ。そのためか母性愛の対象としては、腕白坊やの誉れ高い二男雍仁親王(秩父宮)に大いに向けられた。とはいっても決して狎れ合うといった愛情ではなく、爽やかで凛としたものだ。

 ちなみに、秩父宮殿下が陸軍幼年学校に入学されたとき(大正6年4月)の、皇后からのお祝いの手紙をここに写しておこう。

「明日より幼年学校へ御入学と承り一言申入候  申迄もなく御承知と存じ候も凡そ軍人たるべき学生は殊に規律を重んじ 厳かに校則を守り給はん事専一と存じ候 又克く教官の指導に従ひ一層の御奮励ありて 範を垂れ給はん事を切に念じ申候 ここに国家の干城たる第一階に登り給はんとするを祝して銃剣一口を贈り申候 
 古より吾が日本刀は男児の魂と伝へ承り候 諺に花は桜木人は武士と申習はし候 此の桜花爛漫の好時節に御入学相成候事転た感慨の深きを覚え申候 且は桜花と刀剣とまた将た其因縁浅からざるにや存ぜられ候 希くは常に血気の勇にはやり給はず 事に中りて能く精神を鍛錬し 細密なる思慮と寛容なる温情とを養ひ給ひ 仰ぎては
御父天皇陛下及び御兄皇太子殿下の御心にそひ 
伏しては弟宮達の為に好範を示し給ひ臣民衆庶の忠誠を奮起せしむべき御覚悟あらまほしく 神かけて願ひ申候
おもふこころの万分の一にと   かしこ
  四月八日    母より
 淳宮  御もとに   」

 このお手紙の御親筆がどんなに見事なものであるかを想像してみるのは楽しい。


 この年、第4皇子澄宮が着袴(ちゃっこ)の式をあげた。この澄宮(後の三笠宮殿下)は、大正4年の生誕つまり、節子妃が皇后になってから生まれた子である。それゆえ3人の兄たちとは違って、じかに母から教育されることが多く、古来の和歌を口づてに聞かされることが多かったという。

  この年から、

     夏灯
 かぜわたるをすのひまより灯火の
   影のゆらぎてみゆるすずしさ


    百合薫
 高殿のをすふきあぐる山かぜに
   さかりの百合の花の香ぞする


    秋水
 掬ふ手のうすらつめたくおぼゆるは
   水の心も秋になりけむ


 大正九年から

    海上春風
 葉山の海汐のひがたをゆく袖も
   かへさぬほどの春のあさかぜ


    こたび高松宮の海軍に志して江田島なる兵学校に入学給ふにさきだちて伊勢神宮にまうで給はむとするにいささか心におもふ事どもつらねてそのはなむけに参らす
 大神のみまへをろがみ誓ひませ
   おもひたちたることを遂げむと


 しかし、好い時はあっという間に過ぎ去り、苦しい時は長々と続くように感じるもの。

     落葉
 庭もりがいま掃き終へし坪のうちに
   たえまもおかず散る紅葉かな


この2年来、目に見えて天皇の体調は悪化の一途をたどっていた。初めは四肢の神経痛、そして運動失調、この頃は、気力を欠いた姿勢や表情が目立つようになった。1920年(大正9年)3月30日、ついに政府は公の御病状発表をするにいたる。

 この日、原敬は日記にこう書いている、「陛下御践祚以来つねに内外多事にわたらせられ殊に大礼前後は各種の典式等日夜あい連なり次いで大戦の参加となり終始宸襟(しんきん)を労せたまふこと少なからず御心神に幾分か御披露の御模様あらせられ且つ一両年前より御尿中に時々糖分を見ることこれあり昨年以来時々坐骨神経痛を発せられこれがため今春葉山御避寒中は政務をみそなはさるる外はもっぱら玉体の御安養を旨とせられ…」
 
翌1921年(大正10年)11月の宮内省発表「…御脳力の衰退は幼少時の時御悩みあそばされたる御脳病に原因するものと拝察することは、拝診医の意見一致するところなり…」との記事に対して、侍従武官四竈孝輔は反発し、「専ら御静養あらせ給はんとする聖上陛下に対し、何の必要ありてか此の発表を敢えてしたる、余はここに至りて宮相の人格を疑はざるをえざるなり」と日記に書いている。

また、皇太子はすでに久邇宮良子王女と婚約しておられたが、すったもんだ(王女の家系に色盲があることに関して、皇室、華族、政府、右翼を巻き込んだ、いわゆる宮中某重大事件―これでようやく山県公も失脚した)の末、御婚約確定の発表があったのも、また半年間の皇太子御外遊(3月~9月)の後、摂政就任について検討されていたのもこの年であった。

このような時、もっとも重圧がかかってくるのはむろん皇后陛下であった。この年、宮内大臣を拝命した牧野伸顕は日記に書いている。

「十月十一日 内大臣府にて松方侯に会談す。同日内府皇后陛下に拝謁、問題に付委曲言上。陛下にも已に御覚悟の色十分顕はれ。御言葉中に今まで新聞に奥の事が記載されざるは仕合せなりと仰せられたる由、平生御上の事につき如何に御焦慮あそばされ居るか伺ふに足る。但し進行上に付き御意見あり。

第一、 輔導を置くことは御不賛成なり。それは権力が自然輔導たる皇族に加はる事を恐るるの意味に於いて。
第二、 青山御所は不可なり。皇太子はかねて同所を御嫌なり。そのことは度々洩らし相成たるを以て今同所を御住居と定ることは面白からず。
第三、 御上は内閣の伺ひものを御楽しみに思し召すに付、何とか取扱上急にこの種の御仕事の無くならざる工夫はないか。要するに全く御仕事の無くならざる便法はなきか。…
以上大体の思召しを伺ひ得て大いに安心せり。」

国政と病気の天皇と二つながら援けなければならない。節子皇后はすでに覚悟はできていた。

翌年の秋の『牧野伸顕日記』にこうある。

「9月22日。両陛下拝謁。皇后様へ摂政殿下大演習、次いで四国御巡視のため神嘗祭は御代祭を願ふほか致し方なき旨言上したるに、御肯諾あり。且つ殿下には御正坐御できならざるにつき御親祭は事実不可能なり、今後は是非御練習の上正坐に御堪へ相成様致したく、昨年来ことにこの種の御務め事に御怠慢の御様子あり、今後は何とか自発的に御心がけ相成る様致したし、それも御形式になく御心より御務めなさるるよう御自覚なされたく望み居る旨御仰せあり。…」

皇太子の御成婚やいかに。

 「9月23日 皇后様へ拝謁。御結婚に御入用の宝石類の事につき言上、また女官人選につき御思召し伺ひたるに、東宮御内儀の根本義は如何相成るや、従来の純御所風にするか、あるいは霞が関の現状を基として洋風に則るか、それにより女官人選も自ら考慮すべし、自分の時は明治天皇様の御指図にて純日本式に御決定相成りたり、今日は全然旧式にも困難なるべく…」

    大正十年御歌会始

    社頭暁
 つたへきく天の岩屋もしのばれて
   暁きよし伊勢の神がき


 ちなみに同じ時の大正天皇御製。これが大正天皇の白鳥の歌であった。小生はこの御歌を口ずさんでこの詩人の透徹した自意識に感動せずにはおれない。

    社頭暁
 神まつるわが白妙の袖の上に
   かつうすれ行くみあかしのかげ



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貞明皇后御歌15

この頃こんなエピソードがある。
 
 ある冬の霜の降りた朝、一人の少年が皇后の御休所の近くに佇んでいたのを一女官が見付けた。不審に思って、他の女官たちをよんで(この場所は男子禁制なのだ)、その少年を包囲し、取り押さえた。

 少年は年の頃十五、六歳くらい。女官の尋問に震えて答えた、「お情け深いと聞いている皇后さまに一度お会いしたく、なんとなくここへ来てしまった」と。この騒がしさが節子皇后の耳に入ってしまった。

 ところが、皇后はこの少年を不憫にがられ、「こんな冷たい朝、さぞ寒い思いをしたであろう。温かいおかゆでもさしあげましょう」とおっしゃった。

 このささやかなエピソードは、節子皇后の人となりをよく表しているだけでなく、むしろ皇室はどのようにあるべきかを明瞭に自覚されていたことを表しているのではないか、と感じる。

 1915年(大正4年)

     海辺梅雨
 あま人のかるもほす日やなかるらむ
    晴れまも見えぬさみだれの浜


 1916年(大正5年)

     貧民
 うゑになきやまひになやむ人の身を
    あまねくすくふすべもあらぬか


 皇后という立場になられて、筧博士によって〈神ながらの道〉ということに目覚めることによっておそらく、では現在人としての自分はいかにすべきかがはっきりしたのではないでしょうか。

 しかし、日々の重圧に耐えておられる天皇に、この年なんとなくお疲れが見うけられ、心のどこかに不安の影がさっと過ぎります。

    折にふれて
 すすはらひ果ててしづけき夕ぐれに
   あんらの木の実おつる音する
     
あんらとはマンゴーのこと。

 1917年(大正6年)1月、避寒のため葉山御用邸に行啓。

    2月9日のあさ雪ふりけるに
 くもきれて日のさしわたる庭のおもに
   ふりてはきゆる春のあわゆき


    南御用邸にて
 大庭のゆき間につめるつくづくし
   君がみかえりまちてささげむ
    
つくづくしとは土筆(つくし)のこと

    折にふれて
 浜づたひ貝ひろふ手にゆくりなく
    ちりかかりけり春のあわゆき

   この時、天皇と御一緒だったのでは。

    老人
 過ぎし世の事にあかるきおい人の
   のこりすくなくなるがさびしさ


    閑話
 たきもののかをり満ちたる窓のうちは
   かたらひ草の花もさきそふ


    閑居夢
 おきふしのやくらけき身のただならぬ
   ゆめにおどろく夜半もありけり


    渓菊
 みづかれしほそたにがはの岩が根に
   やせても咲ける白菊のはな


 大正7年 

    慈恵会に
 うつくしむさなけのつゆを民草に
   もるるくまなくそそぎてしがな

 
 明治8年軍医高木兼寛は英国留学中に、貧困者に無料で治療する施設の充実している事に感心し、帰国後15年「有志共立東京病院」を設立。皇室は6000円下賜。その後「東京慈恵会病院」と改称、皇后陛下の庇護の下、ますますその業務を拡張するにいったった、とのこと。

   病室にて後よりわが動作に目をとめて見る人の多きに
 ところせき身にしあらずば病む人の
   手あしなでてもいたはらましを


 この年、天皇の身体の不調はだれの目に明らかであった。10月、大正天皇は天長節観兵式を欠席された。

 冬の日、皇后は風に吹かれて落ち葉がたまっていく様子をみて、もはやどうにもならないと感じられていた。しかし、またそんなことばかり思って悩んでいてもしようがあるまい、と時々には思いきることのできる人であった。

     落葉
 こがらしにふきたてられて中空に
   あがる落ち葉のおもしろきかな



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貞明皇后御歌14

   

32歳の嘉仁皇太子が天皇に即位された年から、目に見えてお体に変調をきたすようになった大正7年くらいまでの国内外の状況にざっと目を通してみよう。

1912年(明治45年) 中国で清朝滅亡し、中華民国起こる。明治天皇崩御

1913年(大正2年)  大正政変(大正天皇陸軍に利用される)→軍部大臣現役武官制の廃止

1914年(大正3年)  シーメンス事件(三井物産と海軍首脳との贈収賄事件、ドイツの謀略か?)第一次世界大戦参戦

1915年(大正4年)  対華21カ条要求 戦争景気 *4月、大正天皇即位の大礼 *12月、第4皇子澄宮崇仁親王(三笠宮)誕生

1916年(大正5年)  大隈首相狙撃される  民本主義(吉野作造)

1917年(大正6年)  石井=ランシング協定(日本の中国対策についてアメリカの容喙) ロシア革命→ロマノフ王朝滅亡→日本の華族層に衝撃を与える。戦争景気→物価高→貧富の差拡大

1928年(大正7年)  シベリア出兵~1922(大出費)物価高→米騒動(越後一揆全国へ)革命への不安 寺内内閣総辞職→平民宰相原敬(初の本格的政党内閣)

 何時の時代も多事多難。大日本帝国憲法下での天皇は、真正面から政治に向かわねばならない。ところで、大正天皇はどういうお人かというと、もう何度も触れましたけれどね、公的な儀式などにはもっとも不似合いなお人だった。大隈公から見れば大正天皇は、失礼ながらかわいい繰り人形みたいなものじゃなかったのかな。堅物の山県公から見れば、ふがいないと言うか怒れてきて怒れてきてしようがない対象だった。

 原武史著『大正天皇』には、こんなエピソードが載っている。明治45年7月30日明治天皇崩御、ただちに新天皇が宮中正殿で朝見の儀で勅語朗読。しかし新天皇はこういう状況において、じっとし続けることが大の苦手である。後で、財部彪が日記に書くー(文字遣い変えますが)

 「朝見の節、天皇陛下の落ち着かれざる御態度は目下御悲痛の場合さることと申しながら、昨日の御態度については、涙滂沱たりし老臣もありたり」

また同書に、海軍大将山本権兵衛は、「今上帝の御代となりては恐れながら山県公如き人ある方が、国家の御為なり、然らざれば万々一御我儘にても募る事ありては甚だ大事なり」と語っている。政敵の山県を評価しなければならないほど大正天皇を〈でくのぼう〉であると口に出さんばかりである。

例の大正政変のとき、山本は「陛下の思し召しとは言へ、それは先帝の場合とは恐れながら異るところあり。自分の所信にてはたとひ御沙汰なりと出盧国家の為に不得策なりと信ずれば御沙汰に随わざる方かえって忠誠なりと信ずるを以て…」  

 こんな天皇の為にやっておれるか、という所でしょう。とても忠臣とは思えませんね。しかし、大正天皇とはそういう人だったのであり、そういう性格の(今ならA.症候群と名付けられるような)人が、あの時代にお生まれになった。他でもない大正天皇の御存在こそ、恐れながら、〈天皇すなわち日本文化の中心〉と〈国家というもの〉とそして〈人間の個人として生〉ということの関係および無関係の方程式を解くヒントだと小生は感じるのであります。

 そして大正天皇の妻となられた貞明皇后こそ、大正天皇をもっとも身近に感じられた人ではないでしょうか。

 大正3年の御歌をもう一つ

    池水鳥
 水とりもいのちのつばさきられては
   波なき池もすみうかるべき



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貞明皇后御歌13

 大正の御代となって、明治天皇の場合と異なり、行幸は軍事行幸をのぞいて皇后同伴となったというが、どうしてそうなったのか、いったい誰の意思によるものか、はなはだ興味のあるところだ。時代の要請―すなわち、マスメディア? 政府? あるいは天皇・皇后?

 青山御所から宮城にお移りになった新両陛下は、今までとは違った雰囲気でご起居することとなった。ここでは旧習が頑として支配していた。女官たちは三倍にも増え、萬里小路幸子のような年長女官は、立ち居振る舞い、話し方、眼の動かし方一つに至るまで厳しくチェックするのだった。

 29歳の新皇后は、そのような宮中の伝統・習慣は、そのまま受け入れようとしたようだが、また一方、明治天皇とは違ったやり方をしようとする大正天皇と歩調を合わせていこうとも心を配った。天皇家御一家が〈家庭の団欒〉を楽しむ時は、居合わせた女官たちもいっしょに楽しむことができた。

 大正3年の御歌から

    春雪
 降りつもる雪のしたよりとけそめて
   はるをささやく軒の玉水


    雪中松
 一つ松こよひは雪につつまれて
   冬の寒さもしらずがほなり


 この年(1914年)4月昭憲皇太后(明治天皇妃)崩御

    落花
 ふくかぜはさそひそめけりさくら花
   うつろふいろもいまだ見えぬに


そして、7月、第一次世界大戦勃発

    宣戦布告のありて後おこなはれける提灯行列を
 万代のこゑにぞしるきまごころの
   あかきほかげは目に見ざれども


    10月31日天長節祝日に我が攻囲軍の今晩より一斉に砲撃を開始しける由の号外をみて
 おほきみのみいつのもとに軍人(いくさびと)
   かちどきあげむ時ちかづきぬ

        みいつ(御稜威)とは御威勢のこと

    11月7日青島の陥落しける由をききて
 日のもとにたふときものは大君の
   みいつと神のまもりなりけり

   

  

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貞明皇后御歌12

   養蚕をはじめけるころ(大正2年)
 かりそめにはじめしこがひわがいのち
   あらむかぎりと思ひなりぬる


 こがひとは蚕を飼うこと。貞明皇后といえば養蚕とくる、という人もいるのではないかと思われるくらい、〈お蚕さん〉に力を入れられた。幼いころ、あの武蔵野の農家で親しく触れられた蚕の感触は一生離れることはなかった。

 紀元前の大昔、中国で始まった養蚕は、まず西洋に伝わり、日本には2世紀ごろに伝わったらしい。まさにシルクロード。蚕は天の虫と書くほど貴重な虫だった。わが国では天皇もそれを重視し、いつしか宮中でも養蚕をするようになったのですね。雄略紀にも「天皇、后妃をして親しく桑こかしめて、蚕の事を勧めむと欲す」と書かれている。

 そして、明治の御代になって、昭憲皇太后(明治天皇妃)が宮中での〈ご養蚕〉を復活なされて以来、平成の現在にいたるまで、天皇に稲作があるように、皇后は養蚕を続けられている(皇后御親蚕)。

    蚕糸会に(大正3年)
 たなすゑのみつぎのためにひく糸の
   長き世かけてはげめとぞおもふ


 たなすゑの調(みつぎ)とは、辞書をみると、上代の物納税の一つとして、女子が織った布地・絹布を納めること、またその織物、とある。ちなみに、すでに『古事記』崇神天皇条の、有名な〈初国しらしし…天皇〉という文句の直前に、「男の弓端(ゆはず)の調(みつき)、女の手末(たなすゑ)の調を貢らしめたまひき」の記載がある。

 明治時代、生糸は重要な輸出品で、富国強兵の礎と言ってもいいくらいだった。ちょうどこの頃から大東亜戦争中にかけて、輸出はどんどん伸びていく。昭和になって生糸の貿易に関していくつか御歌もあるけれど、これらはいずれ後に紹介しましょ。今は一つだけ挙げておきます。

      養蚕につきて(大正12年)
 わが国のとみのもとなるこがひわざ
   いよいよはげめひなもみやこも



 ちなみに明治41年、養蚕と題した漢詩も作られています。西川泰彦氏の意訳を縮めて紹介します。

 畠一杯に柔らかい桑の繁茂するとき
 朝に夕に摘んで蚕の幼虫に与えます。
 飼養を一生懸命するかしないかが、
 後の糸の多少を決すことを知るべきです。

 さらについでに、同じく西川訳の変奏で、同じころの大正天皇の御製詩を紹介します。両陛下の目の付けどころの違い、いつもの如し。

    養蚕(大正元年)
  
 蚕の桑をとる乙女らが籬辺に集まっている。
 終日作業にはげみ夜も眠られぬほどである。
 その辛苦たるや他の同年代らと比べられぬ。
 彼女らは鏡に映る顔の衰を気にする暇もない。


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貞明皇后御歌11

 1912年(明治45年)この年、東京市内に電灯がほぼ完全普及し、水力発電量が火力発電量を上回り、横川・軽井沢間で日本初の鉄道の電化が行われた。(HP『電気の歴史』)明治の暮らしの漠然とした暗い感じが、一気に明るくなるような話。

 この年の一月には、白瀬中尉が大苦難の末、南極大陸上陸に成功。出発時、無謀と散々非難されたそうだが、帰国後は拍手喝采だった。しかし白瀬は、後援会の義捐金横領の責務を負い、その返済に20年を費さねばならなかったとか。

 また、五月には、オリンピック大会初参加。もちろんアジア国で初参加。クーベルタン男爵の呼び掛けにより、嘉納治五郎団長以下役員二名、陸上選手二人が、シベリア鉄道でストックホルムに向かった。メダルなし。

 他国においては、清朝がほろび中華民国が成立。豪華客船タイタニック号が氷山に衝突し沈没。バルカン諸国が戦争に突入。

 それは、さておき。明治45年というと、日本人で知らぬ人はない。この夏は炎暑であった。7月20日、突然の官報号外〈聖上御不例〉のニュースが、日本国中を駆け巡った。「二重橋の前の広場には、ご平癒を祈願する臣子の群れがあとを絶たなかった。地方地方でも、産土の神の鈴の音はひっきりなしに鳴り響いた」。しかし、ついに7月30日崩御。御歳61歳。

 9月13日、大正と改元。青山葬場殿で御大葬。明くる日、御霊柩は京都伏見桃山の御陵墓へ。そしてその夜、乃木大将夫妻殉死。(壮言豪語の人はゴマンといるが、かくなる寡黙至誠覚悟の人は一人としてなし)

 誰でも、いつかはやってくると知っていながら、漠然とした不安に気がつかない振りをして生きている。そしてついにその日がやってきて、今度は自分が家長としての責任を果たしていかねばならない。もう後戻りはないし、覚悟をしなければならない。

 ましてや国家の長たる天皇皇后御夫妻になられた若い御両人のお気持ちたるやいかばかりであったろう。『貞明皇后』(主婦の友社)には、節子妃が後年にもらされた感慨が書かれている。

 「何と言っても、明治天皇さんがお隠れになったときほど、悲しく、心細く感じたことはなかった。…あのお偉かった明治天皇さんのお後を受けて、若いわたしたちが、どうして継いで行けることだろうかと、心配で心配でならなかった。」

 そして、「そのために節子妃は、神ながらの道を究めようとなさって、筧克彦博士をお召になり。その講義をお聴きになり、納得のゆくまで質問をくり返された。その結果、これでよいという確信を、はじめて得られたそうである。まことに大正の御代は、皇后陛下が、お弱い陛下を背後からしっかりと支えて、日本の女性らしく、目立たぬように内助の功をお積みになった時代である。」と書かれている。

 かくして、大正の御代になった。節子皇后は〈まつりごと〉の本義を悟られた。

 しかし、大正天皇には激務が待ち構えていた。1913年(大正2年)1月早々風邪をこじらせ、5月には肺炎にかかられ、これはかなり重篤であった。東京朝日新聞は「昨年御践祚後、政務御多端にあらせられるが為、遂に運動の御不足を来された結果ではないかと拝察される」と書いている(原)。

 この年の節子皇后の御歌

    寄天祝  天長節
 よろづよはかぎりこそあれかぎりなき
   そらにたぐへむ君がよはひは

    大正天皇の御誕生日は8月31日だが、祝日は10月31日とされた。

    采女のすがたをみて
 みまつりにふふむうねめのよそひみて
   しばし神よの人となりぬる
   
  朱と白の衣装に身を包んだ巫女たちが榊の枝を持ち鈴を鳴らして舞う姿には幻惑されますね

    禁中菊
 君が代をことほぐひまのかざしにも
    おるかみそのの白菊の花


    月前神楽12月15日
 こころありて月もさすらむ大神を
   なぐさめまつるみかぐらのには

      恒例の賢所御神楽祭の行われる日

   

 

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貞明皇后御歌10

 
        
      春閑居
 釜の湯の音よりほかの音もなし
   春しづかなる山の下いほ

   梅さくら何れかおもしろきと人のいふに
 時によりところのよりて梅さくら
   いづれをよしとも定めかねつつ

 しかし、この年、1911年(明治44年)は、節子妃の最大の危機の年だった。3月27日、葉山御用邸にて高熱を発せられる。腸チフスと判明。一時は重篤であらせられたが、5月には御回復、7月にお床払い。このころ年間死者数何千人という腸チフスに罹患するということは、とても恐ろしいことだった。

     声
 まよなかに子のなく声はつるぎばの
    身をきるばかり悲しかりけり

 が、しかし重篤な病にかかるということは、人によってはその後の健康を保証するようなものである。侍医の一人だった新井博士はこう語った、「…結局、あのご病気は妃殿下にとって、一種の天恵みたいなものでありました」

    明治45年 松上鶴 御歌会始
 白波のはままつの上にまふたづの
   つばさゆたかに見ゆるあさかな

 仙人をのせてかへりしたづならむ
   つばさをさめて松にいこふは

     折にふれて
 けふぞ見しむかしの人のうたひける
   かのこまだらの雪のふじのね

 むかしの人の歌とは、『伊勢物語』東下りに

 時しらぬ山は富士の嶺いつとてか         
     鹿の子まだらに雪のふるらむ


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貞明皇后御歌9

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1910年(明治43年)

     新年雪 御歌会始
 としたちてけさめづらしと見る雪も
    はつ荷車やゆきなづむらむ

 御歌会始にこのような歌を詠まれたのですね。

     新年待友
 松のうちにこもれるやどの梅のはな
    みに来む友もあらばとぞおもふ

     
 春はなほ浅沢水にそでぬれて
    ねぜりつみてむこ(籠)にみたずとも

 ねぜりは根芹で、浅沢水にあると決まっているのでしょうか、『金葉集』に、人心あさ沢水の根芹こそこぼるばかりにも摘ままほしけれ(前斎宮越後)という歌があります。

     春風
 すみれさく野路の春かぜをとめ子が
花のたもとをかへしてぞふく
 
 この歌は、小生の好きな志貴皇子の歌、采女の袖ふきかへす明日香風京(みやこ)を遠みいたづらに吹く(万葉51)が陰画とすれば、陽画バージョンですね。

     残水
 里川のみぎはにのこる薄ごほり
   ながれし冬をとどめがほなる

 この年あたりは古今を読んでいるような気になります。

     折にふれて
 おもへども思ひぞなやむいかにせば
   人のこころの安からむかと

 人とは夫君それとも御自身の…しかし結局このように決意します、

 まことよりほかの心をもたざれば  
   世におそろしきものやなからむ

    竹田宮妃殿下のとひ給ひけるに
 なつかしき君の来ませるうれしさに
   先づ何をかといひまどひぬる

 こういうことありますね。別のところでこうも歌っています。

     冬夜閑談
 たまあへる友をむかへてかたる夜は
   冬ともしらぬのどけさにして

 たまあへるとは、魂合へるつまり心が通じあう。ということは、逆に誰でもそうでしょうけれど、なかなか心が通じ合いにくい人が多いということになりませんか。では、それは、どういうことでしょう。

     春曙 
 百鳥の声のきこえて春の夜は
   かすみながらにしらみそめけり

     尋花
 たづね入りし山のかひなくくだり来て
    思はぬ里の花をこそ見れ

     夜春雨
 おぼろよのかすみは雨になりむらし
   更けておとする軒の玉水

     花見
 とりどりによそひこらしてゆく人や
   花見るよりもたのしかるらむ

     夕花 
 白くものおりゐるかとも見ゆるかな
   ゆふべしづけき山のさくらは

     9月24日
 いでましのあとしづかなる秋のよは
   犬さへ早くうまいしてけり

 いでましとは、夫君が京都に行啓。皇太子は犬をとても愛玩されて、いろんな種類をお飼になっておられときく。

     薪(まき)
 あせあえてはらひし賤(しづ)のいたづきを
    まづこそしのべもゆるたきぎに

 あせあえるは汗が滴ること。いたづきは労働。貞明さまはこういう感性の人だったのですね。

  


 

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貞明皇后御歌8

 

1909年(明治42年)

     雪中松 御歌会始
 風もなくふる白雪をうけてたつ
   松のこころやしづけかるらむ

     橋本綱常の身まかりぬとききて
 去年のくれあひしをつひのわかれとは
   思はざりしをあはれ人の世

 橋本綱常は陸軍軍医総監で、橋本左内の弟。この歌業平くずれ。

    雪降らば訪はむと契りおきし人の来ざりければ
 ゆきよりも人の心のあさけれや
   日ぐらしまてどかげの見えこぬ

 かなりの御怒り、来ないのは誰?

 八十歳にまれる師の三島中洲の雪ふれる朝とくより教へにとて来たりければあたたかなるものにてもつかはさむとかと思ひて
 いかにせばけふの寒さを老が身に
   おぼえぬまでになしえらるべき

 三島中洲は嘉仁皇太子の漢詩の先生。このころ夫君と一緒に詩作の教えを請うたのでしょう。立派な老先生と思いやりのある生徒。そうえいば、皇太子が20歳くらいのとき、70歳のこの老臣先生と布引の滝をみに行った時、皇太子の御詩に、「…われ時に戯れに老臣の腰を推す、老臣柿をくらひてわづかに渇きをいやし…」というのがあります。老先生にとって、皇太子は、恐れ多くも、かわいく無邪気な、そしてふしぎな詩魂をもった少年に映っていたのではないでしょうか。

    暮春(一部漢字に変換、今後も同様御免)
 惜しむかひなしとは知れどくれてゆく
   春の空こそながめられけれ

 空のうみ月のみふねのゆく方に
   白なみなしてよするうきぐも

 人みなはききつといふを時鳥
   わがためなどか声をしむらむ

   初秋風
 このあした桐の一葉のちるみれば
   はや秋風のたちそめぬらし

 これ「目にはさやかにみえねども」の逆感覚を行く歌ですね。

   逗子よりかへるみちにて
 みちすがらなみだにくるるけふの旅
   みこの一声耳にのこりて

 人生とは切ないもの…。

ところで、この秋10月、ハルピン駅で伊藤博文が暗殺されます。真犯人は安重根ではなさそうですね。そして伊藤はむしろ融和派だった。それなのに安は韓国では英雄となってますね。韓国にとって、歴史の委細はどうでもよく、ただ日本要人を撃った。よくやった。となるんでしょうね。

    冬夕
 いでなむとおもふも寒き夕ぐれに
   いとどふきそふ木枯の風

 人のこころのいかにぞやと思はるるふしあれどわれだに思ふやうにはなりがてなるに
 人の上をさのみはいはじわが身すら
   わが心にもまかせぬものを

 天使のような夫君と旧習墨守の女官たち、そして皇室を取り巻く公侯伯子男の妖怪たちの中にあって、節子妃はどのような心持ちでおられたのか。

     神祇
 一すぢにまことをもちてつかへなば
   神もよそにはいかで見まさむ

 こう歌うより他はないではないか。


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貞明皇后御歌7

 
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1907年(明治40年)から三年間、節子妃の御歌は多いが、このとき皇太子は全国順啓に多忙であった。原武史著『大正天皇』によると、

 1907年は、5月10日~6月9日に山陰地方。
  10月10日~11月4日に韓国~九州~高知。

韓国順啓は、もちろん伊藤博文の政略であるが、嘉仁皇太子はそんなことより、そこで遇った当時10歳であった韓国皇太子李垠(リギン)に関心を引かれ、同年12月に、李垠は日本に留学することになるが、以後弟のようにかわいがり、李垠のために韓国語の勉強をさえ始めた。

このエピソードが象徴しているように、総じて順啓という完全に政治的なる行程上で、完全に非政治的なる魂が自由に動いているようで、小生には面白い。それはちょうど、少年モーツァルトが、神童ピアニストとして父親にヨーロッパ中を猿回しのように引きずり回された様を想起せずにはおれない。

 1908年(明治41年)、4月4日~19日に山口・徳島。
  9月8日~10月10日に東北地方。皇太子御一家が写った絵葉書が大量に出回った。

 1909年(明治42年)9月15日~10月16日に岐阜・北陸地方へ。

 1910年 栃木・近畿・東海へ。
 1910年 北海道・京阪神へ。

 とにかく、だんだんと明治天皇の名代という色彩が濃くなっていくなかで、嘉仁皇太子は、息詰まるような順啓をこなさねばならなかった。この間、節子妃は、歌を歌うことによって皇太子の帰りを待った。

 明治41年の御歌(つづき)

     撫子
 さびしさをしらず顔にもふるさとの
    庭にほほゑむなでしこの花

     朝蓮(はちす)
 みつつあれどひらきもやらず花蓮
    朝のこころのむすぼほるらむ

     松風追秋
 秋草はまだつぼみだに見せねども
    松ふく風のおとかはりきぬ

     折にふれて
 名もしらぬ小ぐさことごと花さきて
    山路の秋は春にまされり

 東のくもたつ空ぞなつかしき
   君がまします方ぞとおもへば

 万葉ですね…。

    浦擣衣(とうい
 うらなみにまぎるるほどぞあはれなる
   きぬたの音のたえだえにして

    水鳥
 寒かりしよはのおもひもわすれけむ 
   朝日にねぶる岸のみづとり

    
 あさいする窓の戸ちかくむらすずめ
   きてなく声をきけばはづかし

 お若いですねぇ…。

 
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貞明皇后御歌6

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1908年(明治41年)
 2月 日米紳士協定なるものによって、日本からアメリカへの移民禁止。4月、ブラシルへの初移民。西園寺内閣から第二次桂内閣へ。そして、西欧では、オーストリア=ハンガリー帝国~バルカン半島の不穏な情勢、という時代。しかしまあ、政治は政治。

   野残雪
 山かげの小野のささはらさらさらに
    春とも見えず雪ぞのこれる

   春曙
 月影はかすみにきえて山のはの
    花見えそむる春のあけぼの

   藤
 紫のいろなつかしき藤の花
    かめにやささむかざしてや見む

    人伝時鳥
 みやこにはまれになりつるほととぎす
    人づてなれどきくがうれしき

    川辺蛍
 夕立のなごりすずしき川風に
    影も流れてゆくほたるかな

 この時の作と思われる漢詩も作られています。貞明皇后はこの頃から大正三年にかけて、漢詩も手掛けられた。おそらく、夫君の影響でしょう。たぶん嘉仁皇太子が「節子よ、そなたも漢詩を作ってみよ」。節子妃「わたくしは、和歌は好きですけれど、漢詩などはとても難しそうですし、柄ではありませんわ」。嘉仁「心配するな。われが教えて進ぜよう。なに難しく考える必要はない。適当に作れば、後はわれか三島が手直しをするぞ。作れ、作れ」なんて、仲睦まじい情景が浮かんできます。

    柳陰撲蛍(西川泰彦氏読み下し)

 新月未だ昇らず楊柳垂る
 群蛍聚散す野川の涯(みぎわ)
 僮(しもべ)に捕獲を命じ嚢袋に満たしめ
 帰りて詩書を照し昔時を思ふ

 その昔、シナの車胤は、貧にして灯火の油を買えず、大量の蛍を捕まえその光で刻苦勉励、大成した。そのことを想い浮かべられたのですね。

 たぶんこの時、御夫婦一緒に作られたのであろう。嘉仁皇太子の漢詩。

    観蛍

 薄暮水辺涼気催す
 叢を出で柳を穿ち池台に近づく
 軽羅小扇しばらく撲つを休めよ
 愛し見ん熒熒(けいけい)去りまた来るを

 こんな話が残っています。大正天皇に権典侍、命婦としてお側に仕えていた椿の局こと坂東登女子さんという人が語った話です。

 「貞明皇后さまがおつむ(頭)がすごくおよろしいのに、大正のお上はまたもうひとつそれにしんにゅうをかけたほどお賢たったもんで、あの三島さんがあの、それこそどうか四書五経っていうですかあれをお上げんなるのに、もう素読あげなさる前にお読みんなるくらいお賢かったですわね。…賢いお方(貞明皇后)さんがおいつけんとおっしゃったくらいお上は天才的っちゅうですかね。お教えせんでもちゃっとお素読遊ばした…あんまりおつむさんが良くってお体がお弱っくあらしゃったんでしょうと思いますね。…」(『椿の局の記』山口幸洋著)


   

    

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貞明皇后御歌5

1905年(明治39年)1月、実父九条道孝氏逝去。

   暮春
 くれてゆく春はとどめむすべもなし
    かたみのはなをいざをりて来む


 このころから節子妃の和歌数は増えてゆく。

   生駒艦の進水式に
 くろがねの大みふねさへみくににて
    造りうる世となりしうれしさ


 生駒は国産初の重油エンジンで動く軍艦、しかも1万トンを超える巡洋艦であった。つい先日の日露戦争での戦艦がすべて外国製で石炭式であったことを思えば、それはもう先端科学立国の仲間入り。今で言やISSへの物資補給を成功させた〈こうのとり〉みたいなもんで、他国の嫉みを買うこと間違いなし。

 偶然かもしれないが、この年、白人国で邦人移民排斥運動が起こりますね。

    海辺夕
 入日さすはまの松かげあまの子が
   ちちやまつらむあまたむれゐる


    白
 ふりかかるみゆきをはらふ宮人の
   小忌(おみ)の真そでに梅の花ちる
 
          鮮明ですね。


 しづけさを何にたとへむやり水の
   ながれもたえし山かげのやど
  
 
     秋夕
 くれてゆく空こそことに悲しけれ
   秋のあはれはいつとなけれど


 このころ『古今集』などをふたたび勉強しておられたのでは。

 明治40年

 夕日かげかたほにうけてあまをぶね
   かすむ波路をこぎかへるみゆ


   戦死者遺族
 かなしさを親はかくして国のため
   うせしわが子をめではやすらむ


 23歳の節子妃は、悲しみこそ私としての自己と公としての自己と峻別する理性を養ってくれることを知っておられた。



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貞明皇后御歌4

1901年(明治34年)5月1日の官報号外。

 「皇太子妃節子殿下、今二十九日午後十時十分、東宮御所ニ於テ御分娩、親王降誕在ラセラル。
  明治三十四年四月二十九日 
      宮内大臣  田中光顕   」

 御名 裕仁(ひろひと)。御称号 迪宮(みちのみや)。後の昭和天皇である。

 家々は〈奉祝〉の提灯を灯し、日比谷公園は花火の嵐。御養育主任は川村純義。そうして、迪宮は三年半川村邸でお育ちになった。

 1902年(明治35年)淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王、後の秩父宮誕生。

 1905年(明治38年)光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王、後の高松宮御誕生。

 この年の4月、皇太子夫妻の住居である東宮御所の隣に成った皇孫仮御殿で、三親王はお暮らし始めた。皇孫御養育掛長は丸尾錦作。母節子妃は子供たちと近くに住むことができるようになるも、同じ屋根の下で住むことはかなわなかった。

 時は日露戦争(明治37年)前後。皇太子夫妻は多忙な日々ではあったが、時には三人の子供たちといっしょに楽しい時を過ごすことはできた。そんなときでも将来の元首となりうる皇孫たちと、一般の母子のように、馴れあうようなことをしてはならないと節子妃は身を持するのであった。まだ甘えたくてしようがない年齢の子供たちはどのように感じていたのだろう。

 明治34年の、ドイツ人招聘医師ベルツは、日記に書いている、「東宮は、気遣わしいほどたくさん紙巻タバコをおふかしになる。五時、川村伯のところへ。この70歳にもあろうという老提督が、東宮の皇子をお預かりしている。なんと奇妙な話だろう! このような幼い皇子を両親から引離して、他人の手に託するという、不自然で残酷な風習は、もう廃止されるものと期待していた。だめ!お気の毒な東宮妃は、定めし泣きの涙で赤ちゃんを手離されたことだろう。…」

 ベルツの意見が当時の内大臣に影響したのかどうか知らないが、明治38年ころから、水曜日の夜は、両親が御養育所へお成りになり、土曜日の夜は三皇孫を御所に招いての会食をするようになった。そんな時も節子妃は、皇孫たちの行儀作法については一切口出しをせず、楽しげに眺めておられたという。食後のだんらんは、節子妃がピアノを弾き、皇太子が歌を歌った。皇太子は軍歌や世界漫遊の歌などを、大声で歌い、いつしか皇孫たちも自然にそれらを覚えるのであった。

 明治35年の節子妃の御歌から
   ベルツの25年間日本に居れるを祝ひて、
年ながくくすしのわざをおしへつる
   いさをおもへばたふとかりけり


    寒蘆
 浦びとやかりのこしけむかれあしの
   一むら岸におれふせる見ゆ


 明治37年の御歌から

   折にふれて
 風わたる庭のやり水見てもなを
    心にうかぶ海のたたかひ
    
            (日露戦争の海戦)

 明治38年の御歌から

   水鳥
 池水もこほりそめけむをしがもの
    羽ふきの音のさえてきこゆる



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貞明皇后御歌3

  

1900年(明治33年)5月10日、嘉仁皇太子と節子姫の御結婚。束帯姿の東宮殿下と十二単の節子妃は、賢所内陣にて玉串を奉じ、お告文を奏せられ、さらに皇霊殿、神殿に玉串をおささげになった。これ本格的な神前結婚式の嚆矢なり。

 伊勢神宮と京都御所などに巡啓し、東京へ帰られたお二人は、赤坂の東宮御所で新生活を始められた。めでたし、めでたし。ところが、節子妃がいくら九条家に育ったとはいえ、宮中はまったく違った世界であった。鉛のように重い伝統や習慣の空気の中を歩かねばならない。

 万里小路幸子(までのこうじゆきこ)という老女官が節子妃の御用掛になった。この老女官は英照皇太后(孝明天皇妃)と昭憲皇后(明治天皇妃)に仕え、宮中奥のしきたりの権化であった。気のお強い節子妃も幸子からの御小言にしばし頭を痛められたようだ。大正7年、83歳で幸子が亡くなったとき、「よくもあれほどまでに私をしつけてくれたものだと、ただただ感謝するばかりである」と節子は述懐している。そして一首、

 さみだれはいとども袖をぬらすかな
   ゆうふべの雲となりし君ゆゑ


 健康な節子妃と天真爛漫な嘉仁皇太子との生活は、円滑で喜びに満ちていたであろうと想像する。その証拠に次から次へと三人の男子が生まれた。嘉仁皇太子は、実の母が二位の局こと柳原愛子(なるこ)であると初めて知らされたのもこのころであったらしい。もし皇太子が並みの生活人であったなら、あまりにも大きなショックを受けたであろう。しかし、嘉仁皇太子は境遇的にも性格的にも、それで落ち込んでしまうというようなことはなかったと小生は想像する。そしてまた節子妃との生活が、あまりにもタイミングよく、皇太子の心の安定に好条件をなしたと思われる。

 この時から、宮廷は一夫一婦制となったと言われるが、皇太子が宮廷改革が必要だからそうしようとしたとは思えない。権典侍制度というのがあって、6名の女官が取り囲んでいたらしいが、そんなものは必要がなかった。それほどお二人は幸福であった。

 それゆえそのころの節子妃の歌はまだ少ない。

 御結婚後二年目の新年梅を歌う。

 梅の花かぞふばかりもさきにけり
  年のはじめの一日二日に
  節子妃

 新玉のとしの始めの梅の花
  みるわれさへにほほゑまれつつ 
皇太子


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貞明皇后御歌2

1888年(明治21年)、節子姫は、養家の大河原家から実家に引き取られた。その二年後、華族女学校の初等小学科に入学。学校では、一番小柄な方であったが、才気にあふれ行動的で、クラスの人気者になった。ある日、休み時間に笑い芸人の「オッペケペー・・・」という自由民権謳歌をとつぜん歌った。深窓のクラスメートはびっくり仰天した。このような、よく言えば明るく、物おじしない性格は、この後ずっと続いたのだった。

 またこれもよく引き合いに出されるエピソードだが、初等中学科に進んだ13歳の時、いつもの快活さには似ず、物思いにしずむことがあった。クラスメートが理由を訊くと、なんでも、通学路にある雑貨屋に色の透き通るような美しい娘さんが寂しそうに座っている、どうしてあんな美人がお嫁にも行かずに店で座っているのだろうと不思議に思っていたところ、巷のうわさで耳にしたのだが、彼女は、不治の病であるライ病に侵されているとのことであった、という。このささやかな、しかし深刻な経験が後に貞明皇后をして終生救ライ活動に専念させることになったのですね。

 1896年(明治32年)、中学科三年の夏休みに、皇太子であられる嘉仁親王の妃に内定した。もちろん御両人会ったことも見たこともないが、家柄と健康さえ満足であれば、それでいいのですね。じつはそれ以前に、伏見宮貞愛親王の第一王女禎子(さちこ)姫が皇太子妃の第一候補であった。禎子姫は色白の、気品にあふれた、いかにも深窓の令嬢であったが、どうも病弱であったらしく、最終的に外されたとのことです。

 1899年(明治33年)、嘉仁皇太子と婚約。節子ときに15歳。この報を聞いて、高円寺村の大河原夫妻は腰を抜かさんばかりに驚いた。そして、節子姫が残し置いた着物・玩具・調度品などを、この屋敷に置いておくのは申し訳ないと、そのすべてを九条家に送り返すか、浄火で焼いた。小生だったら、卑しい考えが起こって、お宝になるのではと一品ぐらいは手もとに残しておくような気がするが・・・違うね、お百姓とはいえ、心がけが。いや、だからこそ、九条道孝は娘さんをこの夫妻に託したんでしょうな。

 節子姫は「思い出の品がみんななくなったら、じじもばばも寂しいことでしょう」、と言って、和歌を色紙にしたため大河原家に贈った。

 昔わがすみける里の垣根には
   菊や咲くらむ栗や笑むらん

 ものごころ知らぬほどより育てつる
   人のめぐみはわすれざりけり


 節子姫、16歳。いよいよ東宮妃としてのきびしい教育が待ち構えていた。




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貞明皇后御歌1

 貞明皇后。と言っても、たいていの人はよく知らないだろうけれど、皇后と名のつくからには、たぶん明治・大正・昭和の皇后だろうと見当をつけるだろう。小生も五年くらい前までは知らなかった。

 要するに、大正天皇の奥方であって、つまり、昭和天皇の母君、ということは、秩父宮、高松宮、三笠宮各親王の母君であらせられた。しかし、いろいろ調べてみると、この方は、なかなかどうして、国母というにふさわしい深くて広い心であられたとの評判がもっぱらである。

 そして何より、生きた時代が明治・大正・昭和、しかも戦後を見届けてから、昭和26年に亡くなった。つまり日本が近代化を急ぎ成し遂げ、結局は欧米列強の前にひれ伏し、廃墟となった日本を、東京のど真ん中に居て見てきた人なんだな。この人はどのような心持で生きておられたのか。

 貞明皇后こと九条節子(さだこ)は、明治17年(1884年)、東京神田に生まれた。九条家と言えば、旧摂家であり、当時父の九条道孝は公爵であったが、生母は側室であったという。が、もちろん九条家の御姫様であったことには変わりがない。

 節子姫についてどうしても言っておきたいことは、この人は生後まもなく五歳になるまで他家で育てられたことだ。もちろんそういうことは珍しいことではないが、幼児のときの環境がその人の性格形成に大きな影響を及ぼすものであり、とくに節子姫の場合、おおなから村人によって育てられたことが後の貞明皇后のいわば野趣に富んだ、豪胆な性格を形つくったように感じられる。

節子姫は生後7日目にして、当時農村地帯だった多摩郡高円寺村の豪農である大河原家に預けられた。乳母のいる家を探し求めていた父道孝の、たくましく育つようにというたっての願いだった。大河原家の奥さんの〈てい〉は、生後すぐ赤子をなくし、母乳は有り余るほど出た。
 『貞明皇后』(主婦の友社)によると、中を取り継いだ近所の人との、こんなふうにエピソードが書かれているが、さもありなんと思われる。

大河原氏 「お公卿さまのお姫さまだって? そりゃ、わしのところのような百姓家では、勿体ないよ。それに野良が忙しくて、とてもかまっていられないしね」

 取り次人 「いや、先さま(九条家)では百姓家がお望みで、自分の子供同様に育ててくれとおっしゃるのだよ。箱入り娘扱いなら、わざわざ里子に出す必要はない。農家に里子に出して、乳母になる人の清潔な、健康なお乳をたっぷり吸わせ、世間の風にもあてて、強く逞しく育てたいというのが、そのお公卿さまのお邸の、昔からのしきたいというこどだよ」

 大河原氏 「ふうむ、そうかね。そういうことなら、おていにもよく相談してみなくちゃあ」

 取り次人 「ぜひ頼みますよ」

 そうして大河原家の人たちは、〈わが子のようにして健康に育ててほしい〉という要望だけをしっかりと頭に入れておいて、けっして特別扱いにはしなかった。また忙しい農家のことなので、たとえそうしようと思っても、そんなゆとりはなかったそうだ。

 節子姫は、そういうしだいで、大河原家や近所の子供たちといっしょに栗やモモを採り、トンボを追い、麦笛を鳴らしながらあぜ道を走るような生活を楽しんだ。乳母のていは信心深かったので、幼い節子も自然に神だなや仏壇の前でぬかずき経を口にするのだった。

 あるとき大河原夫妻がちょっとした口げんかをした。しだいに声が大きくなっていった二人を見つめていた節子は、とつぜんお膳の上の箸をとり、それで養父のあたまをぴしゃりと叩いた、二人はびっくり、我に帰り苦笑したそうである。

 このエピソードを読んでただちに思い出す人がいる。それは、小生の親しい知人であった故Tさんのことである。Tさんも幼少時に似たような体験をしたから。Tさんは、とても心の大きい人であった。同時に子供のように純粋なところも終生持っていた人だった。小生がある時どうしてもお金が必要だった時、二つ返事で一千万円を貸してくれ、借用書を書こうとする小生を諫めて、「そんなもん書かんでええ、無理せんでええ、返すのはいつでもええんや。」と言ってくれた。誰に対してもそうだった。

 また、Tさんは、通りがかった家の庭にえも言われず綺麗な花が咲いていた時、どうしてもそれが欲しくてたまらず、冷や汗をかきながら、「ごめん」と言って、その一つを黙って取っていくようなことが一再ならずあった。もちろん、税金を誤魔化そうとか、少しでも得をしようとかいう、ケチくさいことは無縁であった。こんな大きな人に出会うことができたことは、小生のこのうえない幸運だった。

 このTさんは、両親が駆け落ちをしてできた子で、生後しばらくして、母親の両親に預けられ、5歳まで、福島の田舎のおじじ・おばばの下で育てられたのだった。その時の暖かい雰囲気と、ついに両親のもとに引き取られ、祖父母と別れねばならなかった時の悲しみを、何度も語っていた。

 幼児時に両親と離れて、暖かい雰囲気に育ったからこそ大きな人間になれた、とは言うつもりはないけれど、それにつけて思うことは、今の親は自分の子供をあまりにも排他的に愛してしまい、自他の区別や規則をあまりにも重んじて、結局子供をがんじがらめにして、親子ともに小さくなってしまっていやしないか。
 




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大正天皇御製詩5

大正天皇の御生涯(明治12年~大正15年)のあいだに作られた詩歌数では、田所泉氏の集計によると、漢詩は大正2年から6年までが圧倒的に多く(7年以後はまったくなし)、和歌は大正3年から大正7年までが群を抜いて多い。両者を併せると大正3~4年がピークである。(『大正天皇の〈文学〉』)

 大正天皇は御即位早々、大変な政変に巻き込まれた。いわゆる桂園時代が坂道を転がり落ちてゆくときであった。緊縮財政をとる第二次西園寺内閣は、陸軍の増設要求を拒んだが、それに対して陸軍大臣は大正天皇に辞表を提出し、軍部大臣現役武官制を利用して、西園寺内閣を総辞職に追い込んだ。

 まだ実権を握っていた元老たちは、桂を後継首相に指名するも、これを契機に閥族打倒・憲政擁護の運動が広がった。桂は大正天皇の詔勅をもって政府批判を封じ、犬養・尾崎らの立憲政友会・国民党は内閣不信任案を提出。この時の尾崎行雄の演説。-「彼らは常に口を開けば、ただちに忠愛を唱へ、あたかも忠君愛国の一手専売のごとく唱へてをります。玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」

 突然即位された大正天皇の困惑やいかに。それでも新しい時代に向けて天皇は前向きにお仕事に励もうとされていたに違いないと思う。大正2年から6年までの詩歌数の多さは、それを物語っていやしないか。この間こそ充実の数年であったと思う。

 午前六時起床。八時半には大元帥の軍服を着用し、表御所に出御。9時から正午まで多忙な用務を執られた。昼食後は散歩、乗馬。6時に夕食。その後は皇后や皇子たちと歓談・玉突き・合唱。十時過ぎに就寝。もちろん大臣らの上奏も聴かねばならないし、硬栗粉のような山県有朋の小言も乗り越えていかねばならなかったし、全国順啓もせねばならなかった。

 大正天皇の次男であられる秩父宮雍仁親王によると、「父上は天皇の位につかれたために確かに寿命を縮められたと思う。東京御所時代には乗馬をなさっているのも見ても、御殿の中での御動作でも子供の目にも溌剌としてうつっていた。それが天皇になられて数年で別人のようになられたのである。」

 魑魅魍魎、百鬼夜行の政界の中で多忙を極める純潔な青年を思う。あるときぷつっと心の張りが切れるのは時間の問題だった。小生に言わせれば、天皇は、自らおかしくなってやったんだ、と仰っているようにも感じる。

 このとき、こんな御製詩が小生の心にひっかかる。

 「貧女」(大正6年)     
 
荊釵布被冷生涯 けいさいふひ冷たし生涯
無意容姿比艶花 容姿艶花に比するに意なし
晨出暮帰勤稼穡 晨に出で暮に帰り稼穡に勤む
年年辛苦貧家 年年辛苦貧家に在り

イバラのカンザシと煎餅布団との清貧の生活。
容姿を艶やかな花で飾ろうとは思いもしない。
朝から夕まで懸命に農業に従事する。
来る年も来る年も貧しい家で辛苦を重ねている。

 べつにどーってことない漢詩のようだけれど、例えば、田舎で小雪舞う夕がた、畑仕事をしている中年女性を見ている大正帝の目を思う。これは叙景詩である、自分の心の中の。自然で何の余計な解釈を許さない。

 田所泉氏は、「貧しさとはどういうものかという知覚も、貧しさとは差別の原因でもあり結果でもあるのもなのではないか、といった省察も、抜け落ちている。権力者が被抑圧者にたいしてしばしば示す〈同情〉とは、たいがいその程度のものだろうか。」などという、まるきりお門違いの意見を述べている。田所氏には主義があって心がない。

 また、西川康彦氏は、「この御製詩は〈貧しい女〉を、ただ〈憐れ〉とお詠みあそばしたのではなく、貧しくはあるが、真面目に働く女に、仁慈の大御心をかけさせた給ふ御作と拝し奉る」と書いている。この意見にも小生はぴんとこない。贔屓の引き倒しのように聞こえる。

 むしろ、大御心を一生懸命演じておられた天皇の中の天性の詩人が、夕暮れ時ふと顔をだして漏らした吐息のような歌、哀しいと言うにはあまりに純潔な自然の詩のように小生には響く。



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ディキンソン著『大正天皇』6

    

よく裕仁(昭和天皇)と父嘉仁(大正天皇)が対照的な存在として扱われることに対して、著者はそうではなく、息子は実に親から多くのものを受け継ぎ、それを踏襲し、同じイメージをつらぬいた点を強調している。今までに有り得なかったご大葬で、大正天皇の陵墓は東京から44 kmも離れた南多摩に作られたが、一般公開期間は2度も延長され、参拝者数は89万人にのぼったという。

それでも、大正天皇の陰が薄くなったのは、ご大葬の年、1927年(昭和2年)は、偶然にも明治の還暦の年であって、かねてより明治天皇を祭るべきところが東京にあるべきとの声があり、「明治大帝の御聖徳」や「明治時代の大業」を記念すべきという声があがってきたことが大きいと著者は言う。

そしてまた明くる年は父天皇のイメージ(国際交流、経済発展、一夫一婦、家庭、皇室と人民との接近)を受け継いだ昭和天皇の御大礼である。「御幼少時脳膜炎様の御症状」という噂は風にのって広まっていくと同時に、新天皇への期待が高まっていくのは自然であろう。

そうして、国際環境も変わり、とくに満州事変(1931年)以降は、平和日本=協調外交よりも、「明治を日本独特の精神の象徴として持ち出してくる」ようになった。〈平和日本〉のシンボルであった大正天皇の功績は忘却の彼方に沈められていった、とは著者が語る所である。

「大正天皇を皇室の典型と考えたとしたら、皇室の歴史、いや近代日本そのものの歴史にまったく異なる色合いがつく。日本の近代皇室がヨーロッパにおける世界主流の皇室と似たような歩みをしているのが明らかになり、近代日本史の流れも一般の世界史の中により〈普通〉に見えてくるのである。」と終わりに述べている。

日本人の内部の人間として、日本の皇室は他国の皇室とは違うと感じる点を除けば、著者の言っていることは理解できるし、ほとんど共感したい。しかし、著者は大正天皇と〈あの時代〉とをあまりに一致させようとするために、かえって大正天皇の個人としての心のうちを無視することになりはしないか。

平たく言えば、大正天皇は天皇として思ったことをしたのであろうか。
それはつまり、天皇はそれぞれ生きた生身の人間であるからには、われわれと同じように心のうちがあるであろうし、そうなればその心を忖度してはいけないであろうか、という問い惹起する。

天皇は神聖にして触れてはいけないとは思えない。それどころか、もはや天皇とは、あえて言えば、一つの職業であって、この職業に携わなければならぬ人は、どういう御覚悟で、どういう御心もちで生きておられるのだろうと考えてはいけないのだろうか、と小生はこの書を読んで思った。


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ディキンソン著『大正天皇』5

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 1919年(大正8年)には、近衛文麿は「今日の日本は国際連盟の中軸たる世界の主人公として、利害相関せざる国の面倒まで見てやらねばならぬ地位に達し居るなり」と言い、1920年、原敬はパリにおいて「帝国は五大国の一つとして世界平和の回復に向かって努力するを得たり。」と声明を発した。
この年一月には、天皇は「平和克服の大詔」を発布され、わが国は、世界において「順応の途」を歩み、「万国の公是」に従い、「連盟平和の実」をあげることを国民に激励される。

 そういうことで、人々の頭の中で〈平和な大正時代〉の下には、世界の1等国の一員たる自覚と大正天皇とが結びついていたに違いない。では、どうして大正天皇は生涯病弱であられたというイメージが出来上がってきたのであろう。

 大正天皇が皇后とともに、公の場に御姿を現されたのは、1919年5月の東京奠都50年祭のときである。20万人ともいわれる人出の中、馬車の「両側に山のごとくしかも静粛に奉拝せる熱誠なる市民には特に御機嫌麗しく御満足にみそなはせられ」た、と新聞に書かれているが、じつはこの時すでに天皇は病魔に侵されていた。その前年の10月には天長節観兵式を欠席されている。

 以後少しずつ病気は進行し、1920年(大正9年)第1回ご病状発表から、1926年(大正15年)まで、計7回のご病状発表がなされている。御病気の内容については、詳しくはわからない。小生は、過労、天皇としての重責、そしてやはり山県ら周囲の権力者らの圧迫によるストレスが誘因となった、多発性脳梗塞ではないかと、今のところ疑っている。

 1921年10月、第4回ご病状発表のとき、天皇は御幼少時〈脳膜炎様の御疾患〉に悩まされていたと明らかにされた。どうもこれに後年尾びれが付いて、〈生涯ずーっと病弱〉説が定着したのではないか。いったい誰が何ゆえ、わざわざこの時に、御幼少時病気されたなどということを、発表に付け加えたのか。

大正11年の『大阪毎日新聞』んは「青山御用邸に御避寒中の天皇皇后両陛下には御機嫌いと麗しく」、崩御の年、大正15年でもなお「盆栽や活動写真などのお慰み、ラジオ、蓄音器」などを聞いておられるとあるし、『東京日日新聞』は「お熱が下がらず、皇后陛下予定を早め葉山へ」とある。

つまり、〈あの大正天皇〉のイメージは、まだ国民から離れてはいなかった。しかし、裕仁皇太子が摂政をおとりになり、それこそ本当に西洋に出発されるにつれ、〈あの大正天皇〉は裕仁皇太子にそのまま受け継がれていく。皇太子行啓においては、父天皇と同じような「平民的な御態度」に国民は感涙したと、新聞は盛んに報道している。


  
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ディキンソン著『大正天皇』4

     

「平和な大正時代」という観念を生みだした最たるものは、逆説的に第一次世界大戦への参戦であろう。これは何と言っても「史上初めて同盟国として外国の戦力と軍事行動をともにし」たことは、日本は、いじらしくも、何と誇り高い気持ちに酔ったことであろう。世界の一等国!大正天皇は外国武官たちに向かって「汝らますます奮励せよ」と励ましの言葉を述べられている。

 大戦勃発の明くる年、即位の御大礼が行われた。小生は、この年(大正4年)に発行された『御大禮記念写真帖』なる本を持っているが、目次に続いて、カラーの絵で「紫宸殿之御儀」次に「大嘗祭之御儀」それから巨大なおみこしのような「高御座」が、そして写真の最初を飾るのは「御束帯の天皇陛下」となる。解説の最初は「大禮の意義」について、その次「國體の淵源」…世界の列国中においてわが日本ほど上皇室と下人民との関係の親密なる国はない、古くは国家と書いて〈ミカド〉と読ませていたほどで、天皇すなわち国家である。…とある。

 そして、大礼では、日本史上もっとも多くの外国高官が参列し、大隈首相は「今回のごとく全世界の代表者が洩れなく集まったということはじつに世界の偉観で、わが国では空前のことであるが、東洋でもまた未曾有の盛儀である」と評し、海外でも大きく報道された。1918年にイギリスから英国陸軍元帥の名誉称号とともにガーター勲章を贈られて、重そうなマントを身に纏われた天皇の御写真を拝見すると、小生はどことなく不釣り合いというか、お似合いにならないような感じがするが…。

 東洋一といえば、1912年、東京駅が完成した。「これは最先端の建築材料を用いた、…三か所にエレヴェーターがついて、駅前の「行幸大路」には各4千燭光の光を出す〈東洋一の街灯〉が並べられ…東洋一の大建築」とうたわれた。今のスカイツリーみたいな国民的大興奮ですね。この東京駅は中央には皇室専用の出入口や貴賓室が設けられ、天皇のための駅でもあり、また公共施設でもあって、じつに「皇室と人民との接近」を顕著に示す建築物であった。

 そうして、第一次世界大戦も終わり、気が付いてみると日本は産業が大発展し、輸出は3倍に増進、交際収支は黒字化。「帝国日本はアジアの地域的強国から、初めて太平洋にも及ぶ大帝国となり、1915年の日清条約(対華21ヶ条要求)によって、中国における列強最大の権力を握るようになる。」
これはどういうことかというと、この時代「ヨーロッパの国々は次々と参戦し、日本においても戦争は広く歓迎された。」「いわゆる〈対華21ヶ条要求〉も20世紀初頭の世界において珍しいことではなく、日本は日清戦争以後列国が中国に対して求めたものを一括して要求しただけである。」

 このようなわけで、20世紀初頭、産業化にともなう大衆化の傾向に応じる、立憲君主の増大する儀式的役割を大正天皇は立派に果たした、と同時に西洋化・近代化を好まれなかった明治天皇は陰が薄くなっていったことを著者は強調している。

 
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ディキンソン著『大正天皇』3

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1912年、明治天皇崩御、そして嘉仁親王の践祚。『ニューヨーク・タイムズ』は一面全体で紹介、「嘉仁は日本の近代的精神に完璧に合致し、いろいろな意味のおいても父宮には達しえなかったヨーロッパの風習にそめられている」、その理由は、西洋式の東宮御所、洋装好み、一夫一婦制、身体丈夫でテニス好きな皇后節子など。『ウォールストリート・ジャーナル』には「陛下はアメリカの長老と親しく話し、両国間の親密な関係に触れ、アメリカについて深い知識をしめした」。

 明治天皇は明治初期の画期的な変化を熱望した。が1880年代からその願望から心が離れていった、というのも、明治天皇の日本の急進的な西洋化に対する〈違和感〉があったからだ、という意見を紹介した後、著者はそれはいわゆる世代交代であり、「明治天皇はいまだ統一前のいわば伝統的なアジア風の農業国家日本の産物であった」と書いている。

 当時のグローバルな状況から絶えず目を離さない著者ではあるが、日本独特の明治維新の意味や江戸時代の秩序、文化、教育などについての知見がやや欠けているように所々で感じるが、今はそれを措いておく。

しかし、「嘉仁(大正天皇)が儀式を嫌ったのは明治天皇と同じことであるが、大正天皇は性格的に20世紀初頭の国際的スタイルとぴったり合っているのは睦人(明治天皇)と大きく異なるところであった」と書くところは見逃せない。

大仰な儀式を嫌ったのは、明治天皇は質素倹約からだと思われるが、大正天皇はさらに大勢の人に取り囲まれることがお好きではなかったと思われる。また大正天皇は、お生まれになった時から西洋化の雰囲気の中でお育ちに成ったのであるから、役割をお果たしになれば国際的スタイルに合うのが当然である。むしろ嘉仁皇太子の御性格は国際的スタイルと何の関係もなかった、あるいはそれを飛び越えていたと、小生は言いたい。

 もちろん、天皇は個人ではなく公の御存在であり、著者の基本姿勢であるところの、歴史は人々の目に表れた通りのものであるとするなら、例えば、「嘉仁が、明治天皇の葬儀を除いて、天皇として参列した最初の国家儀式が大観艦式と陸軍特別大演習だったことには大きな意義がある。」とし、これは当時の立憲君主国の標準的形式であり、「嘉仁は立派な大元帥を演じた」ことになる。



  
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ディキンソン著『大正天皇』2

皇太子夫妻には4人の男子が生まれるが、側室を置かなかった大正天皇は、このことにおいても新時代を画する見事な天皇として国民に称賛されたはずである。そしてこの頃から普及してくるカメラも、子煩悩な皇太子の家庭を捉えていて、それは国民の目にも触れた。

行啓における皇太子の〈自由な〉行動は、国民に歓迎され、「皇室と人民との接近」が云々されるが、著者は、これすべて行啓計画者の仕組んだものだと書いているが、小生はそれはあまりにも嘉仁皇太子の〈人となり〉を消去した意見だと思う。すでに書いたが、大正天皇は生まれながらに非常に特異的な御性格であり、このことが、はからずも「皇室と人民の接近」を大いに前進させたと、小生は感じるのである。

 19世紀末、ヨーロッパでは皇族が世界を周遊するのは当たり前となっており、ロシア皇太子、ギリシャ王子、オーストリア皇太子が日本にも来航してきている。そんな折、嘉仁皇太子も世界を見てみたいという夢を漢詩に著されており、また「世界漫遊の歌」をとくに好んで歌われたそうである。

 世界漫遊はできなくても、嘉仁皇太子は史上初めて海外に行かれた。それは明治40年(1907年)の韓国行啓である。これは、韓国を保護国化した日本が、日韓関係を円満化するためであって、残念ながらその効果はよくなかった、という意見があるが、それは大した問題ではないと著者は語る。

 著者は書いている、「植民地における統治国への憤慨は当然であり、皇位継承者の日本史上初めての外遊にはより大きな目的があったように思われる。それは近代国家、そして、近大帝国としての日本の20世紀の新しいアイデンティティに焦点を当てることであった」。

 過去のあり方をやたら道徳的に批判したり、今の観点で過去を見ようとするような日本人にありがちな歴史家が多い中で、こういった当時の状況に身を置いてみる態度は気持ちがいい。当時の日本は、帝国主義―植民地という〈世界標準〉に日本的な仕方で従っていただけのことである。



  
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ディキンソン著『大正天皇』1

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この本を一読して、やはり外国人によって書かれたものだ、とまず感じた。それはつまり、大正天皇をその時代の国際環境との関連で見た点が明瞭に顕されている、ということである。

 著者はその時代の新聞や雑誌、本―もちろん海外のも含めて―からの引用をふんだんに利用している。著者によれば、歴史とは、その時々のメディアに表れたところのものだ、となろう。われわれが今もっているイメージは後で創られたものであることが多い。大正天皇はその最たるものである、と言いたげである。

 たとえば、いまわれわれは、大正天皇はその幼少年期に病弱だったと思っているが、実際はそれほどでもなく、少なくとも当時の一般国民は誰もそんな風には思っていなかった。

 じっさいのところ、鹿鳴館ではないが、皇太子嘉仁親王(大正天皇)は、日本の西洋化、そして近代化の先端的象徴として、見事にその役割を演じた。

 その第一に、明治23年(1889年)の立太子礼の儀式(嘉仁10歳)は、近代国家の施設を動員して全国民の前で挙行された。錦絵や新聞はその華やかさ、威厳、人々の感激を書き立てた。そして皇太子はただちに陸軍歩兵少尉に任官されるのであるが、これは19世紀ヨーロッパ国家の君主政体の伝統的なことであり、明治政府も以前からその線を決定していた。

 明治天皇が15歳まで江戸時代の伝統の中で、つまり京都の御所の中で女官に囲まれ、白粉をほどこされ奇怪な宮中言葉をお発しになられていたのとは、まったく違って、嘉仁皇太子は東京という都市にお生まれになり、その西洋化のただ中でお育ちになったことに、著者は注意を促している。

 嘉仁皇太子が九条節子(さだこ)と御結婚されたのは、ちょうど世紀の変わり目、1900年(明治33年)のことであったのは、とても意味深いものである。19世紀から20世紀へ、世界は新時代到来の期待に胸を膨らませたことだろう。

 このころ日本は、1895年、日清戦争での勝利、1899年、宿望であった不平等条約の放棄によって、いよいよ日本が国際法上、列強と肩を並べることとなった。「文明社会の士人たる恥ぢさるの体面を具へざる可らず」(『時事新報』1900年1月1日)

 結婚式は〈神前結婚式〉という新しい形式を初めてとったそうである。これはつまり結婚に神の前で誓う西洋を〈遅れている〉日本がその形式をとにかくもまねたものであろうと小生は想像する。「賢所の大前において、ご婚儀を行はせたまふ御事は、国初以来こたびを以て初めて」「両殿下の御装束は御一代に再び召させ給ふまじき御召し物に渡らせ給へば、御儀式のいと厳粛に尤も典雅なることと想ひ奉るにあまりあり」(『風俗画報』1900年6月1日)

それから洋装に着かえ、公の儀式に進まれる。嘉仁皇太子は陸軍少佐の正装、節子皇太子妃はドイツ式正装で皇居周辺をパレード。そこらじゅう国旗や提灯、電飾と飾門が設けられ、皇礼砲が響き、花火が上がった。婚礼を見るために鉄道を使って上京した人は10万人を超え、祝辞を送った人は15万人を超えたそうだ。

節子妃はフランス式正装に着かえられ、各国公使らを含む2200人ほどの饗宴。国内至る所で記念植樹や記念碑を建てられた。要するに、日本国民にとって大きな夢を与える大祝典であった。当時の発行部数最多の『萬朝報』には、陸軍少佐姿の皇太子とマン・ド・クールとかいうドイツ式正装の皇太子妃が、すごくかっこよく並んで描かれており、各々の下には、H.I.M. the Prince-Imperial Yoshihito と H.I.M.the Princess Imperial Sadako と書かれている。この正装と表示は完全に当時の〈世界標準〉なのである。(H.I.M.とはもちろんイギリス皇帝の呼び名His Imperial Majesty の略である)

忘れてはならないことは、この御結婚は睦仁皇太子(明治天皇)のときには、想像も出来ない国民的イベントだったことと、嘉仁皇太子はこの新演出の儀式を見事に演じられたことである。全国民感涙にむせんだほどかっこいい!のであって、病弱でちょっとおかしい人ではぜんぜんないのであった。


 
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大正天皇御製詩4

 
「夢遊欧州」

 春風吹夢臥南堂
 無端超海向西方
 大都楼閣何宏壮
 鶯花幾処媚艶陽
 倫敦伯林遊観遍
 文物燦然明憲章
 誰問風俗弁長短
 発揮国粋吾所望

「夢のなかで欧州に遊ぶ」

春風が吹いて南の部屋にまどろめば
思いがけず、夢は西方へとめぐる
大きな都の楼閣は何と立派なことか
花や鳥がそこここに春の光に映えている
ロンドン、ベルリンへと経巡って
文化や制度の素晴らしさを見物した
各国の風俗を訪ねて長短をあげつらうなど
誰がしよう
わが国の良いものを発揮することが
吾が望みだ


これも皇太子嘉仁親王の21歳の時の御詩である。明治天皇は、皇太子の西洋行きを認められなかったけれども、こっそり夢の中で行かれたことに拍手を送りたい。

ちなみに、小生は24歳の時にギリシャ、エーゲ海に、夢の中で行ったことがある。今まで見た中で最も美しい夢であって、紺碧の海は午前のやわらかい日の光で輝き、海と空との茫漠とした青白い境界に目を凝らすと、テーブルのような巨大な大理石の神殿が微かに見える。そこから金色の肌の女たちが次々にこちらに向かって泳いでくる・・・。

もちろん生涯忘れるどころか、年を追うごとに印象は強まり、古代ギリシャへの憧れに苦しめられ、五年ほど前にギリシャへ行った(パック旅行だけれどね)

もちろん小生は、この現実の旅行において夢とは全然異なる発見をしたのだけれど、夢は夢で永遠の憧憬があるのであって、むしろ現実を下から支えるものではある。また夢ほど強烈ではないけれど、空想もなかなかいい。夢は恩寵としか言いようがないけれど空想はいつでもできる。実際の旅行にはおよばないけれど、空想には空想の醍醐味というか味わいというものがある。時間も金も僅少の仲間たちよ、ぜひ空想を味わってほしい。

嘉仁皇太子の「夢遊欧州」は、実際に見た夢をそのまま漢詩にされたのだが、欧州は何と素晴らしいところであったか、そして国々によって文化がかくも異っているが、それは優劣の問題ではない、日本は日本の良いところを発揮すればよい、となる。明治34年の為政者たちにくらべて、なんと落ち着いた心意気であられたことか。




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大正天皇御製詩3

   
 
「明治32年、嘉仁皇太子21歳。沼津御用邸より軍艦「浅間」に乗って神戸の舞子の浜の有栖川宮別邸に向かわれた。10月19日、出航。その夜、軍艦は遠州灘を通る。折から満月が皓々と海を照らす。ここで生涯の名作が生まれる。

 遠州洋上作(遠州洋上の作)

夜駕艨艟過遠州  夜艨艟に駕して遠州を過ぐ
満天明月思悠悠  満天の明月思い悠悠
何時能遂平生志  何れの時か能く平生の志を遂げ
一躍雄飛五大洲  一躍雄飛せん五大洲
 
 夜、軍艦に乗って遠州灘を通れば
 空には明月が皓々と輝き、思いは広がる
 いつか、日頃の念願を果し
 世界へ雄飛したいものだ

 この詩は伊藤博文が色紙に書いて新聞に発表し、当時評判になった。」(石川忠久著『漢詩人大正天皇』)

 西川泰彦氏が伝える所によれば、皇太子には海外への御旅行を強く願望しておられ、時の東宮補導顧問であった伊藤博文に、御父明治天皇にお伺いを立てられたところ、それにはまずフランス語の習得が先決との仰せにより、皇太子は御熱心にフランス語習得に励まれた、とのことである。

 思えば、大正天皇こと嘉仁皇太子は、歴代天皇の中で、初めて外国とくに西洋に行ってみたいと本気で望まれた人であった。それは時代的に、ヨーロッパ諸外国の皇族、皇太子が遠く海外視察に出かけるようになったこととパラレルであり、それはまたわが国が西洋諸国と帝国化=近代化という点で足並みを揃えるようになったことを意味する。

 石川氏は、この御詩は皇太子の漢詩の先生であった三島中洲作「磯浜望洋楼」の影響があったのではないかと書いている。

 「明治6年、三島は、下僚を引き連れ、太平洋を望む楼上で詠じた。

 夜登百尺海湾楼  夜登る百尺海湾の楼
 極目何辺是米州  極目何れの辺りかこれ米州
 慨然忽発遠征志  慨然忽ち発す遠征の志
 月白東洋万里秋  月は白し東洋万里の秋

 夜、海辺に立つ高楼に登り、見渡せばどのあたりがアメリカなのか、思わず遠くへ行きたい心が湧き上がる、檻から秋の明月が皓々と東の海を照らしている。

 この詩は、明治の書生の心意気に合致し、当時喧伝されていたことでもあり、皇太子が自然に影響されたと考えるのは不自然ではない。広々とした海、そして皓々たる月を背景に、遠い世界への旅を夢想する状況は酷似している、また用語も共通する。
 
 皇太子の詩の出来ばえは、肩肘張らない自然の力が秘められている趣を感ぜしめ、師に勝るものがあるように思われる。」

 石川氏のこの意見を聞いて、何度も口ずさんでみると、なるほど嘉仁皇太子の御詩のほうが、展開が自然であり、率直であり、開かれていて、気持ちがいい。


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大正天皇御製詩2

『過目黒村』(目黒村を過ぎる)

 明治29年。大正天皇18歳(数へ歳)。三島中洲の手ほどきを受け始めた。

その年の5月18日、嘉仁皇太子(大正天皇)は、東京郊外の目黒村付近をご遊行のおり、西郷従道侯爵の別邸でお休みになった、とある。たぶん村に入って行かれた、すぐその時の印象ではないかと想像する。

 雨余村落午風微  雨余の村落午風微なり
 新緑陰中蝴蝶飛  新緑陰中蝴蝶飛ぶ
 二様芳香来撲鼻  二様芳香来たりて鼻をうつ
 焙茶気雑野薔薇  茶を焙る気はまじる野薔薇に

 
 雨余(雨上がり)が潤いの気を導き、これが後の芳香を準備する。村落の明るい昼には緑陰のコントラストが目に心地よい。微風にのって蝴蝶がゆっくり舞っている。その行方には野薔薇が咲き、微風はこちらに芳香を運ぶ。それは野薔薇の香だけではなく、どこかわからぬが村人が焙る茶の香も混じっている。
 
 石川忠久氏は、「特に構えるところのない自然な筆致でありながら巧みな句作りとなっており、恐らくは生得の才なのだろう。」「後半の二句に詩人のセンスが閃く。」と述べている。

 
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大正天皇御製詩1

歴代天皇のなかで大正天皇の断トツのものといえば御製詩の数である。

 二位が嵯峨天皇と後光明天皇の98首。ついで後水尾36、霊元25、一条23、村上天皇18、淳和16。あと22人の天皇が6首以下。

 では大正天皇は何首作られたかと言うと、1367首。これを断トツと言わずして何と言おう。

 大正天皇は自ら、漢詩はいいが和歌は苦手だ、というようなことを仰ったらしいが、御謙遜を、小生は大正天皇の和歌は好きだ。

 なんで、こんなにたくさんの漢詩を作られたのか、という疑問は野暮で、つまりお好きであられたからだ。そして、何よりも、東宮職御用掛となった三島中洲の手ほどきがよかったからだ。

 ときに皇太子(大正天皇)18歳。三島中洲67歳。お二人のコンビの良さは、御製詩にも散見されて、「じつに天の配剤の妙趣を感ぜしめる」と石川忠久氏は書いておられる。

 漢詩については、残念かな、小生はよく知らない。むかし学校で習った有名な漢詩の幾つかの快いリズムやイメージが断片的に残っているだけ、…、春眠あかつきをおぼえず、とか、西の方陽関を出れば古人なからん、とか、少年老い易く学成り難しチトウ春草の夢、青山ほっかくに横たわり白水東城をめぐる、カカン一個の酒われ歌えば月なんとかし、疑うらくはこれ地上の霜かと、国破れて山河あり、・・・

 思い出せば、いろいろイモヅル的に結構出てくるものだ。考えてみれば、わが日本の物語にはすでに漢籍が多々引用されていて、長い間に自然にわれわれの言葉の中に溶け込んでいるのであろう。

 漢詩についてよく知らないとはいえ、大正天皇について言及しようとするならば、これほど多量の漢詩をお作りになったからには、きっとここに天皇の御心が顕れているにちがいない、それをとにかく読まずして大正天皇について何をか言わんや。

 ということで西川泰彦編『天地十分春風吹き満つ』と石川忠久著『漢詩人大正天皇』を読んだ。これらを併せても300首に満たないけれど、先生方の解説がなければ小生は読めないから、まあいいだろう。

 口ずさみつつ拝読していくと、いろいろなジャンルの音楽を聴いているようで、気持ちがいい。漢詩として優れているかどうかぜんぜん判らないけれど、いいなと思うのを、まずは一首紹介。

 「春夜聞雨」春夜雨を聞く

春城瀟瀟雨  春城瀟瀟の雨
半夜獨自聞  半夜独り自ら聞く
料得花多發  はかり得たり花多く発き
明日晴色分  明日晴色分るるを
農夫応尤喜  農夫まさに尤も喜ぶべし
夢入南畝雲  夢は入る南畝の雲
麦緑菜黄上  麦は緑なり菜黄の上
蝴蝶随風粉  蝴蝶風に随ひて粉たり

西川氏の意訳の変奏。 春の夜更けに一人しんしんと降る雨を聞いている。この雨で明日はきっと晴れるであろう。そして農夫はきっと喜んでいるであろうと思うと、夢は日当たりのよい南の畑の上に行く。そこは、緑の麦、黄色い菜の花が辺り一面にあって、蝶が風のまにまに舞っている。

大正三年の御製詩。この年、シーメンス事件(三井物産と海軍首脳との贈収賄事件)が起こり、ねじれ国会の末、山本内閣辞職。第一次世界大戦参戦。

                        

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大正天皇 7

大正天皇最後の御製

 神まつる わが白妙の 袖の上に
    かつうすれ行く みあかしのかげ

 これは社頭暁と題された、天皇最後の絶唱である。灯明の光が、朝明けにすこしずつ薄らいでいく・・・。大正十年、皇太子が摂政に就き、天皇はいわば廃人として表舞台から引きこめられる。人間として必要なあらゆる脳力がしだいに凋落していく自分を、そして自分の存在の消失と共に一つの時代の消失を予告する、あまりにも明瞭な意識がわれわれを驚かす。

 大正天皇の御製の美しさは、私に伝統というものの強さを思いおこさせずにはいない。この光は近代日本を根底から照らし出す。

 省みれば、つい先日ペリー来航の日、わが国は西洋列強の文明に腰を抜かした。明治という時代はあげて不平等条約改正のために奔走したといても言い過ぎではない。明治天皇は、国のために働く兵士の純粋さに感動し己を安逸贅沢から身を守った。己の態度が国家の統一に重要であると自覚し、君主としての自身の役割を果たした。富国強兵のあの時代に相応しいストイックな立派な人物であった。

 日露戦争に勝利した日本は、世界の一等国の末席を占めるに至り、さてここから世界史の凄まじい本流に組み込まれていく。必然的な重工業の発達と軍事政策の手練手管の真っ只中に、ある日突然、病気がちで青白い顔をした、単純で無防備な青年が玉座にちょこんと座っていた。一般国民の無意識の天皇崇敬の念は、それを見て驚愕するほど、浅いものではなかった。だが、宮廷および政府要人はそうではなかった。彼らの頭の中にある〈立派な天皇〉に何とか矯正しようと試みたが、この青年の性格はそんな生易しいものではなかった。それで、彼らは今度は、此の青年天皇の純朴さをむしろ国民の前で演出し、政治の権謀術数に利用した。

 やがて病気に陥った天皇を彼らは巧みに隠蔽し、否定しつつ、天皇を反面教師として、〈立派な〉、欧米のマナーを身に付けた、新しい天皇を用意した。手続きは完璧であった。そして昭和天皇は、彼らの意図したよりも遥かに優れたお方であった。やがて、わが国始まって以来の大悲劇がやってくる。全土は焼かれ、外国人による占領統治が始まった。ここに、昭和時代を通して、わが国の〈みやび〉が最高度に発揮され、終焉を迎える。私は、日本近代史を通覧する毎に、日本国民全体がそれを希んだような気がしてならない。

 それはともかく、明治、大正、昭和と三代の天皇を比較してみるとき、大正時代は実際短かったし、大正天皇は、時代の前面に現れた二人の偉大な天皇の岩陰に咲く小さな目立たない花のような存在である。だが、もうちょっと近寄ってみると、此の病弱で不思議に軽い天皇の純朴、率直な御態度と詞華集の中のいくつかは、わが国の万葉集以来の和歌の伝統の源泉にもっとも近く繋がっている、と感じる。それは、自然と心と言葉が未分化であるようなあるものだ。もちろん明治天皇も昭和天皇も当然沢山の、大正天皇よりも多く、和歌を残してはいる。しかし、其の調べは民を思う心には溢れてはいるが、そこにあるのは優れた王者としての無私である。大正天皇の無私とは全然異質なものだ。たとえて言えば、人を小ばかにしたようにしゃべりまくる少年モーツアルトの音楽がわれわれを深く感動させるようなものだ。その技巧は余りにも自然である。此の大正天皇の心が発している光が、わが国近代史を照らすとき、幕末以来のわが国の歩みそのものが、悲しいが美しい自然な音楽のように、繰り返し、聴く人の心に語りかけてくる。あるいは美しい一枚の絵のように見えてくる。いわばこの非政治的な魂が、政治をも包含する歴史の運動を肯定し、納得させ、共感させるように働く。政治がどれほど現実に力を持とうが、文化がなければ、それが意味を持つことはできないのである。




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大正天皇6

西川泰彦著『天地十分春風吹き満つー大正天皇御製詩拝読』
この書には、大正天皇御歳16歳から37歳までの漢詩が納められている。
高校時代に習った漢詩を思い出して思うに、大正天皇は王維のような自然詩人のような気がする。
ぱらぱらめくって一つ紹介しよう。
『太平記』にある金崎の戦いがあった「金崎城址」と題する詩。明治42年、31歳時。

登臨城址弔英雄 日落風寒樹鬱葱
身死詔書在衣帯 千秋正気見孤忠

後醍醐天皇の詔書を身に着けて最後まで戦った新田義貞の忠義の心を想われた。

ついでに、紹介しよう。明治37年、御歳26歳。
「御歌会始は当初恒例の18日に行われるはずのところ、6日に韓国の名憲太后の訃があった為、延期して20日に催された。『明治天皇紀』に載る御製、御歌を揚げ奉ろう。

御製(明治天皇) 
苔むせる岩根の松のよろつよもうこきなき世は神をもるらむ
皇后陛下御製
大内の山の岩根にしけりゆくこまつの千代もみそなはすらむ
皇太子殿下御歌(大正天皇)
吹きさわぐ嵐の山のいはね松うごかぬ千代の色ぞしづけき
皇太子妃殿下御歌
うごきなくさかゆる御代を岩のうへの待つにたぐへて誰かあふがぬ 」

小生は感じる、ここに一人、あまりに素直な歌人が居ると。

和歌といえば、大正6年(1917年)の春曙と題する御製が小生は好きだ。

百千鳥かすみのうちに鳴きいでて花よりしらむあけぼのの空

これなんか『玉葉集』に入っていてもおかしくないではなか。



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大正天皇5

大正天皇即位後、いわゆる大正政変があり、第一次世界大戦のおかげで、わが国の貿易は黒字に転じ、大戦景気で潤う。しかし国内物価は高騰し、米騒動が起き、寺内内閣総辞職、原敬の政党内閣が発足。
ちょうどこのころ、大正天皇に病魔が忍び寄っていた。この年、1918年(大正7年)10月、天皇は風邪のため(?)天長節観兵式を欠席、11月の陸軍特別演習では乗馬を恐れ、左足に変調をきたした。12月の帝国議会開院式も欠席。
1919年(大正8年)天皇の変調は誰の目にも明らかとなった。2月には原敬首相も天皇に〈何かご病気がありや〉と日記に書いている。このころの公式行事における天皇のうつろな表情の写真を見るにつけ、小生は心が痛む。
体力は落ち、食事中も姿勢を維持することができなくなり、このころの慰み事であった散歩と玉突きも難しくなった。言葉もだんだん不明瞭になり、原敬は、〈御幼年時の脳膜炎が再発してきた〉のではと書いている。
1920年(大正9年)、政府は天皇の様子についての発表を行う。3月、第一回発表「侍医三浦謹之助によると糖尿病と坐骨神経痛」があると。第二回目の発表時には、政府は裕仁皇太子(昭和天皇)の外遊を急遽検討、翌年3月に出発。その時の皇太子の写真や映画は、人々に新しい希望を与えたに違いない。
1920年(大正10年)大正天皇のご病気について、さらに発表が続く。10月、第四回発表では、天皇はもはや快方に向くことはないとされた。人々は、大正天皇は脳の病気を患っていると、風の便りで聞くようになる。もはや歩くことも、はっきりした言葉も発することができず、親しい者を見分けることもできなくなった。11月、裕仁皇太子は摂政に就任した。
大正天皇の、この全体的な活力の低下、運動・記憶・知覚の徐々なる低下は、おそらく多発性の脳梗塞のためであろう。
その原因は何であろうか? というより、肉体の病理学的原因はどうあれ、小生が感じるのは、大正天皇は天皇になって以降、近代国家形成のために必要とされた君主像を強制された、そのことが、あの〈天真爛漫な〉天皇をして病気に向かわしめた、と。
誰でも中年にさしかかる頃、どうしようもなく嫌でたまらぬことを強制され、それから逃げることが出来なければ、発病するのではないか。うつ病やリウマチや心臓病など、その人の気質体質に応じた病気という逃げ道に行かざるを得ないのではないだろうか。



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大正天皇4

1904年(明治37年)日露戦争の年、皇太子(大正天皇)は24歳。
このころから、だんだんと地方の皇室に対する忠誠意識が表面化してくる。そして、巡啓にともなう諸改革、鉄道や電灯などのインフラ整備がもたらされる結果、各地方からの皇太子巡啓の要請が増えてくる。
また、映像メディアの発達に伴って皇太子の巡啓時の写真が新聞に載ったり、映画も作られるようになる。学校では皇太子の「御写真」の下賜がなされ、神秘のベールに包まれた明治天皇とはだいぶん趣の変わった次期天皇が予定される。
1907年(明治27年)には、伊藤博文の要請により大韓帝国に。このとき10才の韓国皇太子李根(リギン)を愛し、皇太子(大正天皇)は韓国語を学びはじめる。李根は12月日本に留学することになる。もちろんそれは政治的な意図があったのであろうが、皇太子(大正天皇)はそんなことはどうでもよく、心から李根をかわいがった、と思う。
また、軍事演習の見学やら、大元帥を継承する準備のため参謀本部に通ったりさせられるが、皇太子(大正天皇)は、軍事についてはまったく無理解であった。
明治45年、明治天皇崩御。皇太子は大正天皇となる。大正4年大礼は京都、横浜では華々しく演出され、メディアは全国いっせいに国民的行事として報道。
大正天皇は、皇太子時代のような視察や見学といった目的の行幸はできなくなっていた。
1915年(大正4年)、長男裕仁皇太子の地方巡啓が始まる。裕仁皇太子には、明治天皇を理想としての教育がなされる。・・・つまり大正天皇のようではいけないと・・・。
大正天皇の子供じみた、率直でざっくばらんな性格に、山県有朋らは業を煮やし、天皇に対したびたび諫言したらしい。そんな山県を大正天皇は以前から嫌っていた。
そういえば、明治43年、山県邸を訪問した皇太子(大正天皇)の写真があるが、その時の皇太子は縁側で行儀よく両手をひざに乗せてちょこんと座っており、その左側に山県は煙草を右手に持ち、両脚を開けて尊大に構えている。この写真を見ると、大正天皇と山県有朋との関係が伝わってくる。

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大正天皇3

ちょうど世紀の変わり目、1900年(明治33年)、20歳になられた嘉仁皇太子(大正天皇)は、九条節子(さだこ)と結婚し、公的な場に姿を見せるようになる。すなわち有栖川宮の方針によって、地方に巡啓に出るようになる。
このことが皇太子の心身ともに健康を快復させ、地方での皇太子のあまりに率直な性格が演ずる面白いエピソードが残ることになる。
例えば、狩場で一人道に迷い、そこらの人と(その人も皇太子と知らず)話をしたり、知事などに意表をつく質問をして慌てふためさせたり、人力車に乗っては車夫に予期せぬところに行けと命じたり、とにかくいろいろな人に何でも思いのままに質問したりして、恐縮させた。
こういう皇太子に対して、周囲は好感をいだいたらしい。
また、子供は四人の健康な男子をつくり、子煩悩で、家族と共に歌ったりと、いわゆる家庭的であった。ドクトル・ベルツもそういった皇太子に感激している。側室をおかなくなったのも、大正天皇からである。
ところが、有栖川宮は、自身の健康問題もあったのか、皇太子を過度に自由にさせ、次期天皇として必要な精神を忘れさせたのではあるまいかと反省し、輔導としての地位を降りることになる。・・・

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大正天皇 2

原武史著『大正天皇』によると、大正天皇のご生涯を通覧するに、誕生直後から20歳くらいまでの20年間、そして40歳前から崩御されるまでのおよそ十年弱の間、病気がちであった。
新生児~乳児期においては、髄膜炎と思しき症状が頻発している。生後半年も経たぬ間に中山忠能(ただやす)邸に満六歳になるまであずけられる。満6歳以後は青山御所に移されるが生母には育てられなかった(母は側室であった)。
7歳から御学問所で個人教授を受けるが、理解が遅々として勉強は捗らなかった。かなり気分屋で、じっとしているのが苦手らしく、饒舌で「これは何?これは何?」と訊くことが多かった。この性格は生涯変わらなかった。今日流に言えば、アスペルガー症候群といわれるものであろう。
その後も、百日咳?を頻発したり、腸チフスになったりして、学習院での少人数の講義にもついていくのが難しく、特に文章の意味を解することや算術の規則を理解するのに困難があったという。
明治28年、皇太子(大正天皇)16歳の年は発熱を繰り返し、さらに勉学は遅れたため、学習院を中退させ、個人教授が始まる。授業は、皇太子にとっては、負担にすぎ、皇太子は東宮職員を辞めさせろと言い出すにいたる。
このような状況のなか、伊藤博文は、いままでの東宮職による詰め込み教育を廃し、皇太子の生活全般を補佐すべき一人の東宮監督を付けるよう天皇に意見する。その要請かなって、有栖川宮威仁親王を、東宮監督の補佐として皇太子に付けた。
有栖川宮は、〈健康第一、学問第二〉という方針で皇太子に接した。そうして、規律を嫌う皇太子の性格を考慮した教育を考えた。
  

             

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大正天皇について

明治天皇、大正天皇、昭和天皇、と三代の天皇を並べて観るとき、明治天皇は、わが国の近代国家形成への道に相応しい立派な人物であった。

昭和天皇は、わが国始まって以来の危機に直面し、それに耐え、それを乗り越えるべき道に相応しい巧妙な人物であった。

では、大正天皇はどうであったか。一般に流布している大正天皇像は生涯を通じて病弱であり、いわゆる大正デモクラシーの中で目立った苦労もなかった、などではないだろうか。

しかし天皇の〈脳の病〉についてのは、小生は間違っている、と考えている。そしてまた、天皇の性格についての否定的なイメージも、間違って伝えられた結果だと思う。

三代御製を通覧するに、大正天皇はもっとも繊細であり、その素朴、率直、明るさは、むしろ万葉以来のわれわれ日本民族の本流ではないかと感じられる。

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澄み濁るをば神ぞ知るらん

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