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良経の二首

  夢の世に月日はかなく明け暮れて
       または得がたき身をいかにせむ
 

西行のようでいて、しかし西行のようにいわば時代と対決した心の深さというものはない。ここには身分も才能も有り余るほど恵まれた若い詩人のアンニュイからの危機が迫る。ややもすれば理屈っぽくなりがちな思想歌だが、青年の素直な心がストレートに歌われていると感じる。今この歌を詠ずると、「または」という言葉の意味合いと響きが効いていて、歌の姿がすっきりしと感じられる。

   見ぬ世まで思ひ残さぬながめより
       昔にかすむ春の曙


 これほど意味がとりにくい、しかし一部の粋人の心を蠱惑してやまぬ歌を他に知らない。かく言うぼくもこの歌は長らく気にはなっていて、しばしば頭に浮かぶ。

 清少納言の文体の春の曙は、現代のコマーシャリズムにぴったりな、そのイメージは明瞭・鮮烈で、瞬間に万人にそのエッセンスを理解させる。この良経の歌はまったくその反対で、その曙は茫洋としていて、空間的奥行きも不明瞭で、時間的にも現在が未来でも過去でもありうるようなものである。

 来世にも心残りがないように今の素晴らしい春の曙を堪能しよう。しかし昔見た春の曙はもっと美しかったはずだが、それはもう漠とした思い出としか言いようがない。しかし今見る春は純粋な現在のものとは言い難く、どうしても過去の記憶に沈んだ〈あの春〉の修飾を受けたもの、つまり現在の知覚は思い出の力によっている。あの過去は、あの思い出は何だったのだろう。失われた時は〈存在〉していて、現在に呼び掛けている。しかしこちらからそれを求めることは不可能なのだ。
ぼくの勝手な解釈。

藤原良経(1169~1206) 『新古今和歌集』仮名序を執筆、巻頭歌の作者。従一位摂政太政大臣。亨年38.


     

     
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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

家隆の二首

  桜花夢かうつつか白雲の
       絶えてつれなき峰の春風


 本当に桜花であったのか。あれは夢ではなかったのか。いやあれは白雲だったに違いない。というのは、それがどこかに消えてしまったのは、風が運んでいったからだ。この風。私の頬にふれる峰から吹いてくる風。この感触は夢ではない。そしてこの春風は私の想いになんとそしらぬ様子で吹いていることか。いや、つれないのは雲と風の共謀か。それにしてもあの桜花の幻影は眼の底にまだ揺曳している。この歌の調子がとてもよい。「つれなき」が「常なき」となっている伝本もあるが、「つれなき」のがいいと思う。

   旅寝する花の木蔭におどろけば
       夢ながら散る山桜かな


 旅の途中、桜木の下で寝ていて夢を見た。その夢は満開の桜が突然散る夢だったのだ。その夢にハッとして目が覚めた。見ると桜はかすかな風に散り始めていた。夢も現も花は散るのだが、〈おどろけば〉という言葉が効いていて、ハッとして目が覚めて見る景色の万華鏡的効果がこの歌の魅力である。

 この歌からただちに連想する歌は、『平家物語』の忠度の〈旅宿の花〉

  行きくれて木の下蔭を宿とせば
     花や今宵の主ならまし
 

これは忠度が敵兵に討たれた後に、箙から発見された歌であって、忠度のそして平家の運命を予見している。源平の合戦という日本中が血で染まったような、今なおわれわれ日本民族の心の底に暗い主調低音となって響き続けているような大きな出来事。これに耐えて生き続けてきた当時の人々のよりどころとなったのは、もちろん仏教もそうであろうし、それより小生は大きな二つの同時代の文学、『新古今和歌集』と『平家物語』だったと思う。


       

       
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鎌倉に行く2

 明くる日の午前、鶴岡八幡宮に参詣す。鎌倉という都市の由緒はこの八幡宮にあり。都から遠く離れた鎌倉で征夷大将軍を任命された源頼朝周辺の武士団たちが政治に携わりはじめた時、いかに世の中が不気味な暗闇に蓋われてわれていったか。その暗黒はこの八幡宮の参道における源実朝暗殺に極まる。

 実朝という稀有な人間の存在が、その死によって、力と欲望の歴史の流れの拒絶を貫いたという印象を受ける。小生はどうしてもその現場を見たかった。目印の大銀杏は、ちょうど三年前の春、強風のために倒されて、今は根と幹の一部が残っている。

 鶴岡八幡宮1


 実朝暗殺。小生は、彼は殺されたというよりも、殺されることを知っていて、殺されるまでの経過を素直に自ら進んで演じていったように感じられる。将軍とならざるを得なかった身分でありながら京の文化とりわけ歌壇に強く触れた鋭敏な青年が、己の死を予感して生きた。もっとも不穏な状況に、もっとも裸の鋭敏な魂が生きた証は『金槐和歌集 巻之下』に尽くされている。

 ゆく舟を見ては、百人一首にも採られているこの歌

  世の中は常にもがもな渚漕ぐ
     海人の小舟の綱手かなしも


 世を歎いている人を見ては、

  とにかくにあればありける世にしあれば
     なしとてもなき世をもふるかも


 そしてこころとは、

  神といひ仏といふも世の中の
      人のこころのほかのものかは


 そして入り日を眺めて詠う、

  くれなゐのちしほのまふり山の端に
      日の入るときの空にぞありける


 鎌倉のために右大臣に昇進した彼には、もはや為すべきことがあったであろうか。雪の降る夜、鶴岡神拝を終え、石階を下ったところで、銀杏の蔭から刺客が飛び出てきた。実朝の体から鮮血が迸った。

               *

ついでに、すぐ裏にある建長寺という寺に寄った。ここの参道にある桧の立派さには驚いた。

  建長寺


概して、鎌倉には巨木が多い、そしてまたリスをいたるところで目にした。


          


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頓阿法師詠4

頓阿の時代の和歌は本歌取りが多い。本歌と並べて味わってみると、頓阿がどのような工夫をしたかがうかがえて面白い。


いく世しもあらじわが身をなぞもかく
    海人の刈る藻に思ひ乱るる
(古今)

 さのみなど花にそむらんいく世しも
    あらじわが身の老いの心を
 (頓阿)

 そんなに長く生きるわけでもないのに、どうして私は藻のように思い乱れるの(古今)、どうして花に心を染めてしうの(頓阿)


ほととぎす鳴きつる方をながむれば
    ただ有明の月ぞのこれる 

(千載 藤原実定)

ほのかなるただ一声もほととぎす
    なほ思ひ出の有明の空
 (頓阿)

 頓阿のは、ほんの一声だったけど確かに心に残った。しかし実定は、あれは空耳だったのか、いや有明の月の魔力か、という不安が尾を引いていて面白く感じる。

 五月待つ花橘の香をかけば
   昔の人の袖の香ぞする
 (古今 不知読人)

 思ひいづる昔も遠し橘の
   花散る風のゆふぐれの空
 (頓阿)

 古今、香によっていつもあの思い出に浸ることができる。頓阿、あのことからもうあまりにも遠く隔たってしまった。もう二度と還って来ない。この夕ぐれはあまりにも切ない。


 音もせで思ひにもゆる蛍こそ
   鳴く虫よりもあはれなりけれ
(後拾遺重之)

 飛ぶ蛍もえてかくれぬ思ひとは  
   しらでやさのみ音を忍ぶらん 
(頓阿)

 まったく同じ趣旨の歌であるけれど、頓阿のほうが線がはっきりしていていい。


 わが心なぐさめかねつ更科や
   をばすてやまにてる月を見て
 (古今)

 こよひしも姥捨山にながむれば
   たぐひなきまですめる月かな 
(頓阿)

 この古今の歌は、『大和物語』にある姥捨物語にある。この話は、信濃の国更科に男が住んでいた。この男の両親は早くに亡くなって、伯母さんに育てられた。しかし、寄る年波にはかてず、この伯母は腰が曲がって働けなくなった。男の妻は伯母が邪魔になってきたので、深い山の中に捨ててこいと男にいう。男は仕様がないから、伯母をおんぶして山中に捨ててくる。その夜の月はたいそう明るくきれいだった。それを眺めていた男は悲しい気分になった。そして詠ったー

 わが心なぐさめかねつさらしなや
   をばすて山に照る月を見て


 そして、山に戻って伯母を連れ帰った。その後はどうなったかは知らないけれど・・・。


 頓阿の和歌は、「九月十三夜、姥捨山の月を見て」という詞書がある。伝説的な姥捨山を旅中で見たのであろう。姨捨という残酷な行為と十三夜の月の光の類まれな美しさとの直結が、オスカーワイルド風の危険な魅力を醸し出している。


 

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遣隋使派遣

隋の出現は589年だけれど、この大国の出現は大陸はもちろん朝鮮半島をいたく刺激することとなった。ただでさえ、高句麗、新羅、百済の三国は戦々恐々としてスパイ合戦を延々とし続けているなかで、その影響は日本にも及ぼされる。日本の軍事力を当にしていろいろな貢物やスパイが入って来る。

半島から経典や高僧(高句麗からは慧慈、百済からは慧聡)そして技術者。金銀、珍しい動物まで、どんどん入って来る。おかげで、日本最初のお寺・法興寺を建てることができたし、また国産第一号の仏像(鞍作鳥作)を創って、そこへ納めることができた。

この文化イコール仏教という日本の情況の中で、聖徳太子は朝鮮半島よりも隋に目を向ける。政治的な意味合いももちろんあったであろうが、むしろさらなる仏教を取り入れようとしたためである。

太子は、隋は素晴らしい仏教国である、先代の皇帝(文帝)は転輪聖王と自称していたし、その息子さんの煬帝もよくできた人物で、若いころは天台智義顗と親交があったとも聞いている。この皇帝から直接仏教、そして理想的な政治をも学ぼう、との野心に燃える。推古十五年(607)、聖徳太子は小野妹子らを隋に派遣する。このとき持たせた国書について、有名な『隋書倭国伝』にはこうある。

 大業三年(607)、その王タリシヒコ使を遣わして朝貢す。使者曰く「海西の菩薩天使、重ねて仏法を興すと聞く。故に朝拝を遣わし、併せて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ」と。その国書に曰く「日出づるところの天子、書を日没むところの天子におくる、つつがなきや云々」と。帝これをみて悦ばず。鴻臚卿(コウロケイ)に謂ひて曰く「蛮夷の書、礼無きものあり。また以て聞こゆことなかれ」と。

 周知の通り、じつは隋の煬帝はそんな理想的な皇帝ではなかった。十年も経たぬうちに、高句麗に対して、個人的恨みからとでもいうような、大義のない、そしてとても大規模な、そのうえ実に下手な戦争をしかけて国を滅ぼしてしまった。そんな皇帝であった。

 だから、妹子から手渡された国書を読んで煬帝はこう思ったであろう。この倭という東の国の王はどういう奴だ、本気で仏教的理想を政治に生かせるとでも思っているのか。お目出たい奴だ。野蛮人のくせして、この俺に対して、日出づる所の天子、日没する所の天子に送るとは、どういうつもりだ、礼儀知らずというか、田舎者というか、純朴を通り過ぎて馬鹿じゃないの?

 梅原猛氏は、聖徳太子を平凡な百姓娘を貴婦人と思いこんで遇したドンキホーテになぞらえて曰く、太子のような高邁な理想に捉えられた人はれわれ凡人にくらべてとても騙され易いところがあると。

 周りの国が、隋に対して、臣下の礼をもって表(ふみ)を差し出すのに、太子は対等の関係を表す国書を出したものだから、隋は怒る。しかし太子はもちろん分かっていてやったと思う。われわれはこの様な国であって、これから貴国にいろいろ学ばせてもらいたい、と正々堂々と胸を張って言っている。この生一本が太子らしい。

 きっとむこうに着いた小野妹子はいろいろ苦労したのだろう。それでも、なんとか上手くやりおおせて、帰国するときは、答礼使の裴世清(はいせいせい)らを伴ってくる。隋としても、せっかくだから日本の情況を、そしてまた日本から朝鮮半島の情況を探りたいと考えたことであろう。

 ところで、この帰国は百済経由だったのだが、途中で大変なことが起こった。百済に滞在中、皇帝からの返書が、たぶん百済人によって盗まれてしまったのだ。小野妹子はものすごく困ったであろう。帰国して、危うく処刑されるところを推古天皇は、隋の使者らにこんなことを聴かれても困るといって、そっと妹子を許した。

この『日本書紀』に書かれている話は、事実ではないのではないかと、多くの学者は疑った。妹子にとって何よりも大事な国書が盗まれるなんてありえない、あるいはあまりにも無礼な内容であったので妹子が一人処理したのではないか、などと憶測する人もいる。

 しかし、百済はもっとも弱く、だからこそ諜報活動は徹底的していた。しかも、当時の東アジアの非常な緊張状態においては、国書盗難はおおいにありうるのではなかろうか。強大な隋と日本に何か好からぬ密約があったのではないか、と半島諸国がやきもきするのはよく解る。

むしろそれから百年後に書かれた『日本書紀』に、わざわざそのような嘘を書かねばならない理由の方が考えにくい。どうも、国書盗難の話は本当のことのように感じられる。

それにしても、朝鮮の人は日本からこそこそと大事な物を盗むが、それ民族的習慣なのだろうか。その後しばらくして、熱田神宮から民族の宝である〈草薙の剣〉を新羅の僧が盗んで日本から脱出しようとしたが、幸い剣の霊力でそれを阻止できた話がある。

 それから、新しい所では、昨年韓国人が日本のお寺の大事な仏像を二体盗んだのが発覚した、日本は返してくれと言っているが、どうなっているのか。これは、百済人のこの国書盗難事件と同じく、官民一体の策略のように思われる。


  

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頓阿法師詠3



頓阿は若い時から西行にあこがれていた。

西行住み侍りける相臨時といふ所に、庵むすびて思ひつづけ侍し

跡しめて見ぬ代の春を忍ぶかな
   その二月(きさらぎ)の花下かげ

西行が住んでいた所に庵をむすび、ちょうど二月の花の下で、西行の時代の春を忍んだことだ。
あの西行の辞世の歌「願はくは花の下にて春死なんその二月の望月のころ」を、読む人は必ず思いだし、頓阿もまた西行と同じ願いでいるということを訴えている。

しかしまた頓阿はまた西行や兼好にくらべて、はるかに〈真面目な〉僧であり歌人であったようだ。

正和のころ、二条入道大納言家、春日社に奉納せられし唯識論の歌に、実摂ニアラザルガ故ニ空花等ノ如シ

いつよりかむなしき空に散る花の
   あだなる色にまよひそめけん


わたしたちは、いったいいつより虚しく空に散っている花、そのような諸法に迷ってしまったのだろう。

   祝の心を

敷島のやまとことの葉むかしより
   つもるは君が千世のかずかも


昔より積もってきた和歌の言の葉の数は、わが君の長寿の齢の数のように限りないものだ。

頓阿という僧は、また吉田兼好と共に二条為世門の四天王として、和歌の道に生きた人として有名である。1289~1372というから、ずいぶん長生きをした人だ。だから誰よりも南北朝の動乱を長く見続けた人だ。頓阿の心の中では、足利尊氏と後醍醐天皇とは無限の言の葉のなかで、永遠の蜜月を送っていたに違いない。

         *

参考にした『頓阿法師詠』(岩波版)の解説にはこうある。

俗名は二階堂定宗、出家して頓阿と号した。正応二年(1289)~応安五年(1372)、亨年八十四。当時、浄弁・兼好・慶運らとともに、二条為世門の和歌四天王と称された。公武僧との和歌を介しての交誼も広く、『新拾遺集』の撰集作業にも参与するなど、二条派歌壇の重鎮的な存在であった。


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頓阿法師詠2


 

頓阿は83年という長寿をまっとうした。彼は老いについてこの様に歌っている。

   述懐

いつまでと思はざりせば世の中の
   憂きになぐさむかたやなからむ


 明日をも知れぬ我が身だと思うからこそ、憂さを慰めて生きておれるのだ。

偽りのあるならひにや人ごとに
   そむかれぬ世を憂しといふらん


人はみな出家しないくせに世の中を苦痛だと言っている。偽りばかりではないか人の世は。

すてしより惜しからぬ身のいかにして
   老いとなるまでつれなかるらん


世を捨ててからわが身を惜しいと思はないのに、無情にもなんでこんな老人となるまで生かされているのだろう。

かぎりあれば身の憂きこともなげかれず
   老をぞ人は待つべかりける


老いると、命の終わりももうすぐと思えるようになって身の憂さをそう歎かなくなる。してみると人は老いを待つべきものだなあ。

年も経ぬいまひとしほと思ひしも
   心に朽つる墨染の袖


仏道修行をいっそう深くしようと決意したけれども心のうちに怠ってから、もう長い年月が経ってしまった。

世を憂しと思ふばかりぞかずならぬ
   わが身も人にかはらざりける


自分だけは人と違うと心のどこかで思っていたが、何のことはない、そのことが人並みの証明。

ずいぶん老いについて覚悟を決めかねているというか、思索を楽しんでいるようにも見える。長生きをするとはこういうことか。


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頓阿法師詠1

頓阿法師(1289~1372)は後醍醐天皇より一歳若く、吉田兼好より6歳若かった人。そういう時代に生きた人。この人の和歌を紹介しよう。

 立春

たえだえに氷ながれて山川の
  岩こす波も春たちにけり


暖かい光を浴びて氷がところどころ溶かされて川は増水し、波がきらきら光っている。ああ春だ。


梅の花にほひや空にみちぬらん
    夜わたる月に春風ぞ吹く


 月がきれいな夜、爽やかな春風が吹いている。きっとこの大空いっぱいに梅の匂いが満ちているのであろう。

 真木の葉はつれなき山の下露に
   空ゆく月のかげぞうつろふ


 露が滴っても真木の葉は、そしらぬふりをしてぜんぜん色を変えないが、その下露に映った月の光は刻々と変化している。

  歳暮

ながめこし花より雪のひととせも
   けふにはつ瀬のいりあひの鐘


花の時節から雪の時節へ、じっと眺めてきたこの一年ももう今日で終わったのだなあ・・・、初瀬で鳴る夕暮れの鐘の音が、このしみじみとした感覚と溶け合う。

  恋

よそながらなるるにつけてなかなかに
   思ふ心をもらしかねつつ


友達としてだんだんと親しくなってくるにつれて、かえって恋心を打ち明けられなくなってきている。どうしょう。

まれにだに人もこずゑの玉葛(かづら)
   絶えぬものとはなに思ひけん


 稀にさえ逢いに来てくれなくなった人を、玉葛のように絶えないものだと、どうして頼みに思っていたのであろうか。


 

   



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兼好法師和歌3

 兼好は、二条為世門下生のうち四天王のひとりと言われたそうだが、その中ではもっとも真面目に二条派の教条を、つまり古今風の発想を守った歌人であるらしい。のちに二条良基の、頓阿・慶運・兼好の個性を評して、「兼好は、この中にちと劣りたるやうに人々も存ぜしやらむ。されども人の口にある歌ども多く侍るなり」とある。
『家集』2の、

 石山にもうづとて、あけぼのに逢坂をこえしに

 雲のいろにわかれもゆくか逢坂の
   関路の花のあけぼののそら


 逢坂の関と別れて行くにつれ、道沿いの桜の花盛り、空は徐々に明るくなってきて、雲の白がだんだん分かってくる。

 〈めでたし〉と小生なら評したい歌ではある。また、こういう歌もー

 雪ふる日、比叡の山にのぼりて

 のこりつるまきのしたみち猶(なほ)たえて
   あらし吹きしくみねのしら雪


 降った雪の隙間にわずかに残っている木々の落ち枝が、さらなる大雪のために被われて道が閉ざされてしまった、この峯は。

 ここには、あの京極派の新風が感じられないであろうか。

 1350年、南北朝の対立は頂点に達し、ちょうどこのころ兼好も亡くなるのであるが、政治的混乱とともに京極派の活動は消滅する。しかし、歌人たちは政治においてはロビイストあるいは一時的なプロパガンダニストではあっても、彼らの詩的感覚は正直なものであって、京極派の発見した新しい世界は、その後の歌壇全体に大きな影響をあたえずにはおれなかった。


   

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兼好法師和歌2

兼好は、30歳あるいは34歳のとき出家をした。1312年(応長2年)のことである。「林瑞枝によれば、後二条帝の崩御により再度、宮廷奉仕の望みが断たれた」からという。(大野芳著『吉田兼好とは誰だったのか』)

そうかもしれないが、いまは出家の動機を穿鑿することはしないで、『兼好法師家集』を紐解いてみよう。

世中おもひあくがるるころ、山里に稲刈るをみて

よの中の秋田刈るまでなりぬれば
   露もわが身もおきどころなし


世の中を離れようという思いが湧き上がっている頃の歌、世の中に厭きている私は露のようにじっと留まっていることはできないだろう。

 世をそむかんと思ひたちしころ、秋の夕暮に

 そむきてはいかなるかたにながめまし
     秋のゆふべも憂き世にぞうき


 趣深いはずの秋の夕べも、この憂き世においては辛いだけだが、出家遁世したらどのように感じられるだろう。

 本意にもあらで年月へぬることを

 うきながらあればすぎゆく世中を
   経がたきものとなに思ひけむ


 つらいけれどもまあなんとか過ぎて行く人生を、なんでとても辛いと思っていたのだろう。

 さだめがたく思ひ乱るることのおほきを

 あらましも昨日に今日はかはるかな
   思ひさだめぬ世にしすまへば


 昨日の感慨は今日は変わってしまう、どうも決心がつかないものだ。

 身をかくすうき世のほかはなけれども
   のがれしものは心なりけり


 身を隠したといったところで結局この世にいることになるのだけれど、心はこの世にはないのだ。

 いかにしてなぐさむ物ぞ世の中を
   そむかで過ぐす人に問はばや


 この世をそむかずに生きている人に訊いてみたい、どのようにして気を紛らわして生きているのかと。

これらの歌から知られるであろう。あるとき兼好を襲った危機、それは西行を襲ったのと同じものであった。どうして人は安穏としてこの世に生きておれるのか。

西行はこう歌った。

 空になる心は春の霞にて
   世にあらじなとも思ひたつかな


 世の中をそむきはてぬといひおかん
   思ひ知るべき人はなくとも


 捨てたれど隠れて済まぬ人になれば
   なほ世にあるに似たるなりけり


 何ごとにとまる心のありければ
   更にしもまた世のいとほしき


 うき世をばあらればあるにまかせつつ
   心よいたくものな思ひそ


 西行が天性の反骨詩人であれば、兼好は教養ある哲学者のように見える。二人は同じ詩魂をもっていて、それが彼らをしてこの世に生きることを難しくしている

だが兼好の場合、その反動として徹底的にリアリストとして生きることを勧める。おそらくこのときすでに30歳を過ぎた兼好は『徒然草』に着手していた。彼のリアリズムはたとえば、

その物につきて、その物を費しそこなふ物、数を知らずあり。身に虱、家に鼠、国に賊、小人に財、君子に仁義、僧に法。(97段)

 兼好最後の歌―

 かへりこぬ別れをさてもなげくかな
   西にとかつは祈るものから


 死別となるとやはり歎いてしまう、西方浄土へ行けるように祈ってはいても。


  

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兼好法師和歌1

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『兼好法師集』にこんな詞書のついた歌がある。

 東へまかり侍しに、清閑寺(せいがんじ)にたちよりて、道我僧都にあひて、秋は帰りまでくべきよし申侍りしかば、僧都

 かぎりしる命なりせばめぐりあはん
   秋ともせめて契りおかまし


 返し(兼好)

 行くすゑの命を知らぬ別れこそ
   秋ともちぎるたのみなりけれ


 25歳くらいの兼好が、一説によると失意の東下りの際、清閑寺に立ち寄って道我僧都(19歳)に会って交わした歌。兼好が来年の秋にまた寄るからねと言ったところ、僧都は

 もしいつまでの命と判っていたら、再び会うのは秋にしようと約束も出来ましょうが・・・。

 それに対して兼好さんは答える、

 いつまでの命か判らないからこそ、秋に再会しようと約束するのです。

 これちょっと見ると、どうなるか分からない明日を頼みにするなと言うのは、むしろ兼好さんの方じゃないかと思われますね。

ここでは、兼好さんこう言いたいのでは?

 しかし、若いお坊さん、君の言うことは正しいと思うよ、でもちょっと固いんじゃないの。人生は理屈じゃないよ。理屈は普遍的だけれど、〈現実〉はこの瞬間しかないのだよ。それでさ、この現実の瞬間を楽しもうじゃないか。また会うと約束する、それを頼みにすることは、今という瞬間を楽しむことだよ。その時になって当てが外れたら、それはその時のこと。当てが外れることはよくあることだということが腹に入っていれば、べつにそんなに歎くこともあるまいて。

 べつのところで、兼好さんこんな歌も。

 たのもしげなること言ひて、立ち別るる人に

 はかなしや命も人の言の葉も
   たのまれぬ世をたのむわかれは


 おそらく人間は生きていく以上たのまざるを得ないようにできている、だからかな、はかない生き物なのだな・・・。ひるがえって、たのまぬ生き物は、はかないということはない。

 ちなみに、兼好さんは、『徒然草』160段で、この僧の道我という人は古い正しい言葉遣いを知る人として紹介している。


       

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伏見院御製

 第92代、伏見天皇。とは言ってもかげが薄い天皇ですね。せいぜい日本史の記憶がよい人は、ああ、鎌倉時代の、あの持明院統と大覚寺統との皇統争いのさ中の天皇だな、と思いだすぐらいでしょう。

 そうなのですね。保元の乱(1156年)の遠因をなした白河上皇いらい、天皇親政はなくなり、上皇が治天の君となって政治を行うようになっていたのでした。

 『風雅和歌集』(1349年)にある伏見天皇御製

 わが国にまたあともなし二返り
  八隅(やすみ)知る名を世に残す人


 わが国にこんなことはまたとない。二回にわたって統治することとなった私。八隅知るとは統治するという意味です。伏見院は7年の間隔をあけて都合17年も統治権をもつことになったのです。

もとはといえば、伏見天皇のお祖父さんである後嵯峨天皇が、優柔不断と言うか、二人の皇子のうち、長男である後の後深草天皇よりも、弟である後の亀山天皇に思い入れがあったために、亀山の皇子である後の後宇多天皇を春宮(皇太子)に指名し、後は知らん、以後は鎌倉幕府にまかせる、なんて態度をとったものだから、皇統が二つに分かれてしまった。

 この二皇統、いわゆる持明院統と大覚寺統は、以後じつに変則的な天皇と上皇の組み合わせが続き、後に後醍醐天皇にいたって決裂し、南北朝の時代に入ります。持明院統は北朝となり、大覚寺統は南朝となります。

 この持明院統と大覚寺統は政治での敵対関係だけではなく、和歌の流派としても敵対するのです。それが京極派と二条派なのですが、それぞれの代表が京極為兼と藤原為世、それぞれ藤原定家のひ孫にあたります。藤原為世率いる二条派が本家でもあり、歌学においても保守本流といえましょうか。

 1310年、『玉葉和歌集』成る。ときに伏見院48歳。京極為兼59歳。この京極為兼という人物は大胆不敵であって、そのため敵も多かったらしく、二回も配流の憂き目にあっている。

 『徒然草』153段に、為兼が六波羅に牽かれて行くのを見た日野資朝が目にして、「あなうらやまし。世にあらん思ひ出、かくこそあらまほしけれ」と言った、と書かれています。

 この為兼が率いる京極派の作歌原理は、心の動きに忠実に表現する、そのためには雅俗新旧、どんな言葉を使ってもよい、とする。いっぽう二条派の藤原為世は、すべての点において『古今和歌集』の風を学ぶべきであり、京極為兼は歌の心をしらぬ心ばかりを先にして、言葉を飾らず、節探らず、姿もつくろわず、ただ実正を読むべきだとして、卑俗におちている云々と攻撃して止まない。

 『玉葉和歌集』は、伏見院の念願の勅撰和歌集で、撰定委員四人の中に京極為兼と藤原為世とが居たものだから、ひと悶着あるのは必定ですね。結局為世が降りたのです。それで、『玉葉集』は京極派和歌集であって、従来の和歌集にならべれば、ずいぶん異彩を放っているのですね。

 小生から見ると、『新古今和歌集』というあまりにも華麗な美の球体から抜け出すことが出来なくなって、息が詰まってきた歌人らが、そのごくわずかな綻びから脱却しようとして見付けた道だったように思われます。

 『あめつちの心』岩佐美代子著 から、その綻びを見つけました。それは、『玉葉集』に入った定家の歌―

 秋の日のうすき衣に風立ちて
   ゆく人またぬをちの白雲


 秋の薄日の中、旅衣を風に吹かせて寒げにゆく人、その人を取り残したまま、風にのってどんどん行く手はるかに遠ざかってしまう白雲―。言葉づかいも、動的なイメージも斬新ではありませんか。

 こういうのびのびした感覚。古典主義絵画が知らなかった印象派の筆使いを思い起こしませんか。ここに京極派の風を感じますが・・・。

 この歌から伏見院は作っていますー

 山風も時雨になれる秋の日に
   衣やうすきをちの旅人 
『風雅集』

 こちらは、旅人の気持ちに移入しようとしていますね。

 ついでに伏見院御製を幾つかひいておきます。

 なびきかへる花の末より露ちりて
   萩の葉白き庭の秋風


 しなやかになびきかえる萩の細枝。こまごまと咲いた花の先端から露が散りこぼれて、萩の裏葉が白く見える。ああなんて美しく吹く庭の秋風だろう。

 雨のおとの聞ゆる窓はさ夜ふけて
   ぬれぬにしめる燈火(ともしび)の影


 しとしとと雨の音の聞こえる窓辺に、燈火に向かっていると、夜が更けわたって、雨でぬれるわけでもないのに暗く沈んだ色になる燈火の光よ。

 田の面より山もとさしてゆく鷺の
   近しとみればはるかにぞ飛ぶ


 ・・・真っ白いから近くに見えて、実は目をこらして見るとはるか遠くを飛んでいるのだなあ。

 いたづらにやすきわが身ぞはづかしき
   苦しむ民の心おもへば


 やはり天皇ですね。ただ安らかに歌を詠んでいらっしゃったのではありませんね。


  
 

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斎宮行き2


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 この斎宮の文献上の初見は、あの悲劇の大津皇子のお姉さんの大伯皇女(おほくのひめみこ)。『万葉集』の歌で有名ですね。163の題詞には「大津皇子薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮より京に上る時に作歌」とあります。

 それよりずっと前に、垂仁天皇の御代、倭姫命は、天照大神の御霊の誘導によって、さまざま経巡った末、伊勢国にその祠(やしろ)を立て拝祭した。『日本書紀』では、斎宮をたつとある。しかし、このときの斎宮は、大御神を斎奉る(いつきたてまつる)宮ということで、後の時代の斎王の宮と間違えてはいけない、と宣長は注意を呼び掛けている。(『古事記伝』十五之巻)

 で、結局いつから、斎宮があったのか。もちろん今の斎宮跡に初めからあったとは限りません。とにかく、伊勢神宮がいつからあったのか、一地方豪族が天皇家に負けたのか、記紀の物語の意味は、などといろいろ学者は考えますが、斎宮制度が終わった時は、はっきりしています。平家滅亡後(1185)及び、承久の乱(1221)以後とぎれ、後醍醐天皇の御代、足利尊氏が幕府をひらいた建武三年(1336)に完全になくなります。

 世の乱れ、そして武家政権によって古代的なるもが消滅していったのをを感じます。


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斎宮行き1

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 斎宮は三重県の松阪と伊勢の中程にある。ずいぶんだだっ広い野原のような公園になっていて、その一角に、平安時代の斎宮とおぼしき建築群の模型が造られている。その公園を突き抜けていくと森があり、その中に斎宮歴史博物館がある。

斎宮1
斎宮2


 ここのパンフレットには、「斎宮とは、天皇が即位するたびに選ばれて伊勢神宮に仕えた斎王(いつきのひめみこ)の宮殿と、彼女に仕えた官人たちの役所である斎宮寮」と書かれている。これはいつ頃からあったのか不明であるが、制度化されたのは、天武天皇の御代であるという。

 斎王は、未婚の内親王(天皇の娘)や女王(皇族)の中から占いで選定され、京で潔斎の後、5泊6日の旅でもって斎宮に到着。以後、天皇が代わるか、家族の不幸などがなければ、ここに居続けることになる。斎王は、いわば天皇の名代として、伊勢神宮に仕えるのであるが、普段の生活は都風であったらしい。

 昭和45年に始まった発掘調査によって、徐々に斎宮の全貌が明らかになりつつある。一昨年、平安時代後期の斎王の居所とおぼしき一画から、大量の土器が出土し、その中に「いろは歌」が書かれた破片が見つかったというニュースがマスコミを賑せた。

いとは歌1 いろは歌2


 一度斎宮に行ってみたいと思っていたおりから、4月29日その「いろは歌墨書土器」についてのシンポジウムがあったので、ちょうど季節もいいし、訪れた。四人の演者の語る所を、かなり不十分ながら簡単に紹介しよう。

◎この小皿の断片の墨書文字は、内面は「ぬるをわか」と、外面は「つねなら」または「うゐのお」または「ゐのおく」と読め、おそらく「いろは歌」の一部であろう。そうであるならば、ひらがなで書かれた「いろは歌」の最古の資料となる。11世紀後半~12世紀前半。

◎「いろは歌」は47文字を重複なく用いた歌であり、それは「手習い歌」であって、文字の習得や辞書引きとして用いられてきたのであろう。現存する最古の「いろは歌」は、1079年の『金光明最勝王経音義』であるが、それは万葉仮名(以呂波…)とカタカナである。木簡では12世紀後半以後のもので、カタカナ・ひらがな書きである。

◎紙より土器のほうが入手が容易であり、出土品は習書であろう。また『伊勢物語』69段にあるように、宴席などで器に墨書することはある。(以上s先生)

◎平安時代の平仮名資料には二種類あり、平安時代前半には、実用的な文書で使用されていた。平安時代後半に入ると和歌や物語などに使用されるようになった。今回の出土土器に書かれた書体は、実用的な書体と共通であるようだ。

◎この土器の墨書は、同じ文字を書いていたり、重ねて書かれていたりで、習書として使用されたと思われる。字体は、〈わ〉〈か〉〈つ〉〈ね〉〈な〉に関しては、平安中期~末期のものに一致する。逆に、初期の平仮名書きいろは歌の字体が分かる。(以上y先生)

◎源氏物語を考えるに、11世紀には紙は普及していたと考えられ、どうしてわざわざ書きにくい土器に書かねばならなかったのか。それは一つには筆馴らしのためではなかったか。

 ◎土器の底に番号をふるとすると、漢字なら一字でかけるが、平仮名で書くと、いろはの順で複数の字数がいる。漢字を読めない人のためにはこれがよい。(以上f先生)

 ◎11世紀末の文献では斎王に仕える女官制度は整備されていた。堀川天皇の御代の斎宮は善子(よしこ)内親王であるが、源氏物語の六条御息所ではないが、その母道子も斎宮について行き、女官を補佐。道子は、遠縁でもある藤原行成の書の流派を引く能書家であった。出土土器の内面でもっとも判定の難しい文字〈を〉は、伝成行の〈を〉の一つによく似ている。ひょっとして、これは道子あるいはその女官たちによって書かれたものかもしれない。(T先生)

 というようなことで、「いろは歌墨書土器」の出土はいろいろな想像をかきたて、今後さらなる発見が期待される。


  
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後鳥羽院と定家3

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 ただ小生が気になるのは、『新古今集』の最多の九十四首の西行が、『新勅撰集』においては、十四首しか採られていないことだ。もちろん他の新古今歌壇のキラ星たちもかなり少なくなっているが、これほどではない。西行をあまり評価していなさそうなのは、定家とは時代が少しずれているためであろうか。このちょっとしたずれが、後鳥羽天皇をきっかけとして大きなずれとなったのではないか。

 定家が西行と会った文治二年(1188)、定家25歳、西行69歳。当時、遁世修行の身でありながら、政治的実力者らにも一目置かれ、不思議な外交力をもち、和歌を得意とし、それでいて一見飄飄とした自由人、西行。片や堅物のまだ下級官吏の定家。

 西行は自作のそれぞれを、俊成と定家に判詞を請うた。それは西行が定家を歌道家の人であり、また歌人としての力量を認めていたからだと素直に思いたい。

 法橋行遍なる人の報告(新古集巻十六)によると、定家に和歌の道に専念するきっかけは、と問うたところ、それは西行に会ったことだと答えたという。俊成にではなく、西行になのである。定家がその後どのような道に入っていったかはともかく、和歌の力の真髄を西行において直感したことが、小生には面白く、歌というものの出所をいろいろ考えてしまうのである。




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後鳥羽院1

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 承久の乱(1221年)は、天皇が武士によって、つまり天皇家以外の者の手によって、流罪になった日本史上初めての例である。

 『日本史要覧』には、「後鳥羽上皇が幕府に摂津の長江・倉橋両荘の地頭罷免を要求」とあり、幕府はこれを拒否。武をよくする後鳥羽上皇は自ら創った軍団をもって戦ったが、負けて隠岐に流された。

『新古今集』撰進の院宣が下りたのは1201年(建仁元年)、その完成の竟宴が催されたのは1205年(元久二年)、しかしその後も後鳥羽院は切り継ぎを繰り返し、最後に成ったのは1210年(貞元四年)。和歌所に勤めていた定家は院の恣意に振り回されている様子を日記に書きとめている。

そして、隠岐への配流の身になったとはいえ、『新古今』再編纂の情熱は衰えなかった。後鳥羽院は約二千首を何度も何度も繰り返し詠むうちに諳んじてしまったという。そこでも切り継ぎは行われ、いわゆる『隠岐本』が成ったのは1235年(嘉禎元年)という。30年以上『新古今集』編纂に心を注いでいたというからには、われわれがそれを読むに際して、個々の歌もさることながら、やはり全体の流れや歌の配列、構成に注意して読まねばならいようであるが、小生はまだ通読してはいない。

一見、承久の乱で勝った幕府(北条氏)が政権を、負けた後鳥羽院が詩歌を取ったという、その後の日本の二元論的あり方の基が形作られたようにも見えるが、院自身は武の人でもあり、いわば古代的な〈まだ〉政治から離れられない時代の、あるいは離れたくない性分の人でもあった。

政治から離れ純粋詩に没入しようとしたのは藤原定家であった。丸谷才一著『後鳥羽院』によると有名な「紅旗征戎吾事ニ非ズ」という文句を彼は日記『明月記』に二回書いている、一度は定家20歳のとき、1180年(治承四年)、平清盛が福原遷都し、源頼朝が伊豆で挙兵した年であり、もう一度は60歳、承久の乱が起ころうという時だ。

後鳥羽院の和歌に、

 あはれなり世をうみ渡る浦人の
    ほのかにともすおきのかがり火

 という一首がある。これは、「あはれ」は「哀れ」と「阿波」、「世」は「夜」、「うみ」は「海」と「倦み」、「ほのか」は「仄か」と「帆」と「焔」、「ともす」は「灯す」「伴」「艫」、「おき」は「沖」「起き」「隠岐」を掛け、その重層性によって意味の複合体が生じている。肝心な点は、この歌は承久の乱以前に創られたことである。

 つまり後鳥羽院は、東の武士団が謀反を企てており、いずれ彼らと戦うことになっており、そして負けて隠岐へ流される、という予感をもっていた、と丸谷氏は言う。この話を聞くと、小生は、ロベルト・シューマンがまだ二十歳にもならないころ、自分がライン川で溺れ死ぬ夢を見たという話を思い出す。

 続けて丸谷氏は、院は「さきにまづ悲劇的想像力、といふよりもむしろ自分を悲劇の主人公に仕立てて楽しむ自己陶酔的な癖があったと思はれる。…彼は、心の奥で恐れながら憬れ、憬れながら恐れてゐた島で配所の月を見ることに成功するのである。」

 この観点に立てば、『新古今集』巻十八の巻頭に菅原道真の歌十二首を載せ、それを『隠岐本』でも削除しなかった意味が浮かび上がる。院は道真の悲劇に魅惑され、敗北を思慕していたのであり、これは定家の預かり知らぬところであった。

 丸谷氏の考察は、承久の乱は、関東vs京、あるいは武士vs天皇という意味を超えて、政治と文学とのかかわりあいを示唆してスリリングである。定家は、政治という現実に完全に背を向けることによって、徹底的に抽象的・形而上的美を目指す。後鳥羽上皇は、自身政治にコミットしながらも、政治すら詩の一素材であるように願って行動する。

 奥山のおどろが下も踏み分けて
   道ある世ぞと人に知らせん 1633後鳥羽院

 見わたせば花も紅葉もなかりけり
   浦の苫屋の秋の夕暮   363定家

 定家のこの歌を後鳥羽院は『隠岐本』では削除した。塚本邦雄は、このことについて院にたいする怒りを隠そうとしなかった。

 芭蕉は俳諧を夏炉冬扇のごとしと言ったそうだ。つまり詩は現実には何の役に立たぬもの、のみならず余計なモノだ。しかし、現実とは何か?

 ティラノサウルスがトリケラトプスを喰らい、雄と雌とが子孫を残すために大地を揺るがす生々しさが現実であろうか? 人間の生も、もし言葉が無かったら、現実とはそのようなものであろうか? しかし、そこには〈現実〉なる言葉すら存在しないのではないか。

 三島由紀夫があれほど憬れた切腹。首が飛んで血が飛び散った日、すなわち予定された〈昭和45年11月25日〉という日付が彼の最後の小説の末尾を飾る言葉でもあったとは。が、彼はあの瞬間〈現実〉を完成させたのであろうか。

 『新古今和歌集』はいろいろな問題を含んで豊富である。この歌集編纂に参加した歌人たちは、現実は言葉の側にあるという信仰を深めるために生きたのではないだろうか。




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西行4

    

そして、塚本氏は〈詩と真実〉の禁忌の領域に入っていく。すなわち塚本は若い時分の藤原定家に扮してこう独白する。

「歌つくりである僕の中のもう一人の歌よみが、いつも西行上人のやうに歌いたがってゐた、と言へば気障に聞こえようか。けれどもこの暗く微かな欲求は前衛グループの僕たちがみな無意識にもってゐたはずだ。僕たちの誰もがあの方のやうには生き直せないのと同様、樹立した歌風を毀すことはできない。」

「僕は自分のプロソディ(作詩法)に誇りをもってゐる。他の連中は妄信してゐる。そのリゴリズムと華美な禁欲主義の桎梏の中で、あの方の真実の告白、正述心緒の歌は、技術的な低さと無関係に、僕へのカタルシスとなり得た。」

「僕の信ずる短歌にくらべると上人の歌は、その多くが散文的だ。散文的なその歌い方のいかに短歌てきなことか。素朴で、人恋しい粉黛(ふんたい=化粧)なしの人間の歌のいかに懐かしいことか。」

「歌ふことのよろこびを知ってゐた、万葉以来のうたよみ、他人がさういふ時、ぼくは顔を顰めて鼻の先で笑ひもしよう。杉木立の点景ゆえに、僕の歌の紅の花も鮮やかに映じよう。けれども独りで沈思するとき、あるいは僕の負けだ、と心冷えることも稀ではない。いつの日か僕はあの方の歌をうとんじることがあらう。世界のちがひ、でかたづけることは僕の詩学がゆるさない。まずい歌は悪だ!」

「〈鴫立つ沢の秋の夕ぐれ〉これは傑作だ。皮肉ではない。僕の〈花も紅葉も〉にミクロコスモスがあるとしたら、この歌には人間がゐる。西行上人の自画像が、ひいては乱世に生きて、昨日を問はず、明日を知るべくもない人間の黒いシルエットが、逆光にくっきりと浮かび上がってくる。人は僕の歌をにくみ、この歌を愛惜しよう。そしてそのことは、僕の勝利であり、上人の作家としての真の敗北に他ならない。」

 この文を読んでいると、ふと三島由紀夫を読んでいるという錯覚に陥るのは小生だけではあるまい。思い返せば、三島も塚本も、絶対の言葉によってこの世を乗り越えようとした、あり得べき藤原定家を夢見て生きた。一方は、ついに言葉によって殺され、他方は死ぬまで言葉を不滅のアフロディテと崇めながら生き通した。

 塚本は他のところで、『新古今集』を定家vs西行の場と規定している。しかし、われわれは天才たちのドラマに煩わされないようにしよう。時には『新古今』の花園を逍遥して楽しもう、そして常に現実というわが家に還って来よう、しかしそのとき必ず微かに重苦しい気持ちが胸をよぎるのは、なぜであろうか。




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西行3

 大空は梅のにほひに霞みつつ
      曇りもはてぬ春の夜の月 (定家)

 かへり来ぬ昔を今と思ひ寝の
      夢の枕にほふ橘 (式子内親王)

 この『新古今』的な前衛的な妖しい花々の前では西行の歌は、概して素朴で、直接心から発する感じがして親しみやすい。だからこそ、『新古今』に置かれると、むしろ収まりが悪く感じる。やはりどうして彼の歌が『新古今集』にもっとも多く採られているのか、という疑問が離れないのである。

 かりに西行の歌が新古今的につまらないという観点に立てば、どういう風に見えてくるのであろう。難解で斬新なあまたの歌から推して現代の定家たらんとした塚本邦雄の諸評論を覗いてみよう。彼は生涯を通して反西行の立場を自認して憚らなかった。

 「〈鴫立つ澤の秋の夕暮れ〉にしたところで、〈心なき身〉という詞がいかにもかまととめいて私は嫌悪を催す。…〈心なき身〉の卑下自慢を上回る俗臭紛紛鼻もちならぬ似非世捨て人であることは歴然としている。」

 「〈願はくは花の下にて春死なむ〉は老優の切った下手な見得めいて嘔吐を催す。…西行の実録、逸話、伝説には、意味ありげでわざとらしく、殊勝に見えて実は気障っぽい言動が掃いて捨てるくらいでてくる。」

 ほんとうに西行の歌が先に下手たど思ったのか、伝説的な出家者の人気が先に鼻についたのか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということわざがあるけれど、もう西行の何もかもがマイナスイメージで塗りつくされている。よく引用される後鳥羽上皇の西行評「生得の歌よみ、不可説の上手」とは、えらい違いだ。

 さらに塚本氏は言う、概して平凡な歌が多いのに、多く採られているその故は、『新古今』は後鳥羽院によって造られた、濃淡、強弱、明暗の巧妙な配合からなる一巻の絵巻物であるから、西行の作は定家らの作を際立たせる緩衝剤にすぎない。美酒佳肴に飽きた通人がとどのつまりは一杯の水をこそ不変最高の甘露と称えるのだ。

ここまで言うのは、ちょっと偏見が過ぎるのではと言いたくなる。が、それには塚本氏なりの理由がある。

 『新古今』とは何か。新しい歌とは何か。塚本氏は俊成に成り代わって語るところは、「西行の人物と歌柄の野性を最大限に利用したいと思ふ。古今集以来の血族婚で畸形化した歌、惨憺たる自家中毒症状の歌の、毒を制する毒として。」「西行は直接体験を詩的経験より高いものと自負してゐるやうだ。私の逆説がかれには通じない。即物性の新鮮さは暗い心理の中で生きる、といふ逆説を。」


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西行2

     

小生の疑問はこうである。彼の歌は『新古今和歌集』に、どの歌人よりも多く採られている。しかし『新古今』の雰囲気と『山家集』の雰囲気とはかなり違う。しかし彼の歌が『新古今』に一番多く採られているという事実は、当時の編者らが西行の歌がよいと当然思ったからではないか。

 桜花夢かうつつか白雲の
   絶えてつれなき峰の春風 (家隆)

 春風の花をちらすと見る夢は
  さめても胸のさわぐなりけり (西行)

 まあ、例えばこんな違い。『新古今』の雰囲気とは言っても、一言では言えないくらい広いけれど、小生おもうに、『新古今』の技巧の向かっていく先は、歌が観念上のただの言葉遊びになってしまうぎりぎりの繊細さと巧みさである。たとえば、有名な定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり…」である。

小林秀雄は上手いことを言った、『山家集』を読んでいるとどうってこともない歌が、『新古今集』の中に置かれると断然光って見えてくる、というようなことを。良い歌なのかどうかはともかくとして、なるほど違って見える。この違いはすなわち、西行は世を捨てて山の中の庵で、花鳥風月の表現に心を燃やしたというような人ではなかった、非常に強い自意識の持ち主であった、そしてそれがそのまま歌になった、ということに他ならない。

ちょっと穿った見方かもしれないが、『新古今』の当時の歌人らは、自分たちの美学上の危機を西行が救ってくれるのではないかと期待したのではないだろうか。危機の行く先は、反動として遠く〈古今伝授〉という奇怪な暗い秘義を生むきっかけになったのではないか。

あの時代に、つまり12~13世紀に、西行のような思索家と、『新古今和歌集』のような美の爛熟とが出現したことを、小生は驚きの目をもって見る。ここで力をも入れずして天地を動かす歌の沸騰と崩壊とが起こったように感じる。


 
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西行1

  

いまNHKの大河ドラマで「平清盛」をやってますね。あれを見ていて、気になるのは、やはり佐藤義清(のりきよ)です。まあ、出家しちゃったから、あまり出てこないかもしれませんが。西行ってあんな人だったんだろうか、ほんとうに待賢門院への恋が出家のきっかけだったんだろうか、とかいろいろ穿鑿したくなりますね。

 ここでこんな声が聞こえてきます。「まあドラマなんて創りモノだからほとんどが事実ではない。」と。それに対して小生はいいたい、では事実はどこにあるか。当時書かれたものが、事実であると思うのは無邪気で人がよすぎる。古今東西、書かれたものは書かれたものにすぎない。それに人は本当に〈事実〉を知りたいと思っているのであろうか。

 リンゴが木から落ちた。もしこれが事実だとすると、なるほどこれは事実にすぎない。これが、どのような容態であるか、美しかったのか、死を連想させたのか、あるいは月の運動を連想したのか、要するに人の心がそれに関連してどう感じたかが面白いのではないか。ドラマが面白いのである。

 それに対して、そうだ人の心が事実なのだ、事実を知りたいというのは本心を知りたいということなのだ、と人は言うかもしれない。それには小生も同意しよう。ただ、人の心は〈本心〉があると言うにはあまりに微妙過ぎて、ゆえにドラマの良し悪しが生ずるのだ、と付け加えねばならない。

 それはそれとして、佐藤義清こと西行は、23歳にして妻子を捨て出家したのは、彼の心によほどのことが起こっていたはずである。仮に待賢門院との交情がきっかけになったとしても、それはきっかけであるにすぎない、彼の心中深く隠された思いが、出家(世を捨てる)という形をとったきっかけであるにすぎない。もちろん当時、〈出家〉するということはそうめずらしいことではなかったようだが。

ある女に惚れて妻子を捨てたというだけの話なら、今の世にもゴマンとある限りなく〈事実〉に近いつまらない話である。西行は出家後おそらく待賢門院には逢って!はいないだろうし、出家したと言っても、完全な僧侶になって仏事に専念したわけでもない。それどころか、鳥羽上皇や崇徳院の成り行きを気にかけ、かつての北面時代の一部の仲間たちとの交友を保ち続けた、という話を信じたい。

要するにあの当時、律令制が土地争いを治めきれず、武士が政治にコミットし始めようとする猛烈な変革期に政治から完全に心を離すことはできなかったであろうし、また当時は上皇も大臣もよき歌人でもあった。彼はたんに世の中が厭になって逃げたとは思われない。こういう歌を信じる限りー

  世の中を捨てて捨てえぬここちして
       都はなれぬ我が身なりけり

だから彼の表面だけを知って、じつに曖昧な奴だと思った人は当時から多かったであろう。しかし、じっさいに彼に会ってみれば、彼の心の中の何か強い確信めいたものに触れて、自分の彼に対する誤りに気付いた人もまた多くいたのではないかと思う。

彼ははまだ若いころから武士(とはいってもこの時代いわば在地武装農民、都においては貴族の番犬)の身分でありながら和歌を詠った。まだめずらしいことだ、彼には歌の天性の才があったのだろう。小生は、以前から彼の歌を読んでいて、これが上手い歌なのであろうか、とも思い、しかし、吟じてみてじつに自然に心に響くというか、何度も口ずさみたくなり憶えてしまうような歌が多いと思っていた。有名な―

  心なき身にもあはれはしられけり
        鴫たつ澤の秋の夕暮れ

西行と言えば月と桜と吉野山を連想するのが一般であるかもしれない。しかし、彼の歌に触れていたことのある人なら誰でも、単にいわゆる花鳥風月を愛でるというものとはちょっと違うなと、感じるのではないか。小生も漠然とそう感じていていたのだが、テレビで「平清盛」を見ていて、また西行についての疑問が湧きあがってきた。


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『紫式部日記』3

 〈女房たちの取次での応対がまずいというのは、べつに語彙が少ないというわけでもなく、理解力がないというわけでもなく、ただしくじったらどうしようとか恥ずかしいという不安に捉えられて、ついつい逃げ腰になるからでしょう。いったん宮仕えという仕事に就いた以上、上手に応対するという大人のしきたりに従おうとすべきではないの。

 こんなところが、斉院方に侮られるのじゃないかしら。しかし、だからと言って、自分の方こそ優れており、他の人は見ても聞いても解るまいと自信過剰になって相手を軽蔑するのは道理に合わないわね。他人を非難するのは容易であり、自分の心を適切に配るのは難しいはずですが、そうは思わないで、まず自分こそ賢ぶって他人を無視したり、世間を非難したりするところに、むしろ浅薄な心のほどが見えますね。〉

 こういう態度も、〈やまとだましひ〉が薄いということは明らかですね。いずれにせよ、極端な態度は、精神のしなやかさを欠いていると感じます。

 しかし、紫式部はあれほどしなやかな態度を推奨しておきながら、自分はついつい無口になってしまう。他の人たちから見ると、お高くとまっている、打ち解けず人を軽蔑している、などと言われる。しかし、話してみると、打ち解けやすく、おっとりしているとも言われます。

 紫はたんに自分の好きなことを同僚に話すことさえとても難しかったでしょう。また自分の才をひけらかしたくもなかったでしょうし、ひけらかすことによる嫉妬の渦にのまれることも極力避けたかったでしょう。人によって様々とは言え、自分のあり方、自分の気持ちを人に説明するのが何とも困難であることをどうしようもなかったでしょう。

 とりわけ宮中では、自分こそと思い、人の気持ちを理解しようとする人が少ないがゆえに、紫の無口は、あの子供らしい女房の恥ずかしさや気遅れ、引っ込み思案からくるものではなく、億劫なのであり、面倒なのであり、どうせ理解されないのなら、どうとも思え、じっとしてにこにこしているのが一番
という気持ちが強くなっていったのでしょう。

 終わりの方の手紙らしい部分。

 〈何ごとにつけ、世の中は煩雑で憂鬱なものでございます。〉
 〈後は仏道修行のみです。私は罪深い人間ですから、出家できるかどうか。〉
 〈それでもまだ他人の口を心配している私は思いきれないのでしょうね。いったいどうしたらいいのでしょう。〉

                

                                


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『紫式部日記』2


 宮中では連絡はもっぱら手紙だけれど、これが途中でしばしば盗みとられる。『枕草子』でも他人の手紙を盗み読みする場面があったし、ここでも披露されています。それをなんと紫式部が読んで、その内容にたいして怒りがこみ上げてきて、批判をするのですが、それがじつに面白いですね。

 〈賀茂の斉院にお仕えしている中将の君が他所に出した手紙を、ある人がうまいこと手に入れて見せてくれたのだけれどね。こんなこと書いてあるよ。

 豊かな情趣と分別という点で斉院に仕える女房たちこそ最高である、斉院さまはそういう女房を見分ける目をお持ちだ云々、とね。中将の君は世の中を馬鹿にしてるわ。そんなこと言うのなら、斉院方はそれほどの和歌を出してみなさいと言いたくなるわ。

 そりゃ、斉院は、ここ宮中のように大勢の人々がいる訳ではないし、人の出入りも少なく、仕事も少なく静かで、ちょっと浮世離れしていて、心行くまで花鳥風月を愛でたり、風流事を語り合ったりする余裕があるでしょうねぇ。われわれだって、もし斉院にお仕えするとしたら、自然と優雅な振る舞いも出来るでしょうに。

 ここ中宮方では、いま派閥争いはなく、おおむねゆったりしているし、何と言っても中宮さまはあまりあだっぽい心はお好きでないので、いっそうみな人前にでるような態度は取りません。もちろんまれにはそうでもないオキャンがいまして、そういう人に男たちが気安く「中宮方の女房は引っ込み思案だ、お高くとまっている」などと言うのです。これは、欠点でもあるけれど、まあ誰でも良いところがあれば悪いところがあるという程度だと思うけど。

 まあ正直言えば、たしかに彰子中宮さまは、あまりに内気でいらっしゃる。出過ぎたことを言って失敗はしないかと心配されるあまり、気がおつきになっても黙っていようとなさる傾向があります。そして女房たちもそのお気持ちに添うあまり、全体が地味な気風になってしまったのです。

 しかし、今は中宮さまも成長されて、世の中の本当の姿や、人の心の善し悪しや、行き過ぎも不足も、お解りになっておられる。殿上人らのお気持ちも御承知でいらっしゃる。それで地味な気風を改めたいと御思いであるが、ここの若公達もすでにここの気風に順応してしまっているので、なかなか改まらないのね。この宮中という散文的な所では、日常の言葉を情趣的に聞いたり語ったり、あるいは人と気のきいた応答をさらりと出来る人が少なくなったと、殿上人らは言ってるそうですね。私はよく知らないけれど。〉

 遠まわしであっても自身の所属する中宮サロンを批判していますね。ここから紫式部の思想が積極的に出て来ます。

 〈殿上人がお立ち寄りになって、彼らに対してちょっとした返事をしようとするときに相手の気分を害するような態度はいけませんね。なかなか上手に応対できていないらしいですね。殿上人が、気がきく女房はめったにいないとおっしゃているようじゃありませんか。どうして憎たらしいほど引っこみ思案なのがよいのでしょうか。また逆に、どうして締りがなくあちこちとでしゃばるのがよいのでしょうか。その時々の状況に応じて上手く心を用いることがじつに難しいのですね。〉

 この心の用い方は、『源氏物語』のなかで〈やまとだましひ〉と呼んでいるものです。これは、理論の規定のもとに、あるいは感情のままに動くのではなく、さらに言わせてもらえば善悪にも捉われることなく、その時々に応じてそれらを利用しえる才ということになるのだろうと思います。




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冬至

冬至。素敵な言葉だ。人間の生活のリズムは太陽の動きによって律せられているし、太古の人たちは夜間は月や星の運行を眺めてばかりいたであろうから、まず天文学を発達させたことであろうことは想像に難くない。

 夏至冬至春分秋分における太陽光の位置に標をつけることの呪術的、宗教的意味。インカやエジプトのピラミッド。アンコールワット。ストーンヘンジ。三内丸山遺跡。世界中どこでもその瞬間を意味あるものと捉えていた。

 宗教と言えば、どこでも初めは自然宗教つまり多神教であったようだ。人間にとって祭りの起源は、獲物の調達を神々に祈ることであるように思われる。農耕民族にとっては農作物の収穫量が最大の問題であろうし、したがって太陽神への感謝は一番大事な行為だ。

冬至は太陽が最も弱り、そのあくる日からまた日一日と長くなる、そういう瞬間である。だから冬至は重要な意味をもっている。この日に、あるいはこの前日に太陽神を祀るお祭りは、世界中どこにでもあっただろうと思う。

クリスマスも、もとはと言えば、ローマ帝国が公認する前は、あの辺りの民族宗教は冬至の太陽神を祀る祭りであったのが、人心掌握のためにキリストの誕生日だと府会したようだ。この作戦は成功し、いまやキリスト教文明が世界を席巻している。

先日(11月22日の夜)、石上神宮の鎮魂祭に行ったが、その要となる御魂(みたま)神事は、『先代旧事本紀』にいう、神々の世界から降りてきたニギハヤヒ命がもってきた神宝を使って、その子孫が神武天皇の心身の安寧を祈ったのが、その始まりと、ある。

が、暗闇の中で神主の繰り返す呪術的文句「ひい、ふう、みい、よう、・・・・とお・・・ふるへ、ゆらゆらと、ふるへ」とシャンシャンと鳴らされる鈴の音から強く感じたのは、魂の再生であり、もっとも暗くて長い夜からの復活だ。

数日後電話で宮司に「あれは魂の復活の呪文だと思われるが、誰に対して言っているのですか、われわれ全員に対してですか、主祭神のフツノミタマ(神武天皇の大和平定を助けた剣)ですか」と訊ねたところ、言下に「天皇に対するものです」と。

延々と毎年繰り返されてきている鎮魂祭―魂振りの祭。人が死んで歌舞音曲を催すのも元はタマフリの意味があると聞いた。天の岩屋神話もそんなのを連想させる。死と再生の秘義が行われる瞬間―冬至。



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『紫式部日記』1

長保元年(999年)紫式部27歳。20歳年上の藤原宣孝(のぶたか)と結婚し、一子をもうけるが、二年後に宣孝死去。

長保五年(1003年)時の最高権力者藤原道長に娘(中宮彰子)の出仕を懇望される。

 寛弘二年(1005年)彰子中宮のもとに出仕。

 『紫式部日記』は、出産のため土御門邸に里下りしていた中宮を取り巻く様子から始まっています。じつにたくさんの人々が、ひしめき合い、立ったり座ったり、大声で泣いたり笑ったりする様子が、事細かに描かれています。

 めでたく若宮を御出産。うんざりするほどの様々な儀式。真面目にきちんと仕事をしている紫式部、あるときふと漏らします・・・

 〈いい歳をして、いったい自分は何をやっているのだろう。どうしてこうも気分が晴れないのだろう。他の女房たちのように楽しく振る舞うことができればいいんだが・・・。だが悩んでばかりいるのも罪深いことだ・・・。結局ついついぼんやりと景色を眺めてしまう。・・・池に遊ぶ水鳥。・・・彼らも本当に楽しんでいるのだろうか・・・〉

 そうこうするうちに若宮は順調に御成長なさる。『源氏物語』を書き始めていることは、もう皆に知られている。自分のことを紫の上と呼ぶ人さえいる。

 雪の降る日、休暇をとって里(実家)帰りした紫式部。

 〈年頃見慣れた古里の庭木を見れば、また憂鬱になる。夫の死後、ただ、ぼーと庭を見て過ごしていた。草木や月の変化、そして鳥の声で時の移り変わりがやっと判った日々だった。これから先の我が身はどうなることか・・・。気心の合う友人と物語の話をしたりしてなんとか心を慰めてきたけれど、宮仕えを始めてから、わが身が恥ずかしい、辛いと思うばかりになってしまった。憂さを忘れようと物語を手にとってみても面白くない。・・・忙しい宮仕えに慣れてしまった自分を友人たちはきっと軽蔑していよう、手紙を出すのも躊躇しよう。ここに居ると悲しさがつのってくる。〉

 中宮さまから出仕の催促の御手紙が来ます。

 五節(大嘗祭の少女舞)が始まる。清少納言なら、手放しで楽しんで見物したでしょう。しかし、紫式部は楽しめません。

 〈あの舞姫たち。名門のお嬢さんたち。殿上人たちが居並ぶ前を、いっぱいの灯りに照らされて、よくもまあ、扇で顔を隠さず平気で入場してくることよ。みなに美しさを競いあわされる彼女らのなんと不憫なことよ。一人の少女は気分が悪いといって退出する。どんなにか彼女たちは緊張し苦しい思いをしていることだろう。見ている人たちの何と無神経なこと。少女らはそれぞれたしかに美しい。見たくないけれど見てしまう、わが身のなんと浅はかなこと。だんだんと宮ズレしてゆく自分が恐ろしい。〉

 あの賑やかな賀茂祭も終わり、また師走がやって来ました。思えば勤務を始めてはや三年。自分もここの風紀に染まりつつあるのだ、ああ。

 〈中宮さまは御物忌で籠っておいでだ。夜横になっていると、いっしょに居る女房たちは浮き浮きしてしゃべっている、「宮中はやっぱり違うわねぇ!里に居れば、今頃はしんと寝静まっているはずよ。ここではまだまだ殿方の靴音が頻繁なんですもの!」
 ああ、いあやだ、こんなおしゃべり聞きながら歳をとっていくの・・。〉

 一刻でも早く他の女房のようになりたいと露骨に焦っていた清少納言とはあまりに違いますね。

 ついでに、紫は周りの人たちの容姿をスケッチしています。

 〈Aさんはね、ふっくらとして、口元が上品で、理知的な顔立ちをしています。穏やかで、かわいらしくて、素直です。
  Bさんはね、優雅で奥ゆかしく、恥ずかしがりやで、線の細い柳のようです。
  Cさんはね、色が白く、ちょっと背が高くてすらっとして、黒髪も立派です。穏やかで、よく気が付く人です。
  Dさんはね、色白で太っています。ほほ笑むととても愛嬌があります。
  Eさんはね、・・・Fさんはね、・・・
 まあ、いろいろ言いましたが、心立てはと言うと、これは難しいね。それぞれ個性があって、全く駄目だという人はいませんが、気品・思慮・情緒・信頼・・・など何もかも揃っている人はいないものです。こんなことを語る私はけしからんですね。チャンチャン〉





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『枕草子』5

 ―青春という夢

 清少納言は、有力な説では、橘則光という人と結婚をし、一子をもうけたが離婚、その後中宮定子に仕えた。清少は女房としては位が高くなかったらしいが、その才気と文学的教養を中宮に買われ、清少は定子中宮を中心としたサロンの〈素晴らしい〉雰囲気を最後まで愛し続けた。

 とはいえ、それはそう長い期間ではなかった。初出仕してから二年後、定子の父、藤原道隆が薨去し、徐々にその弟道長が力を得て、5年後には道長の娘彰子を中宮となす。その同じ年、定子崩御。おそらくそれから間もなく、清少は宮仕えを辞したとされている。

 ちょうどこのころ、紫式部は、道長によって彰子中宮のサロンの女房に抜擢された。紫は、二年前に夫に先立たれ一子の母となっていた。『源氏物語』を書き始めたのもこの頃らしい。

 宮仕えを辞した清少は、その後どうしたのであろうか。今のところそのあたりについて書き記されたものはなさそうだ。『枕草子』の様々な写しの中の一つ、能因本(平安後期の能因がもっていたヴァージョンの、さらに室町時代の写し)には、最後に奥書のようなものが付いている。

それによると、中宮定子が亡くなり、世も変わって後には、どこかに仕えるということもなく、頼るべき親戚もなかったらしい。老年におよんで尼姿に身を変え、乳母子の縁故に頼って、阿波の国(徳島)に行き、そこで粗末なあばら屋に住んだ。

 ある人の目撃情報では、この老婆、ヘンな帽子のようなものをかぶって、青菜を干しに外に出て、「昔の宮人姿いずこにありや」と独り言を漏らしていたそうな。彼女には、あの青春の宮仕えの思い出しか残っていなかったのであろう、しみじみとあわれに思われる、とある。

紫の予言は当たったとはいえ、実際あの少女の晩年がこんなになろうとは、やはり憐れで、心がジーンとするではありませんか。

 しかし、ひるがえって思うに、紫式部の人生こそ、始めから終わっていたのではないだろうか。彼女に〈青春〉といえるようなものがあったであろうか。あったとしても何か辛い経験の負荷を与えられただけではないだろうか。だからこそ、父の越前赴任に同行したのではなかったか。

その後、求婚されたところで単純に喜んだとは思えない。27歳で結婚し、一子をもうけたが、二年後には夫は他界する。その経験がさらに彼女の心に確信を与えたと思う、この世に人が生きるということの意味。

間もなく、今を時めく道長に懇願されたとはいえ、何を今さら宮仕え・・・すでに暗い諦念が、彼女の心の底に流れる主調低音となっていたのでは? 『源氏物語』を書かねばならなかった彼女の気持ちを想う。




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『枕草子』4

  『枕草子』286段(能因本)

 ここは珍しくもっぱら海の話であって、清少は、イメージの連想の赴くままに、新鮮な目を放っています。

 うららかな日、青緑色の海上に色彩豊かな衣服の男女が舟歌を歌いながら櫓をこいでゆく感興。風が吹いて海が荒れると一転して、恐怖に襲われる。船荷が多くて縁が喫水線すれすれなのに、下衆の舟男たちは平気で動き回っている様子。

 と思うと、自分が居る舟の室には妻戸や格子があって小さな家の中にいる感じである。そこから遠いところにある舟を見ると笹の葉を散らしたようだ。それらが夜は火を灯しているのは素敵だ。

 早朝、小さい舟が漕ぎい出でてゆくのはじつにしみじみと心にしみる。それらは「あとの白波」(*)のように、あっと言う間に消えてゆく。身分の高い人はこんな頼りのない舟乗りなどはすべきではない。

 海女を見ているとつらい。男は舟の上で鼻歌など歌っているが、縄を腰に付けて潜る女は命懸けだ。その縄が切れたらどうするのだろう。やっとの思いで上がってきて舟側につかまって息をしているのを見ると涙がでてくる。男はどういう気持ちでいるのだろう。…

 これが清少の目なんですね。

 ところで、文中の*「あとの白波」というのは、『拾遺集』などにある

世の中を何にたとへむ朝ぼらけ
   漕ぎ行く舟のあとの白波

から取ったものだと解説にあります。この元歌は『万葉集』351の沙弥満誓(さみまんぜい)の

世の中を何にたとへむ朝開き
   漕ぎ去にし舟の跡なきごとし

だと思われます。この二つの歌を比較してみると、後者満誓の歌のほうが〈今あったものが無い〉ということを直接的でスパッと言っていますね。世の中はあっという間に変転するものだ。

清少が引用したと言われる歌は、重点が「あとの白波」であって、それはあとの白波のようにすぐ消えてゆくという意味でしょうが、小生には、むしろ〈あとの白波がある〉と感じられます。

つまり、この世はあとの白波ばかり、形骸ばかりである。それを残す本源の力=現実の運動はどこにあるかといえば、すでにこの世でないところにある。この世とはすべてその運動が残した軌跡にすぎない。しかしその形の何と美しくしみじみとしたものであろうか、なんて考えてしまいます。



理屈っぽくってごめんなさい。


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『枕草子』3

『枕草子』282段 

In a cold night of December,
Under the moonlight
A young couple is coming home
on a lovely convertible.

By few days’ snow falling,
All are covered with white.
But now the wind is blowing
And the sky is clear.

Roofs of small houses around
are gleaming like silver
Reflecting the moonlight

From the edge of roofs
are hanging icicles like
crystal pillars sparkling.

The colors of their dresses
Multicolor of winter fashion
Are splendid in cold air
Under the moon light.

The woman tries to hide her face
Behind man’s shoulder,
embarrassed to expose her face
under the bright moonlight.

But the man tries to draw her
Close to his breast,
pretending to the indifferent
to her worry to be seen.

He holds her in his arms
Humming his favorite verses:
“ The stars aglow and tonight
Their light sets me dreaming…

As the car approaches her home,
The more eagerly they hope
in each mind, sure,
this situation will last forever.




下手なりに楽しいもんだ↓↓


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『枕草子』2

清少納言は雪がとても好きだった。雪に言及している段は数えてみると8か所はある。それにひきかえ雨の日は憂鬱でもあり、好きな催し物も台無しにしてしまうので嫌いと言っている。

 とりわけ清少の目に快かったのは、雪の積もったところで、男たちの衣服の青や紫などが、雪の白さに映えている美しさ。雪にぬれるとさらに趣があるだろうとも言う。たとえ六位の(ぱっとしない)深緑色も雪に濡れれば悪いものではなかろう・・・。(243・271)

 高校の教科書か参考書なんかで出でてきた有名な、「香炉峰の雪はいかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば云々(278)を読むと、朝の明るい光に照らされた眩しい雪景色が記憶のうちに鮮明に蘇ってくる。

 またこんな記事も。清少の真骨頂だと思うが。(91段)

12月10日過ぎに雪がたくさん降り積もった。女房たちは、これで雪の山を作ろうということで、大勢の人を集めて山を作らせた。中宮さまがこの雪山がどれくらいもつであろうとおっしゃった。女房たちは、「まあ10日くらいでしょう。」と答える。中宮さまは清少に尋ねる。清少は「1月15日まではもつでしょう。」と答えた。

中宮さまは、そんなにはもつはずはない、とおっしゃる。他の者たちも「12月いっぱいももつまい。」と口々に言う。皆がそういうので、清少も内心、自分はちょっと長く言い過ぎたかしらと思うものの、いったん言った以上引っ込みがつかず、1月15日を押し通してしまった。

20日ころ雨が降って山が小さくなる。清少はこの山を消さないように観音様の祈りに祈る。その御蔭か小さくなったものの、消えずに年を越した。あまつさえ元日早々新たに雪が降った。清少は大喜びするが、新雪は(約束違反だと言って)掻き捨てられる。そして女房たちは7日まではもたないだろうと言い張る。

ところが急に三日の日、中宮さまが、ここ(職の御曹司という所)から内裏へ入御されることとなった。自分も含め女房たちも御供しなければならない。雪山消滅日を見届けたいと思っている皆はとても残念がる。

そこで清少は、木守という土塀の外に廂(ひさし)を置いて住んでいるホームレスのおじさんに(大内裏内には宮廷人と顔なじみになって、おこぼれを頂戴している乞食が沢山いたようだ)、「この雪山を人が踏んだり蹴散らしたりしないように、しっかり見張っておくれ、不審者がいたら、それを制して報告せよ、15日までもったらたんと御褒美をやるよ」と、果物や何かを手付けとして渡しながら頼んだ。

7日の日に、いったん里に帰った清少だが、雪山のことが気になってしようがない。毎日早朝から何度も使いをやっては見に行かせる。10日はまだ1メートル位あるというので大喜び。しかし13日夜、大雨が降る。ひょっとしてこの雨で消えてしまうのではないかと思うと、じっとして居れない、夜も眠れず溜息をついている。周りの人もそんな清少を見て、気違いじみていると笑っている。

もう一日なんとか持ちこたえてくれと祈りつつ、下仕えの者を無理やり起こして見に行かせる。帰ってきて言うには、木守は人を雪山に寄せ付けず、しっかり見張っていて、「明後日までもつだろう、たんと御褒美をいただける。」と期待に胸を膨らませていたと。

 この報告に清少ほくそ笑みつつ思う、明日早朝、残りの雪を容器に入れ、歌を添えて、中宮さまに差し上げよう、と。矢も楯もたまらず、まだ暗い時刻に使いに容器を持たせて雪を取り行かせる。

 ところが、使いは空の容器をぶら下げて帰ってきて言う、「雪なんかぜんぜん残ってなかったっすよ」。清少、唖然として一瞬パニックに陥り、うわごとのように一人ごつ、「一体どうしたことだろう、まだ充分あったはずだが・・・あれは夢だったのか・・・」。使い、「木守は御褒美がいただけずに終わってしまって残念至極とうろたえておりました。」

 そこへ宮中の中宮さまからの御伝言、「雪山はどうであったか」と。清少、悔しさに耐えられぬ御返事「みんなは初め新年まではもたないと言っておりましたが、つい昨日まで残っていたのです。しかし、今朝なくなっていたのは不審です。誰かが取り捨てたのではないかと邪推したくなります。」

 一月二十日、清少は参内し、そして一部始終を皆の前で述べた。すると中宮さまは、意外なことをおっしゃった。実はねぇ、14日の夕方、男たちを行かせて、雪を取り捨てさせたのだよ。私は本当に罪なことをしたもんだねぇ。木守の老人は、そんなことしねえで下さいと一生懸命頼んだけれど、このことを誰にも言うな、言えばお前のあばら家を打ち壊すぞと脅して黙らせたのだよ。さあ、総てを告白したからには貴女の勝ちですよ。貴女が雪と共に私にくれようとした歌をここで披露して下さいな。女房たちもそうだそうだ口をそろえて言う。

 清少、今このお言葉を聞いて、そんな気持ちになれるか、と反撃するのがせいぜいのところ。もう、とても情けなく、泣けてきそうで、落ち込むこと限りなし。

 いつもは、清少の目には、定子中宮さまは、人格、容姿、立ち居振る舞い、心配り、センスの良さ、あらゆる点で、目も眩むばかりの人と映っていたのだが、そういう中宮さまのこのようなちょっとしたお遊びのために(意地悪が日常茶飯事の宮中女世界ではこんな程度のことは別にどうってことはない)どんなに落ち込んだことか・・・。



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『枕草子』1

「春はあけぼのやうやう白くなりゆく山ぎは・・・」くらいしか知らなかった小生。以前から一度きちっと読んでみたいと思っていた。わりに簡単に読めるだろうと高をくくっていたら、なんのなんのとても難しい。現代語訳を読んでみてもよく解らないところすらけっこうある。

 読み進めていくうちに、清少納言っていう人がどんな人か判ってくる。宮仕えってものがどんなことか、宮廷で働く様々な人たちのありさまが、新鮮な目で、あたかもカメラマンによる様々な場面のスナップショットのように、撮られている。

 「心ときめきするもの」(29)なんか現代のテレビのコマーシャルみたい。映像が次々に出てくる。

 「心ときめきするもの。雀の子。

幼児の遊んでいるところを横切るとき。

舶来の鏡のちょっと曇っているのを見るとき。

よい男が高級車を止めて友に頼みごとをしていることろ。

上等の薫香をたいて一人で横になっているとき。

洗髪し化粧して香水をふりかけおしゃれするとき。

そんなときは一人で居るだけでも心は充実している。

男を待っている夜、窓をたたく雨や風の音にハッとするとき。」

続いて〈資生堂〉なんて文字が出て来そう。

 官庁で働く人はいろいろな人がいる。トイレ掃除おばさん。車の運転手はこんな顔の人がよく似合うとか。休日に急な出勤を命じられた人たちが時間外手当をもらう話。人事異動の時期に落ち着かない蔵人の出世競争の話。知的な会話が出来ない男は馬鹿にしてやるさ。六位風情で自宅を持って満足している男はいやだわ。夏の夕暮れ6Lのベンツで飛ばしていくどこかの御曹司は素敵。・・・

 「をかし」の文学と言われるように、俗悪な人や態度なども、けっこう何でも「いとをかし」となる。紫式部は清少納言のこういう態度をを手厳しく批判し、何でもかんでも感動しているようでは結局軽薄であって早くボケるよ、とけなしている。(『紫式部日記』)

 また、『枕草子』には、作者がいかに知的教養があったか、そしてその教養を彼女自身敬慕してやまない中宮定子と共有していた点が、他の人たちといかに違っていたかを、しばしば露骨に表している。こういう性格のゆえ後世彼女は嫌われる。当時も嫌われていたかもしれない。

 紫式部は、清少の知的教養なんて大したことないよと、露骨に切り捨てる。式部は日本紀の御局と呼ばれたくらいの教養人だったからばかりではない。前後した時代に宮仕えをし、同じような身分であり(通いの女房)、同じようにその教養でもって、サロンでは中宮に目を掛けられたいた、とはいえ、手放しで宮仕えを賛美する清少を宮廷生活に心から同化できなかった式部の目には浮薄に映ったであろうことはよく解る。

『枕草子』を読んでいると、教養があって才気に富んだ田舎者の少女が、宮仕えをして、いろいろなことに感動した、そのなんと生一本なこと、永遠の少女、と小生は感じる。今から見るとそんなに目くじらを立てて蔑むことはないじゃないかと思う。

 紫と清との二人を並べて論じ得ても、よくなされるように『枕草子』と『源氏物語』を比較することはできない。『枕草子』は、覚書、宮仕え報告書、よく言ってエッセイであって、あの罪の問題を追求した高度な小説『源氏物語』はまったく別ジャンルであり、〈作品〉の比較なんてことはどうかなぁ。

 まあしかし、人の姿の、特に服装の色合いに対する鋭敏な感覚というか、何枚も着る装束の様々な色の組み合わせ、そのコーティネートの執拗な描写などは、小生から見ると、さすが両者とも王朝時代の女性という点で同じだなと感じる、式部は嫌がるかもしれないけれど。・・・



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『平治物語』

 『保元物語』においては、崇徳院側についた豪傑源為朝が夜討ちの進言をしたのですが、藤原頼長が容れず、ために崇徳院側は敗北しました。頼長は日本一の大学者と言われるほどの人だったのですが、学問と戦略とは別なのでしょうか。

 『平治物語』においては、のっけから無能無芸と痛罵されている(文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし。ただ朝恩にのみ誇りて云々)藤原信頼が、つわもの源義平の進言を容れず、ために源氏側が敗れました。そもそもあんな情けない藤原信頼と手を組んだことが源氏の衰運を招いたと、時の人たちのもっぱらの噂だったそうです。

 ここでの総大将源義朝は、最後に尾張の野間というところで入浴中のところを襲われて最期を遂げたのです。いま南知多ビーチランドの近くに、義朝の首を洗ったという池が残っていて、そこのお寺(野間の大坊)は、霊験あらたかな、そして住職が面白い人、そしてまた賽銭箱がやたらに多いことで、この地方では有名ですね。小生もかつて知人に連れられて訪れたことがあります。

 義朝は敗残の兵、再興を期して東国に渡ろうとする途中、ここ尾張の野間に住まう長田忠致(ただむね)に頼ったのです。彼の娘は義朝の信頼する従者の妻。にもかかわらず、長田は、時の趨勢を読み、義朝らを謀殺し、その首をもって上京し平清盛らの恩賞にあずかろうとしたのですが、そのあまりの強欲ゆえに、逆に何も与えられず追い返されてしまったのですね。

この長田の義に背く行為は、世間の非難するところとなりました。また、義朝の死は、かつて保元の乱において父や兄弟を殺さしめた逆罪の因果応報にちがいない、と人々は噂するのでした。

 『平治物語』の作者はすでに源平の合戦の結末を知っていて、源氏の武将たちがいずれ平氏を打倒し天下を取ることを前提に書いています。伊豆に流された頼朝が成人した暁にはきっと平氏を打ち破ってくれるだろうという期待が文面に表れています。

 小生思うにこの物語の圧巻は、義朝の妻である常葉が、幼い三人の幼児(今若7歳、乙若5歳、牛若1歳)を連れて2月の雪降る中、都から宇陀の親戚を頼って行く場面です。(陽明文庫本)途方にくれる常葉の心中、そして常葉が追われている身であることを知って一夜の宿を与える里人の心が、凍てつく空気に広がっていくところの文章は、じつに美しく感じます。




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梅花

昨日は暖かく、一気に開花しました。梅開花1


蓮の泥かき分けてみると、立派な蓮根がありました。蓮根

株分けして施肥し新しい土を加え、この夏のさらなる開花を期待。
余った根を捨てるのもったいないから、欲しい人があったらあげます。

 我が家の梅は、枝垂れの紅梅です。見た目もいいですが、なんといっても香りがいいですね。しかし残念ながら、玄関あたりでは、すぐ脇にある沈丁花の強い匂いに消されてしまうのです。

それで、今年こそ沈丁花を離れた場所に移してしまおう、といつも思うのですが、なかなか思い切ってできない。というのは、この大きさの沈丁花は移植すると必ず枯れると庭師に言われているからです。この木はその昔、叔母にもらった大切な木なのです。

 そこで考えたのは、この木の枝を取って挿し木して増やして、それを他の場所に植えれば、この元の木を枯らしても、そのDNAは保持されるであろうと。で、実はこれすでに成功し、離れたところで二代目が育ちつつあるのです。しかし、なんかこの玄関脇の木を抜けない。・・・なぜだろう。この木がここにあることを叔母が喜んでいるであろう、と思うからです。

 いつぞや新聞で、『万葉集』には、梅を詠んだ歌は百首を超えるが、おおむね白い梅花を愛でていて、その香りについてはほとんど言及していない、ということが書かれていたのを、思い出しました。
 なるほどぱらぱらめくってみると、大宰府の役人たちが酒を酌み交わしながら、白梅の下でもっぱら友と遊んでは、散る花を雪のようだと愛でています。

 それで連想されるのが、菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春なわすれそ」が有名ですね。これが詠われたのは、たぶん紀元900年くらいのことでしょう。この〈にほひ〉は、匂い(香り)のことでしょうね。当時、にほひという言葉は、「紅にほふ桃の花」「朝日ににほふ山桜花」でおなじみのように、鮮やか、映えるなどを意味する視覚的表現、さらには人柄を表すことにも使われています。

 また、『古今和歌集』を調べてみると、梅花を詠った歌は、20数首、直接梅を詠ったのは15ぐらいでした。そして、ここではほとんどが、香りを愛でているのです。たとえば、
 
 色よりも香こそあはれとおもほゆれ
  誰が袖ふれしやどの梅ぞも  33

と、露骨に香りを賛美しているのもありますし、素性法師のなかなか心憎い歌、

 散ると見てあるべきものを梅の花
  うたてにほひの袖にとまれる  47

 これは、梅の花が散るところを黙って見ておればいいのに、取ろうとして触れてしまったばかりに香りが袖に付いて、いや~ん、もう忘れられないのよ、という意味です。

 奈良時代から平安時代への変遷。万葉の時代には、見た目のよさが、平安前期には匂いが、もっぱら関心の的となっています。150年くらいで、そんなに変わってしまうのですね。この違いはじつに万葉と古今の違いの象徴ですね。後者の方が技巧的になった、というよりも、上手く言えないけれど、万葉時代は、人々は概して犬のように明るく率直に直接的にものを愛でる。古今時代は、暗闇の猫のように貴族〈社会〉における、他者を意識した恋のゲームにふさわしい物の側面に敏感になっている。

 以来、われわれは梅と言えば、どちらかと言うと、「闇はあやなし梅の花」の感覚が勝っているのではないかと思います。

 そして話は飛んで、・・・

 昭和20年の春。忘れられない昭和天皇の御製があります。
 
 風さむき霜夜の月に世をいのる
  ひろまえきよく梅かをるなり

 昭和20年の春といえば、もはや敗色の濃霧の中を若き特攻兵士が死に向かって次々に飛び立った時です。陛下のご心中いかばかりであられたであろう。

 この御製が載っている本『昭和天皇のおほみうた』の著者は解説しています。

 「天皇には祖宗から享け給うた天下万民のすべてがその御肩の上に千鈞万鈞の重さで畏きことながら乗り申してゐる。・・・神前に咲きさかる梅は年ごとに変はらず馥郁と匂ってゐる。霜はしんしんと降りしき、寒月は皎々と冴えかへってゐる。われはその神の御前に一人立ち、国家万民の安全をただ祈りに祈ってをる、といふ御製である。しかし、ここでこころして拝さねばならぬのは下句を〈ひろまへきよく梅かをるなり〉と結ばれたことである。かかる非常危急の際に、〈みやび〉をこの御製に拝することに驚愕するのである。・・・上句の悲痛きはまりなき御表現が、一転して〈みやび〉の華と咲き、凛然不動に結ばれてゐる。」

 いかなる事態も〈みやび〉に転じうる国柄でありました。



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『伊勢物語』

 『伊勢物語』再読

 人も知る、「むかし、男うひかうぶりして、奈良のみやこ春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。」・・・で、 さっそく、そこで目にした女に心を奪われ和歌を贈り、「昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。」という初段から始まる。

 じつに『伊勢物語』は、みやびの宣言の書である。男は京で高貴な女性を奪おうとして、見付かり東国へ逃れる。さまざまな女性に心ひかれ、子供のように無邪気な心でただちにアタックする。しかしまた大人びた人の情を知る男。光源氏そっくりである。

 業平も源氏もともに高貴な血筋であり、臣籍降下した氏の出である両者は、日本人の感性が生みだしたみやび男の典型である。源氏は若い時にちょっと中流風情と遊びはするが、彼の生活はほとんどが宮廷のなかである。作者紫式部が、いわば伊勢の荒削りのみやびを、その宮廷女性としての感性でもって洗練させ、ついにもののあはれとしての典型を生みだしたのであった。式部の長大で詳細な物語は、今から見ると異様なまでに美的関心に集中しており、伊勢が知らなかった仏教的諦念でさえ美に仕える思いとなる。

 それにひきかえ、伊勢物語におけるみやびは、はるかに土俗的であり、奔放であり、野趣に富んでいる。この歌物語は、あたかも業平の一代記のような体裁をとっているが、しかし業平以前の古歌をも含み、作者はどうやらさまざまな伝承歌を基にした話をも含ませたものであるという。

 業平は和歌を、恋しまた情が動いた数だけ歌ったであろうが、物語を書いたとは思えない。伊勢物語は当時のある文化意志をもった集団の手になるものであるかもしれない。なんにせよ、小生にとって面白いのは、この歌物語が当時の日本民族の明瞭な幸福の概念であるという点だ。

 妻の貞淑さにほだされて新しい女と手を切ったり、別れた女とよりを戻そうと連絡するが無視されたり、同僚の女と思うように逢えずしかしきっぱり別れられなかったり、またいい加減な気持ちで付き合ったり別れたり、男を求める年増女、落ちぶれた知人や上司を思いやって心から付き合ったり、出張の夜、逢う約束をするが接待の酒宴のために逢えず無念の別れをしたり、大胆に迫ったり、急に気が小さくなって思いを遂げられなかったり、厭味なジョークを言ったり、粋な計らいをしたり、・・・
要するに、昔ありける男は、悲喜こもごもの、現代なら週刊誌が喜びそうなエピソードを生きる。

 しかし、昔ありける男の物語は歌物語、つまり、話は結局同時に歌の素材でもある。そして、週刊誌とは違って、一途であり切実である。週刊誌の書きぶりは、その心は、他人事であり、悪意であり、蔑視である。そこには愛情がない。

 むかし男の物語は、いかなる過去の行為についても、愛情をもって眺める。いかなる状況に陥ってもそこに幸福を見出す。若い時は苦労を苦労と思わない、というようなものだ。

 そして、この永遠の青春は、終にこんなことをつぶやく。

思ふこといはでぞただにやみぬべしわれとひとしき人しなければ (124段)
 
 つまり、思うことを言わないで終ろう。自分と同じ気持ちの人はないのだから

 そして、有名な最後の歌(125段)

つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを

 何と単純で正直な一生。

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保元物語

久しぶりに面白い物語を読んだ。途中何度も大昔読んだ「平家物語」が彷彿として蘇ってきた。

 この物語は、崇徳上皇チーム対後白河天皇チームの戦いのお話。

 この戦いのそもそもの発端が、鳥羽上皇と崇徳上皇の仲違いである。このお二人は父と子であるのに、どうして仲が悪かったのか。この物語には書いてないが、崇徳は実は鳥羽の実子ではなく、鳥羽の祖父の白河天皇の子であったようだ。つまり、白河天皇は孫(鳥羽)の妻(待賢門院)に手をつけたのだ。それを鳥羽は知っていたので、子の崇徳を叔父子と呼んでいたそうだ。それが事実なら、この騒乱の種は文字通り白河天皇が播いたのだ。

 それはそうとして、時は院政の時代。鳥羽は、崇徳を帝位につけて、上皇として実権をふるう。そして美福門院との間にできた子を帝位(近衛天皇)につけるため、崇徳を上皇にし(新院)、自分が法皇として実権をふるい続けた。
 だが、近衛天皇は17歳にして崩御。鳥羽法皇は、次の帝と目されていた崇徳上皇の息子重仁親王を差し置いて、近衛の異母兄(後白河)を帝位につけた。
 近衛の早世は崇徳上皇と重仁親王の呪詛によるものだとしていう噂によるものだったが。これは美福門院(と鳥羽法皇)の画策であった。

 要するに、崇徳系は置いてきぼりにされたのだった。そうして、鳥羽法皇が崩御すると、待ってましたとばかり崇徳院は立ち上がる。

 折から、摂関家においては、権力争い真っ最中の藤原忠通・頼長兄弟が、それぞれ崇徳院側と後白河帝側とに付き、戦闘に巻き込まれた武士団においても平家・源家それぞれ同じ親族でありながら敵味方に二分された。

 この物語の圧巻はやはり源為朝の八面六臂の活躍だ。この為朝は幼少のころから伝説的な人物で、鎮西八郎と言われたのは、兄たちをも兄と思わず好きし放題、親もこの悪ガキを都に置いておいたらろくなことはない、鎮西(九州)にやっちまえ、ってことで13歳に豊後の阿蘇家にやっかいになる。

 しかし九州でも大暴れ。たちまちのうちに九州の豪族どもの大将になる。体格優良、腕力は鬼神も之を避く。弓を取っては人一倍遠く飛ばし、百発百中。戦闘の細部の簡潔な描写が、軍記物の命であり、叙事詩として輝くところだ。

 勇猛果敢な為朝のおかげで、崇徳側が有利と思われたが、左大臣の判断ミスで、結局一日にして負けが決まる。近江の山中に身を隠していた為朝だが、運悪く病にかかり湯治中、大勢の敵に囲まる。怪力を発揮して暴れまくるが、ついに捕らえられる。
 本来は死罪となるところ、これほどの弓矢の名人を亡くすのは惜しいとのことで、伊豆の大島に配流。しかし為朝を二度と復活させないために、左右の腕関節を壊したのだった。

 しかし、これも癒え、為朝は鬼族を従え再び伊豆七島の覇者となり、したい放題。国司がこれを朝廷に訴え、為朝追討軍が遣わされる。為朝は善戦するが、矢種は尽き。最後の一矢でもって敵の船を沈めるが、切腹して果てる。
 
 そこで終わりなのだが、さまざまな尾びれが付いた。その代表的なものが、曲亭馬琴の「珍説弓張月」であり、為朝は琉球に渡り、その子が琉球王となる御話。三島由紀夫もこの話が気に入っていたらしく、最晩年にこれを歌舞伎化した。


 
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常夏

今年の夏は長いですね。今日の午後、まだツクツクボーシの声が聞こえました。9月というのに。

夜には快い虫の音が聞こえてきますが、まだ熱帯夜。常夏という言葉が浮かんできます。「常夏」とは『源氏物語』の巻名でもありますね。昔も今も夏の暑さに耐える工夫は同じようです。
 
 「いと暑き日、ひんがしの釣殿に出でたまひて、(源氏は)涼みたまふ」。そして親しい若者たちもそこへやってくる。
 源氏「退屈で眠たいところだ。ちょうどいいところへ来てくれたものだ」と仰って、お酒を出し、氷水をもって来させ、水飯などを皆でにぎやかに食せられる。

 この時代もやっぱり氷と冷やご飯ですね。そういえば、このごろ讃岐うどんのチェーン店が全国展開していますね。安くてうまいので、うどんファンが増えたのではないでしょうか。小生は昔から根っからのうどん好きで、昼食はたいていうどんです。しかし、冷うどんは食べません。年中ほぼ「かま揚げ」です。(ざるそばは食べます)でもまあ、昔のようにクーラーがない時代であれば、冷やを食べるかも。

 続いて、風は、いとよく吹けども、日のどかに、曇りなき空の、西日になるほど、蝉の声なども、いと苦しげに聞こゆれば、源氏「水の上にいても暑い今日は。ちょっと見苦しいがお許しあれ」と言って横になる。「それにしても暑い。制服を着て宮仕えしている人たちは耐え難かろう。ここでは、君たち、楽にしてくれたまえ。この暑さと眠気を忘れさせるような面白い話を聞かせてくれたまえ。」って言っておきながら、源氏自ら話題をー内大臣の隠し子の話をし始める。

若者たちの中には、内大臣の子どもがいるから、そこから情報を得たいという心づもりもあったのだろうし、源氏自身の養女(玉鬘)に言及し、さらに、できうれば、玉鬘を若者たちにちらっと見せて、その美しさでもって驚かせてやりたい気持ちもあったのでしょう。

 この玉鬘は夕顔と内大臣(時の頭中将)との忘れ形見であり、長谷寺の観音様のお導きにより、玉鬘一家は源氏と再会することができたのですね。このとき源氏が詠んだ和歌から「玉鬘」という名は由来しています。

恋ひわたる身はそれなれど玉かづらいかなるすぢを尋ね来つらむ

(亡き夕顔の面影を追っている自分ではあるけれど、いったいこの娘はどのような因縁で自分のところにきたのだろうか)

ちなみに玉鬘の母である夕顔は夏の女であり、「常夏」とは「なでしこ」の古名です。

夕方、風がやや涼しくなって、源氏は玉鬘のいる西の対へ行く。そこで、和琴を教えると言って近寄る。玉鬘は、源氏の子(養女)として養われているが、源氏の実子ではなく、内大臣の子であることを知っている。源氏も玉鬘の素晴らしさの前では男心を我慢できない。しかし、さすがに表向き自分の子としている娘に手をつけるのは世間体が悪い。何度もこの葛藤に悩まされ続けるんですね。それで、髪を撫でたり手を握ったりして、玉鬘は「助平で、いやなおじさん」って、ずっと思い悩んできた。

このあたりを読んでいると、もうまだるっこしい。源氏も読者も心臓が高鳴り脂汗があふれ出る。こちらは早くやっちまえ、と思ってしまう。若い時の源氏なら後先を考えず行くでしょうね。しかし、このとき源氏ももう36歳。(玉鬘22歳)そうなったら、自分の不面目もさることながら、玉鬘が可哀そうだと考える。

というのは、そうなったら源氏の今までの妻妾たちの中に入ることになるが、身分からして末席を占めるにすぎなくなる。いくら源氏の身分が高く愛が大きいからと言って、それで幸せになることはない。むしろ、身分は低い人でも、この人一人だけと愛される方が幸せだろう、と考えます。源氏は離れているときは冷静に考えられるのですが、玉鬘を見ると、はやり衝動を抑えることが難しい。

それで、こんなことを思いつくのです。玉鬘をこの屋敷に置いておいて婿を取る。夫をもてば男女の情が解るようになる。それからなら、いかな人目繁くとも、慣れたもの、そっと忍んでぐっと迫れば容易に許すであろうと。

作者の式部も、「けしからぬことなりや」と呆れています。
源氏の企みと脂汗でいっそう暑くなる話でした。


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連歌の始まり

 連歌の初出は『万葉集』巻八の1635の歌と言われる。
 「尼、頭句を作り、併せて大伴宿禰家持、尼に誂へられて、末句等を継ぎて和ふる歌一首
  
  佐保川の 水を堰き上げて植ゑし田を 尼作る   
  刈れる初飯は ひとりなるべし 家持継ぐ 」
 
 植えられた稲は尼の娘と思われる。おおかた沈鬱な歌を詠んだ家持にしては、なかなかウィッティな下の句ですね。

 しかし、もう少し古い歌で連歌があります。それは『古事記』の景行天皇の巻にある倭建命(ヤマトタケルノミコト)の東征からの帰り道に詠うところ、
 「即ちその国より越えて甲斐に出て、酒折宮に坐しましける時、歌ひたまはく、
   新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる   とうたひたまひき。ここにその御火焼(みひたき)の老人、御歌に続きて歌ひて曰はく、
   日日並べて 夜には九夜 日には十日を  とうたひき。」

 (常陸の新治や筑波を過ぎてから、今までもう何日くらい経ったのであろうか・・・・・日に日を重ねて、夜は九日、日では十日経ちました)

 全く同じ歌が『日本書紀』の景行紀にもあります。しかし、これは四七七(五七七)の片歌が二つ並んで、旋頭歌となっていますが、この歌を室町時代の連歌師が連歌の始まりとみなしたことが、連歌を「筑波の道」と呼んだ由来となったそうです。


  

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大和魂とは 3

 ついでに初期には大和魂という言葉がどのように使われているか、ちょっと調べてみました。 
  
 小生も『源氏物語』を読んでいたとき、大和魂という言葉が出てきて、アレッと思ったことを思い出します。 
 「乙女」巻で、源氏が息子の夕霧の元服をさせ、学問の必要性を述べた部分です。
 「才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」という一文です。
 これは才(ざえ)というのは学問。つまり知識・理論。これに対して大和魂はそれを生かす手腕とでも言いましょうか。

 『今昔物語』で、善澄という学問のある人の話で、この人の家に強盗団がやってきた。善澄は縁の下でじっと息をひそめていた。強盗団が物を奪って家を出て行ったとき、彼は腹立ち紛れに、「お前らの顔は見た。検非違使に訴えてやる」と、怒鳴った。すると強盗団はで「見たな!」ってことで引返してきた。彼は大慌てでまた縁の下に隠れようとするが、頭を打ったなどして逃げ遅れ、強盗団に捕まって殺されてしまう。

「善澄の才はめでたかりけれども、つゆ和魂(やまとだましひ)なかりける者にて、この心幼き事を云て死ぬる也とぞ、聞く人に云ひ謗られける云々」
つまり、学才はあるが思慮分別がないということですね。

『大鏡』時平の話。もちろん菅原道真が主人公ですが、時平のことを、あさましき悪事を行ひたまへりし罪により、この大臣の子孫はいなくなった。しかし、やまとだましひなどは優れていた、とあります。道真が才ある人であったに対して、悪事をした時平のほうが、上手に政治を行ったということです。

『大鏡』道隆の話。筑紫に中国の賊が攻めてきた。大宰府の次官隆家は軍事についてはちんぷんかんぷんであったが、周辺の軍人達をすばやく召集し、大宰府内の文官まで巧みに組織して、見事賊を打ち破った。この隆家は大和心かしこくおはする人であったという。
つまり、急場を上手にしのぐ、融通が利くなどということですね。

 だいたいのところ、対比的に言うと、才が知識、理論、決まった方策。対して、大和魂は事に当たってケースバイケースで処理しうる能力のようですね。

『源氏物語』においては、紫式部はよく物事を対比的にとらえていますね。
例えば「絵合」巻において、しみじみとした古いものの味わいvs華美な新しい発展。業平の反出世的みやびvs天上人への志向の賛美。要するに〈あはれ〉vs〈をかし〉。これはそのまま、物語が展開していくなかで、歳とともに離反していく光源氏vs頭の中将の性格対比論になって表れているし、あの春秋優劣論は有名ですね。しかし、紫式部は、どちらかを排撃することはなく、それぞれがそれぞれにおいてよい、それぞれが必要なのだ、という。
       *

 結論として、このころの大和魂は、事物を処理するにおける柔軟性の意と考えられていた。

 そして、そのずーっと後、宣長は、大和魂を物に感動する心の動きとした。これは彼のキーワード〈もののあはれ〉と言いかえられる。 ここに彼の『源氏物語』の影響大なるを想像します。
宣長は紫式部の〈あはれ〉をさらに敷衍して、情緒的なもの、感情の動きとしてとらえ、さらに式部の対比的用法で、概念の鮮明化を図ったのではなからうか。すなわち大和心vs漢心(からごころ)という図式です。


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日本、二つの敗戦 1

わが国は二回の手痛い敗戦を喫している。

①  663年の白村江の戦い
②  1945年の大東亜戦争

 それぞれ、いまや明らかにされることだけど、少なくとも長引けば負けると判っている戦いだったとか。・・・なぜ負けるとわかっていた戦争をしなければならなかったのか・・・。

 今も昔も、朝鮮半島の位置がわが国の防衛に重要な意味をもつ。

 これは小生の想像の物語ではあるが・・・・
 白村江の戦いにおいては天智天皇がすでに滅んでいる百済を助けに行ったのは、もちろん百済が救援を求めたからだが、それにしても作戦が酷い。どうもそこには反天智勢力が絡んでいたからではなかったか。負けてから天智天皇は唐新羅連合軍をいたく恐れ、多くの防壁を築き、大津宮に遷都する。国の疲弊、重税、労働は激しく、庶民の反感は高まったであろう。
 そのように仕組んだのは他ならぬ新羅勢力だったかも、その背後には後に天武天皇となる不気味な人物がいた。この人は、この人が編纂を命じたと書かれている正史!『日本書紀』においてさえ、その出自が明確でない。天智の弟とされているが、年齢があやふやだ。誰この人?あまりに新羅と仲がよすぎる・・・ひょっとして新羅人?しかし、『書紀』が完成したのはもっと後で、その時実権を握っていたのは藤原氏。藤原氏は鎌足が祖、すなわち百済人。ではその真意は?

 従来の通説に疑問を投げかける歴史家は多く、これからどのような新発見がなされるか楽しみだ。関裕二氏は、日本書紀は天武天皇が己の正当性を述べるために書かれているとしては出来が悪すぎる(あまりにつじつまが合わないところが多く、一貫していない)と言う。確かに『古事記』にくらべると一作品としてすっきりしていず、話が小刻みで異説が多すぎる。
 きっと『日本書紀』は嘘だらけなんだろう。しかし、だからといって、その重要性も減らないし、読み物としての面白さも減りはしない。嘘だらけだとしても、どうしてそのような嘘を書く必要があったかという心理的事実は確実であって、いよいよ歴史家の想像力を刺激して面白い。


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藤原定家の和歌

三夕の歌の一つとして有名な定家の
 「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」
というのがありますね。ふと、これが頭に浮かんできて、いったいこの歌の心いかに?という疑問が沸いてきました。
ずっと以前は、この歌は浪花節みたいで、和歌としては最低ではないか、と思ったものでした。

しかし、考えてみると、この〈なかりけり〉というのは、仏教的な諦念、あるいは形而上学的考察を思わせないでもありません。
確かあったはずだが・・・実は何にも無かったのである。花や紅葉というのは、われわれがそう見たからそう見えたに過ぎない。そんなものは迷妄である。ただ、浦の苫屋の秋の夕暮れがあるだけである。いや、そんなものもない、そう思っているだけだ、共通の迷妄に陥っているだけだ・・。ひょっとして、この私というのも・・・・。
この世のことはみんな夢だ、そんなことは先刻承知。ならば、夢をもっと成熟させよう。天国も地獄も同じ夢。そんなことも分かっている。

・・・こんな退廃的な形而上的美とも言うべき雰囲気が、あの血を血で洗う源平の合戦に引き続き、もっと陰惨な鎌倉初期の歌人達を支配していたのではなかろうか。日本に霊性が高まり、幾多の宗教的天才が出てきたのもこのときだったということも、なんとなく頷けます。


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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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