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ヴェルディ『オテロ』

 ヴェルディのオペラ作品の中でもっとも好きなのは何でしょう、とマニアたちに尋ねてみたら・・・。やっぱり『ナブッコ』ではないかしら、わが想いは黄金の翼に乗って、イタリア万歳に涙よ、あるいは『椿姫』に捧げし歌よ、いや『トロヴァトーレ』の例のウン・ジャカ・ジャッジャに昇天だわ。いや、『リゴレット』だよ、いや『運命の力』ですわ。忘れちゃいませんか『アイーダ』に決まりですよ・・・なんて、結局なんでもいいの、人それぞれなのでは、ありませんの。

 では、小生は、変わった視点から一つだけ『オテロ』を取ることにするか。いや、断然『オテロ』だ。先日たまたまこのオペラ映画を見たからね。でそのとき、誰が何について言った文句か忘れたけど、「耳におけるシェイクスピアの恐怖」って文句を思い出したよ。

 人間という生き物の恐ろしさと弱さと救い。いやこのオペラ作品は、ヴェルディの『トリスタン』だな、聴きながら、ふとそう思ったとたん、その考えから離れることは出来なくなった。

 小生の勝手な空想だが、晩年のヴェルディは、どうしても、やはり彼の『トリスタンとイゾルデ』を創りたかったのではないかな。音楽そのものが物語(愛の死)を導くがごとき楽劇風だし…。

 しかし、両者は根本的に違ってくる。ヴェルディの愛の二重唱には、〈死への予感〉はあるが、ワグナーのような〈死への誘い〉はない。トリスタンの悲劇は、変な言い方だけど、それほど悲劇的ではなく、むしろ非常に甘美なものである。死にたくなるほど甘美である。ヴェルディの『オテロ』は非常に悲劇的で、フィナーレで死を悟ったデスデモナは柳の歌を歌う。彼女の運命はオフィーリアのそれと重なって見える。

思うに、人生とは不条理そのものであり、そのことをそのまま、ヴェルディは歌う。その根源を、いわば悲劇の中の神話性を、垣間見させてくれるのであり、そう言い方をすれば、ワグナーはむしろ、神話や民話に内在する悲劇性を派手に大写しする。

 南方と北方の違い? さあ、どうかしら。



     


     
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テーマ : art・芸術・美術 - ジャンル : 学問・文化・芸術

永遠の0

先日、息子がテレビで「永遠の0」をやるから、一緒に見ようと言ったので、見た。これは、小説が出た時、有名になったので、題だけは知っている。太平洋戦争のときのゼロ戦乗りの話だということも、見当がついていた。

 見ていて人並みに涙が出たところもある。しかし、この作品はしっかり纏まっていて、言いたい所はハッキリしていると思った。それは、主人公のパイロットがどうして最後に特攻員として出撃していったか、である。

 主人公は最も腕が立つパイロットであった。だが、妻子をもち、必ず家に帰ってくると約束していたから、危うい戦闘の最前線から常に離れた位置につけていた。とうぜん周囲からは非難の目で見られる。

 しかし、戦局もだいぶん不利になってきた昭和20年の戦闘で、多くの同僚や部下の戦闘機が次々に敵機に撃ち落とされ、死んで行くのを目の当たりにして、彼の心は揺らぎ始める。

 そうして、ついに彼は必死の特攻攻撃に自ら志願し、果てる。大局的に見て無意味とは知りつつ、どうして彼は最後に行動を変えたか。それは、多くの仲間が死んで行ったのに自分だけが生き残ったならば、生涯負い目を感じて生きなければならないと〈判断〉したからではない。

 それは言葉では表せないものだ、とたまたま生き残ったお祖父さんは孫に語る。まさに、そうである。それが結論だ。主人公の行為に、合理的な説明などできるものではない。にもかかわらず、われわれは彼に共感できるのである。

 彼の行為は意識的な判断によるものではない。もっと積極的ななにか、もっと強い力、必然とでもいうようなもの、ある深い宗教的感情とでもいうようなものに動かされたのではないか。

彼の特攻は敵空母を破壊することだ。もはや勝敗には関係がない。それは多くの敵兵士を殺すということなのだ。殺人である。それで思いだしたが、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公である青年が、強欲の塊のような老婆を斧で叩き殺す。あの瞬間の感じを小生は忘れることはできない。やはり不器用にも、〈ある深い宗教的感情〉と名付けるしかないようなものを感じたのだった。(殺人がどうして宗教的、などと問わないでほしい。)

いや、両者は根本的に違うかもしれない。しかし、いずれにせよ、彼らの行為は、一切の意識の集中を超えた、あたかもリンゴが木から地面に落ちるように、物理法則に限りなく近い必然として共感できるのである。神の命令と言ってしまうのは易しい。われわれは、彼らの行為の前では、一切の説明的言辞を断念し、沈黙するしかないのである。


     

     
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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

シネマ歌舞伎

先日、映画で歌舞伎、「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)を観た。田舎から江戸に出てきた、あばた面の単純で金持ちの絹商人が、吉原一の花魁(おいらん)に惚れて、結局は捨てられる話だ。
 
 この絹商人である次郎左衛門は勘三郎。花魁、八ツ橋は玉三郎。平成22年の舞台である。

次郎左衛門は単純でお人よし、一目で八ツ橋に惚れてしまい、一途に吉原に通いづめ、とうとう身請けの約束までするが、いよいよという時になって、八ツ橋の昔からの情人の知るところとなり(この場面は権八という焚きつけ役の働きが面白いのであって、知っている人は誰でもオテロを思いだすに違いない)、そのため彼女は、不本意にも、大勢の人前で散々悪態をついて、身請けの約束を反故にしてしまう。まさかの話に次郎左衛門は茫然自失。訳を知った彼は、事情を了解し里に帰るが、その後、久しぶり吉原を訪れ、彼女と和解すると見せかけ、持ってきた刀で殺してしまう。

じつは、この演目は、大学時代に観たことがあって、今回映画を見ていて、その時の舞台が彷彿としてきた。その時は、花魁が六代目歌右衛門、次郎左衛門が先代幸四郎だった。六代目歌右衛門は、玉三郎と同様とても妖艶だったけれど、その眼差しには、ちょっと凄みのある、こちらが蛇に睨まれた蛙になったような、一種抵抗できないような冷やかな誘惑の趣があった。それに較べると、玉三郎はむしろ美々しく、薔薇の花のような甘い色気がある。

今回の勘三郎の演技はとても細やかで、あのときの幸四郎はむしろ粗野な印象を与えたように思うが、何分ずいぶん昔のこと、この漠然とした記憶はあてにならない。

それにしても歌舞伎の面白さは、やはり演技、つまりその物語の流れや状況に応じたちょっとした所作の的確なタイミングと、見得を切ると言うように、ある重大な心理的瞬間にそれに相応しい型を見せるところにあるのではないかな。舞台背景や衣装の見事さ、ストーリーの面白さや奇抜さは、大して問題ではないな。というより、そんな物に頼っているようでは本格的ではない。

しかしまあ、映画となると、一人の演者の演技はアップでしっかり見ることができてよいが、全体が見れない、離れた両演者の演技の掛け合いが見れないことがある。つまりカメラマンや編集者によってけっこうセレクトされていて、いわばそういう強制の下でしか観ることができない。それに、なかなか掛け声がしにくいのが難点だ。


              


              
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テーマ : 伝統芸能 - ジャンル : 学問・文化・芸術

ゴジラ

映画と言えば、昨年見た『ゴジラ』を思い出したが、今から思うとなんであれが『ゴジラ』なんだ。主役はあの鳥のような昆虫のようなムートーとかいう怪獣じゃないか。
 おそらく〈ゴジラ〉というネームヴァリューを優先させたのであろう。『ムートー』なんてタイトルの映画だったら見に来る人は少ないだろうな。『ゴジラ対ムートー』としても、昔に『ゴジラ対なんとか』シリーズの続きみたいで、もういいよという気分。

 小生が子供のころ、ゴジラという名前は迫力があった。それはまさに原水爆の威力の象徴だった。圧倒的な力で自然を破壊してしまう。人間はほんらい自然の前では無力なのであるが、われわれの科学は自然を構成している原子の秘密を知りその力を利用できるようになってしまった。それがために自然の制御を通り越して、自然を破壊し、さらには抹殺しえるようになった。そしてそれを為し得るようになった人間は自身をコントロールできないのでは、という恐怖を人々は感じ始めていた。

 2014年のこの日米合作の『ゴジラ』においては、あの津波でやられた福島原発事故に想を得ている。原発事故後の施設でムートーの育成をしていたところ、その怪獣は一気に育ち、施設から脱出して姿を消す。以前からそのあたりで振動(超音波?)が繰り返し聞かれたが、それが遠く離れた番(つがい)の相手との呼びかけであった。

 ムートーの番はアメリカ西部の核施設に向かっていた。栄養源としての放射能を取りに行くためである。いっぽう南海のどこからかゴジラが現れて同方向に急接近している。それはゴジラの狩猟本能に導かれてムートーを目指していたのだ。

 それを知った対策本部は核弾頭を囮(おとり)にして怪獣らを太平洋上に誘い出し、そこで集まった三匹を一挙に核爆発で殺傷してしまおうと目論んだ。そして、核弾頭を列車で港まで運ぶのだが、途中で核の匂いに敏感なムートーに見つかって奪われてしまう。雌のムートーは港にほど近いところで核弾頭の周りにぎっしりと産卵する。

 そこへゴジラが海からぬっと出てきて、激しい市街戦となる。最終的にムートーの番は死ぬ。死力を尽くしたゴジラもその場で倒れる。その戦いのさなか主人公は石油パイプを切って産卵場所を石油の海にし、そこへ火を放て卵を燃やしてしまう。そして核弾頭をボートに運び沖に向かった。そしてどうなったか忘れたが、たぶん時限発火装置を止めたのではなかったかな。明くる日、横たわっていたゴジラが目を覚ました。人々が驚くなか、ゴジラはゆっくりと海に入り姿を消す。

 興味深く感じたのは、ここではゴジラは人間世界にも核爆弾にもまったく関心を示さなかったことである。結果的には、核を必要とする怪獣を倒し人間世界を救ったことになったが、わざわざ南海から泳いで来たのは、ただただムートーと戦いたかったためである。ゴジラは昔日の核の威力の象徴から、もはやその役割は他の怪獣に譲り、ここではもの言わぬ圧倒的な神のような存在になった。


     

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『エフゲニ・オネーギン』

 METライブ・ビューイングで『エフゲニ・オネーギン』を観た。歌手たちはMETで今をときめく名トリオらしく、申し分なかったとの評判であった。

 小生は何より舞台演出がよかったと思う。背景の林がロシアを、チャイコフスキーを強く感じさせた。森というほど鬱蒼としていず、つまり木々は大きいのだが、間引きをしたのか自然にそうなったのか知らないけれど、木と木の間隔が広く、比較的明るい林って感じ、これがよかった。広大な原野と林これがロシアだと思った。

 幾人かの召使がいる比較的裕福な家庭の屋敷が、こういう広々とした林の近くに点在している。ここに住む人たちは、毎日のように林の空気を吸いながら散歩し、読書し、木を眺める。親しげな眼差しを太い幹から高い枝に、そして風に微かに揺れる葉に向ける。梢の先には空がある。この空の明るさはロシア人たちの憧れの象徴だ。

 いつもチャイコフスキーの音楽について、小生は個人的な思い入れがあって、つねづねどう考えたらいいだろうと思い悩んできた。チャイコの音楽には、いろいろな空想や思い出がまつわりついて、妙な言い方ではあるが、いい音楽なのか悪い音楽なのか、判定ができないでいた。

 ちょっとこういうことに近いかな。太宰治の作品は、小生は若いときに読んで共感するところが大いにあったが、むしろそれゆえにと言ったらいいのか、嫌いになった。小生は太宰は嫌いだと公言していた。しかし、ある年齢になって、なかなか古風でいい感じだと思うようになった。しっかり読み返したわけではないけれど。

 チャイコは、なんでか子供の時からよく耳にした。青年期は好きで何度も聴いた。しかし、まもなくとてもセンチメンタルな感じがして、チャイコ好きを恥じるようになったんだな。しかし、いつしかまたなかなか面白い、ロシアの伝統音楽が充満しているのではないかな、と思うようになった。

今回、『オネーギン』を聴きながら、一言でチャイコを評するとしたら、どう言えばいいだろう、と考えていた。そして思ったのが、ロシア的な憬れと諦め、という言葉がでてきた。そうだ、19世紀のロシアの作家たちの根底にいつも流れていた問題、ロシア人の崇高と陋劣、ペテルブルグと農奴、観念としてのヨーロッパと血に流れるスラブ、この極端な二面の和解しようのない共存。

幕間で指揮者のゲルギエフへのインタヴューで、かれはこう語っていた、「チャイコフスキーのこの音楽は、全編美しい、感傷的なものは全然ない・・・」と。小生はまったく不意を突かれて納得せざるをえなかった。〈すべて〉が美しいのだ。

それから、タチアナの拒絶されたオネーギンの最後の言葉に、自分は悲惨な運命だったというようなことを述べる。ほんとだ、彼もまた、オセロと同じように運命を生きたのだ。そう思うと、ここが音楽と小説との違いかもしれないが、ドストエフスキーの言うタチアナの倫理的勝利などは問題にならない。

ゲルギエフはまたこんなことも言った、旧ソ連時代、学校では『オネーギン』を暗記させられた、そしてこれが大いに役立っている、と。いや、びっくりしたな。偉大な国民的詩人の作品を暗記させるとは、わが国の教育よりずっと立派じゃないか。

オネーギンは叔父から受け継いだ遺産で生きる高等遊民だし、タチアナは公爵夫人になる。二人とも働かずとも生きていける身分だ。しかし、おそらくプーシキンの詩文に表れたロシアの魂は、政治体制はどうあれ、ロシア人にとって必要なものだった。ソ連時代の文化をよく知らずに馬鹿にしていたことは間違っていたな。


    

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テーマ : オペラ - ジャンル : 音楽

『パルジファル』

METライヴビューイング『パルジファル』を観た。『パルジファル』を最初から最後まで通して聴いたのは、たぶん2回目か、3回目だ。普段この楽劇を思い出して浮かんでくるのは、いつも沈鬱な気分である。

 今回これを観て浮かんだ定式は、〈神はワグナーにこの作品を創る寿命を与えたのだ〉ということ。つまり、神とワグナーとの共作であり、もっと正確に言えば、共犯である。

 思えば、これはただの楽劇ではない。舞台神聖祭典劇と銘打ってあるのだから、なるほどなと思う。

 やはり、まず考えたのは、ワグナーは『神々の黄昏』で終わっておくべきだったのだ。あれで、あの英雄の死、そして女神の死で終わっておくべきだったのだ。それで、歴史は滅び、ワグナーの芸術の完結にもなったのに、と。

 だから、『パルジファル』は蛇足であり、あれからまたキリスト教の歴史が、西欧の歴史が始まるのかと思うとうんざりする。ニーチェならずとも、ワグナーはキリスト教の前にぬかずいてしまったと言いたくなる。

 まあ、考えようによっては、少年パルジファルは『神々の黄昏』で死んだはずの英雄の復活である。野心家ワグナーはどうしてもキリストを描かずには死ねなかったのかな。西欧はそういうものか。ときに西欧人は無神論を主張する、しかし主張せねばならないほど、彼らはどっぷりとキリスト教に浸かっていて、そこから抜け出せない。

 異教徒ですらないわれわれから見ると、これを大真面目に、深刻な顔をして聴いているのを見ると、時に吹きだしたくなる。ちょうどコンクラーベで選出されたローマ法王が、失礼ながら、あのイカの干物のような帽子をかぶって、何やら意味ありげな、神聖な!儀式をしておられるのを見る時のように。

 そうだ、なぜ笑ってしまうかというと、キリスト教はそこに倫理性を持ちこんでいるからだ。もっともだからこそ、そこにキリスト教の圧倒的強みも矛盾もしたがって弱みも存する。世界中にある単なる古代的宗教儀式なら、例えばわが国の新嘗祭のごとき儀式なら、それはそれで神聖であり、笑うべきことではない。

 幕が開いて閉じるまで、胸に傷を受けた王の苦痛が主調低音のように流れ、最後に「共に苦痛を分かち合える」若者によって癒されるこの物語の5時間にも及ぶ延々とした音楽の流れは、しかし、音楽的には新しい地平を開いたようだ。反ワグナー派のドビュッシーでさえこの音楽のとりわけ第三幕の美しさにほれぼれしている。『ペレアスとメリザンド』を創ったドビュッシーだと思えば、なんとなく分かる。そう思うと、以前よりは、この音楽は全体としてなかなか美しいのではないかと思いたくなるような気がしてくる。

 しかし、死ぬまでに、この曲をもう一度ちゃんと聴くだろうか。



   
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テーマ : 観劇 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『エルナニ』

  
METライヴビューイングで、ヴェルディ『エルナニ』を観た。すでに言われていることではあるが、歴史物とは言ってもストーリーは荒唐無稽である。しかし、ユゴーの原著は、読んでいないので、どうだか知らないけれど、音楽となると、別にストーリーがどうのこうのなんて関係がないな。

 オペラは、あくまで音楽であると昔から思っていたが、衣装やライトや舞台装置の見事さ、それに歌手の演技の見事さに目が奪われ続けると、ついついオペラは音楽であるということを忘れてしまう。

 と言うと、ではなぜ作曲家は、器楽曲や声楽曲を書けばいいのに、わざわざオペラを書くか、という疑問が湧く。

 考えるに、物語のある場面の登場人物の心持ちをより一層深いところから明るみに出すためだ。音楽が無ければ、たんに表面的な出来事の推移―要するにつまらない芝居になってしまう。音楽こそ真実在、すなわち心の深層の動きを暗示する。その連続が、ひと纏まりのオペラとしての作品なのだ。

 だからこそ、オペラのストーリーは荒唐無稽であっても、出鱈目であってはいけないのだ。それぞれの登場人物の心が、いわば必然的な綾をなして、展開していかなければならない。オペラを作曲している時の作曲家は、だから決してこの流れを中断してはいけない。

 二重唱・三重唱となると、それぞれの人物のそれぞれの心持が、それぞれの歌となって、全体として一つの調和したムードを生みだす。そのムードは、創られたものとは言いながら、その状況の或る真実在であって、われわれはそれを聴いて陶酔する。陶酔と言っても、それだけ目覚めているのだが。

 それに、名人の歌声を聴いているときは、人声は最高の楽器ではないかと感じる。今回の女主人公とでも言うべきエルヴィーラ役のミードとかいうソプラノ歌手は、その立派な体からなんと見事な歌声を発していたことだろう。こういうもののために、オペラから離れることができない。

 ついでにもう一つ、はっと思ったのは、最後の幕で、主人公エルナニに対して、シルヴァという老人が約束の死を迫る時の、暗い運命的なフレーズは、モーツアルトの『ドンジョヴァンニ』で騎士像がジョヴァンニに回心を迫るときのそれと何とよく似ているか。ちょっと驚いた。

 まあメロディーがよく似ているってことはしばしばあるけれど。以前FMラジオ番組で、聴者から募った〈似ているメロディー〉を毎週取り上げているのがあったけど、似ていると言えば似ている例があまりに多くて笑っちゃったな。逆に言えば、似ているということは違うということでもある。犬と猫は違う、けれども見方によれば似ている。




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テーマ : 音楽 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『カプリッチョ』

R.シュトラウス作『カプリッチョ』のMET公演映画感想―カプリッチョ風。

 シュトラウスさん、『カプリッチョ』とは、なんと上手い題名をつけたものでしょう。これが、貴方が必要とした最後の隠れ蓑だったのでしょうかね。

 貴方はこう言いたいのでしょう、人は歳をとるにつれ人生ってものが、いっそう喜劇的に見えてくる、誰もが深刻な顔をしてまで喜劇を演じたがっている、これをオペラにするとどうなるか。

 そもそも誰もいない部屋で始まる弦楽六重奏が、あの「metamorphosen」さながらの一つの時代の終わりを長々と歌う、いやあれはやっぱりmozartのquintetのパロディのつもりなんでしょう、誤魔化したって駄目ですよ、とても深刻じゃないですか。

 この初演が、偉大なる大ドイツ帝国が連合軍と戦っている真っ最中だっととか聞きましたけどね、偉いものです、ヒットラー総統はどのようにお聴きになったのでしょうか。世界の終りの予感のうちに、エヴァと恍惚の境に陥っていたのでしょうか。

 聴いていて、こんな言葉が浮かんできましたよ、〈美は過去にしか存在しない〉ってね。しかし、貴方は、どこまで本気なのか判らない、それがまあ貴方らしいと言えるんだけどね。自分はもう時代遅れだと言ったり、そのくせ美を新しい時代に盗られまいとしたり。大衆を馬鹿にしながら、大衆を当てにしたり。

 主題は、言葉と音楽の本家争いを装っていますがね、ぼくは騙されませんよ。西洋では、というか貴方のお国では、その問は延々と大真面目に考えられて、―おお、こんな言葉がありましたね、「音楽の精髄よりの悲劇の誕生」―今ではとっくにお払い箱になっているではありませんか。
 音楽も詩も、舞台に乗せる興行師がいなければ、オペラにはなりません。そのところを、貴方は見事に、一登場人物に歌わせましたね。拍手。拍手。

 美しい音楽で、さんざん泣かせておいて、終わりがいい。「お嬢様。夕食の準備ができました」という、人を小馬鹿にしたような実に散文的な文句を、召使に吐かせて、一音のトゥッティと共に明かりが消え、幕。

 これもmozartのパロディ? ―「人生みんなこうしたもの」



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テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

ランメルムーアのルチア

 METの昨シーズンの一つ「ランメルムーアのルチア」の映画を観た。なかなかよかった。1830年代あたりのイタリアオペラはいいな。ロッシーニ、ベッリーニ、そしてこのドニゼッティ。この作品なんかはもうヴェルディ一歩手前だな。

 窮地にある領主が、妹ルチアを無理やり政略結婚をさせる。しかしルチアは密かに敵方の男と結婚を約束した仲であった。彼はルチアの結婚話を聞かされてルチアは自分を裏切ったと誤解し、ルチアを責める。あわれルチアはオフェリアと同じ運命をたどったのであった。

 こんなのを観ているといつも思うことだが、人は戦争や恋愛があるおかげでなんと生き生きするものだろう。
「かくのみし 恋ひし渡れば たまきはる 命も我は 惜しけくもなし」
あるいは今のわれわれなら演歌みたいなところに陥るのかもしれないが、イタリアの歌は、石の円形劇場からあの空に向かって響き上って行くように、まっすぐに情熱的だなあ。こちらから見つと、ちょっと笑っちゃうほど大真面目に彼らは情熱を演じるんだねぇ。負けるよ。

 それぞれの風土にはそれぞれの表現形式があり、それぞれの解決方法がある。

 イタリアの古都、フィレンツェやローマの空気を吸った人は、きっとイタリアのエッセンスを感じ知っているにちがいない。小生は行ったことがないから分からないけど。一生行けないかもしれない。まあ、それならそれでいい。しかし、あの溢れる歌の数々を聴いて、イタリアの希望を、イタリアの悲哀を、・・・・つまりイタリア的なものを完全に理解する。と、勝手に思っている(笑)。

 それにしても、音楽は感情のもっとも直接的表現だ。一芸術として分化発展してきた西洋の音楽には、圧倒的な物を感じるな。詩が音楽に憬れるというのはもっともだ。十九世紀は今になってみると、あんな時代があったのかとあらためて驚く。

 音楽におけるルネサンスをこの世にもち来ったベートーヴェンという巨木が倒れて後、新音楽に目覚めたロマン派の一群が羽ばたく。が、それは初めから不安を孕んでいて、ついにはめいめいが否応なく自分の墓のデザインをしなければならなくなった。そんな中、イタリアオペラ作曲家は純粋な音楽を幾分か捨てて、ドラマと肉声との一致を模索する道を進むことによって、救われていたと言えようか。

 まあ、オペラはその限定された肉声音楽でもって聴く人に生気を与えてくれるし、舞台は実人生ではないが、音楽と一体になることによって、われわれの日常的情動を根底から掘り起こし、洗練された姿で垣間見させてくれる。これはこの瞬間まさに実人生であって、しかも同時に救いを与えてくれるのではないのかな。

 ルチア役の女性は、ちょっと小柄で華奢だな、『ボエーム』のミミをやったら似合うかな。


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テーマ : 観劇 - ジャンル : 学問・文化・芸術

能とシェイクスピア

 シェイクスピアといえば、先日、上田邦義氏の自作自演による英語能「ハムレット」を観、それについての講演を聴いた。
 そもそも、能とシェイクスピアなんて、まったく水と油でどう考えても混じり合わないと考えていたから、いったいシェイクスピア能とはどのようなものであろうと興味しんしんであった。

 上田氏は先に、自分はどうして英語能などというものをやり始めたかを語った。英文学の専門家として氏は戦後まもなくしてフルブライトで米国留学をされた。そのとき、すでにシェイクスピアの原文の美しさに捉えられると同時に謡曲の詞章の美しさにも捉えられ、シェイクスピアの作品の能化を考えておられたそうである。
 それでまずは、謡曲の節付け、謡い回しをもってシェイクスピアの詞章を謡い始められたそうだ。それをすこし披露されてから、能「ハムレット」を独謡独舞された。

 弱吟の「To be or not to be」でもって始まり、オフェーリアとの愛を回想する。このとき、「葵上」の手法で一着の衣が今は亡きオフェーリアを象徴する。途中で「To be or not to be」が強吟で謡われるのは、巧みだと思った。これは、そのまま、生死を超えるという意味合いで「Readiness is all」(肝心なのは覚悟だ)になってゆく。
 そして後段は、レイアーティーズの剣に倒れるハムレット。「人生は一瞬の夢」が強調され、「Flight of angels sing thee to thy rest」が繰り返され終わる。歌はもう「江口」のキリそのもの。これを聴いていると、ハムレットも普賢菩薩に救われるような感覚に襲われる。

 つまり、氏が述べるように、極端に簡略化されている。まあ、そうでなければ能にならない。

 これを観ていてなるほどと思った。これは能なのだ。じつにうまく能にしたもんだ。だがシェイクスピアではない。(当たり前か)シェイクスピアの悲劇には、エゴイズムをもつ人間のどうしようもない業、人生のどうしようもなさ、そしてけっして救いはない、というものを感じる。
 能にはそのようなものはない。どんな怒りに責めさいなまれても、最後は仏果を得るぞありがたき、となる。

 ところで、氏の講演はしばしば脱線されてのたまわく、「たかだか80年のあっという間の人生を、自分は美しいものだけを見て生きたい」「戦後日本政府が犯した大きな誤りは、非戦を誓い、諸国民の信義を信頼していくという素晴らしい平和憲法を外国にアピールしてこなかったことだ」と。
 なるほど、氏は、昭和天皇の皇太子時代の外人教師だった○○先生(忘れてしまった)に、氏自身ずいぶん影響されたということだ。そして○○氏は、戦後の天皇に平和主義を教えたとも。
  
 小生に言わせると、氏は空想的唯美主義の権化である。それがじつに素晴らしく日本的だと思われた。まさに氏にかかると「ハムレット」も美しい夢幻能になる。ここにはシェイクスピア悲劇の世界はない。

 憲法についてただ一点。たとえ空想的あるいは理想的憲法でも、これが自主憲法であればよい。氏が非難するところの、日本政府が世界にアピールしてこなかったのは、まさにこの憲法が外国人によって創られたという負い目があるからではなかろうか。
 いまからでも遅くはない。自主憲法を制定し、心理的に自立を果たすべきである。



      

             
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テーマ : 観劇・劇評 - ジャンル : 学問・文化・芸術

「マノン」を観る


 一昨日(11日)上京し、英国ロイヤルオペラ「マノン」を観た。小生にとって一年に一、二度の贅沢だ。上野に着いて、3時の開演までまだ2時間以上ある。例のごとく、博物館へ自然に足が向かう。まだ暑い。9月中旬だというのに、ツクツクボーシは当然のこと、アブラゼミ(あるいはニイニイゼミ)の声も聞こえたのは驚き。さすがこれ上野公園。樹木も大きいし、噴水も立派。明治の意気込みここにあり。

 毎度のこと東洋諸地域の仏像さんたちこんにちは。それから歌麿やら鉄斎やら仁清やら書さまざまな工芸品など。600円でこんなにお宝鑑賞ができるとは快感だ。あっという間に2時間が過ぎる。
今回は家康が着たという羽織があった。三英傑らの御洒落にはハッとさせられる。きっと実際の彼らはわれわれの想像を超えてもっとオーラがあったというか、prominentな性格の自己演出家だったにちがいない。

 「マノン」は、つまらない眠くなる内容だし、音楽もちょっと水っぽいけれど、今回はマノン役の声に聞き惚れた。最初はこの歌い手はメゾソプラノかなと思ったほど、低音がしっかり安定していた。

 いったい人の声に聞き惚れるというはどういうことか。たしかに、歌でなくとも、普通の人でも、声がじつに魅力的だという人が偶にいるものだ。また電話の声になんとも魅力を感じるってこともある。思い出してみると、純粋な声だけではなく、言い回しとかリズムあるいはアクセントのちょっとしたずれであるとかも、本人には気付かれない魅力の一要因を成していることが多い。
 歌手の場合は、きっとこれらを意識的に強調し巧みに組み合わせ配置しているのであろう。そして、そういう技巧に自分流に適した歌をレパートリーにするのであろう。

 「マノン」を聴いていて、どうもフランス語は音響的に角がないせいか、どこか抜けていて、劇的な作品は向かないんじゃないかな、むしろフランス語はドビュッシーの「ペリアスとメリザンド」ってところかな、なんて考えたりもした。「カルメン」は、まあ例外的な成功作だ。ちょっと長たらしいのが傷だと思うが。
ベルリオーズは本人が力んでいる割にはね・・・。そうそう忘れていた、「ホフマン物語」これは面白い。ドイツ中世的幻想とフランス音楽との幸福な結合。オッフェンバックの他作品を聴いてみたい。

 この夜、やたらに味の濃い中華料理を食べ、五反田の安ホテルに泊まる。あくる日、国道沿いにある「雉子(きじ)神社」というのに気がついたので、変わった名前だと思い、参拝した。不思議や、手水舎にガラスの蓋が付いていて、使用したら蓋をしておいて下さいと書かれたり。国道一号沿いだから砂埃が入るからかな。流水の節約にもなるかもしれない。
 名の縁起。江戸時代は三代将軍の鷹狩中、白雉が飛び込んできて、これを吉兆と讃えたときから雉子神社と称されたとあり。

 都会の神社仏閣はビルの谷間に申し訳なさそうに在る。神社の歴史は我が国近代化の歴史。例によって明治の初め村社と定められ、明治末に他社と合祀され、その後、道路拡張などにより大分縮小されたと。

 聞くところによると、隣は幸福の科学の建物だとか。そういえば、選挙では幸福実現党は振るいませんな。だいたい党名が悪いし、総裁がブッダの生まれ変わりだの、仏国土成就だの、地球浄化霊団エルカンターレだの、あまりに高級なことを言っても、医療費・年金・子供手当などという地上的な問題に心をかき乱されているわれわれ愚民に理解できるはずはない。あまつさえ、危険な魔術宗教団体だと思われがちだ。正直すぎるんじゃないかな。選挙なんてものには、もう少しそれなりの詐術的あるいは人心掌握術的、つまり政治的な方法がとられるべきだと思うが。

 また今日も暑い。ちょっと歩いていると背中に汗が滴る。


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テーマ : 雑記 - ジャンル : 学問・文化・芸術

ツィメルマン演奏会

 先日、クリスティアン・ツィメルマンのピアノ演奏会に行った。小生の好きなショパン、それも二つの「ピアノソナタ」が組まれていたからだ。

 音楽会の楽しみは、大きく三つの点がある。一つは、生の音響が聴けること。もう一つは、よく知っている曲に新しい発見をすること。もう一つは、よく知らない曲を聴けること。
 今回の最大の期待は、よく知っている、しかも大好きな曲の新しい発見部分があるにちがいないことであった。
 最初の「ノクターン」はまあ、演奏家にとって指ならしであろう、聴衆にとっては耳ならし、ってところだ。

 それから、「ピアノソナタ二番」。以前から考えていたこの曲の特徴がはっきりした。すなわちこの曲は、小生にとってもっとも非芸術的なというか、おどろおどろしい実存的な音楽だ。それは二十歳にして戦火の祖国を離れるショパンのあの、胸を引き裂かれるような青春の不安から始まるからではない、また三楽章に葬送の音楽があるからでもない。むしろ同じ楽章内にそれと並行してあの美しい想い出のような音楽が子守唄であるからだ、と気づいたことが大きい。それは死と誕生の共存であり、終わりが始まりであり、また始まりが終わりである。それに気づかぬこの世の生である意識こそ実は嘘であるとするような感覚だ。

 そもそもの初めから鋭い、刺すような不安。その不安の逃走のテーマが、恐ろしくいびつな形で走馬灯のように駆け巡る奇怪な終楽章を、今回はじっくり逃さぬように聴き取ってやろうと身構えていた。今回は尻尾を捕まえた様な気がした。しかし、捕まえた途端に消えてしまった。それは、初めからなかったのかもしれない。捉えたと思ったのは、こちらのいわば現世的な夢であり、ショパンはそもそも死の向こう側でしか作曲してなかったのだ。
 
 そして、「スケルツォ二番」。あまりに美しい世界を垣間見ることができるこの曲を聴きながら、小生はむしろス「ケルツォ一番」のことをしきりに考えていた。「一番」のあの出だしの狂気のような唐突さは本当に狂気だ。狂気になること、それがあまりにも感受性の強い二十歳のショパンの出発点にあったのだ。祖国は滅んでしまい、自分も二度と祖国の地を踏むことがない予感はすでにあったのだ。「二番」も唐突だが、それはすぐ不安であることが明るみに出され、そしてそれがそのまま美になっている!

 ショパンのあの地中海の波間に午前の太陽が輝いているような美しさは、「ソナタ第三番」で最高度に発揮される。

 この最高に格調高い初めの楽章は、ツィメルマンは今までにない(小生の頭にない)アクセントの付け方と微妙なテンポのずれでもって、小生にとってまったく新しいイメージを展開した。それは初夏の明るい朝凪が、けだるい真夏の午後に変わったような感じである。なるほどこういう感覚も含まれていたのかと思った、と同時に、いやこの感覚は以前から知っていたと直ちに思った。なぜだろう。

 そして終楽章では、今までまったく気付かなかった新しい線がはっきりと聴き取れた。それはあたかも通奏低音のように絶えず低音部で流れるメロディである。ツィメルマンはこれを主張したかったのであろう。それはあたかも絶えず逃げようとする不安を、左手でしっかりと捉まえて音楽に引きとどめておこうとするようである。

 それから、最後に「舟歌」で聴衆を酔わす。われわれを遠くの国々にいざない、星星の夢を与え、そしていつしか夢は消え失せる。
 
 最後の拍手がやみ、溢れる感動を胸に会場を出て家路に就く時ほど、寂寥感を感じることはない。とても寂しく孤独な感情に苛まされる。誰かと話がしたい。話してもむなしいとは知りつつ、誰でもいいから音楽を共有した人と一緒にいたい、という気持ちがしきりだ。一人で地下鉄に乗る。暗い道を家まで自転車をこぐ。むろん絶えず頭には音楽が鳴っているけれど、この寂しさ! これが厭だから音楽会には行きたくない。
 
 


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テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

熱田神宮舞楽

 五月一日よく晴れ渡った空の下、大木の緑に覆われた涼しい空間で、舞楽が行われた。

 竜笛、鉦鼓、笙、篳篥(ひちりき)などが並ぶ西楽所。その前庭にひときわ目立つ大きな桃形のけばけばしい太鼓、そして一辺が9メートルという舞台には、朱の欄干が施されていて、北側中央にのみ幅一間ほどのきさはしがある。高さは約1メートルほどで舞台から黒っぽい緞帳が垂れている。

 庭の仕切りいっぱいに観客が息をひそめて待っている中、演目の説明がスピーカーから流れ、それが終わると荘重な音楽が流れ、幔幕の一端から舞人がゆっくり現れ、砂利の上に設えられた通路を通って、きさはしを上って立つ。あるいは舞いながら上る。

 演目は、舞台を祓い清める意味の舞楽「振鉾(えんぶ)」でもって始まり、『桃李花』『登天楽』『央宮楽』『新靺鞨(しんまか)『胡蝶」『抜頭』『還城楽』『長慶子』。主に平安時代に創られた舞楽曲であり、唐楽・高麗楽あり、黄鐘調、双調、壱越調、太食調あり。その違いはまだ小生にはよく判らんけど(笑)

 演目によって異なるが、舞人は一人ないし四人、鳥甲(とりかぶと)をかぶり、かさね装束、袍の右肩をぬぎ、鉾を持って舞う。あるいは天冠をかぶり、面をつける。

 とにかく平安のみやびを堪能した。『胡蝶』の四人の若い女性はみな美しかったが、いい歳のおっさんのひた面は・・・ごめんなさい、もし美しい若者が舞ったら素晴らしいことだろう。あの物語の光源氏も、並居る貴人たちが見守る中このような舞台で青海波を舞ったことだろう。女官たちはうっとりとしてながめ溜息をもらしたであろう。
 
胡蝶


 
 『還城楽』は、説明書きによると、玄宗皇帝が乱を平定し、夜半に帰城した後に創った曲『夜半楽』とも、また蛇を好んで食べる胡国人が蛇を見つけて喜ぶさまを舞にした『見蛇楽』とも。小生は、「千秋楽は民を撫で、万歳楽には命を延ぶ・・・」で有名な能『高砂』のキリで〈還城楽〉という言葉だけはよく知っていたので、一度見たいと思っていたのだが、天狗に似た滑稽なお面にちょっと驚いた。
還城楽


一句 五月晴れ 赤っ鼻が 宙を舞う

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テーマ : 演劇 - ジャンル : 学問・文化・芸術

ピアノ演奏

 友人にチケットをもらったので聴きに行った。
 pfアルド・チッコリーニ 曲目 シューベルト「ピアノソナタ21番」ムソルグスキー「展覧会の絵」 
 アルド・チッコリーニは御歳86歳とのことである。入退場の足取りは歳相応のゆっくりしたものである。腰はおおむねしゃんとしているが、大分猫背である。拍手に応えるお辞儀はゆっくりとしていて、顔はまったくの無表情だ。むしろパーキンソン病様にこわばった感じがする。
 ところが、演奏となるとそのダイナミズムやトレモロの玉を転がすような早い指使いは、まったく歳を感じさせない。この人間の表情と演奏とのあまりの落差に小生は驚嘆した。

 人には人それぞれの先天的および後天的習慣による老化の型があるように常々感じている。その線で行くと、この人の型はピアノ演奏に必要な体の部分だけを残して、その他のところがだんだん衰弱していくといった型であるように思われる。

 ムソルグスキーの演奏を聴いていて、小生はかなり斜め後ろから演奏者を見ているのだが、これを弾いているのは人ではなく、ロボットが弾いている、と考えようとした。理論的にピアノ演奏ロボットを創ろうと思えばできるはずだ。この考えは気に入った。機械に黒い服を着せて電気磁石が素早く十本の指を柔らかくあるいは強く動かしている。手首や肘や肩の関節ももちろん協力して、独特のタッチを生み出す。

 ところで、そのロボットをプログラムするのは誰であろう。というより、誰かがそのプログラムを入れておいたはずである。その人こそ、ほかでもない演奏家自身である。実際の演奏を素に創ったのであれば、レコードやcdと変わりはない。要するにdvdである。いつかそんなロボット演奏会なるものができるかもしれない。
 それでも、演奏会がなくなるわけではないであろう。現実にこれだけcdやdvdが売れていても、演奏会は減ってはいないのではかなろうか。演奏ロボット演奏会ができても、人間演奏会が減るとは思われない。というのは、聴衆は演奏会にその時限りの、つまり今までにはない新しい演奏を求めているのではなかろうか。
 演奏の一回性。ということは、最上の演奏はないということを意味する。今まで最上の演奏だと思っていたのが、偶々別の演奏に接してみて、思いもよらぬ角度から発する新しいパトスを発見することがある。これがえも言われぬ喜びだ。聴衆は絶えず新しい喜びを期待している。

 であれば音楽は、作曲家と演奏家との共同作業によって生まれるものだ。とまあ、当たり前の結論になる。作曲家は楽譜に書きとめればそれで終わりだが、演奏家は絶えず更新しなければならないから、弾くごとに新しい努力が要求されて大変だ。
 いつぞや、ストラヴィンスキーの『春の祭典』だったか、忘れたけれど、作曲家自身の指揮している演奏のレコードを聴いたことがあるけれど、二度と聴く気がしない、じつにひどい演奏だったことを思い出す。


  

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『ばらの騎士』雑感

METの昨秋公演の『Rosenkavalier』の映画を観ました。
人気があるだけあって、素敵ですね。これはR.シュトラウス本人が語っているように、モーツァルト的喜劇であって、一目瞭然『フィガロ』のパロディですね。主なる三人の関係は『フィガロ』の伯爵夫人とケルビーノと伯爵との関係ですね。

この作品は、十八世紀ウィーンの宮廷文化のオマージュだとも言われますが、むしろ小生には、同じことかもしれませんが、十九世のハプスブルグ家の夕映えに思われてなりません。概して小生はシュトラウスの音楽は〈あのハプスブルグ帝国〉の終焉といったイメージが付きまとうのです。その最たるものは一九四五年の『変容』(Metamorphosen)。戦後廃墟となった諸都市。これでもうあの栄光は永久になくなった。
そして新しい青春の時代が始まるであろう。が、そこには美が存在しない。美は追憶においてしか存在しない。
それが、シュトラウスの無調音楽の調性音楽への復帰(融合)とパラレルなことかもしれないと空想をたくましくします。

『ばらの騎士の』真の主人公というべき元帥夫人は、始まりから〈時が経つ〉という現実に危機を覚えている。若い愛人オクタヴィアンには未来があるばかりであって、時に関してはまったく無垢である。だから愛についてもまったく無垢である。が、元帥夫人は愛の不可能を知っている。それで、夫人は彼を若いゾフィーに譲る。
だから、うがった見方をすれば、元帥夫人はエゴを超えた真の愛に目覚める。とすれば、これから結ばれる若い二人はまた新たな人生という〈茶番劇〉を演じ続けることになる。目覚めたものは去っていかねばならない。

そして今度気がついたことは、気さくでざっくばらん、下品なことを臆せず口にするオックス男爵に対して元帥夫人は、貴族というもの言論についてのストイシズムを説く。そして男爵が登場しているときには、いつもワルツが鳴る。このことは意味深いのではなかろうか。
つまり、親愛なるウィーンの貴族たちよ、君たちはワルツやシャンパンに現を抜かしていつの間にか貴族としての矜持を失いつつある、だから君たちの時代は終わりつつあるのだよ。いやあの高貴な貴族の時代はとっくに終わっている、そして君たちも古びつつある、と。

ヨーロッパの歴史は、一方で終わりを告げ、他方で新しい、しかし今までと根本は変わらぬワルツを踊り続けるであろう。

要するにR.シュトラウスの音楽は、栄光のヨーロッパの夕映えの美しさを思わせる。


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テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

モーツァルトファン

 19世紀初頭にはモーツァルトファンはずいぶん居たであろうと想像する。音楽家以外で有名人としては、まず三人が頭に浮かぶ。
 ホフマン、スタンダール、キルケゴールが、それぞれの天才の独断でもって、モーツァルトへの偏愛を述べている。

 E.T.Aホフマンは、人も知る怪奇小説で有名だが、法律家であり、作曲家でもあった。自分の名前を一部アマデウスに変えてしまうほどのモーツァルトファンであった。またベートーヴェンの交響曲の楽曲分析でも有名であり、彼の音楽批評は後にドイツロマン派の旗手たるシューマンを熱狂させた。

 このロマン主義者ホフマンは、ドンジョヴァンニの圧倒的な力の前のドンナ・アンナの運命に惹かれる。彼女にとってドンジョヴァンニは最高のものの贈り手であり、かつ父親殺しとして最大の憎しみの相手でもある。このような女性の実存的危機こそ彼にとって深い関心の対象なのだ。 

 『フィガロ』を好んだスタンダールは、いち早く「モーツァルトは甘美な憂愁の天才」と規定し、美しい音楽を聴くと悲しくなると率直に語る。彼は彼の傑作『パルムの僧院』の主人公の極端に素直なというか無垢な生き方に繋がるようなモーツァルト像をもっていた。
 彼は自分の墓石に愛した対象としてモーツァルトの名を刻まずにはおれなかった。
 
 キルケゴールのモーツァルト論は『ドンジョヴァンニ論』に絞られるが、その絞り方こそ彼の音楽についての一切を語る。のみならずまた彼の哲学に裏側から光を照らす。
 つまり、ドンジョヴァンニは感性的天才である。そして感性はキリスト教において排除される(否定される)ということによって初めて措定される。この感性を表すには音楽がもっとも相応しく、ドンジョヴァンニの決して立ち止まらない泡立つ力は、ついに音楽に解消してしまうと言って、例えば「タカログの歌」を絶賛する。

 もちろんこうなると、もうファンの域を超えて、天才の独創的な生き方と結びついて異様でさえある。


 
 
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トゥーランドットを観る

METの昨秋のオペラ公演「トゥーランドット」の映画版を観た。一番前の席しかなく、斜めに見上げつづけ、首と目が疲れた。
しかし、なかなか迫力があった。生の声を聴けないし舞台の全体が観れないが、ポイントの部分がアップで観れるから、個々の演技の詳細はよく判る。相撲をテレビで見るのと同じ。

プッチーニは、ご存知イタリア人であるが、外国ものとして「蝶蝶夫人(日本)」「西部の娘(アメリカ)」そしてこれ「トゥーランドット(中国)」が有名ですね。

「蝶蝶夫人」の主人公蝶々さんは、可憐な日本の少女で、家は落ちぶれたとはいえ武士の娘、愛するも生きるも死すも一途な、〈あの日本〉の純真でしかも凛とした美しき女子。アメリカ兵ピンカートンと愛を交わすが、彼に裏切られるも、彼と子供の幸福を願って潔く死ぬ。音楽も甘く憧れに満ちている。

たいする、北京の皇帝の娘トゥーランドット姫は氷のように冷たい心の持ち主で、憎しみと復讐に生き、今まで自分に求婚する多数の男性の命を奪ってきた。そして今回、ペルシャ青年の死をも恐れぬ盲目的な愛によって心を開く、めでたしめでたしの物語。音楽は異様で活劇風で魅力的だ。
最後の二重唱は美しすぎる。心の中で「おっかさん」と叫んだほどだ。

プッチーニは特別意図したわけでもないだろうが、偶然とはいえ、二十世紀初頭の日本と中国とに関しこのような印象をもっていたのだろう。

中国姫の復讐と閉鎖性は、現在の共産党によって組織化され、国家のあり方として完成した。

日本の一途で清純な女子は、欧米に利用され一九四五年に滅ぼされ、そして、現在その亡霊は変質し、友愛精神などと叫びながら、その辺りをさまよっている。

そうそう、この映画のよかったのは、幕間の舞台裏が映されていることだった、裏方が大急ぎで舞台を作り変えているその臨場感に変に感動した。また歌い手や指揮者のインタヴューも面白かった。彼らの人となりが出ていた。インタヴュアーの女性に漲っている積極性が、METのひいてはアメリカという国の自信を感じさせた。


  
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テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

「神々の黄昏」幻想

 夜ベッドに入ってから、久々にFMをつけた。と懐かしい音楽が流れてきた。おお!そうか、もう暮れだ、例のバイロイト音楽祭だ。
 昔よく聴いていたものだ。これを聴かなくなってどれほど経つだろう。・・・しかし、ワグナーを聴くともうけない、捕らえられて身動きできない。夜一人で暗い部屋の中で聴いていると、苦しくなって不安に襲われる。

 ワグナーを聴くと、いろんな言葉が浮かんでくる。インセスト・タブー(近親相姦)、神話的根源的不安など、根本的に生存を脅かすような言葉ばかりだ。この『ニーベルンクの指輪』第三夜にしても、結ばれる二人は英雄とその叔母だ。犯してはならないことを犯すこと、そこにはあまりにも甘美なものがあろう。小生はこの序幕の二人の音楽を聴くと、全身鳥肌。もう魂がぐじゃぐじゃになってしまう。完全なエクスタシーを味わう。『トリスタンとイゾルデ』なんて怖くて聴けないよ。

 神話というものの根源性。それはかならずタブーを犯すことがら始まる。アダムとイヴは禁止の実を食べる。イザナギもイザナミの言を破る。オイディップスは父を殺し、母を犯す。聞くも涙、語るも涙の、お互いを知らずして交わる兄妹軽王と衣通姫や忠臣トリスタンと王妃イゾルデの物語。・・・

 われわれ人間が社会をなして生きていかなければならない不思議な宿命。小生は想像する、理由がどうあれ殺人などを犯してしまった人の心の内を。たとえ、ばれずにいたとしても、いやむしろばれないがためにいっそう、どんなに根源的な孤独感に苛まされているか。社会から離脱してしまうというような根源的な感覚。宇宙の果てに飛んでいっても、これほどの孤独感というか離人感はないであろう。ことはもっと人間存在の本質に関わるのだ。どんなにか、どんなに細い糸ででも社会と繋がっていたいと渇望することか。と想像する。

 どんなに世の中が進歩しようと、法整備されようと、神話の問いかける問題は生き続ける。百年くらい前、フロイト先生は神話と神経症の関係に言及したが、われわれの心の中は深い闇であることは誰でも感じる瞬間があるだろうし、いわゆる一流小説家はその辺を巧みな手腕で追及する。      
                                    

 ワグナーの楽劇というと、また小生はドイツ民族の運命なんて言葉も浮かんでくる。ナチが政権を取ったときの映像をテレビなどで見ることがある。小生は、あの第一次世界大戦後、まったく疲弊してしまったドイツに希望の光を与えたヒトラーに向かって大衆が歓喜に咽んで「ハイル・ヒトラー」を叫んでいるところを見て、大いに感動する。あのときこそ偉大なドイツ民族の最高の瞬間だったと感じる。その後、徹底して検閲を行うナチズムは大衆操作にワグナーの『マイスタージンガー』を利用したという話を聞いたことがあるが、尤もなことであると思った。

 しかし、彼、政治的天才、誇大妄想の狂人ヒトラーとて人間だ。カラー映像で、山荘にエヴァ・ブラウンと映っているところを見たり、ベルリン陥落直前に地下室で二人して自殺したという話を聞くと、ナチズムの根底にあるもの、偉大なドイツ民族の底流を流れるものを感じる。それは一種の理不尽なほどの内面性・・その本質は『マイスタージンガー』ではなく『トリスタンとイゾルデ』に露骨に出ているのではないか。・・・ドイツ的なるものとはなにか?・・そんなことお前に分かるかと言う声が聞こえてくるけど、小生の思うに、ニーチェやリルケに感じる余りにも土臭い、くそ真面目な、あの比類のない繊細さとでもいうか・・・ラテン民族にはないもの・・・ルターの血・・・
 そこのところを一人悩ましく空想していろいろ本を調べていた頃、トーマス・マンのエッセイに出くわし、そこに、小生と同様の感想が書かれていた(小生の誤解だったかもしれない)のを目にして、わが意を得たりと思ったことを想いだす。

 そしてまたこんな風にも思う。偉大なものは、また恐ろしいものを蔵していると。軽佻浮薄の方がいいのだ。殺人などとは比べ物にならないが、不倫というものがある。いまどき珍しくもないらしいが、ただ本来そうおおっぴらに言うことはできないはずである。もっとも、それを逆手にとって売名に走る三流タレントがあるが。しかし、本来惚れてはいけないような相手に惚れあって付き合うということは、当人にしか分からない深刻な一種の反社会性があるはずだ。そこに人間の心の闇がちらっとのぞく。

 それを、週刊誌は誰某が不倫したのどうのと安っぽく書きたてる。人は噂話が大好きであるから。それはまあ無邪気でいいが、しかし当の本人までもが、痛切であるべき自分の気持ちや行為を週刊誌並みの言葉で省みるのはどうか。浅く、刹那的で真剣みのない、情熱もなく、危険もなく、まあ安全でいいが。



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       ペコリ                            

テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

ロシアとバレー

kontaさんの疑問「どうしてロシアに優美なバレーが発達したのか?」
 どうしてでしょうね。小生もじつはそこが大いに疑問なんです。いつもロシアのバレーを観ると感じるのですが、あの動きの優美さ、八頭身の華奢でしなやかな体、白い肌の美しさ、バレリーナの項には惚れ惚れします。(この頃はバレーの入ってないオペラなんて、というフランス風の悪趣味が身についています)。
 ツァーと農奴のロシアの歴史のあの暗さ。現代でもペレストロイカ以後に露骨に顕れたロシア人の陋劣、そしてまたプーチンの独裁を必要としているロシアの現状。
以前感じたんですが、欧米に比べてロシアのオーケストラの音の無骨さ、土臭さは、(小生はこれを好みますが)ウオッカで酒焼けした初老のおっさんを彷彿とさせます。それに反して、バレーの優美さはどうでしょう。
 じつは今回も観ながらその矛盾を考えていました。なんであんな国に?!あの優美さは、生物学的な・・というか自然淘汰の結果なのだろうとかと想像しました。つまり、もともと北方特有のすらっとした体型への好みがあって、ロシア人の異常に激しい性欲がより女性を美しくし、また土臭いスラヴ人は非常に強く西洋の洗練に憧れ、その行き着くところ本場をしのぐまでとなった。つまりエルミタージュ美術館ですね。ロシア文学を読んでいるとそんな風にも感じます。・・・しかし謎です。
・・もっと深くロシアの歴史を知れば判ってくるかもしれませんね。
だれか教えて欲しいですねぇ、ロシアとバレーの関係。


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テーマ : バレエ - ジャンル : 学問・文化・芸術

「エフゲニ・オネーギン」を観る

 レニングラード歌劇場によるチャイコフスキーのオペラ「エフゲニ・オネーギン」を観た。
 今回は、このオペラはなかなか纏まっている、無理のない筋の運びだと感じた。
 音楽はもちろんチャイコフスキーの香りぷんぷんだけど、感傷的でないのがいい。19世紀後半のオペラはすべて多かれ少なかれワグナーを意識していると思われる。どんなにワグナーに反抗しようとも、やはりその影響から逃れることはできない、と聴いていて思った。もっとも小生が勝手にそう感じるだけかもしれないが。タチアナ役のソプラノはなかなかよかった。
 この作品はもちろんロシア国民文学の祖プーシキンの同名の小説のオペラ化だが、この作品名の主人公オネーギンはいい加減な、というか親戚からの遺産で生きている、女たらしの高等遊民。この男にぞっこん惚れる田舎の小娘タチアナはオネーギンに適当にあしらわれ傷つけられる。しかし後に大貴族の奥方となった立派な!タチアナに今度は心奪われるオネーギン。彼はタチアナに接近するが、人妻の身であるから一緒になれないと彼女に拒否され、失意のうちに己を呪う。
 ドストエフスキーは、タチアナこそロシア的魂の勝利であり真の主人公で、作品名は「タチアナ」であるべきだ、といったことは有名。もっともドストエフスキーはオネーギンの百倍くらいいい加減な、そしてもっと悪質な男であったと想像する。ただ一つの違いはドストエフスキーは物書きの天才であった、という点だ。
 チャイコフスキーの音楽の憂鬱は、やっぱりロシアの憂鬱じゃないかなぁ。なんというかスラヴ人が西洋人の仮面をかぶったところで、やっぱり西洋人には成りきれない苛立ち、というよりも、そんな仮面をかぶろうとした己の卑しさにたいする苛立ちと諦念かな。ペテルブルグの知識人は顔立ちは西洋人だが魂はスラヴである高等遊民なのだ・・・。
 それで思い出すが、わが国で高等遊民を描いた憂鬱人といえば漱石がいる。わが国の明治時代にも、19世紀のロシアに似た一面があったのだろうか。しかし、漱石の青春小説に比べるとロシアはなんと巨大なものを背負っていることかと感じる。あまりに重すぎてあまりに悲しすぎて彼らは押しつぶされている。
 なにせ、日本はずっと古くから地に足がついた固有の文化の伝統があったし、明治時代には何といっても「坂の上の雲」という明るい面があったからなぁ。


    

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仮名手本忠臣蔵を観る

歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」を観た。(大きく分けて前半)

何時ごろからか歌舞伎の観客もクールになって、せっかく役者が見えをきっても、「成駒屋!」だの「松嶋屋!」だの掛け声を掛けなくなったな。拍手はするけど。みんな恥ずかしいのかな。ってことで、小生はいつもここぞというところで声を掛けてやる。

ところで、これを観ながら浮かんできた二つのこと。

一つは、やはり幕府の秩序維持コントラ庶民の感情。この演劇があの赤穂浪士討ち入り事件後40年以上経っていたとはいえ、また背景を南北朝の時代設定にし登場人物の名前も変えていたとはいえ、誰が観ても赤穂事件だと判る、にもかかわらず幕府は上演を許可していたということそのことがすでに文化というものの何たるかを表しているのかな・・・ともあれ、

法を曲げてはいけない(徂徠)も尤もだし、四十七士は主君への忠義をよくぞ守ったというのも尤もだし、将軍綱吉は四十七士の処分を即決できなかった。そこで寛永寺の何とか親王にお伺いをたてにゆく。義士らの行為に共感していた親王ではあったが、曰く「四十七士は切腹にすべきでしょう。そうすれば忠義の物語として世の鏡となって残る。もし生かしておいて、後に一人でも汚濁にまみれるようなことをしたら、光が消える、残念である」などと。それで綱吉は決断したという。
この親王の解決はじつに深慮である。美学的解決である。われわれ人間が生きている所在を、それによって生きている世界を明らかにしている。ここにロマン主義の面白さがある。三島由紀夫の切腹に通じる解決だ。

もう一つ浮かんできたことは。
忠臣蔵は、平たく言ってしまえば、親分同士の喧嘩を子分が復讐した事件に過ぎない。浅野内匠頭が、かっとして刀を抜いた。そのとき自分を失っていた。激情の波にさらわれたのだ。ところで、かっとして前後を忘れるようなことをしたことは、誰でも一度や二度はあるだろう。このとき、自分とは何か?波に飲まれたというよりも、強い感情そのものが自分ではないのか。翻って普段経験している自分とは何なのか。そのような実体があるのか?じっさいは、知覚や記憶といったあれこれの映像(形や色彩)、音、臭い、が去来しているだけではないのか?快いあるいは苦い様々な感情が流れているだけではないのか?一定不変の自己などとは、実体のない記号に過ぎないのではないのかな?・・これは実にフュームの懐疑したところだ。このいわば自己解体に対して、やきになって一つの解決を与えたのがカントだったか・・。西洋にはなんでこんな自己とか神とか時間とかなどという問題に一生を費やすほどの哲学者が大勢いたのか。この真っ直ぐに、そして執拗に問う姿勢は、ほんとうに凄いな。まねできないね。




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テーマ : 観劇 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『ドン・カルロ』を聴く

ミラノ・スカラ座公演『ドン・カルロ』を観た。
このオペラを一度観てみたいと思っていた。噂にたがわぬヴェルディの傑作だと思った。
男女の、王と教皇の、王と臣下の、友の、宗教上の対立が絡み合って展開する。この複雑な諸関係を見事に処理しているベルディの才能天晴れなり。小生はふと三島由紀夫の『鹿鳴館』を連想した。
それにしても、このオペラを流れる暗い、沈鬱なトーン。一貫して流れる王の憂鬱。
それはハプスブルグ・スペインの衰退を、キリスト教文明の必然の展開を暗示しているのかな。

開演前の日中、上野をぶらぶら、寛永寺と徳川慶喜の墓参り、そして博物館をゆっくり回った。
慶喜さんは将軍になってから何を考えて生きていたのだろう。幕末、西欧列強の脅迫に立ち向かう術もないまま、革命の準備をしなければならなかった時の将軍の気持ちは?ここには諦念があるかもしれないが、憂鬱はない。革命前ってそんなものか。

博物館。今回はガンダーラの仏さんたちの顔はみなとても優しかった、また「バコウハン」の緑青色が常よりも淡く透明であった。




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テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

神楽を楽しむ

淡路のイザナギ神社で催された三大神楽祭りなるものを見てきた。

まずは太鼓の合奏から始まった。天を地をとよもすような太鼓の響きは、普段は静寂きわまる神社境内を動かし、このときばかりはイザナギ命もおどろいて神殿から出てこようというものである。大きな杉の木の天辺にいたカラスも何事かと驚いているように微動だにしない有様。

地元淡路の神楽は巫女神楽で、四人の若い巫女が、鈴や榊あるいは御幣を手に舞う。このかわいいシャーマンたちの旋回によって観客は観客でなくなり、神の息吹を宿した未分化の共同体になる。

次に、出雲のスサノオのヤマタノオロチ退治の物語。スサノオの踊りと語り、太鼓や笛と歌。なんというおどろおどろしさ。すべてが大迫力で、原始的な荒々しさ。オロチ役も動きが多く大変でしょうな。老夫婦と櫛名田姫のお面も素朴で惹かれる、スサノオのお面は能のベシミに似ていると思った、どことなく可愛い。

高千穂の神楽は、エロティックな笑いに満ち満ちていて、これぞ里神楽の典型ではないか、われわれ里人の共感するところである。

翻って思うに、能の面や衣装や動きは様式美の極致であり、神楽がバロック的な力の充溢とすれば、能は古典主義の完成だな。




テーマ : 伝統芸能 - ジャンル : 学問・文化・芸術

真夏のオリオン

何年ぶりかで映画館に入った。観たのは「真夏のオリオン」
それにしても、映画が始まるまで、近日上映の宣伝なんかが、がんがん大音響を伴って、次から次に映し出され、あれには参ってしまう。大疲れ、気持ち悪くなったよ。・・・まっ、しょうがないか。

最後に主人公たちが死なないのが物足らないが、まあそれは本質的な問題ではない。
初め若い女性(主人公の艦長の孫)が、あのときまさに経験していた鈴木さんという老人(潜水艦の乗員で最年少)に語る「アメリカと日本は戦争していたんですね。ということは、殺し合いをしていたのですね。それなのにどうして、敵兵がもっていた一葉の紙(楽譜)を大事に長らくもっていて、こちらに送ってきてくれたのでしょう・・。」
鈴木さん答えていわく、「ただ言えることは、われわれはあの時みな一生懸命だったってことです」と。
この映画の中心思想は、この問答に尽きる。

戦争のみならず、あらゆる社会現象の生起は、どうしようもない、人知を超えたものだ。しかし、われわれがそれに立ち向かわねばならないとき、泣き言をいっている暇も、空想をしている暇もない、全力で〈一生懸命〉やるだけだ。そして、戦争という異常な状況にある時でも、人間は理性も感情もじつに正確に働くものである。

それにしても、あの細身の艦長は、ちょっと優しすぎるな・・まあ、映画だからいいか

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