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経典の音楽

平安時代の初めの円仁という偉いお坊さんが、阿弥陀経を読誦(どくじゅ)するときに、どうも声音だけでは面白くないと思って、尺八で伴奏させた。ところが、このお経の中の一節「成就如是功徳荘厳」という所が、うまく吹けない。読誦と合わない。それで、比叡山にあるお堂の南東の扉にむかって吹いて練習をさせていたら、空中で音がした。そしてその音が告げるには、「如是」という部分に〈や〉という音を加えて「如是や」と誦えよと。それで、うまくいったようで、以後〈や〉を加えて誦えるようになった。

 これは、『古事談』にある話です。この話からあらためて思うことは、経典を読むのに、ただ読んでいてはいけない、音程を上げたり下げたり、引きのばしたり詰めたり、抑揚をつけて、場合によっては読み方を変えたり、要するにそれらしい、そのお経の内容にふさわしい歌になるように詠むのがよい、ということですね。

 思いみれば、イスラム教の町では至る所で、明け方などに、あのコーランの一節と思われる文句が歌われているのを、テレビで耳にすることがよくありますね。いや、ぼくはあの歌がとても好きです。アザーンていうのかしら、じつにうっとりさせる、よい声で、われわれの耳にはやはり中東のリズムに聞こえますね。きっと祈っている人は、心から祈っている積りでしょうが、それが歌(音楽)に聞こえるのですね。歌はほんとうに嘘をつかないなと思う。つまり、歌っている内容は知らないけれど、あの節回しはあの辺りの民族のものだな、って思う。ということは、ああいう節回しでもって表現せざるを得ないことこそ、あの民族の魂なんだな、と思う。

 ユダヤ教やキリスト教の賛美歌なんかも、じつに素敵な音楽に聞こえる。とくにキリスト教音楽は、多様に展開して、いわゆる西洋音楽になりますね、その一つのmilestoneは、有名なバッハの「マタイ受難曲」ではないでしょうか。

 ところで、お経ではないけれど、神話はどう語られていたのだろうと想像する。ホメロスの物語は、どういう風に語りあるいは歌い継がれていたのだろう。とても知りたいのは、わが国の上代の人たちは、『古事記』の神話をどのように語り継いでいたのだろう。冒頭の「あめつちの・はじめのとき・たかまのはらになりませる・かみのみなは・あめのみなかぬしのかみ・つぎに・・・」これをどういう風に語って(歌って)いたか。ああ、テープレコーダーがその時代に無かったのが残念だ。

 上代の人たちは、神話に関して、文字や意味の分析に頼って衰弱してしまったわれわれとは全然違う、もっと豊富で直接的なものを感じて生きていたに違いない。文字という、いわば余計なモノを必要としない、語りだけで充溢していた生、日常そのものが感嘆であるような生を、大昔の日本人は生きていたに違いない。

少なくとも、そのような想像をせずに『古事記』を読んでも、その意味だけを捉えようとして読んでいても、それこそ何の意味もない、間違いだらけの捉え方になる。現在のわれわれの陥り易い読み方を捨てて本文に当たるのは何と難しいことかと、30年以上をかけて『古事記伝』を書いた本居先生も口を酸っぱくして仰っています。



     

     
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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

山背大兄王

山背大兄王(やましろのおおえおう)は聖徳太子の息子さんです。推古天皇の後継者の一人として目されていましたが、蘇我氏の擁立した田村皇子が皇位に着きます(舒明天皇)。

 その12年後、舒明天皇が崩御されますと、三人の有力な後継者候補がありました。山背大兄王と古人皇子(ふるひとのみこ)と、それから大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)でした。

 蘇我蝦夷・入鹿親子は、山背大兄王を決して皇位につけたくない、中大兄皇子もできればつけたくない、蝦夷の甥にあたる古人皇子をつけさせたいが、反発も大きそうだし、中大兄皇子を差し置いて皇位につけるのは難しそうだと考え、とりあえず、舒明天皇の皇后に天皇の位を授けた(皇極天皇)。

 この御代に至って、蝦夷・入鹿の専横がめだってきます。あまりの振る舞いに、あるとき舂米(つきしね)女王が「天皇でないお前らが、どうして勝手に政を行おうとするのだ」と注意するのです。この舂米女王は聖徳太子の娘さんで、山背大兄王の異母妹でもあり、奥さんでもあるのです。

 聖徳太子には4人の妻がありました。その中で、太子がもっとも寵愛し、多くの子をなしたのが、膳(かしわで)さんという比較的身分の低い出の妻でした。この膳さんが太子の最後まで、まあ生活を共にしたのです。おそらく、あの理想家の太子の心にもっとも適った女性だったのではないでしょうか。そして、舂米女王はこの膳夫人の長女なのです。

 どうも彼女は、幼いころから父の理念を受け継ぎ、自分がいわば宗教的太子一家を支えていかねばという思いが強かったのではないでしょうか。そして夫の山背大兄王は、やはり父の影響を受けすぎと言えるほどで、むしろこちらは仏教的無抵抗を徹底させる人だったのです。性格の強い彼女が蘇我氏の横暴をたしなめたのでした。

 皇極二年10月、突然「蘇我入鹿はこっそり策謀して、山背大兄王一家を滅ぼして、古人皇子を天皇にしようとした。そのころ、こんなわらべ歌が流行った、〈岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁〉 蘇我臣入鹿は、山背大兄王一族の威光が天下に行き渡ってるのが気に食わなくて、自分が君主になろうとした。」という記述が『日本書紀』に出てきます。

 この山背大兄王一族というのは、上宮王達(かみつみやのおうたち)と書いてあるのですが、すなわち斑鳩宮(今の法隆寺東院あたり)に住んでいる人たち、すなわち聖徳太子一族なのですね。雰囲気としては、どうもこのころ、聖徳太子は伝説化されつつ、かつその教えは一般の人々に行き渡っていき、いっぽう現実の政治家はそれを理想論として避ける傾向にあったのではないでしょうか。

 そして、山城王一族は、頑なに太子の理想を守る純潔でややもすれば排他的な秘密結社のように、飛鳥中央政府からは見られていたような気がします。この一族の中心人物が山背大兄王だった。蘇我入鹿らは、この不気味で目ざわりな一族をまず滅ぼすことにしたのです。

 入鹿は、手下に命じて斑鳩宮を襲わせる。山背勢の従者たちは果敢に戦った、その間に山背大兄王は妻や子供らと共に生駒山に逃げる。敵は斑鳩宮を焼き、退却する。大兄王らは数日間、山の中でひもじい思いをして過ごす。このとき、側近が主張するには、「伏見や東部方面には仲間がたくさんいます。今すぐ馬で出かけ、彼らを結集し、軍を立てて戦えば、入鹿軍に勝てるはずです」と。

 ところが、山背大兄王はこう答えたのです、「お前の言う通りであろう。しかし、私の身を守るために、多くの民百姓を使役するのは我が意ではない。もし、戦いに勝ったとしても、そのために父母を殺されたと、後に言われるのがイヤである。戦うより、わが一身を捨てて国の平安をきたせば、それも立派な男の道ではないか」と。

 それで結局、山背大兄王一族は山から斑鳩に帰還して、その寺で全員(一説に23人)自殺するのです。これでもって、聖徳太子の死後22年目にして、太子一族は消滅します。『書紀』は、こう続けています。

 〈このとき、五色の幡と蓋(きぬがさ)、妙なる音楽を伴った天女らの舞が、空から現れて寺に降りてきた。人々はそれを見て感動した。しかし、入鹿が見るとただの黒雲になってしまった。〉磔のイエスが息を引きとったとき天幕が裂けたというのとはだいぶん趣が違いますね。

 入鹿のお父さんの蝦夷が、これを知って、「入鹿の奴、愚かなことをしやがって、そのうちにおまえらも滅ぼされることになる」と言いました。

 翻って思うに、山背大兄王はあまりに仏教的理想主義者であったのですね。戦うことより死を選びました。しかし、いろいろ疑問が残りますね。死ぬ前にどうして一族を引き連れて山を彷徨し、下山して皆を道連れにしたのだろうか。早く一人で死ねばよかったではないか。また、その前に、どうして入鹿たちに、正々堂々と己の立場を主張しなかったのか。大義はこちらにあるはずではなかったのか。父聖徳太子の威光もまだ残っていたはずで、側近が奨めたように、周辺の仲間を結集すれば、戦いにも勝てたはずではないか。

山背大兄王一族の消滅は、聖徳太子自身が蒔いた種から生じたように思われます。時代を超越した人。あれほどの仏教帰依者、あれほどの理想家、あれほどの行動家から思想家への純化。その遺産を、たとえ優秀であったとしても普通人であった息子が背負わされてしまった運命を思うのです。彼は最後まで迷った、だからこそ、どの道を選ぶにせよ潔さがなかったのだと思います。

政治に善悪はないと言われますが、にもかかわらずわれわれは善悪を気にせずに生きてゆくことができません。それをいいことに、現実政治ではそういう人間の性質がたくみに利用される。政治に利用された瞬間、それは善悪ではなくてプロパガンダに堕しますね。

しかし宗教は個人の心の善悪を深く追求します。ところで誰か答えてほしい、自分の感情に忠実なることは、たとえば、家族を殺した者にたいして怒り、復讐することは善でしょうか悪でしょうか。さあ、これを考え出したら、人は世界宗教の入口に立っている、そして聖徳太子は、例えばその疑問から出発したのです。そして、その遠い帰結は悲惨な一族全滅でした。





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『勝鬘経義疏』5

しかし、『勝鬘経義疏』についてどういう風に語ればいいのだろう。小生にはこの混沌とした全体を上手くまとめて語れる能力はない、ということがはっきりしている。しかしここで最も重要なキイワードだと思われる〈如来蔵〉なるもにちょっとだけ触れてみよう。

 勝鬘夫人はこの世において初めて仏の声を聞くことができた、という。聞くとは理解するということであるが、ことさら聞くという言葉をつかうのは、精神の態度が大事なのであって、人は聞くためには己をむなしくするのみならず、聞こうとしなければならない。

 すると仏が現れる。夫人は仏を讃え、仏の救いを乞う。仏の言葉に夫人は理解を深めてゆく。最終的に〈一乗〉に目覚める。〈小乗〉は、ただ自己のさとりだけを求めて、他者を教化するということを避けるが、〈大乗〉は、自己がさとりに至ることを求めず、人々を悟りへ渡して救うことを第一とする。さらに〈一乗〉はさとりの諸段階を通り越してしまう。

 するとそこに如来蔵という理念が表れる。如来蔵は本来、深遠で超越的な清浄そのもので、われわれの認識の対象ではない、と思われるのであるが、実はわれわれの煩悩の中に隠れて存在している。煩悩の外にあるのではない。

 そして、ここにおいては煩悩を滅するとは、おそらく小乗で説かれた、自力のよる煩悩の壊滅、つまり有から無へという相対的なもの、時間性においてあるもの、ではなく、そもそも始まりも終わりもない、時間性を超えたものだ。

 もしこのとこを疑わないならば、如来蔵が露わになった姿の法身を見ることも確信できるのだ。法身とは真理を身体とする仏のことである。それは形はないが目に見えるものである。

 如来蔵とは、過去・現在・未来を超えたもので、生命そのもの、この宇宙における人間種の根底を流れる生命の源泉とでもいうべきものだ。それは、個や我あるいはその生死、輪廻を超えていながら、そこにおいてある。

 またこういう言い方もできる。(この世的な)生死は人々の心の中でさとりの原因となりうる。その結果、如来蔵の潜在的存在に目覚めるが、その目覚めは、じつは如来蔵によるものではないか。

 人々はなにゆえ、この世でこの時間において生きながらえているのか。なぜ苦を厭い、楽を求めるのか。それは如来像の道理ゆえである。時間は流れる。では何に対して流れるのか。

 草木には迷いがなく、人間は迷うものだ。このことは人間は悟りへの道を歩むという本性があるということだ。これを根底で支えているものが如来蔵なのだ。だから如来蔵は人間の存在価値を保証している。

 では、どうして如来蔵は清浄なものであって、迷い穢れの煩悩の中にあっても、生死に染まることがない、ということが分かるのか。なぜなら煩悩は数限りなくあり、ときには非常に巧妙であって、これが善これが悪と分別しがたいことがあるではないか。

 それは事象をどのように見るかによって異なってくる。個別的実体として捉えるか、実体はなく生滅変化があるのみであるとするかによって、見え方が違ってくる。こんなに微妙な心の世界をわれわれは決定することができるであろうか。できない。われわれは仏性としての如来蔵を信じるしかない。

 理解力があるとは、究極まで疑うことができるということであり、だからそのような人は仏の信仰に進むことができるのだ・・・

  

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『勝鬘経義疏』4

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『勝鬘経』は、敬虔な仏教徒の両親をもつ非常に聡明な勝鬘夫人が仏法の信仰への道を、仏の導きによって歩んでいく過程を、仏との対話(とはいえほとんど独白の形式で)書かれた経典である。義疏とは、経典の内容の解説のことである。

しかし、『勝鬘経義疏』を読めば、それはたんなる解説というものではなく、解説の形式を借りて、矛盾や繰り返しをすら意に介しない太子の思想が燃え出ているのを感じることができる。

『義疏』は、中国の僧たちの『勝鬘経』解説をほとんどそのまま典拠にしている、という研究者がいるそうだ。が、そうかもしれないが、そんなことを言っても別に面白いことはない。以前触れた『十七条憲法』が、儒教、老荘、仏教などの夥しい古い書籍からの引用からなるということを中国古典の泰斗は証明するが、それはもちろん、学問的には必要な研究ではあろう。しかし、われわれ一般人にとってはそれだけではさして面白くないのである。

人間の行為を外から分析しても、それだけでは退屈なだけだ。例えば、100メートル走を科学的に捉え、諸々の骨格、神経、筋肉などの経時的変化の詳細をいくら積み重ねても、各走者の独特の推進力は出てこないだろう。そして、われわれが感動するのはまさにこの力なのだ。

われわれは、『十七条憲法』を断片の組み合わせと見てはなるまい。いわば太子の思想という推進力の軌跡なのだ。外側からではなく、内側から見れば、『論語』からの引用と仏典からの引用とが矛盾するなんてことはないし、言ってもしようがない。そして『勝鬘経義疏』を書けた人こそ『十七条憲法』を創れたと感じる。

   

『勝鬘経義疏』3

『日本書紀』の推古21年(613年)に、―この年は太子が『勝鬘経義疏』を完成した年であるが―、こんな記事がある。

太子が片岡山を通りがかったとき、飢えた人が道に倒れていた。太子は名前を問うたが、答えがなかった。太子は食べ物を与え、自分の着ている服を脱いで彼を被ってやり言った「ゆっくり休んで」と。そして歌を詠んだ―

〈しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥やせる その旅人あはれ 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ〉

明くる日、太子は飢えた人を見てくるように使いを出した。使者は帰って来て報告した、「飢えた人はすでに死んでいました」と。太子は大いに悲しまれ、その場所に埋葬し墓を作った。数日して、太子は近習に「あの飢え人はただの人ではあるまい、きっと聖人にちがいない」と仰って、ふたたび墓の所へ使いを出した。使いは帰ってきて報告した、「墓はそのままでしたが、空けてみれば屍はありませんでした。ただ服はちゃんと畳んで棺の上においてありました」と。そこでまた太子は使いに、服を取って来るように命じ、それを今まで通り着用した。人々は大いに驚いて、「聖は聖を知るということは本当なんだ」といよいよ畏まった。

後の人が尾びれを付けずにはおれなかったであろうこの話は、『日本霊異記』にも取り上げられているし、『万葉集』巻三の挽歌―

家ならば 妹が手まかむ 草枕
  旅に臥やせる この旅人あはれ

 が太子の和歌として載っている。

とにかく何より、『日本書紀』のこのあたりを担当した作者はよくぞこの話を残しておいてくれたと思う。

政治改革を断行してきた摂政皇太子が、道に倒れている乞食に食物と衣服を与えたという。これは驚くべきことであった。この記事を小生はとても面白く思うし、素直に信じられるし、またそうでなければ、『勝鬘経義疏』の迫力が半減する。




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『勝鬘経義疏』2

昔からいかなる部族にもその部族の神があったが、また大帝国をまとめるために新しい宗教を利用した為政者もいた。まず思い浮かぶのが、ローマにおけるコンスタンティヌス、イスラムのモハメッドや後のカリフ、古くはインドのアショカ王もそうか。

欽明天皇の御代に仏教が伝来してから数十年にして聖徳太子という人物が摂政としての地位に着いたのは、わが国にとってあまりに幸運であった。そういえば、その時はまだ国家というものはなかった。というか日本という国号もおそらく聖徳太子の業績の賜物であって、太子がまさにこのとき、国の統一のためには仏教を必要とすると感じたのも、またそのために大政治家蘇我馬子と軌を一にできたのも幸運であった。

太子は非常に短期間のうちに政治改革を行った。遣隋使派遣、小懇田(おはりだ)遷都、冠位十二階制定、憲法十七条制定、法興寺と金銅仏像制作、斑鳩宮に転居。勝鬘経や法華経の講義。目立った所だけでもこれだけのことを7年の間にやっている。(600~607年)

ところが、いつ頃からか聖徳太子は、仏教をたんなる国家統一のためではなく、本格的な思想の問題として取り組んでいった。すでに早くから彼の心を悩ましている問題があったからだが、それは、何故この世の中はこうなのか、そしてこの世の中でいかに生くべきかという問題である。仏教はその問題を考えるための格好の文脈を与えてくれた。

おそらく太子の目には、政治ではそう簡単に人の世は変わらないという思いが、痛いほどはっきりしてきたのだ。だからいつ頃からか、太子と蘇我馬子との間に隙間風が通うようになっていたのではなかろうか。馬子は、内面の思考に沈潜する太子がだんだんと疎ましく感じられるようになっていったのではなかろうか。

  

  

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『勝鬘経義疏』1

親鸞は聖徳太子を崇拝していたという。『勝鬘経義疏』(しょうまんぎょうぎしょ)は小生にとってじつに難解な本である。二回読んでも理解したとはとても言えないが、あきらかにこれはすごい思想家によって書かれたものであることは分かる。

 聖徳太子が仏典『勝鬘経』を講じたのは、推古天皇が鞍作鳥に命じて、例の国産初の金銅仏を法興寺に納めたのと同じ年、619年(推古19年)であった。

 続いて太子は『法華経』を講じ、天皇から播磨国に水田百町を賜り、そこからの収益でもって法隆寺を建てたと聞く。

 今あらためて思うことだが、今われわれが読めるわが国の本でもっとも古いのは『古事記』ではないということだ。太子が著した三冊の仏教思想書は『古事記』より古く、また法興寺や法隆寺建造は伊勢神宮より古いということである。

ついつい忘れがちなこの事実の意味するところは何か。民族は他者を受け入れ模倣して初めて己の何たるかに関する自覚と追求を可能にするということなのだろうか。

太子が三義疏を書いたのは当時の漢文をもちいたのであろう。『古事記』が書かれたのは、それからちょうど百年後である。

そして、『古事記』は、縄文・弥生の昔より祖先たちが育んできたいわゆる〈やまとごころ〉を表記するのに漢文を以てして可能であろうかという深刻な問題意識をもって書かれていることを、宣長が発見したのは、それからさらに千年後であった。

こうは言ってはいけないだろうか。聖徳太子という思想家が衝撃を与えたことによって、民族の無意識の深い古層が亀裂から顕れてきたと。





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仏像来入

キリスト像が描き始められたのと同じころ、仏像が造り始められた。パキスタン北部のガンダーラ地方においてである。その昔ギリシャのアレキサンダー大王の東征がこの地まで及んだ。その後ここで生き続けたギリシャ文化とインド発の仏教信仰の波とが出会った。

 それまでは仏教の信者たちは、仏陀を直接表すことができなかった。代わりに、ストゥーパ(塔)、菩提樹、仏足跡などで表していたようだ。他方、ギリシャ人は目に見えるものしか信じなかった民族だ。彼らにとって神々も人も美しく表現されるべきものだった。

 仏教の信仰とギリシャの眼との幸運な出会いによって、夥しい数のガンダーラ仏が生まれた。顔はやはり現地(パキスタン)の人たちの顔つきであるが、わずかに下がった瞼の下の目は永遠の静謐を湛えている。肩から流れる衣紋はギリシャ彫刻の女神のそれからきたともいわれ、束髪は仏陀の叡知のシンボルとも言われる。

 この仏像と僧侶たちは、人間の欲望の象徴である諸々の商品に伴って、シルクロードを東へ東へと流れて行った。仏教信仰は、仏像のもつ視覚的威力によって言語的障壁を乗り越え、アジア全域に広がっていった。

 多数の仏教書が漢訳されて東アジアに伝わったように、仏像もその地の似姿で作り変えられていった。そして日本に百済から初めて仏像がもたらされたのが、欽明天皇の御代538年あるいは552年であった。

 『日本書紀』には、欽明天皇は、仏法の素晴らしさをお聴きになって大喜びされていわく、「西のとなりの国(百済)がくださった仏像の姿はじつに端正だ。未だかつて見たことがない。われらも崇拝すべきであろう」と。

 それに応えて、蘇我稲目いわく「その通りです。世界の国々は礼拝しています。わが国も遅れてはなりません」。それにたいして、物部尾輿(おこし)たちいわく「いやいやわが国には従来からわが国の神々がおります。いま外国からやってきた神を礼拝するようになるとわが国の神が怒りましょう」と反対する。

 その後、疫病など祟りがあったりして、紆余曲折するが、587年ついに廃仏派の物部守屋陣営と崇仏派の蘇我馬子陣営との戦闘が起こる。このとき馬子軍に参加していた聖徳太子は、白膠木(ぬりで)を切って四天王の像を作り、「もしわれらを勝たしてくれましたなら、必ず四天王のために寺を建てます」と誓った。その御蔭もあってか、馬子軍が勝利する。

 この記事を信じれば、二つのことが分かる。一つは、もうこの頃には、日本人が木を切って四天王を作ることができるほど、仏像や工人が朝鮮半島から来て定着していた、ということである。

それからまた、太子ほどの人でも、初めは仏教信仰は、仏陀の解脱などとは遠く、やはり現世利益を求めた、この場合、戦争に勝たせてほしいと願った、ということである。あらためて思うに、いかなる宗教の発生も現世的な欲望というか、欠乏の不安からである。それはどうしても祈りの形式をともなう。

これ以後、馬子は尼僧を百済に留学させたり、法興寺建立を始めたり、精力的に仏教振興にはげんだ。

 593年、推古天皇即位。聖徳太子は摂政になるや、ただちに四天王寺を建てた。596年、法興寺竣工。しかし、不思議なことに、この寺の金堂に納めるべき仏像については、この時点での記載はない。

 605年、推古天皇は、鞍作鳥に命じて銅の仏像を造らせ、翌年完成する。これが国産初の本格的仏像のようだ。そして、これを法興寺金堂に納めようとするが、ちょっと変なことが起こる。

 「丈六の銅の像を元興寺(法興寺)の金堂に坐せしむ。時に仏像、金堂の戸より高くして、堂に納れまつることを得ず。ここに、諸の工人等、議りて曰く、『堂の戸を破ちて納れむ』といふ。然るに鞍作りの鳥の秀れたる工なること、戸を壊たずして堂に入るるこを得。」(『日本書紀』推古13年、605年)

 寺が建って9年もしてから、そのための仏像を造れっていうのもなんだし、なかなか上手く入らなかったというのも変だな。まあ、それはおいといて、この仏像は、どんなお顔をしているのだろう、どんなお姿なんだろう、と想像していたが、この仏像は法興寺(今は飛鳥寺という)のいわゆる飛鳥大仏であるとのことだ。

 ネットで沢山の画像を見ることができる。北魏の様式だとかなんとか専門家の説明もある。しかし、ただじっと眺めてみよう。これが1400年前の日本人がもっとも崇拝した姿なのだ。

飛鳥大仏


  

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文字の力3

今回の展示品には、文字の書かれた木簡がえらく多いが、よくもまあ朽ちずに残っていたものだと感心する。湿地のような水分が多いところでは、木の腐敗を促進する微生物が繁殖しにくいそうだ。それにしても墨は千年以上経ても消えないものか。

 時は欽明天皇のころ(6世紀後半)、中国の律令制度を倣って、中央集権を目指していたころだ。政治家たちは、中国伝来の文字の持つ圧倒的な便利さを利用せずにはおれなかったはずだ。7世紀には役人は習字に習熟することを最も必要としたことであろう。

 さらにこの時代、仏教が伝わってくる。それは仏像と経典であって、経典も読まなくてはならない。僧たちもこぞって漢字の習得に努めたであろう。

 7世紀、8世紀の木簡は、儒教や仏教の経典、帳簿、荷札、手紙、日誌、借用書、漢字の勉強、和歌の練習板、として利用されたことが、読みとれる。それは何でも書ける、要するに今の紙として利用されたようだ。ということは、紙はまだ少なく、高価だったのかな。

 少しずつ地方の名前も表記するようになる。『続日本紀』の和銅6年5月2日に、「畿内と7道諸国の郡・郷の名称は、好い字を選んでつけよ。」とある。尾張は、一時は〈尾治〉と表記されていたようだ。木簡はどんどん出土されているらしく、それによって、当時の漢字表記の変遷がかなり明らかになってきている。


       

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文字の力2

ところで、日本人は漢字が入って来るまで、それらしい記号を発明できなかったのか、する必要を感じなかったのか。まあ、解らないことだらけだけど、あるとき中国から漢字というのがやってきた。『古事記』によると、『論語』と『千文字』が初めてもたらされたのが応神天皇(4世紀または5世紀?)のときとあるが、それは間違いで、『千文字』が書かれたのは6世紀らしい。ともかく漢字という複雑な記号の羅列なんかを見た事もない日本人にとっては、文字通り〈犬に論語〉だったろう。

 今回の「文字のチカラ」によると、日本でいちばん古い、三重県で出土した土器に書かれた墨書文字は、〈田〉である。弥生~古墳時代の墨書には〈田〉が多い。では、当時のこれを書いた人は、これを、どういうつもりで書いたのか。「た」と発音していたのか。どういう書き順で描いたのか。田んぼのことを意味して描いたのか。

 解説によると、当時の少数の日本人は、〈田〉という字の形が、お米とそれを作る場所に関係したことを表すということを知ったのだろう、そして、田という字の形に何か呪術的な力を、おそらく豊作の祈りをこめて書いたのだろう、と。

 呪術的な記号として漢字を用いた。古墳時代(4世紀)に中国のものを模倣して作られた青銅鏡(浜松出土)に並んだ記号は、中国の意味のある銘文ではなく、文字としては出鱈目の図形である。ただ、それぞれ異なった記号が並んでいるということに意味があるということは理解するようになった、という。

 中国渡来の文化人に手ほどきを受け、日本人が中国文書を自在に読めるようになる聖徳太子の時代までの300年間の進歩。古墳時代の中期(5世紀)造られたという七支刀、稲荷山古墳の鉄剣は明らかに意味のある文であることから、漢字は意味を示す文字であるということを認識していた。

 また昨年(平成25年)、石川県能美市の古墳から出土した須恵器に〈未〉〈二年〉と読める字が刻まれていたことから、5世紀末には、一般人もけっこう漢字を書けるようになっていたらしい。

 中国では、すでにそのころ文字は紙に書かれていて、『魏書』(3世紀)の〈東夷伝倭人条〉、いわゆる魏志倭人伝には、そのころの日本の様子や卑弥呼が書かれていて、おかげで面白い論争が絶えない。

 『隋書』(656年)によると、倭国には当初は文字は無く、木を刻み縄を結び文字の代わりとしていたが、百済から仏教を導入した後、初めて文字を使用するようになったと伝えている。これはどうも信じがたい。

 『旧唐書』(くとうじょ、945年)に、日本の国号が倭から日本に移行している。日本の主張を受け入れてくれたんだな。702年、遣唐使一行が楚州の海岸に到着した時に、現地の人々から得た感想に、

 「しばし聞く、海の東に大倭国あり、これを君子の国という。人民は豊楽にして、礼儀はあつく行われる。いま、使人を見るに、儀容は大いに浄し、あに信ならずや。」

 また736年に玄宗皇帝が聖武天皇に贈った勅書には、日本を「礼儀の国にして、新霊の扶くる所なり」とあるそうだ。

  
  
 

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17条憲法2

 梅原氏の考えをざっと書くとこうなる。冠位十二階においては、上から順に、徳・仁・礼・信・義・智となっている。中国の『隋書』倭人伝には、「倭(日本)には、内官に十二等あり、大徳から始まって、大・小の仁・義・礼・智・信がある」と、書かれている。しかし聖徳太子は、順番を徳・仁・礼・信・義・智と決めたはずではないか。おそらくこの誤り!は、当時の中国では、儒教の仁・義・礼・智・信という順番が当然であると皆が思っていて、まだ非文明国の日本人はアホな奴らだ!きっと誤って使ったのだろう、直しておいてやるわ、とわざわざ書きなおしたに違いないのだ。

 余計なお世話とはこのことだな。しかし実際は、漢籍に精通した太子が間違うはずはない、そのうえ仏教にも打ち込む太子が考えた末に順番を変えたのである。彼の深い志が解らぬお前らの方がアホなのだ。もっとも、道教の文献の中には太子流の順番もあるとのことだがね。

 出典の思想にあまりとらわれずに、第一条から第十七条までざっと見ると、まず第一条は、何事を決めるのにも、仲良く話し合え、自分の論を絶対正しいいと思い込んで、相手を攻撃することなかれ。まあ、とにかく態度を和らげること。→態度の推奨

 第二条は、仏教の教えによると、すべての人には善心があって、この教えを信じて精進すれば、よい人となりうる。→個人の心の問題

 第三条は、天皇というリーダーの言うことに従え。そうでなければ、秩序がたもてぬ。→現実的、法的強制

 第四条は、上の者も下の者も態度の基本を礼とせよ。→態度の推奨

第五条は、役人は、欲望を捨てて仕事にはげめ。百姓の訴えは一日に何千件とあるから、それに対処するに忙しいはずだ。賄賂を受け取と正しい裁きが出来ない。→現実的、法的強制

第六条は、勧善懲悪はもっともだ。人にへつらったり、隠れて人の失敗をそしったりするのは、国の乱れのもと。→態度の推奨

第七条は、職場では自分の与えられた任務にはげむこと。上に着く者がよい人か悪漢かで断然違ってくる。昔の聖人は上の地位にはそれなりの人を選んだという。→現実的、法的強制

第八条は、朝早く出勤して、遅くまで仕事をしなさい。緊急の処理が必要なことがある。→現実的、法的強制

第九条は、何はともあれ、他人を信じることが大事だ。疑ってばかりいると災いがやってくる。→心の問題

第十条は、怒るな。もし人の言動を見て怒れてきたら、ひょっとして自分の方に非があるのではないか、と疑ってみよ。→心の問題

第十一条は、功ある者に賞を与え、罪あるものを罰せよ。→現実的、法的強制

第十二条は、地方役人らは、百姓から搾取してはいけない。百姓の主は王(天皇)ただ一人であるぞ。→現実的、法的強制

第十三条は、役人たちは、その部署の仕事を全般的に知っていなければならない。たまたま病欠などの後、出勤してもすぐ仕事を続けられるよう、同僚は常に連携していなければならない。→現実的、法的強制

第十四条は、人を羨むな。とくに仕事人は自分より才能があると思われる人がいると羨んでしまう。じつは、そんなに才能がある人はめったにいないもんだ。ましてや聖人など千年に一人でるかどうか。だから、ばかばかしい嫉妬などしている暇があれば、一生懸命仕事をしてりゃいいの。→心の問題

 第十五条は、臣下は私心を捨てて、公の為に尽くそうとすべきである。私心があるとどうしても他人を恨むことになる。そうなると、ついに公の制度を壊すことになる。これは、初めに言った和の精神ですよ。→態度の推奨

 第十六条は、百姓を使うときは、農作業や蚕作業のない、比較的暇な冬にしなさい。→現実的、法的強制

 第十七条は、小さな事柄はよいけれど、大きな事柄に関しては、独断でものを決めるな、必ずみんなで議論して決めること。→現実的、法的強制

 まあ、こんな風に言ってしまうとあぢ気なくなるけれど、言いたいことは、太子の作った憲法は、宗教的なというか各自の心を問題にしている部分と、日常こういう態度でおれば上手くゆくという、いまどきよく売れるハウツウ本『○○力』みたいな部分と、人の悪しき行いを阻止するために現実的なあるいは法的拘束をもうけるべきだというところと、混在していることだ。

 太子が、このような憲法を発布しなければならなかったほど、裏を返せば、当時の日本はもちろん法律はないし、役人らも、賄賂、中間搾取、サボタージュなどが蔓延し、太子はどうしてもここを改め、中央集権の秩序ある先進国にしたかった、と同時に、どうしてもそういう制度だけでは、結局上手くゆかぬ、一人ひとりの心の問題、いわばこの世を超えた世界からの視点(価値)、つまり仏教をどうしても取り入れなくてはならないと考えた。これほどの全般的改革、無謀とさえいえる、前代未聞の企てに彼は彼の全能力をつぎ込んだ。そして、このあまりにも一本気な姿勢は、初めから伝説的な太子の生涯の最後に付け加わった伝説―奇怪な死、を想わずにはいられない。
  

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17条憲法1

小生は生まれて初めて聖徳太子の作った憲法17条を読んだ。誰でも知っている「和をもって貴しとなす」から始まる短い憲法だけれど、研究者たちによると、そのほとんどの言い回しが、四書五経、その他の漢籍・仏典などから採られているらしい。

 そういうことを調べた研究者たちの博識および情熱に頭が下がるが、600年当時はすでに日本の知識人たちは、輸入されたすべての文献を完全に薬籠中の物としていた証拠でもある。

 第一条のところは、「一に曰く和らぐを以て貴しとし、逆ふることを無きを宗とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)る者少なし。ここを以て、或いは君父に順(したが)はず。また隣里に違ふ。然れども、上和らぎ下睦びて、事を論ふにかなふときは、事理(こと)自づからに通ふ。何事か成らさらむ。」

 福永光司先生によると、この第一条だけで、『礼記』『荘子』『左伝』『論語』『孝経』『論衡』『韓非子』から引用され、特に『荘子』からは二度の引用があり、『荘子』の思想の影響がつよいという。(梅原猛)

 これを聞いただけで、小生はもう勉強の意欲をなくしてしまう。しかし、『日本書紀』が書かれたのが、太子が憲法を作ってから100年くらい後なのだし、(とは言っても、おそらく太子が書いたものはそのまま残っていた可能性があるが)、そもそも太子は、外国語の言葉を引用したとしても、原典の文脈そのままで引用したとは限らないのではないか、とまあ、言い訳をつくっておいてから、自分なりにいろいろ考えようとしたのだけれど、これなかなか難しそうだ。

 それで、まあ搦め手から迫ってみよう。聖徳太子がこの憲法を発表する5か月前、前年の12月に冠位十二階を考案した。徳・仁・礼・信・義・智のそれぞれ大・小でもって十二、よく判るように色付け
した布を着けさせた。そして明くる年の正月一日に施行、諸臣たちの冠に着けさせた。

 こんな大胆な政治改革を断行した勇気たるやすごい。いままで、いい加減に仕事していた官僚たちの反発も烈しいものであったろう。よくやった、えらい、と拍手を送りたくなるな。そして三か月後、17条憲法発布である。ということは、憲法発布は、冠位十二階の理論的根拠を示すものであり、その徹底した理論は、そこいらの官僚や豪族の有無を言わせぬものであったろう。

 その翌年、太子は斑鳩宮(いかるが=法隆寺辺り)に移り、そこで『勝鬘経』そして『法華経』の研究に没頭すると同時に、小野妹子らを隋に送る。607年第一回遣隋使派遣とたぶん学校で習ったのではなかろうか。しかし、実際は600年にすでに遣隋使を送っているんだが、どうしてそうなっているのか、その問題は今は置いておこう。

 ともあれ、冠位十二階施行という現実の政治断行と仏典(この世を相対化してしまう法)の研究との間に、17条憲法発布があることに注意しよう。

 
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仏教伝来

 わが国へ仏教伝来の初出は、『欽明紀』の13年に、百済の聖明王が臣下のヌリシチケイを遣わして、欽明天皇に贈った〈釈迦仏の金銅像一体・幡蓋若干・経論若干巻〉を献上したという記事。

 そこには聖明王の解説も付いていて、曰く、この仏法は諸法の中で最高なのよ、難しいですよ、周公や孔子様だって知らないものなんだ。すごいでしょう。でもね、これを極めれば、悟りを得て浄土にいけるっちゅうぐらいだから、何でも思いのままよ。インドから伝わって、いまや朝鮮半島では大人気なんだ。

 これを見て、欽明天皇は欣喜雀躍、「おお、なんと素晴らしい教えなんだ! だが、これほどの物をわが国に導入するについて、臣下たちに意見を聞いてみるわ。」

 てなことで、蘇我稲目は、「もはや国際スタンダードになっている仏法を入れなければ、わが国は立ち遅れるよ」と、導入に大賛成。他方、物部大連尾輿(おおむらじおこし)や中臣氏らは、わが国は古来から八百万の神々を祀っている、外来の神様を拝むなんて、罰当たりな!」そして、蘇我氏vs物部氏の抗争が露わになる。

この崇仏派と排仏派との争いは、要するに外交がらみの政治闘争なんだけども、肝心の欽明天皇の優柔不断というか、何かすきっとしない態度が、気になるね。

『欽明紀』は、百済・新羅・高句麗の外交駆け引きと戦争の話ばかり、百済と新羅に挟まれた任那も巻き込まれて、結局うまいこと新羅に取られるけれど、まあ、昔から朝鮮人は賢いねえ、それにひきかえ日本人はおっとりしているというか、国際情勢に疎いというか。

百済が再三わが国に軍事的救援を頼みに来ているのに、欽明天皇はのらりくらり、何らかの政治的意図があってその御態度であればまだしも、どうもそうであるとは思えない。しかし家ではどう過ごされているの。皇后である石姫のほかに妃が四人。子沢山でいらっしゃる。失礼ながら数えさせてもらったら、記載されている子供だけで25人。そのうち側近の蘇我稲目の娘さんの子が20名。

こりゃ、将来不穏だね、蘇我氏の勢力が強くなるのは当然じゃない。次の敏達天皇苦労されますよ。

百済の聖明王が、仏像や有り難い法をわが国に献上したのも、もちろん王が篤い仏教信者だったけれど、深い政治的意図があってそうしたに違いない。当時の中国・朝鮮半島の緊迫した政治状況を知るに及んで、その意図が分かった。為政者のだれが善意だけでモノを贈るか。管直人じゃあるまいし。

梅原猛著『聖徳太子』を読んでいて、欽明紀に関する胸の中のモヤモヤが消散したな。

そして、欽明天皇が、蘇我稲目にこころみに仏像を安置し拝ましめた、ところが、疫病がおこり、広まった。物部・中臣連合は、それ見たことかと喜んで、天皇に仏像を捨てましょうと進言、欽明天皇「よきにはからえ」。

その後も疫病が、おそらく天然痘だったらしいけれど、続いたんだね。結局、欽明天皇も、次の敏達天皇もそれに感染して命をおとすのだけれど、立場によって理屈は何とでもつけられる。仏像を拝んだのがいけなかった、他方仏像を捨てたからいけない。

面白いのは、あれほどの仏教熱烈導入者の蘇我馬子が後に疫病にかかったとき、どうしたか。まず占いをしてもらったのだね、直接仏に縋ったのではなく、古来の占いでね。


  

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『古事記』編纂

今年の式年遷宮は、えらくメディアが騒ぎ立てて、おかげでお伊勢さんも大繁盛、けっこうけっこう。天照大神も何のこっちゃと、またこちらをそっと覗き見したいとおもほしめしたのでは。

あの神韻縹渺たる遷御の儀。あ~ぁ、その場に居あわせたかったなぁ。一ヶ月くらい前、見物できないかと電話で訊いたら、その夜は誰も入れません、とのことであった。しかし、じっさいは、三千人の特別参拝者が見守ったとあるじゃないか。この時ばかりは、政財界の大物とか有名文化人とか多額の寄付者とかが羨ましかったなぁ。小生おさない時分から何の才なく怠け者で、出世できなかったのが運の尽き。

 ところで何故20年ごとに新しい宮を建てるようになったのといえば、持統天皇がそうお命じになったとか。ある先生が仰るところによると、そのころすでに法隆寺は建っていた。それは新建築で、礎石の上に建っている。ところが、神宮はあえて旧様式の掘立柱だ。わが天皇家は最高神アマテラスの子孫である、蘇我氏や物部氏や大伴氏や・・・そんじょそこらの豪族とは違う、最も古くから伝わる高貴な氏族である、と宣言するには、古い様式で立派な宮を建てる必要があった。しかし、この柱の根は腐る、ゆえに20年ごとに建て替えよと。

 ほぼ権力を掌握し、大宝律令、平城遷都を終えてもなお戦争や革命がないとはいえない。力によらずして、権威でもって権力を確実化しなければならない。『古事記』が書かれなければならなかった所以であったと。

 なんじゃ『古事記』はそんなものかと言うことなかれ。天皇家の正統性を否定する者に対して、小生は言いたい、それならあれに匹敵するような作品を作ってみろ、と。

 日本には縄文の昔から、いろいろなお話が伝わっていたであろう。それらを基としてあのような物語を創ったその作話術、創造力、これは文化を生きるべき人間に備わった最高の威力、すなわち権威ではなかろうか。

 『日本書紀』が編纂されのが、『古事記』の8年後ということに、小生は意味を感じてならない。『日本書紀』の、少なくとも〈一書に曰く〉が多く見られる神代の部分、あるいはもっと後の部分まで書紀は『古事記』の創作ノートなのではなかろうか。

 一作品が出来上がってしまえば、それまで集めた多くの基礎資料は捨ててもいい、とは思えど、やはりもったいない、これも残しておけ、として残ったのが『書紀』の、少なくとも前半のような気がする。だからこそ、『書紀』は『古事記』研究に大いに役立つんだ。と言えば言いすぎかな。・・・仏教伝来の欽明天皇以降の『書紀』の充実に対して、『古事記』はあまりにも素っ気ないしね。


 

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丸山古墳

たしか去年の夏ごろ、テレビで「NHKスペシャル 知られざる大英博物館」というのをやっていた。明治時代に英国からやってきたガウランドという人の古墳調査と彼が集めたコレクションの話で、内容は詳しくは思いだせないが、当時まだ日本人自身が古墳研究にさほど関心がなかったのであったが、ガウランドは写真を撮ったり、厳密な計測をしたりして、本格的な研究をしたのだった。

 そして、最近この人の残した研究資料をたどって、日本の研究チームが古墳群を詳しく再調査しはじめ、その成果から古墳時代はいかなるものかを明らかにし始めた。そのテレビ番組の内容が本として出版され、知人が貸してくれたので読んだ。面白かったのでこれを書きたい。

 それにしても、大英博物館というのは、世界中の古い物がいっぱい地下の収蔵庫に眠っていて、それらの多くはまだ未調査だというから驚きである。つまりこれから新しい発見がなされうる宝の山である。さすがかつては日の沈まぬ大英帝国だったんだな。ガウランドが英国にもちかえった日本の古墳時代の物は1000点以上におよぶらしい。おかげでこれらからさらに解ることがあるだろうし、いずれわれわれの目に触れる機会もあるだろう。

 ガウランドのおかげである!それにつけて思うのは、つい最近、長崎や津島のお寺から仏像が盗まれ、韓国政府は、犯人の韓国人を擁護して、これはもともと韓国の物だから返さぬと言っているとか。われわれ日本人には理解できない発想だ。日本人のお陰で、あの仏像は美術品としてまた信仰の対象として大切に守られ続けてきたのであって、もし韓国にあったままなら、毀されて捨てられていたに違いない。日本に対して「ありがとう」というべきである、というのは外交感覚がちょっと変な日本人的発想か。

 ロゼッタストーンも、英国人が持ち帰り、トーマスヤングやシャンポリオンの研究のお陰で、解明され、エジプトの歴史が解明されたのであり、大英博物館に大切に保存され、かつ世界中の誰の目にも触れられるようにしてあるのは、結構なことであって、その発見当時はまだ存在さえしなかったエジプト政府がそれを返せと言うのも、ちょっと首をかしげてしまう。

 それはさておき、ガウランドという人は、明治政府が貨幣鋳造のために雇った技師の一人で、明治8年(1875年)、大阪造幣寮の化学兼冶金技師という身分で3年の契約で来日した。が、じっさい日本に滞在すること16年に及んだのは、古墳調査に捉えられてしまったからだ。彼が調査した古墳は400ヶ所を超えるという。

 彼が集めたものは古墳からの出土物、陶棺、須恵器、鏡、馬具、埴輪などであるが、何よりも貴重なのは、彼が撮った写真や非常に正確な測量図や調査メモであって、そのおかげで、古墳のどの位置に何がどのように置かれていたかがわかる。その中でも、彼がとくに詳しく調査したのは、奈良県橿原市の丸山古墳であった。

全長310メートルの前方後円墳で、日本で6番目の大きさである。どうも6世紀後半に造られたもので、つまりいわゆる古墳時代の終わり、前方後円墳としては最後のもので、宮内庁によると〈天皇や皇族の墓の可能性がある陵墓参考地〉となっているらしい。

一般に前方後円墳のばあい、後円部の中心の位置に墓室があって、そこに棺が置かれているが、当時墓室に入り測量できたガウランドの精密な図面によると、この丸山古墳では、どうも墓室は墳丘の中心からだいぶんずれているのだ。なぜか? これが大いに疑問だった。しかし、もう墳丘の入口は判らないし、宮内庁が柵で囲み立ち入り禁止になっている。

 ところがここに大事件が起こった。ときは平成3年(1991年)、雨などにより、墳丘の一角に穴が開いた。その穴に入って遊んでいた少年が石室まで入ってしまい、そこの情況を親に報告した。親もさっそく石室に入り写真を撮った。翌朝の新聞に、一般人が天皇のかもしれない墓の写真を初めて撮ったとの衝撃的な記事が載った。入口は宮内庁の柵より外側だった。この事件によって、宮内庁をはじめ専門家による丸山古墳の調査が始まった。

3Dカメラなど最新機器を駆使して判ったことは、ガウランドの測量の正しかったこと、つまりこの古墳は従来の伝統とはかけ離れた墓室の位置だった。しかも石室は、28.4m×4.1m、日本で最大の石室であって、中に石棺が二つ、石棺の形から推定するに、すこし時代も違っているらしい。そうすると、これは欽明天皇(在位539~571)と堅塩媛(きたしひめ)の墓と考えた方が、時代的にも、大きさからいっても、また『書紀』の記述とも合って、いま宮内庁が欽明天皇陵としている檜隈坂合陵(ひのくまさかあいのみささぎ)は間違いではないか、と考える学者が増えたらしい。もっとも、それ以外の『書紀』の記述からは、やはり檜隈坂合陵が合っている。

とにかく、巨大前方後円墳がこの丸山古墳でもって終わりになったのはなぜか。それは、石室の位置が墳丘中心部とずれていることに関係する。

以前は墳丘の中心から竪穴を掘って(垂直に掘って)、そこに石棺を納め土をかぶせていたそうだ。しかし、この竪穴式からだんだんと横から堀り進めて、中心部に石室を造りそこに石棺を置くという横穴式が、中国から朝鮮を経て日本に入り、6世紀にはいり日本でも横穴式が爆発的に流行してきた。中国や朝鮮は塼(せん)というレンガで石室を造った。ところが、日本は独特で、自然石を重ねて造った。しかし、だんだんと石室を大きくすると同時に、利用する石も大きいものとなっていった。するとどうしても、横穴から大きい石を入れるのが困難になってくる。

丸山古墳のごとき大きな古墳では、もはや中心部に巨大な石を運ぶことができなかった。つまり、グローバルスタンダードとなった横穴式と日本独自の巨大石の室とを一致させる限界を遥かに超えてしまい、ガウランドやその後の調査の通り、かなりのずれが生じたのだった。この時以後、日本人はどちらかを捨てる二者択一を迫られたという。結局この新旧の対立の結果、350年に及ぶ日本独自の一つである巨大前方後円墳が捨てられた。そして行き着くところは、…蘇我馬子の墓が思い浮かぶ。

このころ、日本に仏教が入ってきて、大きな時代のうねりがあり、中国には隋という統一国家が生じ、これまた仏教と律令制度とを強力に推し進め、日本はその余波をまともに受け、遣隋使へと連なってゆく。このことと墓の在り方と関係があるのだろうか。

それにしても、東アジアで竪穴式から横穴式に変わっていったのはなぜだろう。つまり、石棺を入れるだけの狭苦しい墓室を日常の部屋のように広くしようとしたのはなぜだろう。ちょうどエジプトの王たちの墓のように、広い部屋に副葬品を置いたりしたのは? そこで生死感、死後の世界観の変化が起こったのだろうか?

そうしてまた、巨大な石を組み合わせるという日本独自の技術とから、そのずっと後に発揮される城の見事な石組を、小生は連想してしまうが、どうであろうか。先日、再建された本丸御殿の一部公開を見に行った名古屋城、あの石垣の石の組み合わせ、石接の見事さには感心した。


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和歌の始まり

いったい和歌はいつごろ始まったのだろう。あるいは、問い方を変えて、これが和歌だと定義されたのは何時なのだろう。いちおう公式見解は、スサノヲ命が歌った、

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 
     八重垣作る その八重垣を

 ということが、歌の始まりということになっています。これはヤマタノオロチをやっつけたスサノヲが出雲の須賀という所に、救った娘クシナダヒメと住むための宮を作った時の歌ですね。

 たしかに『古事記』では、「その歌に曰りたまはく、八雲立つ・・・」とありますから、これが歌と記載された最初なんでしょう。

 和歌の何たるかに、もっとも先鋭な意識を向けたのが『古今和歌集』の仮名序で、これ「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まる、おそらく、芭蕉の「月日は百代の過客にして…」とともに名文として高校の教科書に載っていて、たいていの日本人は知っているのでは?

 この仮名序の第二段落に、「この歌、天地のひらけ初まりける時よりいでにけり」とあります。これは、スサノヲ命よりもっと前の話、イザナギ・イザナミの二神が国生みをする時、「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」と言って失敗して、言い順を変えて言ったら大成功のお話がありましたね。この「なんとまあいい男!」「なんとまあいい女!」と言いあった、その二神唱和が歌の最初だということですね。宣長もそれに賛意を表明しています。

 べつに『古事記』には、歌ったとも唱和したとも書いていないですが、仮名序ではこれが歌だとしているのですね。おそらくその訳は、もう一度初めの段落にもどると、その最後に「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。」とあるところをみれば、イザナキ・イザナミ二神を惹きつけ合った言葉は、すでに歌であったと考えたのでしょう。

 しかし、引き続いてこう書いてあります。

「しかあれども、世に伝はることは、久方の天にしては下照姫に始まり、」

 下照姫は、アマテラス・タカミムイスビを中心とする八百万神連合軍が、地上のオオクニヌシを攻略しようとする時に出てくる姫。この姫が歌ったのが、

 「天なるや 弟たちばなの 項がせる 玉の御統(みすまる) 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴 高日子根神そ とうたひき。この歌は夷振(ひなぶり)なり。」と書かれています。



つまり、形はどうあれ歌である、ということです。これ『古事記』では6番目の歌謡となっていますが、『書紀』では2番目(一番目は、八雲立つ)となってますから、この仮名序は『日本書紀』をベースにしています。やはり『書紀』が正史だったんでしょうね。

 さらに続けて、

 「あらかねの地にしては、スサノヲ命よりぞ起こりける。ちはやぶる神代には、歌の文字も定まらず、素直にして、言の心わきがたかりけらし。人の世となりて、スサノヲ命よりぞ三十文字あまり一文字はよみける。」

 この31文字、すなわち57577の形式になって、〈コトバの心をわく〉ことができるようになった。そしてついに、

 「花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露をかなしぶ心・言葉多く、さまざまになりにける。」そして、それがかかわるジャンルは飛躍的に伸びていったと書いてあります。

 まさに、これが、この31文字が、その後の和歌を規定し、この規定によって、歌人は、物事の、それはまた心の、微妙深淵なる曲折を分別することができるようになった、ということでしょう。ここに、意(こころ)=事=言(コトバ)という思想の萌芽が見えるように思われませんか。

 しかし、いっぽう、この規定が発展するところ、ややもすれば逆に歌人の心を縛って、歌を硬直化させることになって、例えば〈古今伝授〉なる秘技が、とにかく有り難がられることにもなったですね。

 そういった時代が長く続いたのち、江戸時代に入って、ふたたび和歌というものにたいする反省が強く起こった。これについては、よく調べてから、また書きたく思っています。



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継体紀 3

 前にも述べたように、『日本書紀』は、「男大迹天皇(ヲホドのスメラミコト)は応神天皇の五世の孫、彦主人(ひこうし)の子なり。」で始まっているのは特異である。『古事記』でも、申し合わせたように、「応神天皇の五世の孫、ヲホドの命、いはれの玉穂宮に坐しまして、天下治めたまひき。」で始まっている。

 もう一つ、『書紀』で、変わっている点は、継体天皇が崩御したのは82歳で、西暦531年、そしてその直前に、安閑天皇に譲位したとなっているが、べつに安閑天皇の即位はその二年後となっていて、つじつまが合わない、また継体崩御43歳とある『古事記』とはあまりにも異なるという点で、多くの歴史学者の好奇を引き、さまざまな説が生まれている。

 大伴金村大連らが、大和から福井県の三国まで寒い初春のさなか、皇族男子とはいってもえらく遠い血筋のヲホドノさんを見付けだし、次期天皇に擁立しようとしたのは、じつに御苦労さん。雄略天皇の大殺戮のおかげで後の人は本当に大迷惑をこうむりましたな。

 ヲホドノさんは、とても落ち着いて謙譲にして慎重、品性もよろしかったように書かれているのは、前代の悪逆非道な武烈とは正反対よ、とのアピールか。しかし、そうすんなりとは天皇にはなれなかったようだし、即位してからも河内・山城あたりで遷都を繰り返し、ようやく大和入りしたのは20年後(78歳!)であることを考えると、オホドノ擁立派が、大和を取り巻く主要な諸豪族を説得するのがいかに困難だったかを想像させる。

 その間の事情は白崎昭一郎氏の指摘する次のことからも読み取れる。『古事記』武烈の条では、「武烈天皇崩御されて、日嗣の皇子がなかったので、応神天皇の五世の孫、ヲホドノ命を近江より上りめさしめて、手白髪命(たしからのみこと)に合わせて、天下を授け奉りき」とある。これはよく読んでみると不思議である。つまりこの文の主語は誰か? そしてまた手白髪命は仁顕天皇の娘さんである。つまり、この確かな皇女を皇后にするという条件でヲホドノさんを天皇にしてあげた、と読める。つまりヲホドノさんは、無条件で天皇になるためには皇族として血が薄すぎるということとも読める。

 他方こういうことも言われている。不思議な〈五世の孫〉の記載は、皇族の血を引いていることをでっち上げたための出鱈目ではない。この空白を埋める系図が存在する。それは『釈紀』(鎌倉期)の中にある『上宮記逸文』にはっきりと書かれている。この『上宮記』は聖徳太子あるいはその近辺の人が書いた、遅くとも推古朝までには書かれたものであるらしい。これはほぼすべての学者が認めているところであって、宣長も、『上宮記』の書きぶりはいたく古文のさまなり、この部分が引用され残っていたおかげで継体の出自がはっきり分かると大喜びである。

 継体天皇の時代、部下の不手際により、任那の6県が百済に割譲してしまい、また九州の豪族が新羅とつるんで朝廷軍をなやましたりして(磐井の乱)、政治的には安定した時期ではなかった。

 継体紀の継体崩御の年号のつじつまが合わぬことと、或る本(ふみ)に百済本記ではこう書いてあると余計なことが書かれているのは、―昔からそうだが―、親新羅派と親百済派との、次期天皇擁立に絡んで、闘争が続いていたことを示唆する。或る先生の説では、継体崩御後しばらく安閑天皇・宣化天皇(母は尾張系)と欽明天皇(母は手白髪命)との両朝併立があったとも。

 継体崩御後の二年間の空白は、宣長のような人によると、践祚を譲りあって決まらなかったのではという。まあそうであったにせよ、やはりその背後には諸派の力の均衡があったのではと小生は想像する。


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継体紀2

『継体紀』には相聞歌からなる話が一つ挿入されている。
あるとき、皇太子である勾大兄皇子(まがりのおほえのみこ)(後の安閑天皇)が、春日皇女と結婚しようとしたときに歌を読んだ。「月の夜に物語して、気が付いたら夜が明けてしまった。このとき歌を作ろうとする風流心が起こって言葉となった」と書かれている。

「八嶋国 妻まきかねて 春日の 春日の国に 麗(くは)し女を ありと聞きて 真木さく 檜の板戸を 押し開き 我入りまし 脚取り 端取りして 枕取り 端取りし 妹が手を 我に纏(ま)かしめ 真柝葛(まさきづら) たたき交はり 鹿(しし)くしろ 熟睡寝し間に 庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴くなり 野つ鳥 雉(きざし)は響む 愛しけくも いまだ言はずて 明けにけり吾妹」

春日の地に美しいよい女がいると聞いて、りっぱな桧の板戸を押し開いて、私が入って、女の衣服の下と上からはぎ取って、妻の手を私の身に、私の手を妻の身に巻きつかせ、抱き合って交わり、熟睡した間に、鳥や雉が鳴くのが聞こえる。かわいいとも言わないうちに、夜が明けてしまった。

これに対する春日皇女が応えて歌う、「隠国(こもりく)の 泊瀬の川ゆ 流れ来る…」で始まる歌が、皇太子の歌にぜんぜん対応しない挽歌(葬送の歌)みたいな歌なんで、武烈天皇の名の小泊瀬と継体天皇の崩御した場所のイメージとから、この歌が、不自然ながら、ここに入れられたのかなと思われ、おかしな一対の歌謡なんですな。

ところで、大昔から指摘されていることだけれど、この皇太子の歌は『古事記』によく似たのがあって、それはオオクニヌシが沼河比売(ヌナカワヒメ)に求婚するときのなかなか素敵な歌、

「八千矛の 神の命は 八島国 妻まきかねて 遠遠し 高志国(越国)に 賢し女を 有りと聞かして 麗し女を 有りと聞こして さ婚(よば)ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 太刀が緒も 未だ解かずて 襲(おすひ)をも 未だ解かねば をとめの 寝(な)すや板戸を 押そぶらひ 我が立たせれば 引こづらひ 我が立たせれば 青山に 鵺は鳴きぬ 野つ取り 雉はとよむ 庭つ鳥 鶏は鳴く 心痛(うれた)くも 鳴くなる鳥か この鳥も 打ち止めこせね …」

こちらの歌は、求婚していてもまだ何にもしてないのに夜が明けてきて、いまいましい鳴き鳥を打ち殺してやりたいと歌っているけれど、内容も使われている文句も『継体紀』の勾大兄皇子の歌とよく似ている。

また『万葉集』にも、もっと単純化された類似歌がある。

「こもりくの 泊瀬の国に さばよひに 我が来たれば たな曇り 雪は降り来 さ曇り 雨は降り来 野つ鳥 雉はとよむ 家つ鳥 かけも鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ」 (3310)

 要するに、妻問い歌謡の類型、こういうときにはこうい定型文句があったということなんだろう。

ただ、気になるのは、『継体紀』の始まりに、継体天皇の父は琵琶湖の西岸の地に居て、越国の三国にいい女がいると聞いて、使いを出して連れて来させて結婚し、継体天皇を生んだという話がある。これは遥かその昔、出雲に居る大国主神オオクニヌシが越国に行って妻問いをしたという話を連想してしまうではないか。

まあ偶然の一致かもしれないけれど、ひょっとして昔から、遠くから男を引き寄せるほどのいい女が越国の三国あたりにいて、それが伝説となり、いつしか人口に膾炙した歌謡となり、それが先にあって、物語や歴史に挿入されたとも考えてしまう。

 ついでに、その夜は残念に終わったオオクニヌシも明くる日の夜は思いを遂げることができた。オオクニヌシを部屋に入れなかったヌナカワヒメの返し歌―今はがまんよ、明日の夜はオッケーよ、という歌もなかなかいい。



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継体紀 1

 「武烈かくれたまひて皇胤たへにしかば、群臣うれへなげきて国々めぐり、近き皇胤を求めたてまつりけるに、…」(神皇正統記)とあるように、いかな不徳の天皇でも日本には天皇が必要であって、その存在は血統によって確証されるものである。

皇統の危機を感じた諸氏族の代表者らは、全国に皇胤を求める。そしてついに見つけだされた人が男大迹(おほどの)王つまり継体天皇であって、その場所は三国(いまの福井県)である。

そういうことで、継体天皇には謎がまとわりついていて、諸先生方の中には、『継体紀』は、「男大迹天皇、誉田天皇、五世の孫、云々」つまり、継体天皇は応神天皇の五世の孫である、という他の天皇紀ではありえない書き方で始まっている意味は、つまりこの五代というのが、じつは皇統ぎりぎり(つまり六代となると皇統をはずれる)で、かろうじてセーフである、そのようにしたのではないか、と言っておられる。

また、継体という名前である。継体は君主の位を受け継ぐこと、という一般的な普通名詞であって、これを天皇の諡号にしたのはいかにも不自然である。聞くところによると、なんでも奈良時代に淡海三船がつけたらしい。もちろん『日本書紀』が書かれたのはそれより何十年か前のことだが、そのときは男大迹天皇(おほどのすめらみこと)など和風の諡(おくり名)で書かれている。われわれが今読んでいる例えば岩波文庫の『日本書紀』はその何百年後の現代文に直されたものである。

井沢元彦氏も、すべての天皇は〈正統を継いだ者〉であるから、継体天皇であるにもかかわらず、何故この天皇だけに諡号に普通名〈継体〉をつけたか、それはむしろ、じつは正統な後嗣ではなかったからではないか、と言っている。そして、津田左右吉博士の指摘、「武烈天皇紀にある天皇のことを書いた所がいずれも主なる点は支那(中国)の書物から取られたので、その言葉その文字が殆んどそのまま取ってあるところがあります。…そしてそれは殷の紂王(ちゅうおう)らしい」ということから、殷の紂王に比定される武烈天皇を継体の前に置くことによって、じつはこのとき〈易姓革命〉が起こったのだ、と論じている。

あれこれの疑問を頭にもって『書紀』を読んでみると、なるほどこの天皇の足跡も変わっている。生まれは三尾という琵琶湖の西岸中程の所、育ったのは福井の三国、ここで大伴金村大連らに発見されて、天皇になってくれと懇願されるが、自分はそのような器ではないと「西に向かひて譲りたまふこと三たび、南に向かひて譲りたまふことふたたび」、中国文献まる写しって感じでしょ。そしてついに天皇になって、最初に都を置いたのが、58歳のときで、河内は淀川のほとりの樟葉、次にその南東の筒城、そして弟国という今の高槻市あたりに、そして大和(奈良県桜井市あたり)に入ったのがやっと20年後。
この間、継体天皇は、尾張、河内、越、近江…の諸豪族の娘を后にしている。琵琶湖を中心に、若狭湾、大阪湾におよぶ海湖水を制しする狙いがあったと思われる。

明くる年、筑紫の国造、岩井が反乱を起こす(岩井の乱)、朝鮮半島をめぐって、外交上の失敗が相次ぎ、諸豪族が緊張した状態にあった。


  
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武烈天皇

 

 武烈天皇は、『日本書紀』によると、快楽殺人をいたく好んだ人なのですね。それゆえ後世の人に不人気なんです。お父上の億計(おけ)すなわち仁賢天皇が崩御したとき、平群真鳥(へぐりのまとり)という大臣が天皇を倒して自分が権力を得ようとした。(ちなみにここのところの原文は、専摶国政、欲王日本)

 また時を同じくして、皇太子(武烈天皇)が結婚したいと思っていた娘を真鳥の息子である鮪(しび)が先に手をつけ自分のモノにした。それに怒った武烈天皇は側近の大伴金村連と謀って、真鳥親子を滅ぼしてしまう。このことは別にどうってことはない、たしかあの徳性すぐれた仁徳さんでも敵を殺していたのじゃないかな。

 天皇に正式に即位して后をもった武烈天皇は、皇帝ネロも参ったというほどの、日本人には珍しいほどの残虐ぶりを発揮しています。まあ、『書紀』は中国文献から引用しまくりだから、中国や朝鮮の皇帝がそうだったのかもしれないけれど。・・・

 好奇心から妊婦の腹を裂いて胎児を観察する。生爪をはがしてイモを掘らせる。人の頭髪を抜いて木のてっぺんに上らせてから木を切り倒して殺すを楽しみとす。池の水路に人を並べて一気に水を流し、流れ落ちてきた人をヤス(幾本かの槍がついたモリ)で刺し殺すことを楽しみとす。

 女たちを裸にしてオス馬と交尾させようとし、感じやすくあそこが濡れている女は殺し、濡れぬ女は奴隷とした。百姓らが飢えていようが気にせず、遊び人らを集めて、飲めや歌えの卑猥きわまりなき歓楽の限りを尽くした。

 あまりにも快楽を追求したためか、武烈天皇には子供ができなかったのです。それで次の日継ぎの皇子を探す必要が生じたのですが、これが問題だった。武烈の男兄弟はなく姉妹ばかり、父の弟のをけ(顕宗)天皇にも子供なく、その一つ上の代の男子は、例の雄略天皇に滅ばされている。雄略の子供の清寧天皇も子供なし。それで、うんと遠くの傍系を辿らねばならなかった。が、この次の天皇の話はまたにしましょう。

 己の快楽ばかり追求して、皇統を危うくしたことを責めるばかりに、こんな悪逆非道な話を『書紀』作者がでっちあげたのでは、と言う人がいますが。『古事記』には、もうこの頃は(仁顕天皇以後は)、とくにエピソードは書いてありませんから、武烈残虐物語はありませんね。

 小生は、かつて言ったように、天皇の中にはこのような残虐な人がいたと、正史『日本書紀』に書かれている事実が面白いと感じる。今の感覚から言うと、もし天皇をよき統治者である(天皇の正統性)と言いたいのなら、こんな中国風のオーバーな残虐表現を、事実その通りだとしても後の世に残すことはないのじゃないかな。『日本書紀』を撰上されたとき、元正天皇はちゃんと目を通していたとしたら、じつに舎人たちを信じ、またいいことも悪いことも正直に認めていたのだなと感心する。

 本居宣長は、天皇の悪逆非道な行いを臣下がどうして諫めなかったのだという問いに答えて、善くも悪しくも君の行いに臣下が口をはさむのは、古のよき道に外れている、下の者が上の者に善悪云々を言うのは漢心であって、それこそ世の乱れの元だ、たとえ悪君でも一代限りであるから、過ぎ去るまでじっと耐えればよいだろう、云々。例の、人生は波のごとくよい時と悪い時があって、それはもう神の為す業であってわれわれにはどうすることも出来ないものだから、と言いたげである。

 とにかく、国際上の付き合いの多い現今、天皇をはじめ皇室はみな道徳的に優れていなければならないとみな考える所であるが、われわれ下々がえらそうなことを口走るのが、災いのもとである。ちゃんちゃん。

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『古事記』雑感

 

今年は『古事記』編纂1300年記念とかで、『古事記』に関する雑誌、イヴェントなどを耳にする。小生も『古事記』は好きだから、『古事記』について何か言いたい。とは言っても、小生はただの素人、フツーの愛読者にすぎないけれど。

 何から語ろう。もし『古事記』ってなあに、と問われれば、それはとても面白い物語である、と答えたい。笑いと悲哀に満ちた物語。そして日本でいちばん古い物語。神話であり歴史でもあるけれど、とにかく古代日本人が創り上げ語り継いできた物語。

 小生の知る限り、古代文学を研究する先生たちは、口をそろえて、『日本書紀』に比べて、『古事記』は文学として優れていると言っている。小生も同感だ。その意味は、全体として統一した流れがあり、語り口が自然であって巧みであり、感動させる話が豊富である。『日本書紀』はいかにも中国文献の引用を読んでいるという所が多い。嘘ではないにしても、表現が漢文の決まり文句的なところが多い。しかし、両者とも所々に歌謡が入っているが、これがいい。何度も口にしていると、スルメを噛むように味が出てくる。

 とは言っても、この文が書かれた当時、今われわれが読んでいるように読まれていたかどうかは、もちろん判らない。なにせ全部漢字で書かれているから、また現在の読みとは違った読み方が真実に近いと言われるようになるかもしれない。少なくとも当時のイントネーションは想像することもできない。

 しかし、それでいいのだ。本居宣長以来、その時その時の学者らがこう読んでいたであろうというおおよその見解に従えばいいのだ、またそうするしかないではないか。変わっていけば、それはそれでいい。万葉集もそうだが、古代文学はそうやって歴史を通して変化し創られていくものだ。

 歴史学者たちは、いったい『古事記』は何のために書かれたのか、と問う。たとえば、天武天皇あるいは他の天皇、それとも藤原不比等のようなある実力者等が、彼らの権威づけのために書かせたのだ、という。しかし、小生に言わせれば、それにしては、つまり政治的な目的にしては、面白すぎるのだ。これは『ひょっこりひょうたん島』のように面白いのである。

 それでは、当時の人たちが面白い物語を創作しようとして書いたかというと、そんなことはないような気がする。序文の太安万侶が書いた真面目な説明を信ずるなら、それは絶対にあり得ない。各氏に残る言い伝えが間違ってきているから、今のうちに正しいものを残さねばならないと天武天皇がお命じになった、とある。

 いやこの序文は偽物である、実はだいぶん後で書かれて付けられたという説も真淵以来言われている。誰か有力な後の人が、天武天皇の名を借りてこの「古る事の記(ふることのふみ)」を正統化しようとしたのだとかなんとか。だいたい、律令国家形成期にあるいは中央集権形成期に、こんな内容の書を天皇か書かせるとは変だとか。しかし、例えば昔の梅原さんのように古事記の内容までも政治的に捉えるのはどうか。

 たしかに8世紀に入る前後、いろいろな意味でいわば国家の秩序を形作ろうとした動きが顕著であった。その最たるものは平城遷都ではないだろうか。そして712年に完成した『古事記』も律令体制の整備と共に、その次に大きな国家的事業だったと思う。しかし、大事なことは『古事記』の編纂そのことであって、内容が律令体制と合わないとかいうのは、おかしなことである。

むしろ、『古事記』は律令国家に抗して!とさえ言いたい。それほど、天武天皇あるいは編纂者は、civilizationを広く見ていたと考えたい。そもそも政治といっても古代政治であり、今の政治の感覚ではない。これからというときなのである。nationstateはfolkloreなしには存立しえなかった、のではないかな。

そして、わが民族はこれほどまでに面白いお話をコアとしてもっているのだ、と考えるとうれしい。別に権威ぶることも、正道ぶることもない、神々の世界はこんなにも楽しいし、滑稽であり、悲しく、ちょっと残酷である。イザナミの命が火の神を生んで陰部に大やけどを負って死ぬ直前に、反吐を吐き、糞尿を垂らす、このおしっこから生まれた神の子が豊宇気毘売(トヨウケビメ)の神であって、伊勢の外宮に鎮座されている。この神が天照大神にお食事を差し上げていると想像すると面白い。

まあ神代の物語をいろいろに解釈したくなるし、もちろんしてもいいし、またいろいろに想像できるところが面白いけれど、今の感覚で解釈しないように注意しなければならない。その点、やはり『古事記伝』に勝るものはないように思う。宣長によると書かれた当時ですらすでに、当時の言語で脚色されている部分があることに注意を促している。

『古事記』の登場する神および人物の中で特に魅かれるのは、というか面白いのは、かなりマイナーではあるけれど、少名毘古名(スクナビコナ)神。オオクニヌシが出雲の美保岬で、さて国をどのように作ろうかと思案していたところ、海の向こうから妙ないでたちの神がやってくる、この神は神産巣日(カミムスビ)神の指からこぼれおちた神だと言う。まあ、想像するに、兄弟たちの間での落ちこぼれなんでしょうな。一人でどこか遠くの外国にふらっと行って、奇異なというか斬新な格好をして、この美保岬にやってくる。神産巣日神は「オオクニヌシを手伝って、この国を作り固めよ」と命令する。しようがないからスクナビコナは手伝うが、途中放棄して、またふらーと常世の国に行ってしまう。厭き易く放浪癖があるんでしょうな。

一般的にもっとも人気があるのは、オオクニヌシかヤマトタケルだろう。それから軽皇子。まあ、勝者や天皇ではなく、負けた英雄に心ひかれるのは、日本的心性の元型か、あるいはどこの国の人でもそうか。




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曲水の宴

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「曲水の宴」は、テレビでちらっと見たことがあるだけですが、京都の城南宮が有名ですね。これは、いつ始まったのかよく分かりませんが、我が国では「顕宗紀」に初出です。

 「顕宗初年、三月の上巳に、後苑にいでまして、曲水の宴きこしめす。」とあって、これ西暦485年、3月6日です。『日本書紀』作者らが、かってに中国文献からとってきて編入したのかもしれませんが、まあいいでしょ。その後日本では、婦女子の祝いの習慣と一体化して、三月三日が五節句の一つ、桃の節句として今に続いています。

 中国では、書聖として有名な王羲之(おうぎし)の『蘭亭序』に有名です。西暦353年3月3日、名士たちが、蘭亭という、会稽山の麓にある自然公園にある四阿(あづまや)で、「禊事をして、流杯曲水…一杯一詠」を楽しんだとあります。

 この王羲之の『蘭亭序』は、書を習う者の必須手本ですね。小生も書道を習っていた時、よくこの書体を練習させられたものです。これは当時からよほどの名書として有名であったらしく、王羲之の書いたものをすべて蒐集していた唐時代の太宗皇帝は、死んでなお自分の陵に副葬させたという。原本はもとよりなくなっています。

 奈良の大仏で有名な聖武天皇も王羲之の書を手本にして筆の勉強をされているということを耳にした鑑真は、本物の王羲之の書を持って来日したらしいですね。聖武天皇の遺愛の品々が収められている正倉院にも、もちろん収められたのですが、平安時代は嵯峨天皇の御代に貸し出したという記録があっても、返却したという記録がなく、当時能書家としてトップを争っていた人、たとえば三筆のだれかが犯人ではないか、という話をきいたことがあります。

 曲水の宴の記述は、顕宗紀から後はずっとなく、文武天皇の時代になって、やっと見られるという。たしかに調べてみると、『続日本紀』の文武天皇701年にあります。まあ、記述が無いから行われなかったとは限りませんがね。

 『蘭亭序』の記述にある曲水の宴は、なんかとても規模の大きいものだったように想像されますが、どうでしょう。
 「此地有崇山峻領、茂林脩竹。又有清流激湍、映帯左右。引以為流觴曲水、…」(觴は杯みたいなもの)

 我が国の古の曲水の宴は、どんなふうだったのでしょうか。たぶん今の城南宮などでなされているような、小じんまりした、ささやかで、ゆったりしたものだったと想像します。



 
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浦島子伝説

 
 『万葉集』に水江(みずのえ)の浦島子(うらしまこ)の物語が長短歌として出てきます。(巻第九1740・1741)この話は、後に室町時代の『御伽草子』の中に浦島太郎として伝えられ、今では誰もが知っていますね。

 この浦島子の話は、すでに『日本書紀』の雄略天皇条にもわずかながら触れられていますし、『丹後風土記』逸文にも出て来ます。微妙な違いがあるものの、奈良時代初期にはすでに古くからの言い伝えがあって、きっと古代人たちはこの物語をよく話してたのではないかと思います。

 この物語は、小生は以前からとても気になっていまして、浦島子が海で釣りをしていると、遥かな沖合から女がやって来る、仲良くなって常世に至り、老いることなく歓楽の日々を過ごします。

 常世っていうのは、『雄略紀』では蓬莱国、『風土記』では海中の蓬山、『御伽草紙』では竜宮城なんて書いてありますが、日本はさすがに海の民なんですなぁ、そもそも我が国でいちばん偉い神様である天照大神が、あの伊勢におわしますようになったのは、『垂仁紀』にある、「この神風の伊勢の国は、常世の波の重波帰(しきなみよ)する国なり・・・ここに居たい」と仰ったので、倭姫はこの地に宮を建てたとあります。

 それで歓楽の日々ではありましたが、浦島子は故郷のことが気になって、「ちょっと家に帰って父母に会ってきたい、すぐ帰って来るから」と言う。海の娘は、「じゃ、この櫛箱をあげます、けっして開かないでね」

 故郷に帰った浦島子は、まだ三年しか経ってないはずだが、なんじゃこりゃ風景が一変している、知っている人は誰もいない、おっそうだ、この箱の中に何かヒントがあるかもしれんと、開けてしまうのですね。と、白雲が立ち、あはれ浦島子は一気にしわくちゃ老人になり、呼吸も絶え絶え、ついに死んでしまうのですね。浦島子、故郷に帰りたいなんて気を起こすから、馬鹿だねぇ、と反歌で歌われています。

 小生はこの話を思うたびに、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を連想します。詳しいことはすっかり忘れていますが、画家が美青年の美しさを残したいと肖像画を描くのですが、現実の美青年は少しも衰えず、絵の方が歳をとっていくのです。それで最後は、美青年がこの肖像画を壊すことによって、自分の老いを取り戻す、って話だったかな。たしかこれの映画版があって、その主人公は美人女優でした、彼女も老いることが出来ず、自分の映像がどんどん老いていく、とても怖い映画でした。

 常世の国に行った浦島子は、海の娘に時間を取られるのですね。そこにおいては永遠の美と悦びがあるが、じつは架空の生を営んでいるのですね。誰でも健康で心配事がないときは、このまま長く生きたいと思うものですね。しかし、よくよく想像してみると、今の幸福が百年続こうが、一万年続こうが、一日の、いや一瞬の幸福とどこが違うのでしょう。仮に一万年生きて、振り返ってみたら、きっとやはりあっという間の人生だったと感じるに違いありません。

 そのことは、例えばわれわれが住んでいるこの辺りにその昔、恐竜が何億年間ものあいだ、のっしのっしと歩き回っていたと想像しましょう。ところでその何億年間を一瞬のこととして想像しても少しも差し支えありません。正しく味わうためにはわれわれも何億年生きる必要はありません。

 そもそも時間というのはなんでしょうかね。われわれが一秒とか一年とか口にするとき、つまり時間の長さを言うときには、まあ月や太陽の運動から時間の単位を取って来るのでしょうが、頭の中では空間を測定するときのイメージを思い浮かべ、しかし心の中では空間とはちがう原理の、いわば内的な生きられる直観を感じているのではないでしょうか。

 それこそ、アウグスチヌスの言う「わたしは時間の何たるかを知っている、しかしそれを説明しようとすると解らなくなる」という類のものでしょうか。小生もそのような気がします。つまりそれは誰にとっても生きているという事実以外のものではない、と思います。

 強いて言えば、誰もが感じるあの感慨をもって、時間が経つということは老いることだ、ということだと思います。これがもっとも直接的で具体的な表現ではないでしょうか。そして浦島子伝説はこのことを逆説的に表現している古代人の直感から生まれたものではないでしょうか。



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雄略天皇5

 先日たまたま書店で、文庫本の『古代史がわかる万葉集の読み方』という本が目に留まった。だいたい、こういう書名の本を読みたくなるほど素直ではなくなった小生ではあるのに、なぜか魔がさして手に取ってしまいました。パラパラめくると、雄略天皇御製がどうして巻頭歌になっているのかという項目がありまして、もちろん読まずにはおけません。

 するとなるほど、これは求婚の歌ではあるが、それよりも、後半の「…そらみつ大和の国はおしなべて我こそ居れわれこそいませわれこそは告らめ家をも名をも」という部分がポイントであって、これは大和の覇者の名告りの宣言の歌である、とあります。

 「新春の若菜摘みは、ヤマト王権の大切な農耕儀礼で、それに大王が出席して、名告りを行う、ということが毎年行われていたのであろう。」と書かれている。いったい誰がこんなことを述べているのだろうと、著者を見てみますと、なんと今をときめく上野誠先生ではありませんか。もう、ははーと頭を下げるしかありません。

 先生さらに続けて、だから「巻頭歌はヤマト王権の新春の儀礼の台本のような役目を果たす歌だった…これは伝承された歌であって、雄略天皇個人の歌であるわけではない。…いつの間にか、この伝承歌と雄略天皇が結びついた、ということになる。」

 では、どうしてそうなったのか。「おそらく、雄略天皇が、国土統一の英雄として、ヤマトの統治者の名告りに、もっともふさわしい大王だったからであろう」と上野教授。

 では、とさらに一歩を進めたくなる。どうしてして荒々しい雄略天皇がヤマトの統治者としてもっともふさわしいと当時の人々が考えたのか。どうして新春儀礼・詩歌集・雄略天皇が結びついたのか、例えば仁徳天皇ではなく、まあ堂々巡りみたいだけれど。こういった疑問は、われわれ現代人の感性の試金石ではないでしょうか。

ついでに、こういう疑問にも結び付きます。どうしてその和歌集に、犯罪人や遊女や乞食らの歌をも一緒に載せてあるのか。

そもそも『万葉集』がいつごろ編纂されたのか、というより様々な伝承歌から少しずつ最終的な編纂に向けての作業、国民文学として凝結させていった古代・中世の人たちの心を想像するのは面白そう。




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雄略天皇4

 前回触れた雷を捕まえた天皇の側近は、小子部栖軽(ちひさこべのすがる)って人なんですが、初め天皇の命によって雷に声をかけるのです。(『日本霊異記』)

 「天に鳴る雷神(いかづちのかみ)よ、天皇がお呼びでござる」また「雷神といえども天皇の御招きを断ることはできようか」と。雷神は怒って、ぴかぴかドーン、最初は天皇おどろいて、供え物を奉った。その雷神が落ちたところは、いま雷岡(いかずちのおか)と呼ばれている所で、地図で見ると、飛鳥の甘樫の丘の北、天香久山の南東、明飛鳥川沿いにあります。

 それから、前に書いたように、雄略天皇は足が引っ掛かってもがいている雷神を助けてやるのですが、思えば、以前は自然のあるいは出自不明の神は天皇や皇祖より上でしたが、雄略天皇以降、天皇の方が上にもなりうるように思えます。

 そういえば、『万葉集』巻第三の最初の歌。(雷丘にこの歌碑があるそうですが)、天皇、雷の岳(いかずちのおか)に出でます時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首と前書きして、

 大君は 神にしませば 天雲の
   雷の上に 廬(いほり)せるかも

 天皇は神でいらっしゃるゆえ、雷の上に仮宮をお建てになる。ついでに、『万葉集』第一巻から第四巻のそれぞれの劈頭を飾るのは、第一巻は雄略天皇、第二巻は仁徳天皇の后、第三巻はこれ、第四巻は(たぶん)仁徳天皇の妹。何となく万葉編纂者の意気込みを感じないでしょうか。

 『日本書紀』にも似たような挿話がありますが、この側近の小子部栖軽は、柔順ですがそそっかしいところがあって、天皇が皇后たちをして養蚕を広めようとして、彼に「国中の蚕(こ)を集めよ」と命じると、彼は大急ぎで嬰児(子)を集めて献上しました。天皇大いに笑って「汝がみずから養え」と命じられた。彼は命令通り養育し、よって姓(かばね)を賜わって小子部連(むらじ)となったとあります。

 この養蚕は、仁徳天皇の御代に中国から伝わったらしいのですが、雄略天皇時代から皇后の重要なお仕事となり、今の美智子皇后も丹精しておられますね。

                            ぱちぱち


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雄略天皇3

 雄略天皇の話で、さらに気になっているのが、葛城(かづらき)と一言主大神(ひそとことぬしのおおかみ)が出てくるところです。

 『古事記』には、天皇が葛城山に登ったとき、大きな猪が出てきた。天皇は鳴鏑の矢を射かけた。すると猪は怒ってこちらに向かってきた。天皇は恐れを感じて榛(はり)の木に登って難をのがれた。そして歌を歌った。―

 やすみしし我が大君の遊ばしし猪(しし)の病猪(やみしし)のうたき畏み我が逃げ登りしありをの榛の木の枝

 しかし、ここのところを『日本書紀』では、天皇は舎人(とねり=側近)に猪を射よと命令したが、舎人は怖気づいて木に登った。仕方がないので、天皇自身が矢で射て、脚で踏みつけて殺し、命令に背いた舎人を斬ろうとした。と、舎人は歌を歌う。右の歌とほぼ同じ歌なんですが、歌の終わりに「あせを」という、感動を表す拍子のような言葉を付けています。

 それで、皇后が舎人を庇って天皇の残虐行為を止めるのです。そしてまあ無事に帰途に着くのですが、そのとき天皇は「人は獲物を獲った。自分は善き言葉を得た」とのたまふのです。

 宣長は、この話は『日本書紀』に語るごとく、逃げたのは舎人であって、雄略が怖がるはずはない、またこの歌には「あせを」が付くべきである、『古事記』ではどういうわけか抜け落ちてしまったのだろう、しかし『日本書紀』の、帰途天皇が語った「善き言葉を得た」なんてのは、まさに漢心(からごころ)であって、古の日本人の感覚ではないし、ましてやあの雄略がそんなことのたまふわけがない、と言っていますが、小生、喜びをもって百パーセント同感。『日本書紀』の作者たちは、全編いたる所で中国の文献を引用しまくっています。

 天皇が大勢の御供を連れて葛城山に登ったとき、その向かいの山にもまったく同様の一団が山を登っている。何だあいつらは!と天皇が言うと、向こうも同じ言葉を発する。えーいと矢を射かけると、向こうからも同じように矢が飛んでくる。

 まったく鏡に向かって攻撃しているようですね。それで今度は「名を名乗れ」と問いかけると、向こうの人は答えて曰く「私は、悪(まが)事も一言善(よ)事も一言、言離(ことさか)の神、葛城一言主之大神だ」と言った。

 それを聞いた雄略天皇は、畏れ入って、弓矢を御供たちの着ている衣服を献上した。すると一言主神は、拍手をしてそれらを受けとり、天皇が還るときに、天皇の住まい(初瀬)の近くまで送ってくれた。葛城山から初瀬までけっこう遠いのに、送ってくれたのですね。

 『書紀』では、天皇は一言主神と出会ってから、お互いに礼をもって、日暮れまで一緒に狩を楽しんだ、とあります。それにしても、この一言で悪い出来事や好い出来事を決める(宣長は解き放すという)ようなすごい神様が、いったいどうしてここで出てきたのかは知らないけれど、こんな神様と仲良くなれるとは、雄略さんすごいんじゃない、ということでしょうね。

 ちなみに、葛城山の辺りには、出雲系の神々を祀る社が多いということです。

 そういえば、『日本霊異記』という平安時代初めの気持ちの悪い、しかしとても面白そうな仏教説話集がありますね、その初めにも雄略天皇の話があります。小生はこの本まだ読んでいませんが、この話はどこかで聞いたことがあります。主人公が雄略天皇だとは知りませんでした。

 天皇が御殿で皇后とHしている真っ最中に腹心の部下がうっかり入っていた。天皇ちょっとばつが悪そう。ちょうどその時、うまいぐあいに雷が鳴った。天皇はその部下に命じて曰く「あの雷を連れてこい」。部下はとにかく雷を地上に呼んだ。

 その後、部下が死んだとき、天皇は部下を讃えて、「雷を捕らえた何某」という碑文を立てたが、雷はその碑文を憎み、その立ててある柱に落ちて壊し、足蹴にしようとしたら、その柱の割れ目に引っかかって取れない。それを聞いた天皇は雷を引っかかりから解いて助け出した。…

 これ雷神をも畏れぬ雄略天皇の話でした。




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雄略天皇2

そして、まさに和歌の始まりは、中世の歌人たちが、スサノヲ命と認めたのもうなずけます。スサノヲ命こそ雄略天皇の原型だと思われるからです。

スサノヲは、父であるイザナギから、お前は海原を支配せよと命令されるが、幼児のように言うことを聞かず、「根の国の母に会いに行きたい」と泣き続ける。姉アマテラスとの誓約においてはアマテラスが産んだ男の子に対して、女の子を産んだのは自分だ、それは自分の心に嘘がない証拠だ、勝った勝ったと、あほな子供のように勝ち叫んで、暴れまくりますね。

そして、畦や溝を壊して田んぼを荒らし、糞尿を撒き散らし、馬を逆剥ぎにして機織り屋に投げ入れるなど、当時大罪としてもっとも忌避されていた罪の数々を犯し、結果ついにアマテラスは天之石屋戸に籠ってしまわれたですね。

この幼児の純潔と残虐をもった罪人スサノヲが口にした例の「八雲立つ 出雲八重垣・・・」をもって和歌の始めとされていますね。そして我が国の文化の根源にこのような神話があることがとても面白いことだと感じます。

残虐さと和歌は、その根源は繋がっていことが暗示されます。それは、残虐をなしたことを歌で慰めるとかいう安っぽい反省ではぜんぜんないし、また善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、などという道徳観念とは無縁なのです。

雄略天皇の魂は純潔で明るく、彼は率直な行為者で、暗い反省意識や屈折した心理などは無縁です。そしてまさにその魂から歌が滔々と流れ出る。もちろんその後の文化の流れにおいては、様々なヴァリエーションが生み出されるのでありますが。この我が国の情熱の源泉、神話から歴史に繋がるこの秘義を、小生は胸を張って認めたいと思うのであります。


       あなたも率直に↓↓

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雄略天皇1

 歴代天皇中、小生が知っている範囲では、もっとも関心を引かれるのが雄略天皇です。

 荒々しい暴君として名をはせておられるこの方のエピソードを紹介しましょう。

 自分の御兄さんである安康天皇が、従兄弟の目弱王(まゆわ王)に殺された時、雄略は(この時はまだ若年だった)この報告を聞いて大いに怒って、もう一人の兄である黒日子(くろひこ)に相談に行く。と黒日子はあまり動揺する様子もない。この態度に雄略は腹が立って、この兄の襟元を掴んで外に連れ出し、切り殺した。

 次にもう一人の兄、白日子に事件の報告に行く。すると白日子も特に動揺するわけではない。また腹が立った彼は、白日子の襟を掴んで外に連れ出し、穴を掘って埋め始めるが、白日子は埋められる途中で死んでしまう。(この話はヤマトタケルを彷彿とさせますね)

 そうしてただちに犯人である目弱王を殺すのですが、目弱王は葛城氏系のツブラ臣(おみ)の家に逃げ込む、ツブラ臣は娘の韓媛(カラヒメ)と全財産を差し上げるから許せと言う。しかし、雄略は邸宅に火を掛け全員焼き殺し、しかし韓媛だけは、ちゃかり自分のモノにしてしまう。

 あと従兄弟は二人いるのですが、それもついでに殺してしまうのです。その一人、市辺ノオシハ皇子については、狩に連れ出し、気を逸らせておいて後ろから切るのです。(じつに卑怯なハーゲン!)そして、死体を切って土に埋めてしまう。

 これで、争そうべき皇位継承者はいなくなった。そして即位。

 天皇になった雄略はとても気短です。周囲の者たちが、自分の質問に答えれないでいると即代表者を切り殺す。天皇のために百済から連れて来られたイイ女が他の男と寝たと知っては、二人を張り付けにして焼き殺す。(暴君ネロだね)


 周囲の者たちはビクビクものです。だんだんと怖い天皇だという評判がたちます。

  
 三重の采女(うねめ)は、天皇にお酒を差し上げようとしたとき、ぱらっと欅(ケヤキ)の一葉が杯に入ってしまう、それを知らずに天皇に杯を献上してしまう。天皇それを見て、娘を打ち伏せ、刀を首に刺そうとした(もうヤクザだね)。そのとき、采女はちょっと待って、といって即興に欅の葉を絡ませた宮廷賛美の和歌を歌う。それに引き続き皇后が、そして天皇が歌い、この歌をもって采女を褒め称え褒美をあげた。

 じつはこの荒々しい雄略天皇が歌を愛でるという点に、小生は興味を引かれるのです。奈良朝末の詩人たちが『万葉集』の第一に雄略天皇御製をおいた意味を想います。

 「籠(こ)もよ み籠もち 掘串(ふくし)もよ み掘串もち この岡に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名告のらさね ・・・・」

 これじつに〈みやび〉の実践でなくてなんでしょう。そして和歌と荒御魂とは源泉を同じくしているということを、かの詩人たちは直感していたのではないでしょうか。

 また、こんな面白いエピソードもありますね。

 天皇が遊びに行った時、川で洗濯をしていた少女がいた。なかなか容姿端麗だ。

天皇 「あなたの名前は」

少女 「引田部赤猪子(あかいこ)です」

天皇  「そのうち宮中に呼ぶから、誰とも結婚するんじゃないよ」そういって、天皇は還っていかれた。

 そして、赤猪子はお召を待つこと幾十年。何の音沙汰もなく、80歳の坂を越えてしまった、赤猪子ついに我慢が出来ず、沢山の結納品を持ってこちらから押しかける。

天皇 「婆さん、何の用でここへ来たんだい?」

赤猪子 「えっ、お忘れですか。ずっと操を守ってこれまで待っていたのですよ。もう80歳を越えて容貌も衰え、駄目と承知の上で、でもついに我慢が出来ずやって来たのです。あなた約束したはずでしょ。」

天皇 「おお、そうなの。でも俺そんなこと言ったかなぁ。ころっと忘れていたよ。しかし、虚しく女盛りを過ぎてしまったね。まあなんと気の毒なことよ。結婚してもいいが、80歳過ぎてできるかなぁ」
(おいおい、自分はどうなんだ!)

赤猪子 「ひどい。ああ、若い人が羨ましい。」と言って泣く。天皇は老婆に多くの品々を与えて帰した。

 残酷な話だねぇ。せめてその時からでも宮中においてやったらいいのにね。今なら雄略さん、フェミニストたちから散々な攻撃を受けるでしょうに、「青春を返せ」ってね。

「籠もよ み籠もち・・・」の歌は、この赤猪子と遭遇したときを連想すると言う人がいますが、そう思うと、ちょっとガックリですね。まあ、野で菜っ葉を摘んでいるのと川で洗濯しているのとは、状況がぜんぜん異なりますから、違うと思いますけど。雄略天皇は、外で少女を見ればおそらく常に新鮮に感じ、声をかけておられたのでしょう。(ドンファンですね)

 しかし、小生は赤猪子の話は、雄略天皇の無頓着さをよく表していると思う。彼の残酷さは、ちょうど幼児がバッタやカマキリの脚をちぎって遊んでいる様を想像させ、それは彼の純潔さを物語るのではないでしょうか。(サド侯爵みたいにね。それほどマニヤックではないけれど)

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仁徳天皇

 仁徳天皇といえば、あの大きな御陵で有名です。小学校か中学校の社会の教科書に写真が載っていたのを思い出します。また大阪は難波のあたりの水路や堤防などの土木事業を積極的に行われたことが史跡に残っていて、土地の人々にはよく知られているようです。小生は記紀を読むようになって、そのお人なりを知りました。

 『日本書紀』の仁徳天皇条には、エピソードがいっぱいあります。そのなかの小生の好きな話。

 夏の暑い日々、天皇は皇后(前皇后は亡くなられたので、次の皇后)とともに摂津に居られた。夜な夜な鹿の鳴き声が聞こえてくる。その声はとても美しくまた悲しく響いて、両陛下はあはれとお感じになるのであった。ところがある時、鹿の鳴き声が聞こえない。天皇はどうして今宵は鳴かないのだろうとお思いになった。

 あくる日、天皇に仕える佐伯部(おそらく遠い地方出身の部民)が天皇にお料理を献上した。天皇はお問いになった、「これは何だね」。献上人「鹿です」。天皇「どこの鹿だね」。献上人「この地のです」。天皇はこの鹿はきっとあの鳴いていた鹿にちがいないとお思いになり、皇后に仰られた「私はここに来て鹿の鳴き声を聞くようになって心が慰められていた。そんなことを知るよしもない佐伯部が、私のためにあの鹿肉をもってきたのは、やむを得ないとしても、なんとも恨めしい気持ちだ。だから、佐伯部をこの宮には置いておきたくない。転勤させよう。」と仰った。

 あの鹿が肉となって出てきた時の天皇のご無念はいかばかりであったでしょう。転勤の処遇を取られたお気持ちもよく解ります。この話は『古事記』には出て来ませんが、とにかく仁徳天皇はじっと我慢するお人だったようですね。

天皇の初めの皇后はとても嫉妬深く、周りはそのためにとてもぴりぴりしていました。その話を紹介しましょう。

 皇后は異常な嫉妬心をもっておられた。宮中の侍女たちは、それはもう常に戦々恐々としていなければならなかった。ちょっと目立った風なことをすれば、皇后に嫉まれ下ろされるのでありました。

 あるとき顔の美しいという評判の吉備出身の姫が宮中に仕えとして召されたのでしたが、皇后が怖くて実家に帰ってしまった。天皇は姫の帰る船を高台から望まれ歌を詠われた。ところがこのことに皇后は立腹され、使いを派遣し姫を船から降ろさせ、歩いて帰らせました。天皇はじっと我慢をしておられたが、姫への恋しさに負け、皇后に「ちょっと淡路島を見たくなったから行ってくるね」と言って、淡路島経由でそっと吉備の国へ行かれた。そこで、食事のための野菜を姫と一緒に摘み、歌を詠まれた。

 山かたに蒔ける青菜も吉備人と共に採めば楽しくもあるか

 そして、別れの歌を交わして天皇は一人難波にお帰りになった。

 なんともつつましく、みやびな話ではありませんか。まるで伊勢物語の世界ですね。この話は『日本書紀』にはありません。今度は記紀に共通の話。

 仁徳天皇は前々から異母妹の八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)に気があられた。皇后が豊楽(とよのあかり=酒宴)のための柏の葉をとりに紀伊の国に行かれた。これはいいチャンスとばかりに、天皇は郎女を招き入れた。ところが、水取の司、つまり水道局に勤める男が船で帰郷するとき偶然出くわした侍女にそのことをオーバーに、このごろ天皇は郎女と昼夜を問わず遊び戯れておられる、と報告した。このことを皇后は侍女から聞かされて、怒り心頭に発し、その御船の載せし柏葉をことごとく海に投げ棄ててしまわれた。そして難波を素通りして、葛城の実家にお帰りになった。
 天皇は、なんとかして皇后を引きもどそうとされるのだが・・・。

 ついでにもう一つの話。

 仁徳天皇はやはり異母妹の女鳥王(メドリノミコ)が欲しいなぁと思い、異母弟の速総別王(ハヤブサワケミコ)に仲介を頼まれた。速総別王が女鳥王のところに行って、天皇のお気持ちを伝えると、女鳥王は、皇后が怖いからイヤ、速総別さまとならいいわ、と言ったので、なんと二人はそこで結ばれてしまった。そんなことをお知りにならない天皇は、返事がなかなか来ないので、自ら女鳥王のところにおいでになって、敷居のところにお座りになり、「その着物は誰のために織っているの」とお尋ねになられた。女鳥王答えて、「速総別王さまのためですわ」。 天皇は女鳥王の心を知ってお帰りになった。

 ところが、その後、女鳥王は速総別王に謀反を勧める。それを耳にされた天皇は、弟を滅ぼそうとされた。天皇の軍勢に追われて二人は宇陀に逃げるが、終に捕らえられる。皇后は軍の総大将に、女鳥王を殺しても、丁重に扱え、また装飾品を決して奪ってはならないと命じた。しかし酒宴の時、総大将の妻が女鳥王のブレスレットを腕に付けていることが発覚した。皇后は即刻総大将を処刑した。
 このことを天皇はどのように思われたことでしょうか。やはり忍の一字で耐えられたのでしょう。

 そもそも仁徳天皇というお名前(おくりな)からして、よほど人々に慕われておられたのであろう。聖帝として人口に膾炙した話がありますね。

 高山に登られて国見をされて仰った、「国には煙が立っていない。みんな貧しいのだろう。わたしはこれから三年間、租税と夫役を免除する」。そして、ご自分の宮の屋根や塀が壊れていたけれど、雨漏りにも耐えて修理をしなかった。その後、国に煙が立つようになり、人々は豊かになった。人々はこの天皇の御代を讃えて聖帝と称した。

 今も天皇は、東日本大震災で多くの困窮者がいることに心を痛められ、みずからも生活を一段と質素にされたとか。そういえば、明治天皇も、兵士のお弁当のあまりの貧しさに心を痛められ、みずからも粗食にされましたね。

ノブレス・オブリージュという言葉を思い出します、noblesse oblige 高貴なる者に課せられた義務とでもなるのでしょうか、今の言葉では恵まれた者は施しをすべしというのでしょうか。まあ、上に立つ者は下の者をたえず気遣わねばならない。あるいは上に立つ者は危機に対してまず自ら身を処す、というべきでしょうか。昔は我が国でも皇太子や親王は成年に達する頃は軍人になったのは、そういう意味合いもあったのではないでしょうか。
イギリスの王子たちも一般人にまじって社会奉仕をすると聞きます。大統領が軍人出身あるいは兵役の経験がある国もありますね。国政にあずかる我が国の議員さんたちも、危機管理ということを少しでも実感するという意味で、一度は軍や救助隊で働いてみたらと思いますが、如何。



                 
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霊魂の発生2

 ついでに、『万葉集』をぱらぱらめくっていて、見つけた人魂なる語は、巻十六の最後、怕(おそ)ろしき物の歌と題してー

 人魂のさ青なる君がただ一人
  逢へりし雨夜は久しとぞ思ふ(3899)

 これなんぞは、人魂が危害を加えるかもしれないという怖れを感じさせる。

 他にはそんなニュアンスのあるものは見当たらないが、魂が肉体から遊離して、そこらに存在している感覚は、例えば、『巻十五』の激しい恋の歌―

 魂(たましひ)は朝夕に魂触(たまふ)れど
  わが胸にいたし恋の繁きに(3767)

 さらに、天智天皇が危篤になられた時に皇后が歌われた歌を連想するー

 青旗の木幡(こはた)の上を通ふとは
  目には見れどもただに逢はぬかも(148)

 これは、たましひという言葉はないけれど、明らかにそのようなものの存在を感じている。

 他にもあるかもしれない。


 それはそうと、「日本史は怨霊の歴史である」と主張する井沢元彦氏は、文献至上主義の歴史学界を非難してはばからない。歴史学界は、怨霊や祟りそして鎮魂などの用語が、せいぜい奈良末期にしか出てこないから、そういったことは、それ以前には、ましてや古代には無かったと言う。ははあ・・・大学のやっていることはそんなことか、と想像される。どこにそんなことが書いてある、引用文献は何かetc。

 こういう問題でまず引用されるのが、『崇神記』における三輪山伝説である。崇神天皇はヤマトタケルより古く、おそらく紀元100年~200年くらいの人だ。もちろん仏教も儒教も公式には入ってない時期だ。

 崇神天皇の御代に疫病が流行り、人々がどんどん死ぬ。天皇愁ひ嘆きたまひて、神床に居られた夜、大物主大神が夢に顕れたまひて、おっしゃった「これはわが御心である。それゆえ、オホタタネコをしてわが前を祭らしめたまへば、神の気起こらず、国もまた安く平らぎなむ」と。

 ここは、祟りという言葉は出てこないけれど、じっさいは祟っている。そして祟った神を祭れば、許される。これつまり鎮魂の儀式にもう一歩ではないか。神代のこのことから、人代においては祟りー鎮魂になるのではないのかな。

 井沢説の初めから怨霊の歴史であったという説は説得的である。しかし、古代人の感じていたのは、今われわれが言う怨霊ではなかったと思う。それは、もっとケガレに対する恐怖に近いもの、そして鎮魂も自然のある力に対する畏怖の念にもっと近いものではなかったのではないだろうか。古代人の感じていた諸力やニュアンスは、われわれにおいてはかなり薄れていたり、変容し強調されていたりするのではないだろうか。

 今の概念を古代の言葉や行為に当てはめることはできないのではないのか。比喩的に言えば、例えばわれわれの向こう側にある外国語の概念を考えてみるといいと思う。英語でradicalという言葉がある。日本語の辞書には、根本的なとか完全な、あるいは過激な、数学の根(ルート)、化学の遊離基など。文脈に応じた訳を当て嵌めることができるが、それぞれはネイティヴが感じるradicalという英語には一致しないであろうが、たしかに彼らはradicalの概念をもっている。彼らを古代人と置き換えればいい。

 古代の人たちの言葉や行為を、われわれ現代人が現代語でぴったり表現することはできない。そう考えると、「日本は怨霊の歴史である」と言い切る井沢氏もある意味正しいし、「文献にないからない」と言う歴史学界の先生たちもそれなりに正しい、と言える。

 真理は中道にあり。めでたしめでたし。

        ぱちぱち。

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霊魂の発生1

 その昔、小生はヒスイの勾玉をもっていた。それは古代人が身に付けていたものである、と信じている。骨董屋で6万円で買ったものだ。しかし、一昨年の秋、失ってしまった。紐が切れて落してしまったのか、銭湯かジムに置き忘れたのか。とにかく残念でしようがない。その後、現代のレプリカを買ったけれど、これはじつにパワーレスで、あほらしくて身に付ける気がしない。

 ところでこの勾玉の形だけれど、日本独特の物らしい。朝鮮にも一部あるかもしれないけれど。この形は、何を意味しているのだろう。胎児だという説もある。なるほどよく似ているのもある。小生は丸い玉が燃えながら飛んでいる形だと思う。この玉はいわゆる魂で、それはエネルギーを発している源であって、日本の古代人の目にはそのような物が見えたのであろうとかってに信じている。


 魂(たましひ)は霊と書いてもいいが、現代人はたいていは魂を信じている。遺族は遺骨収集をするとき、骨はただのカルシウムの塊ではなく、そこに故人の何かが宿っていると信じている。共産党員に捕まって親や子の写真を踏めと命令されても、写真はただの紙切れだと解っていても踏むとなると躊躇する。

 ところで、〈ケガレ〉〈ミソギ〉あるいは〈ハラヒ〉については、つとに『古事記』には、あのイザナギ命の禊祓(みそぎはらいひ)が書かれていて、古代人はこの観念を生きていたのだな、と思われる。ケガレとは、穢れー気枯―気離れ、何事であれ悪いことを言う。その最たるものは死である。これに触れたり、見たりすることによって、汚染される。これを払い清めることを、ミソギ、ハラヒと言う。
しかし、この時、われわれが今言うところの祟りとか怨霊とかいうものを感じていたのだろうか。

 小生は、我が国の神話にあまりにも露な〈ケガレ―ハラヒ〉と平安時代から顕著になってくる〈怨霊―鎮魂〉との関係やいかに、という問題にしばらく捉えられている。
 
『記紀』に出てくる魂という言葉は、たとえばある神の荒魂をもって国守りの神とするとか、和魂をもって安全の神とするとか、あるいは幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)と述べられているが、これらは実体というより神の働きを示していて、われわれが今言う人の霊魂とか、ましてや怨霊とか、さらにはそれらによる祟り、鎮魂などという言葉はなかなか出てこない。やっと「天武紀」において、天皇が病気になられて招魂(たまふり)をしたという言葉が出てくる。

 鎮魂という言葉は、今はタマシヅメ、すなわち荒魂を鎮めるという意味に使うが、古代は、魂の活性化であって、タマフリと言っていたのを鎮魂と書き表したと聞いたことがある。タマフリとは招魂であって、これは魂が体の外に出ていかないように、体の中に鎮める儀式のことであった。

 それよりはるかに古く、ヤマトタケルは死んで白鳥になって飛んで行った。人々は白鳥を追って走った。白鳥が止まったところに、タケルを祭る神社を造った。この話は、明らかに死後にもその人の魂が続くと人々が信じていたことを物語る。

 ヤマトタケルと天武朝の間には、仏教や儒教の伝来がある。

平城遷都後、沢山の漢籍や仏典を読み、遣唐使としての経験があった大秀才、山上憶良が、おそらく天平の初め頃書いたと思われる、沈痾自哀文(病気にかかって自ら嘆く文『万葉集巻五』)には、祟りや霊そして中国の生き返りの話が出てくるけれど、だかといって、このあたりから、つまりこの言葉の輸入から、突然これらの観念が生じたとはどうも考えにくい。
                                
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阿岐豆志麻

 日本のことをアキヅシマとも言いますが、この蜻蛉(あきづ)とは、トンボのことですね。

 『万葉集』第一巻の二つ目の歌。舒明天皇が香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌(おほみうた)、と題があります。

  大和には 群山あれど 
  とりよろふ 天の香具山 
  登り立ち 国見をすれば 
  国原は 煙立ち立つ 
  海原は かまめ立ち立つ 
  うまし国そ あきづ島 
  大和の国は

 小生とても好きな歌です。この国見とは、ただ眺望を愛でるのではなく、五穀豊穣の祝祭儀礼と言われています。音読してみると、うまし国ぞ!という言葉を発された時の、天皇の息遣いが伝わってくるではありませんか。

 ところで、この「あきづしま」という言葉なのですが。その由来はこうです。

 雄略天皇記にあるお話。

 天皇が阿岐豆野(あきづの)に狩に行かれた時、天皇のお腕にアブが喰らいついた。とそこへ蜻蛉(トンボ)が飛んできて、そのアブを喰らって飛び去った。天皇は、そのことを歌に詠まれ、手柄を立てた蜻蛉にちなんで、「そらみつヤマトの国をアキヅシマと言おう」と。そしてまたその時以来、その野を阿岐豆野という。『日本書紀』にも同様の話があって、天皇は、自分に仕えたこのアキヅの名を残してあげようと蜻蛉(あきづ)嶋倭と讃えた歌を載せてあります。

 しかし、それより古く、神武天皇の条には、天皇が腋上(わきがみ)のほほまの丘というところに登られて、国の状(かたち)を廻らし望みてのたまはく「ああ、素晴らしい国を得たものだ。割と狭いが、蜻蛉の臀呫(となめ)のごとくにあるかな」と。これによりて、始めて秋津洲(あきづしま)の名あり、とあります。

 この蜻蛉のトナメとは、蜻蛉が交尾するとき、お尻をなめる形、69の環状をなしますな、あの形らしいです。体系の注釈は「狭い国ではあるが、蜻蛉がトナメして飛んで行くように、山々が続いて囲んでいる国だな」とあります。小生は、周りを山々に囲まれた盆地をイメージしますが。

 それよりさらに古く、『古事記』のイザナギ、イザナミ二柱の神が沢山の国を産みますね。淡路島、四国、九州、そして佐渡。そのあと本州と思われますが、これが秋津という語の初出だと思います。

 この少し後、速秋津日子神(ハヤアキヅヒコ)と速秋津比売神(ハヤアキヅヒメ)というペアの神も生まれています。ここで、秋津は清明(あか)き、すなわち穢れを祓って清らかな状態をいう、と宣長は言っています。その線をたどると、スサノヲが黄泉の国から逃げてきて、禊祓い(みそぎはらい)をしましたが、水に浸かって、穢れを落としたときに成った神が、神直毘(カムナホビ)神、大直毘神、伊豆能売(イヅノメ)神の三神でしたが、このイヅ(伊豆)はアキヅ(明清)ということばがつまったもので、それは汚垢(けがれ)をすすぎ祓って明く清まりたる意、ということらしいです。

 つまり、「うましくにぞ あきづしま やまとのくには」は、この国は、倭地方をさすのか、もっと広い地域をさすのか、判りませんが、〈あきづしま〉という語によって、とにかく凶事から離れた清らかな国というイメージと繋がります。
         


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文字の伝来

  応神天皇の御代。御母君でいらっしゃる神功皇后の影響が色濃く残っていて、日本と朝鮮半島の行き来が激しく、新羅や百済から、沢山の献上品が届けられます。
 さらに『古事記』にはこう書いてあります。
 
 「天皇は百済国に命じられた〈もし賢人がいたら献上せよ〉。それで和邇(わに)という人が来た。ついでに『論語十巻』『千文一巻』も持ってきた。(この和邇さんは文筆を業とする帰化氏族の祖)また鍛冶屋、機織り、酒造りなどの技術者も来た・・・」

 つまり応神天皇は、これからの国政にはぜひとも文字が必要だ、中国には文字という便利なものがある。これを息子たちが使えるようになるのがよい、と考えたのでしょう。

 応神天皇には沢山の息子さんがいましたが、最愛の息子さんは三男でありまして、名前は宇遅能和紀郎子(=菟道稚郎皇子=ウヂノワキの皇子)という方なのです。それでこの息子さんに皇位を継がせるべく、しっかりと勉強させようと考えられたのでした。

 『日本書紀』によりますと、百済から良馬を献上するために来日していた人で、たまたま経典をよく読めるという阿直岐(アチキ)という人を、天皇はこのウヂノワキ皇子の家庭教師につけるのですが、やや不満だったのでしょうか、もっと秀れた教師を所望するのですね。すると、アチキは、王仁(ワニ)という人が最も秀れた教師だと教えてくれます。

 それで王仁(ワニ)さんを百済から呼んで、「教師とした。諸々の書籍をワニに習ひたまふ。通りさとらずといふことなし。」ワニさん、すごい学がある人だったんでしょう。また若くて賢いウヂノワキ皇子も、スポンジが水を吸い取るように、漢籍を吸収したのでしょう。

 文字が読めるようになったウジノワキ皇子は、その後、高麗の王から書状が届いた時、ただちにその表記の無礼を咎めたと『書紀』には書いてあります。ということは、今まで読める日本人はほとんどいなかったのだから、何を書かれていてもよく判らなかったのでしょう。知らぬがほっとけ、だったのでしょうね。(苦笑)

このウヂノワキ皇子は、父応神天皇亡きあと、お兄さんの大雀皇子(オオサザキ=後の仁徳天皇)と皇位を譲りあうのですが、ご両人はとても遠慮深く、自ら辞退し続けるので、なかなか決まらなく、終にウヂノワキ皇子は死んでしまうのです(『書紀』では自死とあります)。オオサザキは慟哭しますが、後の祭りです。そして仕方なく皇位を継承し仁徳天皇となったのです。

ところで、『論語』と共に伝来したこの『千文一巻』すなわち「千字文」は、文字通り千個の漢字なのですが、こんなふうに伝えられています。

  中国南朝の梁の武帝が王子たちに書を習わせるために、王義之の筆跡の中から千の文字表を作らせた。王子たちはランダムに並んだ千個の文字を覚えることができない。それで、帝は周興嗣(しゅうこうし)という人物に、この千の文字を重複しないように使って、憶えやすいように韻文(意味のある詩文)にせよ、と命じた。周は、一晩かかってそれを成し遂げた。その苦労のゆえに、周の頭は真っ白になったといいます。

 その千字文は、こう始まり、こう終わります。「天地玄黄、宇宙洪荒、・・・・・・・・・謂語助者、焉哉乎也。」 意味解らないけれど、すごいですね。大天才ですね。

 こうして我が国に、文字という便利なツールが定着していったのでした。しかし、それは公文などを書き記すには役に立ったのでしょうが、我が倭の風土と切り離せない歌などを記すには、適さないものだと感じたのではないでしょうか。

 ついでに、『日本書紀』の応神天皇の御代は紀元300年初め。中国の梁の時代は紀元500年初め。いつものことながら、『書紀』の年代は朝鮮や中国の年代と合わないですね。『書紀』は、奈良時代の初め、多くの学者が、いろいろな資料をとり合わせて書いたのでしょう。そこには、知らずして、また故意に、つじつま合わせをしようとしたのでしょう。だからといって、『書紀』は嘘だらけだと捨て去るのは、宝を捨ててしまうことです。つじつま合わせには、そうすべき思惑が、ある思いが、あったはずです。そこに歴史の面白さが浮かび上がってきます。


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奈良見物 3

不退寺に着いたのは、日もだいぶん西に落ち、夕闇が背後からそっと近づいているころであった。門前は鬱蒼とした木々でなお暗い。門から本堂がすぐそこに見えるが、灌木の茫々たる茂みで、かなり隠されている。落ち葉が散らかり、あまり手入れはされていない様子である。あの末摘花が侘び住まいの荒れ果てた屋敷をいやでも思い出させる。

 門は四脚門。左手に料金窓口があるが、このところ使用した形跡はなく、窓口はしっかり閉じられている。この寺はあまり人が訪れないのであろうか。荒れ果てた古寺とさえいえる。小生も業平ゆかりの寺というのでなければ、わざわざ寄らなかったかもしれない。

 勝手に入っていくと、「石棺」を示す矢印のままに進むと、住職と思しき老人と中年婦人がいる。そこで料金を払う。縁側で焦げ茶色の猫が眠そうな目をこちらに向けている。

 石棺は、大昔近くの古墳から運んで来られたものであるらしい。説明には「心ない草刈りの人らが鎌を研いた痕が沢山残っている」とある。しかし、昔の人たちにとって石棺がとくに貴重なものであったわけではなかろうに。石棺は石風呂に見えた。

 本堂に入ると、さっきの老人が危なっかしい足取りで、急いで追ってきて電気を灯け、尊像などの説明を始めた。今まで何千回と客に向かって繰り返したであろう有り難い説明は、しかし小生の耳にはほとんど入ってこなかった。ただ、ここがあの業平が建立した、あるいは少なくとも一時は居たところだという思いが、胸の内に反響していた。

 この本堂は古めいたしっかりした建物だ。庭正面から見直すとさらにはっきりする。そしてまた、所せましと生えている躑躅や椿が剪定を免れて茫々となっているのが、何となく似つかわしい。

 古寺・・・業平の青春の恋物語、筒井筒の思い出は、謡曲『井筒』にあますところなく描かれた。

 「さなきだに物の淋しき秋の夜の、人目稀なる古寺の庭の松風ふけ過ぎて、月も傾く軒端の草。忘れて過ぎしいにしへを、しのぶ顔にていつまでか、待つことなくてながらへん。げに何ごとも思ひ出の、人には残る世の中かな・・・」

 そして、井筒の女は昔を想い、昔を演じる。
 「今は亡き世になりひらの 形見の直衣身に触れて 恥づかしや 昔男に移り舞 雪を廻らす花の袖・・・ここにきて 昔ぞ返す在原の 寺井に澄める月ぞさやけき
「月やあらぬ 春や昔とながめしも いつの頃ぞや
「筒井筒 井筒にかけしまろがたけ 生ひにけらしな 生ひにけるぞや 
「さながら見みえし ・・・業平の面影
「見ればなつかしや・・・

      *

いったい今は昔とある古人は言ったが、昔とはなんであろうか。

過去とは何か?

年表を開けて、今は2010年だ、1945年は大東亜戦争が終わった年だ、794年は平安遷都だ、それらは過去のことだ、というとき、それは実は過去ではない。文字通りすべて同じ平面上にある現在だ。恐竜がこのあたりを練り歩いているところを想像しても、それだけでは過去ではない、現在の映像だ。

 とすると、過去の過去たるところは何に拠るのか。それは「懐かしい」という感情にあるのではないか。

 翻って今とは何か?

 今という瞬間はない。それは微分学的観念にすぎない。「今何をしている」と問われて、「今は手を洗っている」というとき、今とは5秒か10秒くらいのことであろう。「今伊勢物語を読んでいる」というと、ここ一週間くらいのことであり、「今料理学校に行っている」というと、2、3年のことををさすであろう。つまり、今とは関心の領域を示す用語だ。

 とすると、小生のように常に大昔のことを想っている人間にとって、今とは何か。むかし男ありけりの物語はじつに今に属し、そしてそれが懐かしいと感じるならば、そのゆえに確実に過去たりえている。昔が今によみがえるとは、そういうことではないのか。歴史に触れるとは何か。

 懐かしいという感情。それは、あの時は二度と還ってこないという思いである。取り返しがつかないという思いである。
 その時、年表の右から左に増える年号の無機的な羅列とは別に、それと垂直に交わる深みがあるのに気付く。それこそ、真の過去と現在とが交流する生きた歴史であり、自分がそのうちにあることに気づく。




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奈良見物 2

 法華寺は正式には法華滅罪之寺という。光明皇后御願の総国分尼寺である。門をくぐると左手に大きな江戸風の鐘楼がある。そこを迂回すると本堂だ。しかし、「名勝庭園公開中」という看板につられるまま先に奥の庭園に入る。

 入ってやや狭苦しい茂みを過ぎると、池を囲んで、松、泰山木などの常緑樹が散在する中、小さな紅葉が数本目立つ。風のない午後の陰りを、池を迂回するように歩く。静かだ。鳥の声以外に何も聞こえない。

 池を三分の二周したぐらいのところに、二棟の平屋がある。その縁先から庭を眺めると、手前には池の続きの入組んだ水路があり、それを取り囲む人工的な柵の中に水仙のような菖蒲のようなつんつんした葉が密生している。その外側には躑躅と苔むした石組み、さらに向こうは常緑の林。
 この庭園の一種雑然たる佇まいは、おそらく代々の気質の異なった人の手が加わったからだろうと感じた。

 庭を出て、本堂に入る。尊像が並ぶなか、中央の扉は閉じている。ここに入っておられる国宝十一面観音菩薩は、あの慈悲深い光明皇后の噂を伝え聞いたインドの王様が、わざわざ仏師をインドから派遣して創らせたものだと言う。きっとあまりに有り難いものなのであろう。その右隣に新しい模造が立っている。模造とはいえ白檀の一木作の名品であるらしい。出入口のおばさんが、昨日まで特別開扉期間で開いていのだけど、あれ(模造)とほぼ同じものですよ、と言って、写真を見せてくれた。 一句
 
 思ひ思ふ 扉のむこう 秋夕べ

 本堂の右手後ろに「から風呂」がある。ここで光明皇后が手ずから千人の病人の垢をお流しあそばされたところだと伝えられる。不比等の娘さんであられる光明皇后が、父の住んだ地にこの滅罪時を建てられたそのお心、夫聖武天皇のご彷徨と大仏造営とあいまって、当時の政治的社会的状況はいかばかりであったろうと想う。

 年表をひもとくと

729年 長屋王の変。
737年 天然痘による藤原四兄弟(不比等の息子)の死。
740年 藤原広嗣の乱。
741年 聖武天皇、国分寺・国分尼寺建立の詔。
749年 聖武天皇譲位。娘である孝謙天皇即位。

ついでにその後

757年 大仏開眼供養。
757年 橘奈良麻呂の変。
    淳仁天皇即位。
759年 大伴家持、左遷された因幡にて『万葉集』の最後歌、あの沈鬱な「新(あらた)しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」を詠む。
760年 恵美押勝(仲麻呂)太政大臣になる。
764年 恵美押勝の乱。
    一首

いつの世もあらそひあれど人々のふかき心もたゆることなし




        
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奈良見物 1

 先週末、橿原に用事があるついでに奈良見物をしてきた。今年平城遷都一三〇〇年記念ということで、奈良市は常に増して地域のアピールを行っている。

 せっかくだから、平城宮跡に行きたいし、そこに行くなら、そのあたりの名所を、いろいろ回りたいし、ということで、西大寺駅でレンタサイクルを借りた。いつも家ではマウンテンバイクを乗っているので、このママチャリに乗ると何となく優雅な感じがする。飛ばす気にならないのがいい。折から天気もよく、暑くもなく寒くもなく、風も軽微だ。

 一一月中旬とはいえ、今年はまだまだとくに寒いっていうほどの日はないので、今日のような日を小春日和というのは変なのかなぁと思いながらも、口をついて出てきた歌が「はーるの、うらあらあの、隅田川~」。

 十分かそこらで秋篠寺到着。門前駐輪して入っていく感覚がカジュアルで気持ちいい。

 さほど広くない参道の両側には萩の小枝が迫り出していて、初秋の小さな赤い花びらの爛漫を幻のうちに見る。そこを折れると木立のかげは苔の海。その細道を通り抜け、料金小屋をすぎると、明るい御庭が広がっていて、そのやや右手に本堂と思しき建物がある。所々に紅葉した木が背景の緑から浮き出ている。

 堂内諸尊像を見る、と言うのも変な言い方であると感じられ、むしろこちらが見られている。仏像を見るときはいつもそうだ。薬師如来を中心に、創られた時代がさまざまな尊像が十体くらい並んでおられる。このように並べ置いた古人の心を思う。

 この中でやはり伎芸天のちょっと首をかしげた優美な御姿が異彩を放っている。これすでに天平時代の作であるとすれば、われわれがいま不器用にも 宗教と美術とを分けて考えている、ある心の動きが本来単一なというか単純な不可分なものだと思われる。信仰と享受はわれわれにとって分かちがたいものなのだ。

 本堂とは別の方角に、ちょっと変わった、むしろ近代的な一宇の堂がある。近づくとボランティアの男女が入り口でビニール袋を渡すので、靴をそこに入れきざはしを上る。堂内正面奥で解説が言うには、いつもは六月六日の一日しか開けないが、今は特別秘仏開帳期間で開けている、これは大元帥明王という尊像である云々。

 この尊像は、全身真っ黒で、なんとも恐ろしい形相をしておられる。獣のようでもあり般若のようでもある憤怒の極致、怒髪天を衝くとはまさにこのことだ。筋骨隆々、蛇を肢体に巻きつけ、腕は六本、手には法具と武器を持っておられる。
 
 キリスト教文明においては、右手に武器と左手に聖書を持つが、密教においてはさらに沢山の手に法具と武器を持つ。そして、金剛杵のように、法具はすでに武器である。もちろん仏教においては、戦闘ははるかに精神的な意味であろうが、解脱に至る道は非常な困難を伴い、尊法護持のためには超人的力を必要とするようだ。

 この濃密な密教空間を去って、ママチャリはまた爽やか秋の空の下、平城宮跡に向かった。レンタサイクル所で、地図をもらい、しっかり説明をしてもらっていたおかげで、迷うことなく、あっという間に平城宮跡に到着。とはいっても、小生は裏の片隅から入っていたことになるが、守衛さんに道を聞いたら、この自転車が一番いいんだよと、えらく褒めてもらった。なんでやねんと思ったが、そのすぐ後で判った。

 広い。あまりに広い。これは歩いて回れるようなところではない。南の朱雀門から北の大極殿を見ると、たいていの人は行く気が萎えてしまうに違いない。ましてや西の端にある資料館や東の端にある東院庭園もすべて見て回ろうとする人がいるだろうか。

 小生は歩いている人たちを尻目に、軽快に風を切る。微かな優越感が胸をよぎる(こんなことで!)。しかし、お年寄りを見ると気の毒に思った。まして遷都一三〇〇年ということで、大挙してここを訪れ、あの酷暑の日なか長蛇の列をなしてイヴェント会場前で並んだであろう、お年寄りや肢体不自由の人たちのことを思うと、心が痛んだ。

 一三〇〇年前、ここが日本の中枢だった。霞が関と皇居だった。とはいっても、これから国家をどのように創っていくのか、どのように体裁を整えていくのか、もっとも悩ましい、もっとも希望にあふれた、じつに熱い時代であったと想像する。

 八世紀初頭。大宝律令七〇一年。平城遷都七一〇年。古事記編纂七一二年。養老律令七一八年。日本書紀編纂七二〇年。総理大臣は差し詰め藤原不比等。

 梅原猛氏の説においては、本居宣長の『古事記』は超歴史的であり、永遠の神の道が説かれている、しかしそれは違う。津田左右吉の『古事記』は、六世紀の大和政権の成立過程で成った、天皇制確立のための神話制作であるが、それも違う。『古事記』はまさに八世紀の産物であって、それは過去の神話ではなく、当時の政治のこれからを担った書である。すなわち、新しい天皇制の確立(持統天皇→アマテラス、皇后から孫へ)と同時に、反抗者(スサノヲ系)の排除とその鎮魂の書であり、その為の祓(はらえ)こそ中臣祝詞(大祓)であり、これらと大宝律令は軌を一にしている、伊勢神宮(アマテラス)、出雲大社(スサノヲ)、春日神社(タケミカヅチ)に日本神祭の秘密がある云々と。

 梅原学説は全体的にはなかなか精緻で説得的ではあるかもしれない。しかし、神話の政治的のみでの解釈には無理が多すぎるのではないか。『古事記』をこれからのヴィジョンを示している書とするには、小生に言わせれば、面白すぎるのだ。もちろんそれもあるかもしれないが、何かもっと無意識的な広がりがあるように感じる。また、宣長流に大事なのは政治機構よりも信仰の側にある。つまり、たとえば「天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神」を文字通りそのまま信じた〈こころばへ〉なのである。
 つまり、日本のシステムはこのように創られてきたことの解明はむろん大事であろう。が、だからといって、そのシステムと日本人の根源的な〈こころばへ〉とは、また違う。そして、これからのシステムの改変が絶えず過去に問い合わせをしなければならないのは、この〈こころばへ〉ではなかろうか。

 国家神道を創ることとはなんであろうか。奈良時代と明治時代。理想としの〈あの日本人〉と国家のシステム。

 まあ、難しい話はさておいて、先に進もう。平城宮跡をあちこち軽快に乗り回していたら、すでに日は西に傾いている。自転車を五時には返さねばならない。返す先は奈良市の真ん中の近鉄駅近くのバスターミナル横に決めている。そこへ行くまでに途中、法華寺と不退寺に寄ろうと思っている。

                                つづく


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「水手」の語源

水手も水夫も〈かこ〉と読むことは知っていたが、なぜそう読まれるようになったのかは知らなかった。

 先日『日本書紀』の第十巻「応神天皇」の条を読んでいて判った。もちろんそれは地名起源説話、つまり一つの後付け話であろうけれど。

 「応神記」(古事記)は、応神天皇の事績につて、朝鮮との外交と交易以外、とりたてて話がない。それとて、母神功皇后の仕事の続きみたいなものである。大体の印象は、応神天皇はお酒が好きで終始起源がよろしい。ここはむしろ後継ぎオホサザキ命(後の仁徳天皇)への言及が多い。

 日向(宮崎県)に、有名な美人がいることを応神天皇が御耳になさって、宮中に呼び寄せられた。そのとき、息子の一人オオササギがちらっと目にして、その美しさに激しく心を動かされてしまう。彼はとても率直だったから、この女性(髪長媛 かみながひめ)を欲しいという。そのことをお知りになった天皇は、この息子に媛をあげようとおぼしめす(なんと気前のよろしいことか)。そして親子で御歌の応酬をされて、めでたしめでたし。

 「日本書紀」では、そこに別伝。
 淡路島で御狩中の天皇が西の方を見られると、数十頭の鹿が海を泳いで、播磨の港に入っていく。(ここは今の兵庫県加古川市の加古川河口付近らしい)天皇のたまわく「どうして鹿がこんなに来てるの」。側近たちも不思議に思って、使者をやる。判ったことは、日向の諸県君牛(もろがたのきみうし)と言う人は朝廷に勤めていたが、歳をとって退職し故郷に帰った。しかし、朝廷を忘れることができず、我が娘髪長媛をたてまつる。そのために、大ぜいに鹿の頭付きの皮を着せて、天皇のおられるところに向かわせていたとのことであった。
 天皇大いにお喜びになって、御船に引き揚げさせられた。それが着いた港を、時の人は「鹿子水門」(かのこみなと)と呼んだ。それが加古港と字を変え、また、船をこぐ人(水手)を〈かこ〉と言うようになった、という。
 
 思うに、昔から加古川の河口に港があって、加古(かこ)を鹿子とも書けることから、そこに、日向から来た髪長媛を乗せた船がそこに到着した話がひっついて、このような地名起源説話が生まれたのだろう。

しかし、大事なのは説話を生む構想力があるということであろう。その本源は神話を生む力であり、物語を生む力であり、ひいては現代において小説を生む力につながるものと思われる。それはたんなる慰め事であるとは思えない。




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住吉三神

 神功皇后はスミノエ三神の加護により新羅遠征を成功させる。そのさいの軍船の導きとして、その荒魂(あらみたま)を、守りとして和魂(にぎみたま)を礼拝したとある(『書紀』)。

 荒魂は攻撃的な霊力、和魂は守りの霊力という。おかげで新羅遠征はスムースに運び、皇后は、事前のお言葉通り、敵国への残虐行為などはせず新羅王を服従させ、朝貢させることに成功する。どういうわけか高麗、百済も、倭(日本)に適わぬとみて、朝貢することになったとも。帰るさ新羅国王の門に杖を立て、スミノエ三神の荒魂を祀った。

 帰国して、まず山口県の穴門(あなと)、今は下関市になっている地に荒魂を祭り、これが住吉(スミノエ)神社。以後瀬戸内海には多くの住吉社が創られたと聞いている。


 ところで、面白いのは、朝鮮最古の史書『三国史記』新羅本紀によると、ちょうどその頃(紀元四百年すこし前)、新羅軍が倭人(日本軍)を上手く攻略した話がもっぱら。『記紀』との記述と大いに違う。
また、今は中国領、当時高句麗であった広開土王碑文の記載は、百済と新羅は高句麗の属国であって朝貢させていたが、倭が横取りした(391年)・・・・新羅に満ち溢れていた倭軍を高句麗軍が徹底的にせん滅した。

 今と同じ。歴史認識の溝は深いというけれど、そこには偏狭な国家的欲望がついて回るから当たり前だね、一致の不可能は。

 また、朝鮮の『三国史記』は1145年に高麗王が撰したもので、これは中国や日本の資料などを集めて作ったもの。もともと、朝鮮には『記紀』より古く『百済紀』『新羅紀』『高句麗紀』などがあったらしいが、何せ朝鮮半島はしょっちゅう戦乱下にあって、残念ながらほとんどが消失してしまったらしい。今でもあそこは北と南で戦っているし・・・。



       
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禊ぎ

 住吉(すみのえ)三神が気になって、イザナギ命が黄泉国(よみのくに)に居るイザナミ命を見、そこから脱出するところをもう一度なぞってみた。
 
 イナザギは、国づくりがまだ終わっていないから、もういちど現し世に帰ってきて、とイザナミに言う。イザナミはありがたく思い、「ちょっと待って、黄泉国の神様に訊いてくる」と言って、奥に行く。しかし、なかなか帰ってこないので、イザナギは櫛の歯を一本取って火を灯して見ると、驚いたことに、イザナミの死体が腐ってウジ虫が湧いて、体中に〈雷神〉が生じていた。
 
 イザナギは、怖くて逃げようとするが、イザナミは「見たな~」と言って、黄泉醜女(よもつしこめ)らをけしかけて追いかける。逃げるイザナギは、御鬘(かづら)を投げるとこれが山ブドウになった。追手がそれを食べている間にどんどん逃げる。がなお追ってくるので、今度は櫛の歯を投げるとタケノコになった。追手がそれを食べる間にまた逃げる。今度は、雷率いる軍団を追手に遣わす。イザナギは刀を後ろ手に振り回し逃げる。
 (トムとジェリーみたいで面白いですね)

 とうとう、黄泉国と現世との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の麓に来る。そこで、イザナギは三個の桃を投げつけると、追手は逃げ帰った。最後にイザナミ自身が追ってきた。イザナギは巨大な岩を坂の中央に置き、その岩を挟んで両者は対峙した。イザナミは「よーし、これからは、現世の人を一日に千人殺す」と言うと、イザナギ「では、こちらは一日に千五百人の人を生もう」と言った。

 脱出したイザナギは開口一番、「あんないやらしい汚い国から帰ってきた、まず身の禊ぎをしよう」

 ここから禊ぎが始まる。持っているもの、杖、帯、袋、衣、袴、冠、左と右の手巻き、を投げ捨てる。とそれが次々と神になる。その神の名前が大事なのだが、省略する。

 『記紀』の神の名前は、それぞれのある作用(ハタラキ)を指しており、いわばこの現象世界の事物は実相世界のハタラキによってなるとは谷口雅春の語るところである。
 イザナミ、イザナギでも、「イ」というのは、生命(イノチ)のイ、生きるの「イ」、息の「イ」を表す言霊のもつ響きであろうし、「さ」というのは、サラサラとかサワサワとか、「触る」の「サ」、「さする」の「サ」、ものが触れ合うニュアンスをもつ言霊の響きであろう。
 「なぎ」は凪、一様にする、静かに平らかにする作用の言霊の、「なみ」は、細かく動く、刻みを入れる作用の言霊の響きであろう。
 というふうに、何何神というのは、それぞれのハタラキを表す。
 
 そもそも神話や民話というものは何なのか。それはわれわれが勝手に創るオモシロイお話とは違う。誰が創ったというようなものではない。自然に生まれてきたものである。遠い昔、それぞれの民族は〈自然〉と直に対話していたのではないかと思われる。その〈自然〉はわれわれ現代人がイメージする物質的自然ではもちろんない。そしてまたおそらくわれわれの思うたんなる心の世界でもないかもしれない。

 われわれ文明人は、一日24時間のうち99.99%を、生活に、つまり食べたり稼いだり人と付き合ったり・・・要するに何らかの有効性に意識を向けている。そして〈自然〉は、そのような意識に対しては、せいぜいその一面をむけるだけで、けっして秘密の扉を開かないのではないだろうか。
 
 われわれが日常意識している現象世界にたいして、ギリシャ人がイデア界を、近世哲学者が物自体を、宗教家が実相世界を、言ってきたのは故のないことではない。現象の向うにある世界、あるいは現象を成り立たしめている世界、あるいは現象がその世界のほんの一側面であるような領域を想定しなければ、どうもピンとこないようなことがある。自然現象といい、生物世界といい、われわれの日常の知覚や行為といい、問い詰めていけば、あらゆる問いがそうである。

 ベルクソンはうまいことを言ったものだ、「われわれは目を持っているにもかかわらず見ることができる」と。生活に浸りきっているわれわれの目は、ほとんど日常の有効性にのみ向けられている。だが、それを離れて〈真に観る〉訓練をしている人たちがいる。それがいわゆる芸術家という人たちだ。彼らは、己の目を功利性から遠ざけ、知覚を深化させる。われわれは自然を見また自然もわれわれを見ているという、いわば自然との信頼を回復しようと日々訓練している。われわれは、彼らの作品を通じて、彼らの訓練の幾分かを分有し〈自然〉に参入しようとする。

 宗教家が実相観入というとき、それとよく似た事情が起こっているのではなかろうか。そして、神話に接するわれわれもまた〈実相観入〉に導かれているのではなかろうか。『神話』を読むとき、われわれは単に現象世界のお話ではなく、あの領域からの諸力を感じるように誘われているのではないだろうか。
 
 したがって、非常に根源的な領域の力に関しては、世界中には似たような物語があってもおかしくはない。アダムとイヴの侵犯やイザナギとイザナミの覗き見などは、例えばメソポタミアやスカンジナビアにも似たような神話が仮にあっても、同じ人類であってみれば当然ではないだろうか、と思う。

 日本人であるわれわれは『記紀』を読むとき、そこで語られている日本語の言霊がいわば発している周波数に、こちらの心を合わせていかなければならないように思われる。だから神々の名前も、へんてこりんな名前が多くあるが、そうあらねばならなかった必然性があるはずで、読む者はそれをいちいち触覚的および聴覚的に探りつつ読まねばならないと思うし、物語の内容もただの物語ではなく、まさにそう語らねばならなかったある世界の諸力を受け取らねばならないと思う。

 閑話休題。イザナミの禊ぎである。身につける物を脱ぐに因って生る神々があった。
 そして水に入る。「上の瀬は流れが速いく、下の瀬は流れが弱い」、それで中ほどの瀬にお入りになって、すすきたまふとき、成った神は、八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)と大禍津日神で、これは黄泉国での汚穢による神。
 宣長は、ナはアに通じ、ゆえにナカ(中)はアカ(清明)であって、「いま禊したまひて清明くなりたまふ瀬なればなり」と言っている。
 
 次に禍を直すために成った神は、神直毘神(カムナホビノカミ)と大直毘神と伊豆能売神(イヅノメノカミ。次に、水底にすすぎたまふとき成った神、そして中と上に成った神に、それぞれ、底津綿津見神(ソコワタツミノカミ)と底筒之男神(ソコツツノヲノカミ)、中津綿津見神と中筒之男神、上津綿津見神と上筒之男神が出てくる。そしてこの筒の男神三柱が「墨江(すみのえ)之三前之大神也」。

 禊ぎとは、まず持っているものをことごとく捨てること。禊ぎは身削ぎである。余分な思いを捨てねばならない。そして、ちょうどよい流れの水で体を清めねばならない。一気に吐き出してはいけないし、あまり逡巡していてもいけない。とこう寓意的に解釈したいが、宣長によるとそれはさかしら心による強弁だということになろう。なにはともあれ、宣長は物と心を分離して考える思考をヒガゴトとして排ける。

 この後で、直毘がやってくる。平常に復する。復したら、水の底で、そして中ほどで、そして上で、さらにすすぐ。この住吉(スミノエ)三神は、底から一気に上がってはいけないので、順序を踏んでそそがなくてはならない。つまり秩序付けのハタラキをいうとは谷口説。
 ちなみに住吉三神は、清水のカミから、神功皇后の新羅遠征や遣唐使で助けてくれる航海の指針となる神となる。

 そして、この禊ぎの後、清浄な秩序が整ったからには、イザナギの目と鼻から、もっとも日本人にとって重要な、アマテラス大御神とスサノヲ男命、そして月読命が生まれる。
 


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仲哀記

 『古事記』の「仲哀記」において、仲哀天皇はいわば前座を務めるだけで、真の主人公は神功皇后そして副主人公は建内宿禰の物語である。

 天皇が(「日本書紀」では宿禰が)琴を弾き、皇后は神がかりとなって、その神が新羅征伐を奨めるが、仲哀天皇は神を信じない。すると神は仲哀天皇を殺すのである。いったいこの神は何なの、という疑問が湧く。

 そして、とりあえず仮葬するのみならず、ついでに大祓をする。すなわち人々が犯した罪を清めるのである。動物虐待、田んぼの畦や溝の破壊、汚物の撒き散らし、近親相姦、獣姦。

 するとまた先ほどの神の託宣は、神功皇后のお腹の子は男の子(応神天皇)であるよと。そして宿禰がさらに、このように託宣を下す神はどなたか、と訊くと、神は答えて「天照大神の御意志だ。また底筒男・中筒男・上筒男三柱(住吉三神)だ」と言う。

 『日本書紀』では、ちょっとニュアンスが違い、神はなかなか答えないで、さんざんはぐらかした末、やっと答える。が、もう一人、事代主神(オオクニヌシの息子)も加わっている。

 そこで面白いのが、底筒男、中筒男、上筒男の住吉三神は、神代のその昔、イザナギ命が、死んだ妻イザナミ命の黄泉の国での姿(汚い死体、とにかく日本人にとって死はケガレ)をこっそり見て、逃げ帰って、体を清める=禊ぎをするために川に入る。イザナミ命が川の底、中ほど、上のほうですすぐ時、それぞれの三神が生まれている。

 つまり、この住吉三神は、罪=ケガレを祓う時の神である。そして、住吉はもともとスミノエと読んだのは、スミノエとは清の江だからである。

 古代日本における罪とは、概して自然災害を含め、ともかく悪いこと(災い)を指すらしい(宣長)。

 そして、この神功皇后。この女性は、『日本書紀』のなかで歴代天皇と同等の地位を占める唯一の女性である。
 『書記』は語る、「幼くして聡明叡智、貌容は壮麗。父の王あやしびたまふ。」そうして、神の声を伝えるシャーマンでもある。新羅に攻め入るにあたっては、男装し、「みづから、斧まさかりを執りて、三軍に命令してのたまはく、『隊列を乱すな、私欲のままに宝を取るな、婦女に暴行するな、降伏してきた敵兵を殺すな、家族のことを考えたり逃げたりするな、・・・』
 すごい女傑だ。西にブリュンヒルデあれば東に神功皇后あり、って感じかな。
 しかもこのとき臨月だった。後の応神天皇を身ごもっていた。そして遠征が終わるまで、出産を遅らせた。こうなると女傑と言うより魔女だな。

 『書記』作者らは、神功皇后の巻を書くにあたって、アマテラス、卑弥呼を念頭に置いていたとも。あるいは、斉明天皇を、また、あるいは、持統天皇、元明・元正天皇を念頭に置いていたとも。しかし、誰がモデルであろうとも、物語の面白さには本質的に関係がない。


       
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草薙の剣 2

 『尾張國熱田太神宮縁記』に草薙剣盗難事件について載っています。

 天智天皇7年(668年)。新羅の僧道行がこの神剣を盗んで本国に持って帰ろうとした。祈るふりをしてこっそりと祠に入り剣を袈裟に包んで伊勢の国に逃げた。宿にいる間に、神剣は袈裟を抜け出て熱田の社に戻った。道行は再度盗んで袈裟に包んで、今度は摂津の国に逃げた。難波津より船で新羅に戻ろうとしたが、途中で気を失ってしまい、また難波津に漂着してしまった。
 この時、神剣がある人に乗り移って託宣して曰く「われは熱田の神体である。妖僧に欺かれて危うく新羅へ行ってしまうところだった。初めは7條の袈裟から脱出して社に戻ったが、次は9條の袈裟に包まれたので脱出できなかった。」
 このとき役人らは驚き怪しみ、犯人を探そうと東奔西走した。道行は考えた、この神剣を持っているところを見つかったら捕まってしまう、捨ててしまおうと。ところが、捨てようとしても、どうしても剣は身にひっついて離れず、ついに自首してしまい、結局処刑された。
 続いて、天武天皇の御代(686年)天皇が病になり、占ったところ、草薙の剣の祟りだという。そこで役人に勅して、剣を熱田神宮に戻した。(ということは、このとき宮中に留め置かれていたということになりますね)そして、それ以来7人の守備人を置き、彼らは税金を免除された。(つまり、この時以来、熱田神宮は神剣を祀る社として国家の管理下に置かれることになったということですね)。
(小生は、新羅と結びついた天武天皇の複雑な胸の内を想像してしまいます)

 このことはすべて、ミヤズヒメとタケイナダネの縁によるもの。ミヤズヒメは亡くなったのち、氷上姉子神社に鎮座されております。ここは元々ミヤズヒメの館があった大高の地です。そして海部氏(尾張氏)をもって神主となさしめました。イナダネは、火明命(ホアカリノミコト)の11代孫の乎止与(ヲトヨ)尾張国造の子供です。(井口y子氏作成系図より)

 そもそも、天照太御神(アマテラス)の孫、兄のアメノホアカリと弟のホノニニギとの系統ですが、兄の系統が尾張氏となり、弟の系統が天皇家となるのですね。『日本書紀』はもちろん天皇家を中心として書かれていますから、尾張家のほうはカット。しかしタケイナダネとミヤズヒメから天皇家との繋がりが深くなります。ミヤズヒメは姪たちを天皇の妃にさせます。また、甥たちは仁徳朝においては大臣として活躍しました、尾張国造(くにのみやつこ)から尾張連(むらじ)となるのでした。


   

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草薙の剣

草薙の剣は現在、名古屋市にある熱田神宮の御神体です。この由来についてちょいと調べてみました。

 ヤマタノオロチという言葉は日本で育った人ならば耳にしたことがあるでしょう。『古事記』『日本書紀』に出てきます。出雲地方に棲むオロチをやっつけたスサノヲ(ノミコト)は最後にオロチの尻尾のほうに刀を入れると、カチッといって刃が欠けます。不思議に思いそこを切り裂いてみると、中から剣が出てきたのです。それがこの草薙の剣なのです。(この物語は出雲神楽ではもう定番中の定番です)
 スサノヲは、是神剣也(これ神剣なり)ということで、天神(天上の神、おそらくアマテラス)に捧げました。

 次に天孫降臨のとき、つまり天上の神々(大和政権)が出雲地方のオオクニヌシを平らげて、この地にニニギノミコトという代理人を送るのですが、三種の神器の一つとして草薙の剣を持たせたのです。これ以後、天皇家が宮中で所持することとなったのです。
 ところが、崇神天皇の御代、トヨスキイリヒメをして、剣(と鏡)を外に祀らせ、それをしかるべきところに置くこととなりました。そのしかるべき場所とはアマテラスが御鎮座する場所です。トヨスキイリヒメにその役目をバトンタッチした倭姫命(ヤマトヒメ)が、大和→伊賀→近江→美濃→尾張と経巡って、終に伊勢の地に落ち着き、ここでヤマトヒメは剣を守っていました。ここにアマテラスを祀る伊勢神宮を創りました。
 
 さて、景行天皇の御代、ヤマトタケルが熊襲(九州)征伐に引き続いて東(関東以北)征伐に行かされます。タケルが遠征に出発するとき、叔母さんにあたるヤマトヒメに挨拶するため伊勢に寄ります。そのとき叔母さんは、気をつけて行きなさいと言って、草薙の剣(と火打ち石の入った袋)を持たせる。

 ヤマトタケル軍の副将軍として建稲種(タケイナダネ)という男がいました。タケイナダネは尾張の人、今の名古屋市大高に居を構えていましたが、ミヤズヒメという妹がいました。東征する途中、タケルはタケイナダネの館に寄ります。そうしてミヤズヒメと結婚します。タケイナダネは自分の妹を天皇家の男に娶せたいと考えたのでしょうし、タケルも尾張の強い豪族を味方にするのが得策と考えたのでしょう。
 ヤマトタケルは、苦難の東征から帰ってきて、いったん尾張のミヤズヒメのところに留まります。しかし、ミヤズヒメのお兄さんであるタケイナダネは帰途、海におぼれて事故死したのでした。ヤマトタケルはとてもこたえました。
 
 さて、タケルは次に伊吹山(滋賀県)の敵に向かうのですが、そのとき草薙の剣をミヤズヒメの部屋に置いたまま行くのですが、それが敗因となるのです。伊吹山の神により病気になると表現されていますが、大きな傷を負ったのでしょう。ふらふらになり、伊吹山から今の三重県の桑名から亀山に至る途中で死んでしまいます。ここを経由して、大和に帰ろうとしたと思われます。

 『古事記』には、ここで望郷の歌がのっています。
 伊勢湾を隔てて、愛するミヤズヒメが居る尾張を、ここ(尾津)から遥々見て、
 「尾張に 直に向へる 尾津の崎なる 一つ松・・・」
 
それから有名な
 「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭し美(うるは)し」

最後に、やはりミヤズヒメと剣を歌って息絶えます。
 「嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし つるぎの太刀 その太刀 はや」

ミヤズヒメはタケルの形見の霊剣を大事に守っていましたが、歳を取ってきて、今後この剣をいかにして守ろうかと思案し衆議にかけました。
『尾張國熱田太神宮縁記』には、「衆議これを感じて、その社の地を定めた。そこには一本の楓の大木があって、それが自然発火し水田の中に倒れ、炎の勢いは強く水田が熱くなった。これを名付けて、熱田神宮となった。」とあります。
したがって、このとき以来、草薙の剣は熱田神宮に祀られているのです。 


   

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宇佐神宮と日本人

 たいていの神社はそうであろうが、宇佐神宮もご多分にもれず、いろいろな信仰勢力が混ざり合って、その祭神が創られてきたらしい。宇佐の地にもともと住んでいた宇佐氏が奉じる比売神信仰に渡来系の氏族辛嶋氏の新羅神信仰が習合して〈原八幡神信仰〉が生じ、そこへ大和から来た大神氏の奉じる応神天皇霊が習合して、今の宇佐信仰ができてきた、という(戸原氏説)。

 聖武天皇の奈良大仏造営に宇佐八幡神の託宣と協力があったこと、また和気清麻呂ー道鏡事件でも宇佐の託宣が強い力を持っていたことは、渡来系の有していた技術の優秀さを想像させる。
 われわれの祖先である昔の朝鮮渡来の人たちは日本のためによく力を尽くしたのだ。われわれも祖先を見習わなければ、そして今の在日朝鮮人たちもご先祖を見習って日本のために尽くしてください。
 そしてなんといっても、我が国は早くから神仏の折り合いをうまくつけてきた。そしてこの宇佐神宮こそ、その最初の根拠地であった。

             *

 2月13日鎮疫祭を見に行った。山伏姿の人たちが四方に矢を射り火渡りが始まる。幣越しの神事というのは、御幣のついた竹を神官たちが投げると、それを人々が取り合う、その迫力たるやすごい。人々は争って一年の健康を奪い合う。そして神楽だ。何番かやって、最後に、これぞ宇佐ならではなのだが、神官たちと共に僧侶たちが見守る中、主なる「陵王の舞」。
 これはスサノヲを祀った八坂神社(宇佐の境内にある)の前で行われるのだが、その横に、弥勒神宮寺の跡が広がっている。明治初年の神仏分離令によって消滅したという。斜面に礎石と思しき石ころが転がっている。神宮と寺の長きにわたる仲も無理やり裂かれ・・・
 そこで一句

 冷たさや 維新の夢の 風のあと

 宇佐神宮の正面のすぐ横に極楽寺というお寺がある。この境内の一隅に蔵のような建物があり、その中に弥勒菩薩が鎮座している。これは壊された神宮寺にあったものである。菩薩像の所々は剥がれ、胸の一部は壊れて穴があいている。痛々しい。ひでーことしやがる、と怒りと悲しみが湧き上がってきた。
 いくら徳川政権の庇護のもとで増長し堕落した僧侶らに対する反発が強かったとはいえ、寺を焼き払ったり仏像を壊したり、ここまですることはないではないか。
 しかし、この仏様の恬然と静かに坐して永遠を見つめているお姿を拝していると、われわれ小さな衆生に対する深い慈悲を感じられて、この救済の大きさはイエスの説く愛と違いがあるだろうか、仏教を受容したからこそむしろ日本人救われ、おおらかな性格を維持し続けることができたのではないかとさえ言いたくなる。そして日本にキリスト教が流行らないのは、すでに日本は島国で安泰であったのみならず、日本人が道徳的でありというより倫理的であり、あらためてキリスト教を必要としなかったからではないか。
しかし、こんなことを言うと本居大人に叱れれそうで苦しいけれども、神仏混淆というのは、それが千年も続けば伝統ともなり、西洋カトリック文明と同じく、さまざまな生活習慣に融け込んでいるのではないか、そしてわれわれはその中で育ってきているからには、それを否定すべくもないではないか。
 今までなじんできた文化は、自然に消えていけばそれはよい、がどうして急激に破壊する必要があるのか。
 だが明治維新というのは実に革命であった。知力の限りを尽くした先輩たちの周りには暴徒たちもいた。


   

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宇佐神宮由来

宇佐神宮は三殿の御殿があって、向かって左から第一、第二、第三とそれぞれ、応神天皇、比売大神、神功皇后が御祭神である。
宇佐の地にはもともと御許山(おもとやま)の磐座(いわくら)信仰があったらしい。・・・・そして何時ごろからか(神代に)比売大神(ひめおおかみ)が天降(あも)られた場所という伝承が生まれたらしい。

宇佐神宮のパンフレットには、欽明天皇の御世、西暦571年に八幡様すなわち応神天皇の御神霊が宇佐の地に御示現された、とある。

早くから大陸文化がこの地に流入し、仏教信仰が盛んであって、ここ宇佐神宮は神仏習合の発祥の地といわれている。或いは聖武天皇が大仏建立の発願と宇佐八幡宮への協力依頼から。

ともあれ、聖武天皇の御代に宇佐神宮はクローズアップされる。
藤原氏の陰謀による長屋王一族の虐殺、ついで南からやってきた天然痘の流行による藤原四兄弟の突然の死、大宰府における藤原広嗣の乱とそれに続く聖武天皇の5年におよぶ不可解な彷徨とその間の大仏造立の発願。このとき宇佐八幡宮と聖武天皇との強固な結びつきが生じる。

聖武天皇の一時代前は、天智・天武の時代で、このとき以来、日本は百済勢vs新羅勢の権力闘争の場となっており、天皇の権威はすでに利用されていたのではないのか?聖武天皇の不思議な動きは、そのことと関係があるような気がしてならない。


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宇佐神宮紀行 3

あくる日は電車で別府から宇佐まで行った。車窓から見る別府湾はかなり湾曲している。
所要時間はたった20分くらい。宇佐神宮方面行きのバスは35分くらい待たねばならない。ちょっと迷ったが、春のような風に誘われて歩いた。車の往来は多かったが、なんとも気持ちがよかった。たしか昨日この辺を車で通ったな・・・
途中、和気清麻呂の船繋ぎ石というのがあった。あの道鏡事件の清麻呂がなんで船?・・彼は馬で来たのではなかったのかな・・と漠然と考えながら、せっかくだから寄ってみた。どーってことない石ではあるが、あの時の石だと思うと大事であるという気がしてくる。
船つなぎ石

長閑な景色が続く。川には釣り人が一人糸をたれている。何が獲れるのと訊いてみると、「はぜ」と答える。川面は光り、川べりにはコスモスがモネの絵のように色の点々をなしている。遠くの方に長者の立派な家が見える。向こうの方に見えるのが御許山(おもとやま)という山なのかな・・
宇佐への道川

行く手には円錐形の小山が見える、この辺りではよく目立つ山だが、何という山か、地元の人に訊いておけばよかった。・・・神宮まで一時間以上かかった。
>宇佐への道山

能が始まる前、神官たちが本殿の方に向かって祝詞をあげ、あれ御幣っていうのかしらん、先に白いねじねじの紙のついた棒を振って、能楽殿と観客を清めた。そして、神様も観るのだろうか、降りてきてくださいと、祭主がウオーという異様な叫びを二度ほど発した。これぞ、原始の叫びだと感じた。未だ言葉と歌とが分かれぬ以前の遠い祖先たちの呪術の叫びだ。これは思わぬものを聞けた。

演目は神歌と仕舞二番、狂言と能「羽衣」だ。神歌から始まるのは当然として、この季節になんで「羽衣」?って思った。が、今日のこの春のような雰囲気の空気だからむしろ相応しいかも・・・
神歌が始まった。しかし、シテを謡った老人は酷かった。普段ぜんぜん練習してないんじゃないかなぁ、最後まで続くだろうかと心配したほどだった。それにしても、こんなレベルが最後まで続くのだろうかという不安が胸をよぎった。
しかし、その不安は直ぐ飛び去った。やはり圧巻は「羽衣」だった。シテもワキも囃し方も気合が入っていた。とくに大鼓のお兄さんはしっかりハマッテいた。小生は一音一音にうんうん頷いた。冠を着けたシテの美しさは今まで見た羽衣の中では最高だと思った。とくに、つつっと舞台の前面に進んだとき、折から傾いてきた日の光に照らされた白い面と衣の美しさは忘れえぬものであった。
そして思った、やはり能は野外舞台で演じられるべきであると。ふだん室内の人工的な光の中で演じられる能はいわば博物館の展示品のようだ。それとは違って、神域の野外舞台では杉木立の緑、それが放つ清い空気の流れ、自然の推移する光が舞台の奥行きに沿って微妙なグラデーションを生み出す。そのような空間での演者の動きもより広がりが大きくなる。
しかし、こんなことがありうるのであろうか。なぜなら能という高度に抽象的な舞台芸術が自然の中で演じられるほうが効果的だとは。久しぶりに観た小生の心の恣意的な感想に過ぎないのであろうか。
・・・・
宇佐能楽殿

それはともあれ、しかし野外の演能では観客は物見遊山的にざわつきやすくなる。

帰りに、どうしても欲しかった蓮池の蓮の種を取った
宇佐神宮池
もう時期遅れで駄目かと思ってもいたのだが、まだ種が残っているのもあった。棒でそっと茎を引き寄せ取る。少々欲張って取りすぎた。欲しい人があったら譲ってあげよう、一個百円で(笑)。来春はこの種から芽が出、再来年には家で花が咲けば、宇佐との繋がりができ何と嬉しいことだろう・・・と一人ほくそ笑む。しかし、黙って取ったらドロボーである。それで、宝物館を見てまわり、出口で受付の人に池から種を取ったと一応言った。そしたら、種ならここにありますよ、欲しければ上げますと、カウンターの上の缶に種が沢山あるのを見せてくれた。なーんだ、初めからここで種ちょうだいと言えばよかったのか・・・宇佐蓮種

さて、次回の宇佐参拝は来年2月13日の鎮疫祭のときと決めた。

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宇佐神宮紀行 2


その日は例によってお参りだけにした。

宇佐本殿


前回も不思議に思ったのだが、なんでここでは4拍手するの? 4拍手するのは、他には出雲大社があるが、そのほかの神社にもあるのだろうか。
『逆説の日本史』で有名な井沢元彦氏は、出雲大社はオオクニヌシの怨霊を恐れた大和政権がつくった牢獄だ、そして4拍手は死を意味するとかなんとか書いていたが、・・・ここ宇佐はそれに類することはあるのだろうか、小生の歴史知識ではなんとも想像が付かない・・・。
しかし、ここに祀られている応神・神功は新羅征伐で名高いし、あの話はちょっとミステリアスだ。しかも宮司に聞いたところによると、この辺りは新羅系がうようよだとか・・・。まあいずれゆっくり考えよう。

さて、この日はレンタカーで次に県立歴史博物館に行って、それから時間がゆるせばこのあたりをいろいろと回って、別府に泊る予定だ。どこかいい温泉がないものかと思っていた。
神殿前でカメラを構えた一人の婦人がいた、なかなかの美形だ。一人でここに来ているとは、小生と共通する感覚の持ち主だと思い、声をかけた。そして、色々話すうちに、婦人が教えてくれたことには、別府の温泉なら「カンナワ」か「ミョウバン」が好いと。・・・変な名前だ。そんなところに行けるのかどうかまったく自信がなかったが、せっかくだから手帳に書き留めた。

博物館でえらく時間を潰したので、謡曲「清経」に縁の柳ヶ浦の海を見に行ったのみで、別府に向かった。
柳ヶ浦海


インターを降りて少し行ったところで「明礬」という字のある看板を見たので、そちらの方へ向かい、道なりに行くと、なんだか鄙びた変な路地に入ってしまった。・・・家はあるが誰もいない。・・たまたま人が居た。そこは狭い三叉路だったが、車を止めて訊いてみた。その人は手足の不自由な(脳梗塞でもやったのかな)おじさんだった。「この辺で温泉に入れるところある?」と訊いてみた。すると、「ここだよ」と言って、目の前の小さな古家を指した。えっ?こんなとこ?と小生は唖然とした。
明礬温泉
おじさんは「ここは只で入れるよ。私も今入りにきたところだ。ここは一番人気の温泉だ。今日はたまたま空いている。ここに車を止めれるよ。あなたは幸運だ」というようなことを言った。
小生は信じられなかった。そうだとすると、全く知らない土地なのに、迷うことなく、まるでここを目指してやって来たようなことになる・・・。思えば、あの婦人といいこのおじさんといい、偶然声をかけたにしては出来すぎだ、これぞ宇佐の神の采配か・・・。
早速、そのおじさんについて湯に入る。中に二人居た。その一人となんだかいっぱい話をした。

別府港近くでレンタカーを返し、ホテルに着いて突然、この4月から転勤で大分市あたりに住んでいるはずのN君のことを思い出し連絡してみたら通じた!そして久々に夕食を共にした。
なんともラッキーな日であった。
さあ、明くる日は能楽だ。




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宇佐神宮紀行 1

半年くらい前初めて宇佐神宮を訪れ、ただちに魅せられてしまった。
何度も来たいという思いがしていた。今回は20.21日に風除報賽祭と能楽とが催されるとのことでやってきた。
背後に控える山々の形は奇妙に様々で北九州らしい。
大きな二の鳥居をくぐって広々とした表参道をゆっくり歩き、手水舎を過ぎて、鬱蒼とした森に入る。上り道を歩くこと数分で、三の鳥居そして江戸風のけばけばしい西門。そこをくぐると、ぱっと視界が広がり本殿の甍を横に見る。
この広前は丘の頂上なのか、とにかく明るく、青白い空の光と、光を受けた石畳と神殿前勅使門の朱が直線的なコントラストをなし、二三のイチイか楠木の葉がそれを緩和している。
聞こえるものは時おりの鳥の声ばかりで、しんとしている。
この静寂は、妙な例えだが、ギリシャ的な永遠を思わせる。
  宇佐勅使門


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中秋の名月に想う

毎年この季節の満月のやわらかい神秘な光のなかにいると思い起こされることがある。
それは自分が生まれる以前、父と母もこの月の光に照らされて手を取り合っていたであろう姿。
それから、もっとずっと以前、古代エジプト王朝の王子がこの月の光の中に亡き許嫁を想っている様子。

昨夜の駄句を・・・ 
 月影に父母の面影あらはるる
 澄む月の光を慕ふすすきかな
 名月に虫も鳴く音をひそめをり
 世を照らす月に仏の示現する

そこで思い出されるのが、あの芭蕉の「月影や四門四宗も只一つ」なんですが、これは圧倒的に深みがありますね。なんでこんなに素直な5・7・5でかくも人性の深きに到達することができるのか不思議ですね。
この句に比べると、小生の駄句はじつに薄っぺら、百倍も素人であることが一目瞭然ですね。

ついでに小生の一番好きな俳句を(やはり芭蕉の有名な句)

「夏草やつはものどもが夢のあと」

・・ひとは夢を抱いて一生懸命生きる。世界という己の頭にある舞台の上で活躍したり悩んだりしている。しかし歴史というわれわれを遥かに超えた巨人の歩みの前では人間の営為とはなんであろうか。そしてまた歴史も自然の前では一片の夢に過ぎないとしたら・・・だが、われわれは生きねばならない・・・

いかな歴史哲学者もこの句の深みに到達していようか小生は知らない。
あの百万言を費やしたト翁の「戦争と平和」もこの一句の高みに収斂されていくように思われる。もちろんそれに至るプロセスの面白さは西欧のものだ。

それにしても、理屈ではない文芸というもののもつ力は不思議だ。
キリスト教のように宗教というものを行為だとするとどうしてもイエスのごときパラドックスな表現になるが、 その一歩手前に踏みとどまると歌の道になるように思う。     



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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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