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堺事件

 それにしても、明治維新というのは、知れば知るほど、考えれば考えるほど、不思議で完璧な出来事のように思えてくる。なんでや、江戸時代という泰平の世、盤石であったはずの徳川幕藩体制が、いつの間にか、あれよあれよと言う間に崩れていって、一朝気が付いてみれば、静かにクーデタは終わっていた。あはれ、昨日の総大将はカヤの外。残された子分たちは後始末に追われるばかり。

 ちょうどその頃、いわゆる戊辰戦争のさ中、堺の港でフランスの水兵11人が、土佐藩士たちによって殺されたという事件が起こった。世にいう堺事件である。外国人が日本人によって殺される事件は、生麦事件をはじめ、数年前からしばしば起こっていた。それにしても、これほどの沢山の外国人が一度に殺された事件はめずらしいし、もうこのころは、〈攘夷〉の嵐はだいぶん鎮まってきていたはずだと思っていたが…。

事件の概要はこうである。フランス軍艦が堺港で測量を行っていた間に、水兵らが上陸し、どうも悪ふざけをやっていたらしい。付近の住民の要請により、その地域を警備していた土佐藩兵らが水兵らを捉えようとしたら、水兵らは逃げた。そのとき、水兵の一人が土佐の歩兵隊旗を奪った。それを梅吉という旗持ちが追いかけて彼を倒し、隊旗を取り返した。すると、水兵らが銃を発射したので撃ち合いになった。船に逃げ戻ろうとした水兵を、藩兵たちは結局11人殺害した。

土佐の隊長二人は、責任者である自分たちが責めを負うと言った。しかし、それだけではフランス公使ロッシュの気がおさまらない。英蘭などの同情も手伝って、彼は、日本政府に強く当り、陳謝、賠償、下手人らの処刑を要求した。結局、発砲した覚えのある藩兵ら16名を含めて20人が切腹を仰せつかることになる。彼ら16人はただの一平卒であったが、ありがたくも士分として切腹できることに喜びをみいだした。

正午、フランス側代表を含め並みいる人々の前で、型通りの形式で、一人として過たず堂々と腹を切り、介錯される。ある者は、フランス人たちに、「自分は国のために死ぬ。日本男児の切腹をよく見ておけ」とか言ったそうな。ところが、11人が切腹を終え、12人目の橋詰という人物がさてやるぞと腹に手を当てたその時、フランス代表らは、突然その場から退出した。それを見て、役人は「しばらく」と橋詰を制した。退出したフランス代表らは、その場に帰って来なかった。言うところによると、彼らの行為には感服した、もうこれ以上は死ぬ必要はない、残り9人については日本政府に助命を乞うと。

出鼻をくじかれ困惑する残りの罪人たち、何故と問えど、肝心のフランス代表の前でなくては切腹の意味がないと目付けは答えるばかり。それで結局のところ、彼らは、浅野家(広島藩)と細川家(熊本藩)において一時預かりの身となった。二カ月ほどして、彼らは流罪に処せられることとなった。しかし、どうも得心がいかぬ。許されたはずなら、どうして流罪になるのか。目付け答えて曰く、あなたがたは先に逝った11人の苦痛に準じる刑を受けねばならないと。(そんな理屈がどこにある)彼らは苦笑するしかなかった。

数カ月後、明治天皇即位のゆえの特赦を受け、無事高知に帰国したのだが、念願の士分は叶わなかった。

          *

この堺事件の一ヶ月くらい前、神戸で備前兵の行進の前を横切った一アメリカ人水兵が射殺されるという事件があった(備前事件)。発砲を命じた備前兵は、パークスら外国人の要望により、切腹を命じられた。この兵士の切腹を見たアーネスト・サトウは、その一部始終を『一外交官の見た明治維新』のなかで詳しく、感動的な筆致でえがいている。

そして彼は書いている。この時の死刑執行と、引き続く堺で11人の死刑執行とについて、「ジャパンタイムズ」の編集長は、法による殺人たる死刑執行に臨んだのはキリスト教徒としてけしからぬ、また腹切りというイヤな見世物に(西洋人が)臨席したのは恥であると語っているが、それは大きな間違いである、むしろ、自分はこの刑罰を実行させ、立ちあったことを誇りにしている、と。

 「腹切りはイヤな見世物ではなく、きわめて上品な礼儀正しい一つの儀式で、・・・はるかに厳粛なものだ。この罪人と同藩の人々は私たちに向かって、この宣告は公正で、情けあるものだと告げたのである。」もっとも、彼が堺事件において一方的に土佐藩兵が無害な非武装のフランス水兵11人を殺害したとしているのは、日本人の報告よりもフランス人の報告を信じたゆえであろう。

しかし、「死刑を宣告された20名中11名の処刑がすんだとき、(フランス)艦長が執行中止の必要があると判決したのは、実にいかんであった。なぜなら、20人はみな同罪であるから、殺されたフランス人が11人だからとて、これと一対一の生命を要求するのは、正義よりもむしろ復讐を好む者のように受け取られるからである。」

この様に書くアーネストは、常に文明国イギリスというものを背後に感じていたようだ。もっぱら通訳者・翻訳者として活躍していた彼であったが、自国人に対しても、他の西洋諸国人に対しても、日本人との交渉に臨んでも、いざというとき毅然とした態度を持していた。

 堺事件は、森鴎外の小説で有名だが、鴎外の淡々とした簡潔な文体、三島の言を借りれば、〈冬の日の武家屋敷の玄関先〉のような凛とした文体は、この事件を描くに相応しい。そして、アーネスト・サトウの視点から見て、この事件はなんと日本的な、深い問題を蔵した事件であることかを、あらためて思った。


  
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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

第二次世界大戦

 先日『Exodus』という映画を見た。この頃の映画はやたらCG技術を駆使した見せ場を売り物にしている。この作品もその例に漏れず、ナイル川が血に染まり大量の魚が浮いたり、ハエやイナゴや蛙の大量発生する場面など、いわゆる「10の災い」の部分は、ちょっとしつこいな。

それにしても、モーゼと名付けられた人は実に謎めいた人だ。ユダヤ人にとってのキイパーソンの出生を『聖書』はどうしてあのように描いたのだろう。…そしてユダヤ人というと、どうしても世界大戦を連想してしまう。ところで、小生は以前から第二次世界大戦という言葉に違和感を感じていたので、それをちょっと話したい。

 とくに外国人がWorld War 2 で日本がどうしたのこうしたのと言うのを聞くと、どうもちょっと変な感じがする。たしかにあの時、1940年代に世界の文明国が同時に戦争に参加していたし、名目上は日独伊三国同盟を結んでいた。しかし、日本はアジア・太平洋で、蒋介石軍と英蘭などと、後に主にアメリカと戦ったのであって、正しくは大東亜戦争、四捨五入して太平洋戦争と言ったほうがピンとくる。

 西尾幹二氏が書いていたが、大東亜戦争とヨーロッパの戦争とは意味が違う、前者はアジアの領土と資源をめぐっての争いで、ざっくり言えば、日本とアメリカの、国家のエゴイズムがぶつかりあったのだ。しかしドイツを中心とした戦いはキリスト教文明圏の内戦なのであって、だからあのおぞましいジェノサイド(ユダ人大虐殺)は、われわれ日本人には理解できないものだ、と。

 つまり、日米の戦争は、もっぱら領土・資源の奪い合いのための戦争であって、たしかにじつに多くの兵士が悲惨な死に方をしたし、かつまた多くのとばっちりを諸国に与えたりもした。しかし、本質的には、欲と欲のぶつかる喧嘩であって、誤解を恐れずに言えば、男らしい明るい戦争であって、終わってみれば、互いの兵士が「あの時はお互いよく頑張ったな」と言いあえるのだ。

 ところが、ドイツの戦争には、もちろん領土問題もその発端にはあるだろうけれど、彼らの戦争の本質にはもっと深いくて暗いもの、けっしてぬぐい去れないスティグマがどこかに残っている。敗戦国のドイツと日本は、戦勝国から悪者としての烙印を押され、謝罪と賠償とを科せられた。負けたからにはそれはしようがないとして、しかし、ドイツと日本は、謝罪するにしても意味がちがうはずである。戦争犯罪と言っても、同日の談にあるはずがない。というよりジェノサイドは戦争犯罪なのか。

 あるとき小生は、ふとヒトラーはイエスの生まれ変わりではあるまいかという考えが頭をよぎって、慄然としたことがある。十字架にかけられたイエスが1900年の時を経て、ユダヤ人を殲滅しようとしたのだと。あのエホバの神なら大いにありそうだ。あの福音書家らは口を揃えて、イエスを十字架に架けたのはユダヤ人たちだと語る。福音書を読めば読むほど、冷静な周囲のだれが見ても無実の、〈イエスを十字架に架けろ、イエスを十字架に架けろ〉というユダヤ人たちの熱狂した叫びが大きく聞こえてきて、使徒たちの言いたいことは、じつにこの一点にあるのではないかとさえ思えてくる。

 まさかイエスがユダヤ人に復讐をするなんて、と人は言うかもしれない。しかし、たとえば個人としての人はみな幼年期のトラウマあるいは広く影響が、成人してからも癖や行動の傾向として現れ、イヤでも矯正しようもなく生涯続くように、一民族もその幼年期に受けた傷はいわば無意識の底を流れ、のちに否応なく発現してくるのではないか、と言いたいのである。

 いまだに〈ユダヤ人の物語〉が現実に厄介な問題を引き起こしていることを思うべし。また、海に囲まれた土地に生きてきたわれわれ日本人が現在、世界的に独特な性格を形成してきたことを思うべし。だからこそ、じつはわれわれ日本人はわれわれ独特の仕方で戦争をしたのだし、戦後も独特の生き方をしている。

 そういうことで、第二次世界大戦という語で、西洋と東洋の戦争を一括して、語ることはできないという視点もあるということ。そして今更ながら、何事においても名称はあることを語るのに便利ではあるが、同時にあることを隠すことにも便利である、と気付いた次第。



     


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『宮中50年』

坊城俊良著『宮中五十年』を読んだ。
  
 著者の坊城俊良氏は、明治35年、数え年10歳のとき侍従職出仕として明治天皇に仕え、その後貞明皇后に昭和26年5月17日皇后崩御の日まで、おおよそ50年側近として仕えた。

 明治天皇、昭憲皇太后、大正天皇、貞明皇后らの「日常つぶさに拝し得た、その仁愛に満ちた憂愁の御こころを、私はここに語りたいのである」と初めに述べている坊城氏は、しかし決してこの書を自ら喜び勇んで書いたのではない。むしろ、「序」をものしている小泉信三をはじめ多くの文化人や評論家、雑誌記者たちに焚きつけられて書いたと感じられる。

 というより、坊城氏はむしろ彼らのジャーナリスティックな期待を押さえ込むために筆を取ることを決心したように感じられ、小生にはその点が面白い。語り口は淡々としていて、自分がじかに触れたこと、そのとき感じたことのみを語り、余計な敷衍を行わないよう注意している姿勢がよく判る。したがって大部な本ではない。

 十代の坊城氏にとって明治帝はとくに印象深いようだ。「子供心に仰ぎみた明治天皇は、非常に厳格かつきちょう面な方で、一度言いつけられたことは二度とは言われず、聞き返すことはいけないことだった。そのかわり大きなお声で、ハッキリお言いつけになった。あいまいなことがお嫌いであった。その反面、とても思いやり深く小さなことにお気づきになった。私がその頃からだが弱く、痩せていたのをお気にかけられて、折にふれてはいろいろ御馳走をいただいたものである。新宿御苑でできた馬鈴薯などもしばしばいただいた。きちょう面な御性格の現れとして、御座所におかけになる掛軸や刀剣など、多数の目録をはじめ、書籍・書類の目録も大きなものを身辺に備えられ、ちゃんと御記憶されていて、どこそこにこれがあるから持って来いとお言いつけになった。事実その通り一度も間違いはなかった。」

 「私が15歳のとき、はじめて馬に乗れといわれた。このことあるを予期して多少の心得は用意していたので、どんな馬を与えられるかと思ったら、一番おとなしい、あまり動かない、安全第一の〈鬼石〉という馬に乗れと言われた。名は強そうな〈鬼石〉だが、おとなしすぎて面白くない馬だ。この馬に半年ばかり乗せられた。・・・その後にようやく、も少し鋭敏な馬に乗せられた。」

 「夜の、おひまで御機嫌のいい時には、大きなお声で琵琶歌を歌っておられることがあった。・・・声を張り上げて堂々とお歌いになるのだが、決してお上手だとは思えなかった。」

 「大帝は、暴風雨のときなど、奥御所の南向の戸・障子が今にも吹き飛びそうになって、弓のように反り返るようなこともあったが、私たち奉仕の子供を指揮して、あそこを閉めろ、ここを押さえろ、とおん自らいろいろ対策を施しになった。もっとひどい嵐のときなど、子供では吹き飛ばされそうになるのだが、お前はその戸を押さえておれーといわれ、一生懸命押さえていたこともあった。そういう場の陛下は、ちっとも苦にされているのでなく、むしろ面白がっていられるようにお見受けした。」

 まあ、こんな調子で、人間天皇の傍で接した人の思い出話を聞くのが愉快である。大正天皇に関してももちろん面白い。側近や拝謁者があると大正帝は、愛用の煙草を適当にワシづかみにして下賜された。そのようなお気軽な御親切を軽々しいと、伊藤公や山県公は申し上げるが、これこそ大正帝のいいところではないか、と坊城氏は述べる。初めて聞く面白いエピソードがいろいろあるが、切りがないから挙げない。

 「終戦後、占領政策の要請とかで、わざわざ〈人間天皇〉の御宣言があったが、私たちからいわせると、不思議でもあれば不可解でもある。大正天皇のごときは、もっとも人間的な、しかも温情あふるる親切な天皇であられた。」そして、総ての天皇は生まれた時から人間である。

 あとがきで、記者の角田という人が書いていることだが、角田氏が坊城氏に近代日本の悲惨と明治の精神に関連して話してほしいと頼んだところ、坊城氏は、きっぱり断って曰く、「最初に申し上げたように、私の直接知っていること以外は、付焼刃で申し上げることはできません。私は表御殿のこと、政治向きのことなど一切知りもせず、知ってもならぬ単なるお側仕えでした。その後に、いろいろ見たり聞いたりしたことはあっても、それは私の責任で申し上げることではない。」


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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

戦闘機乗り

先日、太平洋戦争研究家のK氏のお伴で92歳になるOさんを訪ねた。Oさんは戦争中戦闘機のパイロットであった。そのときの話を詳しく訊きたいと思って訪ねたのであった。Oさんは左脚が不自由であるほかは特に悪いところがなく、頭はまったく明晰なのに驚いた。そのお話。

 Oさんは、高等小学校2年就業の後、乙種飛行予科練終生となり、戦闘機のパイロットとなるべく3年ほど飛行訓練を積んだ。当時、戦闘機パイロットとなるコースに入るには親の承諾が要った。Oさんはすでに父は亡くなり、兄は養子に出ていて、Oさんは跡取り息子であった。それで係員はOさんにパイロットではなく整備士になることを奨めた。が、母は、誰でもいつかは死ぬものだからと言って、とくに息子の志望に反対しなかった。母は仏教の信仰に篤かったそうだ。

 Oさん自身は、体はとても小柄で148 cm しかなかったが、運動はとてもよくできた。そして、体の小ささをカバーするために運動能力に磨きをかけた。

 その後、広島、大分、横浜などの飛行部隊に専属し、実地訓練を積んだ。その時の日本の戦闘機は96式戦闘機というもので、操縦席の風防は前面だけだったそうだ。昭和18年だったか、いよいよ外地へ出発、上海経由でボルネオまで編隊を組んで飛んでいった。

 K氏の、いよいよ戦闘ともなると恐怖感はなったかとの問いに対して、Oさん答えて曰く、ぜんぜん恐くなかった、この戦争で死ぬはずだから、どうせ死ぬなら華々しく死にたいと思っていたと。

 ボルネオのバリクパパンでは、フィリピン方面からやってくるB24の爆撃にだいぶん基地が痛めつけられたが、Oさんたちは果敢に立ち向かい、Oさんは、自分が撃った弾で確実に一機は打ち落した、その時の感覚が忘れられないようだった。ゼロ戦は徹底した軽量化により運動能力が優れていたし、独りで乗る操縦席が体にフィットして操縦しやすかったそうだが、このときOさんが載っていたのは雷電という戦闘機で、これは1800馬力で20ミリ機関銃が4門ついていた。かなりの高度飛行が可能で上空から必ず反転して真っ直ぐにB24めがけて降りる、近づいたら機関銃を打ちに打つ。それに対して、敵機からの銃弾の雨あられが、眼前に展開する。

 昭和19年10月、Oさんの乗っていた戦闘機のエンジンに敵弾が命中、すぐさま基地に進路を向けたが、滑走路に着く前にジャングルに降りた、とはいっても、飛行機は破壊し、Oさんは一時気を失っていたそうだが、気発性の強いガソリンの臭いで気が付いた。これは危ないと感じ操縦席から離れようとしたが、左脚が動かない、どうやら付け根が折れたようだ。ということで、腕の力で脱出。操縦席から1メートルくらい下の地面に転がり落ち、しばらく這って機体から少し離れたところで呆然自失の態で空を眺めていた。こういった場合、十中八九ガソリンに引火して爆発するのだが、そうならなかったのはあまりにも幸運と言うべきだったと、OさんとK氏は口をそろえて言う。

 監視していた基地から即座に救護隊が駆けつけたが、なにせジャングルの中、容易には進まない。そんなに遠くない所なのに、ようやく見付けられたのが6時間後だった。木とパラシュートを切って作った簡易担架に揺られた時、はじめて患部に激しい痛みを感じた。つまりそれまではまったく痛みを感じなかったのだ。

股関節部が砕かれただけではなく、9本の歯が折れ、額から顎まで深い傷を負い、とりあえず、基地の医師に皮膚だけは縫ってもらった。もし、乗っていた飛行機がゼロ戦だったら、間違いなく死んでいたという。というのはゼロ戦の場合、目の前に操縦桿があって、これに顔面をぶち抜かれていたにちがいない。雷電の操縦席には防護版があって、これにうまい具合に顔が当たったらしい。それにしても、出血多量で死ななかったのが不思議だとOさんは繰り返した。

 そして、この年(昭和19年)12月28日病院船に乗って帰国の途に就いた。帰国してから、東京で名医による股関節の手術を二回受けたが、完治はしなかった。それで今なお左脚が右に比べて20cm短く、歩行がスムースにできない。

K氏が言うには、もしOさんの戦闘機が銃撃を受けず、無事に基地に戻れたなら、たぶんOさんの命は、逆に失われていたであろう、と言う。なぜなら、ちょうどそのころフィリピン方面において特攻作戦が始まっていたからである。

吉凶は糾(あざな)える縄のごとし。Oさんの母親は、昭和19年5月の名古屋空襲で、たまたま遅れて落された焼夷爆弾が家に命中し、亡くなった。子供を抱いて外に居た姉は無事だった。Oさんは戦後、結婚し、愛知時計に停年まで勤め上げた。そしてK氏の質問のままに、最後の階級は、軍人恩給がいくら、戦友会がどうのなど話していたが、まあそれはいいだろう。


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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

12月8日

 一昨日職場で「今日は何の日か知ってる?」と訊いてみた。一人が答えるに、今日は子供の誕生日だと。もう一人は考えて、今日はたしかジョン・レノンが死んだ日だと言う。他の人たち、うーんと考え込む。「今日は300万人もの日本人が死ぬ発端になった日だよ。」「えー?」

 真珠湾攻撃。以前からアメリカではルーズベルト大統領が仕組んだ罠ではないかとささやかれていたが、眠っていた資料が明るみに出ると、ひょっとして本当にそうだったのかもしれないとも思う。まあ、日米双方ともそんなことは認めたがらないであろうが。

 しかし思うに、日本がアメリカの罠にはまったと言う言い方は甘すぎる。大局的に見て、日本から明らかに先制攻撃するように世界は動いていたように見える。当時の英、蘭、仏、ソ、中、米、みな日本の攻撃を待ちあぐんでいた。いや日本でさえ「機先を制す」でなければならないと考えていた。世界中が一致してそれを願ったのなら、真珠湾攻撃はまさに日本は自分に割り当てられた役を見事に演じたのだ。

 歴史の大きなうねりを思うとき、個々の誰かがこうしたからこうなったなどというのは、人間の力を買いかぶり過ぎている。逆に言うと歴史を見くびり過ぎている。大統領でさえ、流れに流されるしかないのだ。歴史の流れの前で個人の意志とは何か。小生は大津波に流される家家の映像を見ていた時のあの感覚を思い出す。

 戦争が終わって裁判がなされ、反省会が催される。もちろん戦時においても平和時においても、正義に照らしてというか法に照らして、罪を犯した者を罰せねばならない。しかし、戦後は、交戦国全員が参加したにもかかわらず、勝った方も負けた方もおのおのの戦後の気分の圧力によって、正しい判断がきわめて困難になるようだ。

 それゆえ大抵はていのいい責任のなすりつけあいとなり、出来事の前での謙虚さの欠如となる。じっさい誰それがこうしたから彼の責任だ、あの時こうすればよかったのだ、というような口吻が続いた。そこにはわれわれの過去に対する悲哀がない。

 やってしまったことはしようがない。あの時は2度とやって来ないのだ。あの時ああすればよかったのだと言う人は、ではもう一度あの時と同じ状況に置かれたら、どうするか。やはり同じことをしたであろう。本当は同じことなどありえない。

 あの時、例えば昭和16年12月8日のA氏の状況および決断は、A氏が生まれてからその時まで占めてきた時間空間の特異点の連続であり、なしてきた経験の総体の結果である。あの状況は、宇宙始まって以来、一回限りのものである。2度と繰り返すことはない。

 それなのに、もし自分が同じような状況に陥ったらそうはしないよ、などと悠長に言っている。歴史に対する恐怖の欠如、過去に対する信頼の欠如、と小生には感じられる。決して同じようなことは起こり得ない。小生はだれでも自分の過去の痛切な出来事を振り返ってみるとき感じるあの感情のことを言っているのだ。

 あのとき自分はこんな失敗をしたから、よくよく反省して次は同じ失敗を繰り返さななかった、というのは、彼は反省の結果別の行為をしたのではない。彼は1回目と2回目とは異なることを欲したのだ。つまり失敗というものはない。下手な作り話は好まぬ。



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飛騨一之宮

臥龍桜を見に行ったのは、じつはついでであって、本命は、この飛騨一之宮こと水無(みなし)神社であった。

 この神社は、臥龍桜公園のある飛騨一之宮駅から歩いて数分のところにあった。想像していたより大きな神社であり、何よりも村落のなかの平地にあり、しかも駅から近すぎる、と感じた。というのは、小生はこの神社はかなり訪れるのに困難な山の中にあると思い込んでいたからである。

  水無神社

 その思い込みは二つの事が原因であり、またその二つの事が、また小生がこの神社に興味をいだいたきっかけでもあった。

 一つは、島崎藤村の『夜明け前』。この作品は、藤村の父正樹の物語である。正樹は、中山道の宿駅である馬籠の庄屋に育ち、この地で幕末の動乱と明治維新を生きた。彼は宣長・篤胤の国学・神学に傾倒し、維新のスローガン〈王政復古〉を信じ、政治に参画しようとするのだが、新政府の名ばかりの復古、じつはすなわち近代化によって夢を次々に壊されていった。そうして彼はついに精神の異常をきたし、先祖からの菩提寺に火を掛け、家人によって座敷牢に幽閉される、という悲しいお話。明治七年、その正樹が四十歳のころ、中央の教部省の体たらくに嫌気がさして辞職した後、田中不二麿の斡旋で三年ばかりこの水無神社の宮司を務めたのである。

小生は、この小説における飛騨山中にあるこの神社への道の描写から、この神社はずいぶんと山奥にあるという印象をもっていたのであった。

ついでに、この小説名「夜明け前」は、日本の夜明けがまだ来ていない、つまりこの主人公の理想に沿って言えば、明治人の突き進んだ近代は、健全な国民性を古の道によって得ることが、まだできていないという意味に解した。

もう一つの事は、昭和二十年九月、占領軍が日本本土に上陸してきたとき、皇室が解体され、天皇の正統性の根拠となっている三種の神器が奪われるという怖れから、その一つ草薙剣を、それが祀られている熱田神宮から、どこかに隠さねばならない。しかし、そこいらの家にはおろか銀行の金庫などにも隠しておくことはできない。なにせ日本の宝ベスト3に入るものであり、ヤマタノオロチ由来の神剣である。結局、〈神のモノは神へ〉ってことで、この水無神社に疎開していただくということになったらしい。

それゆえ、この神社はいくら社格が高くあるいは朝廷の崇敬篤いとはいっても、かなり山中深いところに在るのだろうと思っていたのである。

ところが、ここはあまりに開けている。前の道はおそらく大昔からの街道であろうと思われる。そして、江戸時代には、そのあたりの農民たちが圧政に対して立ちあがり、この神社で決起集会を行った、と看板に書いてある(安永二年、大原騒動)。つまり昔から有名な神社なのだ。やはり飛騨一宮なのだ。

しかし、境内に向かうと、曇っているせいか、何となく寂しい感じがする。さっきの臥龍桜公園の見物人のにぎやかさに比べてしまうのか、ここでは2・3人しか見当たらない。あの公園とは歩いて数分しか離れていないのに、どうしてついでにこの神社には来ないのだろう、と不思議に思われた。

この神社の御祭神は、この地のすぐ南に位置する位山に鎮座せられていた水無神という。位山は表裏日本の分水嶺である。どうして水無と書くのか知らないけれど、みなしとは水主(みぬし)が水無となったのであろうことは想像できる。また農耕の神と言われる御歳大神(みとしのおおかみ)を主祭神として16柱の神々の総称が水無神とも。

神殿を囲む大木の上にガアガアと鳥の鳴き声が聞こえた。見るとてっぺんに鶴のような鳥が二匹、追いつ追われつしているように飛び回っている。

    水無神社3


こんなところに鶴が…これは瑞だと喜んだ。しかし、いまどき鶴がいるものかなという疑問が続き、明くる日、神社に電話して確かめてみたら、「あれは鷺ですよ」と。へぇー鷺ってあんなに高いところに居るのかなと驚いた。そして付け加えて言うには「あれには困ってるんです。糞害が大きいのです。」と憤慨していた
 (汗


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歴史は何のために1

 先日、あるネット上のコミュニティを見ていたら、日本の特攻隊を日本文化の精華と賛美する論を執拗に展開している人がいた。自国のために己の死を顧みない行為は世界に比類のない、日本の素晴らしい精神の発露であり、戦後はだんだんと失われてきつつある、なんとか復活させねばならない、と主張する。そのあまりに独善的で狭隘な言い方は、多くの人の反発を招いていた。
 
 その中に非常に歴史に詳しい人がいた。彼が言うには、己の死を賭して、敵に向かっていくというのは、別に日本独特物のものではない、独仏では、組織的な特高も現実に考えられていた、いかなる国の兵士でも、窮鼠猫をかむで、追いつめられれば、自爆的行為に走ったものは多いであろう、と。
 この人は、他にもたくさんの例を挙げて、日本という国の様々な在り方・やり方を、それほど独自ではない、どこの国もみな結局蓋を開ければ、国家的エゴイズムで動いている、と事も無げである。

 小生は、それらの議論を読んでいて、それぞれの立場を理解しうるけれども、どこかしっくりしないものを感じた。そしてなぜしっくりしないか、考えてみると、われわれは何のために歴史を学ぶのか、という疑問に行き着く。

 歴史というものは、人間が創ったものだ。人間が存在し始める前には歴史はなかった。いや、人間の前には類人猿がいたし、さらに前には恐竜や三葉虫もいた、もっと前には地球草創の歴史があった、と人は言うかもしれない。しかし、それらは、それらの事実自体で歴史と言えるか。そこに〈人間的な〉何かを付加されて初めて歴史と言えるのではないか。

 歴史とは過去の単なる事実ではない。過去の事実と現在のわれわれとの相互作用である。現在のわれわれを保証する現在性は、誰もが内部に感じている意欲である。それは絶えず未来に向かっている。

 だが、未来に向かうと言っても、盲目的に、行き当たりばったりに、闇雲に進むのではない。人は必ず先人たちがしてきたようにする。どんな人でも先人たちをモデルにして生きている。

 だから、われわれは過去に気づき、過去を見る。そしてそこに歴史が生ずる。そしてさらによく過去を知るとは言っても、でたらめに無限に知ることはできない。かならず取捨選択をせざるをえない。というより、人は己の未来への行動を律するために、まさにその人らしい選択をする。言いかえれば、歴史とはわれわれが生きるための鏡であり、うまく生きるためには、われわれの進路をより照らしてくれるように、たえず鏡を磨いていなければならない。

 思い込みや固定観念やある一定の見方などで錆びつかせてしまっては、我が道を照らすべき鏡もうまく光ってくれないだろう。

 さらに言えば、過去の事実というものはない。報告があるのみである。そして報告は人間がするものである。五人しか死ななかったという報告もあれば、五人も死んだという報告もある。とっさに見た物が黄色だったという報告もあれば、それは赤だったという報告もある。心理学的実験の暴くところによればわれわれの知覚の客観的真実の脆弱さは驚くばかりである。報告は嘘でもあるし、真実でもある。嘘から出た真もあれば、まことしやかなウソもある。

 われわれは、しかし心配するに及ばない。自分を信じてたえず真摯に鏡を磨くことを怠らなければそれでいい、と思う。

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御一新と天皇

 大革命とはいえ、明治維新はスムースに行われたという。いろいろな理由が考えられる。一番よく耳にするのが、日本は江戸時代すでに、例えば高い識字率に表われているように、高度な文化を有していたこと。それからまあ、佐幕派と倒幕派には大きな共通の敵(目標)があったこと。そしてやはり天皇の存在があったからではないのかな、つまり〈大政奉還〉に始まった、ということをあらためて思う。

 徳川幕府は天皇から政治を委任されていたが、その政治が行き詰まってきたから、新しい政権に委任されるべきである。つまり、御一新は、露骨なたんなる世俗的な権力と権力との戦闘によるのではなく、いったん天皇に政権を奉還し、天皇の委任によって新しい政府が政治を担当する、というニュアンスを演出したことが大きいのではないかな。

 徳川時代は軍事政権国家である。そもそも徳川家康が軍事力で政権を獲得したのが始まりだ。とはいえ、形式的には家康は後陽成天皇から、源氏長者として征夷大将軍職を与えられたのであった。
 この制度は、官位官職制度とともに、古代律令制を踏襲するものであった。もちろん、禁中并公家諸法度というのかしらん、天皇(およびに公家)を京都御所に閉じ込め、そこから外に出すことも、他の大名が勝手に近づくことも厳しく禁じたけれど。

 幕府の、軍事力を背景にした、厳密な管理体制の下、江戸時代は長く安定した社会が続き、文化が栄えた。しかし、いわば徳川独裁体制であっても、その心のうちには、やはり政治を委任されているという意識が底流を流れていた。

 老中松平定信は、天明8年、(1788年)「御心得之箇条」において、「六十余州は禁廷より御預りしたもので、将軍職はそこを統治する仕事である」(wikipedia)と訴えている。これは、おそらく死者二百万人ともいわれる天明の大飢饉の対処について幕府の尻を叩く意味で、また批判をかわす意味で書かれたものではないだろうか。
 
 いくら強力な政権といえども、大危機が起こると、どこからか将軍職委任論が湧いてくる。これは、いまのわれわれの想像を超える深刻なことだったのではあるまいか。
その後では、ペリー来航。そしてやはり桜田門外の変である。大老が暗殺されるという事件が、すでに幕府の力が衰えていた、あるいは西欧列強との交渉は幕府の能力をはるかに超えた問題だった、ということを意味する。
 この事変以降、「幕府は朝廷から政治を委任されているのだ」ということが、家老、有力大名、公家らの意識の表面に上がってきたのではなかったろうか。
 そしてまもなく〈大政奉還〉は現実問題となる。
 
 徳川慶喜と倒幕派が議長の座を争うということは、権力の闘争である。しかし、新政府が取った方針は、とにかく、天皇親政―以後は天皇に政治権力を持たせること。そのことによって、このときの不安定を乗り越えようとした。そしてその言い分は、武家政権よりはるかに古い「神武創業に立ち返る」としたのであって、その形式は祭政一致を極めた。

 慶応四年三月十四日。京都御所紫宸殿内にて、まず西側にしつらえられた神座に、天上の神々を降ろすべく、神主がたぶん「オワー」と奇怪な叫び声をあげる。そして北側の御座から天皇が神座の前まで移動し、神々に誓い、祝詞を読み上げる「かけまくもかしこしアマツカミクニツカミ云々」引き続き〈五箇条の御誓文〉を読み上げ、そして署名。続いて東側の席に居並ぶ議定、諸大名、公家衆が署名。

 そして、この神の子孫である天皇を表舞台に出したのであったが、いずれこの天皇を西洋流の法理論体系にどのように納めるかの問題が生ずるだろう。明治の知恵の結晶が明治二十二年の大日本帝国憲法であった。

 法的に天皇の役割が規定されると、場合によっては天皇の責任なる問題が生じうる。はたして敗戦となって、いろいろ議論されてきた。まあ天皇機関説でいいのではないのかな、とも思うけれども、どのように決着がつけられたのであろう。
 あるいは小生なんか単純だから、天皇はわれわれ一般の人間とは異なるから、一般人について言われる例えば責任などという概念を天皇に適応できるか、そもそも現人神を法でさばけるかと思うが、そうなると独裁国家ではないかと反論される。なるほど尤もと思う。

 まあ法律のことを知らないからなんだけれど、とにかく日本独特の問題だな。こういう難しい問題を考え工夫していくのが日本人に課せられた使命なんだ。

         *

 それなのに、憲法なんかを外国人に創ってもらっててどうするの。しかし、考えようによっては、天皇は象徴という訳のわからん言葉でごまかされたのは、むしろ幸いしたのかもしれない。その神秘性とありがたさが現代的に表現されていて、人間宣言をされたにもかかわらず、なおいっそう当たり障りなく有り難く御存続されたとも考えられる。

 また、ついでにこういう逆説も考えてしまう。

 いっとき、「アメリカ合衆国日本州」なる言葉がよく言われたことがあった。考えようによってはなるほど、つまり、日本の伝統は今の日本人によっては守られないという危惧が強いゆえに、それなら、いっそのことアメリカに守ってもらう。安保条約のどうのこうの言ってないで、はっきり占領されていることを認め、「アメリカ合衆国日本州」と認めてしまえば、すっきりする。その場合、「日本州」は天皇をはじめ言語、風俗、習慣にいたる、非常に特異な伝統文化の地域であるがゆえに、アメリカは国家管理のもとこれを大切に保存する。ボストン美術館のように日本州全体が博物館的に永久保存されることとなり、観光客も増え、われわれは安心して従来の文化を生きられる。(笑)

 それにしても、日本人が〈日本〉を滅ぼす、とはどういうことか。変わったのは何か。

 そもそも日本人とは。
 それは、昔日の面影を追い求めるように、御先祖たちが夢見たものを、また己の夢としようとする人のことではあるまいか。


            
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竜馬たち

歴史と力
 最近漫画本のおかげでけっこう歴史に関心のある若者が増えているときく。また今年のNHK大河ドラマが竜馬の話であって、土佐はもちろんのこと、竜馬に関係した土地はこぞってアピールして、竜馬ブームをかきたてているらしい。
 竜馬の人気の秘密は、なんといっても彼の性格の実に素直でいて、現実的な判断力と無私な行動力、そして若くして死んだ、ということではないだろか。

 明治維新で名を残した多くの人が活躍したのはまだ30歳前の若者であることに、誰もが驚く。あの時の歴史を多少でも知る者は、時代の動きが若者の行動力を必要としたように感じるであろう。誰それがどうしようとじっくり考えてどうなったというようなものではなく、いわば日本という生き物が危機に瀕して、救いの手を求めていたところに、一団の素直でまっすぐな若者たちが、それを知って飛んで行ったように見える。彼らは余計なことを考える暇もなく、あまりにもぴったり時代の要求に嵌り込んでいった。
 もし、彼らが、行動する前にもう少ししっかり日本や欧米の歴史を勉強しよう、なんて言っていたら、百年たっても維新は成し遂げられなかったに違いない。
 あの時の日本が必要としていたのは、行動であって知識ではない。基本的な知識はすでにあった。さらに何を事細かに知的探究をする必要があったろうか。
 
 政治の表舞台から徳川政権を除去したのがよかったのか悪かったのか。そんなことは誰にも判らない。というより、歴史にイフはない。なるようになっただけだ。じっさいこれしかない。しかし、じっさいこれしかないと言っても、なおわれわれはあの時のことを思い返し、ああだこうだと言いたくなる。そして当時の人たちの苦楽がいよいよ身に沁みて感じられる。それが人間と言う生き物なんだろう。
 
 己一個の人生を振り返っても同じ思いだ。あのときああすればよかったこうすればよかった、そしてまたああするよりほかになかった・・・。何度思い返しても、ますますどうしようもない自分が、逃げようもなくはっきりしてくる。

 己個人には意志というものを感じるが同時にどうしようもない性格というものをも感じる。共同体においては、政策を酋長が決めようが、民主的な手続きで決めようが、結局やはりその性格(無意識)が顔をだす。性格は人種的風土的に決定され、長い間に培われてきたもので、われわれの深いところに隠された力であろう。

 しかし、その力はあくまで無意識的であって、火事場のクソ力という言葉があるように、火急の時に今まで思ってもいなかった力が発揮されることがあるから、予めわれわれの性格はこうだからと決めてしまって、意識的に己を閉じ込めることはちょっとお角違いで、むしろ性格とはあくまで回顧的に感じられるものであるにすぎない。

 とっさの判断と行動を必要とする場面は、われわれ日常でも偶にある。そんなとき熟慮をしている暇はない。しかし、後で思い出すと、やったことが冷や汗ものであっても、思いのほか上手くやった、普段の自分ではなかなかできないのでは、と思うことがある。われわれにはきっと自分では気づかない潜在的な力が潜んでいるにちがいない。

 


    

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日本衰退

 いまNHKで「坂の上の雲」をやっていますね。
 昨日見たのですが、司馬史観はともかくとして、また原作との違いはともかくとして、明治の政治家は気骨のある人が多かったようですね。それがよく出ていると思いました。みなとても勉強家で、国家の為にという気概があったのでしょう。明治人は強いとよく言われますが、そういう時代であったのですね。昨日出てきた小村寿太郎は、ちびすけだったけれど、堂々と外国人に己の信ずるところを述べていましたね。ああいう人がいてこそ、日本は外国に尊敬されるようになっていったのだと思う。おかげでさまで、西欧との不平等条約を改定することができた。

 今の政治家はどうなんであろう。よく知らないが、今回の600人を引き連れての小沢氏の中国訪問ほど、卑屈で恥ずかしいものはなかった。受けのいいことを言い合って、大歓迎を受けた。全員で記念写真を撮ってもらった。一人ひとりコキントウ氏に握手をしてもらって大喜び。中国要人は彼らを心の底で侮蔑しきっていたであろう。

 外交とは、時には耳が痛いことを言わねばならない。ある一線では毅然とした態度をとらねばならない。そういう人を相手は煙たがるが、軽蔑はしない。耳に快いことばかり言う人は、見くびられ、軽蔑される。

 今回の訪中団は大いなる日本の恥であった。




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戦前と戦後

 guinevereさんの仰る「戦前=悪みたいな考えが充満している・・」

 たしかに、戦後アメリカGHQとソ連共産党によって、日本は悪い国であった、非文明国の侵略国家であった、とう風潮がつくられましたね。残念ながら、多くの日本人がそのように洗脳されてしまいましたね。自分の国の過去は自分の過去であるのにね。なんと情けないことでしょう。自分の国のことをまるで他人事のように見る態度はじつに愛情のない態度ですね。

 ついでに、戦後、といっても占領中に、マッカーサーがアメリカ本国で報告した言葉を引用しておきます。
 「日本には絹産業以外には固有の産業はほとんどなく、綿も羊毛も石油も錫もゴムもない。その他じつに多くの原料が欠如している。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生することを彼らは恐れていた。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」

kontaさんの仰る「戦後のやりかたでうまくいっているから、日本人は態度を変えないでしょう・・」というのも尤もですねぇ。
 先日、歴史に詳しいある知人と話していたとき、小生が「どうして日本は憲法改正をしないのでしょう?」と訊いたんです。すると彼は答えて曰く「今の憲法(9条)をもっていると一番得をするからです。お金さえ出せば、血を流さずに済むのです。」
 なるほどと思いました。なかなか日本人もしたたかですね。恥も外聞もなく、悪女の如く他国の力を利用していますね。


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真珠湾攻撃

 NHKの番組「日米開戦・・・」の感想(前回)の続きだけど、69年前のあの日未明、鉢巻をして空母から出撃していった兵士達の気持ちはどんなんだったのだろう・・・「日本の同胞のために・・・」「賽は投げられた、もう後戻りはできない・・・」いろいろ想像して、胸がジーンとなりますね。
 そういえば映画『トラトラトラ』で、山本五十六は「とうとうアメリカという眠れる獅子を起してしまった・・」というようなセリフを吐くけどね。あれは映画のための嘘ですね、すでにアメリカは対日本戦争のための語学教育などをふくめあらゆる準備をしていたはずだよね。真珠湾攻攻撃はネズミ捕りにねずみが引っかかったようなものではないでしょうか。

 で、あの番組だけど、開戦にいたる海軍の組織のありかたについて、そのありかたが悪かったために開戦となってしまった、そして戦争の責任をだれもとれないようになっている、という趣旨であった。
 見ていて小生は、いろいろなことを考えさせられた。一つには個人が責任をとるには、まず個人というものが確立されていなければならない。われわれ日本人はその辺があいまいだ。だから責任などという問題が生じうるのか。まあ、このことはいずれゆっくり考えたいと思う。

 なぜ開戦となったか。開戦の原因は何か? この番組の製作者は日本海軍組織にあると言う。しかし、じっさいそんな簡単な話なら人生は楽を通り過ぎて退屈であろう。己一個の明日を予見できない人間が、人類の出現と時を同じくして成長を始めた歴史にわれわれの短小な知恵でもって何を言えるだろう。

 日本や中国の風土歴史、その地政学的位置、西欧歴史における植民地統治の時代、日本の物質的近代化の達成、英独仏露米らのアジア統治に関する駆け引き、日本の資源の欠乏と中国進出の不手際、チャーチルと蒋介石の謀略、天才ヒトラーの出現と誇大妄想、秀才胡適の巧みな外交力、さらには、もしあの日あのとき、ルーズベルトの奥さんがヒステリーを起していなかったら、そのメイドがもう少し美しくなかったら・・・。歴史の展開にはあまりに多くの微小な要因が複雑に入り組んでいて、人知を遥かに超えたものだ。それは天気予報の比ではない。

 小生は不器用にも「歴史の必然性」という言葉を使いたくなる。しかしそれは、過去を振り返ってみてそう思うに過ぎないのであって、無力な人間にとって一寸先は闇である。

 しかし一方、生物学的には、個人のエゴイズムがあるのと同様に、国家のエゴイズムは明らかであって、すでに日露戦争で日本が勝利したとき、二匹の雄犬が対峙するように、すでに日米戦争への空気の流れがあった。大局的に見て、英米仏蘭露とアジアをめぐっての駆け引きは、いずれ戦争になると誰もが予感するところであった。 


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今日は新嘗祭

11月23日は「新嘗祭」ですね。占領中に「勤労感謝の日」と安っぽい名前に変えられ、もはや日本人もただの休日としか思わなくなってしまった。
色々な制度が今から60年前の外国人による占領中に変えられ、それによって明治の初めに国際舞台に颯爽とデビューしたときの意気込みが全部骨抜きにされてしまいました。もちろん、その意気込みの行き着くところは今の目で見て間違った部分もあったであろう、しかしそれはそれで直せばよい、しかしもっとも大切な部分まで切り捨てることはなかったではないか。

あの時の先人達、大久保さん、西郷さん、坂本さん、木戸さん、慶喜さん、岩倉さん、新撰組のみなさん、久米さん、伊藤さん、井上さん、板垣さん、大隈さん、その他無数の血と汗を流したのはいったい何の為だったのか・・。先輩達はあの世から今の日本を見て、何という思いをされていることでしょう。(


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日本、二つの敗戦 2

大東亜戦争(アメリカでの呼び名は太平洋戦争)はどうして始まったのか。

太平洋戦争の研究者であるH.K氏のお話。
昭和16年(1941年)11月25日位までは、アメリカも日本も戦争を回避するよう頑張っていたという。ルーズベルトは前年8月の大統領就任演説で若者を戦争にやらないと公約していたそうである。だからアメリカから開戦することはありえなかった。

 11月20日、野村大使と来栖大使は米国務長官ハルにいわゆる乙案を提出(すでに暗号は読まれていたという)。ハルは24日に回答する旨伝える。

 22日ルーズベルト大統領は「対日暫定協定案」(乙案)の了承の提出するため国務省に、英、蘭、豪、中の大使を集め了解を求めた。しかし、中国大使胡適が猛反発したため、日本への回答を25日に延期する。(中国、すなわち蒋介石は何が何でもアメリカを戦争に引きずり込む必要があった。胡適はその大役に相応しい巧みな弁舌家であったらしい)

24日および25日、胡適の反発強く、日本への回答をさらに延期する。
26日早朝 米軍からルーズベルトへ「台湾沖を日本の大船団が南下中」との情報(誤報)が入り、ルーズベルトが激怒。17時、野村・来栖両大使にハルノートを手渡した(乙案は受託せず)
27日、日本海軍機動部隊は択捉島から出撃。

12月1日 御前会議にて対米英蘭開戦を決定。
    8日 ハワイ真珠湾攻撃

この報を聞いて、蒋介石とチャーチルは狂喜した。やっと日米が戦争をしてくれる!
要するに、中国人の胡適こそ日本の真珠湾攻撃を促した最大の立役者であった。そして、H.K氏は付け加えた「日本人は外交が下手だね」と。

 負けることが分かっていた戦争をしなければならなかった。・・・外交が下手な日本を小生は無限に愛する。


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戦争責任?

大東亜戦争についてよく戦争責任云々を聞きますが、そもそも国家のやったことについて、個人の責任なんてことがあるのでしょうか。
確かに、日常の事件や事故においては責任云々は言えるでしょう。運転手が赤信号を無視して衝突したら、その事故についてその運転手が責任を取らねばならない、と思う。同様に、先生がが授業をしなければならないとき、遊びに出かけて、そのために授業が遅れた場合、その先生は責任を取らねばならないと思う。
戦争するかどうか決定しなければならないとき、総理が遊びに出かけて、決定できないとき、その総理はそのことに責任があると思う。しかし、戦争遂行の最終決定を下し、戦争に負けても、その責任はない。戦争を始めたことについてもちろんない。われわれは、国の決定を政治家に任せたのであるから、負けたといって文句をいってはいけない。
後になって、あんなことやらなければよかった、なんて言っても後の祭り。なんであんな馬鹿なことをやったんだろう、と言うが、われわれ人間は、事前に物事が解るほど賢くはない。誰でも後悔するが、済んだことを何時までも文句を言っていてはいけない。その時は、それがいいと断じたのである。
小生は、日本の過去を自分の過去と感じる。愚かな事もやった、恥ずかしいこともやった、しかし、それら全てが自分ではないか。失敗例だけ切り離して捨て去るなんて器用なことはできない。それどころか、それら失敗がいとしくてならん。全部自分じゃないか。
反省や分析は利口な奴に任せるよ。





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青松葉事件 1

慶応四年一月三日、朝廷と結んだ西軍(薩摩・長州軍)と大阪城の東軍(会津・桑名・旧幕府軍)との戦闘が、鳥羽伏見において始まった。ほとんどの諸藩は、どちらに付くか態度を保留しており、また藩内には勤皇派と佐幕派との対立があったという。一日にして西軍が緒戦を制し、その報告が日本中を駆け巡った。
尾張藩は、徳川親藩であるけれど、もともと勤皇派たることを標榜していた。京都で活動中の、尾張藩責任者であり前藩主でもある徳川慶勝と勤皇派の重臣たちのもとに、一月八日、国元からクーデタ発覚の報せが入った。名古屋城内で、佐幕派藩士らが幼君義宜を擁奪し、旧幕府軍に味方参戦しようとしている、との事である。慶勝と重臣らは慎重に検討の上、帰国後ただちに、容疑者十四人を問答無用とばかりに斬首した。これを青松葉事件(騒動)という。
この事件の後、ただちに緘口令が敷かれ、歴史の表から姿を消していった。しかし、その後、本当に名古屋城内で、そのようなクーデタの動きがあったのかどうか、疑いが残った。
明治政府は、明治三年、十四士の遺族に対して、家名の相続が許され、給禄が支給された。また明治二十三年には青松葉事件受刑者に対して、「憲法発布の大恩赦」として罪科消滅の証明書が交付された。
近年、水谷盛光氏の綿密な調査の結果、名古屋城におけるクーデタの動きはなかったらしい、とのことである。慶勝はなぜ十四藩士を斬首したかについては、いまだ暗い闇の中にある。

             

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うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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