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選挙権など

 最近、選挙権が20歳から18歳に変更されるということで、不安を感じるという意見を耳にする。また、高校では先生が国政についてどのように教えたらいいのか難しいという。小生に言わせれば、高校では、目下のわが国の政治状況の主だった所を教え、それについて各政党や各国の意見をすべて紹介し、生徒たちに議論させればいいではないか、と単純に思う。

 ところで、話は変わるが、小生は天邪鬼である。例えば、祝日には国旗を揚げる。何十年も前からそうしている。この地区で揚げている家は二軒くらいだ。ところで、もし時代が変わって、ほとんどの家が国旗を揚げるようになったとしたら、その時は、小生は揚げないようにしようと考えている。つまり、人と同じことはしたくないのだ。それほど天邪鬼。ひねくれ者なんだ。以下は、そういう者の意見である。

 小生は、議会制民主主義なるものによる政治は、「船頭多くして船山に上る。」と同義語だと思っている。だから以前は選挙には行かないほうがいいと思って、行かなかった。

 ある時、近所にドイツから来た先生がいた。小生が「選挙には行かない」と言ったら、彼は、「選挙に参加しないのだったら、どんなことになっても政治的な口出しをしてはいけない」と言った。小生答えて「政治には何の興味もないし、不平不満もない。どうなっても文句を言うつもりはない」と。しかし、いつ頃からか、小生は堕落して、多少の不平不満を口にしたりするようになった。そのころから選挙に行くようになった。

 ところで、人間というものは、どうも上等の生き物ではないから、為政者でもちょこちょこ悪いことをしたり、甘い汁をすったりするものだ。まあ、それほど大したことはないがね。それにしても、こんな平和が飽きるほど続くと、かえって、誰か、政治家でも草莽でもいい、松陰とか西郷のような、偉大な大犯罪者・大殺人者が出てきてくれれば何と面白かろうと期待してしまう。

 世には変わった人が沢山いる。民主主義体制はそれらの人すべてを許容しなければならない。

私は国家を認めない、コスモポリタンである、と公言している人もいる。(もっともこう言う人は、おうおうにして安全な国家の中で心安らかに生活しているものである)。

あるいは、こんな生ぬるい平和な地域には住みたくない、スリルのない人生なんて生きるに値しない、と言って、犬ぞりで北極圏を横断しようとしたり、戦闘地域での戦いに参加しに行く人もいる。

あるいは、私は動物を殺すことに無限の快感を感じる、できれば人間も殺してみたい、という人もいる。

あるいは、人間はみな平等である、皇室は金の無駄遣いであるから廃止すべし、人間も犬猫と同じく、食べて寝てウンコする動物である、と主張する共産党の人たちもいる。

そうかといえば、人類は堕落している、もっと霊的に昇華しなければならない、まず彼らをサリンで皆殺しにして、その後、大平和国家の建設に取り掛からねばならない、という壮大な理想に燃えた人たちもいる。

挙げようと思えばきりがない。が、とにかく人間は一筋縄ではいかぬ生き物だ。民主主義体制の国家は、こういう変わり者の集団を排除せず、まとめていかなければならない。これがどんなに大変なことか、民主国家がどれほど危ういものかと、プラトン翁も不審している。

独裁国家というと人は悪いイメージをもつが、徳川時代は軍事独裁体制であった。いかなる理由があっても、体制を少しでも揺るがすような罪を犯せば、問答無用の斬首。しかし、そのお陰で、250年の平和のうちに、人々は安心して仕事にいそしみ、なんと多くの学問や演劇絵画などの諸芸術が栄えたことであろう。

われわれは、政治に関心がなくても幸福に暮らしていけるし、政治に大いに関心があっても不幸たりえる。もし、幸福が大事であるなら、まず自分が幸福にならねばならない。
小生は、徳川時代に生きた良寛のことをよく考える。小生は彼の書の魅力を歳とともに解るようになった。彼はごく自然に、素直に、怠け者として生きた。誰でも知っているように、彼は托鉢すなわち他人からの施しで生きていた。子供と遊ぶこと、好きな本を人から借りて読むこと、詩を書くことを、心から喜んだ。服は一揃え、布団も一枚あればよく、それ以上のモノをもらえば、人にあげた。住まいは風雨をしのげる小部屋があればよく、小さな机と書く物があれば、それで満足だった。彼の明るい素直な人柄は村の人々を惹きつけた。政治に関心を持とうと叫ぶ社会改革派の人々は、良寛のことなど知りたくないであろう。

自由・平等・博愛そして人権も加えるか。そういったものを訴える人々はどういうつもりなんだろう。その心のルーツは、王や貴族らをギロチンにかけ、その首から血が迸り、頭が落ちるのを見て、拍手喝采することだった。それは、共産主義のルーツと同じく、一言で定義できる、―ルサンチマン。

          *

政治とは、国民から税金等で得たお金をどのように配分するか、それを決めることなんだな、ざっくり言って。そういえば昔、ある評論家が、選挙権などは仕事をしている人(金を稼いでいる人)にのみ持たせるべきだ、だから15歳でも仕事をしていれば選挙権をもつべきであり、30歳でも脛かじりは持たせない、また専業主婦には持たせない、と書いていたな。これはすっきりしていい考えだと思ったが、家事も立派な仕事であるという風潮である現今、通らない意見だろうな。

お金の配分を決めるには、政治家たちが何に価値を置くかによって決まる。願わくば民族の伝統ある宝を大切にして欲しいものだ。しかし、本当の価値は個人の生き方を通してしか顕にならないのではないかな。

われわれ凡人には幸福が一番大事なのだろう。しかし、小生は、例えばゴッホの生涯を想うとき、あやうくノーと言ってしまいそうである。彼は、その性格ゆえ、若いころから携わる事ごとに裏切られ、遂に画家という天職を得るのだが、ほどなく精神の病に侵され、病院で過ごす。病は昂じて37歳で自殺するに至る。売れた絵は生涯で一枚しかなかった。ただ一人、彼の弟だけが彼の天才と苦しみを理解した。そういう彼の生涯と絵を想う時、幸福は価値ではないと、はっきり言える。  不一


     

         

         
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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

歴史とは

このごろこんな風に考える。
歴史とは何だと問われれば、とりあえずそれは過去のことだ、過去の記憶のことだと答えよう。しかし、それはたんなる思い出ではなく、努めて思い出そうとしなければならない。思い出そうとすると、その姿はいよいよ鮮明に浮かび上がってくるが、絵画を前にしている時のように、ますます多くを語りたくなるが、いっそう語るに困難を感じるようになる。つまりより生き生きとなるのである。

 小生はだんだん歴史が好きになった。なんでこんなに面白く感じるのか。それは、歴史には決まり切った回答というものがないからでもあるし、また事件や人物の精妙さというか味わいは尽きせぬものだから、とも思う。あのとき、なぜ彼はああしたのだろう。あの事件はなぜあのような方向に進んでいったのだろう。あれこれ想像できる。そしてやっぱりあの人は、ああいう人にちがいない、どう表現しようもない、とにかくああいう不思議な独特な生き方をした人なんだ、あの事件は独特の色彩を放っている、と感慨を新たにする。

 ところで、過去の出来事は繰り返さない。この繰り返さないという点がとても大事な点だと思う。明智光秀があのとき本能寺に向かった。その事件は二度とありえないことである。明智光秀という人は二度と現れないであろうし、彼が生きた時代もあの状況も二度とやって来ないであろう。東条英機という人も二度と存在しえないし、ましてやあのときの各国の状況の絶妙な組み合わせが再びあり得るわけがないし、したがって〈あの戦争〉も二度と起こり得ないのである。すべては唯一、一回きりである。だからこそ過去の出来事を知ったところで何の役にも立たないのである。

 過去の出来事としての歴史は何の役にも立たない。このことはしっかり肝に銘じておかねばならない。二度とないということは、取り返しがつかないということだ。泣いても悔やんでも叫んでも、あのときを再び生きることはできない。懸命に働いたあの瞬間も、恋人とのあの甘い瞬間も二度と体験することができないし、死んだ母に二度と逢うこともできないのである。しかし、だからこそ、惜しいからこそ、あの時のことをより鮮明に思い出そうとするのだ。そこに様々な想いがまといつき、想いが思い出の創出に手を貸す。ここから歴史という尽きせぬ泉の味わいがそこに生じる。歴史というものは、そういうものではあるまいか。

 したがって、歴史を知ってこれからの行動の役立てよう、というのはお門違いである。この宇宙の歴史に二度と同じ状況はないし、同じDNAの配列をもった人間も存在しない。われわれは、つねに全く新しい状況に直面して、日々新たな工夫をしなければならない。過去の例を参考にするとは、たんなる気休めの効果があるに過ぎない。

 歴史を知る? それは必要なことかもしれない、しかしまたなんとおこがましい言葉だろう。われわれは歴史に流されるだけだ。もし歴史の流れが現実的な力をもつとすれば、それは巨大な津波のように圧倒的な力であって、われわれ人間がどうこうできるものではない。未来の状況を語る人は、新しい〈現実〉がやってきてそれに対処しなければならないときが来れば、おおむね以前の発言の虚しさを知るであろう。なんとえらそうな理屈を述べようと、ちょうど山にこもる修行僧が、誰もいないところでたまたま川で洗濯する女の脚をみて、谷から転落するように、圧倒的な〈現実〉の前では、われわれは無力である。

 自分ですらこうである。ましてや政治や経済の偉い先生方が、「五年後はこうなる」と様々に異なった意見を平気で述べているのは、無責任を通り越して、ほほえましく長閑な光景である。そのうち誰も思わぬ事が起きるよ。

要するに、現実とはけっして生易しいものではないし、未来は予見できない、という常識に還ればよいのである。


     


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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

8月15日 4

 
 反省やおわびをすればよき人と
     思ひこんでる子供らがゐる

 マスコミは国民のお太鼓もちよ
     戦争中も平和のときも

 戦争はもうごめんと言ふもし勝たば
     さうは言はぬといふことを知らず

 ワタクシノ嫌ヒナ人ノ面付(ツラツキ)ハ
     正義の味方 弱者の味方



  

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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

8月15日 3

 

  戦ひを肯定したる我ひとり
   あくる日みなにいぢめられけり

 人の世は多勢に無勢かはりなし
   戦争中も平和のときも

 自然力われらの知力を超えるもの
   歴史の動きも人智を超える

 それゆゑにこの悲しさは人をして
   宗教科学芸術を生ましむ



  

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8月15日 2

口角に泡を飛ばして主張する
    わが国人は和を尊ぶと

         これは皮肉ではありません

あつものに懲りてをかしくなったのか
    改憲イコール開戦といふ


 あのいくさもし勝ったなら喜びで
    紙面かざらむ大手新聞


 戦争や恋愛があるおかげで
   人はなんと生き生きとなるか


 大西郷やすくにに祀られようが
   そんな小さいことは気にしない



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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

8月15日 1

ぼくは、この時節になるときまって思いだす。
 それは、幼稚園からの帰り道ー
 うんこがしたくてたまらなくなった。
 家までまだだいぶんある。
 しようがないから、歩きながらうんこをした。
 知らぬ顔をして歩いていたが、
 臭いは隠しようがなかった。
 ある家の前で見知らぬ小母さんが気づいて、
 あれ○○さんとこの子じゃないのぉ、
 洗ったげるわ、うちに入りなさいと
 言われ家に入れられ、お風呂場に連れていかれ、
 ズボンとパンツを脱がされ、下半身に何度も
 水をかけられ、きれいにされ、
小母さんの子供のものとおぼしきパンツを
はかされて、…帰宅した。
汚れた衣類は洗ってくれたようだ、
そのあとの事は憶えていない。
ただ、そのとき感じた気持ちは、
はっきりと覚えている。
その小母さんにたいして
ひどく恥かしいという気持ち、
余計なお世話を恨めしいという気持ち、
そしてちょっぴりありがたい気持ち。

それから、また思いだす。
小学校の6年生の時のこと。
学年全体でマラソンがあった。
距離として2~3kmだったと思う。
ぼくは走るのがもともと苦手なほうで、
しかもすぐ息が切れる。  当然、
前半から落ちこぼれグループで、とても
最後まで走り切れない予感がした。
途中で先生が後ろからはっぱを掛ける。
一人だけ置いていかれるのが嫌だから、
周りの仲間たちに「真面目に走るのなんか
バカバカしいぜ、ゆっくり行こう」とか、
そのようなことを言って、急ごうとする
仲間をけん制した。・・・
ゴールはどうだったか、憶えていない。
たぶんビリだったのだろう。
後になって、その時の自分の卑怯、ずるさは
じぶんの心の中でどんどん大きくなって
痛い棘となった。
それだから、もちろん以後、
長距離走には積極的に参加して、
たとえビリでもベストを尽くそうと
思うようになったけれど。

 いろいろと昔の思い出が浮かんでくる。
 でも、なぜか恥ずかしかったこと、
弱い自分、悪事をなしたことばかり浮かんでくる。

故郷の田舎町の小さな駄菓子屋で
ガムを盗んだこと、その時の気持ち。
受験に落ちて、馬鹿だと思われたくないために
自他に対して
巧みな言い訳を考えたこと。
その時の正直な気持ち・・・
思い起こせば、顔から火が出るようなことが
いくらでも浮かんでくる。

あれから年月が流れ、今となってぼくは、
あれらは逃れようもない自分なのだ、
あれこそ自分なのだ、という気持ちが
どんどん強くなっていく。
 居直りではないが、そういう自分を
 むしろ肯定しようという気持ち。
思いだせば思いだすほど、むしろ自分の
 過去にたいする愛おしさが強くなっていく。

         *

 ところで、ぼくは日本という国に愛着を感じている。べつに愛国主義者などという仰々しいものではないけれど、ごく自然にわが国を愛している。最近では日本の歴史を知れば知るほど、いっそうその感がはっきりしてくる。日本の歴史を知ることは、自分の過去をうまく思い出すことと同じじゃないかと思う。馬鹿なことも、愚かなことも、しかしそれらはみんな自分じゃないか、と感じられ、愛おしさを感じないではおれない。

          *

 さて、ここからは作り話。
 高校生になったある日、ぼくは些細なことから
 友人たちと喧嘩をした。相手は三人だった。
 多勢に無勢。ぼくの顔は腫れ、血まみれだった。

 祖父母は、そんな姿のぼくを見て泣いた。父はどうしてこうなったかを問いただした。母は、ぼくの顔を洗って拭いてくれ、なぜか笑顔でぼくを抱きしめてくれた。それ以後ぼくは、くじけそうになった時いつも、このときの母のまなざしがたすけてくれた。

 相手の生徒たちはぼくの非を口を揃えて言った。そして、他のまったく関係のないおしゃべりな生徒たちも、なぜかぼくのほうが悪いと言っているらしかった。そういうときぼくは非常な孤独を感じ、途方に暮れたことを覚えている。ぐうぜん喧嘩を見ていたパルさんは、喧嘩の原因をつくったのは相手たちだと言ってくれたが、マック校長は、ぼくを校長室に呼び、一枚の紙と鉛筆を渡し、ここに反省文を書けと言った。

 そのときの校長の顔をぼくはまじまじと見つめた、というのは校長は本気でそう言っているのか、たんに世間体を慮ってそうしているのか、どうも真意を測りかねたからだ。そのときの校長が醸し出す空気をぼくは忘れることはできない。

 それから何日かしてから、ぼくの大好きな親戚のヒデ叔父さんにその話をしたら、叔父さんは縁側で黙って聞いてくれていたんだけど、しばらくして煙草の煙をふーと吐き出してこう言ったんだ、「まあ、利口な奴らは反省ってやつが好きなんだな。俺は馬鹿だから反省しないよ。」そのときの、ぼくを見つめる叔父さんの爽やかな顔は、―いつも爽やかな人だったけれど、ほんとうに魅力的だった。

 それ以来ぼくは、やってしまったことを、後になって、こうなってしまったのはあれがけなかったの、こうすべきだったのと、やいやい言う人を信用することはできなくなった。その後だんだんと分かってきたけれど、反省を声高に言う人の多くはとても冷たい目をしている。自分がやってしまったことに対する愛情が欠けている。それがわかったんだ。



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テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

西行5

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 まあ、とにかく、小生は、日本語がこのような危機を通過して、鍛え上げられてきたことを、日本人として嬉しく思う。小生は日本語を信じる。その広さを、しなやかさを信じる。もっとも他の国に生まれたわけではないから、他の言語は知らないけれど。

 日本語は歌を詠うには適しているが、外交には適していないと言うような人がいるが、小生はそのような意見には与しない。外交が弱いのは日本語のせいではなく、日本人気質と戦争で負けたためである。今や英会話が必要だと言うが、それは優れた技術を持った配管工が必要だという意味で必要なのである。現場の人は必要な技術を身に付けねばならない。

 日本語は論理を繰るには不適だという人がいるが小生はそうは思わない。そう言う人は論理の何たるかを知らない人だ。西洋の哲学者たちはよく知っていた。それに、日本語の不備を指摘して止まない人が、「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人が言った」というのと同じで、日本語の不備を日本語で上手に語っているのである。

 日本語に、我、僕、俺、私、小生、自分…などがあるということは、じつに細やかな話が出来るということではないか。もし、それが論理と関係ないというならば、論理は正確には数学に還元されるしかない。これこそ普遍的な言語である。


  
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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コスミックフロント

インフルエンザか何か知らないけれど、悪寒戦慄のアタックを受けていた数日間、隙をみては「コスミック・フロント」というテレビ番組を覗いてわくわくした。

 要するに現在の天体観測最前線の様子を扱った番組で、天文学者たちが宇宙の構造、越し方、行く末をどう考えているか。そのために彼らはどのような観測をしているのか、そして今後どのような観測装置を作ろうとしているのか。その様子をわれわれ素人にも分かりやすいように紹介しているのであった。

 デジタルテレビに映し出される望遠鏡の映像は本当に鮮明で美しく、銀河の渦巻きは貝殻の渦巻きを、銀河集団の分布は熱湯の泡の形を連想させる。その昔、月が地球を回る運動にはリンゴが地面に落ちる運動と同じ力が働いていると初めて直感した科学者たちのことを想う。

 それにしても、遠い星の正確な位置や運動を、その観測結果から調べると一言では言うけれど、これまた凄いことなんだなぁ。何十億光年の彼方から発せられる光や電波には、当然それが通過してくる気の遠くなるほどの間に、何らかの影響を及ぼすものが介在するはずである。その言わばノイズをどう処理するか、ノイズとノイズならざるものとをどのように区別するのか、話を聞いているだけでスリリングである。

 まぁそういった様々な処理を経て、われわれがテレビで見る美しい、分かりやすい画像が創られているのであり、それにはいろいろな分野の科学者と彼らを支えるコンピューターなどの機器の絶えざる革新がある。科学者が現在の疑問を解決すべき次に必要な機器、例えば南米チリの高原には何十台という巨大な赤外線望遠鏡を造りつつあり、ハワイ島のスバル望遠鏡には何十億画素のカメラを開発しつつあり、そういうことに当然莫大な費用がかかる。

 番組を解説する宇宙科学者は、宇宙の始まりや最も遠い星の観測なんてわれわれの現実生活に何の役にも立たないが、こういう番組を見てこういった科学に進もうという人が少しでも増え、その人たちの中には最終的には天文学などではなくもっと身近なすぐ役に立つ分野に進む人が居るでしょうから、一概に無駄ではないでしょうと語っていた。

 いやいや謙遜には及びませんよ。実生活には即何の役にも立たないことに情熱を燃やす人たちを見ているだけで面白い気持ちになるし、こういったことに各国の科学者が協力し合い、国が拠出するというということを考えると新たな感動を覚えますよ。
  



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テーマ : 自然科学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

象徴天皇

日本国憲法第一条。

 天皇は、日本国の象徴であり日本国民の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 いったい、この象徴とは何なのか。大日本帝国憲法第四条では、天皇ハ国の元首ニシテ統治権を総欖シ…であって、分かりやすい。以前から、元首に対して象徴とは軽くて抽象的な語であって、どうもイヤだな、しかし、戦争に負けてアメリカ人によって創られた憲法だからしょうがないや、と感じていたのだが、何十年とこの言葉を聞かされているうちに、洗脳されてしまって、このこの〈象徴〉が、返っていいのではないのかな、と思うようになった。

 それにしても、アメリカ人であってもどうしてsymbolなる語を使ったのだろう、と今更のように思って、皇室のことにお詳しいT先生にお訊ねしたところ、新渡戸稲造が戦前アメリカ人にこの語を使って説明をしたことがあるらしい、とのことであった。

 先日、新聞の切り抜きを整理していたら、平成16年11月の記事が出てきた。これによると、太平洋戦争開戦からわずか半年後の1942年6月、米国陸軍省心理戦争課の大佐が想起した〈日本計画〉と題する文書中に、昭和天皇を〈平和の象徴〉として利用するという文句があり、それをマッカーサー将軍は知っていた、という史料が、2001年に米国国立文書館で発見された、という。

 なんだ、やはりそうだったのか、とあらためて思った。

 昭和20年
 8月15日、終戦。
 9月2日、ポツダム宣言受諾。
 10月4日、マッカーサーが近衛に改憲を示唆。
 年末までに、4つの新憲法草案が出来た。
 昭和21年
 2月1日、毎日新聞が改憲に付いてスクープ。
2月2日、GHQ激怒。
2月9日、吉田、松本、白洲はGHQに案を提示。
2月13日、GHQ案の基本事項を呑まされる。
2月22日、折衷案。
3月4日、GHQ了承、徹夜で翻訳調整。
4月  、一般公開。議会にかける。

大急ぎで創られたかわいそうな憲法。

この忙しい中、GHQ民政局長ホイットニーから草案を渡された幣原総理は、「天皇は〈象徴〉である。シンボルであるといふ言葉が使ってある。憲法に文学者のやうなことが書いてあると大いに吃驚した」と書き遺した。同感だ。

公文書に「文学的語彙〈象徴〉」を入れたのは、しかし言い得て妙ではなかったか。天皇は、天皇であって元首でもなければ、皇帝でもない。外務省の皆さま、天皇をemperorと翻訳するのを止めてください。戦後、象徴というなんだか訳のわからない語彙で誤魔化してきたのは、かえって伝統的な、政治権力とは対極にある精神的権威、法の中に在っていざというときには法を超えるがごとき機動性を秘めた不思議な中心、を示唆しえる。そんな力・・・

その一。昭和20年8月、陸軍のみならず、一般国民、多くの青年たちが、最後まで戦おうという気持が席巻していた時、天皇がまずもって終戦を宣言し、多くの日本人を救った。(明治憲法よかった、よかった)

その二。この度の東日本大震災の被災した方々へのお言葉。「自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国の・・・努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います」。この自衛隊を第一にもってこられた深い意味を思う。自衛隊のトップは、他の国家公務員のトップと違って、天皇から認証されていないことになっている、しかし天皇の思いはそのような規定を超えている。(ざま―みろ、日本国憲法)

先日、津田左右吉の天皇論を読んでいたら、偶然にも象徴なる言葉が、しかも、昭和21年4月の論文に発見したのは、大いなる驚きであった。驚きとは他でもない、この昭和21年3月は、密室での憲法作作成委員らが、symbolなる語を翻訳していたまさにその時期であるからだ。津田博士は、そんなこととはつゆ知らず、己の歴史的に見た天皇観を、戦前および戦後の(つまりpro et contra)の、声高な天皇観に対して、象徴と呼んだのだった。

津田博士といえば、記紀の神代の物語は、これが書かれた時代の状況を基にした、天皇や有力氏の権威づけの物語だというような論者としか知らなかった。それで、戦前は天皇に対する不敬ということでさんざんに叩かれた研究者であった。ところが、この論文『建国の事情と万世一系の思想』を読んでみると、じつに我が国民がいかにして皇室を崇敬して止まぬ感情を生みだしてきたか、それが続いてきたからには正統と認めべきではないか、しかも皇室がいかに民主主義に合致するものであるか、縷々諄々と述べている。

「日本の皇室は日本民族の内部から起こって日本民族を統一し、日本の国家を形成してその統治者となられた」
「国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる」

昭和21年初め、訳の分からないアメリカ人と、日本古代史の碩学が、奇しくも用いた〈象徴〉という言葉。この言葉は、天皇が公文に納まりきれない御存在であることを象徴(!)しているのではなかろうか。




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天皇と自由

 われわれ日本人にとって天皇は特別な存在だ。しかし、神の前での天皇とわれわれとは大同小異である。天皇が神の子孫であるならば、われわれだってそうである。

 また、こうも考えた。

 天皇家に生まれたならば、われわれのように自由なことができず、さぞかし窮屈な人生を送らねばならいない、と思うかもれないが、翻ってわれわれの人生も決して自由なものではない。

 われわれも、生まれた環境はみな違う。親や兄弟が狂気じみた人である場合もあるだろうし、おっとりした人である場合もあるだろう。普通の家に(ああ、普通というものがあったら!)生まれた人もいるだろう。
 金満家の家に生まれた人もいるだろうし、赤貧の家に生まれた人もいるだろう。容姿端麗あるいは不細工を、IQ160をあるいは60を与えられたかもしれない。みんなそれぞれ与えられた条件は、まったく異なる。

 さらに空想をたくましくすれば、われわれは日本語だけを話す両親のもとで育つしかなかった。5カ国語を話せる人はいるかもしれないが、どんなに頑張っても50カ国語を話せる人はいない。ましてや宇宙語を話せる人はいない。宇宙には棲めない。この地球の酸素濃度と重力に適応しなければ生きていけない。・・・

 言いたいことは、われわれは自由でないということだ。みなそれぞれ生まれた時から、strictな条件下で生きねばならいない。

 この観点から言うと、天皇家に生まれようが、佐藤さんちに生まれようが、大差ない。

 ということは、自由とは、~からの自由ではなく、与えられた条件下で如何に工夫して生きるかの自由でなくてはならない。

 もちろん、今の条件から逃れる、例えば家出をする、とうのも一つの選択肢であはるが、それすなわち一工夫であって、そうなるとまた別の条件に置かれることになる。そこでまた工夫して生きなければならない。

 まあこんなことは、だれでも日々感じ実践していることにちがいない。いまさらあらためて書くことでもなかった。
(ぺこり)

自明なこととお感じかもしれませんが
    ↓↓

      
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テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

国語

 『日本語が亡びる時』を読んで、思いだしたことがある。それはもう20年くらい前のことではあるが、漢字仮名遣いに関して新聞に投稿したこと。おおよそ次のような内容であった。

 漱石・鷗外は言うに及ばず、戦後に活躍した川端・三島などの文豪も旧かなづかいで書いている。しかし文庫本などで新しく出されると、旧漢字は新漢字やひらがなに、かなづかいも新かなづかいに変えられている。そんなことをしてもいいのだろうか。文豪が著作した時そのように書いた必然性があったはずで、作品を生み出さない出版社が勝手に変えていいものだろうか。

 今の学生は漱石が読めないと聞いたことがある。いろんな意味があるにしろ、今の出版社が、誰でも読めるように!判りやすい言葉に変えてしまうから、原文にあたった学生は難しく感じるということもあろう。文部省も似たような発想をしているのではないかと危ぶむ。まことに小さな親切、余計なお世話ではある。

 戦前の人たちは、いまの人がそうであるように、別に苦労せず小説や新聞を読んでいたであろうと想像する。どんな人でも生まれて育つうちに活字を読むようになるのは自然なことであって、それはコンロで火をおこして炊事をしている時代の人たちが電子レンジがないから不便だと感じたりすることはないのと同じことである。

 どんな人でもアメリカで生まれ育てば英語を読めるようになる。漱石・鷗外がそのまま本屋に並んでいれば、それを読む。余計なことをして読みにくくしているのは誰なのだ。

 明治時代と敗戦後に、漢字廃止論がけっこうまじめに検討されたらしい。もし、それが実行されていたら、一部の研究者をのぞいて誰も漢字を読めなくなるだろう。

 御役人は何を考えているのか。国語簡略化などは国民の生活を真に考えた発想ではない。それは、たんに通信の合理化のためではないか。本末転倒はもう御役人の得意芸である。

 前にもふれた漢字、ひらがな、かたかなの複雑な混淆こそ、他国語に翻訳不可能な微妙な陰影を蔵してわれわれを豊かにしてくれる。それが日本の文化だ。一字一音の表音(厳密にそんなものがあるとしたら)に合理化したら、とりあえず通信には便利だろう。しかし、そのとき1300年かけて作り上げてきた日本の精神の豊かさは亡くなるのだ。

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米軍基地移設問題

 鳩山政権が、基地の国外または沖縄県外を口にしたものだから、そしてまた沖縄県民の訴えを聞いてやらねばならないと甘い言葉を垂れこんだものだから、沖縄県民は、それに乗じて、県内移設に猛烈に反対している。これじつに〈友愛精神〉の賜物なり。民主党打倒に燃えている自民党の人々の中には、後のことなど考えず、沖縄県民のこの訴えの炎に油を注いでいるのではないかな。

 小生は、この反対運動がもっと盛り上がればいいと思う。べつに民主党打倒のためではない。米軍基地問題がにっちもさっちも行かなくなって、ついには戦後の最も重要な問題が露呈されることを願うからである。最重要問題とは言うまでもなく日本の独立である。日本国家は独立国であるか。少なくとも主権国家という心理の裏付けのある言行をもっているか(もちろん世の中は思う通りにはいかないことは了承のうえでだが)。憲法問題とともにこの問いにほんとうに触れたくないのは、むしろ空想的平和主義にしがみついていたい左翼陣営である。

 そういえば、この基地移設問題は60年安保闘争を思い起こさせる。当時安保条約を真に破棄させたいと思っていたのはむしろ保守派陣営ではなかったか。ただその手続きが難しいのだ。左翼陣営は安保反対と言い続けていたいだけなのではなかったか。彼らは、真に重要な問題に直面したくなかったのではないか。


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戦後の心理

 それにしても、日本の受けた傷は深かった。それはあまりにも深い。何か黒い塊がどーんと日本の心の底にぶら下がっていると小生は感じる。どうすることもできない。この苦しみから当分逃れることができそうにない。表面上はにこやかな顔をしていることができる。苦しみとは無縁の快活さを一時的には装うこともできる。しかし、じつは片時もこの苦悩から解放されることはないのである。
 日本の受けた傷。それは多くの人が死んだというものではない。諸都市が破壊されたからでもない。原爆を落とされたからでもさらさらない。いったいなんだろう、この苦しみは。

 昭和二十年八月一五日。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」あの日は暑かったはずだが、誰もそんなものを感じることはなかった。全くの空虚であった。空は青かったはずだが、誰の目もぽっかりとした巨大な穴しか見ていなかった。戦後生まれの小生はその時のことを知らないはずだと人は言うかもしれない。しかし、あの日をじっさい経験したか否かは大して問題ではない、この今なお続く重苦しさを感ずる者にとっては。あの完全な真空の日があったということを知り、この苦悩の中に居るということで、すべてが明瞭だ。 
 この心理的な深い心の傷。このいつ晴れると知れぬ無明長夜。永らくこの状態が続いた末に、苦悩を苦悩と感じることもないほどひどい苦悩の中に居る。それは絶望でもあり、また自己欺瞞のようでもあるが、じつは日本はいまだに眠っているのだ。あたかも〈あの日〉強力な催眠術者によって眠らされ、そののち術者は、覚醒の手の一叩きを忘れてしまって、どこかへ失せてしまったようなものだ。眠ってしまった日本は自力では覚醒しえない。目が覚めた、もう大丈夫だと言ったとしても、それはやはりどこかおかしいものがあって、催眠状態においてそう言っているにすぎない。

 いかなる心の傷も時が癒してくれるという。わが身を省みて小生もそう思う。しかし、それは意識の上でその傷を思い出すことが少なくなった。あるいは思い出してもいわば表象として出てくるだけで苦しさを随伴することはないということであって、じつは性格形成のうえで大きな影響をいまだにもっているものであり、己の行動において(無意識的ではあるが)それがどうしても出てくる。

 いくら頭のいい人でもそのような催眠状態にあると、現実との心からなる一致がもたらす柔軟さを欠く。考えや動きに、個々の点ではおかしくなくても、全体としてぎこちなく、観念的で非現実的なものがでてくる。空想に走ったり、逆にじっさい上手く処理できても、あまりに事務的で理想を欠いていたり。

 この傾向。頭で分かっても、現実の行動では歪んでしまう。これを少しでも治す手立てはないものだろうか。
 分からないけれど、もう性格はある程度しようがないとして、小生は思うに、それにはとにかく良識に還ることだ、としか言えない。しかし、この語はなんと誤解されやすい語であることか! これはもう現代日本では死語となっている。あるいは何でもありと同義語となってしまっている。それならば、〈常なるもの〉と言おう。われわれの周りには〈常ならぬもの〉で溢れている。流行で溢れている。それは群衆の中にいる自分であり、他人を意識してばかりいる自分である。流行を追うことであまりに忙しく、不易に思いを致すことが難しい。〈常なるもの〉〈不易〉。西洋人なら〈神〉と言うかもしれない。

 ある世代は、ひとつ前の世代がなした誤りを知ることによって優位に立ちえるだろうか。もし今の世代が目前のなすべきことについて〈常なるもの〉と〈常ならぬもの〉と区別がつかなかったら、ノーである。


   

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時代の変化

 ・・・続き人間は文化すなわち己の属する集団の習慣となってきた元の理想―無意識的な願いーは、そう容易く消えることがないと思う。小生はこんな風に想像する。人間は、個人であれ集団であれ、粘着性の強い液体で満たされた池のようなものであると。それは表面のほうは、外的な力で動かされ変化するが、その下のほうはそう簡単には動かされない。深部自体が何らかの地殻変動ー生物学的・集団心理学的なーでもなければ容易には変化しない、かなり強固なものである。人間は己そして集団のアイデンティティを表面から下のほうに降りて行って確認する。だから、強い外的な力で突然液体全体を大きく揺さぶられると驚き抵抗する。
 だから、変化は、表面から多かれ少なかれ深い内部への問い合わせを繰り返し、いわば納得済みでなければ、反発を食らう。
 平たく言えば、たとえば外国からの侵略が、それが唐突に暴力的にやってくると、国民は反発し、何としても祖国を守ろうとする心理が生じる。しかし、時間をかけてゆっくりとその国の歴史や文化に理解を示し、さらに経済協力という味付けをふりかけながら、同化してゆけば、侵略は成功する。中国のチベット政策も急がなくていいのだ。
 あるいは、もっと身近な例を挙げれば、女性を落とすのに、力でもって急襲すれば強姦であるが、多少日日をかけて手練手管を尽くし、相手に気に入られてから襲えば、恋愛の成就である。
 
 大雑把な言い方だが、日本は明治維新の時、急激な変化を体験したが、そうせざるを得なかったとはいえ、それはむしろ己が欲してそうしたのであり、いわば納得済みであった。だからいくら大革命といっても歴史の深い部分の連続性はしっかり保たれていた。
 しかし、大東亜戦争後の急激な変化はむしろ外部からの強い撹乱であり、納得のできないものであった。外的な変化は軽度かもしれないが、深いところの傷は深甚たるものであった。最初のうちは心の中では反発をしていたが、だんだんと表面的には反発をしなくなった。このまま日本民族の意識と無意識とが離反し続けると、どこかで異常が出てくるような気がする。
 まあ、嘆いていてもしようがないし、無理な誤魔化しを続けては重病を発症する、曖昧なまま時効になるのを期待して放っておくのは衰滅への道である。
 いまこれを克服する手立てがあると思う。それは、今なお戦後であることを国民が自覚し、これから百年かかるつもりで日本は理論武装を整え、積極的に世界に向かって戦後処理をしていかねばならないと覚悟することだ。
 


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仰げば尊し

 先日の新聞の77歳代の女性の投稿記事で、昔は卒業式と言えば「仰げば尊し」であった。今は違う歌を歌っているらしいのは残念である、とのことであった。

 小生も、そろそろ老境に入ってきたのか、「仰げば尊し」を、その初めの部分しか知らないが、いい曲だ、いい文句だと思うようになってきた。心の中でちょっと歌ってみて、なんかじーんとする。昔はそうは感じなかった。そもそも自分の卒業式など出なかった様な気がする。もはや学校とはおさらばだというわくわくした気持ちで、友人たちと春の夢の中へ真っ先に飛び出していったような気がする。

 それはそうと、投稿記事を読んで、小生もなるほどそうだ、「仰げば尊し」を歌わなくなったのは残念だと共感した。ところが、今はどのような歌が歌われているのか小生は知らない、もっといい歌?が歌われているのかもしれない。とすると、小生の共感は、自分が唯一知っており、いわばそのノスタルジーからそう言っているにすぎない。

 自分の過去へのノスタルジーから今の若者にも、自分の過去に与えられたものを与えようとするのはどうなんだろう、今の若者にはそれに相応しい今のスタイルがあるのではあるまいか。と一瞬考えた。

 しかし、もし若者に何か与えねばならないとしたら、自分の知り経験した範囲の中からしか、与えることができないではないか。自分がもし教師だったらどうだろう。その責任上、卒業式に相応しい歌を物色し、何度も聴いてその中から選定するであろうか。まあ、そんな面倒なことはすまい。面倒だから「仰げば尊し」でよしとしよう、となるであろう。きっと現代の教師は卒業式にふさわしいいろんな歌を知っており、「仰げば尊し」よりいいと判断した歌を選ぶのであろう。

 このようにして時代が変わっていくのだなぁ、歌は世につれ、世は歌につれなんて文句があったっけ。当然大人たちが生み出し提供したものを子供たちは当たり前のこととして受け取っていき、それがその子供の成長過程で感覚中枢の深部に沈澱していく。

 で、教育は、その時の大人たちがいいと思うものを子供たちに提供するものだ。とすると、われわれも子供時分にその時の大人たちがよしとして与えたものを主として吸収してきたはずだ。そして、その大人たちも同様に、子供の時その時の大人たちによって与えられたものを大いに吸収してきたはずだ。その時の大人たちが子供の時も・・・・以下同様。

 当たり前のことである。そしてどの時代にも、必ず新しい発想をする人たちがいて、その人たちは他人に影響を及ぼし、だから少しずつ変わっていく。世の中は変化する。変化しなければ死んだも同然だ。

 とくに表面的な感覚や科学技術による生活の変化や多様化は速い。日本人は明治時代になって、それまでとは非常に違った文明が欧米からどっと流れ込んできて、それを受け入れ、近年さらにその線を推し進めるに急で、いまや親子という連続する世代間でさえ、共通の感覚やツールが少ない。
 とはいえ、世代で全く通じるものがないかと言えば、そうでもない。しっかり共通なところも感じる。そして、そういうところに注視すれば何か安堵する。
 ・・・・続く

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現憲法無効論

このこと何度も言うけれど・・・
 現在の日本国憲法は外国人の創作であり、〈日本国憲法〉の名に値せず、ゆえに日本人は一刻も早くこれを廃止し、日本人の意思による憲法を創るべきである。

 戦後六十年にして、ようやくマスコミも現憲法について触れることができるようになってきた。少し前までは、現憲法について論じることはタブーとされてきた。マスコミ界も進歩したものだと思っていたが、・・・・・やはり基本スタンスは変わっていない。
 というのは、マスコミが口にするのは、ほとんど憲法第九条がらみのことなのである。新聞を見ると、九条の改正の可否のアンケート調査である。あなたは九条を変えたほうがよいか変えないほうがよいか、と問うている。

 小生に言わせるとこれは巧妙なおとり捜査のようなものである。なぜなら、九条に賛成する人にせよ反対するにせよ、あなたはこの日本国憲法を当然のことと認めているのですという心理を有無を言わせず強制し、しかもそのことをあなたに忘れさせているからである。

 小生の知る範囲では、日本国憲法は明らかにアメリカによって、しかも大急ぎで創られたものだ。憲法制作過程について今後新たな資料が出てくるかもしれないが、資料はあくまで資料である。それより、あの時点では日本は完全にアメリカの占領下にあったという事実があって、これ以上の事実はない。

 日本人はお人よしというか、どうも世の中を甘く見すぎる傾向があると思えてならない。占領下ということがどのようなことか、よく考えてもらいたい。
 ある人は言う、あのときGHQは確かに憲法作成に強く関与したが、日本人も作成に参加し同意したのだから有効であると。小生はそれには驚愕する。

 例えを挙げよう。暴漢が女にピストルを突き付けホテルに入ってその女を犯した。後で、女は強姦されたと訴え出た。男は、一緒にホテルに行ったのだから、同意の上だと反論した。裁判官が男の言うことをよしとしたら、小生は驚愕する。
 あのとき、皇居の目の前に、つまり日本のど真ん中にアメリカ軍がでーんと居座り、銃を日本に突き付けていたのである。敗戦のショックで口をぽかーんとあけていた日本にである。この間、日本政府、知識人、マスコミ等は、完全に言論封殺されていた。言論、放送、出版の自由なんてありっこなかった。憲法作成に参加し同意したと? 思えば泣けてくるではないか。

 この言論封殺の6年半が過ぎ、そうしてあっという間に60年以上過ぎた。人の生涯と同じく、どれほど己の怠惰を後悔してもしようがないが、日本は自主性をなくしたまま、目的を持たずに漂っている。

 普天間移設問題に悩むだって? 笑っちゃうよ。60年の付けがきたんだよ。うんと悩むがいい。
 だから、小生は憲法第九条のごとき問題ではないと思う。軍隊を持つか持たぬかではない。今後世界がどのようになっていくのか、誰もわからぬではないか。問題はいかなる状況に陥っても、自分の生きる指針を自分が決断し決定するという、いわば民族の無意識的な自信である。

 憲法とは民族(国民)の生きる指針である。人が育っていく過程で、いくらいい指針でも、親や他人に与えられて育った人と、曲がりなりにも自分で決断していった人と、長い目で見て、その将来の自立性はおのづと異なってくるのではなかろうか。成長過程とは個人では10年20年、国家では100年200年という違いがあるが。
 みなさんはどう考えられる?

 

 

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大和魂とは 4

大和魂という言葉が、われわれの多くに戦争のイメージと結び付けられるのは、やはり戦争中の軍部やマスコミの喧伝のゆえであるのでしょう。
 
 ここでまた基本事項を確認します。

今は平和時ですが、戦争時であれば、勝たなければならないというムードが国民の間で盛り上がるでしょうし、そうでなければいけません。政府もマスコミも国民も、やる気がなければ負けますから、初めからしないほうがいいですね。とにかくやると決まったからには、全員一丸(挙国一致)となるよう政府やマスコミは国民を一時的に洗脳しても、ムードを盛り上げねばなりませんね。やりたくない人はやらなくていい、なんて優しいことを言っている場合じゃないですからね。
 しかし、この雰囲気作りは、べつに戦争時のみならず、いま平和時でも、われわれが常に職場で経験していることではないでしょうか。戦闘状態にある組織は全体主義のほうが上手く行く。

 ついでに横道に逸れますが、もし自己の属している組織が不正を犯していると知ったとき、多少のことなら目をつぶるでしょうが、それが多くの人に迷惑をかけていると知るならば、例えば大塩平八郎のような人が現れて、告発するでしょう。それはどこの国でもみられうるでしょう。しかし、ただ己一個の問題としてどこまでもこれは正しいのだろうかと問い続けていく姿勢はキリスト者のものです。もちろん日本に限らず偉い仏教僧でもそういう人は居たでしょうが、罪(自己欺瞞)という強力な武器を梃子として自己自身を弁証法的に追及するのはキリスト教本来の姿勢であると小生は想像するのです。
 
 話を大和魂にもどしますと、資源の乏しい日本は対米戦争において、どうしても短期決戦で決めていきたかった。国民一丸になって大国米国に立ち向かっていくには、有効な標語を必要とする。
 いまバレーボールの試合で、応援団が、激しく、「頑張れニッポン、バン・バン・バン」とやっていますね。大人しい小生は見ていて恥ずかしいような気持ちになるのですが、まあ選手を鼓舞するには、標語やリズムが効果的なんでしょうね。
 「鬼畜米英」「神国日本」「撃ちてしやまむ」「欲しがりません勝つまでは」等。伝統ある祖国を守るためにわが身を挺するという意味においてはやはり「大和魂」が相応しい感じがしますね。戦争当時のマスコミ等の残響がわれわれの大和魂のイメージにまだ残っているのでしょう。そうして、そういう言葉の広がりというか概念は、また世が変われば変わっていくのだろうと思いますがね。

    *

 倒幕のエネルギーとなった大和魂とまことの道の源泉に遡ろうとする大和魂とが一つになって、明治期の日本の国際的独立のシンボルとしての国家神道の裡に棲みついたのではないでしょうか。

 その後は、陛下自身どのようにお感じになっておられるか知る由もないが、われわれ国民は、戦時においても平時においても、大和魂を神道に、そしてその祭主である天皇にその源泉をもつ、と感じて生きる国民となった。そして結局そういった宗教性の中に道徳観念をも取り込んで、ついに真善美の究極の観念としての天皇およびそれを守るべき力を指す言葉となった。

 そういった物語を長い時間をかけて創り上げてきた日本人。この物語の非論理性こそ、日本人の生の根源である。つまり天皇、生身の人間が一個の観念であるとは、それこそ絶対矛盾的自己同一。この矛盾を平然と生きている日本という国の面白さ。しかし、こういった矛盾は厳密には日本に特有のものではない。キリスト教においても、イエスは神であり人である。三位一体など理屈で考えていても永遠に解らないものだ。民族の夢の根源は理性を超えている。

 その点、ユダヤ教とイスラム教は論理的にとても明晰だ。唯一の超越的な神がある。そしてモーゼもイエスもモハメッドもすべての人間と同じく人間であるに過ぎない。
 
 そして、今ふと思いついたが、天皇の矛盾的存在は、皇太子のあり方をめぐって、現在も大きな問題を生み出している。
 つまり、天皇は、人間として!どうあっても人格者であらねばならないという意見。

そして一方、天皇のこの世的な存在根拠は万世一系にあり、他国の王様や大統領と違い、人格を云々するのはお門違いだとする意見。

小生は、どちらも正しいと思う。北畠親房は天皇が誤ったことをすれば、お諌めすればよいといった。そうだけれども、大正天皇が大好きな小生としては、変わった人格の人でも、それはそれなりに好いところが発揮できればいいとも考える。だから皇太子は暖かく見守られなければならないと思う。これ自己同一的絶対矛盾(笑)


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日本は悪い!

今年の腹立ち総決算。わが愛する日本への、愛するがゆえの罵詈雑言。

 国の生きる指針たる憲法を外国人に創ってもらって、60年以上もほったらかし。ただ平和と口で唱え、何の国家的理念もなく、ただ飽食のみを追及してきた。この国にとって平和とは食べることなのだ。この国は動物園だ。

それというのも、現代日本には精神としての人間への畏敬の念が欠けているからだ。

 街に憩いのスペースがある。誰でも利用できるテーブルも椅子もある。そこでゆっくり腰を落ち着けたい気分になる。ところが、音楽ががんがん鳴っていて考え事一つできない。しかも若者が好みそうな(と管理者が勝手に決めている)音楽を鳴らす。名古屋市のオアシス21なんて何がオアシスだ。この田舎っぽさ。西洋を表面だけ真似たアジア風の笑うべき悪趣味。中国のことを笑えまい。

それというのも、現代日本には静寂への畏敬の念がないからだ。

 日本の街の汚さは、ヨーロッパから帰ってきた者は、誰でも感じるであろう。至る所に好き好きに色とりどりの看板が立ち、お寺の横にマンションが、その隣には軍艦マーチの漏れ聞こえるパチンコ屋が建っている。京都でさえ西洋諸都市に比べると、どうしようもなく建築行政の不行き届きが露骨である。木の文化と石の文化との違いがあるとはいえ、日本の文化理念の欠如は明らかである。

それというのも、現代日本には己の過去への愛情が欠如しているからだ。

 日本は大昔から教育熱心であったように思う。江戸時代の識字率は諸外国より高かったと聞いている。しかし、現代の教育を見ていると、やはりここでも理念がない。ただ最終的に高賃金獲得のためにすぎない。大人がそれを何の遅疑なく推奨しているのだから、その後姿を見て育つ子供やいかに。たくさん食べるために勉強する。これは実験に成功して報酬をもらう猿である。

それというのも、現代日本人は生きる理由を考える宗教的情熱が希薄だからだ。

 もっとも、小生は美しい衣服を求めること、おいしいものを食することなど、感覚が肥えてくれば、必然的に高価になるものを否定する訳ではない。それこそ文化であるからだ。しかし、それを最高度に味わうための適量というものがある。一生という短い人間のキャパシティは限られている。それを超えると感覚は逆に衰え、ただ強欲になるだけである。

 したがって、ついでに言えば、子供のうちから、感覚の陶冶と勉強とは平行してなされるべきである、と考える。勉強が先行するのはよくない。もっとも論理学者になるべき人は違うかもしれないけれど。いや、しかし論理などというものは実は大いに心理の上に展開されるものだ。

 小生は、学校の授業で習字・音楽・美術の割合が減るのを憂う。いくら理数系をたくさん学んでも、最終的な発想は感覚的なというか、別のところにあるような気がしてならぬ。
 これはもう完全な独断だが、アインシュタインの特殊相対性理論。教えられればわれわれでも理解できるじつに簡単な数ページの理論。特別に難解な数学はでてこない。にもかかわらず他の誰も気がつかなかった。この発想は、もう理数というより、モーツァルトのハ長調ピアノソナタのアレグロだな。この感覚、分かっていただけるかしら?

 オバマ大統領のノーベル平和賞受賞とアフガンへの軍隊の増派決定とを、矛盾したおかしなことだと感じるのは、日本人のおかしなところだと感じる。(もちろん欧米人でもおかしいと言う人がいるが、その理由は違い、いわば日本人は観念的で、欧米人は現実認識に基づいている)島国根性の非宗教的な平和国家日本。欧米の歴史を知れば知るほど、その必然性、キリスト教と血を血で洗うどうしようもない歴史、強い理想と強い軍隊を共に持たなければならない苦悩と、その苦悩の最終的肯定。

これが解らぬ幼稚園児日本。

 それと言うのも、日本人はもともと慎み深く、義を重んじ、欲深いことを恥とする国民だからとか言う。そのくせ、年金がちょっと減らされても目くじらをたてるし、隣地とのたかが10㎝の境界線争いで夜も眠られぬくせに。

日本人は己のエゴイズムを隠さず認めよ。そして他人のエゴイズムをも認めよ。そうして戦え!



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マインドコントロールの効用 6

 さて人間の世界である。われわれはエゴイズムの塊である。そしてまた社会を表面的な部分ではあるが頭で考え行政組織を創りだしている。人々のエゴイズムを認めつつ、かつある程度抑圧し、最も公平な社会とは何かと、絶えず模索している。われわれの社会は、蟻やアザラシやお猿の固定した、あまり変化のない社会とは違って、変化しうる。少なくとも国家による体制は様々でありうる。もちろん社会体制などというのはオーバーな表現かもしれないが、人々の価値観が変われば、やはり体制が変わる。
 この変化するということこそ、人間社会の特徴ではなかろうか。それは人間が不完全なものだからではない。むしろそれだけ積極的であるからではなかろうか。人間という種族に内在する生命のエネルギーがそれほどまでに躍動しているからではなかろうか。
試みに想像しよう。もしすべての人間がそれの属する既存の社会秩序を守ることのみに生きているとしたら。理想的な蟻の社会のようにその集団の現在の組織を維持することのみに全力をあげているとしたら。そのとき社会は完璧と言えるかもしれない。少なくとも、とりあえず秩序は保たれ安全ではあろう。しかし、しかし実はそこでストップしてしまうのではないか。そこで人間社会は停滞してしまうことうけあいである。
 人間以外の生物においては、社会形態が変化しないということは、環境がもし激変した場合、緊急に対応が出来ないということである。蟻族や蜂族は、それでも種を生きながらえるように願う生命という神が助けてくれるかもしれない。しかし、人間はこの世の中で最も弱い生き物である。一番初めに絶滅するかもしれない。人間は肉体的変化をあまり期待できないような気がする。なんとなれば頭脳で環境を変えて肉体を保護しうるから。だがまあ、それは実際はわからない。生命という神がいざという時、救いの手を伸べてくれるかもしれない。
 それよりもむしろ、多種多様な生命はその多様性を絶えず増しているようにもみえる。だから限られた地球環境において、一方では生命は種を維持し、他方ではその変容を求めているようにみえる。

 人間社会に限っていえば、じっさい社会は常に動いている。なぜか生命は人間の内部からひっきりなしにエネルギーを出していて、人は新しいものをつねに生み出すようになっている。小生はつねづね思うのだが、犯罪人や病人は決して無くならないであろう。こういった社会からはみ出る人たちが出るということは、天才奇才が出るということだ。これらの人が今までにない価値を生み出すのだ。今現在多くの人の顰蹙を買うような言動も将来どのような価値を生み出すか、今その時は解らないものである。そのような変人が沢山出現してくることをわれわれは歓迎すべきなのだ。
 今どきは秀才天才を生み出す勉強方などというような本がよく売れているそうだが、それは人のエゴイズムに媚びるだけで、生命の本質に触れるものではない。じっさい効果的な勉強法はあるのであろうが、思いも寄らない奇策は生命の領域に属している。心配しなくても犯罪者や病人が出てくるかぎり、同様に秀才天才も出てくるものだ。社会秩序を逸脱する者が居なくなれば社会は停滞してしまうであろう。
 有性生殖が様々なヴァリエーションを生み出し種が保存されるように、社会をはみ出る人たちが社会に活力を与え生き延びさせる。人は一方で社会秩序の安定を求め、他方ではその発展を求めている。発展のあるところ撹乱は必定だ。


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マインドコントロールの効用 4

また、死ぬ恐怖について思うに、まず死ぬときはじっさい苦痛はそんなにない。大抵はあっという間だ。それまでが恐怖である。
そしてその恐怖は想像にある。幅一メートルの畦道はよそ見していても歩けるのに、幅一メートルのつり橋を歩くのは怖くてひるむ。
百トンの石が吊り下げられている下に居ると思うことは恐怖をともなう。しかし、じっさいそれが落ちてきて押しつぶされても、痛みなど感じないであろうことは解る。
特攻兵士が敵艦に突っ込んだときも痛くはないであろう。いや、うまく死ねればいいが、半死にならば苦痛だろうと言うかもしれない。たしかに、うまく死ねないと困る。痛いときは痛いのだが、痛みは限度を超えれば気を失う。しかし、痛みは恐怖とは違う。痛みが続くのではないかと思うことが、そう思う今が恐怖なのである。病院で診察される子供が注射器を見ると泣きだす。そのとき子供は痛みなど感じていない、しかし恐怖を感じている。
要するに自分が苦痛に苛まされることをあれこれ想像することにおいて恐怖を感じる。だから、できるだけそういうことを想像しないよう心がけたいと思う。じっさい誰でも何か思い切ってやろうとするときは、伴うかもしれない苦しみの想像を出来うる限り自分の心から排除するよう自分をコントロールするではないか。

 さて、いかなる人間の思い込みをも排して、平等に「命が一番大切かどうか」を、もし天の神様に訊いたとしたら、神様は何と答えてくれるであろうか? 正直、小生には判らない。
ただ、なんとなく思うのは、この肉体としての命がとにかくなくては話にならぬ、まず生きるために命が一番と考えるのが女性的原理(女性は子供を生む)とすれば、肉体的な命より大事なものがあるという想いから逃れられないのが男性的原理であろう。人間世界には常にこの二つの原理があって、時により所により、どちらかの原理が優勢になる。 
 ( 続く・・・ )




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マインドコントロールの効用 3

平和時といえば、小生には思い当たることがある。それは、小学校の時だったか、何かの授業で、先生が「命は地球よりも重い」とおっしゃっていたことだ。そして、教科書だったかパンフレットだったか思い出せないが、絵が描いてあって、それは天秤の両端に地球と人と乗せてあって、もちろん人の方が下になっていて「命は地球よりも重い」と書いてあった。つまり、われわれはあの時代、何よりも命が大事であると教育=マインドコントロールされたのだった。 
しかし、それは理想であって現実には実践されていない。本当に何よりも命が大事なら、今すぐ自動車を廃止しなければならない。日本では車による事故死が一年何千人とある。しかし、ドライヴの快適さ、運搬の便利さの前では人の命など軽い。 

 だが「命が一番大事」というコントロールがかなり実践されているところがある。それは病院と老人福祉施設だ。ここでは、いかなる心身の苦しみをもっていようとも、殺されることはない。出来うる限り生かされる。小生が見た老人福祉施設では、多くの人が多かれ少なかれボケをきたし、そのため諍い、いじめなどが頻発し、身体の自由も利かず、あちこちの痛みに昼夜を問わず苛まされ、身の回りのことが出来ず、むりやりオムツをはかされ、それこそ味噌も糞も一緒、阿鼻叫喚の巷と化している・・・・それでも、「命が一番」と生きながらえるよう介護される。

 こういう状況を見ていると小生はどうして命が一番かよくわからない。過ぎ去ってみれば、人生はあっという間ではないのか。十年長く生きたってそれが何だろう、と思うことがよくある。

 もう一度、特攻兵士のことを思う。あんな若い人達をむざむざ殺したのはけしからん、と言う人の気持ちも判らんでもない。彼らはまだこれからいろいろな経験をできるはずであったのに。しかし、翻って思うに、彼らこそ、貴重な稀有な経験が出来たのである。祖国のためにわが身を捧げるのは、たとえ戦争が誤解から生じ、また敵兵を殺すことになろうとも、非常に尊い行為だと感じる。それは、千万言の人命尊重や世界平和よりも、ずっと積極的な愛に道を通じていると感じる。
 (続く・・・)
 
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マインドコントロールの効用 2

 
また、こういう事も考えてみよう。戦争末期、若い特攻兵士が敵艦目がけて飛んでいった。その時の映像からうかがわれるのは、彼らは喜んで〈お国のために〉逝った。もちろん葛藤もあったであろう。また、中にはどうしても割り切れずおかしくなった者もいたであろう。
前向きに祖国のために行った者とどうしてもいやいや行かされた者とどちらが幸せであろうか言うまでもない。どうせ行くなら、完全にマインドコントロールされたほうが幸せだ。
このことは、われわれ平和時に生きている者でも、よく感じることではあるまいか。学校でのテストしかり、与えられた仕事しかり。
どうせやらねばならないなら、なんでこんな辛い目に遭わねばならないのかなどと考えながらやるより、いっそのこと将来のためだとかか知識の習得のためだとか家族のためだとかかっこいいとか、なんでもよい思い定めて前向きに事に当たったほうが幸せではないか。つまり、うまくマインドをコントロールすべきではないのか。自分で出来ない人は、周囲の人がコントロールしてやるべきではないのか。   (続く・・・)


 

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マインドコントロールの効用 1

マインドコントロールというといかにも悪い印象のある言葉だが、われわれはいつも地域や時代の習慣、そして家庭や知人によって、コントロールされているものだ。
いやそれはちょっと言い過ぎではないか、習慣は自然だが、マインドコントロールは強制的なものだ、という意見もあるであろう。
それはなるほどとも思われるが、よく考えてみれば自然といい強制いい本質的に同じである。ただより多くの人がより長い間コントロールされていれば、より自然であり、より少数の人がより短期間でコントロールされれば強制的に見えるだけだ。

それで、例えば考えてみよう。戦時中は国民全員を戦争に駆り立てなければならない。もし、参加したい人だけ参加せよ、したくない人はしなくていい、なんて指導者が言っていたら負けるに決まっている。というよりその指導者は非良心的だ。戦争すると決まった以上、勝つために挙国一致が必要だ。その時もし小生が首相であれば、国のために一時的に国民を騙しても、とにかく国民全員を参戦へとマインドコントロールする必要を感じるであろう。
今は平和時であるから、国民それぞれが自由な発想をし、何処で発言してもいい。しかし、それが本当にその人自身が自分の経験から熟慮して自由に発想しているかどうかは疑問である。世の風潮に左右されていないと誰が保証しえよう。
そんなことを言えば、どんな偉い人でも他の誰かに影響されているではないか、と言う反論も予想される。なるほど、小林秀雄はボードレールの影響を受けた。内村鑑三はキリストの影響を受けた。彼らは師匠と同じようなことを言っている。しかし、その影響の受け方はただでは済まされるようなものではなかった。いわば徹底的に受けたのである。一時的に完全に洗脳されたのである。そこが凡人とは違う。むしろ普通の人は、何者にもそこまで影響されることはない。騙されまいぞ騙されまいぞと身構えている。気がついたら思わぬ方向からの風潮に騙されている。そしてそのことにすら気がつかない。       (続く・・・)


                                 
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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

新政権に期待?

昨日たまたまテレビのニュースを見ていた。NHKだったと思う。
記者が一般人に、新政権に何を期待していますか?と質問する。
人は答える、「もっと暮らしを楽にしてもらいたい」「医療費負担を少なくして欲しい」「子育て支援を・・」
・・・・「・・・・して欲しい」ばかりである。
見ていて、これは誘導尋問だと感じた。要するに、答える人は、普段特別不満なく過していても、このようにインタビューされると、何か不満をのべねばならないような気分になるのか、今までの政治はちょっとねー・・・もっと生活がよくなればー・・など、つまりもっとお金持ちになりたいということを様々な形で述べる。じつに、問う人も問う人、答える人も答える人だ。共同謀議とはこのことなり。
小生は思った、もし小生にも質問がきたら、「日常生活には何の不満もない。日ごとの仕事と趣味の楽しみで手一杯。不満を言ってる暇はない。政権がどうであろうと関係ないね。」と答えてやりたい気持ちがむらむらと沸き起こった。まあ、しかし、こんな返答では、「マスコミの望む庶民の声」ではないとしてカットされるんだろうな。
やっぱり低劣な共同謀議だ。
つまらん。
やっぱりテレビ見なければよかった。

 

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テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル : 政治・経済

NHK「日本海軍400時間の証言」雑感

この3回にわたる番組を見て感じたことを箇条書きに。

1.あの時、誰がどうこうしたのがいけなかったなどと、いい大人が何を言ってらー。長生きしやがって。小生は反省が大嫌いだ。聴いていて気持ち悪くなってきた。

2.この番組の通奏低音は、国家や組織のエゴイズムは認めるな、個人のエゴイズムは押し通せ、ってことだ。

3.主題は、何よりも人間の命が一番大事であるということだ。しかし、そこに決定的に欠けていることがる、それは、人は何のために生きるか、という問いである。

4.NHKは報道者の良心をかけて、この番組を制作したつもりだろう。しかし、なんでも報道すればいいってもんか?それじゃ、報道規制をしている某国の態度を激しく明るみにしなければいけないはずだ。が、それはしない。なぜか?怖いからか?日本という安全地帯に居て国内の何を言おうが、それは良心的態度とは言えない。 よくNHKは偏向していると言われるが、小生はそうは思わぬ。臆病なのだ。



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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

西洋の音楽と文明

久しぶりに音楽会に行った。
D‘amiti string quartet in Munetugu hall. 曲目は、ハイドン66番、ドゥビュッシー、ラズモフスキー2番といい演目だった。開演時間ぎりぎりに間に合った。汗を拭き拭きしながら適当な座席に座ったら、直ぐ始まった。なんといういい音色、いい響きだろう。ハイドンのような音楽は、まず耳慣らしと言うか、前座というか、始まりにいい曲だ、それにしても素晴らしいな、と思い。これは18世紀の西洋の遺産ではないか、としきりに考えた。
省みれば、このような音楽といい、われわれの日々恩恵をうけている科学といい、まず西欧で発達したものだ。それは、ギリシャの科学とキリスト教との結婚から生まれたものだ。

日本人は、よくキリスト教の負の側面を指摘して、一神教の原理はいかん、日本のような多神教こそがいい、なんて言う。が、つまらん言い分だ。

世界史を振り返ってみるに、まず地球の何処の地域でも、初めは多神教であった。つまり、自然崇拝・・・精霊信仰、そして祖先崇拝ってところだ。そこへBC1000年くらいかいつかはっきり知らないが、イスラエルの南部の一角あたりに、ヤハウエ唯一信仰が生じた。(フロイト先生によると、エジプトのあのアメンホテプだったか、ツタンカーメンの親父の太陽の神唯一信仰が、滅びる前にエジプトを脱出ユダヤ人した一派→モーセが起こしたとか)
BC500年~バビロン捕囚により決定的になった一神教。それからイエスが出てキリスト教、その後イスラム教という一神教が現在、世界の何パーセントか知らないが、地球の半分くらいを占めている。


文明国で、多神教の国は日本くらいか・・・。とにかく日本はとても変った国だ。おおらかで好きだけど。なんだかのーてんき。
しかし、多神教は一神教への萌芽があるな。代表例では、ギリシャはゼウスがオールマイティだし、日本はアマテラスが一番偉いみたいだし。(古事記みるとタカミムスビのが偉そうだけど)つまり、すべての神々が平等ってわけではない。排撃はしないけれど。

宗教も生物のように進化してきたと感じる。キリスト教はその頂点をなすと思う。というのは、
小生の長年の疑問だけれど、キリスト教に至って、なぜあのように高い倫理性が出てきたのかってことだ。われわれ日本人は、漠然と一神教だの八百万の神々だのと言うまえに、あの高度の倫理性をしっかり考えてみる必要があるのじゃないのかな、と思う。



                      

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憲法九条とキリスト教

憲法第九条を守ろうと言う人は、とにかく外国との付き合いは、仲良くなるのが一番、対立してもあくまで外交努力でいくべきで、軍事力で脅すようなことはいけない、なんとなれば、それはそれは結局戦争を誘発するからである、と言う。
しかし、小生は軍事力も外交の一手段だと思う。そして、戦争は起こるときには起こるものだ、と思う。

ところで、とにかく外国と仲良くすべきで、軍事で脅しをかけるべきではない、という人に尋ねたい。誰とでも仲良くし、分かり合える、ということが常に出来るだろうか。それが出来ないからこそ、この世は難しいのではないのかな。それが出来るという人でも隣地との境界争いはするはずだ。あるいはそういう人にかぎって年金が減らされたと言って目くじらを立てるのではないかな。個人が争う場は裁判所がある、しかし国家間では裁判所がなかなか有効に働かないことが多いのではないか。少なくとも厳正中立っていうのが難しい、というより、そんなのあるのかな?

よく言われるように、少なくとも地続きの他国のように血を地で洗うたえざる争いが、日本には無かった。太平の眠りは徳川250年だけではない、眠りはもっと長かった。そのお蔭で独特の性格を形成した。もちろん、この性格の良い面もあるし悪い面もあるだろう。どの国においてもあるように。
ついこの間、150年ほど前から、諸外国と本格的に付き合うようになって、どうも日本人は極端に走る傾向が明らかになったと思う。戦時中は一億総玉砕、敗戦後は軍隊なき国をなどと極論を口にしてしまう日本人は、いずれも子供らしく、空想的だと感じる。

それに引きかえ、オバマ氏の演説にも伺えるように、二千年の絶え間ない戦争とキリスト教の伝統で育った欧米人は、自分を含むすべての人間や国家のエゴイズムは否定しない、生物としてのエゴイズムのどうしようもなさが腹に入っている。しかし、と言うより、だからこそ同時に崇高な理想を胸に懐いているものだ。
軍事力と聖書とを併せ持つ苦悩と不思議を理解することが、成熟した大人への一歩だと感じる。
それに対して、「世の中は簡単だ.みんなと仲良くすればいいのだ」「こちらが戦力を放棄すれば、相手に誠意が通じる」などと言う人は、子供のようにまだ眠っている人だ、あるいは、飛び切りの聖人だ。


                          

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音楽は脳にいいか

小生は、大の音楽好きである。いや、音楽好きであった、というべきか。
19歳から34歳までは、一日として音楽を聴かずに生きていけないと考えていた。ビートルズ、チャイさまなどいわゆるロマン派、それからモーツァルト・・・ワグナー・・ドゥビュッシー・・・など、いわゆる西洋クラシック音楽なら何でも。でもジョンケージが流行った時は、能楽囃子である「道成寺」には及ばないと感じ、それから能の世界に入っていったかな。
19歳のときは、机に布団を掛け、その中に潜って、一日の大半を音楽を聴いたものだった。そのおかげで、小生は机の上の勉強も、社会勉強も出来ない人間になり、今苦労している。もちろんあれはあれでいい思い出ではある。結局音楽を聴くとは音楽を聴くに尽きるとしか言えないのではないか。それがよきにつけ悪しきにつけ、どのような副作用があるのか小生には分からない。
音楽に狂うとは、女に狂うのと同じだ。音楽は脳にいいというのは、快感が脳にいい、と言っているにすぎない。対して小生は、音楽など聴かずに済めばそれに越したことはない、と言いたい。
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歴史とは何か 1

たとえば、こういう風に問うこともできる。
歴史事実などというものはない。報告があるのみである。
そしてその報告も、報告する者の見方・イデオロギーは言うに及ばず、その時の心理状態によって左右されるものだ。
歴史は嘘の集積である。現に小生は日記にわざと嘘をしのばせる。後世の誰かがこれを読んで、あのおっさんこんなことを書いておった、これが本音やったんや、などと言うであろう。それを見ているあの世の小生は笑いが止まらんよ。、
歴史について一次資料がどうのこうのと口走っている学者先生たちの無邪気なことよ。

では何のために歴史はあるか?
生きるにおいて、より多くの利益を得るためにある。このことは国際関係における世界史を思えばよい。各国は得をするためには、何でも創り上げ、何でも利用するものだ。(南京やアリゾナがよい例だ)
利益を得るためには智謀の限りを尽くす。それが人間を含む生命の正しい営為である。



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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

国旗掲揚

小生は祝日には家の門の横に国旗を立てる。昨日5月5日は端午の節句だった。終日雨で国旗はしとどに濡れて哀れな姿であった。
 窓外の雨を見ながらふと浮かんだ考え。今はほとんどの家は国旗を揚げない。だから国旗を揚げるのは、なんとなく抵抗を感じる。

もし「どうして国旗を揚げるの?」と訊かれたら、昔なら「日本人だから」と答えたかもしれない。しかし、今はどうだろう。むしろ「国際人だから」と答えるべきなのか。(もっとも小生は、外国に住んだこともないし、旅行すら殆どしない。外国人の知人もいないが)

ではなぜ、あえて国際人(反日本人というのは強すぎる)と答えようかと言うと、それこそ、小生の胸のうちにある〈国旗を立てることへの抵抗感〉への抵抗なのではなかろうか、と思うのである。

大抵の人がしないことはしない、大勢になんとなく従う、というのが、むしろ伝統的な日本人的態度ではないのだろうか。あるいはまた、日常的行為に国家観念を伴うような行為をするのが恥ずかしい、というのが、昔からの繊細な日本気質を保っている人たちではないのか。

小生のような、今日この頃、日本の国旗を門前に揚げるなんていうのは、むしろ非日本人的態度ではないのか。・・・
このような逆説的な考えが浮かんできて、妙な気持ちになった。



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澄み濁るをば神ぞ知るらん

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