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初期キリスト像

人々は何ゆえ、またどのようにキリスト像を描いたのだろうか。

 ふつうキリストを描いた聖画像といえば、東方を思い浮かべるのが一般的ではないだろうか。しかし、一番初めのキリスト画像と考えられるものは、はるか西の国で発見された。

イギリスの南西地方、今はドーセットという州にHinton St Mary という村がある。この村は、1963年に偶然発見された古代ローマ時代の邸宅跡で一躍有名になった。壁はとうの昔に崩れ落ちているが、床のモザイク画が奇跡的に残っていて、これが何よりも雄弁にローマ時代のキリスト教を物語る貴重な資料として、いま大英博物館で保管・展示されている。

 すでに一世紀においてローマ帝国はその版図を最大限に広げていた。北はライン川からドナウ川流域、東は今のイラクあたり、南はエジプトから西へ、リビア、モロッコ、ジブラルタル海峡を超える。西はスペインそして海を渡ってイギリス(ブリタニア)に及んでいた。

 そして時は紀元350年。ローマのブリタニア支配の最後の世紀―ここ南西地方の黄金時代であったときに、このいわゆるHinton St Maryのモザイク画が創られたという。大英博物館のニール・マックグレゴール氏の語る所を聴こう。

 このモザイクは、ドーセット地方の石が素材となっている。最初の部屋の床に描かれている絵は、天馬ペガサスに乗った英雄ベレルフォンが蛇とヤギとライオンからなる複合怪獣キマイラをやっつけているところである。ローマ時代ではポピュラーな場面の絵である。

 その向こう側の部屋の床には曼荼羅みたいな絵があって、その中心円には一人の人物が描かれている。それがこれである。
 wikipedia
220px-Roundel_mosaic_christ_hinton_st_mary_british_museum_edit[1]



 この人物は、ひげをきれいに剃り、そのヘアースタイルと衣服は当時のローマのファッションであるという。つまり普通のローマ人様式だ。しかし、うしろにあるPとXという記号は、chi Rhoすなわちギリシャ語でChristの初めの二文字なのである。だからこの描かれた人物像はまずキリストと考えられる。

 当時、だれもキリストを見た人はいないし、どのような風貌の人であるかの文献も残っていない。キリスト死後300年経っているということは、キリスト教はユダヤ教からいわば分派したものだから、神の像を造ってはいけないという掟も、なお生きていたのではなかろうか。

 もし、この像を描いた人が、イエスはユダヤ人だったということを知っていれば、もっと長髪でヒゲもじゃの人物を描いたであろう。しかし、彼はそのようなことに注意を払わなかった。自分がふだん目にしている普通の男性で表すしかなかったようだ。ただこれがキリストを表している証拠には、背景にXPというモノグラム(文字図案)の飾りを描けばいい。

 そして、面白いのは隣にある二つの果物で、これはザクロである。われわれには解らないが、当時の人たちはザクロと言えば、すぐピンときた。これはギリシャ神話にあるぺルセポネが冥界の王ハーディスから貰ってその半分を食べてしまった物語の果物である。

 その半分食べてしまったことから、ペルセポネは一年のうち半分を冥界から地上に出てくることができた。その間は彼女の母デーメーテルが地上に実りをもたらす。その結果、春夏と秋冬という季節が生まれた。この神話が象徴しているのは時の循環、すなわち復活なのだ。

 つまり、このモザイク画の作者は、キリストの復活をギリシャ神話を利用して語っている。それゆえ最初の部屋にあった怪物退治のベレルフォンも十字架上のキリストの復活を、つまり死に対する生の勝利を暗示しているということが解る。

 コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのが313年。そしてこの当時、紀元350年ころのブリテン島の人々にとって、キリストはいろいろな神々の中の一つでしかなかったし、その表現はギリシャ・ローマ神話から採られたものだった。ここでは、異教とキリスト教の幸福な調和がある。

 ついでにいえば、ザクロの話は、恋人を探しに冥界に行ったオルフェウスや、酒神バッカスもr連想させるという。つまりこれも復活を暗示する。かくしてこのHinton St Maryのモザイク画は、古代世界のすべての希望、最も深い人間の希望を、すなわち死とはより大きな生の充溢のほんの一部分でしかないという思想を表している、ということにはならないか。
 
  

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アウグスチヌス2

 
 
 『創世記』の初め、「神ははじめに天と地とを創造された」という部分の執拗な考察、この〈はじめ〉ということから、有名な時間論が展開されるところは、やはり面白い。

 「この宇宙を創造した神は、その前何をしていたのか」との質問に答えて、何もなさっていなかったのだ、そもそも時間も神の創造である。〈その前〉などということはありえない。・・・ このことは宇宙のビッグバン理論を耳にしているわれわれ現代人にはよく分かりますね。

 過去とはもはや〈ない〉ものであるにもかかわらず、ある。未来とはまだ〈ない〉にもかかわらず、ある。それは記憶としての、そして期待としての現在にあるしかない。測定できる時間は現在だけではないか。それが長いとか短いとか言うのは、現在には広がりがあるということにはならないか。

 測定するためには初めがとどまっていなければならない。それはどこに留まるか。それは自分の記憶の中ではないか。・・・とすると時間は私の精神において測られるのではないだろうか。未来はすべてかならず過去になる。ところで神は永遠である。そこでは過ぎ去るものはなにもなく、すべては現在にある。この永遠という現在の高さから過去の一切が流れ出す、云々。

                 *

 おそらく、アウグスチヌスが、ギリシャ哲学的言辞で(静止は動きに先立つというような)、言いたいことは、こうであろう。つまり、われわれは未来―過去を流れる歴史的時間を生きているが、もしそれをいつでもただちに無効にしてしまうような永遠(それは同時に未来も過去も含むような)に触れられていることがなかったならば、われわれは救われることがない、と。

 このことを1500年後にもっとはっきり言い表した人がいる。もっとも小生の勝手な連想ではあるが。こんなふうにー

 ギリシャ的永遠は過去的なるものであり、ユダヤ教の永遠は未来的なものである。…キリスト教の永遠は未来的なるものでありかつ過去的なるものとして瞬間(現在)に現れる。キリスト教において一切のものの枢軸をなしている概念、すなわち一切を新たになす所以のものは、時が満ちるということである。この時間の充実が瞬間であってこれは、同時に未来的なものであり過去的なものである。

 もし人がこの点に注意を払わないならば、いかなる概念をも、異端的な背信的不純物から守ることはできず、過去的なるものはそれ自身独自なものとして捉えられることなしに未来との単純な連続性のうちに留まらしめられる(かくして改心・宥和・救済の諸概念の意味も失われることになる)、未来的なるものはそれ自身独自なものとして捉えられることなしに現在との単純な連続性のうちに留まらしめられる(かくて復活・審判の諸概念は没落せしめられることになる)。
(キルケゴール『不安の概念』)




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アウグスチヌス1

    

 
 
アウグスチヌスの『告白』(山田晶訳)を読んだ。アウグスチヌスの著作といえば、これと『神の国』しか知らなかったが、じつは彼は非常にたくさんの論文を著した大変な著作家であったようだ。

 アウグスチヌスは354年、北アフリカのカルタゴに近い町タガステに生まれ、430年その近くの町ヒッポ・ルギウスで死んだ。壮年時代のわずかの期間、ローマとミラノに住んだ。

 この少し前の時代のローマ帝国は、ずっと以前から続いていた各地域の古代諸宗教、多数のいわゆる異教(たとえばマニ教)、そしてとくに勢力を増しつつあるキリスト教の諸派による闘争が絶えず、ついにコンスタンティヌス帝が政治決着をつけねばならなかった。

 が、それ以後も諸宗派の争いは絶えず、テオドシウス帝はキリスト教を国教化するが(391年)、それでもなお帝国は落ち着かず、さらに蛮族の侵入によって西ローマは滅亡への一途をたどり、そのために却ってローマ教会は、安定した東方教会よりも、その教義の純潔を研ぎ澄ましえたと言えようか。


 彼アウグスチヌスは悪ガキであったようだ。とはいっても、まあ当時の普通の少年であったらしいが、彼を終生悩ませたのは、どうにもならない性欲であった。16歳から女性と同棲をはじめ、翌年には息子が出来た。悪ガキ仲間と泥棒もした。しかし勉強もよくでき、知的好奇心が強く、ギリシャ哲学を読みあさり、マニ教に入信。敬虔なキリスト教徒であった母親を嘆かしめた。

 マニ教は、霊と肉との、善と悪との絶対的二元論で、『旧約』を否定、キリストは肉体ではなく精神そのものとしていたそうだ。アウグスチヌスは29歳の時、マニ教の司教ファウストゥスに会って話をする機会を得たが、そのときファウストゥスの考えがあまりに浅いのに失望して、マニ教に対する疑いが芽生えた。

 それから彼はローマに赴き、翌年ミラノの修辞学の先生に推挙される。そこで司教アンブロシウスに遇い、その人格および『聖書』の解釈の深さに感銘を受け、以後キリスト教正統派信仰に傾いていった。
 
 31歳時、母の勧めで12歳の女性と正式に結婚。いままでの女性とは決別。プロチヌスらを耽読。

 33歳時、母死す。北アフリカに帰って友人たちと修道院生活をする。37歳時、あるきっかけでヒッポ・レギウスの司祭にならされ、43歳時には司教になり、生涯そこにとどまった。

 彼の後半生は論争に明け暮れた。それがそのまま彼の思想の発展となり、信仰の深化となった。マニ教に対しての大きな論点は、悪の存在とキリストの受肉という点である。マニ教は悪の根本的存在を肯定する。対してアウグスチヌスは神が創ったこの世に悪はない。被造物たるわれわれの意志が神に向かず無に帰ろうとする、そこに悪が生じる。マニ教はキリストは光の子、精神であって、肉体をともなってこの世に来ったのではないとする、対してアウグスチヌスは、キリストは確実にこの世の歴史的存在でもあると言う。

 それから対ドナティスト論争。彼が生まれ、最終的に司教をしていたのは、アフリカである。このころの当地のキリスト教徒たちはローマの教会の腐敗を知っていた。すなわちドナティストは、聖なる人でも一度でも信仰を汚した者による秘跡は無効である、と主張する。対してアウグスチヌスは、教会は完全ではない、そしてわれわれはみな弱い人間であるから、過ちを犯しても悔い改めた者には寛容であるべきだと主張した。

 罪を犯すことについて人間の自由意志を重んじたペラギウスという僧に対しては、アウグスチヌスは、すべては神によって創られた、そして人間の善い行いへ向かう意志は神の恩寵によるのであって、人間の自由意志によるものではない。悪い行為、つまり罪は人間によるものであるが、それは己の弱さの自覚が欠けているからであり、それゆえにこそ神の恩寵を乞わねばならない、となるらしい。

 この『告白』は、あくまで神の前での告白であり、女性の肉体から離れられない自分、司教になってからさえ夢の中での自分をコントロールできない自分の最終的な弱さの告白、そして異教信仰からの回心と、それはあくまで神の恩寵であって、この神はキリスト教正統派の教義が示す神でなければならないことを、ギリシャ哲学やプロチノスをふんだんに援用しながら、追及している。





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イエスという人

クリスマスがくるといつもイエスという人のことを考えてしまう。

 キリスト教というものを小生は簡明に考えている。そのエッセンスは、自分は嘘をついているのかついていないのかをたえず自問することだ。ただ方法論的に究極なる正義(神)を措定し、それに照らし合わせて考え行動することが紛れを減らせるし、決断しやすい、というだけのことだ。したがって小生はそれを普遍的なものだと考えている。

 もちろん、〈キリスト教〉は、文化的意匠という厚着でお化けのように膨らんではいるが。そもそもギリシャ語で書かれた「新約聖書」にしてからが、すでに立派なキリスト教文学ではないか。始めからそうなのだ。だからあれを経典のように読む人たちの気がしれない。

 イエスはフツーのユダヤ教徒の家に育ち、ユダヤ教を基とする救済を説くフツーの青年であった。ただ心の中にたえず一点の灯がともっていて、それが終生消えなかったような人だ。

 イエスが生きた当時、ユダヤの民は永らく周囲の強国によって苦難の道を歩まされ続けたがゆえに、救いの神(ヤハウエ)信仰をめぐって、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派らが対立し、時代は混沌としていた。

 そんな中で、イエスはいわば左右の言説に惑わされることなく、また教え(律法)に縛られ過ぎることなく、いわば聖にも俗にも陥ることなく、澄んだ目で見、行為した。フツーの生活人に接し、人気を博していったことはいうまでもない。それゆえ既得権を侵されると恐れた神官や律法学者たちにとっては、イエスはうっとおしい存在となる。

 イエスは自分が処刑されなければならないと、あるときから覚悟を決めたようだ。読み書きが出来ない人たちに対し彼はアラム語だけで充分だと考えたであろうし、そもそも自分の考えを文字にして書き残そうとするような卑しい気持ちも、一宗派を立ち上げようなどという煽情的な気持ちも、一瞬も湧きおこらなかった。

 「新約」が書かれたのは彼の処刑後数十年以後である。彼を神あるいは神の代理人だと当時感じた多くの人たちがいたことはよく理解できる。イエスが語ったとされる「福音書」の中の言葉が、繰り返し浮かんできては考えさせられる。

 ついでに「旧約」はと言えば、広大な無意識からふと噴出してくる不思議な夢のような神話・歴史の複合体であって、そういう意味で小生はこちらの方が面白い。『聖書』は小生の愛読書だ。とはいえ、これをまた通読せよと言われれば、もううんざり。たまに所々読み返すぐらいで結構。



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クリスマス

クリスマスは小生はどうも縁がないけれど、街に出るとイルミネーションが輝いて、音楽がなっていて、子供やカップルは楽しそう。

去年はクリスマスの起源について書いたから、何か他のことを書きたいが、妙案が浮かんでこない。

欧米ではクリスマスのにぎやかな祭りは、もとは自然の恵みへの感謝に関係する宗教行事から、それが長く続いて文化となったものだろう。新嘗祭やお正月のように日本の風土から生まれたものではないから、この日に国旗を挙げる気にはならないが、日本でも子供や商売人が、何かキリスト教に関係した祭りとしてわいわい喜んでやっているのはほほえましい。

日本でアメリカ嫌いの人は、おうおうにしてキリスト教徒が暴力的であると思っているような気がする。しかし、キリスト教は暴力を奨めているとは思えない。もちろん日本人よりアメリカ人の方が暴力に訴えることが多いらしいけれど。

キリスト教が危険と思う人は、苦悩深き青年が殺人をするから包丁が危険であると思うに等しい。詐欺が容易であるからパソコンは危険であると思うに等しい。そんな風に言えば、あらゆる人にとって、必ずあるものが危険と言える。事実、それらは危険である。人間がその使い方を誤ると危険である。しかし危険にするのは人間である。悪いのは人間である。

なべて世の物は、それがとくに高度な物であればある程、たとえば原子力のように、使い方によっては、それだけリスクが大きいものだ。

イスラム教やユダヤ教のようにある集団にのみ神の恩寵が下されるという信条は危険だ。しかし、キリスト教においては、開かれており、対象はすべての人人なのであって、これが最も高度であり、したがって最も危険である。

というのも、それはあらゆる閉鎖性にたいしても積極的に理解を求めてゆこうとするからである。しかし戦ってまでとはイエスは言っていない。

『新約聖書』はイエスの言行録であり、イエスの死後100年くらいに編纂されたものだ。パウロはまさか自分の書き遺したものが、永遠のバイブルに収められるとは思っていなかったであろう。

神というものを、別に人格神のように考えずとも、永遠に愚行を繰り返すわれわれが、考え続けなければならない〈正しい行い〉の指標として、たまたま例えば神という名詞を置いた、と思えばどうか。イエスの言行は、そのためのヒントであると考えればどうか。

     神といひ仏といふも世の中の
         人の心のほかのものかは          源実朝



              
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ローマ帝国とキリスト教

 以前から疑問に思ってことであるが、ローマ帝国はキリスト教化したから長く生き延びたのであるか、あるいはキリスト教を国教とした時点で、あのローマは滅んだのであるか。

 歴史にイフはないとはいえ、われわれが国家をどのように考えるか、その考えようによってさまざまな解釈ができる。だからこそ歴史があると言える。歴史とはわれわれの思いである。歴史学がどんなに精緻を極めようとわれわれの思いから抜け出ることはできない。

 あの時代、たとえば皇帝ネロの時代に、かくも強烈な弾圧を受けながらも、なぜ多くの民衆はキリスト教信仰に向かったのであろうか。それは人々が信仰を生きるために必要としたとしか考えられない。
 いつの時代にも、新興宗教は秩序を破壊する恐れのあるものだとして、とくに体制側の人々には恐れられた。
 紀元64年のローマの大火災について「都ローマの火災の犯人はネロであると民衆は信じて疑わなかった。そこでネロはこのうわさをもみ消そうとして身代わりになるよう犯人をでっち上げた。・・・その犯人とは、日頃から忌まわしい行為で世の人から憎まれていたキリスト教徒と呼ばれる者たちである。・・・
 キリスト教徒は放火罪というよりかはむしろ人類敵視の罪として処罰された。彼らはなぶりものにされた。野獣の毛皮を被され、犬にかみ裂かれるといったように・・・。」 タキトゥス『年代記』109年

 パックスロマーナすなわち〈パンとサーカス〉に熱中していた一般民衆からキリスト教徒は体制破壊者の罪人として迫害されていた。そしてネロがサーカスにおいてキリスト者をいたぶるのはちょっと行き過ぎであると感じていた人がいた。

 このようなキリスト教徒迫害は、その後200年くらいは続いたらしい。トラヤヌス帝(98~117)の文書では、キリスト教徒はローマの神々に祈りを捧げず、皇帝をも崇めない者たちということで処刑した。しかし、キリスト教信仰を捨てたという者たちは許した。しかし、明らかに悪事を犯していないキリスト教徒を罰するのはいかが、と考える高官もいた。

 とにかくキリスト教信者は増え、ついにコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのは313年。当時進軍中の皇帝の目に、天高く光り輝く十字架を見て勝利を確信したという逸話が残っている。そして信仰の自由を保障した。
 そして、テオドシウス帝はキリスト教(ローマカトリック)を国教化し、ギリシャ・ローマの多神教を禁止する(395年)。

 しかし、従来の多神教勢力がそれでなくなったわけでもない。西ゴートによるローマ市略奪(410年)において、マルケリウスという人はアウグスティヌスへの手紙の中で、キリスト教の「右の頬を叩かれたら左の頬を出せ」とか「奪いにくる者にはさらにマントを与えよ」とかいう教えは国家を指導するには不適である、と訴えている。
 その論に対して、アウグスティヌスは書く、キリスト教のおかげで、神聖な場所では残酷な蛮族も戦争の習慣に反してあえて殺傷を控えた。ローマ人は、キリスト教の時代であることを神に感謝すべきである云々、と。

 それにしても、日本とは全く異なるヨーロッパの歴史の端緒がこのローマの時代にうかがわれる。そしてキリスト教を取り入れた、というかキリスト教に侵略されたというか、とにかくあの栄光のローマ帝国はいつまでをもってローマ帝国と言うのか、その宗教的伝統を引き継いだのはビザンツなのか、メロヴィング朝なのか。宗教と国家の力学的関係。人間という生き物が宗教や伝統を重んずること、および国家という最高権力によって守られなければならないということ。
 今なおヨーロッパはローマ帝国を引き継いでいるとも考えられる。

 (今日の西洋史の勉強をはり)
 


  

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Merry Christmas

 クリスマスはもともとはペルシャのミトラス教の太陽神を祀る冬至の祭りだった。この日よりだんだんと太陽が強くなっていく。
  ローマの時代になって皇帝が祭りの中止命令を出した。農民は考えた「解りました。この日をキリスト様の誕生日として祝います」と口では言って、実際は昔ながらの祭りを続けた。・・・だから、この日は飲めや歌えのドンチャン騒ぎが本来のあり方だと思う。
 そもそもお祭りは、どこの地域でも、日本の神仏習合のように、もともとあった土着の神信仰と新しく入ってきた宗教との習合があって、それが形を変え意味を変えつつ、伝わってきたのではないのかな。
 
 それはそれとして、せっかくだからこの日にちなんでイエス・キリストについての小生の考えを述べよう。

 イエスという人は今まで地球上に生きた人の中で最強の人であった。その倫理的高さは、たとえて言えば、(大塩平八郎+西郷隆盛)×百くらい、そして清貧さにおいて、良寛×百くらい。このような若い男が、当時のパレスチナの地において、女や乞食や病苦に悩まされている人達を慰めて歩いた。もちろんそれは律法を破るものであった。が、そんなこと全然気にしないイエス。したい放題。完全なる言行一致!・・・それで、当然のことながら、逮捕され、鞭打たれ、処刑される。

 ところが、近しい一部の人達は、イエスの死後、彼の生涯を振り返って、あの若者は凄い奴だったではないか、神のような男だったと言った。たしかに、そのような人を見てあれは神の化身だと思ったのは、けだし当然であろう。そして瞬く間に、この若者の噂は広がり、何が何か分からない人達までが、神が人の姿をとって現れたのだと口にしだした。
 50年も経てば、東地中海一帯に〈イエスを神と思う会〉なるものが生じ、その言行録が書かれ、諸党派間での争いさえ起こるようになる。
 そして300年が経った。地中海岸全域に多くの人が〈イエスを神と思う会〉に入会した。これは危険だ!ローマ皇帝は、はっと気付く、ローマの神々よりこの愚者どもの信仰する宗教を利用したほうが統治しやすいと。
 そうして、七世紀以後は新たな啓示宗教を奉じるイスラムとの闘争に入る一方、キリスト教は西洋を席巻する。

 ところで、ここに遥か昔のギリシャの学問をこととする知識人がいた。彼ら知識人は自然の探求に命を燃やしていた。が、彼らすらも〈イエスを神と思う会〉は巻き込んでいった。この情熱の混淆から、今現にわれわれが享受している近代科学が発達したのだった。

 この科学の発展するところ、18世紀に産業革命が起こる。蒸気機関が発明される。そして黒船だ。これは、従来の帆船とは異なり、季節風に関わらず、いつでも世界のどこへでも大戦闘部隊を派遣することができる。
 江戸時代、海のかなたから恐ろしい鉄の塊が日本にやって来た。USO未確認航行物体! 未知との遭遇。大パニック。・・・その後は、日本人なら誰でもご存知。国敗れて山河あり。こうして今、われわれはキリスト教国由来の科学技術の恩恵を受けて、パソコンの前で話し合っている。


たった二年間ほど活動したに過ぎないイエスからキリスト教へ。そして近代文明へ。

そしていまわれわれはこの文明の先端を生きている。

この不思議!これが地球に起こった現実の出来事なのだ。

歴史にイフはない。つまり他にはありえなかったのだ。

出来事はたった一回きりなのだ。

たった一回きりの歴史。

たった一回きりの宇宙。
 
このことに驚愕せずにおれようか 今宵。

アーメン。


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ありがとうございました

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日本人とキリスト教 2

 別の角度から考えましょう。いま世界のキリスト教国の最たる国アメリカの世界戦略はあまりにもその負の側面が前面に出ていて、人はキリスト教は恐ろしい、一神教国は一途に他の国や民族に暴力をもって己の価値観を押し付ける、などと言いますね。
 小生はここに、初めに引用した藤村の言葉を思い出します。宗教は初めは清く、末は濁ると。まことにその通りと思うのですが、しかし末に至っても初めの清さがまったくゼロになってしまうとは思えません。

 先日、太平洋戦争の専門家H.K氏に、戦争中の日本の捕虜の扱いについて尋ねたのです。
 昭和十七年「死のバターン行進」として海外から批判を浴びている捕虜虐待が有名ですが、キリスト教国は捕虜の扱いについての法がすでにあって、彼らから見ると、わが日本軍は法を守っていないという事になります。H.K氏はその法である「ジュネーヴ条約」を日本は批准していなかったから法的には非難は当たらない、しかしそれに準じた扱いについては意思表明をしている云々と、おっっしゃってた。いずれにせよ、予想外の多くの捕虜をどうしていいか分からなかったというのが本当のところでしょう。捕虜をいわゆる虐待することについての善悪観をもっていなかったとしたら、それは悪いことではないと思います。それはいわばいまだ知恵の木の実を食べていない状態だと言えます。

 では、どうして欧米諸国に、たとえ戦争相手国とはいえ、捕虜を保護する取り決めが生まれたのでしょう。幕末、漂流民を保護せず見殺しにした日本政府(幕府)を欧米は野蛮行為とみなし、日本を文明国とみなさず、ために日本は不平等条約を結ばされる一因になったですね。もちろん日本にも武士道なるものがあって、とくに高位の敵兵を鄭重に扱うことはよくあったと思います。ただ、それはあくまでいわば個人的な紳士的態度であったわけで、それがあまねく組織的に法整備されるようになったのは、何と言ってもキリスト教国においてではなかったでしょうか。
 そして、その根底にあるものはキリスト教の教えから由来する西欧のホスピタリティではないでしょうか。

 しかし、ここに乙に構えている言葉があります。それは、よわき者への労わりというのは、積極的な善ではなく、自分が弱い立場にたったときの為である、というものです。要するに偽善ではないかということですね。こういうこと、言うところのニヒリズムの哲学もまさにキリスト教の罪問題の中心思想であって、これこそ日本人に欠けているものではないでしょうか。しかし今はこの発展問題も一応おいておきましょう。

 とにかく、あらゆる現代文明を侵食しつつある西洋文明の源は、エゴイズムのみではないと思うのです。国家は百パーセント、エゴイズムで動いていると思いますが。日本人はお人よしで、むしろそこが分からないのは、じつに逆説的ですが、まさにキリスト教的自己欺瞞の探求が欠けているからではないでしょうか。  ・・・続く
 


     
   

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日本人とキリスト教 1

 なでしこ☆さんのコメント、神道とキリスト教との近親について今日は考えていました。

 「宗教のことほどその源が清く、その末の濁りやすいものもすくない」と藤村は書いておりますが、古今東西の宗教対立をみてよく首肯できる言葉ですね。ただ神道は自然信仰といいましょうか、教義をもつ宗教ではありません。世界中の人間が普遍的に持っている原始的な素朴な信仰形態です。これが国家の中心的な宗教である文明国は、日本くらいのものではないでしょうか。そこが日本の独特の在り様だと思います。それだから、日本は仏教も儒教もキリスト教も容易に受け入れ、また深く理解することができる素地があると思います。
 そこにまた他方、外国人から日本人は無宗教だとか、あるいはいい加減だ、あいまいだと言われる所以もあると思います。
 もちろん日本人の中には仏教に深く帰依したり、深く教義を展開していった人達も多くいますが、全体として自然宗教性はわれわれの中に強く残っています。

 藤村は先の言葉につづけて、「わが国神仏混淆の歴史は何よりも雄弁にそれを物語っています」と言っています。これは、本居宣長などの国学者のつよく指摘するところで、仏教や儒教が入ってきたために、われわれ日本人は〈まことの道〉を失って理屈を言うようになったとでもいいましょうか。

 ちょっと別の話ですが、日本の仏教の受容はとても速いですね。ご存知、聖徳太子の時代、天皇・蘇我氏連合軍つまり権力側が仏教受容派だったということと、日本人には怨霊信仰がとても強く、これを鎮めるために仏教はとてもよい道具だったのではないかということを考えます。この怨霊信仰ですが、怨霊の祟りは罪という言葉でも表されているのではないかと小生は勝手に思っています。罪は日本書紀にもでてきますし、源氏物語にいたっては頻繁に罪ということばが出てきます。その使い方はわれわれが今いうところの、それは罪な話だというときと同じ感覚です。

 そんなことは、世界中どこへ行っても、どんな原始的な文明にも、(内容は多少違っても)善いことと悪いことの区別はあるではないか、と人は言うでしょう。そう、その善悪の観念が人間にはあたかも先天的に備わっている、このことが人間という種族保存にとって生物学的に最重要な戦略だと小生は思います。が、それはまた別の機会に考察したい。広がっていく問題にあまり付き合っていくと、論旨が判らなくなる。
  
 さてキリスト教はどうなんでしょう。仏教と同じ運命をたどるのでしょうか。それはなんとも解りません。ただ小生がキリスト教の特異性を強く感じ、日本人はもっと積極的にキリスト教の教えに突っ込んでいくべきだと思うのです。

 小生がいま考えていることは、キリスト教の教えは完全に実践にあって、本来教義にはないのではないか、ということです。それは、おそらくカソリックの(とは限りませんが)神父らの沈黙の行為の中に脈々と受け継がれているのではないか、と思うのです。この沈黙こそ教義にはならない〈まことの道〉、あるいは教えの背後にある言葉を超えたⅩを生きることではないかと。それを敢て言葉にするとどうしても普通の論理にはならず、例えば「右の頬を叩かれたら左の頬も出せ」とか訳の分からぬ、逆説的表現になってしまうのではないかとも思うのです。    ・・・続く 
 
  

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バッハ『マタイ受難曲』を聴く

友人のK君が『マタイ受難曲』のチケットが一枚あまった、あげるというので、もらって聴きにいった。
演奏の難点は多少はあるにしても、小生を感動させるには十分であった。休憩時K君は一人で孤島に一枚のCDを持っていくならやはりこの曲かなと言った。
家に帰って食事しながらも、曲は胸のうちで繰り返し鳴り続けた。もちろんこれはバッハの音楽の力によるものだ。 

学生時代に、先年亡くなったアーサー・クラークの『Childhood`s end』を読んだことを思い出す。宇宙の主によってついに人類が進化する、そのとき地球はオーロラのような強烈な光の乱舞に見舞われる。この地球最後の嵐の中で主人公がオルガンで奏でるのが、バッハの曲なのであって、小生は「ああ、じつにこういう時こそバッハだ」と共感したことを思い出す。

『マタイ』を聴いてやはり考えるのはイエスという人である。あの当時のあの地域の人々がこの男にひどく感動したことは事実である。「私は地上に平和をもたらすために来たのではない。剣を投げ込むために来たのである」「母や兄弟を捨てて私についてきなさい。・・・天の父の御心に従う者はすべて母であり兄弟ではないか」 こんなことを口走りながら、律法を破り、己の刑の重さや命さえ考えず、決して浮かばれることのない最下層の人々に慰めを与えるこの危険な男を、常識的なユダヤ人は許さなかった。
小生は、多くの人と同様、やはり侮蔑的な意味合いを込めて〈神学論争〉と言う。イエスの死後三百年あまり、この男は神であったのか人であったのか、われわれにはどう考えても訳がわからぬ正統派と異端の論争の紛糾は、ついにローマ皇帝による決着を必要とした。しかしそれでことが済んだわけではない、その後もその問題で殺し合いさえ続いた。
いまなお延々と尾を引いていることは「ダヴィンチ・コード」などで知られるとおりだ。
いったいこの男イエスが神か何かという議論でどうしてこんなにもめるのか、とふと思って、小生はヨーロッパというものを一瞬理解したと思った。

われわれ人間は問い詰めていくと、どうしても神(超越的な絶対善)という問題に突き当たらざるを得ないのだ。ここから多くの罪とか宥和とかに関する問題が発生するがここでは省略。ただ、日本人は、500年まえにザビエルが布教に来て以来、キリスト教があるということを知ってはいるが、なぜか真剣に考えたことはない。それだけわれわれ日本人は長い間、無菌的なよい環境に住み続けてきたのか? しかし、これからはどうなのであろ・・・。



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ムハンマドとアラブ

 ムハンマドが生きた時代にアラビアの砂漠での生活はどんなんだったのだろうと思う。不毛な砂漠で生きることは何といっても死と隣り合わせだったのではあるまいか。 

 イスラム法では一夫四妻まで容認されるのは、飢えや部族間抗争で男が少なくなっても絶滅を避ける生物学的智慧からくるものらしい。決して遊び心を奨励するものではない。孤児は部族全員で支える、豊かなものは貧しい人に収入の何割かを与えねばならない・・・啓示宗教コーランは法になる。

 ある先生によると、6世紀末期に紅海沿岸の交易拠点としてメッカが栄え、その繁栄がアラブ人を遊牧生活から商人に変え、価値の転換が起こってきたこと、そしてまた貨幣経済による富の蓄積がアラブのインシャラー(すべては神の思し召し)の中に自らの力で運命を切り開く思想が芽生えてきたこと。いわば自然共同体意識から金銭崇拝的利己主義が発生してきたこと。これが部族間、氏族間、個人間の闘争を激しくすることになった。
 これに対する危機意識が人々の心に生じてきたとき、鋭敏なムハンマドは大天使ガブリエルの啓示を受けたのだった。

 ムハンマドの死後、ペルシャやビザンツに対してアラブはいわば自己に目覚めた。そうして瞬く間にイスラム勢力は西は地中海を経てスペインに至り、東はイランを越えるほどにもなる。この低文明のアラブ民族が、地中海東岸の高度な文明に埋没することなく、征服することができたのは、その一つの要因として、被征服地域の文明を排撃せず、なぜなら他国であれどこであれこの世に存在するものはみなアッラーの思し召しであるから、(それを破壊することなく)、巧みに吸収していったイスラムの寛容さにあるという。
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ムハンマドの魅力

ムハンマドという男は、じつに怪傑ハリマオのように行動的で、信念をもち、優しさと潔さと適度な優柔不断ももちあわせていた。
小生は彼の生涯を知って、現世的な男の魅力に圧倒される。戦い、駆け引き、女、を子供のような純粋さで突き進む。これぞリアリストの極致と感じる。

アラビアの不毛の砂漠で育った彼は諸部族を平定する。人間においける道徳というものが閉じられた集団の秩序を維持する最高の道具であるとすれば、あの時代あの地域に、彼の道徳的訴えはあまりにも適したものであったのだろう。

コーランを読んだものはだれでも、その砂漠の空気のように透明で乾いた表現に驚くであろう。なんという非神秘性。なんという偶像崇拝からの遠さ。それというのも、超越神、というよりも隔絶しているアラーがいるからなんだろうが、それは直接考えられるものではない。人は考えられないものについては語ってはいけない。
そして、あの天国・・・こんこんと湧き出る泉、美味な果物、深い眼差しの女達、決して老いることのない肉体と永遠に続く逸楽の日々。
ああ・・イスラム教に改宗したい!

それにひきかえ、キリスト教は天国については何も語らない。何があるのかないのか、ぜんぜん。ただ天国。しかし、この何かさっぱりわからないものに惹かれるのが人間の不思議。しかも、駱駝が針の穴を通るよりも難しいと言われると、絶対に不可能だと判っていても、なおいっそう惹かれるというか、少なくとも気になってしまうのが人間の不思議。




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キリスト教の伝播

何時だったか、だいぶん前、エホバの証人の信者さんと話していた時のこと。
小生が三位一体について尋ねたら、そんなの後の人が勝手に作り上げたものだ、だいたい教会はいい加減な解釈や儀式でいっぱいだ、けしからん、もはやキリストとは何の関係もない、と教会をさんざんけなしていた。

その言い分はわらんでもないが、キリストの教えを今に至るまで伝えてくれたのは、あの教会を作ってきた人たちの努力があったればこそではないか、お礼ぐらい言ったらいいものを、と小生は反論した。

それにしても、人間のすることには、どうしても正邪両面がある、そして両面を簡単には切り離せない。この世で生きるには、どうしても肉体が必要である。たしかに、もっとも苦しんでいる人たちや貧しい人たちのためのイエスの教えと立派な教会とは相容れない、とちょっと目には思われる。バチカンの壮大さは、イエスの言う「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と正反対のように感じる。

しかし、教会を通じて人々に教えを広めよう、苦しんでいる人たちを救おう、という気持ちが神父さんらにないわけではなかろう。どの程度職業化しているのか、神父さんによってまちまちであろうが、イエスの情熱の波動は二千年後の今に至るまで、彼らを通じて、減弱しつつあるかもしれないが、伝播している。もちろん中にはまったく酷い悪魔のような神父もいるであろうし、中世では多く居たと聞く。

それより、エホバの証人の表面的な言葉への原理主義的態度は、イエスが否定したあの厳格な律法主義にとても似ていると感じるのは小生だけではあるまい。



                                           

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旧約聖書と新約聖書

聖書を読んだ人は誰でも、旧約と新約との雰囲気の違いに驚くのではないだろうか。小生もその一人だ。
旧約のヤハウエの神は絶対的な力でもって、人々を脅し信仰を強要する。そしてユダヤ人だけが救われる、とくる。新約のキリストはすべての人を安らかにする。
ではなぜ新約にいたって終末思想が濃厚になるのはなぜであろうか。一説によるとゾロアスター教の影響が紀元前後に強かったからだという。
小生は、「打て、さらば開かれん」という人と終末思想とはどうも結びつきにくいのではないかと感じる。まだ、読みが浅いためだろうか・・。
それにしても、イエスという人は非常に積極的な人であった。もちろん、イエスという人などいなかったと言う人もあろうが、いなかったとしてもよい、同じことだ。ああいう人がいて欲しいと多くの或いは一部の人人が望み、集団的神がかりになって、ああいう物語を生んだのだったら。
ユダヤ人たちの絶望的雰囲気の中で、いままで誰も考えもしなかった逆説を発し、颯爽とデヴューしたイエスという男は、きっと初めから伝説的であり、人々が神だと感じたのはごく自然であるように思う。


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三位一体説

小生は、キリスト教の三位一体説について、色々な人に訊いてきた。聖職者にも訊いた。しかし、小生の理性ではついに理解することは出来ないでいる。たぶん一生解らないであろう予感がする。
歴史を振り返ってみるに、三位一体説はローマ皇帝コンスタンチヌスによる政治決着だった。キリスト教信者が増え、キリスト教を公認したほうが統治によいと判断したためだ。
その結果、今までローマの神々が守っていた国家をキリスト教が守らねばならなくなってきた。イエスという人物について様々な説があっては国の統一が保てない。どうしてもまず精神統一が必要であった。そのために三位一体説が創り上げられた。
しかし、これは、おそらく、誰も理解できないようになっている!に違いない、と小生は感じる。キリスト教の、教会の権威を守るための、永遠の秘教でなければいけなかったのだ。

翻って思う、イエスという人物は、それほどまでに変人だった。「右の頬を叩かれたら、左の頬も出せ」とは、現実にありえない行為である。どうしてこういう人が出現したのであろう。そして、どうしてこのような人を人々は放っておかなかったのであろう。


         
                                         
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