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『神々の沈黙』

   ジュリアン・ジェインズ著 『神々の沈黙』 雑感

 宇宙の広がりは有限なのだろうか、無限なのだろうか。そして宇宙が誕生した以前はなにがあったのだろう。自分はどうしてこの地球上にいま生きているのだろう。灼熱の球体にどうして生命が誕生したのだろう。一体何のために。

 この様な事を考えて、ぞっとしたことがない人は、いないであろう。時に訊かれることがある、「あなたは神を信じますか」と。小生はためらうことなく、信じていると答える。そして付け加える、しかし自分が信じる神は、自然と言い変えても、少しも差し支えがない、と。しかし、よく考えてみると、それは宇宙生成の話まではいかなくとも、目の前にある動植物のあまりに手の込んだ生き方を思うだけで、われわれ人間の知能を遥かに超えたものを感じ、その感じを「神を信じる」と表しているように思う。つまり、自然に対する驚異の念を〈神〉と言っている。

 それにしても、生命というものは不思議なものだ。ぬるくなった地球上のあるときに、海の中で単細胞の生物が誕生した。その後、それは変化し、分化し、進化して、非常に多くの生物種が生じた。それらは捕食しあい、あるいは利用しあい、共生しあいして、いま地球上に何万種の生物が生きているのか知らないが、おそらくすでに滅んでしまった種の方が多いのだろう。

 想像するに、この宇宙には、地球のように、生き物が存在している惑星はたくさんあるのではなかろうか。そして、一旦そこに単細胞が出現すると、生命はその惑星に粘着し、何時しか何万種の異なった生物となって、その環境に驚くほど適した、あまりにもバラエティに富んだ生き方をするようになる。

 とにかく生命がある惑星に、一旦取りつくと、もう何が何でもそこで生き延びようとしているように見える。火山の大爆発、地震や津波、巨大隕石の衝突、繰り返す氷河期などの、あらゆる困難を乗り越えて、生き延びようとしているように見える。だからこそ、生命はあの手この手でいろいろな種となって、そのどれかが生き延びればよいというように見える。DNAはそれを知ってか、たえず新しい変異を生みだしている。それは生命の指令によるものなのか。

 そうして自分は今ここに生きている。自分の属している人間種は、今や地球上でもっとも繁栄している生き物である、かつて恐竜がもっとも繁栄していた動物であったように。われわれホモ・サピエンスもいずれ滅びるのであろうか。

 紀元三万年前~二万五千年前に、ネアンデルタール人が消えてゆき、われわれの祖先ホモサピエンスが生き延びたという。なぜそうなったのか。諸説あるけれど病因説がもっとも納得できそうだ。それにしても、両者の大きな違いは、解剖学上から推定では、言語能力における違いらしい。会話ができるようになって、生活の様々な場面で、とくに狩猟において、ホモサピエンスは圧倒的に有利になった。

 さて、ここからが『神々の沈黙』の著者、ジュリアン・ジェインズの推論なのだが、言葉の始まりは、もっとも重要な行動、つまり狩において、仲間に知らせる「呼び声」だった。そして、その叫びの強さによって、状況を指し示す。その音の差異化、次にたとえば「より速く」というような意味を生ずる修飾語(修飾的叫び)を生みだし、このことが様々な石器を生みだす契機になった。そして、叫びに少しずつ変化が加わり、ついに名詞を生みだすに至る。

 これは、紀元前二万五千年~紀元前一万五千年に起こった。そして、それと軌を一にして、洞窟の壁などに絵を描き始めるようになった。事物を表す名詞は新しい事物を生じさせる。

 ジェインズは、この頃の人間には、われわれ現代人がイヤでも持っている〈意識〉がなかったという。だから、仲間から頼まれた仕事をし続けるには、意識的に持続させることができないので、いわば他動的な誘導が、すなわち〈内なる声〉が、必要であった。その内なる声を、彼は〈幻聴〉というのだが、それは脳のどこかの部分が司っているに違いない。

 そして、この〈幻聴〉こそ神々の起源であるとジェインズは主張する。かつて、おそらく地球上のあらゆる古代民族において、宗教をもたない民族はなかった。そこの人々には、要所要所において、行動を誘導してくれる神の声が聞こえていた。で、この声はどこから聞こえてきたのであろう。

 解剖学的におおざっぱに言えば、いまわれわれの脳においては、(右利きの人間においては)左半球に言語を司る中枢がある。だから、その部分に脳梗塞が起これば、右半身不随と失語を生じる。では、その部位に相当する右半球の領域は何をしているのか。

 ジェインズによると、神々の命令が、まさに右脳のその領域で発せられ、それが、左右脳をつないでいる前交連という神経線維束を通って、左聴覚野に話しかけたり、聞かれたりしていた。そうして、いわゆる統合失調症の人たちが幻聴を聞いている時、同じことが彼らの脳にも起こっているとジェインズはいう。もちろん現代の彼らの聞いているのは神の声とは限らない、いろいろな声である。多くは文化的に規定された優越なる声である。重要なことは、彼だけの耳にしか聞こえないのであり、その言葉はあまりにもリアルなのである。

 ホメロスが書いたと言われる『イリアス』の登場人物は、読んだ人はよく知るところだが、いざという時いつも誰かの神が働いてくれる。ジェインズは言う、彼らに「主観的な意識も心も魂も意思もない。神々が行動を起こさせている。」「とにかく何らかの決断が要求されることがすべて、幻聴を引き起こすに足る原因になった。」「この声こそが意思だったのであり、意思は神経系における命令という性質をもつ声として現れたのであり、そこでは命令と行動は不可分で、聞くことが従うことだった。」
 『イリアス』の物語りは、いったい何時から語り伝えられていたかは不明だが、とにかく紀元前10世紀よりうんと以前の人たちには、神々の声が聞こえていた、つまり統合失調症状態だった。

 しかし、いつしか神々の声は聞こえなくなっていった。それゆえ人々は自分というモノを考えざるを得なくなった。自分の時間空間的な位置を、自分の像を、歴史を、〈物語化〉しなくてはならなくなった。このことの過程を、エジプトやメソポタミアの遺文、とくにホメロスやプラトンらの著作と旧約聖書を、とくにその言葉の語源的検討を、ジェインズは長々と述べている。

 どうして神々の声が減衰し、意識が発達してきたか。一つには、脳の左半球優位の人間が、右半球の機能を徐々に習得していった。つまり神々の声の役割を得ていった。交易などで多少多様な人々との交わりにおいて、いわば自分を投影することが始まった。激しい争いが続いた。そのとき、たまたま神々の声に従えなかった人々や、うまく他人を欺いた人たちが、むしろ生き延びた。そういう人たちの遺伝子が広がるとともに、意識を習得する能力が広がっていった。それらは、紀元前二千年くらいから始まったという。

 神々の声の衰退が進むと同時に、人々は幸福な幼年時代のノスタルジアに浸るように、神託・神懸り・預言・占い・憑依などに縋るようになった。そうして、詩もそうだった。
 その時期に、詩はそもそも遠くから神々によって詠われたものだ。つまり古代では、預言者と詩人は分けられぬものであって、もともと語られていたのは、韻文であった。(これには全く同感だ。)古代の詩が、語られうというよりも歌われるということは、詩歌もおもに右半球の働きによるものではないか。

 それで結局、著者は何がいいたいのか。意識はもともとDNAに組み込まれたものではなく、学習されたものであり、抑圧された昔の精神構造の痕跡の上で、われわれは危ういバランスを取りながら生きている。選ばれた人、例えば、統合失調症の人が自分にしか聞こえない声に従うように、われわれも信念をもって行動しうる。古代人の行動と偉人の信念による行動の起源は同じなのだ。もはやわれわれ凡人には、知識の増加とともに思案に迷い、思い切った行動ができない。

 結局われわれの行うこととは・・・。

 エデンの神話とはなにか。神の恩寵の喪失、人間の堕落、失われた純真さ、そういう風に考えること自体が、人類最初の偉大な意識的〈物語化〉としての位置を占める。そうして、著者ジェインズ自身が、この本を書くのも、結局やはり〈物語化〉しようとする営為なのだ、と言っているのは、自説正当化であり、自己卑下でもある。

 なんか、あまりにも、はしょった話し方になったけど。

 この『神々の沈黙』という日本語タイトルの、原題は「The Origin of Consciousness in the Breakedown of the Bicamerarl Mind」だということで、直訳すれば、「二中枢の心の崩壊における意識の起源」とでもなる。訳者は、Bicameral Mind というのを、二分心と訳しておられる。解りやすく言えば、二つの心とは、神々の声と人間の意識ということに他ならない。

 ジェインズの線でいくと、思うに、あらゆる芸術家は神々の領域をもたねばならない。その領域からの声が強ければ強いほど、すぐれた芸術を生むのではなかろうか。それなくしては、いかに作品に苦労の跡が見られようと、まあいわばただの理論すぎない。

 世界中のどこの地域でも、多かれ少なかれ、古代の神ムーサの息吹が蘇る。幸か不幸か、わが国においては、だいぶん薄れてきたとはいえ、つねに神々の微風がいたるところに吹いているのを感じる。それは、たとえば詩歌となって残っており、いまなお多くの人々が、俳句や短歌などをたしなんでいるのみならず、若い人たちも自然に新しい言葉の遊びを楽しんでいる。言の葉の幸はふ国。これが〈やまとごころ〉とか〈日本人的〉といわれるものなのであろうか。

 すべて神の道は善悪是非を、こちたく定せるようなる理屈はつゆばかりもなく、ただゆたかに、おほらかに、みやびたるものにて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなへりける。(宣長)


 
     

     
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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

谷崎文学一面

知人とちょっと近代日本文学についてしゃべっていたら、また何か小説を読みたくなって、谷崎潤一郎の『卍』を読み返したんだけど、なかなか面白いね。とくに語り口がなんとも。関西弁が効いている。落語的エンターテインメントというのか、まあ、ありそうもない滑稽な話ではあるが、よく考えて見ると、いやいや現実のあり様そのものであるわ。つまり人間は美や性欲にとりつかれたら、どんな悲喜劇をも大真面目に演じるものだ。

 それから、もう一つの主題。とはいっても作者はそんな風なことが言いたいのではないと思うけど、〈世間〉というものの緊縛の強さなんだ、なぜ人は世間の噂にかくも強い恐怖を感じるのか、直接何の危害も加えるわけでもないのに。まあ、いま時分の子供ら、ラインというのかしら、友達と思っていた子に、一旦悪いうわさが広められたら、えらくいじめられるという恐怖をもって生きているらしいね。仲間から疎外されることの恐怖。ここからまた人は喜劇を演じなければならぬ。これが物語を前に前に進める。

 谷崎っていう作家は、書き始める前から、しっかり計画を立てて書いていくタイプではない、と本人も言っている。そこが、彼の作品の幾つかの終わり方を唐突で、意外に単純なものにしている。中期の傑作群では、中世の文学や伝説から物語は始まり、鼓、琴、あるいは三味線の音を背景に物語は展開し、終わりかたは、謡曲風の幻想、例えば、『八島』のキリ√春の夜の波より明けて、敵(かたき)と見えしは群れ居る鷗、鬨の声と聞こえしは浦風なりけり、高松の朝嵐とぞなりにける・・・とでもいうようにfade away する。後年の傑作『少将滋幹の母』は、ちょっと蛇尾って感じ、まあこの辺で終っておこうとう感じがする。要するに谷崎の作品は、もちろん面白いのだけれど、計画性がなく、どこで終わらせてもよい、という印象を与える。『蓼食う虫』は、謎めいた終わり方で、それがかえって、茫洋とした印象を残している。

 『蓼食う虫』は、優柔不断で新しいタイプの若夫婦と昔風の頑固親父。若い夫婦はすでにセックスレスで、お互いに別れることに決めているが、それを実行する具体的な時を言いだすことができない。妻の方の頑固親父は、伝統的な日本的感性を、とはいっても江戸時代のいわゆる下町情緒を、根底にもっている。その象徴が、この作品では文楽なんだな。若い夫婦がいくら新しいタイプの人間といっても、やはり根底には世間を恐れている。だから、おそらく彼らの行く末は、結局親父の言うとおりになるのだろう。

 それにしても、谷崎の好む下町情緒、これは荷風のような「下品」なものではない。それは洗練された上方の三味線の音であり、着物の柄である。『卍』においても、目に付くのは、二人の女性が交わす手紙の絵柄の美しさであり、他の彼のすべての作品においてそうであると思うが、とくに『細雪』においては、着物の絵柄の美しさの頻繁な描写には、興味のない読者は辟易してしまうであろうけれど、それは『源氏物語』を、そのなかでもとくに紫の上の感性を連想してしまうね。

 そういえば、昭和18年、陸軍省の圧力で『細雪』の連載が禁じられたそうだが、あの時代に昭和時代を画する作品を谷崎が書いたことは、おのれの芸術のみに身をささげた彼の〈図らずも〉の反時代的行為になった、つまり、戦前の、よく軍国主義だということで非難される時代がじつはかくも見事な伝統の美を蔵していたことが、戦時中に突如として発表されたことは面白いね。あっぱれ、大拍手。



       

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『薔薇の名前』

いつか読もうと思っていた小説の一つ。

時は1327年、場所は北イタリアの僧院。

 教皇を頂点とするキリスト教会が、その秩序を危うくしうる派閥の僧を異端審問にかけて粛清してゆく。ヨーロッパ中に吹き荒れたこの嵐はついにこの僧院に及んできた。この僧院には、過去に様々な派閥に属していた僧たちが集まってきているのだった。それと前後して、僧院内で殺人事件が次々と起こる。その事件のなぞとは・・・。

 この僧院には、キリスト教関係の文書が大量に保存されているが、誰もがその文書を自由に閲覧することは許されてはいない。すべての文書の管理は文書館長ただ一人の手にゆだねられている。

 文書の保管場所は迷路のような異形の建物であり、さらにこの内部には、文書館長しか知らない秘密の部屋がある。そこには禁断の文書が保存されている。そして密かにその在り処を嗅ぎつけ、それに触れた若い学僧たちが、何者かに殺害されてゆく。

じつは、この殺人事件は、今は盲目となっている元文書館長である老僧が仕組んだ罠によるものだった。この事件の謎を解くために一人の人物が要請された。この人物(主人公)は元異端審問官であったが、皇帝派と組んだフランチェスコ会に属する僧であった。

お察っしのとおり、この物語は教皇派と異端派(フランチェスコ会はその最大派閥)との対立がベースになっている。両派は、執拗に〈清貧論争〉に明け暮れる。つまりキリストは物質的な何物をも持たなかったのかどうか。その問題に関して、異端派は徹底して清貧を主張し、己もかくあるべしと行動する。しかし、教皇派は弾劾する、その行き着くところは精神的アナーキーであり、ISのごとき、非道な暴力集団に堕しているではないか、これを地上から排除しなければならないのは当然ではないか、と。

では、例の禁断の文書とは何か。なぜ学僧の好奇な目から隠されなければならないのか。なぜその文書が読まれるのを文書館長はかくも恐れるのか。それは、教皇派にとって何か不利になることが書かれているのではなか。しかもそれは、中世ヨーロッパとって最も権威ある者によって書かれたものではないか、と読者は興味をそそられてゆく。

もしかして、それはアリストテレスの失われた『詩学』の一部ではないか、と主人公は疑を深めるが、それは図星であった。かの盲目の元文書館長である老僧は言う、「あの人物(アリストテレス)の著した書物は、キリスト教が何世紀にもわたって蓄積してきた知恵の一部を破壊してきた。」ひょっとすると、それはもう神の否定の一歩手前ではなかろうか。信徒たちがあれを読んだらどうなる。すべてのこの世の掟は、人間的なパロディ、笑いとなって発散されてしまう。それゆえ、この文書に近づいた学僧たちを生かしておくわけにはいかない、と彼は物語の終わりの方で白状する。

主人公は、こういういわば神への信仰でがんじがらめになった人たちには笑いがないことを指摘して言う、「悪魔は精神の倨傲だ。微笑のない信仰、決して疑惑に取りつかれることのない真実だ。」じつは、神への過度の愛からこそ反キリストは生まれてくるものだ、と。

物語は、キリスト教の歴史に秘められた人間の心の暗い洞窟に、ロウソクのほのかな光を灯して進んでいくようだ。

ところで、殺人の手段はどうなの、どうして盲目の僧が人を殺せるのって。まあそれは言わないでおこう。めんどだし、これから読む人もいるだろうから。


     

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『日本霊異記』

『日本霊異記』の著者は、景戒というお坊さん。時代はだいたい聖武天皇から嵯峨天皇あたりまで生きた人だ。それでこの本は、ちょうど『万葉集』が世に出た時と同じころ書かれたものだ。

 雄略天皇の御代の雷神の話から始まって、桓武天皇の御代の僧の転生話と平城天皇賛に終わる。多くは、8世紀、聖武天皇から桓武天皇の御代における怪異な話だ。この時代は大変な時代であった(いつの世も大変だけど)、とにかく戦乱につぐ戦乱、そして飢饉と疫病の蔓延で、民衆はちょうど山上憶良の貧窮問答歌さながらの状態であったろうと思われる。だからこそ、聖武天皇は巨額を投じてでも大仏を造らねばならなかったし、だからいっそう民衆の生活は苦しくなる、しかし頼るものとては仏の慈悲しかない。

 なんでこんなに苦しい生活をしなければならないのか、きっと悪いことをした報いに違いない。この本の正式名は『日本国現報善悪霊異記』というのだそうで、つまりこの世でのわれわれの行いの善悪によって、その報いがもたらされる。そのような不思議な話を聞き集めたものである。しかし、報いは一代限りではなく、世代を越えてもたらされる。前世で悪いことをしたものだから、今世で苦しい思いをする。そんな話もある。

 ここでの116の奇怪な話は、似たような話が多く、いくつかの類型に分けられる。乞食僧に施し物を拒否した者が悪い死に方をする、お経をあげることによって、あるいは仏像を作ったり、写経をしたりして、罪や困難から救われる。一時的に死んで地獄に行き知人に遇って話を聞く。役人が税金を過酷にとったり誤魔化したりして、地獄で相応の苦しみをする。

 神道は外道だと排斥する話もあれば、生贄を行う異教を捨てて仏教に帰依せよという話もある。概して、神道の神や巫女は神通力があるが、転生やあの世の報いなどに関しては、何の力をも持ちえない。心の善悪や平等というえらく道徳的な話もあれば、現世利益のための信仰を勧めもする。中には、閻魔大王の使いに対して賄賂を推奨する話もある。吉祥天女像のような美しい女が欲しいと願うあまり、ついつい無意識裡に天女像と交わってしまったお坊さん、事がばれて恥ずかしい思いをする、しかし作者は一途な信仰は叶えられると結んでいる。まあ、おおらかというか、ようするに、話はハチャメチャであって、当時の一般民衆がいかに迷信を生き生きと生きていたのかを想像できて面白い。

 それぞれの話は、どこの何某がいついつ、という言葉から始まる。中には、具体的な有名人も出てくる。藤原仲麻呂の乱で功績があったとされる佐伯伊太知は、地獄で閻魔大王にひどく鞭打たれている。傍らの人が理由を訊くと、大王の書記官が言うには、伊太知は生前おこなった善いことと言えば、法華経の69384文字を書き写しただけだが、悪いことはそれよりもっと沢山したからだと答えている。もっとも有名な話は、例の称徳天皇と弓削の道鏡の不倫の話だろう。こういうところを読むと、いまの週刊誌のようで、一の事実から百の面白い話を創作したように感じられる。

 この作者、景戒という人は本当に信仰があったのだろうか、といぶかる。終わりの方で、彼は懺悔して曰く、「ああ、恥ずかしいことだ。せっかくこの世に生まれてきたけれど、生きる手立てに苦労する。因果応報のゆえか、愛欲にまみれ、煩悩の生活を繰り返し、あくせくして身を焼き焦がしている。僧といっても俗生活をしていて妻子をも養わねばならないのに、常に衣住食にこと欠き、安らかな気持ちになれない。昼も夜も餓え凍えている。わたしは前世において他人に施しをしなかったのだ。いやしい、さもしい自分だ」と。

 そうして彼は夢を見る。夢の解釈にいろいろな辺理屈をつける。その後、彼のお堂が狐に荒らされたり、息子や大切な馬が死ぬ。これは何の前兆であろうか。陰陽道や天台の哲理の事はよく解らないし、まだ勉強もしていないので、それを避ける術も知らない。ただただ歎いているだけである、と述べている。

 いまさら陰陽道もなにもないではないか。それなら、彼は他人には因果応報や仏の慈悲について説いても、じっさい彼自身はついに、いろいろな考えに迷わされていたのではなかったか。というよりも、むしろ因果応報を考えている限り、確信に至る道は閉ざされているのではないか、と考えさせられたりもする。


     

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『神曲』 2

 しかし見方によると、ここが一番面白いとも言える。ここにきて、いったいヨーロッパ中世とは何だったのか、と問わざるをえない。中世。年代的には諸説あるものの、概ね5世紀西ローマが滅んでから、15世紀東ローマが滅ぶまで。だが『神曲』を読んだ後では、小生はヨーロッパ中世を一つの理念でもって表したくなる。すなわち、キリスト教をギリシャ哲学で説明し正当化しよすとすること。プラトンの宇宙論をベースに、キリストの磔劇をアリストテレスの言葉で解明すること。全情熱が、ひとえにここに掛っているように見える。

 ローマ・カソリックに完全に帰依しているダンテに、ヴィルギリウスは言う、

「三位一体の神が司る無限の道を
 人間の理性で行き尽くせると
 期待するのは狂気の沙汰だ。
 人間には分限がある、『何か』
 という以上は問わぬことだ。
 もしお前らにすべてがわかるというのなら
 マリアがお生みになる必要はなかった。」

 三位一体説。これについてはかつて書物で調べたり、教会の神父さんに訊きにいったりしたものだが、小生の頭ではついに理解することができなかった。おそらく、さらに百年生きて考えても、小生には解らないと思う。たぶん、解らないように作られているのだ。誰も解ってはならぬ。

 しかし、天国におけるベアトリーチェはダンテに全てを説明しようとする。
アダムの罪はその子孫すべてを罪に落した。長いあいだ人類は下界で病んでいた。しかし、その時が来るに及び、神は、創造主から離れていた人性を永遠の愛の働きによって、神に、神の位格において、結びつけられた。人性は、創造主に結び付けられると、清純、善良になった。しかし人間が道を踏み外したので、天国から追放されていた。

十字架において科せられた罰は、キリストが帯びていた人性に照らしてみれば、正当な罰であり、この人性が結びついていた神の位格が蒙った非礼を考えてみると、不当な罰といえる。同じ一つの死を神もユダヤ人も喜んだが、その死によって、地が震え、天が開かれた。正義の復讐が、そののち正義の法廷によって、報復を加えられた。

 なぜ神はわざわざこの様な面倒な手続きをとったのかって。
 人間が楽園からの追放を回復するには、神が慈悲の心から人間を許したまうか、または人間が自らの手で決着をつけるかしかない。しかし、人間は自身で決着をつける力はなかった。そこで、神はその無限の愛によって、人間を許したもうたのみならず、人間が再び身を起こせるよう神自身をお与えになった。この演技こそ正義を成就するものである。これがキリスト劇の秘密であった。・・・そして、
 
 この宇宙のあらゆる物質は、神によって創られた力、すなわち形相力による。あらゆる動植物の魂は星星の光の運動が引き出したものだけれど、人間の魂には、神が息を吹き込んで、神(至上善)を慕うように創ったのだ。・・・よく解らないけど、そうなのですか。

 まあともかく、人類史において、人間に理性が突然目覚めた、そしてもっとも感受性が鋭くなった青春時代に、キリスト磔劇を目の当たりにして胸に深く刻まれてしまった。その後、ユダヤ人のある一派が、自分たちの神を巧みに利用して歴史を創った。その中心問題は決して解けない方程式だったのだ。世界を映し出していたオズの魔法使いは結局ばれてしまったが、三位一体の謎々はまだ誰も解いた者はいない。1900年の後、「真のキリスト教徒はキリストただ一人であった」と謎めいた言葉を残して発狂した哲学者もいた。

 どんなに善良な人であっても、もしこのキリスト劇を知らなかったなら、地獄に落とされていることになる。だから、プラトンやアリストテレスなどギリシャの哲人たちは、みな地獄にいる。とはいっても、彼らは何も悪事を犯してはいない。だから地獄にいるとはいっても、辺獄(リンボ)にいる。ダンテがあれほど慕ったホメロスでさえもリンボにいる。

 しかし、ダンテはやはり詩人であったと、小生は感じる。彼がどんなに中世的神学秩序を守ろうとしても、むしろそうすればするほど、彼の詩的創造力はその秩序をガタピシいわせている。そういう意味で、彼はすでに開放された新しい人間である。

 それにしても、『神曲』ほど、心の奥深くへ、地獄の底から天上の世界の果て、星星の世界まで、全宇宙の素材を駆使して物語った壮大なファンタジーを小生は、いまだ他に知らない。


     


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『神曲』 1

ダンテ作『神曲』というと、なにやら厳めしい、暗いキリスト教文学と想像するかもしれない。しかし、読んでみると、じつに面白い、奔放な想像力の傑作詩編だと感じた。むしろ、小生にはJ.ヴェルヌの『地底探険』やA.クラークの『地球幼年期の終わり』などのSFファンタジーを連想する。

そもそも神曲とは森鴎外の名訳であって、ダンテのイタリア原語では『Commedia』つまり『喜劇』であるという。たしかに、これが書かれた当時、1300年ころのフィレンツェで暗躍した人々が実名で登場してくる。彼らは、聖書やギリシャ神話などの登場人物と共に、地獄や煉獄や天国で、悔悟の涙を流したり、王党派と教皇派との対立、闘争について語ったり、いずれ現世に戻るべきダンテに頼みごとをしたりする。

 地獄、煉獄、天国にはそれぞれまたいろいろなレベルがあり、極めつけは、地獄の谷の最下層の状況だ。

「いま詩に歌うのも恐ろしいが、
 私はついに来たのだ、
 ここでは亡霊たちはみな氷漬けにされ
 ガラスの下の藁みたいに透けて見える。
 ある者は横たわり、ある者は起立し、
 ある者は頭で、ある者は爪先で立っている。
 そしてある者は弓なりに顔と足とを
 向けあっている。」

声も出ないほどの恐怖に怯えつつ先に進むと、彼はついに悪魔大王を見る。この巨大な帝王が氷地獄を創っている。この大王は色の異なる三つの顔と三つの巨大な対の羽をもっていて、羽を動かすごとに寒風が巻き起こり、氷は凍てつく。恐ろしい爪と歯は罪人たちを傷つけ、血だらけにしている。中でも最悪事を働いた三人が見える。キリストを裏切ったユダとシーザーを殺したブルータスとカシウスだ。(なんでや)

この絶望的に苦しい地獄から煉獄の地平に脱出するのが、またとても手が込んでいて、イメージしにくいのだが、それがまた猛烈に大胆なのだ。彼ら(ダンテとヴィルギリウス)は、悪魔の翼が広がった瞬間に、その毛むくじゃらの脇腹にしがみついた。そして毛を伝って下に降り、地殻の間へ這入り込んだ。そこは悪魔の腰間接のあたりで、そこは地球の中心であって、そこから先は重力が反転する。だから、ここからしばらくはダンテは上下さかさまの感覚にとらえられる。

天頂の真下にエルサレムがあり(北半球)、その天球の反対側に(南半球)着いたというのだ。そこをどんどん昇っていくと、向こうの夕方は、こちらの朝、いつしか小川が流れ、上の方に円い孔から外に出ると、星が輝いていた。・・・となる。

そうして、煉獄に踏み入れるのだが、そこでの薄明の描写が美しい。

「東方の碧玉のうるわしい光が
 はるか水平線に至るまで澄みきった大気の
 晴朗な面に集い、
 私の目をまた歓ばせてくれた。
 目を痛め胸をいためた
 死の空気の外へ私はついに出たのだ。」

そこからアルプス越えを思わせる急峻な煉獄の山を息急きって登りつめたダンテは、ヴィルギリウスの手を離れ、天国に入る。そこでは、『未知との遭遇』のように、光の饗宴が催されている。だからここではアポロン賛歌から始まる。ここで彼は最愛のベアトリーチェに導かれ、至高点に至る9個の天球をめぐり、キリスト教の奥義を教えられる。この天国篇が一番理屈っぽい。


     

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『地下室の手記』

30年くらい前に読んだものだが、まるで昨日読んだみたいであり、まったく違和感なく、今現在のこととして理解しながら読めた。おそらくこの地下の住人のような思考回路に日頃から比較的親しく接しているためかと思われる。

 思考回路という言葉は好きではない。しかし、この場合そういうのがぴったりである。つまり考えれば考えるほど、結局は同じところをくるくる回っていることに気が付くのであって、それがまた苛立たしく、別の脱出口がたまたま見つかって進んで行っても、また来た道を歩んでいることに気が付いて、絶望的な苦しさを味わう。しかしじつは最初からそのことをすでに予感していて、その予感が達成されたという意識がたえず伴う。そしてその進行には同時にまた強烈な快感を伴うことがあるから救いようがない。

 その昔、ある精神科医が統合失調症の患者を評して〈反省地獄〉と言ったことが忘れられない。患者はある行為をなす、あるいは―この方が圧倒的に多いのであるが―なさない理由を考える。どんどん考え出す。そこでやめときゃいいのに、彼の自意識は強烈で、やめられない。どこまでも言い訳をせざるを得ない。他者に対して、そして、むしろ自分に対して。

 地下の住人は、つねにいらいらして、考えて、考えて、考えた末にやってしまう。しかし決まってじつにドジなことをやってしまう。そして、ここが肝心な点だが、そんなことは初めから自分でもよく解っていたのだ。自分の行為の予見は的中する。それがまた苛立たせる。周囲の人間は、不器用な彼を避ける。自意識という限り彼は正統である。だから、彼は周囲の人たちの欺瞞がよく見える。

 いっぽう彼は、周囲の人たちのいわゆる立身出世、上手な生き方、生活を楽しめること、その安楽で希薄な意識を羨んでもいる。そして同時に軽蔑している。地下の住人は、その理由として自分は「教養のある頭のいい現代人」だから、と言う。たしかに彼は頭がいい。自分の他人に及ぼす影響に関して常に理屈をこねまわしている。しかし彼は成功しない。彼は失敗し続ける。さらに、そういう自分自身をもっとも軽蔑している。

 地下の住人と統合失調症の人とは一見とても似ている。両者とも、小生から見ると、身の丈に合わないところのものを得ようとしている。得られないから、いらいらしたり、絶望したりしているし、たえず自他にたいして言い訳をしている。それは延々と続き、目覚めてはこれは夢だったかと気が付くように、だんだんと深まるようでいて、同じ回路をぐるぐる回っているにすぎない。

 だが両者の決定的な違いがある。それは、地下の住人の心のうちには、その形は漠としているが、方向がはっきりした一つの渇望がある。この絶対的渇望のゆえに、いっさいの地上的現実が明瞭に相対化される。ドンキホーテを、彼の理想と行為をそのままにさせておいて、毎瞬間ごとに反省地獄に陥らせたら、どうなんだろう、とは無意味な想像である。だが、そんな想像をしたくならせるものが、地下の住人にはある。

 しかし、人間が生きる典型とはこういうことではないだろうか。彼の生には何か非常に具体的なものがある。統合失調症の人たちも強い希望をもっている。しかし彼らの生には具体的なものが欠けている。われわれ凡人はその中間ぐらいに漂っていると言えるかな。


       

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『The unlikely pilgrimage…』

 三か月くらい前、知人がくれた本がある。英語の小説なので、なんとなく敬遠していたのだが、せっかくもらったのだし、冥土の土産ってことかもしれない、まあなんとなく読んでみようと読みだした次第だが、なかなか面白く、小生の拙い英語力でもずんずん引き込まれてしまった。

 『The unlikely pilgrimage of Harold Fry』という2012年に出た小説。主人公ハロルドは背の高い、しかし臆病でおとなしく、まあ凡庸といえるこの男は、イギリスの南端の都市に住んでいる。定年退職後、仕事と言えば庭の芝刈りくらいか。子供はいない。かつて息子が一人いたが、20年も前に自死してしまった、それからというもの妻との間には隙間風が吹きっぱなしで、形ばかりの家庭をなしている。

 ある朝、一通の封筒が届く。開いてみると、それはずっと以前、ハロルドの職場でしばらく一緒だった女性キニーからだった。彼女はいまガンを患っていて、遠く離れたスコットランドの、あるホスピスに居るということだった。それで彼は返事の手紙を書いて投函しようとするが、ポストの前に立つごとに、こんな文面でいいのだろうか、と投函をためらう。そして、バーガーを食べるために立ち寄ったガソリンスタンドの女の子とおしゃべりをする。

 女の子はハロルドの話を聞いて言う、自分の叔母もガンを患っていた。でも前向きな気持ちでいなくちゃ。人間の心にはまだまだ理解できないことがいっぱいあるし、それを信じて進まなくては云々。宗教的信念とはふだんから無縁のハロルドは、しかしこの女の子の言う信仰という言葉が頭から離れない。それは宗教的なものではないと少女は言うが、小生に言わせれば、その態度はまさに宗教の普遍的発端に立っている。

 ハロルドは、突然電話ボックスに飛びこみ、ホスピスに電話する。返事を待つ間、自分がいる街から、1000キロも離れた病気の女性がいる街への道路や川や山などを想像する、そのとき突然、決心がやってくる。彼は電話に出たホスピスの職員に言う、今からそちらに向かうから、それまで待っているようにキニーに伝えて、と。

 なんの躊躇することがあるものか、彼はそのまま北に向かって歩き出した。1000キロメートルの歩行の旅、まさにそれは贖罪の行為すなわち巡礼に似たものだった。決して健康とは言えない彼にとって、道中は困難を極めた。ほどなく足にマメはできる、化膿はする、脚がつる、・・・。しかし彼はいろいろな人たちと出会って、それぞれの人がいかに彼ら独自の問題を抱えて生きているか、そして歩く理由を語る彼にいかに多くの人たちが共感してくれるかを知る。

 様々な人たちとの出会い。イングランドの町や自然の風景を彼は今更のように見つめる。それらが絶えずヒントになって、彼の頭に自分の過去の生活が繰り返し蘇る。両親の思い出、妻との出会いそして結婚、息子への無理解と彼の自死、冷たくなりゆく夫婦関係。勤めていた会社におけるキニー。それらが蘇るたびに彼の理解は深まる。新しい人たちとの出会い、自然の風景、そして記憶のフラッシュバック、これらが混然一体になって、物語を展開させる作者の手腕はさすがと感じた。

 出発して目的のホスピスに到着するまでの87日間には、様々な紆余曲折があった。道を間違えたり、また彼の〈巡礼〉に賛同して付いてくる人たち、賛同者が多くなればなるほど誤解も増え、マスメディアも飛びついてきて、ゴシップのネタにする。終わりのほうで彼は疲労困憊し、旅を諦めようともする。しかし、ついにホスピスに着いた彼は、一人の修道女に案内されて、キニーに逢うことができる。だがすでに彼女は話ができる状態ではなかった。

 キニーの死ののち、修道女はハロルド夫妻に夕べの祈りに同席する許可を与える。薄暗い室内で、二人が思い出していたのは彼らの息子の死だった。そのむかし息子の死を諦めきれず夫を責めた妻は、いまそのことを彼に謝る。そして思う、how a life is not complete without meeting its closure.…If we can’t be open, if we can’t accept what we don’t know, there really is no hope.(人生は死の後にはじめて完成する。…もしわれわれが心を広く開いて、知り得ないことをも受け入れなければ、希望はないだろう)

  この本の表紙に the Sunday Times bestsellerと書いてある。なるほど、本当にこのような本を多くの人が読み、しみじみ感じるところがあるならば、それは文明国と言える。それに対して思う、豊かになった人々が高額の炊飯器や便座を買いあさるようになっても、それだけでは文明国ではない、と。


     

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『土佐日記』

なにとなく春になりぬときく日より
   心にかかる瀬戸の船旅…ってことで、

『土佐日記』と聞けば、土佐から京への、光のどけき春の日の旅路を綴った随想だと思っていたが、それは小生の思い違いだった。

 作者(紀貫之)は、数年間、土佐守としての任務を終え、承平4年(934年)12月21日、帰京すべく任地を去る。京へ着いたのは、翌年の2月16日。その約三カ月間、貫之ら一行の旅のほとんどは船旅であった。土佐の港から室戸岬を回って、今の徳島市、そして鳴門海峡を横切って、淡路島、和歌山、難波津から淀川を遡って京都へ。

 驚くべきことに、寒い時期の船旅であるにもかかわらず、寒いという言葉がない。もちろん航海は沿岸伝いで、所どころで寄港する。海が荒れて、船を出せない日も多々あって、予定通り進まない。

 また航海は、とくに土佐の港から淡路までは夜間が多い。一つの理由として明るい間は海賊がよく出るからという。しかし、今のように村には明かりがないだろうに、月明かりと星を頼りに航行したのだろう。鳴門海峡を渡る時も、海賊に見つからないように、夜間決行である。船中の皆は神仏に祈る。それにしても渦に巻き込まれることはなかったのだろうか。

 一行は一刻も早く京に帰りたい一心である。船中のつれづれに、男は酒を飲んだり漢詩を作ったり、女や子供は歌を詠んだりしている。

 たまくしげ箱のうらなみ立たぬ日は
     海を鏡とたれか見ざらむ


 昔も今も海が凪いでいるときは、海面が鏡のようだと誰もが言う。

 いよいよ難波に近づく、「住吉のわたりを漕ぎゆく。ある人のよめる歌、

 今見てぞ身をば知りぬる住江(すみのえ)の
     松より先にわれは経にけり


 久しぶりに見る住吉の松は千年の緑を湛えているが、私は、数年で歳をとってしまったことよ。

 洗練された都人である貫之から見て、船長は鄙びていて下品な人間であることが強調されているし、また船中には、土佐の地で出産したが、その子を亡くして、帰京の途についた女性(貫之の妻らしい)もいて、しばしば同乗者はその女性の悲しみに触れる。

 この悲嘆にくれる母は、住吉あたりでこう詠う、

 住江に船さし寄せよ忘れ草
     しるしありやと摘みてゆくべく


 住吉の岸辺に船を寄せよ、あの子のことを忘れる効きめがあるなら、それを摘んでいきたいから。

 そして作者は、この母が悲しさに堪えずして歌を詠むにつけ、こんな風にも語っている。「父もこれを聞いて、どんなに心を痛めているであろう。泣いたり、歌を詠ったりするのも、好きだからと言ってできるものではないだろう。唐土(もろこし)でもここ(わが国)でも、思うことに堪えられない時こそ、歌が生まれるのであろう…。」

 漢詩に堪能で『古今集』仮名序執筆者としての面目躍如


     


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『桜の園』

背景は19世紀末のロシア。大地主が代々住んでいた美しい土地(桜の園)を、時代の流れとともに手離さなければならなくなる話だが、舞台上では登場人物たちは自分が育った時代を夢の糧として生きており、彼らは皆その性格に応じててんでバラバラに勝手なことをしゃべっている。その不統一が、終わって見れば、じつは全体としてそのかけがえのない一時代を浮き出させている。

 ある地主は自分の土地に鉄道が走ることによって大儲けをする夢を見、振興の土地ブローカーはリゾート開発でひと儲けしようとする。桜の園を手離さなくてはならない女地主は裕福な育ちでおっとりとした人で、他人への信頼と愛情に満ちているばかりで、経済観念をまるで欠いている。

 最も歳をとった耳の遠い老人は言う、昔はみな面白く生きていた、旦那と百姓は心から結びついていた、農奴解放令がでて自由民になった連中ときたら勝手放題で、訳が分からん…と言う。みなこの老人のことをうっとおしく思っているが、多少は気にかけてはいる。

万年大学生は、人類の進歩を信じており、しかしロシアの現状は底辺の労働者らの極貧および道徳的腐敗、そしてインテリを口ばかりで何もしない偽善者、ロシアのすべてはアジア的野蛮と停滞、と非難する。しかしこの男もまた、頭をイデオロギーでいっぱいにして、一時代前までの地主はみな農奴性の賛美者で農奴をしぼれるだけしぼっていた、と憤慨する。

しかし、だれもそんな話は聞いてやしない。ただ彼を愛する最も若い登場人物は、かれの話にうっとりする。そしてこの愛する乙女は、彼とともに新時代を夢見る。彼は彼で、自分たちは恋愛を超越していると言っている。

桜の園を手離さなくてはならなくなった女地主に対して、この万年大学生は、すべては時代の流れで、きっぱり現実に目覚めなければならないと諭す。それに対して彼女は、あなたは人の心も本当の人生も見えていないから、はっきり物事を割り切ったように語れるのだ、そんな人には、彼女の昔の男に対してなお愛する気持ちや、この桜の園に結びついた子供時代の懐かしい気持ちが分からない、人の心を解さない変人だと非難する。

彼女の兄も一言居士だが、お説教を述べようとするたびに周囲から押しとどめられる。養女も執事も小間使、従僕たちも、みな対話してるのか独白しているのか曖昧模糊として、ときに脈絡なく話が飛ぶ。ひとはみんな自分の観念の中に閉じこもっている。いったい客観的な世界の流れなどというものはあるのか。

みなそれぞれ欠点あるいはこだわりをもっているが、悪人は一人としていない。それぞれの時代と性格を背負って夢を持ち、みな時代に流されて生きる。そして最後にこの桜の園の館からみんな居なくなる、ただ一人あの老人を残して。

病弱の老人は呟く、「わしのことを忘れていったな。・・・なあに、いいさ、・・・まあ、こうして坐っていよう・・・ほんとにお若えお人というものは! 一生が過ぎてしまった、まるで生きた覚えがないくらいだ。どれ一つ横になるか・・・。」

      

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『三人姉妹』

諦念という言葉をふと口にしたら、チェホフが浮かんできて、何十年かぶりで読みたくなった彼の戯曲。

 遅かれ早かれ幸福は未来にやってくるとみなが思っている。そういう登場人物の一人は言う「いったいロシア人は、高尚な物の考え方をすこぶるもって得意とする人種のくせに、実生活となると、どうしてこう低級をもって任ずるんでしょうかね?」。この疑問は、19世紀後半のロシアのインテリたちの誰もが大きな驚きをもって発した疑問だ。やがてロシア人の心と現実の行動との極端な乖離は絶望的な空想に走るだろう。

 また別のインテリは語る、「モスクワのレストランの大きなホールに座ってみろ。こっちを知った人は誰もいないし、こっちでも誰ひとり知らない。それでいて自分がよそ者のような気がしないんだ。ところがここだと、向こうもこっちもみんな知り合いの仲なのに、そのくせ僕は他人なんだ…一人ぼっちのよそ者なんだ。」彼はすでに20世紀のスマートな都市型人間ではある。彼らは個人主義の仮面をかぶって、やがてマスメディアによって動かされることになろう。

 なんやかんや言っても、やはり人生は謎だらけで、人生は辛いと言う人でも、やはり幸福であり、結局は肯定しているはずであり、千年経っても人々は同じように生きているだろう、と唯一語る登場人物がいる。この人物は終わりの方で決闘で殺される。

 この男は、三人姉妹の末の妹を愛している。しかし、彼女は愛というものを知らない。彼は彼女から愛を引き出そうとして言う、「じつにくだらない、じつに馬鹿げた些事が、ふとしたはずみで、われわれの生活に重大な意義を帯びてくるようなことが、時にはありますね。相変わらず下らん事だと高をくくって笑いとばしているうちに、ずるずる引きずられて、もう踏みとどまる力が自分にはない、と思った時にすでにおそい。」人生で肝心なものはわれわれの目に隠されている。そしてとても皮肉に展開するものだ。

 この田舎町に集まった人物たちはまた去ってゆく。モスクワでの生活という夢が消えた末妹を抱いて長女は語る、「(出発する兵隊たちの)楽隊はあんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聴いていると、もう少ししたら、何のために私たちが生きているのか、何のために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。…それがわかったら。それがわかったらね!」虚しい夢だ。


    


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『悲しき熱帯』

 これも死ぬまでに一度読んでみたいと思っていた本のひとつである。この本を読んで先ず感じたのは、二十世紀の洗練されたフランス人の人類学者の芳しい香である。それはブルボン朝の豪奢とルソーの怨恨と革命とボードレールをベースにした香りである。

 したがってこの本はこう始まる。
「私は旅と探検家がきらいだ。それなのに、いま私はこうして、私の海外調査のことを語ろうとしている。だが、そう心をきめるまでに、どれだけの時間がかかったことか! 私が最後にブラジルを去ってから15年が過ぎたが、そのあいだじゅう。私はいくどもこの本を書いてみようと思いたった。そのたびに。一種の羞恥と嫌悪が私をおしとどめた。いったい、なんだというのだ? あのたくさんのあじけない些事や、とるにたりない出来事を、こまごまとものがたる必要があるのだろうか。」

しかるに、われわれ一般読者が期待しているのは、些事や出来事からなる物語であって、小難しい人類学的理論ではない。そして著者は、そのことを十分心得ていて、こまごまとした些事を余すところなく語っているが、彼の育ちのよさを思わせる感覚の鋭敏が読者を退屈から救ってくれる。

例えばこんなくだりがある。
「ブラジルは、私の想像力のなかで、奇妙な構築物をうしろにかくしている曲がりくねったヤシの束のようなものとして描かれていた。そしてその全体は、香炉の匂いのなかにひたっているのであるが、この嗅覚の要素は、「ブラジル」と「グレジェ(ぱちぱち燃える)」という二つのことばから無意識に引き出された音の類似によって、ひそかにすべりこんだもののように思われる。この音の類似は、その後ブラジルについて多くの経験をしたにもかかわらず。今日でもなおブラジルを考えるときには、まずこげたにおいを私が思い浮かべる理由を説明してくれる。」

あるいは、
「大アンティル諸島というかなり特殊な背景においてではあったが、アメリカの町に共通してみられるあの洋装を、私がまず認めたのも、プエルト・リコにおいてであった。すなわち、どこへ行っても、建物が軽そうで、効果だの、通行人の関心をひくことばかりねらっている点で、いつまでも催されている万国博覧会かなにかに似ていた。」

あるいは、
「16世紀の人間の意識には、知識以上に本質的なある要素が、科学的な考察に不可欠の資質が欠けていた。この時代の人々は、世界のスタイルということに敏感ではなかった。こんにちでも、たとえば美術において、イタリア絵画の、あるいは黒人彫刻の、なにがしかの外面的な特徴はわかっても。意味を持ったその全体の調和のみえない粗野な人は、ほんもののボティチェリの絵と贋作とを、また中央アフリカのファン族の小像と市場で売られている安物とを、見分けることができないであろう。」

あるいは、
「この巨大さの印象は、アメリカに特有のものである。・・・これらの街路は街路であり、山は山であり、川は川でしかない。では、あの故郷喪失の感情はどこから来るのだろうか。それはただ、人間の大きさと物の大きさとの間の関係が、もはや共通の尺度がなくなるほどにひきのばされているということに由来している。」

まあ、いくらでも引用できるが、止めておく。

さて、著者はサンパウロからアマゾンの奥地へと進み、幾つかの未開の部族に接する。そこで幾つかの発見がある。そのなかで小生がとても面白く感じたところを紹介しよう。

カドゥヴェオ族というのがいる。著者が接したときにはすでに彼らは外来者と取引をすることに慣れていたのであるが。しかしだからといって彼らの伝統的な制度が無くなっているわけではない。この部族においては男が彫刻をし、女が絵を描く。そしてこの絵のデザインの際立った特徴は紋章学に通じる著者の心を捉えた。

とくに、女性の顔のマニアックな装飾、「繊細な幾何学モティーフとたがいちがいになった非対称形のアラビア模様の網」は、何のために、どこからその着想を得たのであろう。カドゥヴォエ族の女たちが迷うことなく描いていく、縦横の線、斜めの線、菱形、蔓草状、渦巻き、波状、それらの結びつきの多くのパターン。いろいろ過去の報告などを参考にして、著者はそれが他でもない独自の理由に基づくものだということに気が付いた。

簡単に言えば、この〈芸術〉には、社会学的機能がある。つまり個人に人間としての尊厳を与える。それからカーストつまり身分の序列を表している。この世襲の身分を保証するにはどうするか。異なる階級の者が結婚できないならば、半族間の結婚を義務化する。階級の非対称性と半族の対称性という矛盾の解決として女たちは夢を見はじめた。これがデザインなる。

この〈芸術〉は、「社会の利害や迷信が妨げさえしなければ実現しうるであろう制度を象徴的に表す方法を、飽くことのない情熱で探し求める一つの社会の幻想として説明すべきであろう。彼女たちは化粧で夢を囲むのだ」。

それから、この本の書名『悲しき熱帯』の理由となったナンビクワラ族について少し触れておかねばならない。著者はこの部族の生活につぶさに触れることによって、社会学上の新しい発見をなしたかもしれない。しかし、小生にとって面白いのは、著者がこの部族のあり方に非常に感動している点であり、その感動は小生にも伝わって、人間とは何かという疑問符をつきつけられるのである。

ナンビクワラ族の住んでいる地域は、とげとげの灌木が生えているだけの乾燥した貧しい土地で、一年の半分は雨が多い季節で、彼らは木の枝やヤシの葉で粗末な小屋を立てて定住する。そしてイモ、豆、トウモロコシなどを栽培する。これは男の仕事だ。この季の初めの神聖な儀式は、男たちが竹で作った笛を吹くのであるが、それは女がいないところでするという。
後の半分の乾いた季節になると、彼らはその小屋を放棄して、遊動の生活に入る。10人とか20人とかくらいの集団に分かれて、それぞれの全財産(ひょうたんの器、石、竹、紐、樹脂、貝殻、動物の歯、爪、骨など)を割いた竹でできた籠に入れて移動する。その間は彼らは採集生活にはいる。草木の実、根、ウジ虫、クモ、イナゴ、ネズミ類、蛇、トカゲ、蜂蜜など、食べられるものなら何でも採る。これは女の仕事だ。時には、強い日差しや雨を避けるためにヤシの葉を立てる。男たちは弓矢をもっているが、いい獲物はめったにない。採集物がとても少ない土地であるゆえに、少人数のグループに分かれて遊動した方が経済効率がよいという。

彼らは衣類はなく裸である。睡眠は裸のまま地面に寝る。彼らは砂の中で転げ回ることを好み、体は砂でまぶされている。乾季の夜は寒く、焚火の近くで、あるいは体を寄せあって寝る。昼間は水浴び、料理(イモや実を煮る)木の実や貝殻で飾りをつくる。ぶらついたり、頭の虱を獲りあったり、ワイ談や冗談を言い合ってよく笑い、いつも陽気だ。犬、鳥、猿を愛玩用として飼っている。夜が近づくと当番が薪拾い。そして家族ごとの焚火。おしゃべり、じゃれあい、夫婦は抱き合う。子供は一人か二人。それ以上はこの環境と移動生活には邪魔になる。

愛し合う二人は、人前でも抱き合って戯れる。しかし、この部族の場合、それが必ずしも性交というわけではない。それはむしろ遊戯的、感情的なたのしみであるらしい。彼らは全裸で暮らしているが、だからといって羞恥を知らないのではない。ただその範囲がわれわれとは異なるのだ。

それぞれの群れには首長がいる。首長は群れの方針(遊動の時期や方向の決定、周囲の群れとの関係など)について決定権と責任を負わねばならない。その代り、彼は複数の妻をもつという特権が与えられる。多妻とはいえど、家庭生活の単位としての本妻は一人であって、この本妻だけが、日常のこまごまとしたことをする。他の女たちは、いわば情婦、遊び相手なのだが、狩や偵察のときは首長について行く。

首長と成員のあいだには、それゆえ同意と交換とが成りたっているはずだ。首長は群れの成員にたいして気前がよくなければならない。仕事も多い、うまくやらねばならない、責任もある。だから、かの特権があるとはいえ、すすんで首長になりたがるものは少ない。しかし現実には必ず首長がいる。そのことから著者は発見する、元々こういった傾向の(公の責任という負担そのものを報酬と感じる)者が必ずいる、どんな〈社会〉も、そういった個人の差異を利用すると。

ともあれ、結論として、次の著者の言葉を引用しておこう。
「初めて荒野でインディアン(原住民)とともに野営する外来者は、これほど完全にすべてを奪われた人間の光景を前にして、苦悩とあわれみにとらえられるのを感じる。この人間たちは、なにか恐ろしい大変動によって、敵意をもった大地の上におしつぶされたようである。消えやすい火のそばで、裸でふるえているのだ。外来者は、手探りで、茂みの中を歩き回る。焚火の光の暑い反映でそれと見分けられる手や、腕や、胴にぶつからないようにしながら。
しかし、このみじめさも、ささやきや笑いが生気を与えている。夫婦は、過ぎ去った結合の思い出にひたるかのように抱きしめあう。愛撫は、外来者が通りかかっても中断されはしない。彼らのすべてのうちに、無限の優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、動物のそれのような満足を、人は感じとるのである。そして、これらさまざまな感情を集めた人間の優しさの、最も感動的で、最も真実な表現であるなにかを、人は感じとるのである。」

   長くなってすいません


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ソクラテスの弁明

  

S 人はなんのために生きているか? この問いが欠けている。
O いや、だれでもそんなこと考えている。
S 君の言うのは、肉屋はいかに多くの客に肉を買ってもらうかとか、月給取りはいかに多くの月給をもらうかとか、そんなことだろう。
O いや、そうとも限らない。肉屋はいかにいい肉を客に提供できるか、月給取りはいかに自分の仕事の内容を発展させていくか、そういうことを第一に考えている人もいる。
S しかし、彼らは他のことは何にも知らない。
O 他のことを知る必要なんてあるの。
S そこなんだ。人生で一番大事なことはなにか、彼らは考えようとしない。そこで私は彼らにそれを考えさせようとしてきた。
O それは余計な御世話だよ。
S だから私は嫌われる。だけどさ、私に言わせれば、それは余計なことではない。人間として生まれたら必須のことだ。
O では訊くが、君は何のために生きていると考えているのか。
S 何のために生きるのかを考えるために生きている。
O なんだそれは。抽象的な男だ。
S だから私はうっとおしがられる。分かりやすく言うと、いろいろ考えたのだが、結局、人はみな善のために生きるべきだ。
O 善とは何だ。
S 善とはよいことだ。
O よいことを善というのとちがうの?
S そうだけどね・・・あれこれのよいことのよいことたるゆえんの理念を善というんだ。
O そういうことにしておこう。それで何が言いたいんだ。
S 私は人に遭うごとに、善を目指して生きているかどうか尋ねる。
O おせっかいだね。そんなことをいちいち考えている暇人はめったにいないよ。
S しかし、なぜか若い人は、私の言うことに納得して、ついてきてくれる。
O 暇だからだよ。彼らも仕事をしなきゃならないようになったら、そんな善問答はしなくなるよ。
S 仕事をするようになってもついてきてくれる若者もいる。
O だから彼らの親たちは君を告発したのだ。君は若者を堕落させていると。
S 知っているさ。
O なぜ君はみながその人なりに善を目指しているのに、それにちょっかいをかけようとするのだ。
S 私がいろいろな人に問いかけて分かったことだが、たいていの人は善など目指していないよ。彼らが考えているのは効率だよ。
O そんなことはない。君のようにうまく理屈が言えないだけの人もけっこういると思う。
S 大抵の人は、自分が何をやっているのか知らない。そしてかなり老いぼれてきてからなんと、一番大事なものは金銭か知名という。
O ぼくは健康第一だと思うな。
S それは当然だよ。しかし、それは健康でないときの言うセリフさ。君こそ抽象的な男だ。私が言っているのは、健康であることを前提として言ってるんだ。で、金が一番大事だと言う人はまあいわゆる凡人といい、知名が一番大事という人を空想家というのさ。空想家の中でもいちばん厄介なのは知識人と言われるやからだね。政治家が知名を大事にするのは当然だが、いわゆる知識人は自分のことを知識人として名が通っていることを喜ぶが、じつは彼らは無知なのだ、そして彼らがいかに無知かをそれとなく教えてやっている私の親切が分からない。
O そういう人たちをほほえましいとして放っておけないの。
S 放っておいてはいけない、と私のダイモンが命じる。そして私はその命令をきかないわけにはいかない。だから私は嫌われる。
O 知識人がそんなに無知なの。ぼくには分からないな。
S 彼らの知識というものはたいてい専門知識にすぎない。あるいはもっと他のいろいろな知識を持った人もいるけどもね。しかし、それは世に流布したただのニュースだ。彼らは分かり切った事を互いに言い合って悦に入っている。彼らは知恵者ではない。何のためにそのような知識を持つ必要があるのか尋ねられたらだれも答えられないんだ。
O でも、人間っていろいろなことを知ること自体が楽しいのではないのかな。楽しんではいけないの。
S 楽しむのは・・・まあほほえましいね。だが、自分に対して嘘をつくことはいけない。彼らは自分を知恵者だと思い込んでいる。その誤りを正してやらなければならない。
O 知恵者でなければいけないの。
S 真の知恵者は善を目指すことで。・・・それは自分に嘘をつかないことが必要なんだ。
O 善、善って、君もしつこいね。
S いつもそうして私は嫌われる。しかし、私はどうしてもよく生きること、つまりいつも善に照らして生きるということだけど、これだけを何よりも大切にして生きるということを言っているだけなんだ。そして大事なことは、それを私一人で考えていてはいけない、どうしても他人と問答し、彼らにもそのように考えさせよ、とダイモンが要求するのだ。
O そんな生き方をしていると、君はどこにも居場所がなくなってしまうよ。
S だから妻にも嫌がられるし、まあそうなってもしようがない。ぼくは死ぬことを恐れてはいない。なぜなら死とは何かまったく知らないからだ。それをあたかも知っているかように語る人がいるが、嘘をついているとしか思えない。
O ちょとおかしいよ。死とは何か知らないから死を恐れないというのは。むしろ人は死について痛いとか、地獄とか想像するから恐がるのさ。知らないから想像してしまうのだよ。
S 想像にもとづいて結論づけるのがいけない。知らないことは知らないと言えばいいのだよ。ぼくはまったくいろいろなことを知らないよ。肝心なことは知らないことだらけだ。あの例の知識人は、なんでも知っているようなふりをしているけれど。考えないからそう思ってしまうのだ。
O なんとでも思わせておけばいいのじゃないの。きみも原理主義的だね。
S ぼくは人間の無知を暴いてやりたくてたまらないのだ。
O おせっかい病だね。君のような人間はどこか人里離れたところで一人で生活すればいいのだ。
S そういうわけにはいかない。ぼくはどうしても人と問答しないではいられないのだ。
O やっかいな男だね。


  S:Socrates   O:Ordinary man
 

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『石上私淑言』2

   石上小漫談つづき  →  

 うたをどうして和歌って書くようになったのかというと、わが国には神代から〈うた〉を歌っていたのだけど、四、五世紀ごろからかしら、中国から書物がどんどん入ってきて、その中にはとうぜん詩もあったから、それと区別するために、日本の歌をわざわざ倭歌と書いたんだ。

 昔は、むこうの人らは、日本のことを倭(わ)と呼んでいたかもしれないけれど、われわれは〈やまと〉と呼んでいたから、倭歌って書いて、〈やまとうた〉と読んでいたんだ。忘れてはならないことは、倭歌という表記をするようになってから、やまとうたっていう言葉ができたってことなんだな。

 『万葉集』でも、たいていは歌とのみ書いてあるけど、『古今和歌集』は『古今歌集』って表記したらいいのに、もうその時代は、歌のことをなんとなく〈やまとうた〉って言う方がかっこいいと思うようになってしまっていたんだね。序文でも「それやまとうたは人の心をたねとして・・・」なんて紀貫之が書いているね、本当は「それうたは・・・」って書くべきなのにねえ。それにしても外国語が入ってくると、言葉って早く変わるものだね。現代でも、50年前はたんに流行歌と言っていたのが、今はわざわざJをつけてJポップって言うね。そのほうがカッコいいと思うのと同じだね。

 ところで、倭の字がいつのまにか和になったのはどうしてかって? どうもそれがはっきりしないんだな。いろいろ文献にあたって考えてみるに、おそらく孝謙天皇の御時、天平勝宝4年(752年…この年はまた大仏開眼供養の年でもあるね)11月~天平宝字2年2月らしいのだ。これは、国号として大倭国(おおやまと)を大和国と表記するよう詔命が出されたらしく、その後に、和歌という表記が一般的になったらしい。もちろんそれまでも、倭と書くべきところを和と書かれている物もあるが、極めて単発的で書き間違いとしか言いようがない。とても大事なことだけど、昔はコトバは音であって、文字は仮字だって感覚がまだ強かったことだ。

 ついでにいえば、日本という国号は、大化の改新で有名な孝徳天皇の御代に始まったんだ。それまではわが国では大八州(おおやしま)、対外的には中国がそう呼んだように倭の字をもちいていたんだね。

 いくら注意しても注意し過ぎることがないのは、たとえば『日本書紀』にこの様に書かれているからといって、はるか昔のことを文字通り(!)捉えてはいけないってこと、つまり『日本書紀』は720年当時のインテリが、その当時の漢文で(その字義で)書いているってことなんだ。

 もちろんそのことは学問には大いに役立ってきたけれど、歌には直接関係がないね。歌は歌うことに、5音7音のリズムで、音を引きのばしたり、抑揚をつけたりして、ふかく物のあはれをうったえることだからね。この歌があることのゆえに、わが国はすぐれた国なのだ。

 この、物のあはれって、中国でも昔は人のこころ素直で感じやすく、『詩経』にも、そのことがうかがえるけれど、早くからやたら頭ばかりが発達して、理屈っぽくなったり、立派な男らしいことがいいという風潮に染まって、物のあはれが消えてしまった。さすが孔子様はそのことがよく解っていて憂いていたよ。

 わが国も、書物が入ってきて以来、中国のようにどんどん悪くなっていって、奈良時代はもう終わっているよ。しかし、ここに歌があった。これによってわが国は救われたのだね。このことはどんなに強調してもしすぎることはない。

 歌には、あの国のような理屈っぽい難しそうなコトバは相応しくない。そのようなコトバが歌に入ると汚くなる。歌は聴いていて美しくなければならない。わが国の人々の心がどうしてなつかしく穏やかで素直なのかというと、そいういう歌の伝統が神代の昔から続いているから、わが国はカミの国って言うのよ。

 いまにして、かの国人は日本人がなぜかくも礼儀正しいか驚いているけれど、それはわが国には二千年もの歌の伝統があったからよ。物のあはれが分かるとは他人の気持ちが分かることでもあるからね。いくら力や制度で人々を規制しようとしても、それは無理な話で、汚い言葉や利己的な行為はいくらでもそのほころびから出てくるものだね。

 もちろん、日本人も外国の書物でかなり汚染されてしまったけれど、歌の伝統によって長く培われた心はなお幾分か残っているようだね。よかったね。

 うたのちから、あなかしこ、あなかしこ



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『石上私淑言』1

『石上私淑言』(いそのかみささめごと)ならぬ石上小漫談

 いったい歌(うた)とは何なの。それは深く感じたとき必然的に出てくる言葉なんだ。ああとかうーんとか、溜息なんかもそうかな。でもそれだけではだめで、どうして溜息が出るのか、聞いてくれる人がなるほどそうなんだと納得して同じように深く感じてくれないといけないよ。

 そのためにはそれを話す時の調子が物を言う。たとえば、人がある驚くべき状況を他人にうまく説明しようとするとき、身ぶり手ぶりのジェスチャーをしますでしょ、話の順序、声の抑揚を工夫しますでしょ。そう、まさに歌の発生はそこにあるの。

 まず、人が深く感じてそれを短い言葉で的確に表そうとすると、ある音を長くしたり、リズムをつけたりする、そのさい5音や7音の一纏まりがなぜか古来日本人には、心にすーっと入って来るの。もちろん4音でも8音でも、音や品詞や意味の続き具合によっては、5音や7音として捉えられるからそれでもいいんだけど。

 いくら物に感じたとしても、ただぶつぶつと独り言をいうように声を出しても、また本を読む時のように淡々と声を出しても、それは歌ではないよ。人に上手く聴いてもらうように、上手くあやをつけて歌わなければならない。そこに〈あはれ〉の深さがあらわれるの。

 前にも言ったけれど、もののあはれって、とにかく物に感じることなの。どんなことでもいいのだけれど、とくに恋しいとか悲しいとかいうときには〈あはれ〉は深いの。これは人間に特有の、第六の感覚みたいなもので、誰にでも備わっているけれど、敏感な人や鈍感な人がいるわねえ。

 たとえば、耳が聞こえない人は、雷が鳴っても恐がらないね、目が見えない人は虎や幽霊が出てきても恐がらないね。同じように物のあはれの場面に遭遇しても、あはれを感じない人は、歌も出てこないわね。

いつから人は歌を歌うようになったかって。それはもう天地が開けたときから、つまりイザナギの命とイザナミの命が「あなにやし・えをとめを」「あなにやし・えをとこを」って、おたがいに唱えあわれたときからって考えられるね。『古今集』の序にもそう書いてあるし、何と言ってもこのお二人の御唱和は、五言二句のよい響きの感嘆だもん。

「あな」っていうのは、甚だ切なるっていう意味で「あなかしこ」「あなたふと」なんていうでしょ。「や」っていうのも感嘆だし、「をとめ」は、妙齢の女性、「をとこ」は若い盛りの青年、最後の「を」は、~よ!ってことで、要するに「何て好い青年!」「何て素敵な女!」って感嘆なさっているのですよ。

ということで、神代の昔から「うた」はあったのだけど、「歌」という文字を「うた」ってコトバにあてがったのは、ずっと後のことだということを忘れないでね。

   

    

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『排蘆小船』

『排蘆小船』(あしわけおぶね)には、20歳代の宣長の新古今和歌集への敬服が正面切って述べられていておもしろい。

 日本人として生まれたからには和歌をつくらないでいては人生もったいないというようなことを主張し、そうして新古今の和歌の数々をいわば神棚に祀るがごとく毎日拝み味わうべきである、しかしあまりに素晴らしいので、決して直接に真似をしてはいけない、と言っている。

 新古今の歌に少しでも近づくには、新古今の作者たちの多くがそうであったように、古今、後撰、拾遺のいわゆる三代集をよく読んで、これらの歌を手本として創るべきである。新古今を直接お手本にしたり、ましてや張り合おうとしてはいけない。

 家定卿もいわく「和歌に師匠なし、旧歌を以て師とす」と述べているではないか。今(江戸時代)和歌は一見盛んで、また和歌の一分枝である連歌、俳諧なども盛んである、しかし平安のあの時代からはずいぶん衰えてきている。また、和歌の師匠たちは○○派だの何だのと家流を誇っているが、ろくなことはない。中でも有名な古今伝授というのは、それこそイワシの頭もなんとやら。

 この伝授というものは、東常縁(とうのつねより)という愚か者が後世を偽るために考え出したもので、秘伝と聞けば有り難がる大先生らがコロッと引っかかったんだな、今でも習い物には笑止千万がつきものですな。

 さて藤原定家がすぐれた歌人であったことは誰もが認める所である。そして、元俊・俊成・家定とすぐれた歌人がこの家からでたことから、一家流がすぐれた歌人を排出するものであると人々は思いこむ。しかし実際はさにあらず。定家は定家であるがゆえに名人、かりに他の家に生まれて修行したとしても名人であったにちがいない。

 しかし人の思い込みは強く、定家の流れを引く二条派が和歌の勢力をもった。それでいっそう歌道は衰えたのだ。このとき(鎌倉後期)政治騒動も相まって、二条派に対して京極派が新風を吹き込んだ。

 この京極派にたいする反発がじつに宣長らしくて面白い。「およそこの道、古今(ここん)を通じてみるに、この二集(玉葉集・風雅集)ほど風体の悪しきはなし。かりそめにも学ぶことなかれ。」宣長にしてみれば、これこそ新古今を直接真似ようとして、なかなかうまく行かず、思い切った角度から新奇さをねらった、じつに姿かたちの悪い、風雅の対極に位置するものであろう。

 これに較べれば、まだ二条派の方が正統なのである。こう語る宣長が、もし明治以降の短歌を、たとえば与謝野晶子の「その子二十(はたち) 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな」を耳にしたら、なんと言うであろう。

 歌を詠むとは、人情すなわち自分の思いを、古の歌人の真似をして詠むのがよい。人の心は時代とともに変わる。現代の複雑な、偽り多い心をそのまま詠もうとしても俗悪なままだ。俗悪な歌は実情ではない。いかに偽りが多くても歌は風雅でなくてはならない。古のたとえば三代集を手本として、自分の心を詠むように心がければ、だんだんといわば歌の姿を得ることができ、それすなわち実情を表すことができるのだ。

 歌は〈うたふ〉ということであって、長くのばしたり抑揚をつけて声に出すってことが大事だ。そういえば、どこかで読んだのだけれど、宣長は夜分一人でよく声を出していたらしい。たぶん古文書(いにしえのふみ)を読んでは、発音や抑揚をあれこれじっさいに声に試して考えていたのであろう。たぶんそうやって『古事記伝』は生まれた。
  


     

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『紫文要領』 2

光源氏の母である桐壺更衣は強い後見のいない人で、源氏を生んでまもなく他界する。非常に聡明な源氏が7歳に達したとき、帝は高麗の人相見に源氏を占わせる。「光源氏は天皇という最高の位にのぼる相の人ですが、しかしそうなると世が乱れ憂いことになりましょう。しかし政治を補佐する立場の人になるかというと、それもちょっと違います。」と言って高麗人は首をかしげる。それゆえ帝は源氏が政争に巻き込まれることを恐れて、源氏を臣下に下した。

 これが非常に重要な伏線である。いったいこの人相見の予言は何を意味しているのか。源氏は出生においても少年時においても順風満々ではない。しかし、源氏は容姿の点でも芸事においても、知力体力あらゆる点で抜群である。あらゆる「良い点に目をつけること」が物のあはれを知ることの本質である。それゆえいずれ源氏を帝にしなければならないが、・・・

 物のあはれの体現者である光源氏は、当然多くの女性に感動し恋をするが、帝の后である藤壺との密通は最大の罪である。しかし、作者はこれを断罪するのではなく物のあはれの究極と見る。そしてこれこそ必要不可欠の事件なのだ。もちろん藤壺も源氏も罪の意識で悩み仏道に救いを求めるかもしれないが、まさにそのことが物のあはれなのだ。仏道ですらも物のあはれの深化の一助にすぎない。

 この密通で生まれた子が長じて冷泉帝になるのだが、この秘密を知っているのは僧都と王命婦だけである。そして藤壺死後、夜の勤めを終えたこの齢七十過ぎの僧都は冷泉帝と二人きりになった時、その秘密を冷泉帝に語る。

 『薄雲』のこの部分に宣長は固執する。何故老僧都はこの期に及んで秘密を冷泉帝に明かさねばならなかったか。そしてそれを知った驚天動地の冷泉帝。彼は何を悩んだのか。

 宣長の解釈によるとこうなる。僧都は語る、「仏のお告げによってこの秘密を語るのです。いつまでも帝がこれをお知りにならないことが、このところの天変地異や世情の騒然を起こすのです。帝としてのあなたが今あるのは親(源氏と藤壺)のおかげです。それなのに、親である源氏を臣下にして仕えさせておけば天は黙っていないでしょう。」

 それを知った冷泉帝は悶々とする、その事実を知らないで父を臣下として仕えさせてきたことが辛くてならない。そして一旦は帝の位を源氏に譲ろうとするが、このときは、源氏はやんわりと拒否する。

 注目すべき点は、天変地異が源氏と藤壺の密通の罪のゆえと一般に解釈されそうだが、そうではなく、冷泉帝が源氏を臣下においていた故だということ。そして、密通を犯した源氏が非難されるようなことは少しもなく、むしろもっとも深い物の哀れとして肯定され、もしこの秘密を冷泉帝が知らずにいたら帝に天罰がおりるだろうとしていることである。

そこから、源氏は帝の父であるゆえに太上天皇の尊号を与えられることになる。ここにおいて、源氏は最高の禁忌を犯し、かつ最高の地位を得ることに成功する。この綱渡り的な矛盾を生きることによって、源氏は最高の物のあはれを発揮し、これによって初めの高麗人の予言は解決された。

『源氏物語』の作品構成。初めに物のあはれというテーマが式部の頭に鳴る。そして作品の中心にこのテーマを凝集させ、末端に、そこからすべての曲折が有機的に絡み合い、見事な長編小説に仕上げている。式部の手腕おどろくべしと宣長は激賞する。



   

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『紫文要領』1

 今では誰もが〈物のあはれ〉と聞けば『源氏物語』を連想する。そしてこの物語が〈物のあはれ〉を表すために書かれたと最初にはっきり言い切ったのは本居宣長である、ということも多くの人が知るところである。

 この『紫文要領』は宣長の『源氏物語』というか紫式部信仰告白の書であって、これを読む人は、〈物のあはれ〉という判断基準で、快刀乱麻を断つごとく、あらゆる旧来の源氏解釈をばっさばっと切っていく若き宣長の一本気に気圧されるのではなかろうか。

 今では物のあはれという言葉はあまりにも有名になり過ぎたが、この『紫文要領』を読んで思うに、物のあはれは簡単に言えば感動するということであって、さらに言えばその感動する心がいちいちの情況に応じて的確な方向性をもって現れてくる運動のことであり、そしてその運動の軌跡が美しいのだ。

 宣長が言うのは自然の風物のみならず人事のことにおいても、何に接しても心が動く、そしてそれからなかなか離れがたいのが、物のあはれを知ることであり、したがって恋をすることももちろんそうであるし、不倫の恋をすることもさらにいっそうあはれは深いのであって、それを不道徳だの何だのと批判するのは物のあはれを知らない人だ。また他人の悲しみや難儀を見て何も思わぬ人、他人をけなしたり強く咎める人、自説をかたくなに主張する人、知ったかぶりをする人なども物のあはれを知らない人だ云々。

 物のあはれを知る心は、ものをより好いように見ようとする、好い面を見ようとする。姿かたち、ふとした表情、立ち居振る舞いの美しさに鋭敏であり、いろいろな能力、地位といったものまで、素直に肯定的に見る。

 しかし宣長のこの本のなかで小生が一番面白いと思った点は、紫式部は『源氏物語』という長編小説を非常に意識的に計算して創ったという点である。〈物のあはれ〉をどのようにすればもっとも効果的に表現できるかを事前にしっかり考え、全体の構成にとりかかった、ということを示している点である。

 物のあはれという言葉で表現されるたぐいの心の動きがある。それを物語の個々の場面で登場人物の言葉や態度のうちに、上手く配置して表さねばならないが、さまざまな登場人物に一様にばらまくことから始めるとその効果は薄いし、かえって作り物めいて見える。むしろ一人の主人公を圧倒的な物のあはれの体現として、そこからすべては流れだし、末梢の個々の部分でそれが反映するように考える。

まず主人公をもっとも優れた好い点を備えた人物にすること。主人公にもっとも優れた地位を、最高の栄誉を与えること、つまりは主人公その人を最終的に天皇の位に着かせなければならない。 

次にその主人公にもっとも深い物のあはれを経験させなければならない。もっとも深い物のあはれとは何か。それは、もっとも困難な恋を経験させることである。もっとも困難な経験とは何か。それは禁断の恋、最高の禁忌、すなわち臣下の者が后と恋に陥り密通するという大罪、これを犯すようにしなければならない。

最高位と最大罪という矛盾を、主人公一身に背負わせ、解決しなければならない。そのためにはどのように筋を組み立てていかねばならないか。



       

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『嘔吐』

 ずっと昔読んだ本で、その後ほとんど忘れているのだが、しかしこころのどこかに残っていて、つまり何か気になっていて、ときどきふっと思い出しては、死ぬまでにもう一度読んでみたいと思う本がいくつかある。サルトルの『嘔吐』もそのひとつであって、ふとしたタイミングで、この本を読み返すことができた。

 やっぱり同じだ。昔読んだ時と少しも変わらない。掴みどころがない。しかし独特の不思議な印象を残す作品だ。しかし、このまま放っておくのも気持ちが悪い。ここでなんとかケリをつけてしまわなかったら、また気になっていつか読み返したいと思ってしまいそうだ。が、それは御免こうむりたい。

 どう言えばいいんだろう。とても詩的で、とても反逆的で、シニックで、ニヒリスティックで、ペシミスティックで、ときに鋭い独りよがりの独白。要するにめちゃくちゃだ。せいぜいよく言って、『地下室の手記』の二十世紀的亜流だ。だから、とても要約する気になれないし、どこといって引用する気にもなれないし、さらには批判する気にもならない。

 しかし…やはり、だからと言って、ここで放りっぱなしにはしたくない…この手記を残した半狂気の…存在恐怖症とでもいうべきロカンタンが、この二十一世紀に亡霊のよう現れる・・・

 そもそも、文字を書くということは恥をかくということであったはずだが、この今の時代、誰もかれもが、文字を書いてはそれを即座に他人に見せる、それも複数の他人の目にさらす、こんな芸当ができるのは、デジタル機器のおかげである。

 そのために、だれも文字で語ることにたいして羞恥を感じなくなっている。昔は女性が膝を見せたり、男性がそれを見ることに羞恥を感じたが、われわれはすっかり鈍感になって、よほどの露出に出くわさなければ心を動かさない。

 他人の目に書いたものをさらすことの恥ずかしさを失った者の心情やら煽情的報告やらたわいない論争、ちょっとした思いつきのごみ捨て場。中には、大舞台で見えを切っている気分でいる者を見るにつけ笑止千万を通り越して悲しい。

 「彼らはみなお人よしだ、なぜというに自分に満足しきっているからさ。」19世紀の小説家はそう書いた。ほんとうは、いやほんとうはなどという言葉は慎もう。われわれはとても弱いものだ。

いつも思う。あの大震災で、家々が流され、一つの村があっという間に大波に呑まれた、あの映像を見た時の、われわれの無力感。私は〈あの感覚〉に固執する。人はすぐ忘れる。「あの時の対応を反省しよう」とか「がんばろう東北」などというスローガンが、貴重な〈あの感覚〉を台無しにしてしまう。人は忘れるのではない。忘れたいのだ。

あらゆる反省、あらゆるスローガンは、一生懸命前を向いて走っている。前を向いて走っているつもりだ。なんのことはない、去年と同じ場所で同じことを言っているにすぎない。去年と、10年前と、100年前と同じことを。

相も変わらず人間の諸権利などという。中でも比較的新しい知る権利というのがもっとも滑稽だ。会社の部長がどこの大学出だとか、隣の娘が出戻りだとか、あるいは、政府の密約とか・・・。知る? すべて同じことだ。私は何も知りたくはない。

何だって? 政治はわれわれの生活に影響を与えるから、政府の密約は知らなくてはならないって。よろしい、それを言うなら、エネルギーや食のほとんどを輸入しているわが同胞。世界中の密約を知らなければならない。「グッド・ラック」

いっぽうで知る権利を言っておきながら、個人情報保護を言う。これを判り易く言えば、人は自分の知りたいことは知りたい、知られたくないことは知られたくない、ということだ。複数の人間がそう念じながら戦っているこの風景。おお神よ、憐れみたまえ。

そうして人は歳をかさねる。思い出がだんだんと多くなる。人は思い出す、昨日会ったあの女はいいお尻をしていたなぁ、あの湖畔で彼に抱かれたのはちょうど一年前のことだったわ。あの時はよく頑張って山登りをしたものだ。しかし、若い人が思い出づくりをしなきゃ、というのを聞いてびっくする。人生に先回りができると思っているのか。

それなら、思い出づくりをしようと考えていることも、思い出してしまうではないか。そりゃ台無しにならないか。そうではないらしい。うまいこと、いいとこ採りで思い出せるのだ。ということは、記憶は取捨選択をして創られるということだ。じつにそのようで、思い出とはつねに現在における創作である。人はつねに現在を生きる、創作をしながら。言葉を換えれば、夢を見ながら。それが上手いか下手か。

歩いている人を見て、彼はいま夢を見ていると思う。みな夢遊病者だ。彼らも彼女たちも、そしてあなたも。夢の中で動いている。上手いか下手か。でも実生活がるというが、それは夢だ。それなのに、さらに人は夢を見ようとしている。

たとえば、人は美術館に足を運ぶ。音楽を聴く。ひとは、芸術作品に何らかの意味を見出そうとする。何の意味を見いだせない自分を情けなく思う。バカバカしいことだ。そもそも絵画にも音楽にも意味などというものはない。意味が解るという人は、とんでもない勘違いをしているお目出たき人だ。

だから内心じくじたる思いをしている人は、あまりにも閉鎖的であり、そのため正直でない。芸術作品にはだまって向き合えばよいのだ。そこには、何の意味もない、色の塊やら音の交錯があるではないか。

自然も同じだ。なんの意味もない。動物も植物も。だから〈それ〉であり〈これ〉でしかない。この世のあらゆる事物は・・・。事物というのは、なにかわれわれの認識の限界を指す言葉のようだ。おっと人間も。何の意味もなく、この世に突然放り出されたのである、だれでも。そして自分でさえも。ただ、自分だけには〈そう考えている意識〉がある。だから、〈この考える〉が自分だ、と17世紀の有名な哲学者は言った。

しかし、この意識は、私がうっとおしく感じている諸〈存在〉からは、余計なものである。この余計者の意識は、なぜか、わたしが食べたり、寝たり、歩いたり、場合によっては、仕事をしたりする間も、余計者として在る。いわば〈非在の存在〉だ。このどうしようもない情況、これはときに苦しみになる。

 目の前に春の空が広がっている。うっすらと霞がかっているところもある。目を凝らしていると、小さく見える飛行機がゆっくりと動いている。あの小さな箱の中に百人の人が乗っているに違いない、そしてその中の幾人かは、ちょうど今こちらを眺めているのだろうと考えた。

飛行機の垂直尾翼と思われるあたりに、一瞬、太陽が反射して光った。そのとき、自分が〈余計者である存在〉であることを反芻していた私の心に、稲妻のように悲しみが走った。・・・

あるいはまたこう書いてもいい。

夕闇が落ちた。川の両岸にちらほらと灯りがともる。川面はまだわずかに残っている空の明かりを憂鬱そうに映している。なま暖かい風がかすかに頬をなでた。その感覚が私を、自分が世界のそして歴史の外にいると感じさせた。

あの黒々とした川縁の茂み。向こう岸の公園の木々の塊。その〈存在〉は溶けて広がり、私は吐き気を催す。私は倒れるまいとして、それらから目をそらす。いつしか私は早足で明るい街のほうに向かって歩いていた。

うす暗い蛍光灯に照らされた古い婦人洋装店の前を通りかかった。人はだれもいなかった。何着かの地味な色の服がつりさげられているのが見えた。あれも〈存在〉なのだ。しかし、その存在は、なにか〈非在〉ともいうべきものとの関係において、存在であるように感じた。そのときである、突然胸をえぐるような悲しみが走ったのは。

        *

こんな意識は、いつでもどこでもある。仰々しく存在恐怖症というまでもない。ごく日常的な意識だ。ただ、それを言葉にしようと思うと、じつに大変な作業だ。えんえんと繰り返されるシジフォスの石積みのように、ついには徒労に終わる、それこそ何の意味もない。結論がでた。

     

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『背教者ユリアヌス』

辻邦生著『背教者ユリアヌス』を読んだ。あまりに期待し過ぎていたせいか、ちょっと期待外れであった。というより、小生が勝手に描いていた伝記小説とはだいぶん趣が違っていた。

この小説、というより物語と言いたいが、これは何よりも文体に特色があって、読んでいる途中で、ふっと、作者はホメロスを目指していると感じた。それは、言い回しだけではなく、主人公のローマ皇帝をして古代ギリシャへの憧憬の権化と描いているからだ。

彼は生まれつき詩人の魂をもち、人間と自然に対して鋭敏な感性の人であり、いつしか古典文学や哲学に傾倒していった。そんな彼が、不幸にして皇帝になるべき血筋の人であったのだ。

彼が生まれた4世紀のローマ宮廷は、コンスタンティヌス大帝亡きあと、百鬼夜行の巷であり、疑心暗鬼から肉親相殺し合うといった状況であった。ユリアヌス自身も幼いころから、隔離されていて、自分もいつか殺されるという不安を生きていた。

ちょうど鎌倉三代将軍、源実朝とよく似ている。実朝も生まれながらの詩人であり、まったく非政治的な、生まれたばかりの小鳥のような純粋な魂が、自分もまた殺される運命にあると知りつつ、将軍にならされざるをえなかった人であった。『金塊和歌集』に散りばめられた美は、それを読む人から見れば、いわば実存的な悲しみにあふれている。

よく似た星の下に生まれたユリアヌスは、しかしリアリスティックに生きなければならないことに気付く。それはローマ皇帝として戦うべき敵が眼前にあったからだ。一つはローマを脅かすガリア周辺の部族と東方のペルシャである。これに対しては、どうしても武力を必要とする。

ユリアヌスは言う、「ローマの寛容とは、ただ敵や異民族を放置して、その無制限な横暴を見て見ぬふりをすることではない。もしこの寛容の背後に寛容をもたらした精神の火が燃えていないのなら、それは無責任の傍観にも等しい。」

もう一つの敵は、キリスト教である。コンスタンティヌス大帝のキリスト教公認以来、ローマの権力中枢にキリスト教の手垢が付き始めていた。ユリアヌスは、彼らの非寛容、出世欲、冷血、欺瞞の渦巻く空気の中で育った。彼はどうしてもキリスト教徒が好きになれなかった。

「私に言わせれば、ガリラヤの連中の愛しているのは神じゃない、自分なのだ、自分だけなのだ。自分が救われたいのだ。自分が救われれば、ローマなどはどうでもいいのだ。ローマの秩序も制度も道路も水道も・・・」

ユリアヌスは、その反動として、いにしえのローマの神々の世界を、自然そのものが神の息吹であるような世界への信仰を深める。作者辻邦生は、何度も何度も、それを叙事詩として描いている。

辻邦生は、この作品において、主人公をとおして、人間を信じようとしている。それはどういうことかというと、人間を好いものだと見ようと意思している。それはまたどういうことかというと、人間は教義以上のものだということである。

世には、真実在だの、善いことだの、人生の奥義だのについて言われた、あるいは書かれたものが数多あるであろう。しかし、人間は、それ以上の者である、と作者は言っているように見える。

この本には、自然の描写がやたらに多い。繰り返し言葉を換えて、例えば、コンスタンティノーブル(いまのイスタンブール)の王宮から見える景色、北風の香、その暖かさや冷たさ、眼下のボスポラス海峡のさざ波や逆巻く波、木々や雲の変化など。これらは、みな神々の恵みなのだ。そして人間も。古のローマの神々の恵みなのだ。

ユリアヌスのリアリズムは、ローマという理念があってこそなのである。


  

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『ガリア戦記』

シーザーはローマ皇帝のarchetypeだ、とある先生が言っていたが、その意味が、『ガリア戦記』を読んでわかった。つまり、統治者としてもっていなければならない大衆からの人気、絶え間なく生じてくる諸問題や絶えざる変化に対する冷静沈着な態度、しかしこうと決めたら素早い行動、寛容と残酷とのケースバイケースの使い分け、兵士の心をつかむ話術、誠実さ、嘘をつくときでさえ誠実であるこの男は。絶えず戦略を練り直し、反省はしても否定はしない。休息とは無縁の精力的な生涯。

 
 シーザーが、ガリア総督に任命され、同地へ出発したのは紀元前58年。以後9年間のガリア遠征の内容を記したのがこの本。誰が言ったか忘れたが、戦争とは芸術であると。このシーザーによって書かれた本は、まさにそのことを証明している。目的―理念の保持、そのために労した巧みな戦術、長期にわたるその力の配分。同時代人のキケロは、この書を評して曰く「率直で優雅で余計な装飾がない」と。

 当時のガリアは、主に今のフランスを中心として、スイス、ドイツ南西部、ベルギー、イギリスの一部辺りで、多くの部族が割拠していた。

シーザーが当地へ赴任したころ、一部族の傭兵としてガリアに来ていたゲルマニア兵が、その本拠地であるライン川以東に帰らずここに居座ったことから、スイス辺りに住んでいたヘルウェティイ族が、西の平地を目指して移住を始めた。

このとき生じた部族間の紛争を、シーザーは、ローマの軍事介入の絶好の機会と捉えた。策謀をたくらむ族とゲルマニア軍の排除を目的として進撃。ここから8年にわたりシーザーはヨーロッパ中を駆け巡る。

あらゆる謀略、恩賞や名誉心に訴える巧みな演説、考える暇を与えぬ素早い行動命令、沼地で戦う披露困憊した兵士らの息遣い、読んでいてふと『平家物語』を思い出した。

かの物語は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常と響くなり・・・」という仏教臭芬芬たる始まりではあるが、この物語の本命は、眼前に見えるような生き生きとした戦いや駆け引きである。この世は無常。そんなことは分かり切ったことだ。それよりも、戦いの生き生きとした姿を見よ、そう言っているようにも見える。

そういうことを考えると、また思い出すのは能『邯鄲』だ。若い主人公盧生は、この世の一大事を訪ねばやと旅に出る。途中で休憩した宿でうとうとする。そして自分が王様になって栄耀栄華を過ごすこと50年。ところがそれは、粟飯の一炊の夢であった。盧生は、人生とは一瞬の夢に過ぎぬと悟ったのだった。

しかし、それにしても、どう考えても、この能でもっとも輝かしい部分は、夢の中での主人公の王となった時の欣喜雀躍の舞である。作者は世阿弥だか誰だか知らないが、この作品を輝かしめているところは、この世の世俗的な栄達である、というよりも喜びである、と感じないではおれない。

         *

シーザーは、ガリア人やゲルマニア人の生活習慣の報告もしていて、ガリア人は、少なくとも小生が思い描いていたような野蛮人では必ずしもなく、階級によってはギリシャ語で文書を書くし、商人のもたらす日用品も使用している、ゲルマニア人は、戦闘能力を衰えさせる農耕を嫌い、遊牧民のような生活をしている、云々。

われわれは、ついつい自分の生活圏を絶対的・普遍的なものと見がちだが、例えば、違う国に育った人たちはどう感じているんだろう、とか、あるいは、違う時代に、たとえば戦争時代に生きていたらどう感じていたんだろうとか、想像することがじつに難しいものだ。自分の生活圏から生じた感覚以外の感覚を間違ったものだと言ってしまうことがなんと多いことか。

有名無実となりかかっていた共和政時代にデビューしたシーザーは、ルビコン川を渡るチャンスを逃さなかった(賽は投げられた!)ついに最高権力を手に入れる。そして、彼を嫉む人たちの手にかかって死ぬ、「ブルータス、お前もか!」。まあ、こう言わせなければ劇にはならぬ。そして彼の甥オクタヴィアヌスが帝国時代の幕開けとなる。

しかし、以後いかなる皇帝もシーザーのような理想的な権力者になり得なかったようだ。シーザーは、ローマ皇帝のarchetypeであって、prototypeではない。


 

  

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古事記神話

西條勉著『古事記神話の謎を解く』を読んで

 文化人類学者によると、世界の神話には、いろいろの類型があるという。そして、古事記のなかの様々な話は何何型の話型だと。
 
 たとえば、スサノヲが八俣の大蛇をやっつけてクシナダ姫とむすばれる。これは、ペルセウスがアンドロメダを食わんとするネプチューンをやっつけるギリシャ神話を彷彿とさせる、これ怪物退治譚。

 アマテラスが岩屋戸に隠れたり、山幸彦が竜宮に行ったりするのは、異郷訪問譚。イザナキが禁止された死体を覗いたり(オルペウス譚)、山幸彦が豊玉姫の出産を覗いてしまうのは、禁室型譚。オホナムチが死んでも再生するのは通過儀礼で、スサノヲから娘を奪うのは難題婿型。

 まあ、他にもいろいろあるのだろうが、昔からずーっと話されていた原初的な挿話(浦島太郎の話もそうであろう)を、巧みに利用して面白い物語にしたのが『古事記』であって、その意図は、新しく誕生した日本という国にふさわしい神話を創りだすことだった、というのが本書である。

 それだから、『古事記』は、奈良時代の初め発表された当時、フルキコトノフミではなく、最新編纂物語であった。これが書かれて〈日本語〉が始まった、それ以前の言葉は〈やまとことば〉であった。〈やまとことば〉で話されていた話を一部は利用し、一部は新しく創作して、〈書き言葉〉で物語として定着させたことは画期的だ。

 著者は、『古事記』はストーリーのためのストーリーであって、本来の神話としては、合理的でいわば出来過ぎている、そこに一貫してつらぬかれている思想は、中国の王権思想だ、と語る。

 それは、天子受命の思想であって、つまり天は有徳者を統治者とする、儒教思想である。しかし中国とは違って、それを起源化し神話化した、つまり固定したんですな、万世一系として。

 ついでにいえば、著者は、イザナキ・イザナミの国生みの初めに、先に声をかけたのがイザナミであったから失敗したという話には、儒教の影響がある、という。この説には小生うーんとうなってしまった。まあ、狩猟採集の時代には男が優位であったのはないのか、と呟いたけれど。

 で、ともかく、細かい話はめんどうで書かないけれど、もともとヤマト神話の空間は、水平的であったが、この創られた〈日本神話〉においては、垂直型になったという。

例えば、葦原の中つ国は、もともと葦原水穂国あるいは瑞穂国、つまり稲作によい湿原地だったのが、天界と地下界との中間、つまりこの地上世界のイメージで置き換えられた。また、黄泉の国が、山の方から地下世界に、理想郷である海の彼方は天界にされた。要するに、水平表象が垂直表象にイメージの転換が行われた、という。

なぜそうしたか。それは先ほど言った天子受命、つまり最高神から天皇が続いていることを創り上げるためである。万世一系というシステムは日本独特らしい。日本が皇統を続けてこられたのは、王権の起源がはっきりと述べられているからであるという。だから、『古事記』の核心部分は、天孫降臨神話である。

さて、そうだとして、これをどうとらえるか。肯定的に捉えるのと、否定的に捉えるのとは、まるで意味がちがってくる。否定的にとらえれば、戦後しばらく風靡した説、権力者が自己正当化のために創った薄っぺらい隠喩物語と切って捨てるということになる。

まあ、いまどきそんなことを言う人はいないだろう。少なくとも『古事記』の表記法が示す如く、当時の人々がいかに国語というもについて、その危機について、今のわれわれが考え及ばぬほど深い問題意識をもって書かれたか如実である。

そして、後世のわれわれは、あの面白い物語―御先祖たちが国家の急務で創らねばならなかったあの面白い物語に、乗るか乗らないかが、問われていると強く感じた。





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『吉田兼好とは…』

大野芳著『吉田兼好とは誰だったのか』を読んだ。

 『徒然草』の一文も読んだことがないという人も少ないに違いない。学校の教科書なんかに出てくるし、「つれづれなるままに・・・」なんて文句も人口に膾炙しているし。しかし全文に目を通した人も少ないに違いない。いや半分は読んだという人も小生は知らない。

 かくいう小生も、つれづれなるままにちょいちょいとつまみ食いをしたことぐらいしか思い出せない。いつかちゃんと読もうと漠然と思いつつ何年も経ってしまった。兼好さんに言わせると、そうやって歳を取り、気が付いたら何もせずに一生を過してしまうよ、ということになろう。

 『徒然草』すらちゃんと読んでないのに、どうしてこの本を読んだかというと、著者にもらったからで、もらった以上読まねばなるまい。ちょっと暇をついて読んでみようと軽く考えていたら、参った。何と言っても、小生には背景知識が不足している。それで、時代が前後したり、当時の幕府やら御家人やら公家らの名前が大勢出てくるので、とにかく、年表と人物表を傍らにおいておかないと、解らなくなる。

 それでも、読み進むうちに、なるほど兼好さんは、こういう生まれであり、こういう時代に生きて、こういう人とかくかくの関係があり、こういう人に仕え、それでこのような文章を書き散らしていたのであり、そののち正徹さんとかいう人が、まとめて製本したんだな、ということが解った。

 この書は、林瑞栄という人の『兼好発掘』という本が、学界から叩かれ、埋もれていたところを、著者が読み、共感した所から始まる。細かい内容は述べないが、兼好がものを書き始めたのは、彼が仕えていた堀川家の御曹司のいわば教育のためであった。

 これを読んでパッと目が開かれた人も多いのではないかと思う。小生は、『徒然草』が『神皇正統記』とほぼ同時代に書かれたことに感動する、つまりあの時代の日本の文化の層の厚さってことに。

 そしてあの後醍醐天皇前後の動乱を、吉田兼好は彼一流の諦念とリアリズムをもって生きた証ではないのかな『徒然草』は、なんて想像する。そうするとどうしても西行を連想してしまう。すると小生は兼好の和歌集が読みたくてたまらなくなった。さっそくアマゾンで『兼好法師家集』を注文した。

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メソポタミア粘土板2

 東北大震災のとき津波が街々を襲っている映像を思い出して、想像してもらいたい。もし、あれが紀元前5000年に起こっていたら、その時われわれはどう感じ、その後どう語ったであろうか、と。もちろん、文字はない。ましてや写真やカメラもない。大洪水が目に焼き付いて、そのときの恐怖と絶望感が深く心にのこるだろう。そして百年経ち、二百年経ち、千年経ちするうちに、われわれは物語するであろう、例えば、地底に眠る巨大龍が、時々は根返りして大地を揺らすが、この度は目を覚まして大暴れ、そして海のはるか向こうから大波を立ててやってきて、木々を倒し、人々を喰らい、辺り一面を壊滅させてしまった・・・、などという神話を生むであろう。

 聖書のノアの箱舟の物語とあまりにも似ているメソポタミア粘土板の物語から、あの地域の太古の人々に共通の核となる出来ごとがあったのではないか、という話があった。つまり忘れられない大洪水の記憶が人々の心ふかくに続いていたのではないか。

 聞くところによると、一つの仮説として、黒海に起こった大洪水。1990年代に行われた黒海の調査によると、近くの海底には古い海岸線の跡があった。海底には古代の家の柱と思われる人工物が散乱していた。そして海底の泥は二層あって、深い方の泥に含まれていた貝殻を調べてみると、この貝は淡水でしか生息しない貝であった。

このことから、大昔おそらく紀元前6000年ころまでは、黒海は淡水の湖だった。そして、その前から続いていた地球温暖化によって海面上昇がおこり、ついに今のイスタンブール辺りで決壊が起こり、地中海の海水が、どっと黒海に流れ込んで、黒海を広げると同時に多くの集落を根こそぎ流してしまった。もちろんボスポラス海峡もその時できた。その水量たるや、一日に何万トンか知らないが、それが何日も続いた。

このときの洪水が、恐怖で怯えた古代人の口から口へ、世代から世代へと、伝承されていった。千年経ち二千年経ちして、文字を発明した人たちは、物語にその大きな記憶を書き留めた。

もう一つの仮説として、大洪水はメソポタミア地域のチグリス川、ユーフラテス川によく起こっていて、大洪水と思われる地層の跡があるとのことであるから、こちらの大洪水の記憶が物語の起源かもしれない。

旧約のノアの箱舟の着地点であるアララト山が今のそれであれば、こちらの川説が有力かとも思うが、かのアララト山が本当にこれかどうか…

それで、思い出される話がわが国にもある。それは『出雲風土記』の中の〈国引き神話〉だ。ネットでも読めるから、是非読んでもらいたいな。これは実に美しい文章だ、もし小生が有名な先生だったら、「声に出して読みたい日本語」のベストスリーにあげるな。

 これは要するに、出雲の神である八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、初めに創った出雲の国が小さすぎたので、もっと大きくしたい、それで、朝鮮半島の一部や、隠岐の島、能登半島の一部を切り取って、ロープに結んで、えんこら引っ張って、元の地にひっ付けた、そのときに宍道湖(しんじこ)や中海ができた。

この話は、今から8000年前~6000年前に起こった温暖化による海面上昇(縄文海進)ののち、4500年前くらいのとき、寒冷化によって海面低下が起こり、島根半島ができた。この出来事が比較的早く進行したのだろうか、人々の心に残り、何千年と口移しで伝えられて、このような神話を生んだとも言われている。

今後、地質学的調査が進んでいろいろなことが判ってくるだろう。けれど、小生思うに、一番重要なことは、神話や伝説の背後にどのような驚くべき事実があったかではなく、その地域の人たちが、大災害のような圧倒的な出来事に直面して、いかなる経験をしたか、言葉を換えて言えば、いかなる物語を生みだしてきたかが、重要であり、また面白いことだと思う。



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メソポタミア粘土板1

 大英博物館のディレクターであるMac Gregor氏の手になる『A History of the world』を読んだ。これは大英博物館の収蔵品から百個選んで、それぞれにまつわる話が書かれている。その中の一つ、メソポタミア粘土板についての部分、ほんの5ページを占めるにすぎないが、なかなか面白かったので紹介しよう。

 関心のある方は、すでに御承知だと思う。この粘土板は、いまのイラク北部にあった、古代都市ニネヴから出土したもので、紀元前7世紀ごろつくられたそうだ。大きさは約15 cm四方の大きく割れた一断片で、隅は欠けている。同じような大小の粘土板断片が、大英博物館にはおよそ十三万個あるというから、驚きだ。もちろん、ただの粘土板と思ってはいけない、紙もパピルスもなかったこの地においては、粘土板は書きしるすためのノートである。書かれている文字は、例の楔形文字である。
 
 1870年ころ大英博物館の近くに印刷会社があった。そこで見習い士として働いていたジョージ・スミス君は、ランチタイムになると決まって博物館に足を運んでいたんだ。そこで古代メソポタミア粘土板に出会った。そしてなぜかこれに魅惑され、彼は楔形文字を勉強し読めるようになった。これぞ運命の出会いと言うべきだな。

 ある日、かれはこの小さな板片を読んで、はっと息をのむ。ここに書かれているのは、あの〈ノアの箱舟の話〉ではないか。なんでこの話が、大昔のメソポタミアの地に! 茫然自失の後、彼は狂喜のあまり服を脱ぎ捨てて叫んだ、「僕こそ、忘れられた2000年の後にこれを読んだ最初の人間だ!」

 彼の発見が世界に与えた衝撃はいかなるものか。当時のヨーロッパの情況を想像するに、18世紀の啓蒙主義を通り抜け、フランス革命も産業革命も遠い昔、いまや近代理性の時代であって、「神は死んだ」とさえ口走る哲学者が出た時だ。とはいうものの、人間の起源に関しては、一般の頭の中を占めていたものはまだ聖書
の教えだったんだな。

 1859年、ダーウインが『種の起源』を発表したとき、笑いと怒りとが渦巻いた。「えー?人間が猿から分化してきたんだって!笑っちゃうじゃないか。聖書にはちゃんと書いてあるぜ〈人間は神によって創られた〉って」。『聖書』を啓示の書として文字通り信じる立場の人にとって、進化論は悪魔的空想であったろう。しかし理性の進行はとどめようもなかった。

 そのような時である、スミス君の発見が世に出たのは。『聖書』(旧約)が書かれたのより400年も前にすでにメソポタミア粘土板に、非常によく似た大洪水と箱船の話が書かれていたとは、驚くじゃないか。

 で、この事実は何を意味するのか。『聖書』原理主義者の一部の人は、「どうだ。この発見で聖書の正しさが証明された」と喜ぶ、しかし多くの人は、それはすべてただの伝説―大洪水を基とした作り話じゃないのか、と考えた。しかし、同じ中東とはいえ、かなり離れたところに、同じ話が、しかも400年の時を隔てて書かれたということは、それらが共通の記憶となる、核となる事実がもともと遥か昔にあった、そしてそれが口承で、あるいは書かれたものとして伝わっていったか。

 ところで、スミス君の発見した粘土板に書かれている物語は、じつは、『ギルガメシュ叙事詩』っていう、ドラゴンクエストかスターウオーズみたいな(よく知らないけれど)、ある英雄が理想郷をもとめて様々な困難を乗り越えてゆく物語の一部(第7章)だということがのちに判ったのだ。

 つまりこういうことにならないか。大洪水と箱船の伝説が、太古の昔からあの中東辺りにあった。アッシリアの(メソポタミアの)人々は、自分たちの英雄冒険物語の中に、その伝説を組み込んだ。いっぽう、苦悩を愛するユダヤ人たちが、自分たちの物語を作るにおいて、洪水伝説をあのように、つまり『旧約』的神の罰として組み込んだ。それは大いにありそうだ、『日本書紀』を読んでいても、あちこちの話を時代に関係なしに、引用しているのが明らかだし、『古事記』もきっと太古の話を、稗田阿礼の記憶で、とは言っても記憶とは創られるものだから、組み合わせているのだろうな。

 それで、この著者MacGregor氏が強調していることは、人類初の叙事詩『ギルガメシュ叙事詩』が書かれたということは、人間の歴史においてのターニングポイントとなる、ということなんだ。

 つまり紀元前3000年以前、中東で文字が発明されたが、それは初めは賃金支払いだの租税だのの記録として、実用のためだった。しかし紀元前2000年頃からこのような英雄叙事詩が、つまり英雄の希望や恐れなどが洗練された形で、書きとめられ始め、それがその地域の人々に共有され、さらに他地域の言語に翻訳され広がっていった。それはホメロスやアラビアンナイトに通じる〈文学〉の誕生であった。事実を記録する手段としての書き言葉が、観念の世界を探求する手段となった、と。


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『福翁自伝』

 久しぶりに面白い本を読んだ。この本を一言で要約することができる。それは、〈自分はこんな風な男で、こんな風に生きてきた〉となる。と言うと、「そんなの要約になってないし、すべての自伝はそういうものではないか」と言われること請け合いではあるが、なるほどそんな要約は何の意味もない、理屈としては。

 しかし、それは理屈ではないのであって、内容がどうこうというより、自分はこんなふうな人間だと静かに語る福沢諭吉の、しかし結果として時代に対して灼熱の思いが一個の作品からほとばしり出ている。それにつけ思いだされるのは、デカルトの『方法序説』であって、この序説は何よりも〈自分はこのように考えた〉という叫びであり、小生の耳にはまだその叫びがありありと残っている。

 〈自分はこんな風に生きてきた〉というのは、誰でも言うことができる。しかし、諭吉のその言には気負ったところが少しもない。ただ自分の気質に従って素直に、また時々の状況に応じて工夫を凝らして生きてきたら、こうなってしまった、と淡々と述べられていて、優越感や劣等感のかけらもない。

 じつに人は、生まれもった性質と子供時代の環境とからなるものだと感じる。生まれながらに身分が決まっていた江戸時代、諭吉の父は漢学をよくするも不本意ながら小役人に甘んじねばならなかった。末っ子であった諭吉には何とか出世しえる道として僧侶にしようとしたらしい、諭吉は父のその深い愛情を思っては、封建の門閥制度に対する激しい憤りを感じた。そして、自分はどうにかしてそんながんじがらめの世間を離れたいと思っていた。

 母はまた、人の上下をあまり意識することなく、誰とでも付き合えた人であった。中津の町に気ちがいの乞食女がいた。汚くて臭くて、着物はボロボロで、ボウボウの髪の毛にはシラミがいっぱい湧いていた。その女を母は、しばしば自宅の庭に座らせ、シラミを取る、そしてそれを石で潰す仕事を嫌がる諭吉にさせる、そしてシラミを取らせてくれた褒美に、その女にご飯をやる。そのような人であった。

 諭吉は子供のころから、神様や仏様がエライとも恐いとも感じたことがなかった。村人が崇める神社の中の石を取り出し、他の石を入れておいた。お祭りにその神社に神酒をあげて拝んでいる、彼はそれがおかしくてしようがない、「ばかな奴らだ」。それで、べつに神罰が当たるわけではなし、祟りがあるわけではなし。
 
 ちょうどペリーが来た頃、彼は長崎に行った。そこで偶然、オランダ語を知った。彼は語学に関して非常に吞みこみが速かった。それから、23歳にして大阪で緒方洪庵塾の塾生となって、オランダ語の書物を仲間たちと読みあさった。そこでは大酒を飲むとかとにかく若気の至りを尽くした。しかし、そこでの勉強は猛烈なもので、昼夜の区別なく、机に向かい、眠くなったらそのまま机にもたれるか、ひっくり返って眠った。したがって、ちゃんと布団に入って枕をして寝たことは一度もなかったそうだ。

 今のように、外国の本をそうそうお目にかかることはなかったから、新しい原書を誰かから借りることができると、それを塾生が分担して、大急ぎで書き写した。みな勉強に飢えていて、オランダ語の書物とみれば喉から手が出る思いであった。科学技術の本を読んでは、それを自分たちも実験しないではおれなかった。とにかく、みな西洋の知識を得るのが楽しくてしようがなかった。

 この自伝を書いた64歳の諭吉は、その若いころを思い出し、今の書生は勉強しても、自分の将来を、つまり出世することや金持ちになる方法などに心が向いているのではないか、それでは真の勉強はできないと思う、と言っている。

 25歳に江戸に出た。そのとき横浜に立ち寄ったところ、外国人の店の看板が読めない、どうもそれは英語らしい。今まで必死に勉強してきたのが役に立たぬとは、と落胆の極み、しかしこれからはどうも英語が必要な時代らしい、よしこれからは英語を勉強しようと、まず教師を探し、…後は推して知るべし。

 彼は、時の窮屈な封建門閥制度が大嫌いで、徳川幕府なんぞ早く倒れればいいと思っていたけれど、また、倒幕派のこちこちの尊攘派にもすこしも頼むところもなかった。明治になって、心おきなく翻訳著述など出来るようになって、時代が変わって結構だと言っている一方、新政府の役人たちも、裕福になって下の者を見下し、威張り散らしているのは、何の事はない、あの上士下士の時代と少しも変わっていないではないか、これじゃ文明開化はほど遠い。

 彼の有名な「一身独立、一国独立」という言葉は誤解されやすい。彼は、誰も偉いと思わぬ代りに、誰も軽蔑しない。『学問のすすめ』や『文明論之概略』もそれぞれいいけれど、その因ってきたる源泉の感情、他に代えようがない独特の風のような人格的味わいを知るには、『福翁自伝』に勝るものはないと感じた。



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『細雪』

この長編小説を読みながら思った。このような二家族、四姉妹の日常の生活風景、これといって大きな事件も起こらない、淡々とした日常的記述が、どうしてこうも面白く読めるのだろう、と。

 いや、大事件が起こらない訳ではない。姉妹の一人が大洪水にあって非常に危ない目に遭うし、このとき助けてくれた柄のあまりよくないカメラマンとが、耳の手術時の感染をから下肢に炎症を起こして苦悶のうちに死ぬ。また、一番末の、いわゆる跳んでる妹は、赤痢で死に瀕したりもする。が、それがまったく日常用語で淡々と書かれていて、読者もその〈話の中〉に参加している感じである。

 根っからの悪人も出てこない。しいていえば、末妹が、どうも男を利用して生活費を得ていた節がある。それを姉たちが感じて、ぞっとするが、「ねえ、こいやん、あんたなんか隠しとるのやない」ときく。それで充分なのである。

 谷崎の他の明確に意図されたようなエロス的観念作品とはどうも違う。他の作家にこのような小説があるだろうか。しかし谷崎は、もちろんこの大長編小説をも、充分計画を立ててから書いたに違いない。そうするとやっぱり凄いんやない。

 これは、昭和11年から16年の物語、戦争の足音がする時から戦争さなかであるけれど、背景というものを意識する必要がないほど、時代を生きている。その時代の風俗、感性、文化を生きている。富豪であったらしい父母の時代から零落してきているとはいっても、まだ余裕があるといえる四姉妹とその周囲の人たちが、婚期をとうに過ぎた下から二人目の妹の縁談話と、その間隙を縫って末妹のアヴァンチュール話が鏡のように対照的に映し出され、彼らの心の中で絡み合う。

 なぜこれが、面白いと感じるのか。別に文章が面白く工夫されているというわけではない。が、その時その時の状況での登場人物の気持ちに共感してしまうからで、それが大阪弁で語られているのが、この場合非常によく効いていて、それこそが重要な要素なのだと思う。

 この地方性と、当時の日常性、とは言っても、それは、美と切り離せないーたとえば、着物の色柄、食べ物、琴・三味線・仕舞などの芸事、花見―そして四姉妹の個性の典型が、普遍性を獲得している。

 緊迫しているはずの歴史の流れの中にありながら、非歴史的と言えるほど平凡な日常性に終始しているこの物語は非凡である。そもそも、この小説はこんなふうに始まっている。

 「こいさん、頼むわ。―」鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけてゐた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映ってゐる長襦袢(じゅばん)姿の、抜き衣紋(えもん)の顔を他人の顔のやうに見据ゑながら、「雪子ちゃん下で何してる」と、幸子はきいた。

『源氏物語』という作品が平安時代の宮中文化の粋であるとするならば、『細雪』という作品は戦前の日本文化の粋である。そして、読者であるわれわれの中にもまだその流れが枯渇していない間は、共感をもって読まれ続けるであろうと思った。


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『美濃の家づと』

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これは本居宣長が、『新古今和歌集』の約二千首から選別し、それに評釈を加えたものである。おおむね、後鳥羽院時代の〈新しい〉歌人たちの一つ一つの歌の解釈や歌としての良し悪しを論じている。

『新古今集』からそれぞれの歌人のどれくらいの歌に言及されているか、数えてみた。多い順に、括弧内は新古今収録数。
摂政良経70(79)、慈円65(91)、俊成62(72)、西行56(94)、式子内親王45(49)、定家43(46)、家隆42(43)、寂連34(35)、俊成女30(29)? そんなことあるか。まあ、小生のこと、数え間違いは大いにあり、責任はもちません。

 西行が相対的に少ないですね。そうして、良い評価を得ている歌は少ない。もちろん中には良い評価をしてる歌もあります。たとえば、―

   降りつみし高根のみ雪とけにけり
      清滝川の水の白波

 「めでたし、詞めでたし、雪にきゆるといふと、とくるといふとのけぢめ、此の歌にてわきまふべし、此のけりは、おしはかりて定めたる意なり、水の白波、よき詞なり、此の歌にては、水のまさりて、波の高きさまによめるなり、云々」

 歌人たちの個々の歌に対して、それぞれ従来の解釈を批判したり、優れている点や駄目な点を指摘している。場合によっては、本歌を引いているだけのものもあるが。

 だいたい、高い評価を受けている歌は、定家、家隆、俊成、俊成女、有家のが目につく。宣長が「いとめでたし、詞いとめでたし」と最高のトリプルAをつけている歌が4つあった。そのうちの一つ、定家の歌は、―

   消えわびぬうつろふ人の秋の色に
     身をこがらしの森の下露 (1320)

 しかし、例の有名な「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」にたいしては、当たり前のことを言ってどうするの、今さら「なかりけり」と歎いてもしようがないよ、と一蹴。

 宣長は、歌人の生涯のあるいは作歌の紆余曲折には興味はなく、一首の歌そのものの姿に注意が行く人であって、この評釈集の中でもこんなことを言っている。

 「昔の名人と言われる人たちのでも、その歌がことごとく良い物とは限らない、悪いのもまじり、又よい歌にも疵もありうるので、たとえ人麻呂・貫之の歌であっても、良し悪しを、まあ及ばないけれども、考えねばならない、つねにそうしていると、自然と良き悪しきが解ってくるから、従来のいい加減な注釈などに惑わされることがなくなってくるよ。」



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後鳥羽院と定家2

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 後鳥羽院は、和歌のみならず、小弓、競馬、笠懸、相撲、蹴鞠、水練などスポーツや、琵琶、白拍子舞、今様、鶏、囲碁、将棋、双六、など、まあありとあらゆる遊芸に喜びを見出し、それらの名人たちを身分に関係なく集め、競わせることをこよなく楽しんだ。

 水無瀬離宮における遊興の時の、この「専制的な文化的支配」王の上機嫌な声が聞こえてくるようである。いっぽう、和歌と出世のことしか念頭にないような定家は、そのくせ院の遊興には馴染めず、院の強引な享楽趣味にたいする苦々しい思いを、いじいじと日記に書きつける。

 承久二年(1220)、順徳天皇の内裏歌会で、定家が自分の不遇を訴えたとも受け取られるような述懐歌を詠んだ。このことがきっかけで定家は後鳥羽院の勘気をこうむり、しばらく謹慎蟄居させられた。

 もともと定家の家族には鎌倉方の縁者が多く、将軍実朝に『新古今』などを贈ったり、また求めに応じて実朝の和歌の合点、批評などもしていて、そんなこんなでどうも後鳥羽院と定家はだんだんそりが合わなくなっていったようだ。

 そして承久三年である。後鳥羽院は鎌倉の北条義時追討の宣旨を下すが、京軍はまたたく間に敗走。後鳥羽院は隠岐へ流され、結局その地で生涯を終えることになる。GHQたる鎌倉方の下、京に後堀川天皇が置かれ、文化は九条家によって監督される。定家は、あの恐ろしい祝祭熱狂的後鳥羽院と正反対の柔和で思慮深い後堀川天皇に安堵と喜びを感じた。

 後堀川天皇は、1232年、定家に『新勅撰和歌集』の撰進を命じた。が、間もなく不幸にも突然の崩御。が、九条道家は定家に編集の続行を命じた。ところが、道家はその仮奏覧本に後鳥羽院や順徳院らの和歌があまりにも多く含まれているのを見て、これ鎌倉方に見つかったら、ちょっとやばいのではということで、これらをすべて削除するように定家に命じた。

 この『新勅撰集』は、1235年に完成したのであるが、おそらく当初、定家が後鳥羽院の和歌をもっとも多く入れていたのであるからには、彼は後鳥羽院御製をそれだけ認めていたのであろう。じっさいには鎌倉を慮ってすべて削除された。そして入首歌最多は藤原家隆であることが、この集の傾向を想像させる。

 この頃の定家は、千五百番歌合当時は、歌人たちは自分で素晴らしいと思って詠んでいたが、今見ると、まったく尋常の歌とは言えない、自他の恥と言うべきだ、と日記に書き、また定家の息子為家の妻の阿仏尼は、後に定家は『新古今集』を「あまりにたはぶれ過ごしていた」と言っていた、と書き残している。

 他方、隠岐での後鳥羽院は、あの黄金時代の和歌をどのように考えていたのであろう。『隠岐本新古今集』で、多くの歌が削除されたが、新古今歌風を築いてきた歌人たちの歌を、その割には減らしていない、少なくとも定家の歌をとくに減らすようなことはしていない。あの時の輝かしい美を否定していない。

 隠岐に流されてからの後鳥羽院と京に居る定家とは、一度も連絡し合った形跡はないようだが、しかし、二人はこの長い期間を通じてお互いを高く評価し続けていたと思われる。

 そのような、田渕氏のお話でありました。


    
 

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後鳥羽院と定家1

 田渕句美子著『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』という本を読んだので、今回はこれを紹介しよう。

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 後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子として、治承四年(1180)に生まれた。この三年後の寿永二年には、平家一門は安徳天皇を伴って西海に渡っている。
 そして、後鳥羽天皇はわずか四歳で、三種の神器なしで即位した。

 十九歳になった後鳥羽天皇は、四歳の土御門天皇に譲位し、上皇になって、思いのままに羽を伸ばした。後鳥羽上皇は、何にでも興味をいだき、熱中する質であった。

 和歌に関しては、天皇時代に詠った形跡はなく、正治二年(1200)、二十歳にして近臣たちと歌を詠み始めたと思ったら、その夏には唐突に百首歌(歌合)を催すと発表。この『初度百首』の作者たちは、後鳥羽院その人をはじめ、親王、内親王、大臣、天台座主ら、様々な身分の者を加えるという画期的なものであった。

 ここで、後鳥羽院は家定の和歌に魅了される。たとえば、

 梅の花にほひをうつす袖の上に
    軒もる月の影ぞあらそふ

 馥郁たる香を放つ梅が夜の中に浮かび、その香が涙で濡れた袖に移り、そこに屋の軒端から漏れる月光が宿り、梅の匂いと月光がまるで競い合うかのように袖にうつり混じり合うのを「月の影ぞあらそふ」と表現した。人の生身の姿は消し去り、感覚を重層させる耽美的空間を作りあげた。このような歌に後鳥羽院は芸術的興奮を覚え陶酔した。

 これ以後、院は頻繁に和歌会を催し、院自身も猛烈なスピードで上達していった。一年後には、空前の〈千五百番歌合〉を催すに至る。歌合は一つのテーマに一対の和歌をおき、どちらが勝ちか判定する、右勝ちとか左よしとか、後鳥羽院は和歌で勝敗を判じる文句の工夫を凝らしたりしている。たとえばこんな判歌のかたちで、―

   六百三番 左勝

 なく鹿の声に目覚めてしのぶかな
    見果てぬ夢の秋の思ひを  前権僧正

    右 

 たづねても誰かはとはん三輪の山
    霧の籬に杉たてるかど    雅経

    院判歌

 のぶ夢つがつさめぬの月
    わたる山の々の秋風 

 つまり左僧正の歌が勝ちであると「しかぞよき(鹿ぞ良き)」と、フレーズの頭の語で言っている、しかも、元の和歌を、さらに展開させて詠みこんでいる。歌会を始めて二年もしないうちにこんな芸当を可能にした後鳥羽院の才やいかに。

 そうして、その半年後には『新古今和歌集』の撰進を、定家、家隆らに命じ、しかも同時に、頻繁に歌会を催している。和歌所には多数の書写役、校合係、目録作成係らがひしめき合い、食事もままならぬほどもう大変な騒ぎであったらしい。三年後、大急ぎで『新古今和歌集』奏覧、竟宴(竟宴とは、天皇親撰の宴を示す意味)

 しかし、何と!その明くる日から、さっそく後鳥羽院は『新古今』の切り継ぎ(改訂)を命じ、以後頻繁に行われる。和歌所の役人たちは、今のようにパソコンのない時代、このたび重なる切り継ぎには、うんざりしたことであろう。

 定家も日記『明月記』に後鳥羽院に苦々しい思いをぶちまけている。「仰せによりまた新古今を切る。出入り、掌を反すが如し。切継ぎをもって事となす。身において一分の面目もなし。…」こんなことが六~七年続いたらしい。


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『古語の謎』

『古語の謎』白石良夫著
 
 今われわれが古典を読んで、それが書かれた当時にもそのような読み方をしていたと漠然と思っているが本当にそうであるか、あるいはある時代のちょっとした誤写からとんでもない概念の変容を受けた言葉もあるのではないか。

 著者がまず例に出すのは、万葉集にある柿本人麻呂作の有名な歌、「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」。これ専門家ならぬわれわれ一般人は、べつに何の疑問もなく昔からこう詠まれていたのだろうと思っている。ところが昔はそうでなかった。「あづまののけぶりのたてるところ見てかえりみすれば月かたぶきぬ」。鎌倉・室町時代はこのように読まれていた。

 万葉集はすべて漢字で書かれているが、この和歌は、「東野炎立所見而反見為者月西渡」と書かれている。これを古代日本人はどのように発音していたか。江戸時代の半ば過ぎて、契沖、荷田春満、賀茂真淵らの努力によって、今われわれが知る「ひんがしの・・・」となった。

 しかし、古代日本人がそのように歌っていたのかどうかは、本当のところ判らない。今後また新しい読みが発見され、一般化されるかもしれない。

 大体において、古典と言われる書物は、後世の人が書き写したものである。平安時代以前のものは、われわれが読んでいるのは鎌倉期以後の写しである。書き写しのさい、意図的にあるいはうっかりと誤写していた。それゆえ、同じ作品でも様々なヴァリエーションが伝わっている。

 契沖以後、学者はある作品を研究するさい、その作品より以前の時代の文献を引き合いに出して語彙の使われ方や意味を研究するようになり、それが古学の正統な方法となったという。しかし、元々の本文というものがあるのか、たんに幻を追っているにすぎないのではないか、また後世の改訂版を一偽書として捨てて顧みないのはどうか、むしろそれはそれで文学の再生産として評価されるべきではないのか、と著者は〈原理主義的文献学〉に疑問を呈する。

 この書を読んで感じたのは、われわれは(少なくとも小生は)江戸時代の古典発見(あるいは「古典」脱却)についてあまりにも知らないことが多いということだ。西洋のルネッサンスといえば、何となく絵画や文学のいくつかが浮かんでくるのに、江戸時代という250年におよぶ安定期に起こった文芸上のルネッサンスについてほとんど何も浮かんでこないのはどうしたことか。



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『天皇の暗号』

 大野芳著『天皇の暗号』

 日本近代史にちょっと関心のある人なら誰でも一度は次のことを不思議に感じたことがあるのではないでしょうか。
 つまり南北朝の時代以後の天皇はどちらが本家なんだろう、なんとなく南朝が正統と聞かされているが、今上に続いている血統は北朝のはずだが、と。しかしまあ、結局いずれにせよ元は同じなんだから、どちだっていいや、と深く追求することもないでしょうけれど。

 しかし、この矛盾はずっと以前から指摘されていた。王政復古を果たしたからには明治政府は天皇の万世一系を確立せねばならなかった。明治天皇が北朝の血統を引き、しかし思想上は南朝を正統と認めざるをえない、それどころか明治政府はいち早く南朝の功臣たちの顕彰を矢継ぎ早にしている。楠正成、新田義貞、北畠親房らに従一位を与えたり、彼らを祀る神社を創建したり。この矛盾はすでにそのころ公に問題になっているが、それにしても、なぜ明治政府は南朝正統をそこまで強く打ち出す必要があったのか。その理由は何かを、この著書は複雑な迷路を解くように行きつ戻りつしながら探っていく。

① 一つの流れとして、徳川光圀編纂『大日本史』、その影響を受けたと言われる水戸学、そして至純の秀才松陰先生を経て尊王攘夷の志士たちが生まれた。この源流たる『大日本史』こそ南朝正統論であった。

② 長州(現山口県熊毛郡田布施町)に南朝の血を引く大室家があることは、長州ではよく知られていた。桂小五郎らももちろん知っていた。安政生まれの大室寅之祐は慶応年間に忽然と姿をくらました。奇兵隊屯所がここにあった。鳥羽伏見の戦いで、薩長軍を勝利に導いた錦の御旗がここから出発したと、大室史料に残っている。少なくとも錦旗の一つがここにもあったことは確からしい。

③ これも昔から何度となく論争されてきたことではあるが、諸報告から考えられるに、孝明天皇の死は実に不可解であって、じつは病死ではなく殺害されたのではないか、ということがある。(小生もそう感じていた)そしてまた崩御の時期があまりにもタイミングが好すぎる。慶応2年12月。この年、幕府対長州はにっちもさっちもいかない状況であり、坂本竜馬による薩長の密約ができていた。幕府の権威が失墜し、攘夷の嵐の中、孝明天皇はあくまで攘夷と公武一和を主張。

 この①②③の方程式を解くと、他にも公卿の日記などいろいろ傍証があるが、明治天皇すり替え説が成り立つ。つまり明治維新とは南朝革命だったのである。明治新政府は、近代国家のバックボーンとして、また人心掌握のために、そして何より薩長による革命の正統化として、瑕瑾なき天皇制を確立せねばならなかった。福羽美静をして『纂輯御系図』を監修させるが、これを公表することによって南朝天皇の復活が明白になるはずであった。

 そして、ほぼ時を同じくして、明治六年、欧米使節から一足早く帰朝した大久保利通は、留守居役を任せたはずの西郷には会いに行かず、岩倉らが帰朝するまで数カ月間も雲隠れする。維新後の危険と面倒を任せた後ろめたさもあったのであろう、が、しかしと著者は推理する、維新が成った今、正しい天子の由来を国民の前に発表すべきではないかと言う西郷に対して、政府の中枢にいる自分たちは、じつは姦計を用いて武力制圧をした側面があることを、いま公表するわけにはい、と大久保は思っていたのであろう、と。

 そして、西郷を下野せざるをえなくさせ、西南の役で死なせることになったのも、その底流には南朝革命の潔白な公表をめぐっての確執があったのだという。

 まあ、そのようなお話でありました。

しかし、明治天皇が孝明天皇の実子であったにせよ、なかったにせよ、明治天皇は、近代国家形成期の天皇としてのご自分の立場を自覚された、実にあっぱれな御ふるまいをなされましたね。偶然にしては出来過ぎと言いますか、まさに天からの贈り物のように感じます。

 国民の業にいそしむ世の中をみるにまさる楽しみはなし

                          明治天皇御製




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『鈴屋問答録』2

宣長に、神の道は安心を与えるか、と或る人が問うた。宣長の答えはすこぶる明快である。いわく自分にとって安心というものはないと。

 これは、「安心はいかに」という問いは存在しないということなのです。というのも、為政者がいろいろ法をつくったりして世を治めてくれているからには、われわれはそれに従って生き、また人として出来るかぎりのことをして生きていくほかはないならば、別に安心などというものは要らないはずなのだ、ということです。

 宣長はこんなふうに言っています。

 人生いかにあるべきとか、この世はどうなっているのかとか、人の道理はいかにとか、死んだらどうなるとか、いろいろと言う人が居るが、そんなことは人智を超える問いであり、無益な空論に過ぎない。そういうことを口にしたがるのは、儒や仏などの外国思想にかぶれ、それによって安心を得ようとする〈さかしらごと〉なんです。

 我が国の古代の人たちは、そのような小賢しさは少しもなかった。そのような安心の問題を立てる必要はぜんぜんなかった。われわれ後の日本人は、すでに外来思想に染まっているので、なかなかそれが分からないが、そのことをよくよく考えて、〈清らかなる心〉をもって、古事記や日本紀に接してごらん。そうすれば、安心とはいかに空疎な問題であるかが解ってくるだろう。

 たとえば、人は死んだ後はどうなるのか、と問います。わが神道においては、いかなる人においても、死後は黄泉の国に行くほかはない。古事記に書かれている通りである。ほかに余計なことを考える必要はぜんぜんない。人は死んだら必ず黄泉の国に行き、そして黄泉の国は汚く悪いところである。だから、人が死んだら〈悲しむほかはない〉のであって、余計な理屈を考える古代人はいなかった。ところが外国思想が入ってきて、人々が小ざかしくなって、素直でなくなっちゃった。そのために、人智を超えた問題をつくり、それにたいしてさらにいろいろな話をつくるようになったのです。いくら利口ぶっても素直でないだけのことなのよ。

           *

 ところが、問題はここからだ。老子の自然観に似ているが、それに付いてはどうだ、と宣長問われて、次のように答えている。

 ほんとうに自然を尊ぶならば、自然の成り行きをそのまま認めるべきではないのかな。ルソー流の自然に還れなどと言うのは、じつは素直な心ではなく、強いごとじゃないかな。わが古の神道が語るところでは、「いかなる成り行きも神の仕業である。」むしろ、そう信ずれば、それこそ安心というものではないの。

 いいことがあれば、善神の仕業であり、悪いことがあれば、悪神の仕業である、それはもう古事記にある通りよ。それゆえ、人心が乱れたり、悪いことが頻発したり、例えば、儒教や仏教の理屈を口にする人々が増えるというような悪いことが起こるのは、悪神の仕業であって、それなら、それをそのまま認めるのが、わが神道の道である。だから、ある時代には、仏教を援用せざるをえないならば、そうすればよいし、政治に儒教道徳が必要なときであれば、そうすればよい。悪神が暴れるときは、善神でも抑えきれないのであって、そのままにさせておくしかしようがないから、じっと忍の一字なのよ。ただ、古代は善神が強かったから、国よく治まっていたのです。

 すべて世の中の流れが神の仕業であって、どうしようもないものならば、空想をたくましくして、例えば、我が国が強国に占領され、日本語すら使えなくなる事態が来るとすると、それも悪神のなせる業だからしようがない。日本文化が消滅してしまったら、神々はどうなるの。・・・それも神の御心のままに。

 しかし、ここでハタと気づいたのだが、古代人から見れば、現代のわれわれがー日本人だと信じているわれわれがーすでに外国人ではないのか。われわれは、もう屁理屈は言うし、不安だらけだし、おかしな日本語を使うし・・・、異邦人はなはだしいものがある。

 



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『回想の明治維新』4

 メーチニコフは、日本の植物の多様性もさることながら、日本人の顔つきや体型の多様さは、ほかのアジア人とは違う、どうもいろいろな民族の雑種ではなかろうかと言う。たしかに、日本列島は地理的には南から北から西から人々がやってきて、ここから出ていくことはできない、いわば、風の吹きだまりみたいな場所ではないか。ここが、いろんなものが混じり合う最終地点なのだ。この地理的特徴は人種の特徴を生みだすであろう。

 革命家と言うが、この書にはいわゆる革命家の言葉と思えないような言葉に満ち満ちている。

 「わたしが何よりも驚いたのは、その魅惑的な美しさにもかかわらず、日本の風景には、未開とか原始の匂いがまるで感じられないことだ。たとえていえば、それは幾世紀もかけて血となり肉となった文化の、良いも悪いも知りぬいた素敵な都会女の美しさであった。」

 人は外国に行くと、その固有の文化に驚くものである。メーチニコフは、高崎正風宅に呼ばれたときの驚きをこう述べている。
 主人がまだ帰宅していないのでしばらく待つように言われた。「見たところ主人の書斎兼応接間のようだった。部屋の調度類は純日本風でしかもごく質素だった。アメリカ製のロッキングチエアと皮を張った胡桃材の小さな机、それに二、三脚の椅子、これだけがわたしは今、日出国の有力な開花主義者の家にいることを物語っていた。あまりの落差に私は驚嘆した。ヨーロッパにいた時の彼らは大変な成り金のように見えたものだが、母国では全く昔気質の地主のような生活をしているではないか!
ここでわたしが昔堅気の地主などという表現をしたのには、それなりの理由がある。極度のあけっぴろげと単純素朴さという点で、わたしにはロシアのステップ地帯のある鄙びた地方の長閑な生活が思い出されたからなのだ。だがそれと同時に、ここには深く血となり肉となった幾世紀にもわたる文化の痕跡がとどめられている。たとえわれわれの尺度とはちがうにしても、無数の人目にはつきにくいディーテールが、この国の人々の知的生活のレヴェルを如実に物語っていたのである。」

 だがやはり、こういうことも書き洩らさない。
「高官の態度は非の打ちどころのないほど礼儀正しかった。懇切丁寧なほどだった。だがにもかかわらず、かれの応対ぶりは、同国人(その多くは、彼におとらず政府の重要なポストについていた)との交際で、後にも先にも出会ったことがない何かが感じられたのだった。」

 彼は「神道では正邪の観念は浄・不浄の観念に置き換えられる。不幸や病気、とりわけ死や死体との接触は不浄なものとみなされ、かくてある種の職業に携わる人々は社会から排斥されたカーストを生むのである。ひとたび穢れた死者は、不浄な物の〈払い清め〉の助けを借りて清められるのがふつうである。神道のいたって単純な儀式的側面は、この祓いあるいは浄化作用に尽きるといってもいい。」

 しかし、彼はブルーノ・タウトとは違って神社の簡素な美を理解しなかったようである。「もっとも有名な神社ですら、行ってみればなんのことはない、白木でできた全く粗末な納屋といった風情で、そこにはなんの美的要素も、建築上の特徴も装飾もありはしなかった。」

 「世界広しと言えど、日本人ほど演劇好きな国民はまずあるまい。・・・日本の戯曲は、例外なくメランコリックで、哀調を帯びた要素が加味されており、ロマンティックな色彩があまりはっきり出ているため、いわゆる悲劇(tragedie)とは異質だからだ」

「(歌舞伎の山場では)大きな音こそ出せないが、すべての三味線がいつもきまって静かで沈鬱な旋律を奏で、それが役者の声音と見事に調和して、独特の魅力をかもしだす。」

 まあ、いろいろと引用紹介したいところはあるが、きりがないからやめておこう。

この書の総体的な印象。

 彼は画家志望でもあったというにふさわしい目で、好奇心の赴くままあらゆる領域を観た。

 西欧の革命の概念を頭に、喜び勇んで明治革命を見に来たのだったが・・・。たとえば、大塩平八郎の乱には「みずからの人権を要求する・・・虐げられた人々云々」「下級武士たちの経済状態はますます悪化していって、無為徒食の生活を送っており、百姓たちを睨みつけていた」というような書き方をする。しかし他方、どうも日本の革命は日本独自の歴史の上に成り立っており、この国の歴史をもっとよく深く知りたい、と感じている。そのところが小生には面白い。


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『回想の明治維新』3

 さらに付け加えておかねばならないことは、維新のドサクサまぎれに、外国商人は日本から、「濡れ手に粟」の利を得ていることが彼の眼にはあまりにも明らかであって、日本人のお人よしに大いに驚いてもいる。
「実際のところ、この内戦時代(戊辰戦争)にはキリスト教世界の津々浦々から雲霞のごとくやって来たあらゆる種類の詐欺連中が稼ぎに稼ぎまくったいわば英雄時代なのだ。・・・かれらの道徳水準はきわめて低かったと認めねばなるまい。・・・専門など問題ではなかった。どのヨーロッパ人も、この遠い日本では、必要とあらば司令官にも教師にも、技師にも医者にも、砲術家にも財政家にもなれると、まともに思っていたのである。」
日本人の目には、ヨーロッパ人は誰でも何でも出来ると映っていたのであり、「かりにヨーロッパ人の機械技師が、たとえば医者の仕事を断った場合、それは俸給額が足りないからに相違ない」などと日本人は考えた。それほど、明治初年頃は、日本は西欧の文明を欲していた。

 「日本のいくつかの港が外国人に対して開かれたばかりの頃は、すべての物が純金の小判や銀の円に交換されるので、どんな取引も莫大な儲けとなり、このために信じがたいほどの多数の投機家たちがこの国にやってきた。」
彼らは、治外法権を利用して、売れ残りの商品に高額の保険をかけ、粗暴なサムライに喧嘩を売り込み、倉庫に火をかけさせ、自分がこうむったとされる損害の勘定書を日本政府に叩きつけて、大儲けをしまくった。

 メーチニコフには、日本人がじつにおとなしい人種だと見えた。彼は言っている、口論し合っている日本人の姿をついぞ見かけたことがなかった、ましてや喧嘩などこの地ではほとんど見かけぬ現象である。なんと日本語には罵り言葉さえないのである、と。


 当時日本を訪れた西洋人の例にもれず、彼も日本人の〈原始性〉にも大いに驚いている。大抵のこの時期の外国人が述べていることだが、肉体労働者は、褌一丁でいること、これは西欧人から見ると裸同然なのだ。

 「イギリスのお上品な淑女は、行く先々で、両手で目を覆い、顔を赤らめて『ショッキング!』と叫ぶ。東洋民族のなかでも際立っている日本人のこうした裸好きを私が初めて目にしたのはここ、横浜駅頭であった。」そして付け加える、こんな裸好きは、日本人は大陸から来たと言うよりマレー・ポリネシアから来た種族ではないかと。
 「目下のところ、文明開化をめざす政府は、こうした日本人の裸好きと執拗な闘争を繰り返している。政府は年頃の娘たちが街中をわれらが祖エヴァのような略衣で歩き回るのを禁止したし、公衆浴場では男湯と女湯をしっかり区切るように命じている。・・・これらの取り締まりが、日本の社会道徳になんらかの影響を与えるなどと思ったら滑稽千番であろう。どこの国であろうと、裸と道徳のあいだには直接の関係などありはしない。・・・日本人の裸好きは彼らの習俗の原始の純潔さの証明であり、そうした純潔さが、いまやあいついで上から課される官製の偽善によって消えようとしている。」
 服を着ている人間が、着ていない人間より品性が劣っているということはありえない。

そして彼は、日本の着物の美しさの延長として肉体労働者の刺青がある、つまり入れ墨は衣服なのだ、ということに気がついた。

 そしてまた、例にもれず、当時の日本人の識字率の高さと教育体制の完備、大衆が小説をよく読むことに驚いている。そしてこんなことを言う、「書物的知識と文化が国民の最下層にまで、血となり肉となって深く浸透している・・・しかし、わが西欧文明は、中国的東洋の難解な書物中心主義とは比較にならないほど、多面的で広範で、豊饒であることにわたしにもはっきりと分かる。だがその一方で、幾度となく、次のことを認めざるをえなかった。すなわち中国=日本的文化と比較すると、わが西欧文明は、早熟、跳ね上がり、つまり民衆の習俗と気性の奥底にまで深く根をおろしていない、なにか寄生的な兆候を明らかに示していると。」
 じつにそうなのであろうと想像される。中国のことはいざ知らず、日本は万葉以来、いかな辺境の地にあろうとも言の葉が絶えないのである。

 そして言葉は叡知を含んでいるものである。「はたして西欧の最先進諸国が、せめて初等教育だけでも国民の最下層にまで普及しようと真剣に考え出してから、それほど時間が経っているであろうか?・・・日本でわたしに仕えてくれた召使にとって、祖国ロシアの雑誌のコラムや誌上で多大な情熱と才能を費やしてその論証にこれつとめている理論的命題の一部など、とっくに自明の理であった。云々」
叡知は教養から生まれる。

 「大坂の一商人である加藤祐一と言う人は、同業者向けのパンフレットに書いている。『異国では神霊を授かった人や預言者が現れて人々に道徳と秩序を説いた。それでも日常生活では人々は狼のようにたがいに咬みつき合い、政治的、宗教的敬意の口実のもとに、言語道断な悪業の数々がなされたのだと言って、そうした人々の教えを無視した。

 それに対し、我が国には預言者も神霊を授かった人もいたためしがないが、それでもわれわれは仲良く平和に暮らしてきた。このゆえんは自然が優しく思慮深い母のように、われわれに接してくれたことにある。だが、自然は労働と熟慮という恵み深い必要性から人間を逃れさせるような無償の施しで、われわれを甘やかしたりはしない。だが、そのかわり自然はわれわれの労働に潤沢に報いてくれる土地と気候を与えたくれたのである。われわれの力と能力を、自然の恵みを耕すことに向けさえすれば、われわれの生存と幸福は、よりよく確実に保証されるというのに、一体なぜたがいに敵対したり競い合ったりするだろうか?』等など。

 これを書いた著者はバックルやアダム・スミスの名前など、もちろん一度も耳にしたことはなく、この国で初等中等学校のごく一般的な『社会教科書』(人間の徳)からくみ取ったのだ。・・・話を簡単にするために、ここでは日本でもっとも知られている学校的道徳の教えを一つだけ引くことにする。しかもこれは詩の構造というものをいささか読者に知ってもらうことにもなろうから。
マコト ダニ
マコトノ ミチニ カナイナバ
イノラズ トテモ
カミヤ マモラン 」

西洋人のエゴと宗教とに辟易している著者の溜息が聞こえてくる。

 貧乏な彼に与えられた東京外国語学校ロシア語の講座を受けもった彼は、一年半の日本滞在の後、体調を壊しスイスに還る。そして、この好奇心にあふれた漂流者は、この不思議の国、日本に関する本を渉猟し読みふける。本書(明治17年刊)に述べられている日本史の知識は驚くべきものだ。ザビエルを初め西欧人による日本論ももちろんのこと、『大日本史』『日本外史』を深く読んだのであろうと思われる。

 日本に福沢諭吉と言う人がいたごとく、ロシアにもこういう人がいたということを、小生は知った。


              
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『回想の明治維新』2

 メーチニコフは、大山巌との半年の付き合いで、「パリ大学でやっていたら四年間もかかる日本語の基礎」を習得でき、岩倉使節団がジュネーヴに姿を現した時は、彼らとの会話に苦労しなかったそうである。彼は、ただちに薩摩や長州の明治革命における立場を理解し、岩倉の老獪な人となりを見てとった。彼は、ランボーやシュリーマンのように、放浪力!と言語習得の才をもっていた。

 しかし、そういう彼でさえ、まず日本に来て、日本語の多様性に困惑している。中国語の文体とヤマト言葉との和漢混交体であり、各階層によって独特の話し言葉を使っているし、また男言葉、女言葉があり、それらが対象によってまた違った言い方をする。しかも日本人は話すとき表情に乏しいときている。

 入り口で言う「〈御頼み申す〉この決まり文句は、どんなヨーロッパ語にも翻訳できない。・・・これは〈おーい、貴方、わたしは参っておりますぞ!〉というほどの意味になる。…日本語というものは、ヨーロッパ諸語はおろか、たとえばタタール語やハンガリー語のような同じく膠着語と呼ばれる言語ともいかに異なっていることか・・・しばしば、単語と文章の間の境界線を引くことがまったく不可能にさえなってしまう。一つの単語がまるで別のいくつもの単語を吸い込む力を持っているかのようであり、しかもそこでは各構成要素が省略や変形をこうむり、凡ての品詞の意味の総和というよりむしろ総合したものが、全体の意味になる。それ自体まったくなにも意味しないか、あるいはまったく本質とは関係のない接頭語のしようが日本語では特徴的である。云々」

 明治維新の原因について、彼は、外国艦隊の来航や、また天皇や将軍の対外的処置などよりも、もっと内発的、市民的なものであると感じた。

「遠いアジアの諸民族や事件を見るとき、われわれはきまって因循や停滞といった烙印を押したがるものだが、こと日本の歴史にかんするかぎり、こうした烙印をおすことは断じてできない。少なくとも最近の数世紀をとってみる限り、この国の歴史は独自の進歩と発展を見せており、まさしくこうした国内生活の順調な流れがあったからこそ、この小さな帝国は、天保年間に非常に根底的な政治、社会上の変革を必要とする状態にまでたち至っていたのである。」

 天保と言うと、大飢饉、百姓一揆、それに清国アヘン戦争の報による内外の危機意識が生じたことは確かであろう。ちなみに天保元年に吉田松陰が生まれている。
メーチニコフは、頻発する農民一揆と、天皇権力の復活を推奨する『日本外史』の流布、とりわけ徳川政権側の者までがこれに賛同したことが、維新への一歩だと言う。

 しかしそのすぐ後で、またこんなことも言っている。
「日本にはヨーロッパ的意味での都市住民は、これまでいなかった。この国でプロレタリアートの役割を部分的に担ったのは、エタやヒニンのような虐げられたカーストの人たちだった。そして彼らもまた、自分たちの政治、社会的状況が時代の精神にそぐわないものだということに気付き始めていた。だからこそ天保時代に大塩なる人物は、武器を手にみずからの人権の承認を要求する数千人のこうした虐げられた人々をその指揮下に結集することができたのだ。」
 当時の西欧の革命イデオロギーの付会であり、歴史とはイデオロギーが決して近づけるものではない、ということをあらためて思う。

 しかし、コスモポリタンの彼の目は、すでに徳川時代は西欧を求めていたのは日本であるということがよく見えた。「要するにわが文明が完全武装の軍艦の姿をまとって日本近海に出没し、日出ずる国での市民権を執拗に要求するよりもはるか以前に、日本のほうがヨーロッパを目指していた」
 日本は徳川政権時代、鎖国をしていたと言うが、しかし、それは政権の安定維持のためであって、外国文明から目を逸らしていたのではない、長崎経由に限ってはいたものの、一部の下級武士たちは西欧事情とりわけ医学と天文学の知識を入手していた。
                        
                        
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『回想の明治維新』

 『回想の明治維新』メーチニコフ著 渡辺雅司訳を読む。

 この書は、副題に「一ロシア人革命家の手記」とあるとおり、超国家的な目をもった西洋人、しかしどこまでもロシアの魂をもった人が見た日本論である。十九世紀後半のロシアの革命家には、こういう人もいるのだろうか、という新たな感慨をもった。つまり、マルキシズムイデオロギーの仮面をかぶった一行動家ではあるが、そのじつ異国への憬れと、画家のような目をもって、その地の風土や民族、そして生活様式の詳細なルポライター。しかし、単なる報告者におさまらぬ探求者。

 この書を論ずる前に、ぜひとも作者メーチニコフという人の略歴を、訳者である渡辺氏の解説から引用しつつ、紹介したい。

 メーチニコフは1838年、ペテルブルグに生まれた。幼少時はひ弱だったが、長ずるに及んで不羈奔放な熱血漢となってゆく。15歳にしてクリミア戦争の報を聞いてじっとしておれず、義勇軍に参加しようとする。ペテルブルグ大学、およびその他の大学では学生運動のため、一年もたたぬうちに放校処分にあい、芸術学校(もともと絵が好きであった)、と東洋語学学校に入る。一年でアラビア語とトルコ語を習得、パレスチナ派遣団の通訳に採用されるが、上司とのトラブルで失職、流浪の身となる。

 アルバイトをしつつ、画家の修行をしようとイタリアへ。しかし、そこは英雄ガリバルディ率いる千人隊の解放闘争の真っただ中であった。
 これを見て、じっとしておられる彼ではない。ただちにスラブ義勇軍に身を投じ、各地を転戦。ナポリ開城に立ち会い、ヴォリトルノの戦闘で炸裂弾にあたって片足を失う。
 混成部隊にあって、英、仏、独、伊、西、露、波などの言語を自由に操り、通訳を買って出るかと思えば、小休止にスケッチブックを取り出す。
 
 これだけでも、すでに伝説的に面白い人物であって、事実『三銃士』で有名なアレクサンドル・デュマが、この男の噂を聞きつけて「小説」のネタにしたいとかでかけつけてきたが、メーチニコフはデュマを気に入らず断った。

 一年あまりの休養生活ののち、フィレンツェに移り、ロシアの急進誌に、論文を書きまくる。1863年、メーチニコフの講演を聞いたロシアの革命思想家ゲルツェンの耳に留まるところとなり、以後、親交をもち、さらに、イタリアにおいて、メーチニコフは、バクーニンを同士に結びつける。

 1865年にジュネーブに移り住み、インターナショナルロシア人支部の一員となって、動乱のスペインに乗り込む。次にバルカン半島の民族解放闘争に参加。
 こんな中でも、絶えず雑誌に寄稿はし続ける。もちろんロシア皇帝政府の秘密警察から目をつけられているから、祖国に帰ることはできない。

 1871年、パリ・コミューンの報で、急遽パリに。二カ月余りで敗北。ところがここで、極東の日本に革命が起こった噂を耳にする!このときの彼の気持ちたるやいくばくかであったろう。彼は書いている。
 「麻痺状態から目覚め、新生活へと雄々しく乗りだした国民全体の姿を目にするのは、詩情あふれる人跡未踏のうっそうたる密林や砂漠にもまして、気分を一新させてくれるものである。そして当時の日本には、こうした感動的で新鮮な光景を発見できるにちがいないと私は確信するのだった」 

 ただちにパリ大学で、中国語、日本語を短期集中で習得。ここのロニー教授の紹介で、ジュネーブの下宿屋を訪れた彼は、ここで欧州留学中の大山巌(日露戦争陸軍大将で有名)に会う。

 時は1872年、岩倉使節団が西欧訪問中であったのが、なんともはやタイミングが良すぎる。フランス語を勉強中の大山は、メーチニコフという友人が出来て大喜び。さらに、木戸孝允がジュネーブに立ち寄り、大山を介してメーチニコフと数時間の会話をもった。木戸は、メーチニコフの「スイス論」(小邦連合体制)を読んでいたので、これからの国家体制について話がはずんだことであろう。

 1873年、岩倉使節団一行は、帰途ジュネーブに立ち寄る。この機会をメーチニコフが逃すわけがない。高崎正風は書いている「6月17日、大山案内してロシア人メーチニコフを訪ふ。此人君主専治の政をにくみ、自国を去りて、ガリバルヂの共和党にかへし、・・・足部を射られて、跛となり、・・・人となり敏俊、英、仏、ゼルマン、イタリ、スペインなどの語を能くし、…日本学を学び、少しく談話をなす。音調はなはだ好し、実に一奇人なり」

 ロシアの密偵は、メーチニコフが日本の使節団と会っていることは知っていたが、まさか日本に行くとは、想像だにできなかった。ジュネーブから姿をくらますと、「パリに行き革命活動を続けた」と本国に報告している。

 1874年4月。メーチニコフは、大山から西郷従道宛の手紙をもって、マルセイユから出航。

 ときあたかも、祖国ロシアではナロードニキ(民衆主義)運動の盛りであった。ツァーと農奴の暗いロシアの歴史においてこそ、ヴ・ナロード(民衆へ)が生まれたが、革命家メーチニコフは、「アジア的停滞」の極東で起こった明治革命にも、そのような要素があるに違いないと見当をつけたのだった。

 訳者の渡辺氏は書いている、「幕末から維新にいたる日本の政治、社会状況を詳細に分析したメーチニコフは、明治維新内発説を提唱し、それを〈歴史上もっとも完全かつラジカルな革命〉と断定した。そしてこのような革命を可能にした背後の力として、日本人の身分的平等観念と進取の気性、無神論的傾向を強調した」と。

 彼にとっては、日本の産土の神や鎮守の杜の祭りは宗教ではないし、日本人の平等観念が西洋のそれとはその由来が異なるのではないかという疑問をもつにいたるであろうか。

そして、また一方、ちょうどこのころ、ドストエフスキーは、ナロードの土着的な心に打たれると同時にその退屈に居れない自分を見出し、一方インテリゲンチャの観念性と陋劣、革命に必須の欺瞞に憤怒し、ついにロシアのキリストを幻視する。
が、革命家にとって、そんなことは余計なことである。

                             続く


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「古事記伝ノ巻四」一面

 伊耶那岐命と伊耶那美命、略してイザナギとイザナミと書きます。この御夫婦の神が交わられて日本列島をお生みになったことはご存じのとおり。しかし、その初めは上手くいかなかった。

 淤能碁呂島(おのごろしま)において、イザナギはイザナミに「汝の身は如何に成るか」と問われる。イザナミは「吾が身は成り成りて成り合はざるところ一処在り」とお答えになる。イザナギは「・・・成り成りて成り余れるところ一処あり。だから、これを汝の合わないところに刺し入れて国を生もうと思う。いかが。」
 イザナミ「それはいい」。イザナギ「じゃ、この天の御柱を回るからね。貴女は右回りして、僕は左回りするからね。逢ったところで結合ね。」
 そう約束されて、回ったお二人。そしてばったりお逢いになる。イザナミ「あら、いい男!」。イザナギ「ああ、いい女! でも、女が先に言うのはよくないなー」と仰りながらもご結婚。
 で、生まれた子は水蛭子(ひるご)と淡島。こりゃいかん、ってことで、流し去られた。

 で、御二人の神どうなさるのか。

 「ここに二柱の神、議(はか)りてのりたまはく、『いま吾が生める子よからず。なほ天つ神の御所(みもと)に白(まう)すべし』と詔(の)りたまひて、すなはち共に参上(まゐのぼり)て天つ神の命(みこと)を請ひたまひき。ここに天つ神の命もちて、ふとまにに卜相(うら)へて詔りたまはく『女の先に言へるに因りてよからず。亦(また)還り降りて改め言へ』と詔りたまひき。・・・」

 つまり、お二人は天神つまり、一番初めに紹介されている天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下五柱の神神に、上手く子(国)が生めないのはどうしてか、訊きに行かれる。
 ここを、宣長は、どんな事でも、自分勝手な解釈をせず、とにかく天神の命を聴き従う、この私心がない態度が道の大義というもので、このえらい二神すらそうであるから、ましてやわれわれ凡人が解らぬことを勝手に理屈をこねてはいけない、という。

 ところが、天神もお解りにならないのか、占いをされる。〈ふとまに〉というのは、占いの一種らしい。〈うらへて〉は卜相(うらあへ)て、これも、天神すらこのように、解らぬことは占って神の御教えを受けられるものである。

 分からんものは分からん!これが大事なのよ。

 この話。そもそも男神より先に女神が先に言うのは女男の理に反する。それは、イザナギ・イザナミ以前から、ペアの神々はみな男が先に成りませるからだ。これ天地の初めからおのづからの理なりであって、「人の得測り知ることにはあらず」なんです。

 分からんものは分からん!これが素直な心なのよ。

 御二人が天神に訊きにいかれるとき、不良子(フサハヌコ)がどうして生まれてきたか、まだ御理解されていない。天神もお解りにならない。つまり、女神が先に言ったことと不良子が生まれたこととの因果関係がお解りにならない。

 ところが、後の人は、占いの教えを知ってから、初めの行為の吉凶を云々する。あるいは、陰陽の理屈から、つまり初めに理があって結果をいう。今の用語でいえば、一般公式から実例を演繹する、ということになるのかな。こういうのを〈漢心(からごころ)〉として宣長は激しく排撃する。

 また、御二人は悪いことと知っていながら、天神を敬うゆえにお尋ねした、とか、悪いことをすぐ改めたのはさすがだ、とかいう論は、そういう論が好きな儒者心だ、と排斥する。
         
ともかく、そのような理屈は、生きた現場に触れることはできない。ところが、上代の人々は現実に生きていたのであり、その生きざまは、まさに上代のコトバに表れているのであり、大和心はそこで躍動している。〈大和心〉は、宣長の徹底した言語実証主義から立ち現われる。




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『古事記と日本人』

渡辺昇一著『古事記と日本人』再読。

『古事記』に表れた神話とゲルマン神話が酷似していること。明治維新の神道オンリーの方針は、用明天皇以来の皇室の方針に反対する偏狭さがあったこと。神代と人代を分かつのは、皇室の九州時代と大和時代における豪族との対応の違いであって、前者においてはいわば平和外交が主であり、後者は戦争と殺戮となること。などいろいろ共感したり、教えられ考えさせられることが多かった。

 また興味深かったのは、カントには祭りの概念が欠けている、という点だった。祭りは神様を喜ばせようとすることであり、芸能の起源である。われわれは、悦びのために存在していると言っても言い過ぎではない。しかるに、カントには勤労とか義務とかが最重要であり、これはプロイセン・ドイツの男性的原理の社会にふさわしく、プロテスタント的傾向もこれを支持する、という。

 この解釈に疑問を感じつつも、たしかにカントは人間の集団的陶酔の民俗学的ルーツの探求はしなかったように思う。というより、そのようなことは問う必要がなかった。彼にとって、快楽の感情の及ぶ範囲を正確に測定すればよかった。

 そしてまた渡辺氏は、国家についての二つの傾向がある。一つは国家の起源を超自然的要因に結びつける。もう一方は現世的な要因のみで成り立つ。だんだん、前者が少なくなって、後者のように考える傾向が増えてきている。啓蒙主義の後、アメリカは独立宣言を発表したら国家は成立。フランスは革命を起こし憲法を作成したら国家は成立。ソ連は言うに及ばず。これらは容易に大量殺戮に向かう、「日本はその起源が神話に基づき、その文化の中枢部はかつて啓蒙されきることがなかった。ここに日本が二十一世紀を生き抜く鍵があると言ったら超自然的すぎるであろうか」と書いている。

 欧米の国家観については、小生疑問があるが、渡辺氏の言う日本の文化の中枢部とはもちろん皇室のことであろうし、そしてこれが存在する以上、存在させている以上、日本人のいわば本能的な親和力、秩序形成力が保たれている、これなくば日本はニュートラルな弱小国になる、とも思う。
  (これなくてはいけないのですか、というレンホーの声が遠く聞こえる)

 しかし、そういう中心を持たぬ他国が、その良さを認めたところで、ではこれから持とうとして持てるはずもない。むしろ、その弱点を突いてくるであろう。近現代史を見てのとおりである。どこの国の人だって愛国心はあるし、個人的な信仰はもちうるし、政教分離を憲法で謳わなければならないほど宗教的だ。

 では、どうしたいいんだろう、日本。

     
   
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源氏物語玉の小櫛

 誰でも、うれしい、かなしい、びっくりした、不思議だ、などと感動した時、それを人に話したくなるであろう。それが物語の始まりである。
 他人に話したとて、それが何かの役に立つ訳ではないけれども、少なくとも話せば自分の心が晴れる。どうしたわけか人は深く感動したとき、そのことを自分の心の中に閉まってはおけないのだ。そしてそれを聞く人も感動する。
 しかし、物語は創りごとである。しかし物語を創る人は、でたらめに創るのではない、物語にことよせて、感動したことを語るのである。

 物語の中での〈よし〉〈あし〉は、この感動の深浅に一致する。源氏物語においては、作者は光源氏に圧倒的に〈よき事〉を集中させている。すなわち、心根、振る舞い、のみならず、社会的地位、容貌、いろいろな芸事など、あらゆることが、〈よい〉のである。そして、源氏は多くの女性に恋をする。それがまた〈よき事〉なのだ。なぜなら、人生でもっとも感動するのは恋の道においてなのだから。しかし、それは単に好色というものではない。感動するとは〈あはれ〉つまり〈もののあはれ〉を感じることであって、一時的な〈あだ事〉ではなく、いわば永続的に前向きなこころである。
 
 儒仏のいわゆる道徳などを考えることは、ここでは間違いである。仏教はこの世の欲望、恋心など〈もののあはれ〉を捨てよという。そして、源氏物語においても、多くの女性たちのみならず、源氏自身も出家、剃髪し世を捨てるなどを考えるが、そのことは作者式部がそれをよしと考えたのではなく、また物語にことよせて仏教教義を説かんとしたのでもさらさらなく、当時の人たちはみな仏の道を思ったり話したりした、その世相そのままの姿を描いたのであって、そのことがまたすなわち〈もののあはれ〉なのだ。

 源氏が、父桐壺帝の妃藤壺中宮と密通するなどはもってのほかの不義・大罪である。さらにその子が帝に就くというは、もう皇胤の撹乱であって、めちゃくちゃである。
それは道理にはずれているということは先刻承知の藤壺中宮という女性は最高の〈よき〉女性であり、二人の恋は〈もののあはれ〉が一段と深い。

物語における〈よし〉〈あし〉。あしき人の代表としてこの物語では、弘徽殿の女御を挙げている。この女御は、源氏の敵であり、源氏に対して意地悪いのである。〈よき〉人に対する敵は〈あしき〉人である。また、朧月夜の君も浮気であだなる人で、〈もものあはれ〉をあまりしらない〈あしき〉人のようだ。小生は結構好きだけど。

〈もののあはれ〉を読者に感じさせるのが物語の本質なのだ、と式部は言っていると宣長は言う。いったいこの式部という女性、夫を亡くし非常な学があったといわれる女性は、いかなる広い眼で人の世を観ていたのだろう。

 仏教道徳あるいはいまならキリスト教道徳は、いわば絶対的、超越的最高善を求めるであろう。それに照らして、行動したり思考するであろう。その線で行くと、物語の〈あはれ〉は倫理性の欠如だというかもしれない。が、宣長は言う、人が〈あはれ〉を知れは知るほど、「身ををさめ、家をも国をも治むべき道にも」通じると。人の親や子を思う気持ちをあはれと感ずれば、どうして不孝はでてくるか、民の苦労をあはれと感ずれば、どうして不仁が出てくるかと。

 宗教道徳を求めること、それすら世相、人の本性の一つであって、〈あはれ〉に吸収されるとしたら。
・・・・・・
 そして、この世は物語である。

 「世界は美的現象としてのみ是認できる」というニーチェの見果てぬ夢はこの物語においてすでに達成されている。



〈あはれ〉を肯定する人は↓↓
           

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英会話の必要性

『日本語が亡びる時』のなかで、著者は英会話の重要性を指摘している部分がある。著者はアメリカで日本文学の講師でもあるようで、政治経済あらゆる分野で日本人の英会話能力の低さをひしひしと身にしみて感じておられるようである。

 太平洋戦争が始まる直前の緊迫した折衝が行われるなか日本側外交官らの英会話能力の悪さにアメリカの要人たちは驚いていたという。そして、いま現在、英語を母語とする英米人はもとより、英語に堪能な外国人によって、近現代史を語り創られていくのをみると、隔靴掻痒のもどかしさを感じておられるようである。
 もちろん営業分野しかりである。どうどうと英語で外国人に渡り合える日本人がなぜかくも少ないのか、そのことがいかに国益を損なっているかと。

 だからといって、英語を第二国語とする必要はない、という。国民によって任された政治家や各分野での一部の人たちが、できるようになればよい。そのためには学校や学校外での英語教育はどうあるべきか。

 それはそれとして、われわれが教えられてきた世界および日本の近現代史がいかに間違っていたか、国内ではというか、インターネットにおいては、だいぶん議論されるようになってきたけれど、国内での情報交換だけでは、どうしようもない。多くの人がそう感じていると思う。これを諸外国語で発信していく必要を、とくに国際語となりつつある英語で、しっかり発信してく必要を感じていると思う。

 しかるに我が国政府は、そのような人材を育てようともしないばかりか、そもそも国家の目標すらもっていないように見受けられる。日暮れて道遠しの感を否めない。国家がそのような体たらくであるならば、民間から発信するしかない。・・・というようなことで、外国語で発信し始めている人たちがいるようだ。

 小生はもう諦めているけれど、まだ若い人なら、これから英会話ぺらぺらになって、どんどん外国に飛び出して、どうどうと日本の立場を主張し、英語で論文を書きまくってもらいたいと思う。英会話は、外国人と仲良しになってパーティに参加し一緒に写真をとって喜ぶためだけにあるのではないのですぞ。
 

 しっかりした目標をもってがんばって!

  頑張りたいと思う人は↓

     

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『日本語が亡びる時』

久しぶりに最近出された本を買って読んだ。水村美苗著『日本語が亡びる時』

 いま日本語の文章を読んで心をときめかせる日本人がどれだけいるであろう。この文章の言い回しのなんと絶妙なこと、なんと繊細な陰影に満ち溢れていることか、もっとこの美に浸っていたい、と本を読んで感じる日本人がどれくらい居るのであろう。と思うことが時々ある。

 今や、科学論文は英語で書かなければ話にならないし、政治経済の現場では英会話が必須である。そのうち文学も英語で書くような時代になるかもしれない、そうすると世界に冠たる「日本文学」も消えてしまう。そういった危機感をアメリカ在住の小説家である水村氏は強くもっておられる。

 水村氏は断定して曰く「文化とは〈読まれるべき言葉〉を継承することでしかない」。
 しかし現代日本の為政者は〈読まれるべき言葉〉を教育の現場から消しつつある。

 「中国の文化大革命は一党独裁のもとでおこったことである。クメール・ルージュの虐殺も長年にわたる植民地支配、それに続いた腐敗政権、さらにはヴェトナム戦争の波及効果のせいでおこったことである。しかし、日本は戦後五十年のあいだ、平和と繁栄と言論の自由を享受しつつ、知らず知らずのうちに自らの手で日本語の〈読まれるべき言葉〉を読まない世代を育てていったのである。〈書き言葉〉の本質が読むことにあるのを否定し、文化というものが〈読まれるべき言葉〉を読むことにあるのを否定し、ついには教科書から漱石や鷗外を追い出そうとまでしたのである。そして、誰にでも読めるだけでなく、誰にでも書けるような文章を教科書に載せるという馬鹿げたことをするようになった。」

 千三百年に及ぶ日本人の書き言葉の工夫によって、漢字・ひらがな・カタカナの複雑な混淆。明治から昭和初期にかけての文豪らの西洋語との格闘から生まれた近代文学すなわち「国語」。

 「日本近代文学は、西洋語の翻訳から新しい日本語の〈出版語〉を生むため、そして、その言葉で〈西洋の衝撃〉を受けた日本の〈現実〉について語るため、日本語の古層を掘り返し、日本語がもつあらゆる可能性をさぐりながら花ひらいてきた。日本近代文学を読む習慣さえつければ、近代以前の日本語へさえも朧気に通じる。」

 水村氏は、日本の文化を守るためには、「日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである」と再三主張している。
 
 日本語の書き言葉の、世界の他に例を見ない絶妙さについて例えば、こういう例を挙げている。

 「ふらんすに行きたしと思へども
  ふらんすはあまりに遠し
  せめては新しき背広をきて
  きままな旅にいでてみん。

 という例の萩原朔太郎の詩も、最初の二行を

  仏蘭西へ行きたしと思へども
  仏蘭西はあまりに遠し

 に変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよと頼りなげな詩情が消えてしまう。

  フランスへ行きたしと思へども
  フランスはあまりに遠し

 となると、あたりまえの心情をあたりまえに訴えているだけになってしまう。だが、右のような差は、日本語を知らない人にはわかりえない。

 蛇足だが、この詩を口語体にして、

  フランスへ行きたいと思うが
  フランスはあまりに遠い
  せめて新しい背広をきて
  きままな旅にでてみよう

に変えてしまったら、JRの広告以下である。」

 水村氏の言う〈読まれるべき日本語〉に接しない世代が増えてくると、この辺の感覚がだんだんと鈍くなり、いっそのこと、英語で書こうが日本語で書こうが、意味が同じならいいのではない、となろう。だが、そうなったら〈日本文化〉は終わりである。


  

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『親鸞』古田武彦著

 久しぶりに心躍る本を読んだ。綿密な考証学的研究の報告と何よりも親鸞の言葉の真意を自己の問題としてどこまでも追及する姿勢にぐいぐい引っ張られた。
 この姿勢はもちろん著者である古田氏のもともと持っておられた特性でもあろうが、それよりもむしろ親鸞によって誘引されたものだ。そのことは、親鸞に起こったことを著者が述べている次の下りと同じことが著者に起こったためである。
 「夜が明けて太陽が出るのではない。太陽が出て夜が明けたのだ。〈信仰〉と〈地獄〉の関係もそうだ。〈地獄行きの身〉だとわかっていたから、法然にたよったのではない。法然に会ったから自己がそのように見えはじめた。」
 つまり、親鸞に出会ったから著者は自己に向かったのだ。

 親鸞の有名な言葉がある。そのひとつに「一人の弟子ももたずさうらふ」がある。彼は他人に教えるただ一つの言葉もなかったのであろうし、教える場所も持たなかった。およそ寺というものと無縁の人だ。あの巨大な東西本願寺は親鸞の生き方と無縁であるのは、ヴァチカンがイエスと無縁であるのと同じである。
 そう言えば、親鸞はイエスとよく似たところがある。
 「わたしは父母の死後の祈りのために念仏したことは一度もない」と言い切る。生きとし生けるものはみな同じではないか。
 ・・・現代住宅にしては大きすぎる曾祖父の時代から伝わる仏壇を邪魔だと思いながらも廃棄することができず、父母の命日などに限って拝んだりする小生の小ささと情緒的無思慮を思う。

 彼の「弥陀信仰」は絶対である。己には必ず善ならぬところがあって、自立はできない、だからこそ他力によって救われなければならぬ。そのためには「ただ念仏すること」。念仏とはどんな意味があるのか?そんなこと知らないね、となる。この意味のない念仏を唱えることの深い意味を親鸞は法然から悟った。だから、また有名な「たとひ法然聖人に騙されて念仏して地獄に落ちたとしてもさらに後悔すべからずさうらふ」となる。
 これは「たとえイエスが真理の外にあったとしても私はイエスと一緒にいたい」というドストエフスキーの一句を思い起こさせる。およそ、理屈でも心情でもない信仰というものの不思議な領域が人間の心のどこかにかならずある。
               *

 古田氏は親鸞の世の常識や体制にとらわれぬ態度を高く評価するが、親鸞がどうにもならぬものとして悪戦苦闘したのは、結局どうにもならぬ己の心であった。弥陀信仰を除けば、彼は彼の一世代前の西行とよく似ていた人ではないだろうかと、つい空想したくなる。
 「見るも憂し いかにかすべき わがこころ
   かかる報いの 罪やあるべき」(西行)

 〈いかにかすべきわがこころ〉を、西行は和歌を創ることによって耐えた。親鸞は弥陀信仰による己の否定によって耐えた。


  

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『夜明け前』について

 藤村の『夜明け前』を少し前に読んだが、読後感を書こうと思っていたが、なんとも苦しい気持ちが続いていた。放っておくのも気持ちが悪いから、ちょっとだけ書いておこう。ただ、藤村の主人公(父がモデルらしい)にたいする愛情の強さが小生にとって救いであった・・・それにしてもこれは大著だ。

 主人公半蔵の生涯。何というか身につまされる。これは小生か。

 主人公は東山道の馬込宿の本陣庄屋問屋を経営している伝統ある家に生まれた。時は幕末。親の世代の影響を受け江戸幕藩体制の一翼を担っているという自負もあるが、一方長年に及ぶ封建体制の悪しき面も否応なく目に入る。仏教僧の堕落、武士や公卿の農・工・商への謂れのない圧迫。そこへ黒船だ。体制が揺れる。折から国学を志した半蔵らの世代が、新しい復古、尊王の時代を夢見て動き出す。

 しかし、明治という時代になって、半蔵ら国学の徒らが思い描いていた〈宣長の儒仏以前のまことの道〉から国が逸れていく。社会のシステムは早々変わって、馬込宿は見る影もない。半蔵の夢もいつしか新しい世代の者からも離れてゆき、社会との連帯を失って、半蔵は己の夢の中に孤立する。平田派の古き神の道に従い、神仏分離の必要に捉われた彼は、ついに夢を貫こうと家の菩提寺に火を点けようとするところを村の者に見つかり捕まる。以前は人望があったので、警察沙汰にはされなかったものの、座敷牢に閉じ込められる。家族や村の者はいたわるが、彼は喚きちらしたり、ウンコを投げつけたりしながら、徐々に衰弱して死ぬ。
 
 漠とした美しき理想、時代の変化、家の崩壊、己の孤立と衰弱・・・ああ小生のことが書かれているみたいだ。なんとも心が痛む。

 思えば、半蔵は〈まことの道〉を制度や政治に求めたのがいけなかったのではなかろうか。彼はすでに日常生活のうちにそれが達成されていたのではなかったか。あるいは、歌の道にもとめるべきではなかったか。

 さらに思うに、皮肉なことだ。磐石の徳川体制という安定した社会において栄え始めた国学が、あるいはひょっとしてあの『大日本史』が、二百年の後に体制崩壊をきたすことになる初めの小さな種であったとすれば。

 
                                   
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泉鏡花『高野聖』を読む

これを読んだのは何年ぶりかな。おそらく二十年振りくらいだろうか。詳しいことはまったくと言ってよいほど忘れていたが、あの一種独特の雰囲気だけは残っていて、高野聖という名を思い浮かべる毎に、自分のうちにあの暗い雰囲気は、月が照る夜に渓流のそばに居る女に収斂していくのであって、いつかまた、もう一度これを味わいたいと思っていた。それで、読み返した。読み進むうちに、なるほどこんなことがあったな、と遠いおぼろげな過去を思い出しながら読んだ。
 この作品は、不気味なもの、恐ろしいものの正体をもっと知りたいと、読者に感じさせるよう、初めから工夫されている。読者は坊さんと初めに知り合いになる。その坊さんの体験した不思議な話である。
坊さんが、危険な山道をーそれがどうして危険であるかを、読者は色々想像するようになっている、―薬売りを呼び戻そうと義侠心を起して、一人で上っていく。そこには坊さんの苦手な蛇が横たわっていたり、昼なお暗き森を通過するときに蛭の大群に襲われたりして、ほうほうの態で峠を越えると、人里はなれた一軒の家がある。
時は夕暮れ、ここで一休みさせてもらおうと頼む。ここには、まだ若くて歩行が出来ない出臍の白痴とやや峠を過ぎたと思しき歳の妖艶な美しい気性のはっきりした女とが住んでいる。もうそれだけで、十分不気味な状況のなかに読者は入ってしまう。
そこには・・・・・〈あらすじなど書かないほうがいいであろう。読んだ人には退屈、読んでない人には興ざめ〉
 鏡花の文体は、抑制が効いていて、おせっかいでないため、かえって読む者の想像力や情動を高め、読後に強い夢のような印象をあたえる。そうして人はこのような恐怖を欲していることを、それとなく知る。

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福沢諭吉『文明論の概略』を読む 2

日本の特徴。
 福沢諭吉は合理主義者であったが、形式主義に陥ることはなかった。そこが一番よく分かるのは、国体論である。それは諭吉の言葉でナショナリティといもので、日本においてその輝きは万世一系の皇統にあるとみた。
 そして武士が実権を握って以来、七百年、権威としての天皇と幕府の権力との二つの勢力があったからこそ、その二つを兼ね備える皇帝の下にあった硬直した中国の国体にくらべて、柔軟であり、それゆえ文明化されるのに都合がよかった、という。
だが一方。
 西欧の歴史のダイナミックス。王、諸侯、教会、商人らが、それぞれ力を持って己のエゴイズムを発揮して、しばしば歴史を動かしてきたのに比べ、わが日本は、時の政府に余りにも権力が偏してきた。秀吉も百姓から天下人となったが、彼は百姓のままで、農民と連帯したのではなく、百姓を止めて武士となったのであり、それは既成権力に付いたのである。日本の歴史は日本政府の歴史であった。これはある意味マイナスであって、その気質は今なお続いていて、日本人は多様性が発揮できにくい、国民は国政に無関心なままである、一般人は「知らざるは憂いなし」、日本人は自国民だという意識が希薄である。
 文明とは自国の独立のための術である。そのためには、様々な分野の発展が必要であって、例えば単なる軍事力の増大だけで他国に並んだとて、いわば虎の皮をかぶった羊である。
 日本人はまだまだ文明国ではなく、文明国の何たるかを知らない。だから外国との交際においても、「あくまで誠意を尽くして付き合い、決して疑念を持って当たってはいけない」などと、個人交際において真である道徳を、誤って国と国との交際にまで広げて考えてしまい、実のない空論を論いやすいという。

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福沢諭吉『文明論の概略』を読む1

福沢諭吉『文明論の概略』 明治8年刊行

 ここには色々なことがいっぱい書かれている。それを書かしめた熱い思いは充分伝わってくる。明治八年の諭吉の熱い思い。それは、西欧諸国に接してこれから日本はどのように生きていくべきかという問題である。

 様々な問題について論ずる前に、まず議論するという事はどういうことか、から説き起こしている。明治八年といえば、帝国憲法発布そして第一回帝国議会開催(その時は、日本中提灯行列で祝ったそうだ)より、十五年くらい前だ。人が正しく論議するとはどういうことか、それからまず論じなければならなかった諭吉の苦衷を察しなければならない。

 世を見渡すに、人は議論と言っても、枝葉ばかりに拘泥し本来の目的を見ない、或いは己の好き嫌いでものを言い、相手を論駁しようとばかり考えている。だから先の先まで深く考えている人の意見を聞くと、それはあまりに変った意見であると排撃し、それに真摯に向き合おうとしない。そういう態度の人々の集積が世論というものを形成する。だから世論でもってしても進歩が見られない。古来文明の進歩を促すような画期的な説は、発表された時点では異端妄説であった。アダム・スミスを見よ。だから、学ぶものは勇気を出して、考えるところを述べるべきだ。そして人々は謙虚に議論しあうべきだ。まずそれから始めること。

 国家の行方を論ずるに、枝葉とは個人的な利害、目の前の便不便であって、正しく議論を深めていけば、かかる枝葉は消え、文明化への本体が見えてくるはずだ。そこから議論が始まる。

これが書かれてからすでに百年以上経つが、テレビなどで政治論争を見たり、われわれの日常の議論を振り返ってみるとき、まだまだ日本は本当に文明国かと疑われるときがある。



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幸田露伴

幸田露伴著『五重塔』(明治二十四年)を読んだ。
 これはまた噂どおり凄い傑作だ。しかも、作者二十五歳の時の作とは。天才だな。文体が歌舞伎調で、場面が次々に目に浮かんでくる。西鶴や近松浄瑠璃で育ったんだろう。文章は切れ目なく、途中で主語が替わっていてもおかまいなく続いていて、すべてが明瞭。余分な説明がないのが気持ちよい。
 主人公十兵衛は大工仕事一途の朴訥者で、棟梁にしばしば仕事をもらっているが、あまりに丁寧でゆっくりしているため、仲間からは「のつそり」とあだ名されている。「のつそり」は一見清貧の善人みたいであるが、あまりに仕事一途で、その融通が利かぬこと、読んでいて腹が立ってくるほどだ。
もう一人の副主人公ともいうべき大工の棟梁源太は、もちろん社会的地位は上で金持ちである。彼の妻はここにほれ込んではいる。棟梁は実に気持ちのよい江戸っ子気質である。古きよき江戸の良識が支配している時代のあるとき、五重塔を造るよう源太に寺から依頼がある。そのことを耳に挟んだ十兵衛は、天の声を聞いたかの如く、その仕事を是非に己にと住職に頼みに行く。
十兵衛にとっても源太にとっても、金のためではない、一世一代のおのれの技術を世に示したいがゆえに、なんとしてもその仕事をしたい。住職は二人に、兄弟の譲り合いの寓話を話し、お互いに考えろという。
二人は悩みに悩んだ。十兵衛は身分も考えずこの仕事は己のものだと信じこんだ事が苦しさの元凶だとして、やはり源太に譲ろうと考えた。一方源太は公平に二人で協力して造ろうと十兵衛に提案をした。が、五重塔は一人の入魂の作でなければならぬ考える十兵衛は協力案を拒否し、すべて源太に譲ると言う。
源太も住職の寓話を聴いた手前、己の仕事になったとは言いにくい、そこは江戸っ子、きっぱり十兵衛に譲り、ついでにあらゆるノウハウを十兵衛に提供するとまで言う。ところが、十兵衛はそれも拒否し、己の仕事は一から十まで己がやるべきだと主張するところは、頑固一徹も異様である。源太はこれほどまでの親切をいとも簡単に袖にする十兵衛に激怒する。
結局住職は十兵衛に依頼することになるが、義侠心に富んだ源太は蔭で支える。出来上がった五重塔は暴風にも耐える立派な代物、そして住職は塔に二人の名を書き記した。
 幸田露伴っていう人は、金や名誉や家庭よりもたった一つの天職に打ち込む人を描きたかったのであろう。そうして評伝を読むと、露伴の天職とは、おそらく物書きではなかった、それは如何に生きるべきかの探求であったようだ。そのような人の残した作品をもっと読んでみたい。

                                                   

テーマ : 読書 - ジャンル : 小説・文学

ベルツの日記 下 2

この書は、明治が終わると同時に終わっている。最後は、親しく付き合った伊藤博文と、明治天皇について追想を述べている。 

伊藤博文については、誰もが知る、酒と女と煙草をこよなく愛した、そして、それをまったく隠そうとしなかった、また伊藤はいかなる困難な状況にある時でも「いつ会っても、まるで心配を知らない人間のように、微笑をたたえて、冗談をとばすのであった」

 「伊藤が、人もあろうに韓国人に暗殺されたことは、かれが日本における韓国人の最上の知己であっただけに、いっそう悲劇である。・・・軍部と新聞が、(韓国に対して)思い切った処置と武力による圧制を要求した、伊藤は穏便な出方を支持したのである。・・・・・」

「ヨーロッパでは、韓国における日本側の過酷な仕打ちについてのみ聞かされているが、学校を建てたり、合理的な農業や養蚕を教えたり、鉄道や道路を設けたり、勤勉で熟練した日本の職工や農夫の手本を示したりして、日本側のあげた業績については、何も知らされていない。しかし、筆者は、三回この韓国を訪れて親しくその事実を確かめたのである。・・・」

明治天皇については、
「23年間にわたる立憲政治の後、彼が世を去ったとき、天皇を神格化する見方が依然として強く国民の間に生きていたことを示すあらゆる言動を、その葬儀のさいに見せつけられて、ヨーロッパは一驚した。ヨーロッパの君主が、その国家と国民に対して占める地位に比べ、おそらく天皇の地位は、簡単に定義すれば、次のように言えるかもしれないーー天皇は、単なる人格を表すというよりも、むしろ、ある観念の人格化されたものを表すと。したがって、日本の天皇は、ドイツの『ウィルヘルム』とか、イギリスの『エドワード』というよりも、『ゲルマニア』とか、『ブリタニア』というに近い」

天津日嗣のこの世の保証が血の連続であることを考え合わせて興味深い。


                                                       


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ベルツの日記 下

多くのページが、日露戦争への言及でさかれている。
日々の成り行き、そして国内の政府要人らの意見、また多くの国々の軍人や公使らの意見、日本および外国の新聞記事などから成っていて、時の緊迫した様子が手に取るようで、なかなか面白い。

開戦前夜の記事は、さながら太平洋戦争直前を思わせる。
「戦争はますます不可避だ。ロシアは日本をなめてかかっている。戦備は整えるし、韓国と清国では勝手気ままのし放題という有様で、しかも一方ヨーロッパには、極めて平和的な報道をばら撒いている。日本の株はロンドンにおいてすら、すべて下落している。だから同地でも戦争を予想しているのだ。もちろん、イギリスにすれば、この戦争は幾多の点で甚だ好都合である。ロシアも日本も弱くなるから。」
「・・・ロシアは日本側の申し出に対しては、まるで6週間も全然回答を寄せない有様で、その口実たるや云々。ロシアは、日本側からやむを得ず宣戦布告するように仕向けようと思っているのだ・・」

そして、日露戦争が起こり、日本もロシアも沢山の兵が死に、莫大な戦費を費やした。米英は金貸しで大もうけ、英はバルチック艦隊の邪魔をちょとして裏で石炭売って大もうけ。漁夫の利。日本のおかげで、清国へのロシアの南下は阻止され、英の権益は安泰。自ら血を流さずして、濡れ手に粟!!日英同盟とはこのことなり。
「イギリスの計画におあつらえ向きななおは、日本もまたあまり強大にならないことだ。かくてこそイギリスは、東アジアで思いのままに振舞えるのだ。イギリスのこんな狙いどころは、元来だれにでも判っている筈なのだが、日本の新聞は判らないー否、それを知りたくないのだ・・。」
今も昔も同じだな、日本のマスコミ。

そして、今後日本が強国になると、いずれアメリカと日本が戦うことになるだろうと、アメリカの大佐が言った、そしてベルツもそのことに同意している。このときから大東亜戦争は必至だったのかな。

また、ベルツが祖国の大失敗として何度も言及していることは、日清戦争で日本がせっかく得た戦利品を、また奪い取られたことについて(三国干渉)、その原因は主にドイツにあるということ。そしてロシアの権威筋は、ずうずうしくも、ロシアはドイツに誘われて干渉に加わったと弁明していると、大怒り。

また、明治37年第一次日韓協約については、日本は韓国の主権を侵害しないと言いながら、韓国人の感情を意に介することなく、進んでいる、と手厳しく日本のやり方を批判している。

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澄み濁るをば神ぞ知るらん

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