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葛城行き4

二上山に沈む夕日に西方極楽浄土を見るのなら、考えてみれば、この旅は、西方極楽浄土に始まって、またそこに終わった感がある。というのは、僕はまったく忘れていたが、四天王寺の西門にある例の鳥居だが、あれは寺がある東から西の海へ入り日を拝むためであった。なるほど、『弱法師』にある、「極楽の東門に 向ふ難波の西の海 入り日の影も 舞ふとかや」と言われるほど、中世では、すでに四天王寺は、洗練された西海極楽浄土への入口として有名であったのだ。

あの時代、日本の玄関は西に向いていた。日本人は西からやってくる渡来文化にいかに憬れていたであろう。仏教は中国から伝わったというものの、もとはチベットの向こうのインドからきたものだ。西方極楽浄土への憧れは、われわれが想像するよりは、もっと芳しい、一種の華やかさを伴っていたのではないのかな。

折口先生は語る―

わが国には、仏教が入ってくる以前から、日を拝む信仰があった。その昔、女たちは野遊び・山籠りという風習があって、どこと言うことなしに、東に西に日を追って廻っていたが、最後に行きつくところは、山の西の端、西の海に沈む日輪を拝んで見送った。

それが、仏教が入ってきて、その経典の影響は深く、いわば習合がおこって、いつしか洗練された形式、日想観を生んだ。ましてや彼岸中日ともなれば、日輪への憧れは頂点を極めた。そこへ天台の僧源信が「山越の阿弥陀図」を描き、それは彼の生まれ故郷の当麻と切り離せないものがあった。そのようなことから、中将姫の「蓮糸当麻曼荼羅」の伝説が生まれたらしい。

     憧れは 彼岸を待たぬ 病かな



     


     
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葛城行き3

明くる朝、朝食を済まし、橿原神宮へ参る。以前にも訪れたことがあるが、こんなに広かったかなと思う。

   橿原神宮


家内安全を祈願し、改修の募金一口二千円を寄付し、大池を見る。遠景が墨絵のそれのようで、静かで、どことなく古代的だ。沢山の鴨がピーピーという鳴き声を立てながら、水面を滑るように、こちらに向かってやってくる。餌でも持っていればやるのだが。

   鴨池


社務所の横にちょっと変った大きなクロガネモチの木がある。根元のところどころに小さな赤い実が落ちている。数個拾って、後に家の庭に植えた。たぶん生えてこないだろうけれど。

帰りがけ、手水所で、熟年というより老年に近い夫婦が手を清めていたが、奥さんの方が杓を口に持って行ったので、こうして漱ぐのだと教えてやった。へえ?という顔をしたものの教えた通りやった。そして、「ありがとう」と言った。てっきり中国人だと思っていたら、(たぶん)日本人だった。

それから、車を取りにホテルに戻り、橿原考古学研究所附属博物館へ行った。ここはじつに素晴らしい。それこそ石器時代から中世まで、一望のもとに詳細に見渡せた感があった。文字よりも物のほうが、はるかに説得力がある。しかもわが所有する小さな謎の焼き物の正体が判った。これは大きな収穫であった。館内には案内人が何人かいて、その中の一人と楽しく話しながら、見て回ることが出来た。しかし、そのためにだいぶん時間が過ぎた。

  冬晴れに わが陶片の 謎解けぬ

 急がねばならない。自然、足は当麻寺に向かう。もう一度あの伝説の当麻曼荼羅を見ておきたかったのだ。当麻寺に続く背後の二上山に沈む夕日に憧れるあまり、ついに眼(まなこ)に如来が映った、それを蓮の糸で織り上げた布に一気呵成に描いて成ったのが西方極楽浄土を思わせる曼荼羅図であった。この中将姫の伝説は、折口信夫の『死者の書』を読んだ時から、ずっと心の隅にあった。ましてや、桜井・飛鳥を訪れたときは、自然に二上山は目に入る。そのたびごとに、気になる問題のようにもやもやと蘇った。

  夕日影 ながめて寺の 騒ぎかな 

二上山の山頂には大津皇子の墓がある。万葉集に触れたことのある人なら知る、この文武両道に秀でた伝説的な皇子は若くして処刑される。皇子はその前に斎宮として伊勢に居るお姉さん(大伯皇女)に〈密かに〉会いに行っている。皇子の妻・山辺皇女は殉死。この話は東征に向かうヤマトタケルを連想させる。


大津皇子の屍が葛城の二上山に葬られた時、お姉さん大伯皇女の作った歌(万葉165)

  うつそみの 人なる我や 明日よりは
      二上山を 弟(いろせ)と我(あ)が見む


 『日本書紀』には、大津皇子は謀反が発覚し処刑されたと書かれているが、その真相はともかく、詩文芸に優れ、剣をとっては敵なし、性格あまりにも豪胆、その上、美男で礼儀に篤いとなれば、われわれは惜しい男を亡くした、と思うと同時に、彼には不吉な運命が予定されていたと感じる。

当麻寺はとても広く、その全部を回ろうとするとだいぶん時間がかかる。とりあえず本堂の、あの曼荼羅(江戸時代の転写らしいが)を見て、とはいえ暗くてじゅうぶん見えない。しようがないので、ポスターを買って出る。それから講堂と金堂内の仏像を拝んで、帰るさ少し境内をぶらぶらしているうちに、せっかくだから中之坊という寺の庭園を拝観した。

ぐるりと書院を巡ると裏手に庭園がある。池に囲まれた島にサルスベリと思われる木がひときわ目立つ。静かだ。誰もいない。そよともしない池の面に浮かぶ変色した睡蓮の葉が、無住の侘びしさを醸し出している。唯一あちこちに真っ赤な実をつけた千両が地味な庭に華やぎを与えている。

  中之坊庭


  巡りきてふと振り返りまぼろしか
       池のほとりに立つわれを見る


もう2時だ。すぐ近くの食堂に入って、あまり美味しくないうどんをすすり、さあどうするか。

二上山に登って大津皇子の墓参りをしておきたい。ここから直接登ると、一時間半かかるらしい。今の身体ではちょっと自信がない。竹内街道沿いの駐車場からだったら30分くらいで登頂できると、昨日博物館員から聞いたから、時間的にも、体力的にも、その方がよい。しかし、このコースは帰り道からは遠ざかる。途中の道路の混雑を予想して、できれば3時までにどこかの高速入口に入りたいと思っていたが、今は2時半だ。無理である。大急ぎで登れば、ひょっとして途中で息苦しくなるかもしれない。二上山は断念して、帰途に着き、途中余裕があれば長谷寺にでも寄っていくか、という考えが頭をよぎる。

しかし、今回は葛城だけに絞るべきではないか、しかももう二度と訪れることはなかろう、はやり無理をしてでも二上山へ登っておくべきだ、と考え直した。
当麻寺から10分ほどで街道沿いの登山口駐車場に着く。出来るだけリュックを軽くして、さあ出発。

  二上山登り


初めのうちは軽快に登る。しかし、このペースが30分も続くわけがない。誰にも遇わない。ときにこの道で大丈夫なのだろうかという不安がよぎる。一人の女性が降りてくる、路を尋ねると、これでいいと答える。もう少し行くと一人の男性が降りてくる。声をかけても、黙って通り過ぎる。結局、二上山の雄岳・雌岳の間の「馬の背」というくびれの所に着くのに30分かかった。

  馬の背

さあ、ここからが大変だ。高い方の雄岳は左、すぐ近くらしい雌岳は右。しかし、ここまできた以上、大津皇子の墓がある雄岳に登頂しなければならない。長い休憩は反っペースを狂わす。息が鎮まるのを待たず、雄岳を目指して歩きだす。やはり急激に苦しくなってきた。初めのうちは30歩歩いて、1分休憩、最後は10歩歩いて休憩。死の直前の苦しみに耐える練習になってちょうどいい、と自分に言い聞かせて頑張った。予想より早く10分余りで頂上に着く。あまりパッとしない小さな神社がある。剥げかかったペンキで「葛城坐二上神社」と書いてある。若いカップルが拝んでいた。肝心の大津皇子の墓はどこだろう。さらに向こうに下り道がある。たぶんそちらの方にあるのではと見当をつけて行くと、あった。

   大津皇子墓


なるほど、少し樹木が邪魔してるけれど、ここから飛鳥一帯はすぐ眼下にある。奈良盆地のほとんどを見渡せる。なぜ彼の墓をここに移したのか解った。


   飛鳥全景

   大いなる 魂(たま)よこの地を 見つづけよ

ゆっくり墓を一巡し、記念に小石を一つ拾って、雌岳に急いだ。雌岳の頂上には、石のベンチが円を描いて置かれ、そのまん中に石の日時計のようなものがある。

   雌岳


ここで、熟年夫婦に出遭った。二人はよくこの山に登りにくるそうだ。散歩にちょうどいい距離だという。なんと健脚なんだろう。僕がこれから駐車場まで降りて行くと言うと、登った道とは違う道を教えてくれた。下山途中で、遠くに大阪湾の海が微かに見える。また大きな石窟の祠の跡(岩屋)と石切り場の跡を見た。この辺りは、奈良時代以前から、古墳に使う石が取れたそうである。岩を切った跡や大きな石塔が散在している。

彼らに礼を言って、駐車場手前で別れた。後は、帰るだけである。とにかく二上山に登ったという満足感が体に満ちていた。奈良盆地を横断する高速道路を飛ばした、右後方に沈む赤い夕日を感じながら。

  二上山全景


やはり、予定より1時間くらい遅れたせいか、途中から高速道路は大渋滞の予報、それで一般道に降りたが、やはり渋滞。この辺りで、正面やや右手に月が出てきた。まんまるい大きな、金色がかった、『サロメ』にでてくるような気持ちの悪い月である。時おり、小さな雲の断片が月を過る、その一瞬、雲の周辺が金色に照らされて妖気を放つ。こんな不気味な光景にさらされながらも、快い疲労感に浸っていた。

   わが魂の 炎は月に 吸いとられ

         

         
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葛城行き2

一日目:朝8時すぎ:
名古屋出発→四天王寺(午前11時)→仁徳天皇陵、昼食→歴史博物館。午後2時までに、葛城方面(葛城山、一言主神社など)→夕方、橿原のホテルへ。

二日目:ホテル→橿原神宮→橿原考古学研究所付属博物館→(その時の体調次第で変更可能)→当麻寺、昼食→(竹内街道)二上山→午後3時ごろ下山→帰路。

しかし、実際は予定通り行かないもの。初めからいけなかった。ナビの指示通りに行ったら、大阪市内を北から南に縦断するコースを走らされたら、やっぱり渋滞していて、ここでだいぶん時間を喰った。ようやく四天王寺に着いたはいいが、こんどは駐車場にすぐには着けず、だいぶん焦った。

   四天王寺鳥居


四天王寺の西の入り口には鳥居があった。なんでお寺に鳥居があるのか、前のお菓子屋のおばちゃんに訊いたら、真西に入り日が見えるからという。ということは、この鳥居は四天王寺のためではなく、海に沈む夕日すなわち西方浄土のためにある、ということか。

  寺よりも 浄土に行きたし 冬の海

手水所で、中国人の女の子たちが、柄杓から口へ直接水を飲もうとしていたので、そうするのではなく、水をいったん手に受け、それで口を漱ぐのだよと、実演して教えてやった。彼女たちはすぐ了解して「ありがとう」と日本語で、さわやかに応えた。

これが聖徳太子の建てたお寺か、例の独特の建築様式なんだな、しかし、残念なことに、五重塔は修繕中で、すっぽりと鉄骨と布で被われていて、何にも見えない。

   四天王寺修理中


  修理日に 寺を拝むぞ おもしろき

広い境内を一周して、看板の図と説明で再確認をしていたら、そこでうろうろしている一人の白人女性旅行者がいた。五重塔が修理中で見れなくて残念だね、と話かけたら、何か恥ずかしそうに言っている。よく聞き取れないので、この寺は日本でいちばん古い部類のお寺なんだ、7世紀初めに一人の天才が居てね・・・、ところで僕はこれから車で、そう遠くない所にある日本で最も大きな御陵を見に行くけれど、もしよかったら連れて行ってあげるよと言ったら、喜んでついてきた。

駐車所の出口を出たところで、ナビをセットしたのはいいが、高速道路入り口周辺には分かれ道や交差点があって、どうしてもうまく高速道路に乗れない。隣に座る彼女の話に神経を集中させていたのも大きな原因だ。結局大きく二・三回同じ道を回り、ようやく高速に乗れた。恥ずかしく大汗をかいた。まあ、事故を起こさなかったからよかった、と考えよう。

  緊張で 大汗をかく 寒の路

聞くところによると、彼女はフィンランド人だ。学校ではまずフィンランド語とスウェーデン語を、次に英語を学んだ。どうしてそんなに英語が流暢に話せるのと訊いたら、英語の映画をよく見たとのことであった。(学校時代、フィンランド語字幕付きの英語の映画をよく見た?と)

御陵と思われる松林が見えてきた。うまい具合に、仁徳天皇陵のすぐ前の専用駐車場に入れることができた。しかも、そこではヴォランティアのガイドが何人かいて、いろいろ図を見せて説明してくれたのが有り難かった。ぼくは彼女に得意の独断的・自己流の英訳をしてあげるだけでよかった。解ってくれたって? さあどうかな。

   仁徳天皇陵


  厚着して 説明を聴く 御陵前

それから、ガイドに奨められるままに、前にある博物館に入った。展示物をゆっくり見て、ここの古墳群の映画を見た。世界遺産登録に精出しているようだ。二時から始まって、15分くらいで済んだが、まだ昼食もとっていないし、出来れば他の歴史博物館も行きたいと思っていたが、もう時間がない。すぐ横のカフェに入って、飲み物を飲みながら、彼女と話をした。彼女は日が暮れるまで、小生の行くところに付き合おうとしているかのようであったが、小生は、葛城は大阪からはちょっと遠いし、一人でゆっくり歩き回りたい、申し訳ないが、ここでお別れしなければならないと、説明した。もちろん最寄りの駅への行き方は、カフェの人に訊いて教えてあげた。

   道連れと 別れていそぐ 冬の午後

遅くなった。真っ直ぐに葛城に向かった。まず葛城山にロープウエイで行こうとした。しかし、駐車場がだいぶん乗り場から下の方に離れたところしかない。ロープウエイは動いているようだが、ぜんぜん人(ひと)気がない。何だか、乗る気が失せた。それで一言主神社に参った。ここには葛城一言主大神が祀られている。その昔、雄略天皇ですら、その御前では畏まったほど神威があったが、いつしか(平安時代に入って)仏法呪力を体得した役小角(えんのおづぬ)にこき使われるほど、力を無くしたという。

   一言主神社


   山の神 冬籠りして 時をまつ

それから、その辺りをぐるぐる廻り、冬の夕闇が迫る葛城の空気を吸った。橿原のホテルへ行く途中、葛城市歴史博物館に寄った。

   大和路の 独り歩きに 暮迫る

橿原神宮駅のすぐ近くのホテルに着いたのは、六時を少し回っていた。辺りは真っ暗で、駅前の広場も森閑としていた。しばらく部屋で休憩をしてから、食事に出た。しかし食堂は一軒もない。しようがないので、駅を一巡するように歩いた。しかし、車は走っているものの、明かりがあまりなくてしんとしている。ようやく駅の向こう側に一軒麺類の店があったので、ちょっと迷ったが、さらに歩いても他の食堂は見つからないかもしれないと思い、ここに入った。お客は一人いるきりである。小生が入ってしばらくして、その客は出ていった。お客一名にたいして店員二名とはさみしい限りだ。駅の近くで、こんな帰宅時間に、いつもこんな調子なんだろうか。

   とにかくに 夕餉を食し 安堵する

  
         

         
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葛城行き 1

あなたの〈心のふる里〉はどこですか、と尋ねられたら、さてどう答えよう。難しいところだ。ぼくのような遍歴の持ち主なら、一般には、自分が子供のころ育った田舎の町と答えるべきであろうが、ぼくは、どうも素直にこの町だと言えない。もちろん、この田舎の町は、ずいぶん昔と変わったとはいえ、中心の東海道沿いの家々はほとんど昔のままだし、周りの山山や川の形や色は同じで、見れば懐かしいし、しばしば想像裡に思いだす。

 祖母や両親は、死ぬまで(病気になるまで)、この古い家に住んでいた。中庭の主木であるモチの木は、昔とちっとも変らない。座敷の欄間、扁額、襖絵などを見ると、やっぱり子供のころが思い出される。父が初めてステレオを買ったとき、この座敷の天袋の下に、それ用に作った板敷きの上に置いて、アメリカのスタンダードナンバーやチャイコフスキーをよく聴いていた。もちろん、これらは大切な、懐かしい思い出ではあっても、この家を含めてこの町、この地域が〈心のふるさと〉と呼ぶには、なにか抵抗を感じる。ちょっと違うような気がする。

 なぜだろう。懐かしい、大切な思い出ではある。とはいえ、どうもあの家、あの地域から離れていたい、とも思う。ぼくと同じように田舎で育ち、都会に出てきて住みついた人は、共感してくれるだろうと思うが、あまりにも近しい、あまりにも親密だった所があるにもかかわらず、いったんそこから離れてしまった者は、ふる里は遠くにありて思うものという気持ちも確かに生じてくるし、また一種の後ろめたさも手伝って、反って離れ続けていたい、という気分に陥る。
ざっと言って、この所は好きにつけ悪きにつけ、思い出のいっぱい詰まった場所であって、大人になるまでの、ふる里(経る里)である。あえて〈心のふる里〉などと言う必要はない、と思いたい。

 そう考えると、〈心のふる里〉とは、むしろまだよく知らない所、しかし長い間なんとなく心が惹かれている所、憧れの地、たえず訪れてみたい地、要するに「ゆかしい」という古語がぴったりな地、そのように考えると、ぼくにとっては、飛鳥地方、漠然と奈良盆地一帯が、それである。とはいっても、足を運ぶようになったのは、ここ7~8年くらいのことであって、行くと言っても年に一・二回、だいたい周る場所を決めて、日帰りか一泊でいく。

 ただ、漠然と飛鳥地方とは言っても広い。その中で、このところずっと気にはなっていても、その一部だけしか行ったことがなかったのが、その南西方面の葛城である。その昔、葛城氏が勢力を誇っていた辺り。今の愛知県の尾張氏も元々はその辺りの出と聞いている。

葛城と難波(大阪)を結ぶ、竹内街道も一度通ってみたい。そこには聖徳太子ゆかりの御陵や墓が移し置かれた王陵の谷がある。古代に、いわゆる〈近つ明日香〉と言われた地方だ。そのまま西へすすむと丹比道(たじひみち)となり、今の堺市の百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵が有名)に通じている。

         *地図4


計画を立てた。ついでに、まだ見たことがない四天王寺と仁徳天皇陵に参って、その足で、竹内街道を通り、葛城に行くことにした。一泊二日のドライブだ。(12.24-25)


          

          
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土偶ファン

小生は最近、土偶が好きになった。今は好きを通り越して感嘆している。少し前に日本に来ていたフランスの〈ローセルのヴィーナス〉を見に行ったのだけれども、これはとても古く、約25000年前のものであるという。これは岩を削ったレリーフだが。

ローセロのビーナス


 動物の角から水を飲もうとしているところか。とても写実的で、乳房は垂れ、腰回りが太い、じつに立派な女性のレリーフだ。いったい〈女性〉とは何か?

 やはり20000年 BC年ころに創られたという小ぶりの女性像が、ウイーンにある。「ヴィレンドルフのヴィーナス」と言われるものだ。

ヴィレンドルフのヴィーナス


 これは、ローセルの物よりも一段と女性を強調している。頭が仏像のらほつを並べたようで面白い。頭部はこれで充分なのだ。これも石の彫刻である。〈女性〉とは創造の神でなくてなんであろう。

これなどに較べると、長野県出土の土偶〈縄文のヴィーナス〉と名付けられた造形美には度肝を抜かれる。縄文中期っていうから、だいたい3000年 BCか。
 
縄文のヴィーナス


 躯幹は極端にシンプルに十字形とし、下肢をどっしりと、臀部から大腿を、触らせてもらいたくなるほどむっちりと膨らませている。乳房も象徴的突起で済ませている。頭はヘアースタイルか被り物のデザインか分からないけれど、これまた象徴的かつ表現的であって、顔があまりにも初々しい。ここには、われわれが決して真似ができないようなものがあるのを感じないではいられない。

 これに対し、青森県は〈東北のヴィーナス〉をもつ。

東北のヴィーナス

これも3000年BCあたりだが、もう少し若いと聞く。脚が長く、腰が後ろに張って、パンタロン姿のパリジェンヌと言いたくなる。上肢と顔の詳細をいっさい省き、頭部は豊富な髪を単純に表し、ケープのごとき胸の抽象化はあまりにも見事で、見れば見るほど、その洗練はパリジェンヌを越えている。

もう一つ、長野県出土の〈仮面の土偶〉。これを出さずにはいられない。縄文後期というから2000年BC以後か。

仮面のヴィーナス

 これは、あまりにも力強い。もう参ったとしか言いようがない。見れば見るほど、生みだす力そのものを感じないであろうか。ふと〈ムスビのカミ〉というコトバが浮かぶ。

 縄文時代の土偶は、他にも宇宙人のような、チベットの神とデメキンと交雑したような、いろいろな言語を絶する土偶がある、ネットで見ることができるから、みなさん、〈黙ってゆっくり眺めて〉見るといいよ。というのは、われわれは、どうしても頭で理解しようとしてしまいがちだからだ。
紀元前の人たちが自然の力の前でどのように感じて生きていたかは、決して頭から入ってゆくことは出来ないように思う。スターウオーズではないけれど、信じて感じなければならない。これは何を表しているのだとか何とかかんとか考えたくなるような、ちっぽけで閉鎖的な知性の介入を拒絶できれば、遠い昔、人々が「カミ」という言葉を生みだした、ある非常に充溢した現場に、ひょっとして触れることができるかもしれない。そんな風に想像する。


       

        
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壺狂い

 この季節になると、陽射しが伸びて、障子を明け放った部屋の畳は奥深くまで照らされて、部屋全体がとても明るくなる。空気は乾いていて、縁側で日に当っているのが心地よい。

 いなかの家では、離れ座敷の床の間に壺などを置いて眺めていたものだが、他人に住まわせてからというもの、そういうことはできなくなった。しかし、この季節、秋の午後、柔らかい日差しに当った床の間は、信楽の古い壺がよく似合う。そして、その情景がつねに瞼に浮かんでくる。

 思い返せば、いっときとは言っても、30歳前くらいからしばらく20年間ぐらいは、焼き物とくに壺にはずいぶんハマっていたものだ。今までどれくらいの壺を手に入れたり、手離したりしただろう。この期に及んで、かなり多くの壺だけでなく骨董がらくたを手離したが、どうしてもまだ手元から離れない壺が4個残っている。


 小生が骨董屋で初めて買ったのが、中国の明の時代のものだと思うが、小さな青磁の花器だった。それは、ほんとうに好きで買ったものではない。なんとなく一つ骨董といえるものが欲しかった。いろいろ迷っているうちに、店の主人がこれを買っておきなさいと言われるままに、買ったものだ。永らく持っていたが、いつぞや手離した。しかし、それを買ったおかげで、中国陶磁を書物や骨董屋や美術館などでずいぶん勉強させてもらった。たとえ5万円で買ったものを5千円で売ったとしても悔いはない。

 以後、いろいろな骨董屋を巡った。そしてレパートリーはずいぶん広がった。最終的に手元に残したのは、やはり日本のモノと朝鮮モノだな。さてその中での4この壺を紹介しよう。

   1.


小百姓 小百姓2


 これは、ある骨董屋で何度も手にとってみて、とても好きになった小壺である。好きになった物を、長いあいだ思案し、何度も触らせてもらって、ついに額に脂汗を書きながら買った初めてのモノだ。これは、江戸時代中期~後期の越前焼で、いわゆる〈おはぐろ壺〉だ。骨董屋の主人が、さすが貴方は良い目をもってますなぁと、おだてた。

 これのいいところは素朴な鉄釉がのって、小さいながら、灰冠り、釉だまり、ひっつき、火ぶくれがあって、見所が多い。幾つかの疵さえ見どころである。しかしそれらすべてがあまり派手ではないのが、この小壺のいいところだ。〈小百姓〉と命銘した。とはいえ、、冬の午前、これに椿の一二輪でも活ければ、あっと変身、たちまちのうちに〈通小町〉になる。

 もし三途の河の渡し守が、一つだけ持って行ってもいいと言ったら、これをもって行くかな、小さいから邪魔にならないし。

 2. 

秋日和2 秋日和3

これは、鎌倉時代の信楽焼。表面がずいぶんすすけていて、穴も空いている。たぶん、竹林かどこかに雑に捨てられて半分土に埋もれていたのではあるまいか。それゆえ釉薬はむろん艶もない。しかし、この土味とだいだいっぽい色は、まぎれもなく古信楽のものだ。もちろん古信楽には、もっと茶色~灰色っぽいものもあるが、この赤松色系に小生は惹かれるのであって、これこそ、秋の午後の柔らかい日差しに当って、最高の美しさを発揮する。〈秋日和〉と命銘した。


  3.

木曾殿1 木曾殿2


これもかなり初期に買ったものだ。たぶん11世紀の猿投(さなげ)窯か常滑窯か。とにかく平安時代のものは、猿投から常滑にかけて、今の名古屋の東側から知多半島にかけて、似たような土である。聞くところによると、知多半島有料道路を作った時に、ずいぶん窯跡があったそうだが、工事を遅らせるわけにはいかず、埋もれた焼き物をずいぶんつぶしていったそうだ。

 三筋壺という3本の筋が入った壺がこの時代のこの辺りによくあるが、この壺は5筋、しかもすべての筋が肩より上に引かれている。これは珍しい。この壺の魅力は、見ての通り、窯の中での激しい燃焼のために飛び散った小石と釉薬だ。口がきれいに割られているのは、おそらく骨壷か経筒入れとしてかに利用したものではあるまいか。このほうが蓋をしやすいだろうから。

  4.

一文字 一文字2


これは、朝鮮の李朝時代の壺というより大徳利か。灰色の上に刷毛ではいたような白い線が全体を取り巻いている。だからこういう柄を刷毛目という。この壺の特徴は、何と言っても、胴体にすっぱりと白い釉の部分が抜けているところだ。これをもって、小生は〈一文字〉と銘をつけた。朝鮮モノはかなり好きで、特に一般民衆が使った素朴な茶碗などが大好きで、小皿を何枚か持っている。漬物なんかを並べるとすごくいい。朝鮮の雑器の素朴な味わい、そのなんとなく侘びしげなところがいいとする柳宗悦に同意する。だから、王族の使用したあまりにも美しい白磁はむしろ好きではない、というか、一時は好きであったが、飽きる。

 それにしても、壺のよさというか、焼き物のよさは、見るだけではだめで、触らねばわからない。だんだん慣れてくると、見ると言っても、触るように見る。触覚で見るようになる。穴のあくほど見つめるのだが、その時の心境は、このモノを〈よく〉見ようとしていることである。この点が最高の魅力であるべきだと思おうとしている。これを恋心と言うのだろうか。悪いようには見ない。悪い所があるとしても、それには目もくれない。世には女狂いがいるが、彼らは、きっと女の肌触りに見果てぬ夢をいだくのであろう。それとおなじように、壺狂いにとっては、壺に、どんなに見ても、いじくり回しても、飽くことがない深遠を夢見るのである。

これは、まあ結局は、惚れた者の弱み。馬鹿者の道楽・・・。。

 
      

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読経の声

わが家のお寺は浄土真宗である。葬式やら法事やらでお坊さんが詠うお経が長たらしくて、いつも苦痛に感じる。だから、このところずっと法事は断っている。お金だけ出して、そちらでよろしくやっといてください、という塩梅である。この苦痛はなぜなのか、考えて見るに、あの坊さんがお経を詠うあいだ畏まっていなければならない。それから、あの文句というか歌詞というかが気に食わない。内容はよく分からないけれど、とくに「ナミアブダブツ」が気に食わない。あの音楽というか、抑揚がとくにイヤだ。なんか田舎っぽい。ちょっとしか聴いてないけれど、他の宗派の歌のがずっと洗練されているように感じる。それから、決定的には、あのお坊さんの声が気に食わない。やや高音で、割れたような嗄れ声だ。これで「ナーモアーミダーブウー」と何回もやられたら、気持ち悪くて汗が出てくる。
ましてや、もし死んでからもしばらくは音が聞こえるとしたら、あの窮屈な棺桶の中であれを聴かなければならないとしたら発狂モノだ。

 それで、あるとき知人に、違う宗派のお寺に換えたい、真言宗なんかは銅鑼など鳴りモノがあって歌も楽しそうだし・・・、と言ったら、換えないほうがいい、浄土真宗のほうが安上がりだからという。しかし、お布施料なんかそう違うものなのか。小生は、多少高額でも、いい声で詠ってくれて、袈裟もあでやか、鳴りモノつきのグッド・パーフォーマンスをやってくれれば、その方がいいと思う。

 つい先日、『古事談』(鎌倉時代に書かれたゴシップ集)にこんな記事を読んだ。題として「頼宗(藤原道長の息で右大臣)、定頼(公任の息)により読経練磨の事」とある。要するに、頼宗が、読経の名人である定頼に、読経を教えてもらう話だ。

 頼宗は定頼について読経を習う。中宮彰子のサロンに、小式部内侍という女房がいた。この人は和泉式部の娘であって、母と同じく、好色であった。頼宗も定頼もこの女を愛した。あるとき、定頼がこの女房の部屋を入ろうとして覗いたら、ななんと、頼宗はこの女房と抱き合っていた。先手を取られていたのですな。そこで定頼は得意の美声で法華経を読んで帰った。と、女房は歓喜のあまり、頼宗に背を向けて大泣き。頼宗も枕に涙を流してしまった。頼宗は定頼に負けたと思った。それからというもの、頼宗は一大決心、法華経を読むこと万回にして、覚えてしまった。

 本の注には、頼宗は愛欲に溺れる自分の迷いから法華経で抜け出すことができた、というように書いてあるが、そうかなぁって思いません? むしろ定頼の美声によって、女の心を取られた、それほど読経というのは男の魅力であるのだ、と気付いたのではないのかな。

 平安時代の物語などでも、よく読経のことに触れていますが、当時は、読経を詠むということは、いわば芸能であって、自由なリズム、節廻しで、オペラ歌手のようにいかに良い声で詠えるか、これが当時の貴族の教養の一つであったよう。定頼は法華経を、きっと往年のドミンゴのような声で詠ったのでしょうね。


       

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マコンデ彫刻 2

妻の実家の近くに古いビルがある。その2階に目立たない古美術店があった。古美術店とは言っても、じつはガラクタ屋といった方がいいほど、世界中の古今のモノが、ほとんど無秩序に、所狭しと置いてある。木製の浮輪や古い金魚鉢、南洋のサンゴや貝殻、古代ローマ風の彫像、ヘンなマッチの玩具、プラスティック製の蛙、得体のしれない茶碗や壺、南米の織物や焼き物、東欧かどこかの蝶や玉虫、壊れた楽器、・・・。当時、小生は主に古い東洋の焼き物に関心があったが、ふと片隅に置かれていた何体かの黒い彫刻に目がとまった。マコンデ彫刻と小生の出遭いである。以来、何度この店に足を運んだことか。それはまた、そもそも商売になるのかならないのか、こんな世界のガラクタを目立たぬ一角に集めている店主の非常な魅力の故でもあった。
 彼の紹介で、マコンデ彫刻を扱っている他の店にも足を運ぶようになったころ、折しも博物館でマコンデ彫刻展が開かれ、その魅力にますます取り憑かれた。結局、10年くらいの間にちょうど10体の彫像を買ってしまった。

その幾つかを紹介しよう。

  マコンデ小1  マコンデ小2 

 高さ60cmほどの彫刻である。台座にあたる部分を見てよく解るが、エボニー(黒檀)の木は、大部分を占める中身は黒いが、外側は白っぽい、皮は薄茶だ。たいていの作品は、このように白っぽい部分まで残している。この作品は、とても不安定で、いかに彫刻前の木の形がゆがんでいるかが分かる。おそらく作者は、この木の紆余がもつイデアに従って鑿を振るったのであろう。

 小生はまずこの作品のスタイルに魅了された。なんと見事なスタイルだろう。不安定のなかの安定。重心の位置の微妙な計算は、魂の軽やかさを保証している。そんな感じだ。どちらが正面というようなものではない。どこから眺めても、それぞれのいわば意味があり、その立体的総合は、結局一つの〈作品〉を目指している。

    子供up3
     上部のアップ

一見、二人の人が重なっているように思われる。しかし脚は二本しかない。子供が母親におんぶしてもらっているのかもしれない。それなら、母親の頭部は非常に単純化されているし、見ようによっては、象徴化された女陰のように見える。マコンデ族にとっては、それは土地の豊饒と生命のシンボルであって、そういう目でもって見れば、作品全体が自然のリズムを表しているように感じる。

 次の作品は1m20cmを超えて、重い。 

  レズ上半分
      上半分

 レズ腹
     腹部  
 レズ頭部 
     頭部アップ


 明らかに二人の女性が絡んでいる。さらに蛇が纏いつき一人の頭に喰らいついている。しかしエロティックという語の現代的意味の衰弱した目でもって見てはならない。彼らにとって蛇は再生のシンボルであり、それに喰らいつかれている女性は、呪術の威力によって減弱した精力を回復しつつあるようだ。その精力とは種の維持を超えて、生きんとする根源的な力とつながっている。また一つの乳房は腰のあたりに付いているが、マコンデ彫刻の世界では珍しくない。体の一部はたんに一部であるのではない、体のどの部分にでも連続しており、それどころか生者と死者、自然のあらゆるものと融合しうるものなのだ。生命は自然の隅々にまで浸透し、全体は個を含み、同時に個は全体を含んでいる。

 これは、大阪万博の出品作の一つである。高さ1m強。一番初めに手に入れたものだ。

    木の妖精1

    木の妖精up
               上部のアップ            

木の皮と白っぽい皮質の部分を後ろに残し、浮き彫り風に仕立てている。三匹の木の妖精であろうか、一番上は目をきっと見開きこちらを睨んで、その鼻は大きく強調されており、下の二匹の子供を守っているようである。呪術に縛られた世界では、精霊はわれわれの生命力に対して、善意に働くか悪意をもって働くかが、とても強い関心事である。これはちょっと怖い。

 これは具象的な作品である。高さ40cmくらい。左手でトウモロコシを喰らっている。右手に持っているものは何であろう。果物か何かの器具か。左足で支えているものは粉ひきの道具か、よく解らない。

    お爺さん前

    お爺さん背部

具象的と言っても、よく見れば、体に対して頭部が大きく、扁平化しており、腕や特に脚が華奢だ。だが、何よりもこのバランスがいい。日日仕事に従事し、手を休める時間があらばこそ、大急ぎでトウモロコシを喰らう男の無頓着な姿には、じつに生命の存在感そのものが溢れている。

 これらの作品の作者は分かっている。1960年代は、この様な名人がけっこういたようだ。もちろん中には単なる形式的・表面的な模倣品を創るような彫刻家もいたではあろうが…。しかし、その後の国情不安定の下、小さなお土産品はしばしば見かけるが、あの彼らの〈芸術〉は、今はどうなっているのであろうか。
    

        


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マコンデ彫刻 1

まずはマコンデ族の紹介。

アフリカの原住民の一部族であるマコンデ族は、そのむかし西の方からやってきたという。そしていつ頃からか、大陸の東部海岸に近い、現在のタンザニア南部からモザンビーク北部にかけての高原に住み着いた。その高原は、Nyasa湖からインド洋に流れるRuvumaという大河が国境を画している。

 約50万人といわれる(1970年代。現在はもっといるそうだ。)マコンデ族が住むその高原は乾燥して土地はやせているが、気候は温和で危険な野獣も少ない。なぜ彼らは水の豊富な川沿いで住まなかったのかというと、そこはマラリヤや眠り病などの感染が多いからという。

 彼らは、歯をやすりで研ぎ、顔や体にタトゥーを施し、成人女性は上唇に円盤を嵌め、この見かけで以て他から恐れられ、何百年と孤立を保ってきた。ポルトガル領であったモザンビーク側のマコンデ族はとくに遅くまで伝統文化を保ち、〈文明化〉されず、閉鎖的であった。1960年代の独立戦争によって、彼らの多くはタンザニア側へ逃れた。このことが彼らの文化を世界に広めるきっかけとなった。

 アフリカの諸部族でもよくみられるが、マコンデ族もダンスを好み、儀式では、踊り手はMapikoという仮面をかぶって踊る。Mapiko仮面は、木製の黄色かピンクで色づけされた丸顔で、とげとげの歯と伝統的なタトゥーを施され、われわれから見るととても不気味である。

 あらゆる民族同様、農耕儀礼・成人儀礼があるが、男子においては、何カ月の儀礼中、木や粘土で創った小立像でもって考えるよう教育される。それらは、日常の習慣や歴史に関係しており、具象的な像・象徴的な像・抽象的な像など様々である。

 マコンデ族の文化の源流とでも言うべき神話がある。

むかしむかし、Ruvuma渓谷のある所に、人というべきにあらぬ生き物がやって来た。彼は水浴びをしたこともなければ、髪の毛も伸びたい放題で、飲食すこぶる僅少であった。
 ある夕暮れのこと、彼はこの場所で立ち止まることにしたが、やがてとても退屈になったので、一片の木を取り、手でもってそれを削り、彼とほとんど同じ姿の像を創った。その夜、この像を傍らに立てて眠った。明くる朝、その像に生命が宿って、女性になった。喜んだ彼らは一緒に水につかり、彼は完全な男になり、彼女は完全な女になった。そして彼らはRuvumaの川岸に住むようになった。
後に、女に子供ができたが、生まれた子は死んでいた。それで、彼らは川岸の他の場所に移動したが、そこでも生まれた子は死んでいた。さらに他の川岸の場所に移動したが、生きた子は生まれなかった。ついに彼らは川岸から離れた乾いた高原に移住した。そこで彼らは生きた子供を産むことができた。この子がマコンデ族の始祖である。

 像が生命を得たのは立てて置かれたのであるから、彼らは死者にも生命が続くように立てて埋葬するし、川から1時間以上の距離をおいて住居を建てる。アダムのように男性が女性を創ったようにも思えるが、男性らしき生き物を男性として顕したのは女性である。マコンデ族は、多くの古代民族と同じように、女性を豊饒の根源と見る。母親は尊敬され、死んだ母親は女神のごとく崇拝され、完全な母系制である。個人とは女系のたんなる連結点にしか過ぎない。

 最初の母が木から生まれたという話は、彼らが儀礼の仮面や彫像を、もっぱら木でもって始めたことから生じてきたとは、大いに考えられるが、初めは木の種類をとくに選ばなかったようだ。ところが、最近(20世紀に入ってから?)ebony(黒檀)を彫刻家は好んで使用するようになった。

 この硬い木は、いつしか、堅固さと永続性の象徴となったからかもしれない、あるいは、外見上は決して美しくないこの木に特有な様々な形がマコンデ族彫刻家たちのインスピレーションを刺激するようになったのかもしれない。

 彫刻家たちは、野外にシートを敷いて仕事をする。彼らは一片の木を手や脚の上で何度も転がしながら見つめる。心が決まったら、大胆に鑿をふるう。彼はいわば木に宿る精霊の呼び掛けに導かれて仕事を進めるようだ。

 以上、Roger Fouquer 著『The makonde and their sculpture』(1972)に拠る概説。

 ところで、マコンデ族の彫刻家と言われるほどの人たちの作品がわれわれに知られるようになったのは、1960年代に入ってからで、とくに1970年(昭和45年)大阪万博においてタンザニアの芸術作品として出品され、一部の人たちの注目するところとなった。聞くところによると、彼ら愛好家らは1974年に「マコンデ友の会」を結成し、その後しばらくの間、展覧会などを開いていたそうである。現在伊勢市にマコンデ美術館を開いている水野氏もその一員であったとのことだ。それから数年後である、小生がマコンデ彫刻に出くわしたのは。





   


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この季節 2

蓮の花芽が一本出てきているのに気が付いた。今年はもう咲かないのかな、と思っていた。というのは、この春は、必要な根の間引き・土の入れ替え・肥料やりなどを、だいぶん手抜きしたから。

   蓮芽小
 

数年前までは、かなり熱を入れて世話をしていたけれど、このところ面倒になってきて、だんだんいい加減になってきている。それでも春になると、今まで連綿と続いてきたこの蓮を根絶するのは惜しいと思ってしまい、一根また泥の中に埋める。

まあ絶やしたところで、だれ一人として気にしないだろうし、それに種のストックはまだ山ほどある。しかし、やはり花芽が出てきて、それが日増しに大きくなるのを見るのは嬉しいものだ。

むかし真っ白なヒメ睡蓮を栽培していたことがある。あれは、蓮に較べると、花弁が直線的でキリリとしていて、その規則正しさは、貝殻のように、自然の幾何学性を主張している。それに対して、蓮の花は柔らかく、いわば包容力がある。

仏さんの台座に描かれているのは、蓮か睡蓮か解らないことがあるけれど、おおむね日本人にとって蓮のほうが仏教的なイメージを、極楽浄土を思わせるのじゃないかな。

いつのころからか、歳と共に夏の蒸し暑さに弱くなってきて、夏の一カ月は、スイスとかカナダとか北海道、長野の山中とか、とにかく涼しく乾燥しているところに逃げたいと思うことがよくある。まったく実行しないけれど。

しかし、〈この夏〉は、小生にとって特別だ。もう二度と夏を味わうことはあるまいと思っているから、クーラーのきいた部屋にばかり閉じこもらずに、この蒸し暑さを、この苦痛をしっかり味わおうと思う。

考えてみれば、どんなに苦痛と言っても、夏は一度でも猛烈に暑い日がなかったらつまらない、気の抜けたビールみたい。冬も同様、苦痛だが猛烈に凍てる日がなく過ぎ去ったら、つまらない。やはり日本には四季があってこそ、味わい深いものだ。

季節の変化がもたらす期待と惜別の情、これがいい。そういえば、いつも息苦しい夏がやってきたと思う頃、かえって期待することは、お盆を過ぎたら、あの虫の声が聴けるということだ。それがあるからこそ夏もウエルカムよ、と思う。

晩夏の夜、あの虫たちの合唱がなんと心地よいことか。以前、あの声を何時でも聴きたいと思って、録音して聴いていたことがあるけれど、ダメだね、録音では。やっぱりあの季節に、あの空気の中で聴かなければ。ゆく夏を惜しみながらでなくては。微かに感じる秋風のもたらす不安の中でなくては。

だから、いつも思うのだね、庭の雑草を取っている時、あまり取り過ぎると虫たちがやってこないから、完全に取らないようにしよう、奥の方は残しておこうと。





     


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テーマ : 博物学・自然・生き物 - ジャンル : 学問・文化・芸術

この季節

この季節、クマゼミの鳴き声が「もう起きろ、もう起きろ」と、耳元でせっつく。時計を見るともう7時を回っている。カーテンを開けると、年老いた人間をけだるくさせるような夏の空がすっかり広がっている。

 顔を洗って、キッチンでグレープフルーツを切る。なんか今朝は心が躍っている。気が付くと頭の中で、ビートルズの「I saw her standing there」が鳴っている。ははーん、このためなんだと気が付く。

 昨日you tubeでこの曲を聴いたのが、ずーっと続いているのだ。人は眠っている間に完全にリセットされるのではないのだね。では、眠っている間に、この音楽はどこにあったのか、鳴っていたのか。

 すでに今、体の隅々まで震わしているリズムギターの刻みは、眠りの間、自分の体の内で続いていたのか、それとも自分の外にあったのか。人は容易に記憶っていう言葉を使うけれど、記憶というのはじつに何と言うか…。要するに、どうして過去が現在に蘇るの。

 まあいい。こんな暑い夏の午前、難しくことを考えるのはよしたほうがいい。それよりも、いつものように朝食後は、庭の空気を吸い込みながら、メダカに餌をやる。

  餌めだか


 餌をばら撒くと、口をパクパク開けて群がってくるのが面白い。まるで新興宗教の信者だ。教祖から見るとこんな風に見えるのか。人間とはかわいい動物だ。キリスト教の神から見ると・・・いやそんなはずはないだろう。

 夏の花。サルスベリ。ムクゲ。ヒメムクゲ。クソカヅラ。サルスベリは紫がよい。

   サルスベリとムクゲ


 枝垂れ梅もこの時ばかりと存分に葉をつけお化けのようになっている。これがまた暑苦しい。


   夏の枝垂れ梅



 いつも〈初夏〉という言葉から連想するイメージ。

簾(すだれ)が微かに動く風通しのよい部屋から海を見ること。

氷の入ったガラスコップにコカコーラを注ぐ時の爽やかな音。…

 そこではキイス・ジャレットのピアノのタッチが調和する。その音は風に吹かれて部屋から夏空に抜けていって、後に残ることはない。気が付くと、いろいろな人種の人たちが、あちこちのテーブルや砂浜で、アイスコーヒーを前に、静かに話合っている。

 そんな空想をしていると一匹の蚊が腕にとまる。一瞬、針を皮膚に差し込むのを確かめて、パチンとつぶした。玄関先に蚊取り線香をたく。この香はいいものだ。それにしても、蚊はやはり好きになれない。

 子供のころ、扇風機の羽の白や薄水色がとても新鮮だった。それが電気屋さんの店で回っていて、前に付けられたリボンが揺れる。それが涼しげだった。今でも、それほど暑くないときには扇風機を回す。扇風機の首振りの微風を背後に感じるときは、なんと心地よいことか。

 この心地よさはエアコンでは決して味わえない。でもエアコンの心地よさというものもある。わが家に初めてエアコンが、当時はクーラーと言っていたが、クーラーが付いたのは、たしか中学三年の夏だったと思う。父が一つの和室を洋室に変え、その部屋に付けたのだった。

 小生は、夏休みを利用して、しばらく長野県に逗留していた。帰ってきて、あの和室がすっかり洋風の応接間に変わっていて、その部屋の涼しさ、というより冷たさに感動した。あの時の感覚は今でも肌に残っている。カーテンは細かいメッシュの黒色で、庭の景色もとても涼しげに見える。

 そして、新式のステレオから流れている曲は、とは言ってもその瞬間流れていたかどうかは、じつははっきりしないが、マントヴァーニ・オーケストラの「シャルメーン」だった。それがまた新鮮だった。…すべてはあの時代の日本人の夢だったのだ。

 夏の思い出は、芋づる式に次々と浮かんでくるけれど、書き続けてゆけば、あまりに煩雑になるだろうから、今はここまでにしておこう。



    「まくらのさうし」ふうに書いたつもりやけど…。


   

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テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

NYに行く 4

誰でも知っているように、ピカソは生涯たえず作風を変えていった画家だ。それは、早熟の天才がどんどん新しい局面を創造していったとも言えるし、既成品をどんどん壊していったとも言える。彼のような非常に多産な画家については、もう言葉を失うしかないけれど、小生にとっては、この作品を前にしていると、何と言うか、驚きと一種独特の不安で満たされる。一言で、〈存在の爆発と新しい神話の誕生〉

この絵をキュービズムと言っても、べつにかまわないが、いわゆるキュービズムからは決して出てこないものがある、あるいはそういうにしてはあまりに豊富である。また抽象絵画と言ってもよいが、この画面には、明らかに5人の女性が見てとれる。

人は目がなければ描くことはできない。抽象化から絵画芸術は始まったという人があるが、でたらめに色や線や面を配することはできない。どうしても目の前の具体的なものから始めなければならない。近年、でたらめに絵の具を塗りつけたり振りかけたりして、絵画作品とする人たちがいるが、小生に言わせれば、それは宝くじを買うようなものだ。極めてまれに心を動かす作品も生まれようが、99%以上がカスである。

一万五千年前の人たちが洞窟の壁に描いた動物や人は、模倣であるか、それとも抽象化であるか。石器時代の女性の土偶は模倣か抽象化か。実際これらを鑑賞する人は、石器時代の人たちは何ゆえこの様なものを描いたのだろう、あるいは創ったのであろう、と考える。想像するに、まず対象に対する驚きが根本にあろう。そして描いたり作ったりするのは、対象を捉えようとすることではあるまいか。対象を捉えるとは、その内奥の特徴的な力を捉えることだ。動物や女性がもつ力を捉えようとすること、それはその力の源泉に近づきたいという誘惑、その力をふたたび呼び起こし、その力に少しでも与ろうとすることに他ならない。それら絵や彫像は純粋に模倣でもないし抽象でもない。むしろ模倣と抽象とが同義となるような行為ではなかろうか。

それは、すなわち強いて言えば、呪術と言いたくなるあるものではあるまいか。彼らの行為は、模倣・抽象という現代語のもっと向こうの、もっと原初的な行為、すなわち呪術、それは宗教のごく初期というか、根底にある衝動だ。われわれ現代人は、芸術と宗教と分けて考えるが、しかし、石器時代は、いわばそれらが混じり合っている未分化なある行為である。

いつも思うことであるが、われわれ現代人にもかすかにそう感じられるときがある。ペンダントをつけたり、要するにおしゃれをするとき、自分に新しい力が加わったような気がする時があるではないか。おしゃれをすること、それは美的行為か呪術的行為か。

ラスコーの壁画や縄文土偶を思い浮かべよう。小生はどうしても、あれらに超自然的な力に対する驚き、畏怖と祈願とが入り混じったものを感じる。あれらを前にすれば、牛や女性の存在そのものに対する驚き、畏怖や祈願が一体になった、ある感覚に襲われないか。だが、こういう感覚を素直に表しがたいのは、われわれはもはや古代人でないからである。

つねづね思うことであるが、現在のわれわれの感覚・思考でもって過去の人たちの心を考えることはできないのではないか。例えば、その昔、世の中に、オレンジと紫としかなかった時代があったと仮定しよう。そのとき、オレンジ色は、単一で基本的ないわば原色であったのである。いろいろな色を知っている現代人から見ると、オレンジ色は黄色と赤色とが混じったものだ、と断じる。しかし、当時の人たちが見るオレンジ色は基本的な単色であったのだ。そこには黄色も赤も含まれてはいない。そもそも黄色も赤もなかったのである!

そういう意味で、石器時代の人たちにとって、描くことは、〈呪術的なある単一な行為〉なのであって、われわれの言うところの分化した呪術と絵画との混じったものではないだろう。その行為はオリジナルな単一なものである。いつの時代についても、われわれはいまの感覚でものを言ってはいけない、と思う。芸術の起源は呪術的なある行為であって、芸術はそこから分化・発展してきた、そしてたえず変化しつづけてきたのであって、それでも今なお太古の残響が微かに残っている。現代芸術とはさらに哲学的、科学的、思想的、装飾的な意味が加わってきていて、じつに多義にわたり、また同時にそれらを排除し、純潔を守ろうとするようなある行為である、と言えまいか。

今となっては、大なり小なり芸術とは、われわれの感覚から日常生活によってつけられた手垢を落とそうとしてくれるものではないかとよく思う。われわれのすべての能力は、もっぱら生きるための、明日の生活のための効率のみに捧げられているように見える。しかしそこから目を転じて、何でもいい、何かをじっと見つめてみよう。するとそこから今まで知らなかった或る世界を垣間見ることができる。その世界とは、おそらく人間と自然とがどこまでも親密であるような関係であって、その多彩な相の一部をわれわれは見ることができる。絵画芸術とは、そのための案内図を提供するものではないか。つまり、われわれが自然の秘密を知ることができる早道は、いわゆる芸術を通してなのだ。

休むことなく新しい世界の入口を叩いては開けようとして、そのために膨大な作品を描いたピカソにとって、この『アヴィニョンの娘たち』は、その最大の力仕事であったように感じる。小生にとって、絵画の意義を考えるのに、ほとんどこれだけで充分だ。


   アヴィニョン2


もっとよく見ろ、もっとよく見ろ」と、
後ろに居る客観の影が背中を押す。
「目をつぶれば、描くべきものはないぞ」

存在が爆発する。
空間を破って形が現れる。
圧倒的な力をもって脱皮しつつ
女神たちは未聞の叫びを発する。
「表面は裏面。裏面は表面。全ては鏡像。」

先史のある窪みから
小刻みに溶岩が噴きだして次々に形を為す。
人間色の微妙な色が浮き出てくる。
わずかに残った青い空間が垂れ落ちて凝縮する。

誰か、捧物をたてまつったのは、
ああ、ついに新しい天の岩戸伝説が生まれる。
そして、ピカソはシャーマンになる。



     

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NYに行く 3

 さて目的の絵とは、近代美術館(MoMA)所蔵の、ピカソ作『アヴィニョンの娘たち』なのだ。小生がもっとも衝撃を受けた絵だ。20歳代のいつだったか覚えがない。

アヴィニョン2


ついでに見てくれ、恥ずかしながらこれ、小生が27歳のときに真似してデッサンしたもの。


アヴィニョンデッサン小


そのころまた、たしか京都の大原に行った時に、陶器のお皿に何でも好きなものを描いて、後でそれを窯で焼き上げて送ってくれる露店があって、そのとき記憶で描いたものとヴァリエーション。

  ピカソ皿小2 (2)


笑っちゃうね。恥の上塗りもいいとこ。しかし当時絵と言えば、これがいつも頭から離れなかった。

さて、この美術館に入って、この絵がある5階に行ったのだけど、直行するのはためらわれた。心の準備ができていない。しばらく入口のものから順々に見て、目と心を慣らしてから見ようと考えた。しかし、不安もあった。もし直前に他の作品に感動してしまったり、あまりに多くの名画を先に見て疲れ、心身の調整ができず、目的の本命に感動しなかったらどうしよう。

それから、こういうこともある。以前からつねづね考えていたことだけど、本物が模倣品より、よいとは限らないのではないか、という疑問である。本物偽物というのは大した問題ではなく、むしろこちらの鑑賞準備状態が問題なのではないか。思えば、われわれ日本人は西欧の芸術を、例えば音楽はレコードで聴き、絵は印刷で見、本は翻訳で読んできたのである。みんな偽物である。しかしわれわれはそれでもって楽しみ、吸収してきたのではないか。

だからわれわれは多くの誤解をしてきたのだ、と人は言うかもしれない。しかし、誤解ほど面白いものはない。少なくとも、非常に個性的な誤解は正解より面白い。もちろん、個性的でありさえすればよいとは全然思わないけれど。むしろ個性的などというものは余分なことである。言いたいことは、要するに、こと芸術鑑賞に関するかぎり、正解も誤解もありはしない。感動したり、夢をもらったり、喰い入る深浅があるだけだ。

とはいえ、芸術に意味がないがないかというと、またそうとも言い切れないと感じる。言語芸術は、言葉の意味に触れずに味わうことはできない。言葉の有する意味を度外すれば、それは音楽になろう。では純粋な音楽に意味はないかというと、なかなかそうとも言い切れない。言葉による意味はなくても、音楽自体がもつ意味がある。そのことを鋭敏に感じとったワグナーは、あのような長大な〈楽劇〉を創った。書かれた文字についても同様で、書を見るごとに思うことだが、文字の意味にまったく触れずに味わうことは難しいとはいえ、見る人は書体そのものに意味を感じている。絵画についても同じことが言える。色彩の配置や線や形態が意味をもつ。

ところで、作品の意味は、作者が意図したモノであろうか。もし作者の中にすでに意図が内在していて、作品の意味は、その意図を明るみに出すのだとすれば、芸術作品ではない。むしろ意図は、作品の後で、あるいは作品の制作過程で、後から出てくるものではあるまいか。少なくとも、実際の制作から何らかのバイアスを受けるのではないだろうか。晩年のセザンヌの筆はとてもストイックである。けっこう多くの作品に余白がある。それは彼が意図しようとしたものをどうしても出せなかったというよりも、むしろ作品の方が彼に筆を入れるのを禁じたのだと、小生は感じる。つまり、作品には作者のあらかじめの意図を超えたものがあるのではないか。創造には、多かれ少なかれ何か神秘な付加がなければならないのではないか。

で芸術とはなんだろう。と話がどんどん逸れていくけれど、このMoMAの五階の作品群を見て、じつは考えていたのは、そのことなのだ。考えていたと言っても、結局は不毛な同語反復に終わってしまっただけだけど。…で、歩いて行くうちに、壁に掛けられている絵はだんだんと19世紀から20世紀へ近づいて行く。と、カメラやスマホを持つ人だかりがある。彼らが向かっているはゴッホの『星月夜』だ。小生も眺めた。遠くから見ると複製で見るのとそっくりだ。

 ゴッホ人々


もっと近寄って絵筆の一刷一刷を見たい。しかし、カメラを絵に向けている人が多く、絵にあまりに近寄るのは憚られた。しかし、ある瞬間、思い切ってうんと近づいて見ていたら、監視員に制された。たしかに何億円もする絵に小生の汚ない息を吹きかけてはいかんだろうな。

小生があるとき気付いた絵の見方なんだけど、まず適当に離れた距離から〈全体〉を見る。それから、うんと近づく。作者が絵筆を持って描いたであろう距離に近づいて、自分も作者になったつもりで、画家が描いたであろうと思われる順番に筆を入れていく。或る程度そうしたら、もう一度眺めながら後退する、するとピタッとくる距離がある。あたかも3Dの絵が浮かび上がってくるように。こういう瞬間に全体としての絵を掴んだという気持ちになる。いつもうまくいくとは限らないけれどね。

それにしてもゴッホの絵を見るのはつらい。彼の生涯を知ってしまっているからね。彼には見えたんだ、月や星があんなに強烈な渦巻く光を放っているのが。願わくば、彼の生涯をまったく知らずに彼の絵をゆっくり見たいものだ、そのときどう感じるであろう。えらくぎらぎらした絵だなと思うだけで通り過ぎてしまうかもしれないけれど。しかしまた、知っているからこそ、いつぞやゴッホ展で見た『ひまわり』の黄色に感動できたのだと思う。あれは、何というか、強烈な幸福への希求、あるいは仏陀の絶対安心とでもいう言葉が浮かんでくる。

 『星月夜』から目を転じると、左手の向こうの部屋に、ちらっと『アヴィニョンの娘たち』が見えた。見たというより、向こうに見つめられたような気がした。ああ、見つかってしまったか。そんな感じで、なんかちょっと気が動転して、おろおろしてしまった。その瞬間、頭を掻いていたかもしれない。




NYに行く 2

すでにニューヨークをよく知っておられる方たちにとっては当たり前のことではあろうけれど、初めて訪れて目に付いたところを少々語ろう。

 まず何と言っても道路が混んでいる。イエローキャブ(タクシー)は、トヨタカムリが多い。日本ではやや大型の車ではあるが、向こうでは大きな感じがしない。それだけ、一般に大きめの車が多いような気がする。そして世界中の車が走っている。一般の車の色は比較的黒が多い。日本に多いシルバーはほとんどない。バスは大きくてエンジン音も大きい。車間距離10cmで曲芸のように走っているから、警笛がうるさい。車道も歩道も凹凸が多い。

 マンハッタンは、ここ20年くらいに建ったと思われる50~60階くらいの新しいぴかぴかしたビルが林立しているが、それ以外、とくに周辺部は、その半分以下の高さの、いかにも古くて落ち着いたビルが多くい。薄茶色のビルの上辺や窓枠などの擬古典主義的な装飾、あるいはまたウエストサイド物語のあの赤煉瓦の壁と裏階段、マンションの最上階や一階の植え込みと鉄格子。そんな建物の側の歩道には街路樹が影を落として、その木漏れ日の中を歩いていると、何とはなしに懐かしいという感慨が湧く。

 ふと思った、もし自分が20代の若者だったら、どういう気持ちでこのニューヨークの街を歩くだろう。いや、より正確に言えば、真っ先に浮かんだのは、もし自分が20代だったら、こんな風には感じないだろう、という思いだった。きっとそれほどノスタルジックな気分に呑まれていたのである。戦後のアメリカの黄金時代の映画や音楽に、今の若者もわれわれと同様に接しているであろう。しかし、それらが自分の来し方に混じり合うということは、彼らにはまだないであろう。ましてや、われわれの親たちが夢を育んだあの時代の空気を、ほんのわずかであるが、われわれもまた覚えているあの空気を、嗅覚的に知ることはないであろう。いかなる世代も、他の世代には伝え難い想いをもっているものだ。ITにまみれた超高層ビルの谷間にも、なお昔日の夢をいだく小生の耳に、夕暮れのようなパセティックな響きが聞こえてくる。おそらく今の若者、あの9・11を幼くして知った若者たちは、われわれとはまた違った、未来への期待と凋落とが混じり合った新しい響きを聞きとっていることだろう。

 道路は概ね京都のように碁盤目をなしていて、南北をアヴェニュー、東西がストリートと言い、東・南から順番に番号が付けられていて、馬鹿でもすぐ分かるようになっている。これは合理的で、とくに旅人には親切でよいと思った。朝食はホテルの近くに店が多く、そこでは多くの種類のパンやハム、野菜、果物などがあり、好きなだけ注文して、そこで食べる所もある。歩きながら食べてもいる人もちょいちょいいる。たいていはホテルに持って帰って食べる。しかし、とにかく一様にみな包装がしっかりしていて、ナプキンというか紙を沢山つけてくれる。とても勿体ない、もっとシンプルでいいのにと思った。だから、歩道のゴミ箱は溢れていることが多く、ゴミ収集車も大きいのが目に付いた。どこもかも建物はエアコンが効かせ過ぎであって、これも勿体ないと思った。さすが、資源の豊富な国の人たちは、われわれとは感覚が違うと強く思った。

 思いだしたが、飛行機はデルタ航空(アメリカ)だったけれど、もう5分もいると寒くてたまらないほど、エアコンが効かせてあって、(もっとも一万メートル上空はマイナス50度c以下だから、ここでは暖房の節約と言うべきかもしれない)、しかし、白人は、大人も子供もみなTシャツ一枚で長長時間、平気な顔をしているのには、驚かされた。小生は後に寒さ対策として、ズボン下、上着とマフラーを常に用意した。美術館では若い女の子などはタンクトップと恐ろしく短いショートパンツ姿で、これなどは小生の眼には半裸といってよく、こんな姿でエアコンの効いたところに、よく何時間も平気でいることよ、とあきれた。

 いたるところで人々が話している言語の多様性。一番多く耳にしたのはスペイン語(たぶん)、次に英語、それから中国語であった。ホテルの受付や観光案内所での英語は、小生の耳には難解であった。メトロポリタン・オペラ劇場では今何をやっているのか尋ねたら、「キンガナーイ」と言う。何じゃらほいと首をひねっていると、ケン・ワタナベと言ったから判った、「キング・アンド・アイ」なんだ。別にとくに見たいと思わなかったから行かなかったけれど。まあこんな程度のリッスニング力で、よく来たものよ、自分にはまだまだめくら蛇の若さがのこっているなと嬉しく思った。ついでにすぐ近くにカーネギーホールがあったから、何かやっていたら聴こうと思って行ったが、ろくなモノをやってないと思ったからやめた。まあ疲れてもいたんだろう。

 ヒルトンホテルとはいえ、作りはそうよいとは思わなかったし、水周りの直しのいい加減なこと、プロがやったとはとても思えない。また風呂の蛇口の操作の分かりにくいこと、筒状の取っ手を引けば水が出るのが判ったけれど、硬いのなんのって、老婆だったら絶対に出来ないだろうと思った。それから、櫛も髭剃りも歯ブラシも湯沸かし器も冷蔵庫もなく、困った。日本のおもてなし様式に慣れてしまっている小生は、アメリカン(グローバル?)スタンダードに無知であったことを今まさに知ったのだった。日本はガラパゴスの亀、絶滅危惧種なのか? グローバル化しなければならないなんて冗談言うなよ。

 まあ、とにかく日本に育った小生から見ると、アメリカはほんとうに人種の坩堝だな、言語も肌の色もいろいろだし、だからとても背の高い人やとても低い人が均一の頻度で居る。セントラル・パークでは、一人でにこにこして踊っている(ように見えた)オジサンがいた。近くへ寄ると一ヶ月くらい風呂に入っていないような匂いがした。映画俳優のようなピカピカしたドレスを着た金持ちそうな人もいるし、夕方になると歩道に座って「Homeless Help me…」など書いて、缶缶を置いている人たちも毎日見かけた。3人のそういう人に1ドルくらいだけどあげて、観光客だと言うと「Have a nice trip」などと返してくれる。そう言えば、最後の日の夕方、そういう老人がいて、缶缶を振っているので、何セントか入れてあげたら、何か話したがっているので、少し話をした。するととてもにこにこして上機嫌になった。ははー、このオジサンはこれが楽しみなんだなと思うと、こちらも楽しくなってくる。ホテルに帰って、カップラーメンに目がとまった。日本から持ってきたものだ。湯がないから、食べること能わず、ずっとそのままテーブルに置いていたのだ。最後の朝に枕銭といっしょに置いておこうと思っていたのだけど、急にさっきのオジサンにあげようという気になった。

 それで、そのカップラーメンと買ったばかりのメロンパンと水をもって、オジサンのところに行った。ところが、オジサンの姿はどこにもない。なんだもう仕事止めたのかとちょっとガックリ。帰り道、隣のブロックに女の子が「homeless help me…」を書いたボール紙とコップを前に置いて、膝を抱えて坐っている。20歳くらいか。顔を見ると表情は暗い。この子にさっきの飲食物に1ドル札を添えてあげた。カップラーメンについて説明をしたついでに、アメリカに来た理由などをしゃべっていて、つい彼女の隣りに坐り込んでいたんだ。するとたぶん中国人と思われるが、母子が通りかかった。お母さんは1セント硬貨をもって、女の子のコップに入れようとした、そのとき同時に子供(10歳前くらいか)に、自分の写真を撮らせようとした。その刹那、女の子はあわててボール紙の立て札を隠し、コップを引き下げ、その母に何か叫んだような気がするが、はっきりしない。それが、突然の素早い動作で、何かちょっと危険なことが起こりそうな感じがして、小生も一瞬身を引いた するとお母さんはコインを入れるのをためらったが、結局入れず、ややあって子供の手を取って遠ざかって行った。その瞬間、小生は何が起こったのか了解した。女の子は元の状態に戻った。小生は言った「なんで写真を子供に撮らせようとしたのか理解できない」と。女の子は言った「私もそうよ。あのような人は嫌いだわ」…彼女は小生に握手を求めた。小生も彼女の仕事の邪魔をしたくなかったから、握手をして別れた。そのとき、ついうっかり「good luck」と言ってしまった。しまったと思ったが、後の祭り。この言葉はこういう状況で使うべきでないと思った。

 ほんとうに世の中には、いろいろな人が居るものだ。1ドル札を恥ずかしそうに入れて、さっと立ち去る人もいれば、あのお母さんみたいな振る舞いをする人もいる。


       


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NYに行く 1

生まれて初めてニューヨークに行った。若いときに非常に感銘を受けた絵を、いつかは一度、本物を見てみたいと漠然と思っていたのだが、このところ絵のことを考えていたら、ふと見に行こうと思い立った。全行程、たった一週間、一日中自由にできるのは、なか4日である。もちろん、本命の一つさえ見ることができれば、それでいいのだけれど、せっかく地球の反対側まで行くのだから、ついでにあの市にあるお宝を存分に見てやろうと思うのは自然の情だ。

 近代美術館にある目的の絵については後で言うとして、とりあえずニューヨークについて感じたことをちょっと触れたいと思う。まず、4日間の行動の概観。

1日目 まず本命の近代美術館(MoMA)へ。開館から閉館まで一日を過ごす。夜、川向うからとエンパイアステートビルの上からマンハッタンの夜景を見る。

2日目 開館から閉館まで、メトロポリタン美術館(MET)で過ごす。帰りセントラル・パークを通る。

3日目 午前グッゲンハイム美術館。午後、再度METで閉館まで。その後、夕食のため、市内をぶらつき、偶然大聖堂とグランドセントラル・ステーションを見る。

4日目 開館から午後3時まで、再再度METへ、3時~閉館までフリッツコレクション美術館へ。

 ということで、ほぼ予定通り、効率よく美術館巡りをできたのだけれど、想定外のことは、METにあれほどのお宝があるとは思っていなかったので、連続三日間、足の痛いのも忘れて通うはめになった。それでも、とても見足りなかった。

 話のついでにMETのことから話すことにしよう。もちろんこの世界的に有名な美術館はとても広いということは想像していた。だから、開館30分前にしてすでに入口の左右に長蛇の列ができているのを見ても、そう心配はしなかった。きっとこれらの人が、中に入ったら、散らばってしまうであろうし、たいていはいわゆる〈ニューヨーク観光客〉で、ここにせいぜい2時間くらい居て、出ていくだろうと思っていたから。

  MET入口1


しかし、METは小生の想像以上に広く、日頃から方向感覚には自信があるのだけれど、少なくとも初日目は、いったい自分が館内のどこをどう歩いているのか分からなかった。ホテルに帰って、館内地図を広げて、自分の足跡を思い出し、照らし合わせて検討したが、完全には解明できなかった。

 一階と二階とに、エジプト、ギリシャローマ、オセアニア、西洋中世、近代、現代、アメリカ、アジアなど計20ほどのセクションに分かれていて、それぞれが、モーレツに広く、1つ~3つの出入口をもった多数の部屋に分かれていて、迷路の秘宝館と言えばぴったりである。初日チケットを買って、そのままなんとなく入っていたのがエジプト部門で、入るや否やもう全身鳥肌。何万年前の石器から末期王朝の前まで、けっこう飛び飛びに3分の2くらい見たところで、すでに昼の1時を回っていた。焦った。ゆっくり見てはおれない。大急ぎで館内のカフェで昼食をとり、ただちに近代西洋絵画部門へ。しかし、そこまで行く途中、アジアの壺などの名品が並ぶ通路を通るさ必然的に足が止まり、また、中世美術部門の一角をさらっと通り抜けることはできなかった。中世美術がこんなに素晴らしいとは。しかし、刻々と時間が過ぎる。冷や汗が出る。とても一日では無理だ。近代絵画の部屋に到着したのは、もう4時ごろだったか・・・というようなことで、とうとう三日連続でMET詣でをする羽目になった。

それでも、結局は幾つかの部門は断念せざるを得なかった。一個一個に時間をかけてしっかり見たい、しかしそうすればするほど多くは見れない。館内はかなり冷房が効いているが、時間との戦いで熱い汗がでる。だんだん眼が痛くなって、終わりごろには目がかすんでくる。足の裏が痺れてくる。だがもうここへ来ることはあるまい、そう自分に言い聞かせて、全力を尽くす。

ギリシャのものはずいぶん沢山あったな。英仏はおもに武力で、遅れてきたアメリカ帝国は財力で、世界のお宝を手に入れたのだな。一財産を築いた長者が美術品を蒐集し、死後美術館に寄付するというのはいいことだ。おかげでわれわれはこれらを見ることができる。ギリシャの壺はなんでこんなに集めたのだろうと思うほどある。そういえば、愛知万博があったとき、ギリシャ館で見た壺が気に入った。よくできたレプリカで、きっと最後の日に展示品の一部は売ってしまうのではなかろうかと期待し、最終日に行って、これを売ってくれと言った。しばらく係員は上の者と相談した。10万円で売りましょうと答えた。馬鹿言え、模造品にそんな高値をつけるんじゃない!(もちろん本物なら1ケタ違うだろうが) 2~3万なら買うつもりだったような気がする。が、今思うに、とにかく買わなくてよかった。ギリシャ人め、楽して儲けようとするから、今のような危機に陥るのよ。

ただ一か所、非常にイヤなところがあった。最後の日に入ったアジア部門だ。ここは、入口からしてアジアは中国なりというような雰囲気になっていて、いわばこの中国館に入ってからしか、朝鮮やとくに日本のものを見れないようになっている。この造りからして、朝鮮・日本は中国の属国か一地方という印象を与える。しかも、ここ中国館は、今だけかもしれないけれど、他の部門とは違って、がんがん音楽を流して、スポットライトに照らされた現代アートを所々に配して、古代の貴重な器物は、えらく暗くて、たとえばあの周~漢の青銅器などはよく見えない。小生はこの趣味の悪さに吐き気を催したので、中の方にはとても入っていく気がしなかった。

たしかに、古代アジアにおいては中国が圧倒的な文明を誇っていたし、日本をはじめその周辺の国々は中国をお手本として文明を築いてきたことはたしかである。だからといってあたかも周辺の国々が中国の属国のごとき印象を与え、あまつさえ今の中国の発展を誇示するような、派手なパフォーマンスが許されるのだろうか。しかもここは美術館であるはずだ。日本は独自の文化を築いている独立国であることは聖徳太子以来の国是であることを知ってほしい。

少し前、中国主導のAIIBにヨーロッパ各国は参加の意を表明した。あのときのイギリスの身の変わりの早さには驚いたが、政治経済とはそんなもので、西欧諸国の強欲は今に始まったものではない。METもついに中国の財力に参ったか、と思わずにはおれない。

さらに、情けなく感じたのが日本ブースだ。中国ブースがガンガン変な音楽を流しているからだろうか、日本ブースに入る入口にはガラスの扉がある。MET広しといえど、扉があるのは、ここだけだと記憶する。おかげで、疲れた鑑賞者は扉を押してまで、入っていく気がしない。ガラスの向こうの地味でさえない所に入って行く気が起こらない。とくに外国人はそういう気持ちになるであろう。じっさい、入ってみると中は閑古鳥が鳴いている。ここがたぶんMET中で一番閑散としている。派手さで集客している中国側から見ると、もう文化果てる極東の小島という印象を与える。

しかも、何か知らんが、お宝も冴えなし、配置がいかにも悪い。れっきとした歴史をもつ日本文化が分からない。例えば、入って即、鎌倉期の仏像が一体立っていて、扉のすぐ横には二十個くらいの根付が並んでいる。どういうつもりだろう。根付は立派な日本文化である。江戸、明治~現在に至るまでを、もっと沢山、詳しい説明を付して、並べるべきである。しかも平安時代以前のものはなかったような気がする。絵巻もあまりなかった。鎌倉~江戸期のものが、ブースの初めから終わりまで混然、雑然と置いてあるのみだ。見ていると泣けてくる。

小生が考えるに、まず入り口に、スポットライトで照らされた縄文の火焔土器を、赤毛氈の上にでもでんと置く。それから、縄文から始まって、各時代の代表的なお宝を並べる。とくに焼き物の変遷、多様性は、わが国は世界随一だ。いま日本でやっている大英博物館展の百点の中に、朝鮮物の茶碗で日本で金継ぎしたものがあったが、あれはものすごく素晴らしい、割れた茶碗をあのように、模様を付した金で継いで、さらに一段と素晴らしい美術品!と見なした日本茶人の感性に脱帽だよ。あんなのも並べたい。江戸時代は、斬新な柄の着物をいっぱい並べる。ギリシャのブースでは、壺がこれでもか、これでもかと、腐るほど並んでいるのに! 大量の根付を北斎漫画の近くに並べる。それによって日本人の創造的・楽天的なユーモアのセンスを見せつける・・・
まあここでぐだぐだ泣き言を言ってもしようがない、METは日本の美術品をあまり重要視していないのかもしれない。とりあえずEmailで意見しておこう。


 

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クチナシの香 2

それから一年もしないあいだに、お婆さんは他界されたのだのだけれど・・・

 とにかくその鉢植えをもらってから、しばらく、たぶん1週間かそこら、小生はこのクチナシの香りを楽しんだ。ところで、ちょうどそのころ梅雨っぽい日々のつれづれに、一冊の本を読んでいた。その本のおかげで、小生は、明るい南国の空の下、芳しく色彩豊かな花々や優しい瞳に囲まれた、自由で怠惰な、そして神秘な日日に、遠く想いを馳せていた。その本は、ポール・ゴーギャンの『ノアノア』(タヒチ紀行)。

 生来の遊惰なたちである小生。その学生生活の夢見心地の真っただ中に、クチナシの香りがやってきたものだから、夢から覚めるどころか、(タイミングが悪い!)、夢の中で、現実感覚(クチナシの香)と美の世界(ゴーギャンの作品)とが、分かちがたく繋がり合い、溶け合い、放置するままに、年年深めあって、固定観念のようになってしまった。

もはや小生、現実にそんな桃源郷のようないいところはないととっくに観念しているが、思えば、人は、むしろ勤勉な人は、終生心に南国の海と空をいだいていて、定年後は向こうに移り住みたいと考えている人がけっこう多いと耳にする。

 いま思うに、たしかにゴーギャンは、その昔、この地上に生きていたし、彼がタヒチ島に足を踏み入れた時はすでにフランスの植民地になっていたはずで、ひょっとして彼は、南国の夢など見ていなかったのかもしれない。そして絵画は絵画であって、つまり作品の制作という手仕事には、われわれの預かり知らない実際的な工夫・努力が必要であって、それはこちらの怠惰な夢とは何の関係もないはずだ。小生は『ノアノア』に騙されていたのではなかろうか。あるいは勝手に放蕩の夢をいだいていたのではなかろうか。この期に及んで、ふとこんな疑問が浮かんできて、もういちど彼の作品に接しなくてはならない・・・。

 西洋絵画集で、主だった画家の作品を注意してざっと見ていくと、19世紀に入って、とくにドラクロワでもって、絵画はぐっと変わってくる。それはあえて言えば、色彩の配置、そのダイナミズムとでも言おうか。その後、印象派の衝撃の真っただ中で、モネなどはその道を極端に推し進めたが、むしろ印象派の影響から脱しようとして、幾多の個性的な才能が花開いた。そしてゴーギャンは一つの曲がり角、と言うよりも、彼をもって一つの大きな新しい枝が出てきたように見える、と言えばオーバーであろうか。

光を捉えようという革命的視覚実験の、あたかも巨大な新花火の爆発実験の余波を受けて、画家たちは、それぞれの資質に応じた問題に、不本意にも見舞われることとなった。その問題とは、たんに視覚的な問題ではなく、結局むしろ思想的と言っていいような問題だ。つまり、物を見るとはどういうことか、対象を描くとはいかなることか、目によって物の内奥を捉えることができるだろうか。自然に触れようとしている自分とは何かなど、うまく言葉で表すことはできないが、とにかく存在の根源に迫るような問題に触れなくてはならなかったように思われる。

ゴーギャンの新しさは、色そのものが一つの意味を、思想をもっているように描いたところではあるまいか。彼の大胆な色彩画面が、幻惑的な装飾とあいまって、何物かと戦っているように見える。小生は彼の自画像を好むが、それらは彼の表そうとしたところと隠そうとしたところの、微妙なせめぎ合いから生まれてきたように見える。

彼の『私記』のなかに、ストリンドベルクのゴーギャンへの絶縁状のような手紙を読むことができる。彼は書いている、「ゴーギャンは、窮屈な文明を憎む未開人であり、創造主を妬んで、暇をぬすんで小さな創造をする巨人のようなものであり、他の玩具を作るために自分の玩具をこわす子供であり、大衆とともに空を青と見るより、赤と見ることを好んで、否認し、挑戦するものである。」じつにその通りと思う。誰でもゴーギャンのヨーロッパ文明への憎悪、未開人の美の発見を口にする。しかし、彼はタヒチ島にのがれて満足を得たのであろうか。否。

彼が好んで表そうとした大胆不敵、不逞の裏に、彼のふと顕れる繊細さ、しかもそれをあまりにも平気で表すので、かえって人はそれに気付かない。そんな気がする。だから複雑そうに見える彼の性格は、じつはあまりに率直であることからくる、と言ってもよいかもしれない。今回、『私記』をあらためて読みなおして思うに、これは、百パーセント文字通り、信じて読まなければ、きっと間違うと感じる。
ゴッホについて書かれた部分は、こんなくだりで終わっている。「ジャン・ドランは、その著『怪物』のなかに書いている、『ゴーギャンが〈ヴィンセント〉という時、その声はやさしい』と。そのことを知らなくても、よく見抜いている。ジャン・ドランは正しい。そのわけは人が知っている。」 どんないきさつがあろうとも、ゴーギャンがゴッホと、たった二カ月といえど、生活を共にしたのは、偶然とは思えない。かれが、アルルにいるゴッホの呼び掛けに応じたのは、「ついにヴィンセントの真剣な友情にほだされて」と、さらりと書いてはいるが、じつはゴーギャンの心の最深部が望んで応じたのではなかったか。そして彼はそのことを充分意識していたと思われる。

世人は、ゴッホの異常性やゴーギャンとの付き合いについていろいろな事を言うだろう。しかし、ゴーギャンは、あらゆることについて、一切弁解がましいことは口にしなかった。それは、当時のヨーロッパ人の常識にたいする侮蔑のゆえである。彼は、ゴッホの発病後にふれて書いている「精神病院にいれられて、何カ月かの間隔をおいては充分な理性をとりもどし、自分の身の上を理解したり、人も知るあの驚嘆すべき何枚かの作品を、嵐のように描いた人間の、かぎりない苦しみだけは言っておきたい」。

ゴーギャンには、タヒチに行こうと、どこに行こうと、逃れられないものがあった。それは、当時タヒチ島はフランスの植民地であり、すでに文明人に侵されていた、という意味ではない。それは、彼自身の内部からくる強い反抗心であり、それは無限の海のような原始への尽きせぬ苦しい憬れではなかったか。

フランス人の父とペルー人の母との混血の彼は、少年にしてすでに大西洋を行き来し、その船中において父を亡くし、17歳にして見習い水夫となり、南米航路についている間に母を失っている。彼が本格的に絵画修業に乗り出したのは35歳を過ぎてからだ。43歳パナマに脱出。タヒチ島行きが叶うのは43歳のときだ。

こころ自由(まま)なる人間は、
とはに賞づらむ大海を。
海こそ人の鏡なれ。(ボードレール)

しかし、彼を南海に駆り立てたものは、いわば文明のくびきへの反逆であり、この傲岸不遜のポーズをとらざるを得ないようにしているものは、むしろ深い悲しみであった。彼の絵に反逆を見ることはできない。むしろ祈りとも悲しみとも見える。小生は、いまそんなふうに彼を理解する。『雪の日のブルターニュ』を、南国における死に際にまで筆を入れていたというエピソードを知って、いっそうその感じを強くする。

「モーレア島は水平線上にあり、太陽がそれに近づく。私は、ぼんやりとその悲しげな信仰を追っている。わたしは、これからも永遠につづく運動を感じている―断じて消えないであろう普遍の生命。
そして夜がくる。すべてが憩う。私の眼は、私の前を逃げてゆく無限の空間のなかに、ぼんやり夢を見るために閉じられる。そして私は、私の希望の悲しい進行を心楽しく感じている。」



   くちなしの香りのもとは幾重なる
       真白き花のなかにやありける


     


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クチナシの香 1

 
   この香りそのみなもとはいづくにと
          問へど白々くちなしにして

 わが家には、花の大きさが異なる三本のクチナシの木がある。一本は地植え、小ぶりの花をつける二つは鉢植え。いずれもそこら辺りからちょっと失敬して、挿し木から育てたものだ。

クチナシ小1 クチナシ大

以前にもこの香について触れたことがあるけれど。

 いつもこの季節、初夏の光の輝きをうけて、白い花を咲かせ、甘い、クリーミーな香りを放つ。家族はあまり好まないが、この香は、小生にとっては、ある思い出と分かちがたく結ばれていて、どうしてもこの季節、その思い出にふけりたいという思いからのがれられないのである。

 しかし、この香を嗅ぐとき、本当にあの時のこと、あの時に育んだ夢を思い描いているのであろうか。いや、どうもそうではないようだ。けっして、あの時のあれこれのいちいちを思い出しているわけではない。何となく漠然と、もっと正確に言えば、香そのもののが、いまだ映像として浮かびあがってくる以前の情動を包含していて、そこにはせいぜい形をなさぬ諸ニュアンスが遥曳しているだけのようであって、そして、後になってはじめて、たとえば人に説明でもしようして、その情動に問い合わせをする。そうすると向こうから答えが帰ってくる。だからうまく問い合わせをしたいものだ。〈思い出す〉とはそういうことのような気がする。

 ・・・それは、小生が大学に入った年のことであった。江戸川の近くに下宿先を決めておいた。4月には修繕が終わるはずのその家は、工事が遅れていた。大家さんは今まで住んでいたその家から、隣の新築に引っ越しをしていた。それで、大家さんは、あと1~2カ月、修繕が終わるまで、近くに仮の下宿先を手配したので、とりあえずしばらく、そこに逗留してくれと連絡してきた。

 その仮の下宿先というのは、そこから歩いて2分くらいのところにあり、黒っぽい連子格子をしつらえた、古いがっしりとした家で、いまから思うと明治期の建物と思われる、その家の玄関脇の暗い8畳か12畳くらいになる二間続きの部屋があてがわれた。どうせ一時の仮住まいだと思い、机やタンスの置きどころが定まらず、部屋の一角に運び込んだまま置いておいたような気がする。布団は広すぎる部屋の真ん中にひいて寝た。

 もとより下宿人をおく意図のない大家さんというのは、80歳くらいの老婆の一人住まい。ほかに下宿人はなし。さすが、最初に挨拶に行ったときは、この老婆の娘という人が応対してくれた。この娘家族はここから車で30分くらい離れたところに住んでいるという。

 学校から帰ると、暗い広い部屋に居て、なんとなく落ち着かない。しんとした家で、ラジオやレコードをあまりかけるのも、お婆さんに悪いような気がするし、勉強したり本を読むという雰囲気でもなかったから、やたら外出し、その辺りを散歩しまくっていた。そこは広々とした江戸川沿いで、土手からの景色はとてもよかった。富士山が朝は朝日を浴びて大きく見えた、夕ぐれは夕日でシルエットになって、黒々とした富士は小生の暗い心の中心のようにも思われて、ためにいっそう周囲の夕焼け色が華やいで、飽きず眺めたものだった。

 しかし、たぶん数日もしないうちに、お婆さんも下宿人のことを気にかけていたのか、小生が部屋に居ると、声をかけてくれるようになった。お茶でも飲みませんか。―その声を今でもはっきり思い出すことができる。―たぶん小生の部屋の隣の部屋だったと思うが、角火鉢だったかどうか、これまたハッキリしないけれど、火鉢には鉄瓶がちんちんと鳴っていたような・・・子供のころの記憶とごっちゃになっているかもしれない。お婆さんは小生を火鉢の脇に誘い、そこでお茶菓子をだしてくれた。

 この老婆は、「高砂」によく描かれる姥のように、細身・小柄で、髪型から着物まで典型的な昔の老婆であった。顔はシンプルな雛鳥のようで、歳のわりに(じっさい何歳だったか思い出せないが)目がはっきりしていた。動作も声もしっかりしていた。火鉢の炭火で煙草の火をつけ、目を細めて、さも美味そうに煙をくゆらし、話もなかなか洒脱であった。だから小生も窮屈な思いはしなかった。「学校はどうですか」「食事はどこで」「ストリップ見に行きますか」など訊いたり、関東大震災の写真を見せてくれたりした。

 かくするうちに、2カ月ほど経って、件の家の修繕は終わり、小生は予定どおり引越することになった。すぐ近くだったから、友人がリアカーを借りて手伝ってくれた。その日は小雨が降ったりやんだりで、友人が牽くリアカーの後姿がなんとも寂しげであった。小生の気持ちは、しかし〈ちゃんとした〉明るい六畳間に自分らしい巣をつくる期待が大きかった。

 前置きが長くなったが、その後である。ちょうどこの季節、だから小生が引っ越ししてから1カ月後くらいであろうか、お婆さんが小生の下宿にやってきて、これをあげると言って、植木鉢いっぱいに真っ白い沢山の花をつけた植物を下さった。その香りは音楽のように、ぱっと六畳の部屋に満ちた。


       

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漫談 on Paris

やまと君 「そういえば、今年は年明け早々、パリで二人のイスラム教の信者二人が、なんとか言う雑誌社を襲ったけど、あの出版社なんというのだったかな」

パリ女 「シャルリエブドという週刊新聞社でしょ」

やまと君 「そうそう。そういう名だった。二人のイスラム教徒の若者が17人の命を奪ったのはショックだったけど・・・」

パリ女 「私もすごいショックを受けたわ。まさかパリでこんなことが起こるなんて」

やまと君 「でも、その新聞はいつもえげつない漫画を掲載していて、ムハンマドの風刺もよくやっていたというじゃないの。そりゃイスラムの真面目な若者は怒るよ」

移民少女 「そうよ。ひどいじゃん、シャルリエブドは。以前からイスラム教徒から抗議の声が上がっていたわ。あんなことを続けていたら、いつかはこのような事件が起こることは分かっていたはずじゃん。」

パリ女 「オー、マドモアゼル。でも殺人で仕返しをするのは最悪だわ」

やまと君 「そりゃ殺人はいかんな」

移民少女 「でも、そこまでイスラムの若者を追い込んだのがいけないじゃん。私らにとってモハメッドの絵を描くことすら考えられないし、まして面白おかしく風刺するなんて、無神経にも程があるじゃん」

やまと君 「そうだなあ。イスラム教徒がそんなに嫌がっているのに、教祖を辱めるような漫画を描くのも悪いよなぁ」

パリ女 「ムッシュー。フランスは自由の国よ。表現の自由を何より重んじるのよ。そりゃシャルリエブドはえげつないかもしれないけれど、間違っていると思ったら、どうどうと言論で反論すればいいのよ。それに、私たちイスラム教徒でない人間がムハンマドについて何と言おうとも、イスラム教徒が反発するのはおかしいわ。」

移民少女 「それにしても、私たちはパリに住んでいるのよ。一緒に住んでいるのに、私たちの神経を逆なでするようなことを、そう執拗に表現することはないじゃないの」

やまと君 「そうだなぁ。日本人なら、他人がそんなに嫌がっているのなら、あまり言うのはやめておこうと考えるだろなあぁ。」

パリ女 「だから日本は村社会って言われるのよ、ホッホッホ」

やまと君 「そうなんかなぁ。一番驚いたのは、あの事件の直後、フランス全土で300万人以上の人らが、〈私はシャルリ〉なんてプラカードを掲げて、表現の自由を訴えたことだな。そのときフランス大統領・・・なんという名前だったかな、それとドイツの首相やその他大勢の国々のえらいやさんたちも、一緒になってデモ行進したけれど、不思議な光景だな、なんか冗談かと思ったよ。」

パリ女 「オー、ムッシュー。これがフランスの伝統なのよ。わが国はずっと昔から、世俗第一主義、政教分離の原則があるの。ライシテっていうのだけどね。学校や公の場では、あからさまな宗教表現はいけないことになっているのよ。」

やまと君 「あの襲撃事件以来、フランス政府はその政教分離を学校でいっそう徹底させるべく、ラ・マルセイエズを歌わせることを推し進めているというじゃないか。これがどうもぴんとこなかたけど・・・。日本もこのごろ道徳教育だの国歌斉唱なんかを奨める傾向があるけれど、その意味はぜんぜん違うね、むしろ反対みたいだな。」

パリ女 「ウイ。ウイ。全然違うのよ。フランス共和国においては、道徳とは、宗教のもつ恐ろしい力から理性を守ることよ。それがラ・マルセイエズなのよ。ホッホッホ 国家の起源を神話や宗教に求めると独善に陥りがちだよね。そんなのからすっぱり手を切ったのだね、フランスは。国家はたんなる世俗的な統治機構とするのがスマートなのよ。ホッホッホ。」

移民少女 「フランスがそんなに道徳的な国ならば、どうして私たち移民二世・三世を差別するの。私たちは学校も職場も住まいもだんだん不利に・・・孤立化させられてきているじゃん。あの襲撃犯の若者たちも被差別感にさいなまされていたのよ。」

 パリ女 「ビアンシュール。べつに私たちは、あなたがたを差別するつもりはないわ。たしかに一部のフランス人は差別しているみたいだけど・・・。」

移民少女 「それを矯正することが先決じゃなくて」

パリ女 「政府は、今いかなる種類の差別もしないように生徒たちに徹底させようとしていますよ。これがラ・マルセイエズよ。ホッホッ。でもね、それには、まずいかなる人も、この国に住んでいる以上、この国の方針に従わなくてはいけないわ。ずっと前、イスラムの女学生が教室でスカーフをとらないので、退学させられたことがあったわね。あの処分は当然よ。」

やまと君 「あれはちょっと可哀そうじゃないのかなぁ。日本人だったら、べつに他人に迷惑をかけないならば、まあスカーフくらいしていてもいいじゃないのって思うけれどね。」

パリ女 「アロー。だから、日本人は平和ボケって言われるのよ。ホッホッホ。あんたがたは、2000年のあいだ海に囲まれて他国とそう酷い戦争が続いたことがないから、そういう発想になるのよ。私たちは、そりゃもう酷いものだった。宗教の名のもとに土地を巡って戦わない日は一日たりともなかった。戦争の原因の一つである宗教を政治から切り離すのはとても困難だったのよ。それをやっと百年前に法的に禁止するようになったのよ。フランスにとってこれほど重要なことはないわ。だから個人の信仰は尊重するけれど、公の場所でのあからさまな十字架のネックレースは禁止なのよ」

やまと君 「解ったけれど、だかといって、あんな不快な思いをさせる漫画新聞をよしとするのは、理解できんな。むしろ、あれは戦いを起こす要因の一つにはならんかな」

移民少女 「そうじゃん。あんな新聞記事が戦いを誘発するのよ。」

パリ女 「マドモアゼル。暴力はいけない。とくに現代のような、ボタンひとつでパリを消滅できるような時代ではとくにね。表現の自由は絶対だわ。もし不快な思いをしたら、言論で勝負すべきだわ。それが理性というものよ。そして論争でにっちもさっちもいかなくなったら、最後は気のきいたウイットで終わるのよ。それで両者は真の友人どうしになれるの。それがフランスのエスプリって言うのよ。ホッホッホ」

やまと君 「では訊きますが、他人に不快な思いをさせてもいいが、暴力はいけない、殺人はいけない、というのはどこから出てきたの。誰が決めたの。その根拠は何なんだい。」

パリ女 「自分の親や先生や尊敬する人の悪口を言われて不快な思いするのは当然であるとしても、それに対してさらっと流せる、あるいはそれに対して反論できるのがフランス精神よ。」

やまと君 「それは素晴らしい精神だとしても、わざわざその人の前で悪口を言わなくてもいいじゃないの。」

パリ女 「それを聞いて不快な思いをして、黙って胸の内にしまいこんで、いじいじしている人を、冴えない人とか弱い人っていうのよ。フランスではね。そしてそれがたまると、いつか爆発するわ」

やまと君 「でも世の中には弱い人もいっぱい居るじゃない。そういう人たちの心をつねに配慮して生きるのが、あなたに反発して言わせてもらえば、日本精神と言いたくなるね。とにかくわれわれは人情を大切にする。」

パリ女 「ホッホッ。例の日本人特有の、黙っていても意は通じるっていうのね。やっぱり村社会ね。一見素晴らしいわ。あなたたちは、いつも他人の目を気にして生活している。他人が自分についてどう思うかを第一に考えている。慎み深く、控え目で、美しいわ。だから、日本人はまとまりがいいのね。でも、われわれパリジェーンヌから見ると、だから日本人は個人として独立していないのよ。」

やまと君 「個人の独立と言ってみても、言葉だけ聞くと立派だけど、人は一人では生きておれません。人はいつも他人との心の交流の中で生きていますよ。僕から見ると、フランス人はわがままなんだな。わがままと言うのがイヤなので、格好をつけて個人の独立なんて言っているような気がするな。離婚が多いのはその一典型じゃないか」

パリ女 「あっはっはっは。おっホッホッホ。あなたたちだって、もっと自分で自由にものを考え行動できるようになったら、離婚も増えるでしょうに。」

やまと君 「でもね。あなたがたの言う個人の概念は、やっぱりキリスト教から来たものじゃないの、つまり全ての人は神の前では平等というのとパラレルだね。われわれ日本人は、私がいて、あなたがいて、誰誰さんがいて、皆それぞれその性格に応じて生きている。それで充分なんだ。べつに個人がどうのこうのとあらためて言う必要はない。そう考えると、個人を強調するあなたたちはやはりキリスト教文明の落し子なんだ。」

パリ女 「・・・まあ、起源のことを考えると、何とでも解釈できそうだし、今の生き方を問題にしている時に起源をもちだすのは野暮なことよ。ホッホッホ、まあ、それはそれとして、もう一つの問題、どうして殺人はいけないかって。それは、生物学的要請から来ているのよ。それを説明すると長くなるから、今日はやめとくね。またゆっくり話しましょうね。アビアントー。」





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石ヲ好ム

 小生は昔から石が好きで、散歩をする時も空や家や植物を見るだけでなく、たえず面白い石はないかなと道端に注意しながら歩く。どこか旅行に行ったら必ずその地の石を持ち帰る。そして採取場所と日付を書きこむ。友人が旅行に行くからお土産は何がいいと訊かれると小さな石を拾ってきてくれと言う。だからいつの間にかけっこうな石持ちになってしまった。

 いまこれらを写真に撮って整理しようというついでに、ここに少しだけ紹介したい。

   天橋立2個
 これらはつい先日行った天橋立を歩いているとき、その海側の砂浜で拾ったもの。右はちょうど鶏卵の大きさで、花崗岩に見えるが、こんなに円くなるまで、いったい何千年・何万年のあいだ波に転がされていたのだろうと思う。
 左は、ひょっとして細石(さざれいし)ではないかと思う。違うかもしれない。表面をよく見ると貝やイソギンチャクのようなものの付着した痕がいくつかある。細石と言えば、有数の産地である岐阜県でとれたモノを以前に知人から貰ったはずだが、どこへ行ったか、家じゅう探しまわったが見つからない。大ショック。


   知多海岸石2個
これは知多半島の海岸で拾ったもの。よくあるパターンで、石が海辺の虫によってきれいに穴が穿たれている。右は鉛筆立てにしている。


   4種の石
 左上は御嶽山の頂上付近にあったもの、左下は鹿児島の海岸で拾ったもので、ものすごく軽い。右上は土佐桂浜産。右下の黒灰の石は、どーってことないそこらに転がっているようなフツーの石だが、25年くらい前か、母が春日大社の旅行から帰ってきて、「あんた石が好きやろ」と言って、小生に土産としてくれたものだから、とても捨てることはできない。


   パルテノン石
 左はギリシャのオリンピアの遺跡で、右はパルテノン神殿で拾った大理石。


   薄墨桜石
 これは岐阜県根尾村の有名な薄墨桜のすぐ横の露店で300円で買った菊花石。何日も布でこすっていたら綺麗になった。

   屋久島石
 これは屋久島の安房の海岸で拾ったもの。よくあるけど、ちょうど二種の層の部分が一つの石になっていて面白い。


   阿蘇・高千穂
左は阿蘇山、横から見ると赤色と灰色と二層になっている。右は高千穂産、ここの石はすべて直線的にシャープな割れ方をしている。


   宍道湖・本居
 左は宍道湖、右の白石は本居宣長の奥墓の前で見つけたもの


   紫式部石
 これはわが家の近くで散歩中拾ったもの。着物姿の女性に見えるでしょ。 銘 紫式部

 
ムーア石1ムーア石2ムーア石3

 この艶のある黒石は、わがコレクションの中で最高のものだ。親戚から貰ったもののような気がするが、入手先はなぜかハッキリした記憶がない。いわゆる那智黒だと思うが、自然石にしては表面がきれいすぎる。以前の持ち主が磨いたのか? 何が最高って、これほどの〈完璧な〉形はないであろうと思う。どう考えても、これほどの素晴らしい形はない。強いて言えば鞍形だが、どこからみても黄金比率というか、根源的な形というか、見れば見るほどに自然の奥儀に誘われる。これに較べたら全き球は恣意的な抽象的な完全性にすぎない。これは、正円の球に較べるとはるかに形として出来ている。ある芸術家が造ったのではないかと思う。 銘 ヘンリームーア


   矢じりなど

 数年前ある親戚から倉の隅に眠っていた大量の石をもらった。御先祖がやはり石を集めていたそうだうだ。ここには黒曜石、石器時代の矢じり、水晶、鍾乳洞の石筍などがある。他にも、知らない変わった石が山ほどある。


   雲母
これは雲母。御先祖が明治時代に北韓(今の北朝鮮?)で拾ったと裏に書いてある。妻の曾祖父は日韓併合前夜、明治43年ころからしばらく朝鮮の京城(今のソウル)にて勤務していた。


 こんな瓦の断片も残っている。
   正㤗瓦
裏にはこう書いてある。「明治45年2月22日 紫宸殿東側ニテ ○○○○(妻の祖父の名前)


 そして当時の日本や朝鮮のものらしい瓦などがたくさんあったので、しまっておいても面白くないから、玄関先の庭を華やかにし、毎日見れるようにした。

   庭瓦
   

 これも同じくその御先祖が、明治時代に拾ったもの。
    明治石


 左の白い石には、「明治38年2月5日父ニ□ヒ芸陽八木梅林ニ遊ヒ其傍ラノ河沙ニ於テ得之」と書いてある。たぶん妻の祖父の兄が書いたものであろう。

 右の赤石には、「明治辛卯(これは明治24年1891年)新嘗祭日(?)片岡兄登鞍島山得山嶺(?)此乃□□行之記念」とある。これを書いたと思われる妻の曾祖父は、まさか100年以上の後に、ひ孫の旦那が愛でてくれるであろうとは露ほども思わなかったに違いない。

 まあ、ちょっと変わった石を探して持って帰り、愛でる楽しみは安上がりだし、散歩や旅行をいっそう楽しくしてくれるし、しかも飽きることがない。

 しかし、石に興味がない家族にとっては、こんな大量の石が残されたら迷惑じゃないの、って声が聞こえる。そうだな、こんな道楽、注意しなきゃ。

   楽石注意、楽石注意(笑)



     


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真実と動き

 偽問2の系2

 われわれがふだん見ているところの世の動きは、真実在ではなく、虚像である、とプラトンは言う。あのギリシャの彫像の作者たちは一瞬の真実在を捉えようとしているようにも見える。ギリシャ人にとって、永遠とはエーゲ海の上の幻のような神々のものうい瞬間的な世界なのであろうか。

 それにたいして、キリスト教においては、永遠は絶えざる変革、絶えざる倫理的追求、絶えざる自己革新というダイナミックな動きである。彼らにとって、むしろ真実在とは動きであって、ほんらい形象は不要である。

 さて、われわれには第三の道が開けている。アキレスが亀を追い抜く。これをアキレスと亀だけに注意せず、全体像の変化として捉えると、どうなるか。たとえば画家ならそう考えるであろう。絶えざる変化を認めつつ、しかしそこに倫理的要素を混じえず、ありのままに肯定する。そこには一部を切り取るような恣意的な自己というものが消えている。むしろ自己も全体の中の一部として溶け込んでいる。ここには永遠なるものは問題にならず、無常が取って代わる。

 この自己滅却、爽やかな謙虚は、われわれ日本人が長く育んできた感性である。われわれには、キリスト教のような倫理的強さはないであろうし、ギリシャの現実から離れた晴朗な神々の世界も持たないであろう。しかし、われわれは動きや変化をそのまま〈無常〉として受け取り、その世界に身をゆだねる。そこから豊饒なる美の世界が生みだされる。「世界は美的現象として是認できるか」という西洋の問いは、わが国において自然にとうの昔に解決されている。
 

       


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偽問2の系

 あらゆる動きはシンプルなものである。アキレスの歩みも亀の歩みも、現実の動きとして見た通り感じれば、分割できないシンプルな動きである。

 それを、量として、つまり平面の上の線として還元してしまうのが、幾何学であり数学なんだな。科学が成功するのは、その還元があってこそだ。

 それで思い出すのが、生物の進化の科学的アプローチだ。生命というのは、ほんとうに不思議だ。この地球上のあらゆる生命は種に分化して、それぞれの種は闘争したり、協力したりして、種としてとにかく生き延びようとしているように見える。細菌や昆虫や植物のみならず、あらゆる生き物は、あの手この手で、驚くほど手の込んだやり方で、なんとか生き延びようとしているように見える。

 おそらく地球上だけでなく、ほぼ無限の広い宇宙の幾つかの条件のよい惑星上であれば、同じように生命は其の惑星に住みつき、カビのようにまとわりついて、種として分化することによって、何とか環境の変化にも耐えて、生き延びようとしているに違いない。いったん生命がある所に生きる場所を見つけたら、何とかしてこの物質世界で繁栄しようとする。そう思うと、何のためにいったい、と不思議を通り越して、呆然とするしかない。

 で、この地球上にいる生物種の発生なのだけれど、例えば、蟻でもカラスでもなんでもいいけれど、コウモリを取り上げてみよう。コウモリはこの明るい世界で餌をとり合うなどの闘争を避けて、暗い洞窟に住む場所を見つけたという。ある時とつぜん洞窟にコウモリという種が何匹か無から発生したとは考えにくい。ある動物から分化して出現したのであろう。

 では、前コウモリの目が退化したのと、超音波装置を作りだしたのとどちらが先なのであろうか。ふつう目が退化していったから、それに代わる超音波装置を作りだしたと考えるであろう。なんで目が退化したかというと、暗いところで住むようになったからだ。それにしても、それぞれの時期があまり異なると死滅してしまうから、おそらくそれら、つまり暗い所に住む事と目が退化する事と超音波装置を持つこととほぼ同時でなければならない。たまたま出鱈目に重なったなどとは考えにくい。

 そして、一口に超音波装置と言っても、超音波を発する器官と、跳ね返ってくる超音波をキャッチする器官と同時に作らなければ意味がない。たまたまそれらが別々に偶然、意味もなく体に出現したなんて考えられない。つまり、それらは目的をもって全てが変化してきたとしか考えられない。少なくとも振り返ってみれば、そう見える。われわれは、この驚きから決して逃れることはできない。科学の分析がさらに精緻になればなるほど、むしろわれわれの驚嘆は大きくなるであろうと、小生は信じる。

 すべての生物の分化は合理的で、その変化は全体としてみるとシンプルなものである。それに対して、その流れを、科学的アプローチは細かく分断して、何枚もの画像を描く。その過程は複雑である。いったん微分したものを、後に積分して、動きを捉えたつもりになる。しかし、現実の動きそのものが抜け落ちている。ダーウイニズムとはそのようなものである。

 われわれは絶えず、現実の動きを認知する能力をもっている。その動きそのものを数学は捉えることができない。そして、われわれは逆に、動きそのものを一段と深く捉えようとする能力ももっている。それは動きを量でなく、動きそのものを、つまり質として感じる能力ではなかろうか。いわゆる芸術の源泉もここにあるのではないか。


     


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偽問 3

 言葉を〈現実〉から遊離しないようにしながら、もっとも洗練させていけば、詩と数学ということになろう。数学ほど純粋なモノはない。最も澄み切った水のようだ。しかし、その比喩はよくない。水ではなく、H2Oだ。いやこれでもまだ人間臭い。H2Oではなく、たとえば、0000110001とでも表そうか。

 前回のゼノンの問題も、数学ならこう表して、

1/2+1/4+1/8+・・・1/2^n +・・・∞=1

アキレスが亀を追い抜く地点と時刻を正確に予想する。現代数学者の頭の中では、われわれには想像もできないほど複雑難解な数式が展開されていようと、数学の現実との不即不離の関係をわれわれは信じている。なぜ、頭の中でのみ展開する抽象的な数学が実際に役立ち、それを信じることができるのか。

 それは、数学は世界のあらゆる質を量に還元して扱うことができるからではなかろうか。数学にとって、赤は700nmであり、青は470nmなのだ。これほど正確で役に立つ表現はない。

 しかし、「アキレスは亀追を追い抜くということ」に関する数学的解決に、小生は何かが欠けているという印象をもつ。それは何だろう。おそらく、そこには現実の運動がないのではなかろうか。では現実の運動って何だろう。一つ考えてもらいたい。

 もし、科学者に運動を生じて見せよと言ったとする。彼は、アキレスが亀を追い抜く映像を映し出し、それを経時的に細かく分割した映像を何枚も取り、われわれの目に非常に速く提示する。つまり映画の手法だ。それぞれの映像は一つ一つ静止画像だけれど、われわれはそれを動きだと認知する。このさい、〈本当は〉すべての画像は静止しているのだけれど、われわれは〈誤って〉認知している、と言える。

 すると、ひょっとして我々が生まれてこのかた、現実だと認識しているものは虚像にすぎないのだろうか。そう言えるかどうか?

ヒント:真っ暗なスクリーンに光点Aを映し出す。それを消して、ただちにその近くに光点Bを映し出す。それを見るわれわれは、光点がAからBに移動したと知覚する。

 この錯覚は合理的なものであるまいか。
おそらく生きるために有効な、脳がとった手段である。
手品師はこのいわば必然的な錯覚をうまく利用する。

必要な錯覚。ここから、次の系が導かれる。

1. 地域社会が円滑に保たれるために必要としてきた錯覚 

宗教 例えば、古代においては、地球上のどの地域においても生贄を必要とした。

2. 個人が円滑に生きるために必要としてきた錯覚

心理的機制 例えば、鏡に映った自分の像を無意識のうちに修正して見ている。


fabricationの諸相

 
          へっ


       




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偽問 2

 
引きこもりの人は、一人部屋に引きこもって、いろいろな事を考えているみたいだ。とは言っても、じつは同じことを繰り返し自問自答しているようだけど。先日、引きこもり人と話をしていた。彼が言うには、うんと将来、遠い星の人たちとコンタクトをとることになろう。そのとき人類はテレポーテーションを使って瞬間移動できるようになるだろう、と。

 それに対して小生はこう答えた。テレポーテーションなんて考えられない。われわれは、この物質的肉体を持っている以上、光より速く移動することはできないと。これに対して彼が言うには、「いま考えられないことでも、将来は実現しているに違いない。今われわれが携帯電話でどこの誰とも交信できることなんて、縄文時代の人たちから見れば、とてもとても信じられないことが起こっているのと同じである。いま理論的に考えられることのみを根拠にしてしかものを考えられないのは、非常に視野が狭いのではないか。」

 さて、彼が言うように、小生の視野が狭いのか、それとも彼が行きすぎているのか。・・・それにしても、彼の言うことは絶対に間違っているとは言えないにしても、あまりに先のこと過ぎて、むしろ何とでも言えるのではあるまいかと感じるのである。

 言葉というモノは、遠い昔おそらく実際生活に便利な道具として発達してきたと思う。初めは、木とか火とか石とかいう名詞、そして獲るとか行くとかいう動詞などが発明されたのではないのかな。あるいは動物の鳴き声のように、危険だ逃げろとか獲物があるぞとかいうのが先かもしれない。まあ、なんにせよ、それらは発達して、心の中の思いを、希望や後悔を、そして表せるようになった。その最たる言葉は、日本列島ではカミではないのかな。生活が安定してきて食べるためだけに生きる時間を減らせるようになってきたとき、人は一段と抽象的な事を話せるようになり、ついには物語を生んだ。わが国では、文字を使用するはるか以前に、すでに浦島太郎やかぐや姫の類のサイエンスフィクションを人々は楽しんでいた。
 言葉の組み合わせでもって何でも表せるとなったとき、ひょっとして言葉はわれわれの理屈を超えたものをも表せるかもしれない、そういう実験をしてみようと考える人も出てくる。つとに『万葉集』巻16にそういうのがある。

無心所著(ナンセンス)の歌二首と題して、

  我妹子(わぎもこ)が額に生ふる双六の
        牡(ことひ)の牛の鞍の上の瘡(かさ)
3838

 現代風に翻案すれば、例えば、

 貴女の顔にある三角と黄色い北海道を足すと
     二十四の瞳になる


 となる。文法的(SVOC)には問題なくとも、ほとんど無意味である。

 あの引きこもりの言うことは、小生にはそんなふうな言葉遊びに聞こえるのである。小生は視野が狭く、遅れているのであろうか。

 ところで、言葉が現実の分析に向かうとこんなトリックもできる。紀元前5世紀のゼノンの有名な話。

 アキレスと亀の競争だ。例えばアキレスは亀の二倍の速さで走れる。亀は遅いので、ハンディーとして、だいぶん先にスタート地点を置いてやろう。そうして、よーいドン。
 アキレスが亀のスタートした地点に到達したとき、亀はすでにその半分の距離分前を走っている。次にアキレスがそこに到達したとき、亀はその半分前に行っている。さらにアキレスがそこに到達したとき、亀はその半分前を行っている。・・・この手続きを何万回進めても、つねに亀はアキレスの前にいる。だから、アキレスは決して亀を抜くことはできないでしょ。

  こう問われれば、さてどう答える。    
                        へっへっ



       

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偽問 1

ある優秀な中学生が言った、「どうして僕らには選挙権がないの。僕らは、歴史や政治の勉強もしているのに、20歳まで選挙に参加できないなんて、理由が分からない。およそ世の正邪などに心を労することもなく、昼間からパチンコに興じたり、エロドラマを見ている大人たちですら選挙権があるのに、僕らはどうして政治に参加できないの。14歳だからだめだというのは、どんな理屈から出てくるの。僕らはまだ仕事をしていないからだめだという人がいるけれど、僕らは家事の手伝いもやっているよ。
 昔は女性は選挙権がなかったけれど、男女差で選挙権の有無を決めるのはさすがおかしいということになって、今は男女同権でしょ。外国では肌の色の違いで差別があったけれど、今はそんなことで差別しないでしょ。
 人間はみな平等ならば、子供も大人も同権じゃないの。年齢で切るなんておかしいのではないか。」
 
 ということで、彼らは国会周辺で〈おとなこども同権!。アホな大人らも選挙権があるのに、我らにはどうしてないないのか!〉を訴えて大規模なデモをやった。その訴えは全国に次々と飛び火していき、ついには、中学生のみならず、小学生までが同じことを吠えたてるようになった。「人間みな平等。選挙権を我らに!」

 そんなことを暇つぶしに空想してみた。で、もしそうなったら彼らにどう答える。   へっへっ


      


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鎌倉に行く3

 お昼を食べて、親戚の家で少し休憩をしてから福井の従兄弟といっしょに帰ろうと考えていたのだが、従兄弟が名古屋から福井までの列車が夜発しかないというので、それまで暇ができたので、一人、神奈川県立近代美術館葉山に行ってきた。なぜかというと、金山康喜という画家の絵を最近テレビや新聞で知っていて、多少気になっていた、そこへ、たまたまこの日に、彼の絵画展のポスターに目がとまったから。 

   金山康喜1

この人の絵の魅力はなんだろう。青の層への探求、そして日常の平凡なモノからなんとかしてその三次元性を剥ぎ取って、その表層の名のみ残し、しかるべき位置に配置しようとする、しかしその困難さ・・・そして、彼は33歳で早世したのだった。

 帰りバスの窓には、午後の光で照らされた相模湾が続いていた。とつぜん砂浜に陳和卿が造った船が朽ちてゆくのが幻のように浮かんだ。

   春の海 見果てぬ夢の 昔かな

 なんとなく心が落ち着かないまま、さらに時間があったので、八幡様の隣りにある県立美術館別館に足を向けた。ゴヤ、ドラクロワ、ルドン等の版画には、これまたまったく別種の異界からの誘惑を感じた。

 幻想の系譜1 幻想の系譜3


親戚の家に戻って、やはりルーツ的好奇心を押さえられず、この親戚I家の過去について尋ねた。すると、待ってましたとばかり、ご主人が系図を見せながら語るところによると、彼のお祖父さんの兄弟が、いまテレビでやってる松陰先生の義弟の小田村伊之助の子供の養子となって小田村家を継いでいるそうだ。世間は狭いもんだね。


     

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バリ島に行く3

Iとの付き合いは、17歳くらいから26歳くらいまでの約10年間くらいだ。この多感ないわゆる青春時代に、小生はIを尊敬し、またIからもっとも影響を受けた。高校時代、一度として同じクラスではなかったように思う。どうして彼と知り合うようになったのか分からない。彼は早熟だった。おそらく彼から見ると小生は幼稚なおぼっちゃんに見えたであろう。家の遠い彼は下宿をしていた。われわれ数人の〈仲間〉は時々彼の下宿に行った。彼の部屋の本棚には「漱石全集」をはじめ多くの文学や哲学の本が並んでいた。

 彼は修学旅行には行かなかった。おそらく急病を装って、旅行の積立金を返してもらい、そのお金で本を買った。たぶん「折口信夫全集」だったと思う。キルケゴールという名を小生に教えてくれたのもそのころだ。そんなことで彼は非常な読書家であった。彼と一緒に他の仲間の家に行って、ビートルズやジャズのレコードをよく聴いた。深夜スーパーマーケットに忍び込んで盗んだガムを食べながら川の堤に座って、朝やけの空を眺めたこともあった。いつの間にか、われわれは彼をリーダーと呼んでいた。

小生がIを尊敬していたのは、彼が読書家で勉強がよくできたからではない。彼は繊細というのか、他人にたいして非常に細やかな心をもっていたからだ。一番強く印象に残っているのは、彼と小生と小生の友人Sと三人で、当時小生の一番の親友Oの家を訪ねた時のことだ。Oは、事情はよく解らなかったが、両親と別居していた。お祖母さんが彼の面倒をみていた。そのお祖母さんはとても歳をとっているように見えた。

そのお祖母さんが、Oの友達が訪ねて来てくれたということで、カレーライスを作ってくれた。それが、部屋や台所の状況とともに、見た眼にとても汚らしく、とても食べる気がしなかった。お腹もじっさいそんなに空いていなかったのかもしれない。ふだんからきれい好きのSはほとんど口をつけなかった。小生は、せっかくお祖母さんが出してくれたのだから食べなければと思いつつも、どうしても半分くらいしか咽を通らなかった。しかし、Iは頑張って全部食べた。小生には、それがOとお祖母さんの気持ちを察して無理して食べたことが、よく解ったのだ。小生は自分の無力を恥じた

そういえば、その後いつだったか29年間フィリピンで一人奮戦していた小野田少尉の帰国のことを話題にしたことがあった。小生が「うーん、29年間か・・・」とつぶやいたとき、Iは期間の長さは問題ではないと言った。小生は自分が解っていないことに気付かされた。

みなで、誰かの失態をからかったりしていると、Iは「だれでもそんなことをするではないか」と、われわれをたしなめることもあった。そういうとき、われわれはハッとして、彼を良心の権化のように感じるのだった。

Iは高校を卒業して上京した。彼の口癖は東大でなければ大学に行かない、であった。文化系の科目は抜群だった、だけど、彼は数学が非常に苦手であった。当然、東大は落ちた。慶応や早稲田なら、居眠り半分でも合格できたであろうに。しかし、両親をうまく誤魔化して、大学か予備校に通っているような振りをし、仕送りをせしめていたようだった。今から思うに、彼はハナから大学など行く気はなかったのだ。万一、東大に入っても、半年か一年かで退学していたのではなかろうか。彼が、まともに授業に出席し、試験をうけている姿は想像できない。ましてや、就職して長く仕事を続けるなんてことは考えられない。そのころすでに彼は周囲にたいして不安を抱かせる人物であった。以来、彼は二度と故郷の地に足を踏み入れることはなかった。

小生も上京した。中ぐらいの理系頭の小生は浪人して医大に入った。そのころIとはあまり会わなかったが、あるときIとAと小生はいっしょに、映画「冒険者たち」を見に行った。終わりのほうで、いい者である主人公らを悪い奴らが襲ってくる、いい者の一人は殺される、しかしもう一方が、うまく悪漢らを次々にやっつける、というシーンがあった。その時、Iは手を打ち、喜びの声を上げつづけた。彼のその無邪気さに小生は深く感銘をうけた。

しばらくの後、またわれわれはよく付き合うようになった。彼は、サングラスをし、かっこいい裾の広がったジーパンを穿いていた。青山のなんとかという店で買ったのだという。しかし、どうも気に入らない部分があるから直しに行く、一緒に行こうと言った。そのときの彼の恥ずかしそうな顔を思い出す。彼は何をして生きているのであろう、どこかでバイトでもしているのであろうか、小生はいぶかったが、なぜかそのようなことを訊ねたことはない。

ある時、音楽狂であった小生が、彼にモーツァルトのピアノ協奏曲no.17を聴かせて感想を求めた。彼は「これは丸と三角だ」と答えた。その時、小生は嬉しかった、その意味が判ったからである。当時彼がよく聴いていた音楽はロックであった。何回か二人で、小生のマンションで徹夜で音楽を聴きまくり、踊りまくった。彼は「ニーチェが音楽は個体解体の原理だというのは本当だ」と言った。ピンクフロイド、レッドツェッペリン、ディープパープル、バルトーク、ベートーヴェン、ストラヴィンスキー、長唄、能楽囃子、・・・そして夜が明けてくると、決まって『フィガロの結婚』の伯爵夫人のアリアで締めくくった。彼は言った「これは天上の音楽だ」と。ときにマリファナをもってきてくれた。

あるとき彼は小生に本をくれた、「les deux sources de la morale et de la religion」これ、彼は原文で全部読んだとは思わないが、後に邦訳本は小生の愛読書となった。今なお我が手元にあるこの原書は、唯一彼の手垢が付いたものだ。これも小生の棺桶に入れてもらうことにしよう。

26歳くらいの時には、われわれはもう別々の夢に捉えられていた。別れる時がきたのである。彼はきっと小生の凡庸な人生を見限ったのだろう。しかし、小生の彼への敬愛の念は決して消えることがなかった。そしていつかまた会えると信じていた。

数年前Aから、Iはバリ島で死んだと聞いたとき、驚きと同時に、やっぱりそうかと思った。と同時に、もう彼に二度と会えない無念さが心を圧した。若い日のIの写真を見て苦しくなるばかりだ。Iのような男は、この世ではとても生きにくかったに違いない。彼の繊細な魂は、たとえば学校や病院や介護施設などのホスピタリティの限界というか、この世のあらゆる制度の必至の欺瞞には耐えられなかったと思われる。近代の画家や詩人の中には人里離れた地に逃避した者がいたが、彼らには絵画や詩があった。Iには何があったのだろう。文学で若年期をスタートした彼は一編の詩も残さなかったのであろうか。彼の晩年に親しかった人に訊いてみたい。

         *

帰り、シンガポールを深夜一時過ぎ離陸した飛行機は、4時ごろまで、機内を暗くしてくれている。そのあいだ窓外に目を凝らすと、大小の星星がぎっしりとひしめいているのが見えた。そして思った、今この瞬間に新しく生まれている星もあろうし、消滅している星もあろう。消滅した星は散り散りになって、また新しい星の素材になる。星は新たな神話の素材になり、新たな人たちはその神話を生きる。その人たちの生もまたたく間に過ぎ去ってゆく。何に対して? 
すべては次々に思い出となって、そして自分だけが〈今ここ〉に居る。


     

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バリ島に行く2

このバリ島のカンプン・カフェは、当初Aと一緒に来たいと思っていた。しかし、Aは以前に、まだIが生きていたころ訪れたことがあるし(だからAはここでのIの写真をもっていたのだった)、それにたまたまAも重病の治療中で、かつまた最後の仕事が忙しい時期でもあったので、小生はふと妻を連れて行くことに決めた。なぜなら妻が行きたがっていたから。思い返せば、妻と海外旅行というのは、結婚して間もなく一度したきりだ。その後、海外と言うはおろか国内旅行もまともにしたことがない。死ぬまでに一度くらい、お礼と言うか何と言うか、まあそういう意味で、一緒に海外旅行をするチャンスでもある。一石二鳥とはこのことではないか。

それで、次の日は遺跡や美術館を廻りながら、南の海辺のリゾート地ヌサドゥアにある広大なホテルへ。そこで二泊。この間に非常に心に残った二つのもの。一つはアルマ美術館で見たヴァルター・シュピース(Walter Spies)の絵。強いて言えば、アンリ・ルソーの発見したところをシャガールの自由さをもって描く。このドイツ人は非常に多才な人であり、バリ芸術の立役者であったそうだ。そもそもバリ島の民芸が芸術として発展してきたのは20世紀に入ってからである。それにはシュピースはじめ外国人の尽力が大きい。

ヴァルター・シュピース
   wikipedia

それからもう一つは、断崖に立つウルワト寺院。バリ島は至る所に大小の寺院がある。ふつうの民家にも門前に魔よけのヒンズー神を立て、庭には先祖供養の石塔をいくつも立てているので、広い敷地の民家は小さな寺院と区別がつかない。ところでこのウルワト寺院は、べつに寺院がどうのってものではなくそれが立つ断崖絶壁がすごい。見下ろすと波寄せる海の水の色があまりに鮮明で美しい。その敷地の傍らには円形劇場があり、そこで海に沈む夕日を背景に50人くらいの男たちが叫びながら踊る(ケッチャクダンス)。そこへインドから伝わった物語を舞う洗練されたバリ舞踊が加わる。

ウルワト寺院5 ウルワト寺院4


ウルワト寺院ダンス3



ロケーションがよい。インド洋に沈む夕日、シルエットに浮かぶ寺院、たえず漂う香の薫り、半裸の男たちの呪術的な叫び、あざやかな色彩と繊細な動きの舞踊。これらが混然一体になって、観客を陶酔の境地に陥らせる。このまさに〈総合芸術〉も最近になって政府の後押しで生みだされたものであるという。かつて見たエーゲ海の断崖に立つポセイドン神殿も円形劇場も、今は廃墟である。しかし、このウルワト寺院はまさにいま芸術祭のメッカとして胎動している。インドネシア政府は、よきにつけあしきにつけ、バリ島を一大観光地として、バックアップしているそうだ。日本人観光客は減少しつつあるらしいが、代わって急増しているのは中国人だ。まあどこでも観光地はどんな人たちでもOK。気前のよい金持さんなら熱烈歓迎。

 大きなホテルの複雑に入り組んだプールで久々に泳いだ。生まれて初めて南半球の海に浮いた。しかし、バリ島に来て以来、頭から去らないのはIのことだ。「どうして君はこの様な地に渡ったのだ。どうして死んだのだ。」なんども頭の中でそう問うてみた。そして、彼のことをできるだけ詳細に思いだそうと努めた。


     

     

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バリ島に行く1

バリ島に行った。南国リゾートでリッチな休日をというのではなく、第一の目的は旧友の墓参りに行ったのだ。とはいっても、そこに彼の墓があるわけではない。死ぬまでにどうしても彼の晩年の縁の地を訪れたかったからだ。

 旧友Iの死は、三年ほど前に、共通の友人Aから聞いた。とてもショックだった。なぜならIは小生が高校時代に知り合って以来もっとも尊敬をし、影響をうけた友であったからだ。26歳くらいからもうずっと会っていないが、またかならず会えると思っていた。それがもう叶わぬこととなってしまったという思いは、日ごとに強くなって、せめて墓参りはしようと一年くらい前から考えていた。

日ごろ腰が重い小生も、もう今しかないという思いに駆り立てられて、パスポートを取り、旅行代理店に走った。目的の場所は、バリ島の中部の町ウブドという有名な、とは言っても小生は初めて知ったのだが、のはずれにあるカフェである。

 Aの語る所はこうであった。Iは、Iの連れ合いの出資によってなったそのカフェ(レストラン)で、現地の仲間であるマデ君とともに働いていた。しかし、Iは連れ合いと別れてしまい、(連れ合いは撤退し?)Iは現地に残った。ある日、Iは酒酔い運転でバイクを飛ばし、標識の柱ぶつかって亡くなった。この話をAから聞いたとき、小生はとっさに、Iは自殺したのだと思った。

バリ島の空港に着くと、予約通りルックJTBの現地のガイドが迎えに来てくれていた。そこからウブドのホテルに直行し、明日の行動の予約をした。明くる日、まずタマン・アユン寺院を訪れてから、Iの縁のカフェに行く。そこは有名な観光地になっているライステラス(棚田)のすぐ傍らにあった。

名はカンプン・カフェ。ここがIの終の棲家であったのか・・・。見晴らしはすこぶるよい。棚田の間に散在するヤシの木、向こう側はジャングル。カフェや小さなプール付きのコテッジ。多くの店が増える10年くらい前までは、このカフェは観光客が必ず寄る店であったらしい。ガイドブックにも載っているし、現地の人はだれでも知っている。

カンプンカフェ1



われわれが着いたときには、残念ながら店長のマデさんは外出中でいなかったが、スタッフの二人はIを知っていた。あらかじめAにもらったIの現地での写真をもっていったのがよかった。スタッフはこの写真を見て懐かしそうに喜んでくれた。JTBのガイドにスタッフからの話を通訳してもらったが、彼の日本語は不十分でよく判らなかった。今にして思うと、スタッフから英語で直接聞いた方がよかったような気がする。なんでもIはここに住み着く決心をしたらしく、マデさんの養子になったそうだ。Iよりマデさんのほうがだいぶん年下なのだが…。Iは大の飲酒家であり肝臓を患っていた。このカフェには大きな犬(レトリバー?)がいたが、スタッフによるとIにずいぶん懐いていたそうだ。小生は犬にIの写っている写真を見せたが、判ってくれたかどうか…。

カンプンカフェ2


ここでわれわれはランチを取り、時間が来たので帰りの車に乗ろうとしたその時、そこへちょうどマデさんが帰って来たことをスタッフが告げてくれた。小生はマデさんに自己紹介をし、写真を見せた。マデさんは「懐かしいなー」と日本語で言った。Iといっしょに写っている女の子は自分の娘で今17歳になっているとも。とにかく店の前で一緒に写真を撮った。そのとき犬が小生の脚を前足で何度も強くなでてくれた。その感触が忘れられない。お互いに急いでいたので、ゆっくり話をすることができなかったのが心残りだ。手紙を書いて、もっとIの事をくわしく訊こうと思う。

カンプンカフェ3


その日は、その後で美術館とウブド王宮での民族舞踊を鑑賞した。いつもながら、あれもこれもと欲張ったあげく、結局すべてが中途半端になってしまう。死ぬまで悪癖は直らないものだ。



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神宮の祭

先日、伊勢神宮と春日大社とを取り上げた番組を見た。ここでは奈良・平安の昔より延々と続くお祭りが、じつに多くのお祭りが、密かに今なお全く同じ形式で続けられていることに改めて驚いた。

 一例をあげれば、日ごと神に供える新撰。米は専用の田んぼで古来の手法での田植えや稲穂取りを神官らが伝統の衣装を身にまとってする。塩も同様、専用の塩田で日を重ねて作る。海山の幸もきっと決まった所からのものであろう。

 また、神前に供える工芸品も昔ながらの手法・手続きで作られる。例えば織物は、その図面すら昔のものを、同じ素材の筆を作り、同じ顔料で、手で書き写すことから始める。毎回そうなのだ。コピー機がある現代の目で見るととても非効率的だ。手は機械ほど正確でもないから、ちょっとしたミスがあってもやり直さねばならない。

 しかし、あえて昔ながらの形式を踏むことによって、神への供え物を創るという気持ち、緊張感・努力感・喜びを体験できるのだろう。だからその形式は古くて新しいものだ。そう思うと、たとえば伊勢の式年遷宮というのは創造の源泉に立ち返ることなんだ、最も古くてもっとも新しい感情の源泉なのだと思う。

 現代では、われわれの住まいから日用品まで、すべてはいかに高級品でも大量生産品であって、われわれ日本人は、これらはみな偽物ではないか、どこかに〈本物〉が在るはずである、どこかに文化の中心が、オリジナルが、われわれの身の回りの品々が出てくる遠い源泉があるに違いないと信じているのではないか。

 〈手作り〉という言葉にわれわれが感じているニュアンスには、ちょっとそういったものがあるのではないかな。めんどうであるし、不確かでもあるが、真剣に時間をかけて作ったものには、作った者の心が込められていると感じている。神社の儀式には多くそれがそのまま残っている。


            


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佐野の渡り



藤原定家39歳、後鳥羽院への詠進百首のうちの一首

 駒とめて袖うちはらふ陰もなし
 佐野のわたりの雪の夕ぐれ  


本歌は万葉巻三にある長忌寸奥麿(ながのいみきおくまろ)の歌、

 苦しくも降りくる雨か三輪が崎
  佐野のわたりに家もあらなくに


 本居宣長は定家の歌を評して、「とてもよい。万葉の歌の、〈苦しくも降りくる〉と〈家もあらなくに〉という心を〈袖うちはらふ陰もなし〉と一言ではっきりと表現している。そのうえ、夕暮れという語でもって宿家がないことをも表している。このごろ、もっぱら万葉振り至上主義者がこの歌を悪く言うが、それは偏見というものだ。〈袖うちはあらふ陰もなし〉は苦しい心も家のない心も備わってとてもよく哀れがでているではないか」と書いている。

 まったくその通りで、また万葉の雨を雪と変えたのは効いていて、両者の歌を比べて見ると、その姿の違いは明瞭で、鎌倉初期の定家の歌は斬新で、スマートな芸術作品という感じがする。

 ところで、奥麿の歌った三輪が崎の佐野の渡りとは、今の新宮市三輪崎佐野の川の渡し場という。しかし定家の歌の佐野のわたりはどこのことだろうか。こう問うことは野暮ったいことのような気もする。本歌を離れた言葉は現実から遊離し、あるイメージだけを喚起するいわば表音文字となる。

 安東次男氏の本で知ったのだが、源氏物語の「東屋」で、薫が浮舟の仮の宿を訪ねるところ、

 「さののわたりに、家もあらなくに、など口ずさびて、里びたる簀子の端つかたに居給へり。・・・」

 当時、奥麿の歌は自然に口に出るほど有名であったのかもしれないけれど、すべての歌が頭に入っていた紫式部のことだから、この場面に相応しい歌として薫るに口ずさませたような気がする。

 そして、『新古今和歌集』においては、定家の歌の続きに、良経の「待つ人のふもとの道は絶えぬらん軒端の杉に雪重るなり」があって、両者を並べて見れば、


駒とめて袖うちはらふ陰もなし
     さののわたりの雪の夕ぐれ

待つ人のふもとの道はたえぬらむ
軒端の杉に雪おもるなり

 安東氏によれば、これは「王朝の恋から無常までの物語を、続きの歌で言い現した、・・・前歌は男で後歌は女の姿である。・・・これは宇治十帖の恋の結着をおもかげとした仕立てだということは容易にわかる」と言う。そして「浮舟」の巻で、雪深い山道を踏み分けて宇治を訪うた匂宮を連想している。たしかに、こう言われると定家の歌がまた新たな、まるで美しい屏風の絵を見ているような、感覚を呼び起こす。

 『新古今』が『源氏』を意識して編集されたということがあるのだろうか。まあ、それにしても言葉はイメージを蔵して人々をめぐり、日常言語の中にさえ伝統として生きる。いったいリアリティとは言葉の側にあるのか、事実の側にあるのか。


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初釜に出る

 昨日、初めて初釜に参加させてもらった。先月、家人に近所の茶道の先生宅に連れていかれて、そこで一服お茶をいただいた。その御縁で、初釜に招待していただいたのであった。じつは近年お茶を習う生徒さんが激減してきたらしく、それでまったく素人の小生も今回の初釜に駆り出されたというわけである

 それにしても、これはよい経験であった。まず場所がよかった。小さいながらもこの町では一番と言われている老舗の料亭兼茶会所だ。玄関を入る。大きな李朝の俵壺に南天が活けてある。昇る初日に瑞雲が棚引く。


        玄関

奥へ歩みを進めると実に古色を帯びた丸木や椅子がそれとなく置いてある。
 
椅子1 椅子2



 四畳半ほどの控室で待つこと半時。床の間の軸に「石をなげて羊をうつ、竹を削って千金をあたふ」?と読める賛、絵は茶杓。古い銘木を思わせる床柱はむろん、小生はとくに床框(とこがまち=前の縁)に目を奪われた。これは敷居(障子などの下の横木)を、そのままあてがったものである。この屋敷はそのむかし移築して造ったと聞く。きっとその時、この小部屋の床框にそのとき余った敷居の木を利用したものであろう、今ならそのようなものは廃材として捨てて顧みないであろう。この小部屋をしつらえた人の合理性と美的創造性は茶道に通じるものではあるまいか。

     小部屋床




 しばらくして、別室に呼ばれた。そこでまず煎茶を立てていただいた。床は寒牡丹が一輪、軸は「一花開天下春」、そして左上隅から柳の枝垂れ長く流し、その先は大胆にも床框をはみ出している。右隅に小さな木製の飾り物が置いてある。

     煎茶床の間


 一煎いただいた後、先生は全周に墨で文字が書かれた桐箱を出し、皆の前で、「今日はこれを○○さんに読んでもらおうともって来ました。」と言う。○○さんとは小生のことだ。これには困惑した。ほとんど解らない。最後の鉄齋筆というのだけは解る。小生は、とりあえず目を通し、それを皆に回した。

 どうしよう、先生がああ仰るのに何も言わないのは失礼だし、場を白けさせてしまう。しばらく先生と正客との会話。それが途絶えたとき、小生は意を決して「では、判るところだけ読んでみます」と言って、箱を再び手に取り、額と背後に冷や汗を感じつつ、「なるほど、これはなんとなく鉄齋の気宇壮大な心が出ていると感じます」と大きく出た。そしてところによっては漢字をそのままに、ところによっては意味を想像して、できるだけ声が小さくならないように注意して、適当に読んだ。もちろん、まったくお話にならないので。最後に「そんな感じかな。よく解りません。」と付け加えた。もちろん耳をそばだてていた客たちは〈皆目わからん〉という顔つきである。

          桐箱


 しかし、小生はそれでいいと思った。どうせみな分からないに決まっているのだ。ただ、恐らく先生だけは小生の出鱈目に気付いている、が小生は先生の茶人としての粋を信じたのである。茶の心は〈おもてなし〉に尽きるはずだ。それなら、先生は決して場を白けさせないように、またすべての客たちにイヤな思いをさせないように、上手にその場をフォローして下さると信じた。じっさい先生は上手く取りなしてくれた、と思った。

 それから、客たちは、水を打った路地(中庭)に導かれ、型の如く順々に蹲(手水鉢)のところで手と口を清め、別室へ入る。茶道に暗い小生は、できるだけ前の人の真似をして進むのみであったが、しばしば無作法をしたようだ。分かっても分からなくても、軸や道具を畳に手をついて左に右に鑑賞し、お茶碗が回ってくると一言、感じたことを口にする。
 
路地2  路地1
    

 ここでお酒と食事。濁り酒は美味しかったが、小生はあまり飲めないので残念であった。本来この場でこそいろいろとおしゃべりをするべきなのだと感じた。右となりは先生であったので、このさいと思っていろいろと質問したが、先生の声が小さくて、しかも小生の右耳の聴覚は悪いので、半分くらいしか聞こえず、適当に相槌を打たねばならなかったのが辛かった。先生が仰る、今ではお茶と言えば女性のモノみたいだが、もともと茶道は男性のモノだった。最近は大学の茶道部に入る人は居るのだけど、ほとんどは就職活動で辞めていく、卒業後女性もみな仕事に忙しくなるから茶道などやっておれない、時代が変わってきました。

 後で家人に聞いた話だが、昔は生徒さんが沢山いて賑やかだったが、今は招待しないと初釜が開けないくらになった。先生も昔ほど迫力がなくなり、少し記憶力も衰えられ、間違いもときにされるようだ。

 こういった話を聞くにつけ、今後茶道の世界はどうなっていくのだろうか、と考えざるをえない。自宅に茶室を設け、四季折々に相応しい大量の〈お道具〉をお持ちの先生方もそのうち居なくなる、その後は誰かこれらを受け継いでいく人は居るのだろうか。高価なものは骨董屋の餌食になり、ついには諸外国にばら撒かれてゆくのだろうか。学校を出てすぐ働く女性たちは、何のために仕事をするのか、むろん〈生きてゆく〉ため、そして仕事を通じて〈自分を向上させる〉ためであろう。がしかし、そのとき日本人が長らく育んできた〈おもてなしの心〉の故郷の喪失感を味わうのではないか…。


 食事の後、いったんその部屋を離れて、トイレに行ったり、庭を眺めたりする。そして再度、路地を通って、同じ部屋に入る。新しいお道具が用意され、軸は変わっている。そして、濃茶と薄茶。お道具拝見。最後に、ラウンジにてデザートとコーヒー。一部の人たちが先生のお道具をたたんでまとめている間、屋敷を一人あちこち勝手に眺めまわした。


            

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夢の浮橋

藤原定家の名作のひとつ

  春の夜の夢のうきはしとだえして
     峯にわかるるよこ雲の空


 新古今和歌集に散りばめられた美しい宝石の一つであり、古来ああだこうだといろいろな解釈をもっていじくりまわされている。誰でも好きな物について、いかなる評価や説明も虚しいものだとは知りつつ、それでもなお語りたくなるものだ。素人の小生でもそうだ。

 だれでも春の夜と聞けば、心地の好い空気を感じる。そこでの夢は甘いあこがれ、ゆかしい、心が惹かれるような夢、そしてそれがとだえるとは、その余韻がだんだん薄れていく、さらに追っていきたいような気持が微かにのこっていて、しかしそれを敢えて意識的に追っていこうとすると逆に遠のいてしまう、その微妙な気持ちを保ちつつ目をあけると、空にはたなびく雲がゆっくり動いている。山の端からまさにいま離れようとしている。

 むしろ、春の夜という薄明の意識、すこし目覚めてふと目に映った雲の動きが、かの甘くゆかしい夢を誘い出したのではないか。いずれにしろ、浮き橋はあの世とこの世とつなぐもの、そしてまた峯と空をつなぐものであり、雲は絶えず動いていくもの、つまり時間の象徴ではあるまいか。

 春の夜とは春の世、すなわちこの世であり、夢の浮橋は物語の終わりを、薫と浮舟の運命を、俗世と来世を、暗示する。そして、この世であれあの世であれ、すべての出来事は、空に描かれた劇にすぎない。空(そら)とは空(くう)である。

 この歌は連作であって、その直前の歌をあげておこう、これもなかなか好きだ。

    大空は梅のにほひにかすみつつ
        くもりもはてぬ春の夜の月



          

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花も紅葉も

 藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋のゆふぐれ」。この歌は三夕の歌の一つとして有名で、たいていの人が知っている。昔は浪花節みたいでふざけた歌でどこがいいのと思っていたのだが、いつだったかある日、これはすごい面白い歌ではないかという考えが頭をよぎった。

 何と言うか、この歌は『新古今和歌集』の新しさを評していて、またそれゆえにその先をいっている。いわばメタ認識の文学と感じさせる。あるいは形而上学的な、つまり、詩人は、パズルでもするように、言葉の論理的な組み合わせによって、新しい次元の世界を現出させることができるということの発見。ふと思い出したが、〈言葉の錬金術〉というのがぴったりくる。

 いや、あるいはまたSF的と言えるかもしれない。考えて見れば、われわれは古代より浦島太郎やかぐや姫の物語を好んで話していた。「猿の惑星」ではないが、いつもの海浜の景色を見たら、あれほどあでやかな景色がぱっと消え、信じられない灰色の世界になっていた。むしろそう受け取った歌人たちも居たのでは、とも想像できて面白い。

 さて一般的には、一見あばら屋しかない海浜の茫漠たる景色について詠ってる、ここに〈花や紅葉〉という言葉を入れることによって、一瞬われわれの脳裏に鮮烈な記憶を呼び出し、それが〈ない〉ということによって眼前の景色のいっそううらぶれた印象を強めている、と評される。

 そしてまたこの歌は、ときに指摘されるが、紫式部の『明石』にいわゆる「なかなか春秋の花、紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに…」の、海鳴りばかりの海浜のあはれを歌にしたとも言われる。

 しかしそれにしても、定家の歌はそのような独自のいわば抒情性を欠いている。それは一つには「見わたせば」という唐突な始まりにあり、そしてまた、〈花も紅葉も〉と〈苫屋〉との無礼な対比、無機的な直結にある。そして縁語や枕詞を援用せず「なかりけり」できっぱり断定する。向こう意気の強い25歳の定家のふとした勇み足か、しかしそれはその後の天才の運命を決したよう思われる。そこには西行の〈あはれ〉はまったくない。

 むろん伝統的な和歌としては失格かもしれないが、これを定家が狙ったと考えると、やはり非常に斬新な歌に見えてくる。むしろ歌という形式ならでは可能な新次元の発見と言えないか。西洋絵画史におけるセザンヌのように、いわばパーソナルな視点を離れたところの純粋な知覚世界の存在を、言語でもって垣間見せたとは言えまいか。

            *

 定家のこの歌は茶人たちにもてはやされたというところが、小生には面白く感じられる。『南方録』に曰く、

 「紹鷗のわび茶の心は、新古今集中、定家朝臣の歌に、

  見わたせば花も紅葉もなかりけり
     浦のとまやの秋の夕ぐれ

 この歌の心にてこそあれ、と申されしとなり。花紅葉はすなはち書院台子の結構にたとへたり。その花紅葉をつくづくとながめ来たりて見れば、無一物の境界浦のとまやなり。花紅葉を知らぬ人の、初よりとまやにはすまれぬぞ。ながめながめてこそ、とまやのさびすましたる所は見立たれ、これ茶の本心なりといはれしなり。…また宗易いま一首見出したりとて、常に二首を書きつけ信ぜられしなり、同集家隆の歌に

  花をのみ侍らん人に山ざとの
     雪間の草の春を見せばや

 これまた相加へて得心すべし、云々。」 ・・・

『千利休事典』によるとこのことを、「〈侘は清浄無垢の仏世界〉をあらわすと説いた利休は、紹鷗が定家の歌で侘びを表現したのに対し、なお加えて家隆の一首を取り上げて、自然界の伊吹の中に侘びをとらえることによって、遊芸からは程遠い精神的な働きを重視する草庵茶道の理論化を完成させたのであった。」と書いている。

 それにしても、利休はどうしてこの二首を並べて信仰したのであろう。一見家隆の一首だけでも充分であるように思われるが。紹鷗への敬意からであろうか。それとも、定家の歌という初動が必要だからであろうか。小生にはどうもそのように思われる。
 
 〈雪間の草〉に自足する心は、俗に在りながら俗ではない。この心を会得するには、いったん定家の錬金術によって、この分かり切った世を離れた真の自然界を垣間見る経験がなくてはならない、そして一たびその経験をした者は再びのこの世に還ってきたとき、いわば新しいヴィジョンを得る。彼は人の世を違った風に見、生きる。そんなふうに空想する。




     

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知多半島一周

数年来の念願の知多半島自転車一週を果たした。幸いその二日間は上天気であった。事前に自転車の整備を怠ったため、出発直後30分くらい時間のロスを生じた。

 まず東浦町に住む友人M氏を訪ねるべく、半島の中ほどの道を進んだ。大高の街を過ぎてからは、できるだけ車の通らない道を選んだ。これがよかった。独特のちょっと肥しの匂いが混じった空気と畑やハウスがどこまでも続く丘陵地帯。

  つひ思ふここは日本かかつて見ぬ
     なだらかな丘遠く続けり

 そうだ、知多半島には山がない。二時間半でM氏宅に着いた。彼はいつも笑顔の人だ、彼と会っていると余計なことが消えていって、透明な気持ちになる。用意しておいてくれた昼食を共に閑談、しかし長居によって再出発の気力を殺がぬよう早めに別れた。

 しかし、ここから常滑方面に向かったのはよいが、何度も道に迷い海岸沿いの道にでるのに苦労した。後で知ったが、ずいぶん余計な道をたどっていたのだ、しかもわざわざアップダウンの多い道を。
友人の家からは東南方向に下っていけばいいだけだとたかをくくって地図を持って行かなかったのが百年目。しかし、

 誤まってまた誤まってわが人生
  もはやこの質(たち)生きるしかなし


ようやく海が見えてきてほっとした。海岸沿いの道を軽快に走ったが、脚とお尻がとても痛くなって、坂井という所で休憩した。海の堤防のところで寝ころんで、数名の人たちがスノーボードのような板を履いてハンググライダーみたいなのに引っ張ってもらって水上をすいすい行ったり来たりしているのを見ていた。

すぐ近くで見ていたのだが、なぜあんなに上手にできるのか不思議だった。風は向こうからこちらの岸に向かって斜めに吹いている。それなのにどうしてここから出発して海の向こうに行って、しかもいつまでも右に左にすいすい滑っておれるのだろう。ヨットなら分かる。しかしただのボードに乗っているだけで、風に煽られて岸にぶつかってこないのは、どうしたわけだろう。・・・などと考えていたら時間が経ってしまった。が、疲れも取れた。

がんばって、予定の師崎(知多半島先端)辺りまでは無理としても、内海(うつみ海水浴場)ぐらいまでは行けるかもしれない、内海まで行けばどこか空いている民宿はあるだろうと考えて、そこからずいぶん頑張って飛ばした。

義朝の首を洗ったという池のある野間(のま)を通り過ぎたのが5時くらいで、これじゃとても6時までに内海には着けまい、あまり遅くなって素泊まりだけさせてくれるのは難しいかもしれない、などと考えながらぐんぐん飛ばす、5時40分くらいのところで、日吉苑というホテルが見えた。

部屋が空いているか尋ねると、一つだけ空いてます、ただそこはエアコンが壊れていますがいいですか。二食付きで12000円ですが、という。食べるのが目的じゃない、きっと多すぎるほどの海の幸を出してくれるんだろう、これを半分に減らして安くしてよ、と内心思ったが、そんなこと言える訳がない。温泉も入りたいし、疲れてもいる、どんな部屋でも寝られれば渡りに船だと思うべきだと、とっさに判断した。

部屋の準備ができるまでしばらく待っていてくださいと言う。海辺を散歩したかったのでちょうどよかった。夕日はすでに伊勢湾のむこうの山の端に接している。このかなり赤い光が今の自分の疲れた体によく似合うと思った。ランボーの「もう秋か、それにしてもなぜ永遠の太陽を惜しむのか・・・」という風情とは全然ちがう、沈みゆく太陽への共感が胸を満たしていた。

     P9132715.jpg


目の前の岩は赤く照らされ、黒々とした水の上を白い波が執拗に大きな音を立てながら押し寄せていた。太陽が沈み、闇が深くなるにつれ、白い波がますます白く、しかしその距離感がますます不分明になっていって、なぜかだんだんこちらに迫って来るように思われ、恐怖を感じた瞬間、踝を返してフロントに戻った。

早速えらくしょっぱい温泉につかり、夕食を済ませ、窓際の椅子に座って、ぼーっと海上の光の明滅を見ていた。ちょうどこの季節、窓を開けておくと、よい風が入ってきて、エアコンなどなくていい。

 ちらちらと揺らぐ灯かりの対岸に
      突如火の玉あれは花火か

万一のため睡眠薬を呑んで寝た。


朝、朝食を一番に済ませて、またあの水際に行った。

     P9142725.jpg


 朝日させば波間の水の透明の
     海いろ深し宝石のごと

出発8時。昨日の遅れを取り戻すべく急いだ。しかし、あまり無理をすると後でダウンする恐れがあるから、体と脚の疲れ具合に注意した。それから、サドルに当たるお尻というか股間の痛みを軽減するために、下り坂はできるだけお尻を浮かせた。

かなり飛ばしているつもりでも、プロというか、例の競走用みたいなえらく細いタイヤでハンドルがぐっと下に曲がった自転車に乗って、ヘルメット、サングラス、スパッツみたいな専用服を着ていく人たちが、どんどん追い越して行く。あっという間に遠くを走っている。やっぱり違うなぁ、あの自転車と言い、格好と言い・・・、あれに較べると、小生の自転車はギヤこそたくさん付いているが、ハンドルはマウンテンバイク的だし、前には買い物かごが付けてあるし、うしろは荷台に鞄がぐるぐる巻きにしてある。恰好もフツーのTシャツと黒ズボン、日本手ぬぐいで頭と首を被っている、どうみてもフツーの、というよりちょっと変わったおっさんだ。負けるに決まっている。

1時間と少しで、昨日その辺まで着くはずだった〈まるは食堂〉に到着。そこの海岸沿いの駐車場で休憩。と、二人の女性が写真のシャッターを押してくださいときた。二人とも高いヒールを履いて、とてもスタイルがよく、ミニスカートがまぶしい。20歳代と思われるが、ちょっと化粧が厚い。とにかく喜んでシャッターを押してやった。iPadだ。いろいろなポーズを撮った。

「どこから来たの?」「名古屋から」「二人ともスタイルがいいねぇ。モデルなの?」「(頭を横に振って)ううん。これから大阪へ行くの」「どうやって行くの?」「車で」そんなことをしゃべって、別れたのだが、その後で、どうしてか芭蕉の句「一つやに遊女もねたり・・・」が浮かんできた。

そこから半島の先端、師崎港までは、わずか10分ばかり、ここへ来たという証拠にフェリー発着場の写真を撮り、軽い達成感を覚えたと同時に還りの道中の困難を思った。というのは、途中の半田(はんだ)から我が家まで迷わずに心地よい道を通って行ける自信がなかったし、疲労とお尻の痛さがさらに強くなるだろうと予想したから。

    P9142732.jpg


それから二時間ばかり、右に海を見ながら走ったのだが、向こう岸に渥美半島がずっと見えるはずだが、どうも様子が違う、かといって三ヶ根山のような山も見えない、おかしいなぁと思っていたが、途中で三河湾の形をよくよく思い出してなんとなく了解できた。

途中、時志(ときし)観音というのがあって、そこが見たくなったこともあって休憩。そのとなりにあった喫茶店の人にむこう岸の地理について確認してもらった。咽がえらく乾いていたので、氷を食べた。

 海中より現れいでたる仏様
     三河の海をまもらせたまふ


このお寺自体はどうってことがないが、この半島には建物とか境内の木とかがなかなか素晴らしい寺が多いことに気が付いた。

木と言えば、この辺りに四肢が曲がったような松の木が道路沿いに生えていて、形から想像するに、若いとき何度も台風か何かで痛めつけられたために、上に伸びず這うように生きる道を選んだといった感じがする。


     P9142743.jpg



その姿に共感を覚えて、

 真っ直ぐに伸びるもよけれわれこそは
     この生き方を天与と思ふ




ちょうど正午ごろ、半田駅の前を通り過ぎた。広い道路に近代的なビルが建っていて、なにかちょっと気になって、一筋、二筋裏通りを走ってみた。するとやっぱり細くて暗い路地にバラックの、あるいは半分朽ちた長屋が並んでいる。概してこの半島の街は一筋入ると、こんな細い路地が入り組んでいて、なぜか家屋は黒く塗られているのが多い。

いまの日本の地方都市は、とくに大都市から離れた海辺の町はこんな感じだろう、しんとして、老人と猫しかいない。古い街道は車こそ通れ、埃だらけのガラス戸の内側のカーテンは閉められっぱなし。若い人はこんな町を離れたくなるだろう。しかし旅人はこの様な風景にこそノスタルジックな魅力を感じ、むしろそこに新しい現代住宅を発見したら興ざめるのである。

とにかく半田を過ぎてどんどん北に走ると新しくできた広々とした道路になっている。どこを走っているのか全然わからない、がとにかく北方向へ進んだ。幸い快晴で太陽の位置が明瞭だから方向は間違いない。ある大きな交差点に出た。道を挟んでコンビニが二軒ある。

そのとき、はっと息をのんだ。昨日M氏が、ここを曲がれと教えてくれた交差点、まさに昨日通った交差点だった。キツネにつままれた気持ちだった。なーんだ、ここに出たのか。ならば、M宅の近くだ。それならってことで再度M宅に。近くの喫茶店でお茶し、それから、行きに来た道と違うコースを通って帰った。どこにでもある都会の郊外の広い道で車も多く、ぜんぜん面白くなかったので、イヤホンで朗読を聴きながら帰った。


    

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以和為貴

聖徳太子の憲法十七条は、「和をもって貴しとなす」から始まる第一条、ついで「篤く三宝を敬え」から始まる第二条、それから「詔(みことのり)を承りては必ず謹め」から始まる第三条。

 ほとんどの日本人が知っているこの言葉は、むかしから日本人論によく引用される。つまり、日本人にとって、普遍的な心の問題よりも、天皇よりも、まず何よりも和が大切なのだ。そして、小生の見るところ、この和の精神は、いまでも日本人のこころの奥深くにある鉛の錘のように、表面がいくら荒れていても、結局はここに収斂する。

 それは、聖徳太子がそう言ったから、そうなった訳ではなく、太子が活躍したずっと以前から和という言葉で表現されるような精神的態勢が日本人には強かったのであって、太子が初めてそれを定式化したのだろう。そしてまた同時に政治の現場においては、憲法にそう謳わねばならなかったほど、当時の役人らは、徒党を組んでは利己心丸出しといった、和からは程遠い状態であったろう。

小野清一郎氏によると、日本人は、有史以前から氏族的・家族的な社会組織を有し、その上に天皇の統治があって、それは血縁的な共同体の階層であり、それは和の生活であった。ところが人口増加、生産力の発展、大陸文化との接触などに伴って、血縁共同体の氏族的統制が弛緩し、遂にそれらは党的になって閥族勢力となって国家の統一を紊乱するにいたった。しかし、古き共同体的和が完全に失われたわけではなく、太子によって新たな自覚がうながされた、と言う。(梅原著『聖徳太子』)

その意見に対し、梅原氏は、縄文的狩猟採集民族が居たところに朝鮮半島からやってきた水稲農業と金属器をもった民族が征服しにきた。それは長きにわたる激しい戦いであった。和の精神は、この人口密度の高い島国での動乱において、征服者と非征服者との間に生まれた知恵であった、と言う。

そうかもしれない。ただ、ではどうしてあれほど長いあいだ戦乱時代が続いた中国やヨーロッパで、和を以て貴しとなす、という思想が前面に出てこなかったのか。

ヨーロッパには紀元後、キリスト教が起こったということが、大きな特徴ではある。が、小生が想像するに、日本の特殊性は地政学的要因が強いのではないだろうか。つまり、日本は極東である。古来、日本には文化はほとんど西からやってきて、日本で行き止まりであった。日本は、要するに吹きだまり、あらゆる文物の終着地点である。

つまり、ここからさらに別方向への抜け道はない。だから文化は、ここでいつまでも留まり、融合し、発展し、独自の展開を見せやすい。しかし、戦いとなると、どこへでも逃げるわけにはいかず、この狭い領域内で解決せざるをえない。完全に一勝者が他者を壊滅させるか、複数が話し合いで平衡を保つという解決方法に、どこよりも早く行きつく。中国やヨーロッパのような大平原なら、いくらでも逃げて再起をはかれるから、つまり半永久的にイタチごっこをやっておれるから、なかなかそうはいかなかったのではないだろうか。

で、まあ戦いは止めるという方向での話し合い=和という伝統が出来上がり、その中で、なぜか天皇に忠誠を示すという日本独特の形式が生じ、太子はそれを定式化したのではないだろうか。小生は、つい勝者としての天皇と言ってしまいそうだった。

ところで、今の国際社会において、日本流〈和を以て貴しとなす〉というのは、通用しない。日本の独自性は日本国内では有効だが、世界では通じない。国際外交は、〈話し合い〉とは言っても、騙し合い、その中には態のよい対話拒否も含まれる。そういえば、先日テレビで奥州藤原氏の番組をテレビでやっていたが、ある先生は、日本の外交がまずいのは、朝鮮(高句麗、新羅、百済)や中国(魏蜀呉など)の三国鼎立の経験がないからだ、と言っていた。つまり、すべての国は他の二国を己に有利なように、利用し、嘘の情報を流し、仲間と見せかけては、いつでも裏切る、そんなゲームのような外交と戦争による均衡の歴史を日本はもたなかったからだ、と。

日本人は、いかなるときも嘘を言ったり裏切ったりすることがとても悪いことで、恥ずべき、してはいけないように、どうしても思いたがる。だから、昭和14年8月独ソ不可侵条約が結ばれた時、平沼首相は「複雑怪奇」と驚きの言葉を発し、昭和20年8月のソ連の日本侵攻を日本人は条約違反として非常に腹を立てることしかしない。

まあ、それは言い過ぎだとしても、先日『ローマ人の物語』で有名な、イタリア在住の塩野七生氏が新聞に書いていた言葉が忘れられない、「隣国と仲良くしなければならないとほんとに思っているのは日本だけだ」と。

それはそれとして。

「和を以て貴しとなし」の後半は、「然れども、上和らぎ下睦びて、事を論ふにかなふときは、事理(こと)おのづからに通ふ。何事か成らざらむ。」つまり、平たく言えば、冷静に論じ合えば、理は通じるのだ。太子にはこの信念があった。だからとことん話し合うこと、それが和だ。話し合いを拒否して、表面だけつくろっても、それは和ではない。


  

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転生3

そもそもわれわれは、観念の世界に住んでいるというより、じっさい異界にも住んでいるのである。

こんな例を聞いたことがある。ある人は全く学んだことがない言葉を、あたかも催眠術にかかったように、話すことがある。通常の意識においては、その言語を理解することがないにもかかわらず、である。しかもその話は出鱈目ではなく、ちゃんと筋が通った話だそうだ。

そんなことがあるとしたら、その人のそのときの脳の状態はどうなっているのだろう。発話のもっとも根源的な脳の部分は、いったい何所と繋がっているのだろう。

デカルトは、精神界と物質界とは、脳の中の松果体ってところで、繋がっているとした。デカルトほど厳密に考えない近現代脳科学者は、脳内の神経ネットワークの発火現象が知覚や感情すなわち精神であると漠然と思っている。しかし、そんなことはかつて一度も証明されたことがない。

以前にも書いたことがあるけれど(2010年8月『お盆』)、小生の親しく付き合っていた知人Tがいた。T氏は宗教家であって、数年前に亡くなったのだけれど、生前自分はある人の生まれ変わりだと言っていて、亡くなる前に、T氏自身の名前の墓と前世の人の名前の墓を造らせた。

T氏は、テレビドラマの新島八重のような、素直で率直で大胆かつ繊細な魂の女性であった。そんな人が、昭和30年ころのことだけど、連れ合いの放蕩無頼についていけず…ついに自殺を何度か試みたのだけど、なぜか死なない。とうとうおかしくなって、大声で町を走り…今でいう統合失調症に、なってしまった。その後、自分の中に神様が入った、かくして自分は宗教家の道を歩み始めたと言っていた。

この神様が入ったということだけれど、じつはそれは、戦前に活躍していた宗教家で、昭和17年ごろだったかに亡くなった山田梅次郎氏(の魂)が自分に入ったのだ、と後で聞いた。

つまり、これが転生と考えられるなら、人は死んだ後でなくても、生きている時でも、脳が極度の変調をきたしたとき、あるいはニュートラルの状態になった時、今の言葉では初期化されたというのか、ふっと他の魂が入ることがある、ということにならないか。

パラレル・ワールドなんて言葉を聞くけれど、われわれは、なぜかこの物質世界において生きなくてはならないが、自分という意識を生きている世界は物質界ではない。のみならず、全く時空を異にするとは限らない並行した意識界があって、なんかの拍子に、ふとそれと交わることがある。そんな気がする。


   
  

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転生2

また、こんな風にも考えられる。

 これもずいぶん前に読んだ大川隆法氏の本だが、ここにあった、カフカは荘子の生まれ変わりだ、という文句に、ニヤっとさせられたものだが、またカントはプラトンの生まれ変わりだという文句を見て、これには考え込んでしまった。

 プラトンは、われわれの見ている世界は影にすぎない、真実在は見ることができないと語った。しかし、そう語ることによって、つまり影を通してであってもじつはわれわれは真実在に触れている、と小生は解したいのだが。

 有名なイデア論。点は位置があって大きさのないもの、線は長さがあって太さがないもの、と頭では理解している。われわれは、こんなものを生まれて一度も見たことがない。それにもかかわらず、幾何学を解くとき、紙の上に鉛筆でもって点や線を描きながら、それを見たこともない点や線として捉えている。すなわち理想的なイデア(観念)の世界を、頭の中で考えている。

 老若男女、すべての世界中の人が、決して見ることができることがない観念の世界を共有している。われわれは直接触れることができない世界を考えながら生きている。

 こんな当たり前な生き方を不思議と感じ、幾何学はどうして客観的実在性をもつか、また、われわれの経験はどうして可能か、を徹底して問うたのはカントだった。彼は、われわれは、時間・空間という、先天的な(経験に先立つ)形式を通してしてしか物事を認識できない。われわれは、この形式を通してしか物事を認識できない。われわれは物自体(真実在と言い換えてもいいだろう)を直接認識することはできない、となる。

 まあ要するに、言いたいことは、二人ともわれわれの認識できる範囲とか、生きている領域を問題にした。そしてその問題を生涯考え続けたとしよう。

そういうことからたまたま連想したのだけれど、もし人間の生が、食べて寝て排便して性交することが、その本質ではないとすれば、同じ問題を生きた二人の人間は、たとえどんなに時空を隔てていたとしても、その二人は生まれ変わりだと言えるのではないか。


  

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転生1

転生ということを人はいつ頃から考えるようになったのだろう。時間ワープの話、浦島子(浦島太郎)の物語と同じように、〈ずっと昔から〉人々は、夢や生まれ変わりの話を好んでしていたのだろう。

転生を主題にした文学と言えば、平安時代の『浜松中納言物語』がまず浮かぶが、読んだのはずっと昔で、内容も複雑で忘れてしまったが、主人公の父だったかの生まれ変わりが、唐にいると聞いて、その人(まだ子供だったかな)に逢いに行って、話が展開したように漠然と記憶する。

そして、夢と転生を主題にした4編からなる物語『豊饒の海』を書いた三島由紀夫は、この作品は『浜松中納言物語』を典拠にしたと明かしている。三島のこの物語の三人の主人公たちは若くして死ぬのだが、彼らが転生者である証拠は、脇の下にある三つのホクロである。

この身体的特徴。小生はある時から、〈あざ〉という身体的特徴が、とても気になっていた。

先日、テレビで現代科学でも説明がつかない不思議な現象シリーズというのを見た。ユリゲラー、霊的怪奇現象や予知能力っていうのをいろいろやっていた。そのなかで、アメリカのヴァージニア大学だったかで、世界中の生まれ変わりと思われる例を集めて研究している先生がいる。

そこで紹介された一人の子供は、その前世の記憶の圧倒的な確かさから、どう考えてもある人の生まれ変わりとしか考えられない、という。この先生の前任者である今は亡きイアン・スティーヴンソン氏がこの研究の先駆けで、氏は世界中から多くの生まれ変わりと思われる例を集め紹介している。
(『前世を記憶する子供たち』)

20年くらい前の話だが、小生はこの本を読んで興味をそそられた。氏がこの本で言うには、前世を記憶すると思われる子供は、前世においては早死にした人であることが多い、しかも交通事故とか非業の死を遂げた人が多い、生まれ変わりの信仰がある地域に多い、その子供たちは体にアザがあることが多い、そして言葉を巧みに話せるようになる3・4歳ごろに、以前生きていたという土地や人たちのことを話し始め、10歳くらいには、もうそのことを口にしなくなる云々。

じつは小生、仕事の関係で子供の体を見る機会が多いので、イアン先生に手紙を書いて、いったいそういう子供は、どのようなアザが多いのか尋ねた。ひょっとしてという期待があったからだ。先生はご自分で発表された論文を送ってくれた。

いま一度これを読み返してみると、それはあからさまな転生の話ではなくて、妊娠中の(とくに妊娠初期の)女性が現実にあるいは夢で、他人の身体的障害(大怪我のような)を見た場合、とくにそれに対して恐怖の念に襲われた場合、生まれた子供に、同様の障害が生ずるという趣旨である。

 Maternal Impressions:母親の心的痕跡とでも訳すべきか、過去の50例の報告の分析とイアン先生自身経験した最近の2例についてでは、皮疹としては、赤あざと黒アザが多いみたいだ。先生自身の経験例は皮膚の小さな凹みと指の欠損であった。

だが、妊娠中の母親の心的影響と前世の死ぬ直前の心的影響とでは、だいぶん話が違うようにも思える。胎児の器官形成が始まる非常に初期の段階での母の強い恐怖の念と、非業の死に臨む人の強い恐怖の念と。後者の方がはるかに時空を隔てている。

しかし、またこうも思う、人とはこの世の物質法則に納まるものだろうかと。


  

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文字の力1

先日、「文字のチカラ」展というのを名古屋市博物館でやっていたので、見に行った。

 その解説書には、いま世界で使われているすべての文字は、古代エジプトのヒエログリフか中国の漢字が、起源である、と書かれている。小生はいつも不思議に思うことなのだが、かつて人間は何千年間、ひょっとして何万年間、話し言葉でもって意思の伝達をしてきた。それをどうして〈わざわざ〉目に見える記号に置き換えようとしたのか。

 いつだったか、エホバのおばさんが、言葉は人間にのみあると言ったとき、では、鳥や猿やどんな動物でも、危険が迫っているぞとか、あそこに餌があるぞとかを仲間に知らせるとき、鳴き声が明らかに違う、彼らの声は、言葉ではないのか、と反論したことがある。

 そもそも、あらゆる生き物がもっている形態や機能は、意味もなくあるわけではなかろう。生存のために何らかの役に立つためにある。声を出す動物は、その発声には何らかの役目がある。

 とにかく人間は、何万年かのあいだに、他の動物よりはるかに細かい意味まで音声で伝達することができるようになった。人間の喉頭の構造はいかにもいろいろな音を出すのに便利なようになっている。そのように発達してきたというが、人間が話そうとするからそういう肉体的構造になったのか、その逆か、それは生命という神のみぞ知る。

 かくも様々なことを伝達できるようになった紀元前何千年前の人たちがどうして、さらに文字を発明せねばならなかったのか。ちょっと想像するに、伝達事項がものすごく増えて、人間の記憶力がそれに追い付けなくなった。話し言葉だけでは記憶違いが多くなった。たまたま岩を刻んでおいたら、それがずっと残って、それが正しい目印になった。

 聞いたことは時間が過ぎ去るといつしか消えたり変化したりする。ところが刻んだものは変化しない。これに気付いたとき、音声的意味を視覚的記号に置き換えることの便利を知った。まあ、なんにせよ、全く次元の違うものを結びつけたというのは、なんかすごいな。


 

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弥勒菩薩

 先日、京都東福寺あたりに紅葉狩に行ったついでに、太秦の広隆寺に有名な弥勒菩薩像を見に行った。以前から一度は見たいとは思っていたが、雑事の山中で道を失い、行きそびれたいた。たまたま『日本書紀』の推古紀を読んで、これがひょっとして聖徳太子が持っていた仏像かもしれないということを知って、おしりに火がついた次第であった。

 京都をよく歩く知人に訊いてみると、一度行ってくるといいよ、でも仏像はうす暗い部屋の遠くに安置されているので、よく見えないよ、と言う。それで、小生の頭には、広隆寺は小さい寺で、人気のない暗い小さなお堂の、向こうの方に、漆黒の仏具に囲まれ、すきま風にゆれる蝋燭の火にかろうじて照らされながら、一人ぽつねんと坐しておられる姿が思い描かれていた。

 ところが、行ってみると、広隆寺というのは聖徳太子ゆかりの寺として、仁王が守る堂々とした楼門のある寺で、境内は思い描いていたよりもうんと広いものであった。そして弥勒菩薩は、新霊宝殿という大きな建物のなかに、数多の仏像たちと並んで、その中心に坐しておられる。

 なんかドキドキする胸を押さえながらこの建物の中に入った。たしかに、内部は薄暗くしてある。しかし思ったより近くから見れるし、はっきり見える。仏像は十二神像、四天王像など、飛鳥から鎌倉時代にかけての傑作群だ。これほどの仏像群がそろっているのは、小生の知っている範囲では、奈良の興福寺と大宰府の観世音寺だ。

 仏像と書いたが、あやうく作品と書くところだった。すばらしい作品と言って何がいけない、とは思うのだが、仏像には作品と言いにくいものを感じる。なんでやろ、と考える。

 やはり、そこに仏が宿っている、そして仏とはわれわれを救ってくださるものだ。その仏像は向こうから差し出されている力の象徴と感じるからじゃないのかな。

 いっぽうそれは人に似せて作られている、だからそれを作品と感じないのではないか、とも考えられる。しかし、人とは何か。われわれは人の顔や姿を見て何を見ているか。それは、その人との感情的関係、好意的か敵対的か無関心か、そしてその人はどのような気持ちで生きているかを見ている。われわれは他人を、景色を見るようには見ていない。

 弥勒菩薩半跏思惟像の前に立って思う、何をこの菩薩は考えているのだろう、人を救おうなんて全然考えていないように見える、何か自足した感情、あの世からこの人間喜劇を眺めて面白がっているように見える。もちろん悲哀はない、ましてや侮蔑もない。否定も肯定もない。どこまでも安らかな乳児の眠りのような・・・。

 このような仏像を造った工人が、1400年くらい前に居たのである。いったいこの工人はどんな人だったのだろう、と小生はしきりに想像をめぐらした。

 きっと、朝起きては製作所に向かい、たんたんとノミをふるい、昼にはお弁当を食べ、同僚とよしなしごとを話しあい、笑いあい、夕方には家路に着く。家族との団欒があったかどうか、大酒のみであったかどうか。百済人か二世か、あるいは日本人だったのか・・まあ、そんなことはどうでもいい。

 ただ確実に言えると小生が思ったことがある。それは彼の信仰は単純なものであった、ということだ。彼の頭と手、想像と創造との間に、何も余計なものは介在しなかった。彼の信仰は、頭に思い描いたものと、ノミを持つ手の感触との微妙な調整以外の何物でもない。

 もちろん、菩薩像は彼の思い描いたものである。しかしそれは恣意的なものではない。それは向こう側からやってきたものだ。彼は忠実に実行しさえすればよい。彼は信仰についてまったく余計なおしゃべりをする必要のなかった人だ。


  

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本居宣長之奥墓

先日、うららかなある日、本居宣長の奥墓に参った。松阪駅前の観光案内所で自転車を借り、7Km余りの道を飛ばした。事前に地図でしっかり確認しておいたから、ほぼ迷いなく行けた。

 ままチャリを飛ばすこと約10分くらいで、市街が終わり、閑静な住宅街に入る。


住宅街


 そこを抜けると田んぼが眼前に広がる。春の空気の中を抜けるのは何とも心地よい。ときに懐かしい菜の花の匂いが漂ってくる。ときにクシャミもでるけどね(笑)

P3161741.jpg


 小さな村落を抜け、新しい広い道を横切ると、急に山道になる。けっこうな上り坂だ。ふだんからよく自転車に乗るし、これはまた電気アシスト付きだからこんな坂など平気の平左。

山道


 と、駐車場に着く。誰も来ていないようだ。駐輪して鍵を掛け、看板を見ると、この辺りの山一帯が「ちとせの森」と名付けられた公園になっているようだ。看板のすぐ横に宣長奥墓への道とある。

入口1


 石段を登っていくと、なんか息が切れてきた。省みれば、駅から休みなく一気に飛ばしてきたから無理もない。途中でお寺がある。そこの前のベンチでしばし休憩。茶がうまい。大きな杉が見事だ。人っ子ひとりいない。静かだ。

山寺  


 さらに、自然石が崩れて階段をなしているような山道を登っていく。あそこから15分と書いてあったが、ほんとにそれだけで着くだろうかという疑問が胸をよぎった。

入口2


 しかし、そこから10分くらいして、それらしい空間に出た。看板と大きな石碑が立っている。そこを上がれば、宣長大人の眠る墓だ。ここが山室山なのだ。踊る胸を鎮めつつ墓前に登る。

墓前1  P3161737.jpg


 おお、これが宣長の遺言なんだ。彫られている「本居宣長之奥墓」の字は宣長の直筆である。背後には、大人が愛して已まなかった山桜が一本ひょろっと伸びている。

奥墓1


 静かだ。おだやかな山風の音以外には何も聞こえない。ただ鶯の初な声が一回だけ聞こえた。

とにかくに、ここは明るい山の頂
大杉に囲まれて静かなる山の頂
空の美しさ風の心地よさ
遥かに見渡せば伊勢の海
眼下には松阪の家並みが模型のよう

老齢の宣長は自分の墓を定めるために
弟子たちを連れてあちこちの山中を
ずんずん歩いて行ったというが、それは…

 伊勢の海見下ろす山の静けさに
  なほ考へる上つ代の道


奥墓3

そして、この〈本居宣長之奥墓〉なる
文字のなんと美しいことか。
上手い字というのではない。
端正。癖のない清らかな字。

いにしへの直きこころをみつけたる
  人の書き様げにふさはしき
 

 ここに来て単純ということが最も深く
 複雑な心がいかに浅薄かがよく解る。

しきしまの大和の国のきよらかさ
  君ならずしてたれか知るべき



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オペラ周辺

先日、東京文化会館でウィーン国立歌劇場演じる『アンナボレーナ』を聴いた。約1時間半の第一幕が終わって25分間の幕間がある。いつもはトイレのあと館内でコーヒーを飲むが、今回は何となく気分転換に外に出たくなった。

 文化会館の正面から出てすぐ車道を挟んで上野駅であることは、行ったことのある人なら誰でもよく知っているところである。そのまさに車道の手前の歩道と文化会館の敷地との境界辺りに、ビニールシートを敷いて、その上で毛布にくるまろうとしている一人の老婆がいた。シートの脇には、小さな手押し車ときちんと揃えた白いスニーカーが目を引く。

 いったい何でこんな人通りに独りで巣を作っているのだろうと思った。そのとたんこの人に話しかけたいという誘惑から離れられなくなった。

 とにかく、ごつごつした石畳にビニールシートを敷いて、そこに直に寝ようとしているのが不思議である、しかもやせ細った老婆なのだ。

 「こんなところでいつも寝るの?」

 「そうだよ。ホームレスだからね」(声はしっかりしている)

 「こんな石の上に寝られるの? とても痛そうだし、冷たいんじゃないの? 下に敷く布団はないの? エアーマットひけば、痛くないし持ち運びもらくだし・・・」

 「ああ・・・そんなの高くて買えないよ。明日の食事すらおぼつかないのに。・・・(二枚の毛布のうち一つを見せて)それでも、昨日この毛布をある人がくれたんだよ」

 「こんな車も人も多い道路脇じゃ、うるさくて ゆっくり寝られんでしょう」

 「・・・」

 「あっちの公園の方なら、もっと静かで、下が柔らかいところもあるのじゃないの?」

「あっちの方にいると変な男がやって来るから・・・」

 (えっ? 小生は一瞬思った、この老婆を襲う奴もいるのか・・・あっ、そんな意味じゃないのか・・・)

 「なるほど、こういう所のほうが安全なんだ。」

 「そうそう。あっちは変なのがいるから。」

 「家が近ければ、布団の一枚もあげられるけれど・・・(そういえば、田舎の家を改装したとき、沢山の古い布団や毛布を、公園や川沿いに住むホームレスの人たちにあげたことを思い出した)。ちょっと遠すぎる」

 「いま仕事帰りなんかね」

 「いや今日は仕事は休み。世の中には空き家もいっぱいあるし、布団も余っている人もいっぱいいるのに・・・何とかならんものかねぇ」

 「世の中うまくいかんものだよ・・・とにかくうまくいかんよ」

  ・・・

 小生は、自動販売機のコーヒーを飲んでから席にもどった。第二幕が開いた。ところが、さっきの老婆のことがしきりに頭に浮かんできて、どうもオペラに集中できない。

舞台では、ヘンリー8世や王妃たちに扮するマイスタージンガーたちが、愛、名声、裏切り、罪、苦悩などのキリスト教文化圏的言辞をもって熱唱している。観客はたった3時間のために5万円以上も払って、今回はグルベローヴァ最後の公演とあっては1音も聴き逃すまいと息をのみ、芸術のもたらす喜びの限りを味わっている。

そしてこの会場のほんの100メートルも離れていない石畳の上で、あのお婆さんが「とにかくうまくいかんよ」と呟きながら毛布にくるまっている。このコントラストが、―もっともこのような情景はよく見るものではあるがー、なんとも小生の空想を掻き立てた。

有り余る豊かさを享受している王や王妃らが、苦悩に呻いていて、王妃は最後に発狂するが、冷たい石の上に寝ているお婆さんは冷静である。言うことは、両者ともに「うまくいかん」である。しかしいかに上手く表現するかに全神経を集中させている歌手たちから発せられる苦悩は、いわば純化されて、お婆さんの苦悩を遥かに超えている。もちろん歌手たちは、お婆さんのようなホームレスたちがわんさと居る現実を十分知っている。が、それがどうした。それどころではない。いや、それこそ詩の素材として必要だ。

それはちょうど、千載・新古今の時代に、戦乱や飢饉のために加茂川から漂ってきた死臭を嗅ぎながら、そんなことは先刻ご承知の内裏の詩人らにとってみれば、遥かに遠くを目指す自分たちの夢のほんの一部が実現されたにすぎない、といったようなものだ。

もちろん、観客は普通そこまで遠く夢を見ないにせよ、演者らが生み出してくれる詩に参与しようとする。しかし、観客に取ってそれは己の拙い夢を正統化してくれる幻である。舞台がはねて帰路につく。そこで路上に毛布にくるまっている老婆と小さな手押し車を見て、冷めかけた夢がすっかり冷めてしまい、なんと汚らしい光景だと思う。

そして社会は、この汚らしいモノを目の前から排除するように動いている。とくに文化国家となればなるほど、そういう傾向が強くなる。99パーセントの健常人からはみ出たもの、知恵遅れ、かたわ、気ちがい、乞食・・・そういったものを、そういう言葉すら差別用語として排除しようとする、じつに込み入った言い訳的中和化。

かなり昔は街中でも見られてものだが、この頃は病院、コロニー、施設なんかに入れられてあまり見られないようになった。さて、見苦しいものは排除されて街はきれいになった。しかし、それにともなって健常人は夢見る力が減少していった。薄っぺらなニュートラルな万人向きの美しい街。美しいとは言っても、けっしてあの秘められた美、至高の静謐、そういった領域はない。

ああ昔の、恐らく戦後しばらくそうであったかもしれないような混沌とした、極度の聖俗・清濁入り乱れた、危険でダイナミックな社会がやってこないものか・・・。そこでこそ新しい詩が生まれるであろう。・・・

まあ、このような取り留めのない空想が、払拭しても払拭してもやってきて、目の前の舞台も音楽もほとんど耳目に入ってくる余地が無かった。これで小生は3万円くらい損をしたものと思われる(笑)



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自然の美

毎年のことではあるが、この季節には空の美しさにハッとする日がある。日中はまだ暑いけれど、空気が澄んで、とにかく雲がダイナミックである。真っ白の威圧的な泡が重なった入道雲があちこちに立ち現われ、そのずっと上空に書の名人が大胆に刷毛でさっと履いたような雲や、規則正しい鱗模様の流れるような鰯雲が自由に泳いでいる。

 この季節はまさに夏と秋の交差点であると言えるが、空は実は深い層をなしていて、疲弊した夏の上に勢力を増した秋がゆうゆうと乗りかかっているという構図である。いったいこの美しさ、ダイナミズムをどう表現したらいいんだろう、と思いながら、ただただ唾を飲み込んで空を見つめるばかりなんだ。

 思えば自然に感動することはよくある。今の季節は他に、虫の鳴き声だ。我が家は今年は大分雑草を取ったせいか、虫が少ないのが残念だ。苦手な夏が始まる頃、いつも思うのはお盆が過ぎれば虫の音が聴ける!と自分に言い聞かせる。耳をすませると三種類ほどの虫の鳴き声がある。小生は耳が多少悪いのか、微かな鳴き声は他の人には聴こえても、聴き取れないことがある。この時ばかりは難聴になるのを恐れる。

 先日、出張で新幹線に乗って西に向かった。やはり、木曽川、長良川や養老の辺りの景色の美しさには心を奪われた。静かな川面を取り巻く植物のやわらかさ、広いまっ平らの地平から、急峻な山のふもとにかけてかかっている靄の静寂。このとき小生はどこかで見た墨絵を思い出しているのかもしれない。

 景色を見て、まるで絵のように美しいと人は言う。この言葉は意味深長である。すなわち絵はまず美しいものである。では、その美しい絵を描いた画家はなんでそれを描いたのであろうか。美しい絵を描こうと思ったのであろうか。どうもそうではないような気がする。

 自然を見て絵のように美しいとは言っても、絵を見て自然のように美しいとは一般に言わない。ということは、絵の美しさは切り取って生じたものだ。切り取ったとは言っても、べつに額縁のように四角い境界で切り取ったからではない。それもあるかもしれないが、それよりも自然の豊富さからあるものだけを抽出したというものではなかろうか。

 あるものを抽出したということは、他のものを捨てたということだ。それによってあるものは必然的に強調されることになる。ということは、自然のいわば無秩序さから統一した秩序、形式を創りだすことになる。ここにわれわれが感じる美が生じるのではないのか。したがって、新たな発見に応じての形式がいくらでも生じうる。

 画家の目は、自然の中にわれわれがなかなか見分けにくい隠れた特殊な色彩や線や感情を見分け、倦まず弛まずその分布を追う。そして、おそらくそれはまだ出来上がったものではなく、いわば情念とか観念とか言った方がいいような状態であって、彼らはそれに物質的な形式を与えようとするのであって、それには大変な努力が要るのではないのかな。

 モネやセザンヌは思いつきを試みたのではないし、心の中の空想を描いたのではない。人一倍大きな目で自然という事物を見つめ、自然がふっと漏らした秘密の尻尾を捕まえ、その紆余曲折を執拗に離さず追い、それにもっともふさわしい形と色を与えようとしたに違いないのだ。

 だからこそ彼らの作品によってわれわれは説得させられ、彼らの作品を通じてわれわれは自然を見る。われわれが自然を見て感動するとは、芸術家の諸作品によって影響させられたわれわれが、その諸形式を通じて、自然を見ているのであって、この時われわれは自然をただ漫然と見ているのではなく、自然を分析し、そのなかの諸感情を再体験しているのではなかろうか。

 そう言うと、では子供や大昔の人たちや、絵画をあまり見たことのない田舎のおばあさんたちは、自然の美しさを知らないのか、という疑問が浮かぶ。

 決して、そんなことはない。子供も原始人もおばあさんも、自然の美しさに感動する。ということは、われわれはみな初めから芸術家の萌芽をもっているということではないのか。子供のとき、沈む夕日と茜色の雲を見つめて時の経つのを忘れたとき、自然が偶然強調して見せた一部を辿っていたのではないのか。ただ芸術家の努力をもたないから、それ以上にはならないけれど。

 それで思い出したが、こんなことがあった。あるとき飲みほした缶ビールを何気なく手でくしゃくしゃに凹ましたんだ。テレビでも見ながら、あるいは家族と話でもしていたのだろうか。そしてそれを机の上に置いた。しばらくして、それをふと見たらその形が素晴らしいものであることに気が付いた。そうして、これは偶然であるとしても、じつに見事な造形だとますます感じ入り、自分の机に大事に置いておいた。ところが2・3日してそれが無くなっている。訊くと家人が当然のように捨てたのであった。残念に思ったことこの上なしだった。そして感性の鈍い家人を憎んだ。

 自然の美しさも、偶然が産んだものであるにしても、それは漠然とした広がりではなくて、ある部分が強調されており、それをヒントとして、われわれは芸術家から影響された分析力のメスを加えているのだと思う。


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テーマ : art・芸術・美術 - ジャンル : 学問・文化・芸術

本居宣長

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本居宣長という人には奇矯なところがまるでない。宣長が亡くなる前年に自分個人の墓のための場所を探しまわり、ついに山室山に決定、その形や背景の山桜の配置などにもずいずん気を配ったことは有名であるが、そのことは、宣長という人を知れば知るほど、自然なことだと感じられる。

宣長墓


 宣長の養子となった太平は、宣長という人は?と問われて描いた「恩頼」(みたまのふゆ)という、野菜のかぶらのような形の図がある。これには、まず世話になった人たちが葉っぱにあたる部分に書かれ、根のようなところに、古事記伝を中心として宣長の著書と門人たちの名が書かれている。かぶらを考えると上下反対の方がよさそうだけど、太平さんかぶらのつもりで描いたのではなのだろう、また世話になった人たちを下段に書くなんてことはできなかったのであろうと想像する。


恩頼


 で、世話になった人たちの中心に二柱、父と母が書かれ、その間に「御子守ノ神」、父は「父主 念仏者ノマメ心」、母は「母刀自 遠キ慮リ」と書かれている。まず、自分あるは父母のお陰であり、その父はきっと毎日仏壇に手を合わせているような、カミの道を知らぬ人だったけれど、それでも最高の恩人である、とする宣長の心がよく表れている。

 そうしてその次に真淵、契沖、景山、紫式部などは、よく解るが、次に定家、頓阿、孔子…とくる。やっぱり定家なんだなぁ、と感慨を新たにする。
 頓阿は名前しか聞いたことがなかったけれど、ぱらぱら調べてみると、和歌の二条派再興の人なんだ。そして、歌を読んでみると、豊富な本歌取りで前衛的という感じでは『新古今』的ではある。

 暮れなばと思ひし花の木のもとに
     聞きすてがたき鐘の声かな

なんてのがある。これを本歌取りというのかどうか知らないけれど、すぐ連想したのは、『平家物語』「忠度最後」にある、

 行きくれて木の下蔭を宿とせば
     花や今宵の主ならまし

である。討ちとられた兵の箙に付けられていたこの和歌を源氏の兵が発見して、これこそ有名な薩摩守忠度であると判った次第であるからこそ、この歌に込められた覚悟と花の幻影の広がりとが感じられる。

 ちなみに、忠度が都落ちに際して口ずさむ、「前途ほど遠し思ひを雁山の夕べの雲に馳す。」それを聞いた俊成は「いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへて入り給ふ」となる。

 頓阿の歌の、花を見ながら今宵はここで休もうと思っている矢先、ふと鐘の声が聞こえてくる、がこの鐘声のなんとよいことか、一瞬花のことを忘れて音楽の世界に入り込んでしまう。技巧を通り越してむしろ素直であるが、うーんなかなかいいなぁ。


それから孔子というのも驚きだ。もちろん宣長は中国の文献もしっかり読んでいたし、古のやまと心さえしっかり掴んでいれば、むしろ外国の書物も読んだ方がかえって日本の優れてところがよく判ってよい、というようなことも言っている。

「かの國ぶりの、よろづに悪しきことをよくさとりて、皇國だましひにつよくして、うごかざれば、よるひる漢ふみを見ても、心はまよふことなし…」(『玉勝間』)

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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

漫才1

A 「いやー、この前の震災は大変でしたなぁ。家が流された人はどうなってるんやろ」

B 「でも、まあみんながみんな同じ不幸を体験したというわけでもないやろ」

A 「と言うと?」

B 「いや、中にはな、家をなくして何だかすっきりした、って人もいるんやないやろか。」

A 「そんな人おるやろか?」

B 「例えば、捨てたいけれど、捨てられずにぎょーさんモノが溜まって困っとる人とか、修繕費がものすごくかかる壊れかけた古家をもっとる人とか、多額の借金証書がある人とか。」

A 「たしかに、そんなモン無い方がええわ。」

B 「そやろ。」

A 「そりゃ、震災に感謝せなあかんわ。」

B 「震災さまさまや。」

A 「さまさまと言えば、これはええチャンスとばかりにな、ドロボーが仰山でたらしい。中には泥に半ば埋まった人からバッグや腕時計を取ってった奴らがおるらしい。」

B 「そやがな。それを狙ろて、わざわざ遠くからやってきた奴らもおるらしいな。そりゃ専門家にとっては震災さまさまやろ。」

A 「世の中にはいろんな専門家がおるもんや。」

B 「でもなぁ、逆に普段なんにもせんような人が、知らん年寄り助けに走ったり、避難所で食べ物を分け与えたり、というような話も聞くでえ。」

A 「そやがな。いざという時、人はどういう行動にでるか、それが判らん。評論家はいろんなこと言うけどな、そう言う人らもいざという時どうするか、見てみたいわ。」

B 「そやそや。ゆーこととすることと違うのが人の常や。」

A 「いやまた、言う人は本気でそれを言うとるのかどうか分からん。」

B 「そうや。お気の毒に、とかいう言葉なんかそや。うちの隣の犬が死んだ時、おれは口ではお気の毒にとゆうてやったが、本心はあのうるさい犬が死んでせいせいしたと思っとった。」

A 「そやろ。おれも隣の娘さんに可愛いと言うてやったことがある。」

B 「世の中みんなそや。だからな、マスコミには注意せなかんで。」
 
A 「そうや。注意しとる。新聞にええと書いてあるなら、悪いということやないかと考えてみるし、悪いと書いてあれば、ええことやないかと考えてみる、それくらいの習慣はついとるで。」

B 「そりゃ、ええ習慣やわ。あんた、見かけによらん、ええ男やな。」

A 「その言葉に騙されへんで。おれは隣の娘と違うでー。」

B 「いや、これは本心や。疑いも行きすぎはあかんよ。」


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テーマ : お笑い - ジャンル : お笑い

寸劇1

Y子「先生って、本当にいろいろなことをよく知っていらっしゃる」

先生「まあ、これくらいのことは。」

Y子「先生は頭狂大学の大学院を出られたのですって?」

先生「うん、まあ。」

Y子「すごい! で、ご専門は何なんですの?」

先生「生命倫理」

Y子「えー、難しそう、何なんですの?」

先生「まあ、一言では言えないけれど、…例えば、お猿のDNAと合体させて生まれた人に人権を与えるべきかどうか、とか、…脳を移植した場合、ドナーとレシピエントと、どちらの人の名前を残すべきであるか、とか…」

Y「えっ? 何かとても難しそう。やっぱり違うわねぇ、頭大出の人が考えることは。素敵ね、先生は頭もいいし、スタイルもいいし。運動もしてらっしゃるんでしょ?」

先生「ちょっとね、健康のために。」

Y「まだまだ青年と言ってもいい体つきをしておられるわ。よくもてるでしょうね。」

先生「いや、それがなかなか女性とは縁がないんだよ。」

Y「うっそー。女性から見てとても魅力的よ。」

先生「…Yさん、ぼくと付き合ってくれない?」

Y「えっ、無理しなくていいのよ…本当はいままで何人もの女性と付き合っていたんでしょう?」

先生「そんなことはないよ。…」

Y「いや、分かるわー。」

先生「まあ、そりゃ少しは。」

Y「沢山でしょう。やっぱり違うわね、頭大出の人は、何でもよくできるのね。呑みこみも早いし。」
   

 
 
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テーマ : ショート・ストーリー - ジャンル : 小説・文学

古い物好き

昔から小生はなぜか古いものに心ひかれ、手に取りたくなる傾向があります。

これはいつごろのものでしょうか?

わら敲き

よくわかりませんが、昭和初期以前のものだと勝手に思っています。わら叩き。けっこう重く、かなり使いこんだ感じがいい。

これはいつごろのもの?

南京皿


 これは毎朝使っているパン皿。いわゆる南京皿、17世紀の中国の雑器ですが、藍色がいい、絵もいい、そこに砂がどーと付いている。普通は裏に付くが、これは表にこぼした失敗作。しかしそれがすこぶる魅力的です。小生は「砂付き」と呼んでいます。何度も割ってしまって、見ての通りボンドで接いで使っています。家人は捨てよと言うが、なんで捨てられましょうか。


ではこれはいつ?

猿投壺



12世紀、源平の合戦のころのもの。愛知県の猿投(さなげ)あたりで作られたもの。窯の中の猛火がそのまま降り掛かった感じがいいでしょ。口がきれいに落とされているのは、おそらく骨壷(こつつぼ)として使用されたのじゃないかな。


これは?

ガンダーラ仏像


これはガンダーラ地方出土。2、3世紀、片岩。どうしてこの地域(パキスタンあたり)で仏像が作られ始めたのかー仏教信仰とギリシャ的視覚との出会い。

これは?ペンダントにしたけれど。

ローマンガラス


ローマンガラスの断片。地中海周辺のどこか。紀元前1世紀?「ブルータス、おまえもか!」の頃でしょうか。


一気に先史時代に飛びますよ。
琥珀


うんと古いモノになります。2500万年前。琥珀。虫が樹脂に閉じ込められて宝石になっている様子はなんと蠱惑的ではありませんか。小生は美輪明宏を連想します。


これは?
三葉虫


もう一ケタ飛びます。5億年前。アメリカ、ユタ州産の典型的な三葉虫。カンブリア紀は生物の進化上とても興味深い時代です。どうして生物に眼が生じたのか。―そこに光があったから。


これは?

隕石


これこそ極めつけです。こうなると古いと言うも愚かなり。45億年前? 太陽系生成のその時に・・・。 
19世紀中ごろにナミビアに多数落ちた隕石の一つ。隕鉄だから重いよ。



気の多い愚者のたはごとでした↓↓


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テーマ : コレクション - ジャンル : 趣味・実用

正月の飾り物

 百年以上前から、我が家では正月一日に床の間に飾っているものがある。それは天秤棒と籠で、江戸時代に生きた先祖の遺品である。


mokubei遺品1


 籠の中には、何か分からないけど葉っぱとそれを刻んだらしい包丁と木の台、そして二足の草鞋(わらじ)と鼻緒の束、小さな箒、それとこれらを正月に飾る理由を書いた紙、そして何故か貯金通帳調査済通達書(明治二十二年)が入っている。

杢平遺品2


mokubei遺品3



 理由はこうである。わが家は代々田舎町の肥料商なのであるが、その創業は江戸後期(たぶん幕末)、享和生まれ(1802)の初代と天保生まれの二代目による。二人は苦労して一財産築き、家を新築したのは明治24年であって、いま田舎に残る我が家がそれである。



 三代目が、その偉業を讃えて、彼らが使用していた商売道具である天秤棒と銭籠、タバコ草か肥料の材料の草か、切る道具、草鞋セット、きっと日々ずい分田舎道を歩きまわったであろう、(聞くところによると祖父は山賊が出そうな所へは若い男衆を連れて行ったそうな)、以後代々これを拝み、先祖の苦労を思え、と書いてある。

杢平遺品4 杢平遺品5



 明治30年にこれを記した三代目は昭和14年まで生きた。この人には子供がなかったので、四代目(小生の祖父)夫婦は養子であるから、以後は血が繋がっていない。祖父は昭和26年に急逝し、それでもって肥料商は終わりになった。

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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

模様替え

田舎の物置を空にしようと思って久しぶりに物置の中の物を引っ掻き回していたら、出てくるわ出てくるわ、代々あった物よりもはるかに多く自分が蒐集した物がある。

 よくもこんな品々を集めたものだと我ながら驚く。大きな壺類をもって帰って、骨董屋に見せに行って、また驚き。例えば百万円で買った壺が引き取ってもらうときは十万円になれば上等だ。中にはどうも臭いと思っていた物はやはり贋物だといって一円にもならぬ。長い間にいったいどれくらいのお金をつぎ込んだのだろう。

 しかし、あの時じゅうぶん楽しんだから、それでいいとも考える。穴があくほど見て見て、いじくり回して、博物館を廻り、参考書を調べて、夢にまで見て・・・。それで思うのだが、古美術品に目覚めて、比較的始めのうち脂汗を流しながら手に入れた物は、今見てもいいが、多少慣れてきて、将来値上がりするかもしれないという気持ちが少しでも入って手に入れたものは、やはりよくない、というか厭きる。業界で言うところの「本当に好きになったら商売はできない」というのはよく分かる。

 それにしても、必要最低限の衣食住をのぞけば、お金でいろんな物を買えるということは、あらためて面白いことだ。書画骨董に凝るとは女遊びと同じだというある評論家の言が頭に残っているが、本当にそうだろう。痘痕(あばた)も笑窪(えくぼ)があればこそ物が売れる。人は夢で生きている。

 500万円のルビーの指輪も売れるし、2000万円のランボルギーニも売れる。これはまだブツがあるけれど、ギャンブルになると、お金というよりも〈数字〉の可能性という純粋に観念的な夢を生きることに行き着く。現実的なものは観念的であり、観念的なものは現実的である。しかし、たいていはそこまでは行かず、宝くじで一等が当たったら、仕事辞めて億ションを買いたいとかなんとか具体的な夢を描いて生きている人が多い。

 パチンコに通う人はどうなのだろう。小生も学生時代の一時ちょっとやったことがあるけれど、あれは玉がどっと出るときの快感や〈勝つ〉ということへの努力感がいいのではないのかな。手で打っていた時代の人は、技術向上の努力を感じることができたであろうが、おそらく今はどうなのだろう。たぶん機械がほとんどやってくれるであろうから、それだけ努力の面白みが減り、ギャンブル性が強くなっているのではなかろうか。

 ついでに、いつも居る我が部屋の整理もした。ものすごく多くのごみが出た。思い切って多くの物を処分したからだが、今まで何度も捨てようか残そうか迷って、こんなときしか見ない机の下とか棚の下やてっぺんに置いたものを埃を払って、もう死ぬまでおそらくじっくり見ることはないに決まっているということがようやく腹に入って、懐かしい写真やノートやコピーなどを捨てた。これは重要だからまた読むこともあろうかと残しておいた本も実際おそらく二度と読むことはあるまい200冊ほども処分した。

 振り返って思えば、何という愚行を繰り返しやってきたことであろうか。きっと利口な人から見れば、「結局あの人はあの程度の人なのよ。やっぱり不幸になって馬鹿な人だったね。」と言われるであろうと想像し苦々しい胸の内ではあるが、いっぽうこれですっきりした感じもする。むしろ、思い切ってやってきた愚行を何か誇りたいような気にもなるのが不思議である。

 多くのモノを処分したおかげで、部屋の自由がきいて、その分机や棚をどこに置くか迷いが生じ、最終的な配置に落ち着くまで、長時間家族の手を借り、怒られながら埃と汗にまみれた。



愚行ができるのは人間だけだ↓↓

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テーマ : 生き方 - ジャンル : ライフ

新聞広告

新聞や雑誌で商品の広告を見るのが時に面白く感じる。商品を買いたいからではなく、どのような宣伝文が書かれているかに興味がある。もちろん宣伝文のみならず、背景の写真やイラストなどにどんな工夫がなされているかを考えるのも面白い。そういう意味ではテレビのCMも見るかと言えば、そうではない。なぜかテレビのCMは面白くないという固定観念が小生の頭の中に出来上がってしまって、むしろCMの間は他事をする。

今朝の新聞の本の宣伝の一つ。『原発はいけない』という本で、内容はともかく、その宣伝。〈忽ち三刷、10万部突破。あなたは「電力」が大事ですか、愛する人の「命」が大事ですか。〉とある。

〈忽ち三刷、10万部突破〉は、これだけ多くの人が読んでいるのだから面白いに違いない、あるいはこれを読まなかったら時代遅れになる、という気持ちを人々に起こさせる。これは効果的だろう。とは言っても、そんな気持ちだけで買って読んだ本は、たいてい〈がっかりモノ〉が多いと思うけれど。

自分は面白いと思わなかったけれども、それほど有名であるからには面白いはずなのだ、そう思わなかった自分は至らないのだ、と考えてしまう人は気の毒である。他人は他人、自分は自分、じゃないですか。もっとも、機会があれば、それがどのように面白かったのか、いろいろ人に尋ねてみるべきだとは思うけれど。

〈あなたは「電力」が大事ですか、愛する人の「命」が大事ですか〉というのは、宣伝文としてはどうだろう。小生などは、なーんだそんな内容なのか、と思ってかえって読みたくなくなる。小生と同じように感じる人は多いのではなかろうか。もちろん、中には「愛する人の命が大事、素敵、読みたい!」と思う人もいるだろうけれど、そういう文句に夢をはぐくむ人は、だいたいこういう本を読まないのではないかなと思うが、どうであろう。まあ本屋にとっては売れればそれでいいのであるが。



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澄み濁るをば神ぞ知るらん

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