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大正天皇3

ちょうど世紀の変わり目、1900年(明治33年)、20歳になられた嘉仁皇太子(大正天皇)は、九条節子(さだこ)と結婚し、公的な場に姿を見せるようになる。すなわち有栖川宮の方針によって、地方に巡啓に出るようになる。
このことが皇太子の心身ともに健康を快復させ、地方での皇太子のあまりに率直な性格が演ずる面白いエピソードが残ることになる。
例えば、狩場で一人道に迷い、そこらの人と(その人も皇太子と知らず)話をしたり、知事などに意表をつく質問をして慌てふためさせたり、人力車に乗っては車夫に予期せぬところに行けと命じたり、とにかくいろいろな人に何でも思いのままに質問したりして、恐縮させた。
こういう皇太子に対して、周囲は好感をいだいたらしい。
また、子供は四人の健康な男子をつくり、子煩悩で、家族と共に歌ったりと、いわゆる家庭的であった。ドクトル・ベルツもそういった皇太子に感激している。側室をおかなくなったのも、大正天皇からである。
ところが、有栖川宮は、自身の健康問題もあったのか、皇太子を過度に自由にさせ、次期天皇として必要な精神を忘れさせたのではあるまいかと反省し、輔導としての地位を降りることになる。・・・

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テーマ : 歴史上の人物 - ジャンル : 学問・文化・芸術

雄略天皇御製

以前漠然と思っていたんだけど、わが国の文学は、平安時代に入って〈みやび〉の自覚が顕れたのだと思っていた。すなわち伊勢物語にいわく「・・・みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに みだれそめにし われならなくに という歌のこころばへなり 昔人は かくいちはやき みやびをなむしける」。
そして、これが、『源氏物語』のもののあはれになり、下っては『好色一代男』の粋につながる・・。

最近、万葉集をたらたら読んでいて知ったのだが、すでに〈みやび〉は明瞭な概念として使われている。巻頭そうそう雄略天皇の歌が出てくる 「籠よ み籠もち ふくしもよ みぶくしもち 菜摘ます児 ・・・」で始まるこの御製は、すでに天皇が女性に声をかけ、みやびを実践している。万葉集には、みやびという言葉(風流とか遊とか美也備とか書かれている・・)が、しばしば出てくる。この言葉のニュアンスの変遷と広がりが、わが国の精神を象徴しているように思う。
そしてまた、雄略天皇といえば、日本書紀においては、若くして従兄弟など皇位継承者を皆殺しにする〈荒魂〉の権化として描かれているが、古事記や万葉のこの御製においては、また違った面を表していて、面白い。


テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

尾崎紅葉

尾崎紅葉著『多情多恨』を読んだ。
初めのころは、つまらない小説だなと思いながら、睡眠薬代わりにベッドでたらたら読んでいた。
なにしろ、主人公は妻が亡くなってから、人前でも泣いてばかりいる。人付き合いを好まず、自分の思い込みの回路から脱出できず、まあ自閉症ですな。
そして、友人の妻が気に入ってくると、今度はその情念のとりこになる・・・ここで筋がゆっくりと動く。と同時に作者の筆は、人物の内面および外面の微妙なところまで、丹念に平明に描きだす。・・・
・・・・で結局、最後まで読まされた。
源氏物語風といえば、オーバーであろうか。ともあれ、やっぱり文章が魅力的だったのだろうと思う。


テーマ : 読書記録 - ジャンル : 小説・文学

岡倉天心

岡倉天心の『日本の目覚め』を読んだ。そして目が覚めた、あの時代によくぞここまでグローバルに見えていたとは!

日本の目覚め(明治維新)はペリーがもたらしたものではない、真の原因は日本自身の内にあった、と言う。もちろん維新が突然なったとは、思っていなかったけれど、小生は、どうしてあの維新の若者たちがいっせいに出現したのか、不思議には思っていたが、よく考えていなかった・・・。

天心は言う、江戸期に三つの大きな思想の流れが出来てきたと。一つは徂徠に代表される古典学。ここでは儒学道徳の純化が行われ、二つ目に藤樹らの陽明学。ここでは、知行一致、すなわち行動なき単なる知は無意味であるとして、人を行動に駆り立てる。第三に、宣長を代表とする国学。ここでわが国の精神の本流として神道が復活する。
この三つの思想の流れが合流して、維新のエネルギーが爆発した。

ついでに、引用を。-
「(西欧の)産業主義の実利性、物質的進歩のせわしなさは、芸術にとって有害である。競争の仕組みは生活の多様性の代わりに、流行の単調さを押し付ける。美しさの代わりにやすいことが尊ばれる・・。」

「(日露戦争では)われわれは祖国のためにのみ戦ったのではない、維新の理想のため、高貴な古典文化の遺産のため、全アジアの輝かしい再生の夢見た平和と融和の理想のために、戦ったのである」

「悲しいことに、われわれが真に頼むことが出来る友は、今なお剣である。西欧が見せるこの奇妙な組み合わせー病院と魚雷、キリスト教宣教師と帝国主義、膨大な軍備と平和の維持、-これらは何を意味しているか?このような矛盾は東洋の古代文明にはなかった。」

これは1904年(明治34年)に書かれた(英語で)ものである。


テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

音楽は脳にいいか

小生は、大の音楽好きである。いや、音楽好きであった、というべきか。
19歳から34歳までは、一日として音楽を聴かずに生きていけないと考えていた。ビートルズ、チャイさまなどいわゆるロマン派、それからモーツァルト・・・ワグナー・・ドゥビュッシー・・・など、いわゆる西洋クラシック音楽なら何でも。でもジョンケージが流行った時は、能楽囃子である「道成寺」には及ばないと感じ、それから能の世界に入っていったかな。
19歳のときは、机に布団を掛け、その中に潜って、一日の大半を音楽を聴いたものだった。そのおかげで、小生は机の上の勉強も、社会勉強も出来ない人間になり、今苦労している。もちろんあれはあれでいい思い出ではある。結局音楽を聴くとは音楽を聴くに尽きるとしか言えないのではないか。それがよきにつけ悪しきにつけ、どのような副作用があるのか小生には分からない。
音楽に狂うとは、女に狂うのと同じだ。音楽は脳にいいというのは、快感が脳にいい、と言っているにすぎない。対して小生は、音楽など聴かずに済めばそれに越したことはない、と言いたい。
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テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

大正天皇 2

原武史著『大正天皇』によると、大正天皇のご生涯を通覧するに、誕生直後から20歳くらいまでの20年間、そして40歳前から崩御されるまでのおよそ十年弱の間、病気がちであった。
新生児~乳児期においては、髄膜炎と思しき症状が頻発している。生後半年も経たぬ間に中山忠能(ただやす)邸に満六歳になるまであずけられる。満6歳以後は青山御所に移されるが生母には育てられなかった(母は側室であった)。
7歳から御学問所で個人教授を受けるが、理解が遅々として勉強は捗らなかった。かなり気分屋で、じっとしているのが苦手らしく、饒舌で「これは何?これは何?」と訊くことが多かった。この性格は生涯変わらなかった。今日流に言えば、アスペルガー症候群といわれるものであろう。
その後も、百日咳?を頻発したり、腸チフスになったりして、学習院での少人数の講義にもついていくのが難しく、特に文章の意味を解することや算術の規則を理解するのに困難があったという。
明治28年、皇太子(大正天皇)16歳の年は発熱を繰り返し、さらに勉学は遅れたため、学習院を中退させ、個人教授が始まる。授業は、皇太子にとっては、負担にすぎ、皇太子は東宮職員を辞めさせろと言い出すにいたる。
このような状況のなか、伊藤博文は、いままでの東宮職による詰め込み教育を廃し、皇太子の生活全般を補佐すべき一人の東宮監督を付けるよう天皇に意見する。その要請かなって、有栖川宮威仁親王を、東宮監督の補佐として皇太子に付けた。
有栖川宮は、〈健康第一、学問第二〉という方針で皇太子に接した。そうして、規律を嫌う皇太子の性格を考慮した教育を考えた。
  

             

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テーマ : 歴史上の人物 - ジャンル : 学問・文化・芸術

旧約聖書と新約聖書

聖書を読んだ人は誰でも、旧約と新約との雰囲気の違いに驚くのではないだろうか。小生もその一人だ。
旧約のヤハウエの神は絶対的な力でもって、人々を脅し信仰を強要する。そしてユダヤ人だけが救われる、とくる。新約のキリストはすべての人を安らかにする。
ではなぜ新約にいたって終末思想が濃厚になるのはなぜであろうか。一説によるとゾロアスター教の影響が紀元前後に強かったからだという。
小生は、「打て、さらば開かれん」という人と終末思想とはどうも結びつきにくいのではないかと感じる。まだ、読みが浅いためだろうか・・。
それにしても、イエスという人は非常に積極的な人であった。もちろん、イエスという人などいなかったと言う人もあろうが、いなかったとしてもよい、同じことだ。ああいう人がいて欲しいと多くの或いは一部の人人が望み、集団的神がかりになって、ああいう物語を生んだのだったら。
ユダヤ人たちの絶望的雰囲気の中で、いままで誰も考えもしなかった逆説を発し、颯爽とデヴューしたイエスという男は、きっと初めから伝説的であり、人々が神だと感じたのはごく自然であるように思う。


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テーマ : 聖書・キリスト教 - ジャンル : 学問・文化・芸術

三位一体説

小生は、キリスト教の三位一体説について、色々な人に訊いてきた。聖職者にも訊いた。しかし、小生の理性ではついに理解することは出来ないでいる。たぶん一生解らないであろう予感がする。
歴史を振り返ってみるに、三位一体説はローマ皇帝コンスタンチヌスによる政治決着だった。キリスト教信者が増え、キリスト教を公認したほうが統治によいと判断したためだ。
その結果、今までローマの神々が守っていた国家をキリスト教が守らねばならなくなってきた。イエスという人物について様々な説があっては国の統一が保てない。どうしてもまず精神統一が必要であった。そのために三位一体説が創り上げられた。
しかし、これは、おそらく、誰も理解できないようになっている!に違いない、と小生は感じる。キリスト教の、教会の権威を守るための、永遠の秘教でなければいけなかったのだ。

翻って思う、イエスという人物は、それほどまでに変人だった。「右の頬を叩かれたら、左の頬も出せ」とは、現実にありえない行為である。どうしてこういう人が出現したのであろう。そして、どうしてこのような人を人々は放っておかなかったのであろう。


         
                                         
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青松葉事件 1

慶応四年一月三日、朝廷と結んだ西軍(薩摩・長州軍)と大阪城の東軍(会津・桑名・旧幕府軍)との戦闘が、鳥羽伏見において始まった。ほとんどの諸藩は、どちらに付くか態度を保留しており、また藩内には勤皇派と佐幕派との対立があったという。一日にして西軍が緒戦を制し、その報告が日本中を駆け巡った。
尾張藩は、徳川親藩であるけれど、もともと勤皇派たることを標榜していた。京都で活動中の、尾張藩責任者であり前藩主でもある徳川慶勝と勤皇派の重臣たちのもとに、一月八日、国元からクーデタ発覚の報せが入った。名古屋城内で、佐幕派藩士らが幼君義宜を擁奪し、旧幕府軍に味方参戦しようとしている、との事である。慶勝と重臣らは慎重に検討の上、帰国後ただちに、容疑者十四人を問答無用とばかりに斬首した。これを青松葉事件(騒動)という。
この事件の後、ただちに緘口令が敷かれ、歴史の表から姿を消していった。しかし、その後、本当に名古屋城内で、そのようなクーデタの動きがあったのかどうか、疑いが残った。
明治政府は、明治三年、十四士の遺族に対して、家名の相続が許され、給禄が支給された。また明治二十三年には青松葉事件受刑者に対して、「憲法発布の大恩赦」として罪科消滅の証明書が交付された。
近年、水谷盛光氏の綿密な調査の結果、名古屋城におけるクーデタの動きはなかったらしい、とのことである。慶勝はなぜ十四藩士を斬首したかについては、いまだ暗い闇の中にある。

             

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大正天皇について

明治天皇、大正天皇、昭和天皇、と三代の天皇を並べて観るとき、明治天皇は、わが国の近代国家形成への道に相応しい立派な人物であった。

昭和天皇は、わが国始まって以来の危機に直面し、それに耐え、それを乗り越えるべき道に相応しい巧妙な人物であった。

では、大正天皇はどうであったか。一般に流布している大正天皇像は生涯を通じて病弱であり、いわゆる大正デモクラシーの中で目立った苦労もなかった、などではないだろうか。

しかし天皇の〈脳の病〉についてのは、小生は間違っている、と考えている。そしてまた、天皇の性格についての否定的なイメージも、間違って伝えられた結果だと思う。

三代御製を通覧するに、大正天皇はもっとも繊細であり、その素朴、率直、明るさは、むしろ万葉以来のわれわれ日本民族の本流ではないかと感じられる。

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歴史とは何か 1

たとえば、こういう風に問うこともできる。
歴史事実などというものはない。報告があるのみである。
そしてその報告も、報告する者の見方・イデオロギーは言うに及ばず、その時の心理状態によって左右されるものだ。
歴史は嘘の集積である。現に小生は日記にわざと嘘をしのばせる。後世の誰かがこれを読んで、あのおっさんこんなことを書いておった、これが本音やったんや、などと言うであろう。それを見ているあの世の小生は笑いが止まらんよ。、
歴史について一次資料がどうのこうのと口走っている学者先生たちの無邪気なことよ。

では何のために歴史はあるか?
生きるにおいて、より多くの利益を得るためにある。このことは国際関係における世界史を思えばよい。各国は得をするためには、何でも創り上げ、何でも利用するものだ。(南京やアリゾナがよい例だ)
利益を得るためには智謀の限りを尽くす。それが人間を含む生命の正しい営為である。



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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

南京大虐殺記念館展に対する疑問

先月名古屋国際センターで「南京大虐殺記念館」展が催された。名古屋市は昨年この展覧会の後援を許可したが、内容が政府見解と異なるため取り消したという。が、名古屋市の管轄である同センターで開かれたということは、市が許可したということではないか。

この展覧会は、日中友好、名古屋市南京市交流のためだというが、私は疑問である。これは中国政府筋の意図によるものだと感じる。真に友好のためなら、どうして互いの古傷をわざわざ拡大して見せる必要があろうか。しかも南京虐殺の実際の程度が分らず、「証言」や「写真」も、かなりいい加減なものも多いと聞く。

主催者は疑わしい「写真」は除いたと言うが、捏造した物を公に展示する国と本当に友好関係を結べると考えているのか。餃子事件といいチベット事件といい、中国こそ隠す国ではないのか。名古屋市はこのような催しにノーと言うべきであった。 



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国旗掲揚

小生は祝日には家の門の横に国旗を立てる。昨日5月5日は端午の節句だった。終日雨で国旗はしとどに濡れて哀れな姿であった。
 窓外の雨を見ながらふと浮かんだ考え。今はほとんどの家は国旗を揚げない。だから国旗を揚げるのは、なんとなく抵抗を感じる。

もし「どうして国旗を揚げるの?」と訊かれたら、昔なら「日本人だから」と答えたかもしれない。しかし、今はどうだろう。むしろ「国際人だから」と答えるべきなのか。(もっとも小生は、外国に住んだこともないし、旅行すら殆どしない。外国人の知人もいないが)

ではなぜ、あえて国際人(反日本人というのは強すぎる)と答えようかと言うと、それこそ、小生の胸のうちにある〈国旗を立てることへの抵抗感〉への抵抗なのではなかろうか、と思うのである。

大抵の人がしないことはしない、大勢になんとなく従う、というのが、むしろ伝統的な日本人的態度ではないのだろうか。あるいはまた、日常的行為に国家観念を伴うような行為をするのが恥ずかしい、というのが、昔からの繊細な日本気質を保っている人たちではないのか。

小生のような、今日この頃、日本の国旗を門前に揚げるなんていうのは、むしろ非日本人的態度ではないのか。・・・
このような逆説的な考えが浮かんできて、妙な気持ちになった。



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田母神発言と自衛隊

田母神氏のいわゆる暴言に対する批判をよく耳にするが、ただ氏を危険だと批判しているだけでは、それこそあまりに危険である。氏のみならず多くの自衛隊員が近代史の通説を疑っているには、それなりの心理的理由がある。

そもそも自衛隊は朝鮮戦争のときマッカーサーによって創られたようなものであって、憲法上国軍として認められていない。いわば日陰者として六十年扱われてきた。にもかかわらず災難時には真っ先に命をかけて働くのが当然とされている。これでは自衛隊員がかわいそうだし、文民統制もいい加減にならざるをえない。

私は、このさい明瞭に自衛隊を名誉ある国軍として認めるべきだと思う。そうしてこそ国民が白日の下に絶えずその統制をチェックすることができる。自衛隊の役割に関して、政府は誤魔化しともいえる憲法解釈をし、国民は臭いものに蓋、当たらず触らずという気持ちでは、自衛隊はいずれ爆発すると思う。


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プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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