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ベルツの日記 上 2

明治という時代。
それは、西欧列強に結ばされた不平等条約を、いかに平等にするかに全エネルギーを費やした時代であったといっても過言ではない。

明治21年、大日本帝国憲法発布の前年、12月19日のベルツの日記:

「条約改正。最近まで当地に滞在していた『ベル・メル』その他2、3のフランスの新聞報道員ノルマンは奇妙にも日本政府から特別待遇をうけていた。日本側は彼をあらゆる希望や苦情のはけ口として利用し、まだ秘密に属する条約交渉の全部をきわどい詳細に至るまで、ことごとくかれに漏らしたのであるが、今これを彼は世界中にぶちまけている」

当時のわが国の状況がよく分かる。

そしてともかくも憲法が創られ、議会が開催された。が、代議士の多くは議会というものがどのようなことなのか解らなかった。どこかで読んだことがあるけれど、野次の嵐、馬糞を投げる者もいたそうな。

憲法発布の祝いは大そうなものであったが、「(一般は)だれも憲法の内容をご存じないのは、こっけいだ」とベルツも書いている。


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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

ベルツの日記 上

嘉仁皇太子(後の大正天皇)のことを調べるつもりで手にとった本。しかし、そのことよりもベルツという西欧の教養人の目を通して見られた、日本の政治・軍事・文化・生活などがじつに面白い。

ドイツの医師ベルツは明治9年来日し、38年帰独するまで、30年近くにわたって、(その間4回ほど日本を離れているが)西欧近代医学を日本に導入した。極東に位置する日本という国家が急激に近代化する過程を、伊藤博文ら政治の要人たちや、諸外国の外交官たち、そしてその家族たちとも親しく交わりながら、肌で感じたままが書れている。

たいていの教養ある西欧人として、まずベルツは、多くの日本人が自国の過去の文化を恥じ、これを捨て、西欧から入ってきた文化を何でもいいものだとして真似ようとする傾向を、残念に感じている。
また、ベルツは人間の美に非常に敏感であるのが特徴だ。特に女性の、髪型や服装などのみならず、立ち居振る舞い、ちょっとした顔の陰影などに、いくども感動している。
ベルツは、日本の女性と結婚した。彼女の名はハナといい、彼女のストイックな態度や優しさに感動している。

また、愛国心に富んだ彼は、極東にいて、祖国ドイツを絶えず気にかけ、歯に衣着せず祖国のあり方を執拗に論じている。明治38年当時、ドイツの政策等がいかに反独感情を起こさせているか警告し、祖国の新聞に投稿しているが、当時のドイツの新聞はそれを取り上げなかった。

なお、明治36年、日露戦争2年前に、韓国インドシナに旅行に行っているときの日記から、次の文を抜粋しておく。当時の常識がどのようなものであったかがよく判る。
「朝鮮人は、自体お人好しの国民であるが、無気力の宮廷と、全く泥棒のような役人たちに支配されて、半ば滅亡状態にある。かれらに必要なものは、健全な政府である。おそらく国民にとって一番よいのは、日本がこの国をそのまま引き受けることではないだろうか。活動的な日本人が手本になって、刺激を与えてくれるに相違なく、一方ロシア人は決してこの国を同化せず、単に政治的の前衛拠点と見なすだけだろう。」

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真夏のオリオン

何年ぶりかで映画館に入った。観たのは「真夏のオリオン」
それにしても、映画が始まるまで、近日上映の宣伝なんかが、がんがん大音響を伴って、次から次に映し出され、あれには参ってしまう。大疲れ、気持ち悪くなったよ。・・・まっ、しょうがないか。

最後に主人公たちが死なないのが物足らないが、まあそれは本質的な問題ではない。
初め若い女性(主人公の艦長の孫)が、あのときまさに経験していた鈴木さんという老人(潜水艦の乗員で最年少)に語る「アメリカと日本は戦争していたんですね。ということは、殺し合いをしていたのですね。それなのにどうして、敵兵がもっていた一葉の紙(楽譜)を大事に長らくもっていて、こちらに送ってきてくれたのでしょう・・。」
鈴木さん答えていわく、「ただ言えることは、われわれはあの時みな一生懸命だったってことです」と。
この映画の中心思想は、この問答に尽きる。

戦争のみならず、あらゆる社会現象の生起は、どうしようもない、人知を超えたものだ。しかし、われわれがそれに立ち向かわねばならないとき、泣き言をいっている暇も、空想をしている暇もない、全力で〈一生懸命〉やるだけだ。そして、戦争という異常な状況にある時でも、人間は理性も感情もじつに正確に働くものである。

それにしても、あの細身の艦長は、ちょっと優しすぎるな・・まあ、映画だからいいか

テーマ : 映画感想 - ジャンル : 映画

シュリーマン旅行記 清国・日本

シュリーマンは、周知のごとく、語学の天才であり、幼い頃聞かせられた古代の物語を事実として信じ、トロイの遺跡などを発見したことで有名だ。
この『旅行記』を読むと、さらにその上、彼はまれに見る体力の持ち主であり、実にいろいろなことに対して強烈な好奇心にあふれていた人物であったことがよく分かる。
この『旅行記』から、わが国の幕末当時の様子が見える。夏は肉体労働者は、ふんどし一丁であったこと、そしてみな見事な絵の刺青をしていた。へアースアイルは芸術である。銭湯では、老若男女が何のわだかまりもなく混浴していた、その自然児のごとき心の清らかさ。
日本人は、賄賂を嫌い、お金で動くよりは切腹するほど潔白であった。中国の街の汚さとは対比的に日本の街や家の美しさを褒め称えている。また家には余分な家具などなく、融通無碍の合理性に感動している。また日本人はみな読み書きが出来るほど文明化されている。
また、西洋では娼婦は卑しく哀れむべき職業であるが、日本では「おいらん」は尊い職業であるのに驚愕している。

しかし、〈心の最も高邁な憧憬と知性の最も高貴な理解力をかきたてるために、また迷信を打破し、寛容の精神を植えつけるために、宗教の中にある最も重要なことを広め、定着させることを意味する〉文明が日本にはない、と言う。
これは徳川幕藩体制には言論の自由が認められない、ということなのだ。翻って、徳川260年にわたる秩序維持の堅牢さを思う。また、浅草観音の界隈においては、雑多な娯楽が真面目な宗教心と調和するとは信じられないと。
キリスト教の、神ー唯一の超越神に対する人間の敬虔な態度を思う。キリスト教精神で育った人から見れば、日本人は、打算的で合理的で生き生きとした無邪気な美しい自然人に見えたのだろう。


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額田王

天智天皇の御世、日本軍は百済救援に出発する。その時の額田王の有名な歌:
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

素晴らしい、意気盛んな歌だな。

しかし、白村江の戦いで破れ、多くの難民が日本にやって来る。そのおかけで、わが国には漢詩文化が栄えた、と言う。・・・その4年後、天智天皇は、防衛上安全の地と考えたからであろうか、近江に遷都する。その次の年、一行は蒲生野に狩猟旅行に行く。その時の額田王と後の天武天皇の歌は、余りにも有名。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
紫のにほへる妹をにくくあらば人妻ゆゑに我恋めやも

これは宴席での笑いの歌だというのが、近年の通説である。このとき額田王は40歳前だった。(今の感覚で行けば50歳くらいか)この才女が、宴席で誰かが袖を振ったのを、即興の歌に創った。と、そのとき大海人皇子が、その紫を取って「にほへる妹」と言って、満場の笑いを誘った、というのが伊藤博氏の説だ。とすれば、大海人も、当意即妙とはいえ、ずいぶんの冗談を言ったものだ。
しかし、昔の三角関係説より、この諧謔的雰囲気の方が本当らしいし、面白いし、明るくっていい。

だが、昨年のNHKカルチャーアワー『万葉びとの言葉とこころ』において、坂本信幸氏は、大海人の歌の原文での〈むらさきの〉は〈紫草能〉であって、この語の使用法は万葉では、紫草のことで、この花は白い清楚な花だそうだ。だから、若い頃とは違った落ち着いた白い花の美しさをたたえた女性であると、大海人は言ったのであって、満座の笑いを誘うものではない、と解釈しておられる。
そうして、額田王が天智天皇の妻であったという確証は、実は昔からない。坂本氏は、この時、額田王は後宮人であったのではないか、としている。
なるほど、この解釈の方がしっとりとしていていい。



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テーマ : 歴史上の人物 - ジャンル : 学問・文化・芸術

知覚と存在

普段われわれが物を見ているとは、ただ無意味に漠然と見ているわけではない。
物を見るとは、行動することすなわち外界に対して働きかけることが、世界という混沌から、物を浮かび上がらせるということだ。

だから、知覚された〈物〉とはわれわれの行為のあるいは同じことであるが欲望の関数である。
「鹿を追う猟師山を見ず」なのであって、枝打ちに来た山師は鹿の足跡などは眼中にない。
様様な関心の人が世の中には居る。だからこそ、様々な〈物〉が存在する=表象される。
ゆえに、様々な名詞が動詞が形容詞が・・・・言葉がある。
もともと、それらは、惰性的に無関心に在る訳ではない。それら自体で、われわれとは無関係な『存在』なのではない。

ということは、われわれが全く新しい関心をいだいて世界(混沌)に対峙しつづければ、新しい〈もの〉が浮かび上がる。それは、空想ではない。世界の分析だ。



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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

脳とは何か?

この頃、新聞などで、脳が喜ぶとかいう言い回しが目に付く。まあ、比喩で言っているんだろうけれど、なんか変な感じがするんだよな、おいらには。
脳は、特別の空想を働かせずに、単純に見れば、神経の塊だな。ってことは、脊髄神経や末梢神経と基本的には同じだな。ただ非常に複雑な結びつきをしているだけだがな。そこでは、化学電気現象が起こっているだけだな。
要するに、身体という物質の一部だな。目とか手とか足とかいうのと同じだな。いうところの道具だな。動物は目を利用して見る。手を利用して掴む。足を利用して走る。・・・・脳を利用して空想する。
脳は物質であるならば、常識的に言って、喜ぶことはないし、世界を生み出すこともない。むしろ世界という広大な物質のほんのごく一部を占める物質であるに過ぎない。
ところで、物質とわれわれが言う時、それは物質という表象をもつことだ。宇宙とか手足だとかいう表象でものを考えている。
まあ、こんなことは、言わずもがな、当たり前すぎてどうしようもない。
ところがだ。脳が世界の表象を生み出すという御仁が居れば、それを聴いて、うんうんと解ったように頷く人がいる。
そんなことはいまだかつて証明されたこともないのに。


                                             

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テーマ : 心と身体 - ジャンル : 心と身体

大正天皇6

西川泰彦著『天地十分春風吹き満つー大正天皇御製詩拝読』
この書には、大正天皇御歳16歳から37歳までの漢詩が納められている。
高校時代に習った漢詩を思い出して思うに、大正天皇は王維のような自然詩人のような気がする。
ぱらぱらめくって一つ紹介しよう。
『太平記』にある金崎の戦いがあった「金崎城址」と題する詩。明治42年、31歳時。

登臨城址弔英雄 日落風寒樹鬱葱
身死詔書在衣帯 千秋正気見孤忠

後醍醐天皇の詔書を身に着けて最後まで戦った新田義貞の忠義の心を想われた。

ついでに、紹介しよう。明治37年、御歳26歳。
「御歌会始は当初恒例の18日に行われるはずのところ、6日に韓国の名憲太后の訃があった為、延期して20日に催された。『明治天皇紀』に載る御製、御歌を揚げ奉ろう。

御製(明治天皇) 
苔むせる岩根の松のよろつよもうこきなき世は神をもるらむ
皇后陛下御製
大内の山の岩根にしけりゆくこまつの千代もみそなはすらむ
皇太子殿下御歌(大正天皇)
吹きさわぐ嵐の山のいはね松うごかぬ千代の色ぞしづけき
皇太子妃殿下御歌
うごきなくさかゆる御代を岩のうへの待つにたぐへて誰かあふがぬ 」

小生は感じる、ここに一人、あまりに素直な歌人が居ると。

和歌といえば、大正6年(1917年)の春曙と題する御製が小生は好きだ。

百千鳥かすみのうちに鳴きいでて花よりしらむあけぼのの空

これなんか『玉葉集』に入っていてもおかしくないではなか。



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大正天皇5

大正天皇即位後、いわゆる大正政変があり、第一次世界大戦のおかげで、わが国の貿易は黒字に転じ、大戦景気で潤う。しかし国内物価は高騰し、米騒動が起き、寺内内閣総辞職、原敬の政党内閣が発足。
ちょうどこのころ、大正天皇に病魔が忍び寄っていた。この年、1918年(大正7年)10月、天皇は風邪のため(?)天長節観兵式を欠席、11月の陸軍特別演習では乗馬を恐れ、左足に変調をきたした。12月の帝国議会開院式も欠席。
1919年(大正8年)天皇の変調は誰の目にも明らかとなった。2月には原敬首相も天皇に〈何かご病気がありや〉と日記に書いている。このころの公式行事における天皇のうつろな表情の写真を見るにつけ、小生は心が痛む。
体力は落ち、食事中も姿勢を維持することができなくなり、このころの慰み事であった散歩と玉突きも難しくなった。言葉もだんだん不明瞭になり、原敬は、〈御幼年時の脳膜炎が再発してきた〉のではと書いている。
1920年(大正9年)、政府は天皇の様子についての発表を行う。3月、第一回発表「侍医三浦謹之助によると糖尿病と坐骨神経痛」があると。第二回目の発表時には、政府は裕仁皇太子(昭和天皇)の外遊を急遽検討、翌年3月に出発。その時の皇太子の写真や映画は、人々に新しい希望を与えたに違いない。
1920年(大正10年)大正天皇のご病気について、さらに発表が続く。10月、第四回発表では、天皇はもはや快方に向くことはないとされた。人々は、大正天皇は脳の病気を患っていると、風の便りで聞くようになる。もはや歩くことも、はっきりした言葉も発することができず、親しい者を見分けることもできなくなった。11月、裕仁皇太子は摂政に就任した。
大正天皇の、この全体的な活力の低下、運動・記憶・知覚の徐々なる低下は、おそらく多発性の脳梗塞のためであろう。
その原因は何であろうか? というより、肉体の病理学的原因はどうあれ、小生が感じるのは、大正天皇は天皇になって以降、近代国家形成のために必要とされた君主像を強制された、そのことが、あの〈天真爛漫な〉天皇をして病気に向かわしめた、と。
誰でも中年にさしかかる頃、どうしようもなく嫌でたまらぬことを強制され、それから逃げることが出来なければ、発病するのではないか。うつ病やリウマチや心臓病など、その人の気質体質に応じた病気という逃げ道に行かざるを得ないのではないだろうか。



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大正天皇4

1904年(明治37年)日露戦争の年、皇太子(大正天皇)は24歳。
このころから、だんだんと地方の皇室に対する忠誠意識が表面化してくる。そして、巡啓にともなう諸改革、鉄道や電灯などのインフラ整備がもたらされる結果、各地方からの皇太子巡啓の要請が増えてくる。
また、映像メディアの発達に伴って皇太子の巡啓時の写真が新聞に載ったり、映画も作られるようになる。学校では皇太子の「御写真」の下賜がなされ、神秘のベールに包まれた明治天皇とはだいぶん趣の変わった次期天皇が予定される。
1907年(明治27年)には、伊藤博文の要請により大韓帝国に。このとき10才の韓国皇太子李根(リギン)を愛し、皇太子(大正天皇)は韓国語を学びはじめる。李根は12月日本に留学することになる。もちろんそれは政治的な意図があったのであろうが、皇太子(大正天皇)はそんなことはどうでもよく、心から李根をかわいがった、と思う。
また、軍事演習の見学やら、大元帥を継承する準備のため参謀本部に通ったりさせられるが、皇太子(大正天皇)は、軍事についてはまったく無理解であった。
明治45年、明治天皇崩御。皇太子は大正天皇となる。大正4年大礼は京都、横浜では華々しく演出され、メディアは全国いっせいに国民的行事として報道。
大正天皇は、皇太子時代のような視察や見学といった目的の行幸はできなくなっていた。
1915年(大正4年)、長男裕仁皇太子の地方巡啓が始まる。裕仁皇太子には、明治天皇を理想としての教育がなされる。・・・つまり大正天皇のようではいけないと・・・。
大正天皇の子供じみた、率直でざっくばらんな性格に、山県有朋らは業を煮やし、天皇に対したびたび諫言したらしい。そんな山県を大正天皇は以前から嫌っていた。
そういえば、明治43年、山県邸を訪問した皇太子(大正天皇)の写真があるが、その時の皇太子は縁側で行儀よく両手をひざに乗せてちょこんと座っており、その左側に山県は煙草を右手に持ち、両脚を開けて尊大に構えている。この写真を見ると、大正天皇と山県有朋との関係が伝わってくる。

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ゼノンの矢

古代ギリシャのゼノンの逆説の一つ:飛んでいる矢は動いていない。なんとなれば、飛んでいる矢も細かく分割すれば、最終的には一瞬一瞬は静止しているからだと。
このトリックは、もちろん運動を分割することはできない。あるいは運動と軌跡とをすりかえている、と言ってしまえばよい。
しかし、こんな風にも考えると面白いかな・・・。
つまりトリックは、すでに初めの命題にある。「飛んでいる矢」ということによって、〈矢〉すなわち〈固定したもの〉という観念をわれわれに与えてしまっている。つまり、〈われわれの注意〉を運動から静止に移してしまっている。
そう考えると、言葉と言うのは、少なくとも名詞は、実在から或る輪郭のはっきりしたものを取り出している。だから、言葉で運動を直接表現することはできない。
〈運動〉という言葉すら、実在すなわち現実のニュアンスに富んだ変化から、抽象されたものだ。
こういう風に考えると、言葉は実在を捉えるのに、あまり役に立ちそうもない。
では、何のために言葉があるか?
それは生活の便利のためにある。こんなに便利な道具はない。
ところが・・・・
そうでないような場合もある。詩である。和歌である。俳句である。
これらは、いわゆる直接的な意味を伝えるためにあるのではない。ある新しい世界を開くため、言い換えれば、これこそ実在の奥深くに入っていくためにある。
例えば、詩において、同じフレーズが繰り返される。意味を伝えるだけなら、二度も言う必要なない、むしろ無駄である。ではどうして詩人は繰り返すことがあるのか。それは言葉は音楽であるからだ。この言葉の音楽性の追求こそ、ボードレールなど象徴派詩人たちが懸命に追求したものだ。

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うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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