スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

マインドコントロールの効用 7


 マインドコントロールの話がえらく逸れてしまった。それにしても、コントロールされている〈この私〉とは一体何か。そもそもこの私なるものがあるのか。私と思い込んでいるだけではないのか。思い込んでいるだけでも、思い込んでいるこの私というものがある、とはデカルトの確信だ。いや私という主体はない、じっさいあれこれの映像や音や感情の変容があるだけで、〈私〉と人が言いたいものはいわば知覚の束あるいは感情の変化に過ぎない、とはヒュームの言い分だ。そうなれば、自己というものはない、自己というものがなければ、責任も発生しないし自由も問題になりえない。しかし、現実にはそれらこそ人がけっして逃れることが出来ない問題だとして、一つの解決を与えたのがカントだったか。われわれは性質をもった物質がすでになんとなくあるのをただ漫然と見るのではない。われわれがこの世界に働きかけることに応じて世界の諸相が浮かび上がるのである。経験世界は、それに先立つわれわれの先験的能力によってのみ成り立つのだ。・・・
 それでこの私といわれる一種の力はいちおう置いておく。私は私というそれが何であれ、近々この世を、というより、この肉体を去ることは確実である。私はとりあえず、この両親から派生した肉体を利用し、この両親にいわゆる肉体的にも精神的にも育てられ、この時代のこの地域のこの環境に生きている。だれでもそれぞれがそのようであろう。であれば、誰でも他の誰でもない唯一の存在だ。誰でも独創的な存在であるはずだ。それなのに、なぜ人はすべての人を同じように考えるのか。
 一本の木の桜の花を見て、人はこの桜あの桜と一々言わない。すべて桜の花である。よくよく見てその一つ一つの花について語るときは、その個別性特殊性を見ている。しかし普段人と話をしているときは花一般でいい。犬を見てもそうだ。コップを見てもそうだ。考えてみれば、ものの名とはその有用性を名づけた名である。日常生活においては名が多すぎるのは有用ではない。詳しく〈そのもの〉に注意を注ぎ続ける限り、一般名から遠ざかり、煩雑詳細になって有用ではなくなる。
当たり前かもしれないが、言葉はとてもこの世的なものだ。つまり有用性そのものだ。要するに道具である。しかし、この有用な道具を非有用、すなわち個別性特殊性に迫るような使い方をすることがある。それは端的に詩であり歌であり、俳句だ。ようするに芸術だ。それは、その時の独特のニュアンスの追及だ。それは全くの空想ではない。現に世界にあるものだ。それは世界のある秩序に属している。それはふだん秘められている。あちらこちらにあるのであろうが、絶えず有用性を目指している人間には見えてこないだけだ。そうでなければ、芸術家は苦労することはないであろう。


        人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

温泉での空想

 今日は田舎の家に用事があって、ついでにそこからほど近い山中の温泉に行った。ここは時々行く。とても空気がおいしいところでとにかく気持ちがいい。
 例によって露天で縁石に頭を置いて空を見つめていた。雲が動いていろいろな模様を見せてくれる。自分も空の中にいるような感覚を覚える。そして思う、いったい自分は何処にいるのだろう、自分の意識は地上の一角に限局しているものだろうか。肉体の中にいるとは考えられない。なぜなら肉体とは要するに蛋白質だ、そんな中にいるとはまったく思えない。あるいは、この肉体を通してしか世界に関わりあうことができないのか。しかし、自分は思うところに意識を移すことが出来る。
 意識の底には、無意識があるのだろうか。きっとほとんどが無意識であろう。目の前の知覚や今思い出している記憶以外のものはみな無意識ではなかろうか。ようするに地下の貯蔵庫だ。それがなければこうやって文章など書いてはおれないはずだ。
 そして、広大な無意識には層があるはずだ。すぐ思い出しやすい記憶から、なかなか出てこないがしかし自分の傾向を強く決定しているような深い層まで・・・たとえば集合的無意識なんていう層が。それはある共同体に共通の作用をしている意識。そしてもっと深いところには人類共通の原始的な意識が。それはわれわれが頭で考えてもなかなかその出所が解らないがしかしわれわれの思考や行動を規定しているようなある力・・。
 アーラヤ識という言葉が頭に浮かんできた。この言葉を知ったのは三島由紀夫の最後の小説だ。そして、今日11月25日はまさに彼の命日だということを思い出して奇しき因縁を感じた。三島はあの小説にすべてを投じたと語ったときいているが、彼はアーラヤ識でなにを語りたかったのか・・・今はもう何も思い出せないが、その世界はあたかも素粒子の世界のような次元の話だった印象だ。
 小生のような素人が最近の科学者の物質と反物質、CP対称性の破れとかなんとか、その僅かな非対称がこの宇宙を生み出したとかいう話を聞くと、何かぞっとする。死ぬことよりも何よりも宇宙の誕生の話のがうんと不気味だ。なぜならわれわれは絶対的な〈無〉というものを考えることができないからだ。
 それにしても、徹底的に視覚的人間であり、美の観念の塊のような三島が、最後の作品で混沌たる意識の最深部のことを考えていたのは何故であろうか。
 まあ、この世もあの世も謎でないようなものは一つもない。


 人気ブログランキングへ

テーマ : - ジャンル :

今日は新嘗祭

11月23日は「新嘗祭」ですね。占領中に「勤労感謝の日」と安っぽい名前に変えられ、もはや日本人もただの休日としか思わなくなってしまった。
色々な制度が今から60年前の外国人による占領中に変えられ、それによって明治の初めに国際舞台に颯爽とデビューしたときの意気込みが全部骨抜きにされてしまいました。もちろん、その意気込みの行き着くところは今の目で見て間違った部分もあったであろう、しかしそれはそれで直せばよい、しかしもっとも大切な部分まで切り捨てることはなかったではないか。

あの時の先人達、大久保さん、西郷さん、坂本さん、木戸さん、慶喜さん、岩倉さん、新撰組のみなさん、久米さん、伊藤さん、井上さん、板垣さん、大隈さん、その他無数の血と汗を流したのはいったい何の為だったのか・・。先輩達はあの世から今の日本を見て、何という思いをされていることでしょう。(


  人気ブログランキングへ

テーマ : このままで、いいのか日本 - ジャンル : 政治・経済

日本、二つの敗戦 2

大東亜戦争(アメリカでの呼び名は太平洋戦争)はどうして始まったのか。

太平洋戦争の研究者であるH.K氏のお話。
昭和16年(1941年)11月25日位までは、アメリカも日本も戦争を回避するよう頑張っていたという。ルーズベルトは前年8月の大統領就任演説で若者を戦争にやらないと公約していたそうである。だからアメリカから開戦することはありえなかった。

 11月20日、野村大使と来栖大使は米国務長官ハルにいわゆる乙案を提出(すでに暗号は読まれていたという)。ハルは24日に回答する旨伝える。

 22日ルーズベルト大統領は「対日暫定協定案」(乙案)の了承の提出するため国務省に、英、蘭、豪、中の大使を集め了解を求めた。しかし、中国大使胡適が猛反発したため、日本への回答を25日に延期する。(中国、すなわち蒋介石は何が何でもアメリカを戦争に引きずり込む必要があった。胡適はその大役に相応しい巧みな弁舌家であったらしい)

24日および25日、胡適の反発強く、日本への回答をさらに延期する。
26日早朝 米軍からルーズベルトへ「台湾沖を日本の大船団が南下中」との情報(誤報)が入り、ルーズベルトが激怒。17時、野村・来栖両大使にハルノートを手渡した(乙案は受託せず)
27日、日本海軍機動部隊は択捉島から出撃。

12月1日 御前会議にて対米英蘭開戦を決定。
    8日 ハワイ真珠湾攻撃

この報を聞いて、蒋介石とチャーチルは狂喜した。やっと日米が戦争をしてくれる!
要するに、中国人の胡適こそ日本の真珠湾攻撃を促した最大の立役者であった。そして、H.K氏は付け加えた「日本人は外交が下手だね」と。

 負けることが分かっていた戦争をしなければならなかった。・・・外交が下手な日本を小生は無限に愛する。


    人気ブログランキングへ

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

日本、二つの敗戦 1

わが国は二回の手痛い敗戦を喫している。

①  663年の白村江の戦い
②  1945年の大東亜戦争

 それぞれ、いまや明らかにされることだけど、少なくとも長引けば負けると判っている戦いだったとか。・・・なぜ負けるとわかっていた戦争をしなければならなかったのか・・・。

 今も昔も、朝鮮半島の位置がわが国の防衛に重要な意味をもつ。

 これは小生の想像の物語ではあるが・・・・
 白村江の戦いにおいては天智天皇がすでに滅んでいる百済を助けに行ったのは、もちろん百済が救援を求めたからだが、それにしても作戦が酷い。どうもそこには反天智勢力が絡んでいたからではなかったか。負けてから天智天皇は唐新羅連合軍をいたく恐れ、多くの防壁を築き、大津宮に遷都する。国の疲弊、重税、労働は激しく、庶民の反感は高まったであろう。
 そのように仕組んだのは他ならぬ新羅勢力だったかも、その背後には後に天武天皇となる不気味な人物がいた。この人は、この人が編纂を命じたと書かれている正史!『日本書紀』においてさえ、その出自が明確でない。天智の弟とされているが、年齢があやふやだ。誰この人?あまりに新羅と仲がよすぎる・・・ひょっとして新羅人?しかし、『書紀』が完成したのはもっと後で、その時実権を握っていたのは藤原氏。藤原氏は鎌足が祖、すなわち百済人。ではその真意は?

 従来の通説に疑問を投げかける歴史家は多く、これからどのような新発見がなされるか楽しみだ。関裕二氏は、日本書紀は天武天皇が己の正当性を述べるために書かれているとしては出来が悪すぎる(あまりにつじつまが合わないところが多く、一貫していない)と言う。確かに『古事記』にくらべると一作品としてすっきりしていず、話が小刻みで異説が多すぎる。
 きっと『日本書紀』は嘘だらけなんだろう。しかし、だからといって、その重要性も減らないし、読み物としての面白さも減りはしない。嘘だらけだとしても、どうしてそのような嘘を書く必要があったかという心理的事実は確実であって、いよいよ歴史家の想像力を刺激して面白い。


    人気ブログランキングへ

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

マインドコントロールの効用 6

 さて人間の世界である。われわれはエゴイズムの塊である。そしてまた社会を表面的な部分ではあるが頭で考え行政組織を創りだしている。人々のエゴイズムを認めつつ、かつある程度抑圧し、最も公平な社会とは何かと、絶えず模索している。われわれの社会は、蟻やアザラシやお猿の固定した、あまり変化のない社会とは違って、変化しうる。少なくとも国家による体制は様々でありうる。もちろん社会体制などというのはオーバーな表現かもしれないが、人々の価値観が変われば、やはり体制が変わる。
 この変化するということこそ、人間社会の特徴ではなかろうか。それは人間が不完全なものだからではない。むしろそれだけ積極的であるからではなかろうか。人間という種族に内在する生命のエネルギーがそれほどまでに躍動しているからではなかろうか。
試みに想像しよう。もしすべての人間がそれの属する既存の社会秩序を守ることのみに生きているとしたら。理想的な蟻の社会のようにその集団の現在の組織を維持することのみに全力をあげているとしたら。そのとき社会は完璧と言えるかもしれない。少なくとも、とりあえず秩序は保たれ安全ではあろう。しかし、しかし実はそこでストップしてしまうのではないか。そこで人間社会は停滞してしまうことうけあいである。
 人間以外の生物においては、社会形態が変化しないということは、環境がもし激変した場合、緊急に対応が出来ないということである。蟻族や蜂族は、それでも種を生きながらえるように願う生命という神が助けてくれるかもしれない。しかし、人間はこの世の中で最も弱い生き物である。一番初めに絶滅するかもしれない。人間は肉体的変化をあまり期待できないような気がする。なんとなれば頭脳で環境を変えて肉体を保護しうるから。だがまあ、それは実際はわからない。生命という神がいざという時、救いの手を伸べてくれるかもしれない。
 それよりもむしろ、多種多様な生命はその多様性を絶えず増しているようにもみえる。だから限られた地球環境において、一方では生命は種を維持し、他方ではその変容を求めているようにみえる。

 人間社会に限っていえば、じっさい社会は常に動いている。なぜか生命は人間の内部からひっきりなしにエネルギーを出していて、人は新しいものをつねに生み出すようになっている。小生はつねづね思うのだが、犯罪人や病人は決して無くならないであろう。こういった社会からはみ出る人たちが出るということは、天才奇才が出るということだ。これらの人が今までにない価値を生み出すのだ。今現在多くの人の顰蹙を買うような言動も将来どのような価値を生み出すか、今その時は解らないものである。そのような変人が沢山出現してくることをわれわれは歓迎すべきなのだ。
 今どきは秀才天才を生み出す勉強方などというような本がよく売れているそうだが、それは人のエゴイズムに媚びるだけで、生命の本質に触れるものではない。じっさい効果的な勉強法はあるのであろうが、思いも寄らない奇策は生命の領域に属している。心配しなくても犯罪者や病人が出てくるかぎり、同様に秀才天才も出てくるものだ。社会秩序を逸脱する者が居なくなれば社会は停滞してしまうであろう。
 有性生殖が様々なヴァリエーションを生み出し種が保存されるように、社会をはみ出る人たちが社会に活力を与え生き延びさせる。人は一方で社会秩序の安定を求め、他方ではその発展を求めている。発展のあるところ撹乱は必定だ。


   人気ブログランキングへ

テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『夜明け前』について

 藤村の『夜明け前』を少し前に読んだが、読後感を書こうと思っていたが、なんとも苦しい気持ちが続いていた。放っておくのも気持ちが悪いから、ちょっとだけ書いておこう。ただ、藤村の主人公(父がモデルらしい)にたいする愛情の強さが小生にとって救いであった・・・それにしてもこれは大著だ。

 主人公半蔵の生涯。何というか身につまされる。これは小生か。

 主人公は東山道の馬込宿の本陣庄屋問屋を経営している伝統ある家に生まれた。時は幕末。親の世代の影響を受け江戸幕藩体制の一翼を担っているという自負もあるが、一方長年に及ぶ封建体制の悪しき面も否応なく目に入る。仏教僧の堕落、武士や公卿の農・工・商への謂れのない圧迫。そこへ黒船だ。体制が揺れる。折から国学を志した半蔵らの世代が、新しい復古、尊王の時代を夢見て動き出す。

 しかし、明治という時代になって、半蔵ら国学の徒らが思い描いていた〈宣長の儒仏以前のまことの道〉から国が逸れていく。社会のシステムは早々変わって、馬込宿は見る影もない。半蔵の夢もいつしか新しい世代の者からも離れてゆき、社会との連帯を失って、半蔵は己の夢の中に孤立する。平田派の古き神の道に従い、神仏分離の必要に捉われた彼は、ついに夢を貫こうと家の菩提寺に火を点けようとするところを村の者に見つかり捕まる。以前は人望があったので、警察沙汰にはされなかったものの、座敷牢に閉じ込められる。家族や村の者はいたわるが、彼は喚きちらしたり、ウンコを投げつけたりしながら、徐々に衰弱して死ぬ。
 
 漠とした美しき理想、時代の変化、家の崩壊、己の孤立と衰弱・・・ああ小生のことが書かれているみたいだ。なんとも心が痛む。

 思えば、半蔵は〈まことの道〉を制度や政治に求めたのがいけなかったのではなかろうか。彼はすでに日常生活のうちにそれが達成されていたのではなかったか。あるいは、歌の道にもとめるべきではなかったか。

 さらに思うに、皮肉なことだ。磐石の徳川体制という安定した社会において栄え始めた国学が、あるいはひょっとしてあの『大日本史』が、二百年の後に体制崩壊をきたすことになる初めの小さな種であったとすれば。

 
                                   
人気ブログランキングへ

テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

バッハ『マタイ受難曲』を聴く

友人のK君が『マタイ受難曲』のチケットが一枚あまった、あげるというので、もらって聴きにいった。
演奏の難点は多少はあるにしても、小生を感動させるには十分であった。休憩時K君は一人で孤島に一枚のCDを持っていくならやはりこの曲かなと言った。
家に帰って食事しながらも、曲は胸のうちで繰り返し鳴り続けた。もちろんこれはバッハの音楽の力によるものだ。 

学生時代に、先年亡くなったアーサー・クラークの『Childhood`s end』を読んだことを思い出す。宇宙の主によってついに人類が進化する、そのとき地球はオーロラのような強烈な光の乱舞に見舞われる。この地球最後の嵐の中で主人公がオルガンで奏でるのが、バッハの曲なのであって、小生は「ああ、じつにこういう時こそバッハだ」と共感したことを思い出す。

『マタイ』を聴いてやはり考えるのはイエスという人である。あの当時のあの地域の人々がこの男にひどく感動したことは事実である。「私は地上に平和をもたらすために来たのではない。剣を投げ込むために来たのである」「母や兄弟を捨てて私についてきなさい。・・・天の父の御心に従う者はすべて母であり兄弟ではないか」 こんなことを口走りながら、律法を破り、己の刑の重さや命さえ考えず、決して浮かばれることのない最下層の人々に慰めを与えるこの危険な男を、常識的なユダヤ人は許さなかった。
小生は、多くの人と同様、やはり侮蔑的な意味合いを込めて〈神学論争〉と言う。イエスの死後三百年あまり、この男は神であったのか人であったのか、われわれにはどう考えても訳がわからぬ正統派と異端の論争の紛糾は、ついにローマ皇帝による決着を必要とした。しかしそれでことが済んだわけではない、その後もその問題で殺し合いさえ続いた。
いまなお延々と尾を引いていることは「ダヴィンチ・コード」などで知られるとおりだ。
いったいこの男イエスが神か何かという議論でどうしてこんなにもめるのか、とふと思って、小生はヨーロッパというものを一瞬理解したと思った。

われわれ人間は問い詰めていくと、どうしても神(超越的な絶対善)という問題に突き当たらざるを得ないのだ。ここから多くの罪とか宥和とかに関する問題が発生するがここでは省略。ただ、日本人は、500年まえにザビエルが布教に来て以来、キリスト教があるということを知ってはいるが、なぜか真剣に考えたことはない。それだけわれわれ日本人は長い間、無菌的なよい環境に住み続けてきたのか? しかし、これからはどうなのであろ・・・。



        人気ブログランキングへ

テーマ : 聖書・キリスト教 - ジャンル : 学問・文化・芸術

ムハンマドとアラブ

 ムハンマドが生きた時代にアラビアの砂漠での生活はどんなんだったのだろうと思う。不毛な砂漠で生きることは何といっても死と隣り合わせだったのではあるまいか。 

 イスラム法では一夫四妻まで容認されるのは、飢えや部族間抗争で男が少なくなっても絶滅を避ける生物学的智慧からくるものらしい。決して遊び心を奨励するものではない。孤児は部族全員で支える、豊かなものは貧しい人に収入の何割かを与えねばならない・・・啓示宗教コーランは法になる。

 ある先生によると、6世紀末期に紅海沿岸の交易拠点としてメッカが栄え、その繁栄がアラブ人を遊牧生活から商人に変え、価値の転換が起こってきたこと、そしてまた貨幣経済による富の蓄積がアラブのインシャラー(すべては神の思し召し)の中に自らの力で運命を切り開く思想が芽生えてきたこと。いわば自然共同体意識から金銭崇拝的利己主義が発生してきたこと。これが部族間、氏族間、個人間の闘争を激しくすることになった。
 これに対する危機意識が人々の心に生じてきたとき、鋭敏なムハンマドは大天使ガブリエルの啓示を受けたのだった。

 ムハンマドの死後、ペルシャやビザンツに対してアラブはいわば自己に目覚めた。そうして瞬く間にイスラム勢力は西は地中海を経てスペインに至り、東はイランを越えるほどにもなる。この低文明のアラブ民族が、地中海東岸の高度な文明に埋没することなく、征服することができたのは、その一つの要因として、被征服地域の文明を排撃せず、なぜなら他国であれどこであれこの世に存在するものはみなアッラーの思し召しであるから、(それを破壊することなく)、巧みに吸収していったイスラムの寛容さにあるという。
         人気ブログランキングへ

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

マインドコントロールの効用 5

 われわれはとにかく何らかのマインドコントロール下に置かれている。そして、それを意識的に全国民に及ぼそうとしているのが、いわゆる教育である。教育とは洗脳なり。そして、これは近代国家のみならず、古代から、おそらく人間がこの世に出現してから大なり小なりあったのではなかろうか。

 教育とは何ゆえあるのか。これがない状態を想像すればよい。人々は集団をなして生きている。他の生き物はどうか。お魚や昆虫や植物はどうか。同じ自然環境下であれば、集団はより大きくなり、分化していくように見える。生物である人間もそのように思われる。地球上の人間社会は、地域ごとに異なった教育方針があるとはいえ、教育がない国はない。その目的は集団をより絶滅から遠く、より長く存続させるためにあるように見える。それが根源だ。近代国家はその上に様々なヴァリエーションを施してきたが、近代国家においてもアマゾンの原始人においても、おそらく石器時代の集団においても、根本は同じである。そぼ根源とは何か。

 それは道徳といわれるものではなかろうか。人は嘘をついてはいけない。人は人を殺してはいけない。…これらはみな禁止である。何故したいことをしてはいけないのか。その理由を考えてみるに、嘘をついては円滑に物の交換や売買ができない。気ままな殺人が許されれば、残るは最後の一人だけになろう。それは種の絶滅を意味する。もちろん、例外はあろう。この個体を生かしておけば集団そのものが危うくなると集団が認めた場合である。しかし、それらの理由は漠然としていて、あくまで後付である。理由はわれわれ頭脳人が後で何とでも言うものである。じっさい道徳的強制が生じるところは、言葉や人類が生まれる前、おそらく集団をなして生きる生き物においては、そもそも始まりから、つまりそれは言わば本能の領域のことだ。

 要するに、道徳とは人間が後で作ったものではなく、本能といわれる生物学的領域のものだ。人間においては、何何してはいけないというのは、はっきり言ってしまえば、ことの善悪から逃れることはできないということである。「これは善いことか悪いことか」をどうしても考える。もちろん悪いこともするが、それが悪いことであるということを本能的に知っている。だからこそ人前にも自分に対してもそれは本当は悪いことではなかったのだという理由をでっち上げようとする。それほど人は善悪の観念にとらわれている。それは人間種を存続し続けるようにするものであり、生物としての人間に与えられたものであり、働き蜂の動きを規定するものやライオンの狩の共同作業という形態と同じ意味がある。
 (・・続く・・・)
人気ブログランキングへ

テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

11月3日は明治節

明後日11月3日は明治節です。
職場の予定日を書き入れるホワイトボードのカレンダーがあるのですが、11月3日に明治節と書いておいたのをある職員が見て、「めいじぶしって何?」と訊いたのです。小生は笑っていいのか驚いていいのか、なんとも妙な気持ちになった。
無理も無い。明治節という言葉はすでに日本政府によって抹殺されているのだ。知っているほうがおかしい世の中だ。
今は「文化の日」と言っている。この言葉が出来たいきさつは書かない(知らない人は調べておいて)けれど、たぶんにGHQの意向が入っているらいし。
それはともかく、明治節は明治天皇の誕生日である。わが国の歴史を振り返ってみるに、明治という時代は、じつに大変な時代であった。ご先祖たちの多数の命と苦心惨憺によって日本は近代化を成し遂げた。そのことに思いをいたすために「明治節」という言葉を残すべきであると小生は考える。
今の人は、こんにちの日本の豊かさを当然のことと受け取り、ご先祖のご苦労を考えない。なぜか考えないように何者かによって「文化の日」に変えられたとしか思えない。
文化の日などという言葉は、それこそ非文化国家の使う言葉だ。かつて、文化なべ、文化包丁、文化住宅など、なんでも文化と付ければ文化的だと、お猿のように使っていた時代があったが、「文化の日」はまさにその先駆けをいく命名であった。
戦後の政治家や教育者の猿たちはいったい何を考えているのか、小生にはさっぱり分からん。
今の若い人たちが祖国の歴史を知らず、祖父達の苦難をしらず、祝祭日はただの休日であると思い、ディズニーランドに出かける、お猿のような顔をして。

小生はお猿達に言いたい、「人はパンのみに生くるにあらず」と。・・・・・・・                                         通じないか・・・・



人気ブログランキングへ

テーマ : それでいいのか日本国民 - ジャンル : 政治・経済

プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。