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日本は悪い!

今年の腹立ち総決算。わが愛する日本への、愛するがゆえの罵詈雑言。

 国の生きる指針たる憲法を外国人に創ってもらって、60年以上もほったらかし。ただ平和と口で唱え、何の国家的理念もなく、ただ飽食のみを追及してきた。この国にとって平和とは食べることなのだ。この国は動物園だ。

それというのも、現代日本には精神としての人間への畏敬の念が欠けているからだ。

 街に憩いのスペースがある。誰でも利用できるテーブルも椅子もある。そこでゆっくり腰を落ち着けたい気分になる。ところが、音楽ががんがん鳴っていて考え事一つできない。しかも若者が好みそうな(と管理者が勝手に決めている)音楽を鳴らす。名古屋市のオアシス21なんて何がオアシスだ。この田舎っぽさ。西洋を表面だけ真似たアジア風の笑うべき悪趣味。中国のことを笑えまい。

それというのも、現代日本には静寂への畏敬の念がないからだ。

 日本の街の汚さは、ヨーロッパから帰ってきた者は、誰でも感じるであろう。至る所に好き好きに色とりどりの看板が立ち、お寺の横にマンションが、その隣には軍艦マーチの漏れ聞こえるパチンコ屋が建っている。京都でさえ西洋諸都市に比べると、どうしようもなく建築行政の不行き届きが露骨である。木の文化と石の文化との違いがあるとはいえ、日本の文化理念の欠如は明らかである。

それというのも、現代日本には己の過去への愛情が欠如しているからだ。

 日本は大昔から教育熱心であったように思う。江戸時代の識字率は諸外国より高かったと聞いている。しかし、現代の教育を見ていると、やはりここでも理念がない。ただ最終的に高賃金獲得のためにすぎない。大人がそれを何の遅疑なく推奨しているのだから、その後姿を見て育つ子供やいかに。たくさん食べるために勉強する。これは実験に成功して報酬をもらう猿である。

それというのも、現代日本人は生きる理由を考える宗教的情熱が希薄だからだ。

 もっとも、小生は美しい衣服を求めること、おいしいものを食することなど、感覚が肥えてくれば、必然的に高価になるものを否定する訳ではない。それこそ文化であるからだ。しかし、それを最高度に味わうための適量というものがある。一生という短い人間のキャパシティは限られている。それを超えると感覚は逆に衰え、ただ強欲になるだけである。

 したがって、ついでに言えば、子供のうちから、感覚の陶冶と勉強とは平行してなされるべきである、と考える。勉強が先行するのはよくない。もっとも論理学者になるべき人は違うかもしれないけれど。いや、しかし論理などというものは実は大いに心理の上に展開されるものだ。

 小生は、学校の授業で習字・音楽・美術の割合が減るのを憂う。いくら理数系をたくさん学んでも、最終的な発想は感覚的なというか、別のところにあるような気がしてならぬ。
 これはもう完全な独断だが、アインシュタインの特殊相対性理論。教えられればわれわれでも理解できるじつに簡単な数ページの理論。特別に難解な数学はでてこない。にもかかわらず他の誰も気がつかなかった。この発想は、もう理数というより、モーツァルトのハ長調ピアノソナタのアレグロだな。この感覚、分かっていただけるかしら?

 オバマ大統領のノーベル平和賞受賞とアフガンへの軍隊の増派決定とを、矛盾したおかしなことだと感じるのは、日本人のおかしなところだと感じる。(もちろん欧米人でもおかしいと言う人がいるが、その理由は違い、いわば日本人は観念的で、欧米人は現実認識に基づいている)島国根性の非宗教的な平和国家日本。欧米の歴史を知れば知るほど、その必然性、キリスト教と血を血で洗うどうしようもない歴史、強い理想と強い軍隊を共に持たなければならない苦悩と、その苦悩の最終的肯定。

これが解らぬ幼稚園児日本。

 それと言うのも、日本人はもともと慎み深く、義を重んじ、欲深いことを恥とする国民だからとか言う。そのくせ、年金がちょっと減らされても目くじらをたてるし、隣地とのたかが10㎝の境界線争いで夜も眠られぬくせに。

日本人は己のエゴイズムを隠さず認めよ。そして他人のエゴイズムをも認めよ。そうして戦え!



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「神々の黄昏」幻想

 夜ベッドに入ってから、久々にFMをつけた。と懐かしい音楽が流れてきた。おお!そうか、もう暮れだ、例のバイロイト音楽祭だ。
 昔よく聴いていたものだ。これを聴かなくなってどれほど経つだろう。・・・しかし、ワグナーを聴くともうけない、捕らえられて身動きできない。夜一人で暗い部屋の中で聴いていると、苦しくなって不安に襲われる。

 ワグナーを聴くと、いろんな言葉が浮かんでくる。インセスト・タブー(近親相姦)、神話的根源的不安など、根本的に生存を脅かすような言葉ばかりだ。この『ニーベルンクの指輪』第三夜にしても、結ばれる二人は英雄とその叔母だ。犯してはならないことを犯すこと、そこにはあまりにも甘美なものがあろう。小生はこの序幕の二人の音楽を聴くと、全身鳥肌。もう魂がぐじゃぐじゃになってしまう。完全なエクスタシーを味わう。『トリスタンとイゾルデ』なんて怖くて聴けないよ。

 神話というものの根源性。それはかならずタブーを犯すことがら始まる。アダムとイヴは禁止の実を食べる。イザナギもイザナミの言を破る。オイディップスは父を殺し、母を犯す。聞くも涙、語るも涙の、お互いを知らずして交わる兄妹軽王と衣通姫や忠臣トリスタンと王妃イゾルデの物語。・・・

 われわれ人間が社会をなして生きていかなければならない不思議な宿命。小生は想像する、理由がどうあれ殺人などを犯してしまった人の心の内を。たとえ、ばれずにいたとしても、いやむしろばれないがためにいっそう、どんなに根源的な孤独感に苛まされているか。社会から離脱してしまうというような根源的な感覚。宇宙の果てに飛んでいっても、これほどの孤独感というか離人感はないであろう。ことはもっと人間存在の本質に関わるのだ。どんなにか、どんなに細い糸ででも社会と繋がっていたいと渇望することか。と想像する。

 どんなに世の中が進歩しようと、法整備されようと、神話の問いかける問題は生き続ける。百年くらい前、フロイト先生は神話と神経症の関係に言及したが、われわれの心の中は深い闇であることは誰でも感じる瞬間があるだろうし、いわゆる一流小説家はその辺を巧みな手腕で追及する。      
                                    

 ワグナーの楽劇というと、また小生はドイツ民族の運命なんて言葉も浮かんでくる。ナチが政権を取ったときの映像をテレビなどで見ることがある。小生は、あの第一次世界大戦後、まったく疲弊してしまったドイツに希望の光を与えたヒトラーに向かって大衆が歓喜に咽んで「ハイル・ヒトラー」を叫んでいるところを見て、大いに感動する。あのときこそ偉大なドイツ民族の最高の瞬間だったと感じる。その後、徹底して検閲を行うナチズムは大衆操作にワグナーの『マイスタージンガー』を利用したという話を聞いたことがあるが、尤もなことであると思った。

 しかし、彼、政治的天才、誇大妄想の狂人ヒトラーとて人間だ。カラー映像で、山荘にエヴァ・ブラウンと映っているところを見たり、ベルリン陥落直前に地下室で二人して自殺したという話を聞くと、ナチズムの根底にあるもの、偉大なドイツ民族の底流を流れるものを感じる。それは一種の理不尽なほどの内面性・・その本質は『マイスタージンガー』ではなく『トリスタンとイゾルデ』に露骨に出ているのではないか。・・・ドイツ的なるものとはなにか?・・そんなことお前に分かるかと言う声が聞こえてくるけど、小生の思うに、ニーチェやリルケに感じる余りにも土臭い、くそ真面目な、あの比類のない繊細さとでもいうか・・・ラテン民族にはないもの・・・ルターの血・・・
 そこのところを一人悩ましく空想していろいろ本を調べていた頃、トーマス・マンのエッセイに出くわし、そこに、小生と同様の感想が書かれていた(小生の誤解だったかもしれない)のを目にして、わが意を得たりと思ったことを想いだす。

 そしてまたこんな風にも思う。偉大なものは、また恐ろしいものを蔵していると。軽佻浮薄の方がいいのだ。殺人などとは比べ物にならないが、不倫というものがある。いまどき珍しくもないらしいが、ただ本来そうおおっぴらに言うことはできないはずである。もっとも、それを逆手にとって売名に走る三流タレントがあるが。しかし、本来惚れてはいけないような相手に惚れあって付き合うということは、当人にしか分からない深刻な一種の反社会性があるはずだ。そこに人間の心の闇がちらっとのぞく。

 それを、週刊誌は誰某が不倫したのどうのと安っぽく書きたてる。人は噂話が大好きであるから。それはまあ無邪気でいいが、しかし当の本人までもが、痛切であるべき自分の気持ちや行為を週刊誌並みの言葉で省みるのはどうか。浅く、刹那的で真剣みのない、情熱もなく、危険もなく、まあ安全でいいが。



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       ペコリ                            

テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

対カラス奮闘記

 この季節になると鳥が多くなる。数日前、我が家の前の緑地ではカラスが八匹くらい集まって、騒がしくしている。よく見ていると大体がペアをなしていて、そこに別のカラスが近づく。それをペアの一匹が攻撃をする。というふうに見える。そうか巣作りの季節か、と思っていた。

 ところが、昨日からかれらの姿が見えなくなった。そうか、今年はこの緑地では巣作りをしないのか。よかった、よかった。カラスが巣を作るとうるさくてしようがない。どうもカラスの鳴き声は好きになれない。雛の声でもいやだ。

 思い返せばその昔、カラスに我が家の池の物をずいぶんとやられた。とくに悔しい思いをしたのは、何匹もの亀を取られ惨殺されたときだ。その時は、小生復讐の鬼となって、何とかあのカラスを捕まえ虐待し晒しモノにして今後の見せしめにしようと考えた。

 いろいろやった。
 池の縁に釣り針つきの餌を仕掛けた。しかし餌だけ盗られたり、糸が切られていたり。
 また睡眠薬入りのオレンジも仕掛けたが、それだけは食べなかった。

 また庭に鳥もち(ねばねばのネズミ捕り)を置いて、その前に餌を仕掛けておいた。数時間後、餌は全部食べられ、くしゃくしゃになった鳥もちが傍らに転がっていた。いちおうかかったのだ。もっと強力な鳥もちを広く仕掛けたら、生け捕りにできるかもしれぬ、と期待に胸をふくらませた。

 今度は畳二枚分くらいの広さに敷き、その中心に餌を置いておいた。小生二階の部屋から根気よくじっと観察していた。と、しめしめカラスの注意を引いたようだ。電柱から近づいてくる。そしてついに洗濯竿の上まで来てじっと餌を見ている。小生はどきどきしながら心の中で叫んだ、さあ来い、いつものように降りて食べろ! しかし、怪しい雰囲気を察したのか、そこでじっと見つめるばかりだ。あいつ何を考えているのか・・・。こちらは手に汗が出る。動悸が続いて苦しくなる。そのとき、あいつカーテンの陰から見ている小生をちらっと見つめたような気がした。なんかやばい雰囲気になってきた。とうとう敵は左右に首を振り、ついに餌のところまでは来ず、去っていった。・・・

 その後、思い出すだに腹立たしいことではあるが、鳩が引っかかった。こいつ小生が仕掛けるところを見ていたはずなのに、引っかかるなんて!何という間抜け!何といういやしさ!
 まあ野鳩のごときは敵ではないから。逃がしてやったけれどね。

 結局、カラスには根負け。完敗宣言。せいぜい庭に餌を仕掛け、食べに来たところに大声を出しながら草履を投げ(コントロールが悪いので絶対に当たらない)脅かしただけに終わった。

 ついでに、野鳩といえば、よく鳴く時期がありますね。夏ごろが多いか・・・地域によって、或いは血縁系統によって、鳴き方が少しずつ違うことに、注意していると気がつくようになった。
 小生は、庭で日向ぼっこしながらよく聴いていて、それが文章に聞こえてくるんですね。我が家の辺りでは、鳴き方は、

「コマッタカッコウ、コマッタカッコウ・・・・コマッタ(必ずここで終わる)」

「キュウシュウアッタカイ、キュウシュウアッタカイ、・・・・キュシュウ(必ずここで終わる)」

というのが、圧倒的に多い。いろいろな地域の鳴き声を知りたいですね。

 カラスのために 

 声あしく ゴミをあさりて 生くるとも 子思ふこころ 人にまされり

 ハトのために

 何ゆゑに さとくあらねば ならぬのか ただおほらかに 生きるのがよし



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  ありがとう

テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

Merry Christmas

 クリスマスはもともとはペルシャのミトラス教の太陽神を祀る冬至の祭りだった。この日よりだんだんと太陽が強くなっていく。
  ローマの時代になって皇帝が祭りの中止命令を出した。農民は考えた「解りました。この日をキリスト様の誕生日として祝います」と口では言って、実際は昔ながらの祭りを続けた。・・・だから、この日は飲めや歌えのドンチャン騒ぎが本来のあり方だと思う。
 そもそもお祭りは、どこの地域でも、日本の神仏習合のように、もともとあった土着の神信仰と新しく入ってきた宗教との習合があって、それが形を変え意味を変えつつ、伝わってきたのではないのかな。
 
 それはそれとして、せっかくだからこの日にちなんでイエス・キリストについての小生の考えを述べよう。

 イエスという人は今まで地球上に生きた人の中で最強の人であった。その倫理的高さは、たとえて言えば、(大塩平八郎+西郷隆盛)×百くらい、そして清貧さにおいて、良寛×百くらい。このような若い男が、当時のパレスチナの地において、女や乞食や病苦に悩まされている人達を慰めて歩いた。もちろんそれは律法を破るものであった。が、そんなこと全然気にしないイエス。したい放題。完全なる言行一致!・・・それで、当然のことながら、逮捕され、鞭打たれ、処刑される。

 ところが、近しい一部の人達は、イエスの死後、彼の生涯を振り返って、あの若者は凄い奴だったではないか、神のような男だったと言った。たしかに、そのような人を見てあれは神の化身だと思ったのは、けだし当然であろう。そして瞬く間に、この若者の噂は広がり、何が何か分からない人達までが、神が人の姿をとって現れたのだと口にしだした。
 50年も経てば、東地中海一帯に〈イエスを神と思う会〉なるものが生じ、その言行録が書かれ、諸党派間での争いさえ起こるようになる。
 そして300年が経った。地中海岸全域に多くの人が〈イエスを神と思う会〉に入会した。これは危険だ!ローマ皇帝は、はっと気付く、ローマの神々よりこの愚者どもの信仰する宗教を利用したほうが統治しやすいと。
 そうして、七世紀以後は新たな啓示宗教を奉じるイスラムとの闘争に入る一方、キリスト教は西洋を席巻する。

 ところで、ここに遥か昔のギリシャの学問をこととする知識人がいた。彼ら知識人は自然の探求に命を燃やしていた。が、彼らすらも〈イエスを神と思う会〉は巻き込んでいった。この情熱の混淆から、今現にわれわれが享受している近代科学が発達したのだった。

 この科学の発展するところ、18世紀に産業革命が起こる。蒸気機関が発明される。そして黒船だ。これは、従来の帆船とは異なり、季節風に関わらず、いつでも世界のどこへでも大戦闘部隊を派遣することができる。
 江戸時代、海のかなたから恐ろしい鉄の塊が日本にやって来た。USO未確認航行物体! 未知との遭遇。大パニック。・・・その後は、日本人なら誰でもご存知。国敗れて山河あり。こうして今、われわれはキリスト教国由来の科学技術の恩恵を受けて、パソコンの前で話し合っている。


たった二年間ほど活動したに過ぎないイエスからキリスト教へ。そして近代文明へ。

そしていまわれわれはこの文明の先端を生きている。

この不思議!これが地球に起こった現実の出来事なのだ。

歴史にイフはない。つまり他にはありえなかったのだ。

出来事はたった一回きりなのだ。

たった一回きりの歴史。

たった一回きりの宇宙。
 
このことに驚愕せずにおれようか 今宵。

アーメン。


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ありがとうございました

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

シンクロニシティ?

 一昨日、朝食中寒そうな冬空を眺めながら、昔こういった空に何か関わりのある面白い話でもなかったかなぁと考えて、冬空とか冬雲とか霙とか風花とかいろいろな季語を思い浮かべていた。そして、「冬の日の幻想」という言葉に行き着いた。これはチャイコフスキーの交響曲第1番だったな、どんなメロディだったか思い起こせない。ままよ。「冬の日の幻想」って言葉だけでよい、これはきっとロシアの民話で不気味な話にちがいない、なんて勝手に思い込んで、そのまま忘れてしまった。

 朝食後、車で出勤。いつもの如くFMラジオをつける。しばらくして、アナウンサーが言う「次はチャイコフスキー作曲交響曲第1番・・・」。そして音楽が始まった。な、なんと、これはこれは。こんなことは久しぶりだった。意味のある偶然の一致、シンクロニシティじゃないか。

 たぶんこの偶然の出来事にとくに意味はないのであろうし、こういうことは誰にでも一度や二度くらいあるにちがいない。例えば、ある数字を考えていたら、前を走る車のナンバーがその数字であったとか、ある人のことを考えていたら、その日にその人と遇ったあるいはその人から電話がきたとか。

 小生はある時そういうことが(とは言ってもごく些細なことではあるのだが)よく起こったのであるが、思い返せば、偶然の一致について考えているときに何故かよく起こるのである。そして、その理由として二つのことを考えた。

 一つは、偶然の一致を考えているときは物事への注意が(意識的にも無意識的にも)鋭敏になっており、ふだん起こっている一致に気付きやすくなる、というものだ。この場合、偶然の一致の頻度はいつもと変わらない。

 もう一つは、偶然の一致の頻度は、そのことを考えることによって、増加してくるというものだ。

 もし後者が本当であればとても不思議だ。われわれの思いを強くすることによって、世の出来事が左右されることになるからだ。ふつうこんな風に考える人はめったにいないだろうと思われる。一時流行ったニューサイエンスはそのようなこと、つまり心と物理現象との関係を研究するものだった。今はどうなのか知らん。

 しかし、われわれには、理屈ではどうしてもありえないと思われることでも、こうあって欲しいという思いがとても根強く、お守りを持ったり、神社にお願いをしたりする。その行為で願いが実現するような気がする。しかしこのことは人間の心理的事実であって、別におかしくはない。

 ニューサイエンス風に進化を考えると、例えば、提灯アンコウが提灯を持つようになたのは、とても泳ぎのにぶいある種の魚族が、疑似餌を持ちたいとみんなで強く希ったからだ。また、擬態できる昆虫族はそういう能力を激しく希ったからそのように進化してきたとか。

 昔『アウトサイダー』で一躍有名になった作家のコリン・ウイルソンは、たしか人間は意識的な修行によってでもvision(天才的眼力)を引き出しうるような説をしきりに述べていたことを思い出す。きっと芸術家はそういう努力をしているんだろうな・・・



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 ありがとうございました

テーマ : 不思議な体験 - ジャンル :

日本衰退

 いまNHKで「坂の上の雲」をやっていますね。
 昨日見たのですが、司馬史観はともかくとして、また原作との違いはともかくとして、明治の政治家は気骨のある人が多かったようですね。それがよく出ていると思いました。みなとても勉強家で、国家の為にという気概があったのでしょう。明治人は強いとよく言われますが、そういう時代であったのですね。昨日出てきた小村寿太郎は、ちびすけだったけれど、堂々と外国人に己の信ずるところを述べていましたね。ああいう人がいてこそ、日本は外国に尊敬されるようになっていったのだと思う。おかげでさまで、西欧との不平等条約を改定することができた。

 今の政治家はどうなんであろう。よく知らないが、今回の600人を引き連れての小沢氏の中国訪問ほど、卑屈で恥ずかしいものはなかった。受けのいいことを言い合って、大歓迎を受けた。全員で記念写真を撮ってもらった。一人ひとりコキントウ氏に握手をしてもらって大喜び。中国要人は彼らを心の底で侮蔑しきっていたであろう。

 外交とは、時には耳が痛いことを言わねばならない。ある一線では毅然とした態度をとらねばならない。そういう人を相手は煙たがるが、軽蔑はしない。耳に快いことばかり言う人は、見くびられ、軽蔑される。

 今回の訪中団は大いなる日本の恥であった。




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日本人とキリスト教 2

 別の角度から考えましょう。いま世界のキリスト教国の最たる国アメリカの世界戦略はあまりにもその負の側面が前面に出ていて、人はキリスト教は恐ろしい、一神教国は一途に他の国や民族に暴力をもって己の価値観を押し付ける、などと言いますね。
 小生はここに、初めに引用した藤村の言葉を思い出します。宗教は初めは清く、末は濁ると。まことにその通りと思うのですが、しかし末に至っても初めの清さがまったくゼロになってしまうとは思えません。

 先日、太平洋戦争の専門家H.K氏に、戦争中の日本の捕虜の扱いについて尋ねたのです。
 昭和十七年「死のバターン行進」として海外から批判を浴びている捕虜虐待が有名ですが、キリスト教国は捕虜の扱いについての法がすでにあって、彼らから見ると、わが日本軍は法を守っていないという事になります。H.K氏はその法である「ジュネーヴ条約」を日本は批准していなかったから法的には非難は当たらない、しかしそれに準じた扱いについては意思表明をしている云々と、おっっしゃってた。いずれにせよ、予想外の多くの捕虜をどうしていいか分からなかったというのが本当のところでしょう。捕虜をいわゆる虐待することについての善悪観をもっていなかったとしたら、それは悪いことではないと思います。それはいわばいまだ知恵の木の実を食べていない状態だと言えます。

 では、どうして欧米諸国に、たとえ戦争相手国とはいえ、捕虜を保護する取り決めが生まれたのでしょう。幕末、漂流民を保護せず見殺しにした日本政府(幕府)を欧米は野蛮行為とみなし、日本を文明国とみなさず、ために日本は不平等条約を結ばされる一因になったですね。もちろん日本にも武士道なるものがあって、とくに高位の敵兵を鄭重に扱うことはよくあったと思います。ただ、それはあくまでいわば個人的な紳士的態度であったわけで、それがあまねく組織的に法整備されるようになったのは、何と言ってもキリスト教国においてではなかったでしょうか。
 そして、その根底にあるものはキリスト教の教えから由来する西欧のホスピタリティではないでしょうか。

 しかし、ここに乙に構えている言葉があります。それは、よわき者への労わりというのは、積極的な善ではなく、自分が弱い立場にたったときの為である、というものです。要するに偽善ではないかということですね。こういうこと、言うところのニヒリズムの哲学もまさにキリスト教の罪問題の中心思想であって、これこそ日本人に欠けているものではないでしょうか。しかし今はこの発展問題も一応おいておきましょう。

 とにかく、あらゆる現代文明を侵食しつつある西洋文明の源は、エゴイズムのみではないと思うのです。国家は百パーセント、エゴイズムで動いていると思いますが。日本人はお人よしで、むしろそこが分からないのは、じつに逆説的ですが、まさにキリスト教的自己欺瞞の探求が欠けているからではないでしょうか。  ・・・続く
 


     
   

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日本人とキリスト教 1

 なでしこ☆さんのコメント、神道とキリスト教との近親について今日は考えていました。

 「宗教のことほどその源が清く、その末の濁りやすいものもすくない」と藤村は書いておりますが、古今東西の宗教対立をみてよく首肯できる言葉ですね。ただ神道は自然信仰といいましょうか、教義をもつ宗教ではありません。世界中の人間が普遍的に持っている原始的な素朴な信仰形態です。これが国家の中心的な宗教である文明国は、日本くらいのものではないでしょうか。そこが日本の独特の在り様だと思います。それだから、日本は仏教も儒教もキリスト教も容易に受け入れ、また深く理解することができる素地があると思います。
 そこにまた他方、外国人から日本人は無宗教だとか、あるいはいい加減だ、あいまいだと言われる所以もあると思います。
 もちろん日本人の中には仏教に深く帰依したり、深く教義を展開していった人達も多くいますが、全体として自然宗教性はわれわれの中に強く残っています。

 藤村は先の言葉につづけて、「わが国神仏混淆の歴史は何よりも雄弁にそれを物語っています」と言っています。これは、本居宣長などの国学者のつよく指摘するところで、仏教や儒教が入ってきたために、われわれ日本人は〈まことの道〉を失って理屈を言うようになったとでもいいましょうか。

 ちょっと別の話ですが、日本の仏教の受容はとても速いですね。ご存知、聖徳太子の時代、天皇・蘇我氏連合軍つまり権力側が仏教受容派だったということと、日本人には怨霊信仰がとても強く、これを鎮めるために仏教はとてもよい道具だったのではないかということを考えます。この怨霊信仰ですが、怨霊の祟りは罪という言葉でも表されているのではないかと小生は勝手に思っています。罪は日本書紀にもでてきますし、源氏物語にいたっては頻繁に罪ということばが出てきます。その使い方はわれわれが今いうところの、それは罪な話だというときと同じ感覚です。

 そんなことは、世界中どこへ行っても、どんな原始的な文明にも、(内容は多少違っても)善いことと悪いことの区別はあるではないか、と人は言うでしょう。そう、その善悪の観念が人間にはあたかも先天的に備わっている、このことが人間という種族保存にとって生物学的に最重要な戦略だと小生は思います。が、それはまた別の機会に考察したい。広がっていく問題にあまり付き合っていくと、論旨が判らなくなる。
  
 さてキリスト教はどうなんでしょう。仏教と同じ運命をたどるのでしょうか。それはなんとも解りません。ただ小生がキリスト教の特異性を強く感じ、日本人はもっと積極的にキリスト教の教えに突っ込んでいくべきだと思うのです。

 小生がいま考えていることは、キリスト教の教えは完全に実践にあって、本来教義にはないのではないか、ということです。それは、おそらくカソリックの(とは限りませんが)神父らの沈黙の行為の中に脈々と受け継がれているのではないか、と思うのです。この沈黙こそ教義にはならない〈まことの道〉、あるいは教えの背後にある言葉を超えたⅩを生きることではないかと。それを敢て言葉にするとどうしても普通の論理にはならず、例えば「右の頬を叩かれたら左の頬も出せ」とか訳の分からぬ、逆説的表現になってしまうのではないかとも思うのです。    ・・・続く 
 
  

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マインドコントロールの効用 8

 しかし、不思議に思うことではあるが、人間は芸術をどうしても必要とする。もちろん無人島でただ一人、食うや食わずの状態であるならば、いわゆる芸術出現の余地はないであろう。だが、そういった時でも、よりよく食料の確保を願い、祈りをあげたり、何らかの呪術的行為をするのではあるまいか。そして呪術はわれわれがいま言うところの芸術と区別することはむつかしい。

 芸術と宗教は同じ母地から芽生えてきたのではないだろうか。宗教はわれわれの生存の不確かさ、つまり死んでなくなるであろうこと、病気などで生活が困難になるであろうこと、何事かをなすばあいに不成功に終わるかもしれないこと、などに対して、安心を与えてくれるようなものである。その一つとして石や大木を拝む行為があるが、それは歌や踊りに発展する。獲物や自然の力を描いたり彫ったりすることはすでに芸術である。身体に刺青をしたり、首飾り(ネックレース)や耳飾り(イヤリング)をするのは霊力を呼び寄せるためであるが、いろいろな模様の衣服を着ることも同じである。要するにおしゃれとは呪術であり、芸術の萌芽なのだ。

 遠い昔われわれ人間がこの世に存在し始めたときから、人間は自然の霊力と一体であると感じていたのではあるまいか。つまり人間とはそもそもそのような生き物ではあるまいか。他の動物から人間を分かつ根本はここにあるのではなかろうか。

 その後、文明が発達するにつれて、宗教は長い間に様々な修飾・変容を遂げて、政治的権力や生活習慣になっていった。また芸術のほうは、一方では彫琢と洗練の極みにおいて純粋芸術となり、もはや行くところまで行って、規範としての〈古典〉としてしか存在の余地はないようにも見える。が他方では、広がりを増し大衆芸術としていわば薄まっていき、享楽物となっていった。もちろん今後どのようになっていくのか知る由もない。
 

         
    

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冬の庭

 今年は柊(ひいらぎ)の当たり年だ。先月二十日位から白い花をいっぱい咲かせ、あたりに香ばしい匂いを放っている。
 この頃になると雑草はなくなり、落ち葉を取り除くと、殆どの部分、土があらわになって、すっきりしている。冷ややかな空気の下のこの簡素な庭がとても気持ちよい。
 庭で一番好きな季節はと問われれば、小生はためらいなく冬が好きと答える。


           09.12.5冬庭 002            ひひらぎの あまき香りに 鬼も酔ひ

  ちょうど今、ドウダンが真っ赤な葉を少しずつ落として地味な薄茶の繊細な毬藻のような枝細工になろうとしている。庭の中央には今まで目立たなかった万両と千両が赤や橙の実をつけている。ところどころには水仙の葉が勢いよく群生している。年内に白い花を咲かせるだろう。椿の蕾も日に日に膨らみを増している。

 蹲(つくばい)に見立てた石臼の水は冷たい空気の中で引き締まっている。ときとして吹く風に遠慮がちに応えている。庭の周辺ではよく伸びた南天が赤い実をいっぱいに付けて、ここだけはにぎにぎしい。おっと忘れそうだ、その手前の剪定を終えた二本の百日紅(サルスベリ)は完全に冬眠の体制だ

         09.12.5冬庭 005
松と槙金木犀も千年の翠を湛へ冬日寿ぐ
 
 
まつとまき きんもくせいも せんねんの みどりをたたへ ふゆひことほぐ

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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

戦前と戦後

 guinevereさんの仰る「戦前=悪みたいな考えが充満している・・」

 たしかに、戦後アメリカGHQとソ連共産党によって、日本は悪い国であった、非文明国の侵略国家であった、とう風潮がつくられましたね。残念ながら、多くの日本人がそのように洗脳されてしまいましたね。自分の国の過去は自分の過去であるのにね。なんと情けないことでしょう。自分の国のことをまるで他人事のように見る態度はじつに愛情のない態度ですね。

 ついでに、戦後、といっても占領中に、マッカーサーがアメリカ本国で報告した言葉を引用しておきます。
 「日本には絹産業以外には固有の産業はほとんどなく、綿も羊毛も石油も錫もゴムもない。その他じつに多くの原料が欠如している。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生することを彼らは恐れていた。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」

kontaさんの仰る「戦後のやりかたでうまくいっているから、日本人は態度を変えないでしょう・・」というのも尤もですねぇ。
 先日、歴史に詳しいある知人と話していたとき、小生が「どうして日本は憲法改正をしないのでしょう?」と訊いたんです。すると彼は答えて曰く「今の憲法(9条)をもっていると一番得をするからです。お金さえ出せば、血を流さずに済むのです。」
 なるほどと思いました。なかなか日本人もしたたかですね。恥も外聞もなく、悪女の如く他国の力を利用していますね。


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テーマ : これでいいのか日本 - ジャンル : 政治・経済

真珠湾攻撃

 NHKの番組「日米開戦・・・」の感想(前回)の続きだけど、69年前のあの日未明、鉢巻をして空母から出撃していった兵士達の気持ちはどんなんだったのだろう・・・「日本の同胞のために・・・」「賽は投げられた、もう後戻りはできない・・・」いろいろ想像して、胸がジーンとなりますね。
 そういえば映画『トラトラトラ』で、山本五十六は「とうとうアメリカという眠れる獅子を起してしまった・・」というようなセリフを吐くけどね。あれは映画のための嘘ですね、すでにアメリカは対日本戦争のための語学教育などをふくめあらゆる準備をしていたはずだよね。真珠湾攻攻撃はネズミ捕りにねずみが引っかかったようなものではないでしょうか。

 で、あの番組だけど、開戦にいたる海軍の組織のありかたについて、そのありかたが悪かったために開戦となってしまった、そして戦争の責任をだれもとれないようになっている、という趣旨であった。
 見ていて小生は、いろいろなことを考えさせられた。一つには個人が責任をとるには、まず個人というものが確立されていなければならない。われわれ日本人はその辺があいまいだ。だから責任などという問題が生じうるのか。まあ、このことはいずれゆっくり考えたいと思う。

 なぜ開戦となったか。開戦の原因は何か? この番組の製作者は日本海軍組織にあると言う。しかし、じっさいそんな簡単な話なら人生は楽を通り過ぎて退屈であろう。己一個の明日を予見できない人間が、人類の出現と時を同じくして成長を始めた歴史にわれわれの短小な知恵でもって何を言えるだろう。

 日本や中国の風土歴史、その地政学的位置、西欧歴史における植民地統治の時代、日本の物質的近代化の達成、英独仏露米らのアジア統治に関する駆け引き、日本の資源の欠乏と中国進出の不手際、チャーチルと蒋介石の謀略、天才ヒトラーの出現と誇大妄想、秀才胡適の巧みな外交力、さらには、もしあの日あのとき、ルーズベルトの奥さんがヒステリーを起していなかったら、そのメイドがもう少し美しくなかったら・・・。歴史の展開にはあまりに多くの微小な要因が複雑に入り組んでいて、人知を遥かに超えたものだ。それは天気予報の比ではない。

 小生は不器用にも「歴史の必然性」という言葉を使いたくなる。しかしそれは、過去を振り返ってみてそう思うに過ぎないのであって、無力な人間にとって一寸先は闇である。

 しかし一方、生物学的には、個人のエゴイズムがあるのと同様に、国家のエゴイズムは明らかであって、すでに日露戦争で日本が勝利したとき、二匹の雄犬が対峙するように、すでに日米戦争への空気の流れがあった。大局的に見て、英米仏蘭露とアジアをめぐっての駆け引きは、いずれ戦争になると誰もが予感するところであった。 


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NHK「日米開戦を語る 海軍は・・」

 この番組はこの夏に放映された元海軍400時間の証言なる番組のダイジェスト版であったが、これを見ていて、怒りと涙がこみ上げてきて、どうしようもなかった。山ほど感じたことがあって、いちいち整理することができない。

 しかし、とにかくこの番組を見ていて、戸・澤地・半藤各氏の発言を聞いていて、日本人は変わらないと感じた。彼らの指摘する海軍という組織の硬直性、大局を見ず己の部署のみがよければいいという感覚、多様な意見に耳を傾けない傲慢さなどは、今の日本のあり様そのものではないのか。性格は変えられないものである。

 過去の反省というものを小生が嫌うのは、過去を反省することが現在の自分から目をそらす隠れ蓑になるからだ。日本人は現在の内省が苦手である代わりに、過去の反省が好きだ。あの時ああしたのがいけなかったと言う。それは科学技術や日々の生活の工夫などには役に立つことであろうし、むしろ必須の態度ではある。しかし人間(民族や個人)の心については百害しかもたらさない。性格は変えられないものである。

 例えば、わが国は生きる根幹たる憲法を外国人に創ってもらって、内容はともかくそれはおかしいと感じつつも、放ったらかしにしてもう六十年以上経っているが、誰も自国の憲法は自国民でという声が表に出ない。また、自衛隊の問題では、自衛隊は誰が見ても立派な軍隊であるのに、軍隊ではないと誤魔化し続けている。外国から見ると、モーレツにけったいな国に見えるであろう。なんで、日本人はこんないい加減な状態を続けておれるのか、それこそこの番組で御三人の指摘する〈多様な意見に耳を傾けない硬直性〉のなせる技であろう。

 いつの日か時代が変わって、今の日本について人は言うであろう、何であの時代の日本人はあんな誤魔化しを平気で続けていたのだろう、と。そう〈反省〉して、やはりまた新しい硬直化に陥っていることであろう。

 ついでに言えば、日本人は欧米人のように、うんと悪いこともできないが、うんといいこともできない。もちろんいいこととは宗教的な意味の善である。それは己のうちにおける絶えざる自己欺瞞の追求だ。これはキリスト教の罪の概念であり、それにはどうしても絶対的な神が必要なのである。

 われわれは今、日本人にはもともと和の心がある、おおらかである、八百万の神々がいる、などと、安らかな寝言のようなことを言う。しかし、小生が思うに、それは平和時においてはいい、まあ仲間内では少々の喧嘩をしたぐらいでは、それで解決するがいい。しかし国際間では、厳しい生存競争の場面では、その言は愚にもつかぬおまじないにすぎない。
 われわれはもはや明治維新以来〈智慧の木の実〉を食べたのだ。どう考えてもそれは確実であって、わが国にも弁護士の数が増えつつある実態はどうしようもない。

 もちろん、小生も生粋の日本人であり、なぜか知らんが天皇への崇敬の思いは人一倍あるし、小生の座右の銘は宣長の「すべて神の道は善悪是非をこちたくさだせる様なる理屈はつゆばかりもなく、だだ豊かにおほらかにみやびたるものにて、歌のおもむきぞよくこれにかなへりける」である。

 だから、なんとかこの日本の国柄のいいところはそのままに、そして欧米のしっかりした根底(おそらくキリスト教精神の根底)を取り入れていくことはできないものか、と考える。まったく水と油のように混じりあうことができないような、二つの原理。難しいか。


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ロシアとバレー

kontaさんの疑問「どうしてロシアに優美なバレーが発達したのか?」
 どうしてでしょうね。小生もじつはそこが大いに疑問なんです。いつもロシアのバレーを観ると感じるのですが、あの動きの優美さ、八頭身の華奢でしなやかな体、白い肌の美しさ、バレリーナの項には惚れ惚れします。(この頃はバレーの入ってないオペラなんて、というフランス風の悪趣味が身についています)。
 ツァーと農奴のロシアの歴史のあの暗さ。現代でもペレストロイカ以後に露骨に顕れたロシア人の陋劣、そしてまたプーチンの独裁を必要としているロシアの現状。
以前感じたんですが、欧米に比べてロシアのオーケストラの音の無骨さ、土臭さは、(小生はこれを好みますが)ウオッカで酒焼けした初老のおっさんを彷彿とさせます。それに反して、バレーの優美さはどうでしょう。
 じつは今回も観ながらその矛盾を考えていました。なんであんな国に?!あの優美さは、生物学的な・・というか自然淘汰の結果なのだろうとかと想像しました。つまり、もともと北方特有のすらっとした体型への好みがあって、ロシア人の異常に激しい性欲がより女性を美しくし、また土臭いスラヴ人は非常に強く西洋の洗練に憧れ、その行き着くところ本場をしのぐまでとなった。つまりエルミタージュ美術館ですね。ロシア文学を読んでいるとそんな風にも感じます。・・・しかし謎です。
・・もっと深くロシアの歴史を知れば判ってくるかもしれませんね。
だれか教えて欲しいですねぇ、ロシアとバレーの関係。


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「エフゲニ・オネーギン」を観る

 レニングラード歌劇場によるチャイコフスキーのオペラ「エフゲニ・オネーギン」を観た。
 今回は、このオペラはなかなか纏まっている、無理のない筋の運びだと感じた。
 音楽はもちろんチャイコフスキーの香りぷんぷんだけど、感傷的でないのがいい。19世紀後半のオペラはすべて多かれ少なかれワグナーを意識していると思われる。どんなにワグナーに反抗しようとも、やはりその影響から逃れることはできない、と聴いていて思った。もっとも小生が勝手にそう感じるだけかもしれないが。タチアナ役のソプラノはなかなかよかった。
 この作品はもちろんロシア国民文学の祖プーシキンの同名の小説のオペラ化だが、この作品名の主人公オネーギンはいい加減な、というか親戚からの遺産で生きている、女たらしの高等遊民。この男にぞっこん惚れる田舎の小娘タチアナはオネーギンに適当にあしらわれ傷つけられる。しかし後に大貴族の奥方となった立派な!タチアナに今度は心奪われるオネーギン。彼はタチアナに接近するが、人妻の身であるから一緒になれないと彼女に拒否され、失意のうちに己を呪う。
 ドストエフスキーは、タチアナこそロシア的魂の勝利であり真の主人公で、作品名は「タチアナ」であるべきだ、といったことは有名。もっともドストエフスキーはオネーギンの百倍くらいいい加減な、そしてもっと悪質な男であったと想像する。ただ一つの違いはドストエフスキーは物書きの天才であった、という点だ。
 チャイコフスキーの音楽の憂鬱は、やっぱりロシアの憂鬱じゃないかなぁ。なんというかスラヴ人が西洋人の仮面をかぶったところで、やっぱり西洋人には成りきれない苛立ち、というよりも、そんな仮面をかぶろうとした己の卑しさにたいする苛立ちと諦念かな。ペテルブルグの知識人は顔立ちは西洋人だが魂はスラヴである高等遊民なのだ・・・。
 それで思い出すが、わが国で高等遊民を描いた憂鬱人といえば漱石がいる。わが国の明治時代にも、19世紀のロシアに似た一面があったのだろうか。しかし、漱石の青春小説に比べるとロシアはなんと巨大なものを背負っていることかと感じる。あまりに重すぎてあまりに悲しすぎて彼らは押しつぶされている。
 なにせ、日本はずっと古くから地に足がついた固有の文化の伝統があったし、明治時代には何といっても「坂の上の雲」という明るい面があったからなぁ。


    

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紅葉の候

人気ブログランキングへ  一昨日東山植物園に行きました。冷たく澄んだ空気の中、紅葉がとても綺麗で、深紅など口では表せないほど色々な色が、見事に混在していて、夢の中の気分でした。

 『万葉集』にも紅葉を詠んだ歌が沢山ありますが、『万葉集』では〈もみぢ〉を紅葉と書かずに黄葉と書きますね。(まだかな文字がないですから、すべて漢字で書かれています) 例えば

(2202) 黄葉為 時尓成良之 月人 楓枝乃 色付見者 (もみぢする 時になるらし 月ひとの かつらの枝の 色つく見れば)
月に桂の木があって、それが色づいてきて、月の光の色も変わってきた。そうか紅葉の季節になってきたのだ、ってことですね。中国王朝風の理屈の歌ですね。

(2297)黄葉之 過不勝児乎 人妻跡 見乍哉将有 恋敷物乎 (もみぢばの過ぎかてぬ児を人妻と見つつやあらむ恋しきものを)
直ぐ散ってしまう紅葉のように見過ごしてしまえない美しいあの人を人妻として指をくわえて見てのみいられようか、こんなに恋しい・・・。万葉らしいですね。

(2209)秋萩の 下葉の黄葉 花に継ぎ 時過ぎ行かば 後恋ひむかも   ・・・・花が散ってそれに引き続いて下葉が色づきはじめる、こうして時が過ぎて行くと後にこの瞬間を恋しく思うだろう・・・

この歌からas time goes byという文句を連想してしまいます。ご存知、映画『カサブランカ』の主題曲ですね。あの音楽を奏でるピアニストのサムが途中で間奏曲ふうにチラッと弾くthe very thought of youって曲ご存知ですか。小生はあの曲を思い出すだけでしびれます。CDあれば手に入れたいと思っているのですが、バラードふうのいやにゆっくりした歌ばかりで、映画で奏でられるアップテンポのピアノバージョンがないのです。だれか知ってたらおしえて。

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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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