スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

モーツァルトファン

 19世紀初頭にはモーツァルトファンはずいぶん居たであろうと想像する。音楽家以外で有名人としては、まず三人が頭に浮かぶ。
 ホフマン、スタンダール、キルケゴールが、それぞれの天才の独断でもって、モーツァルトへの偏愛を述べている。

 E.T.Aホフマンは、人も知る怪奇小説で有名だが、法律家であり、作曲家でもあった。自分の名前を一部アマデウスに変えてしまうほどのモーツァルトファンであった。またベートーヴェンの交響曲の楽曲分析でも有名であり、彼の音楽批評は後にドイツロマン派の旗手たるシューマンを熱狂させた。

 このロマン主義者ホフマンは、ドンジョヴァンニの圧倒的な力の前のドンナ・アンナの運命に惹かれる。彼女にとってドンジョヴァンニは最高のものの贈り手であり、かつ父親殺しとして最大の憎しみの相手でもある。このような女性の実存的危機こそ彼にとって深い関心の対象なのだ。 

 『フィガロ』を好んだスタンダールは、いち早く「モーツァルトは甘美な憂愁の天才」と規定し、美しい音楽を聴くと悲しくなると率直に語る。彼は彼の傑作『パルムの僧院』の主人公の極端に素直なというか無垢な生き方に繋がるようなモーツァルト像をもっていた。
 彼は自分の墓石に愛した対象としてモーツァルトの名を刻まずにはおれなかった。
 
 キルケゴールのモーツァルト論は『ドンジョヴァンニ論』に絞られるが、その絞り方こそ彼の音楽についての一切を語る。のみならずまた彼の哲学に裏側から光を照らす。
 つまり、ドンジョヴァンニは感性的天才である。そして感性はキリスト教において排除される(否定される)ということによって初めて措定される。この感性を表すには音楽がもっとも相応しく、ドンジョヴァンニの決して立ち止まらない泡立つ力は、ついに音楽に解消してしまうと言って、例えば「タカログの歌」を絶賛する。

 もちろんこうなると、もうファンの域を超えて、天才の独創的な生き方と結びついて異様でさえある。


 
 
 人気ブログランキングへ

 ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

     ありがとう

 
スポンサーサイト

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

今日は1月27日

この日は小生にとって特別な日だ。

まず母の命日である。ふだんよく母のことは頭に浮かんでくるが、晩年の詳細はできるだけ思い起こさないようにしている。あまりにもつらいから。母の残した手帳に書いてあった歌一つ。

栗の皮落ち葉を焼きし焼却炉小雪舞ふ畑に白白と佇つ

小生の生家の道一つ隔てた畑があって、昔はエンドウ、ナス、サトイモなどがよく採れたものである。子供の頃はよくここで遊んだ。いまでも柿・栗・柚子・檸檬の木があって季節季節にはよく実をつける。
この畑の中ほどに銀色の焼却炉があった。晩年母は一人でこの家に住んでいた。

この歌の姿。焼却炉はたくさんの木の葉を焼いてきた。そしてすべての思い出も焼いてしまった。冬、小雪舞う中にこの焼却炉が一つぽつんと佇んでいる。この冷たいしんとした景色の中に一人でいること。それだけだ。それは人間の本然の姿ではないか。小生は、後になって、母の心をふっと通り過ぎた〈純粋な孤独〉とでもいうようなもの、人間が自然の中に居ることの赤裸々な感覚を覚えた。こんな寂しい風景を見たことがない。

それから源実朝の命日。

日本民族の、われわれの心の無意識の深いところで今なおその残響が残っている暗い事件、すなわち源平の合戦。続く鎌倉幕府開幕は、源家・北条家を中心とする権謀術数・百鬼夜行の陰惨極まりない世であった。不幸にして三代将軍になる血筋に生まれた実朝は政治家向きとは反対の魂であった。
実朝は少年時代より、若くして殺されることを予感して生きたという。あまりに素直で純粋な魂、時代に対してあまりにも透徹した意識、このような少年とこのような陰惨な現実との絶妙な組み合わせから生まれたのが、あの『金塊和歌集』だ。(塊は木偏だけど出てこない)

そんなことを念頭において、例えばこんな和歌を読むと、その余韻が胸をえぐる。

くれなゐのちしほのまふり山の端に日の入るときの空にぞありける



それからこの日はまたモーツァルトの誕生日だ。

モーツァルトについてどう感じるか。人様々であろう。宇宙一の超天才とか、神の使者とかいう観点から離れて、今日この日は、もっとリアリスティックに感じたい。すなわち、非常に素直な、そして努力家である作曲家。

この世に生きるということ。怒りでもなく悲しみでもなく笑いでもなく、しかもそれらの全てであるような名状しがたい感情に襲われた時、ふと例えば『フィガロの結婚』の歌がどこからともなく沸いてくる。そして、自分がこの世に生きていることを確認するというか肯定する。上手く言えんな。・・・今K.488が頭に浮かんでいる。

それにしても、『フィガロ』の台本作者のボーマルシェというのは不思議な傑物だ。文学者?軍人?スパイ?大黒幕?革命気分で沸き立つパリを中心に神出鬼没、アメリカ独立に尽力したことでも有名だ。こんな男と天衣無縫ともいうべきあのモーツァルトとの組み合わせが、これまた何とも面白い。おそらくモーツァルトにとって、どんな世俗の騒ぎでも音楽にならざるはなし、といったところか。

モーツァルトの周囲は、彼をどう見ていたであろうか。口うるさい奥さんにがんがん言われながら、家計のために髪を振り乱して作曲に専念している、素朴で冗談好きなお人好し。
そして死んでも自分の墓はない。その他大勢の共同墓地に捨てられた。



888 
    人気ブログランキングへ
    ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村 

テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

マインドコントロールの効用 9

 われわれはマインドコントロールの下で生きているということの一つは、われわれは言葉の世界に生きているということである。しかしより正確には観念の世界に生きていると言うべきであろう。というのは、言葉はある観念への方向を指し示す道標のようなものにすぎないから。あの山は「あの山」という言葉と厳密に一対一に結びついているわけではない。「あの山」という語は、われわれが見るあるいは思うあの山という観念に向かっての矢印なのだ。そうして大事なことは、われわれ個人個人はまず観念の世界に住んでいるということだ。私が住んでいるところは私の心の中なのである。私とは心の中のもやもやした動きというか力なのだ。そうして言葉(文字や音響)が私に方向を与え、この豊富な世界へ導きいれてくれる。

 会話においては、私は私の文脈の流れの中にまず居る。他人の言葉を聞くたびに、つまり道標を与えられるたびに、私は観念の文脈(すなわち意味)を修正する。文脈の強い流れの中に居るので、同音異義語が出てきても適切な方を選んで了解しているし、多少聞き取りにくい言葉でも聞こえてくるし、方言や間違った発音でなされた言葉でも、われわれは意味において捉えるので、自然に修正している。
 例えば、いま机や椅子など家具の話をしているときに、相手が椅子というところを誤っていずと発音してしまっても、われわれはそれをいすと修正して聞いていて問題がない。誰も伊豆のことなど考えはしない。考えても一瞬のうちに修正して何ら問題がない。つまり、われわれは言葉から意味に向かうのではなく、意味(文脈の流れ)から言葉(道標)に向かうのだ。 読書や会話において、われわれは言葉(文字や音響)に向かってたえず疑義の問い合わせを発信している。言葉はいつも正しい応答をしてくれるとは限らない。要するに、このことで明らかになるのは、われわれが住んでいる世界(観念)とこの世界(文字とか音響とかの物質世界)とは異なるということ、そしてその関係やいかにということである。


    39
    人気ブログランキングへ 39
    にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村 39

テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

トゥーランドットを観る

METの昨秋のオペラ公演「トゥーランドット」の映画版を観た。一番前の席しかなく、斜めに見上げつづけ、首と目が疲れた。
しかし、なかなか迫力があった。生の声を聴けないし舞台の全体が観れないが、ポイントの部分がアップで観れるから、個々の演技の詳細はよく判る。相撲をテレビで見るのと同じ。

プッチーニは、ご存知イタリア人であるが、外国ものとして「蝶蝶夫人(日本)」「西部の娘(アメリカ)」そしてこれ「トゥーランドット(中国)」が有名ですね。

「蝶蝶夫人」の主人公蝶々さんは、可憐な日本の少女で、家は落ちぶれたとはいえ武士の娘、愛するも生きるも死すも一途な、〈あの日本〉の純真でしかも凛とした美しき女子。アメリカ兵ピンカートンと愛を交わすが、彼に裏切られるも、彼と子供の幸福を願って潔く死ぬ。音楽も甘く憧れに満ちている。

たいする、北京の皇帝の娘トゥーランドット姫は氷のように冷たい心の持ち主で、憎しみと復讐に生き、今まで自分に求婚する多数の男性の命を奪ってきた。そして今回、ペルシャ青年の死をも恐れぬ盲目的な愛によって心を開く、めでたしめでたしの物語。音楽は異様で活劇風で魅力的だ。
最後の二重唱は美しすぎる。心の中で「おっかさん」と叫んだほどだ。

プッチーニは特別意図したわけでもないだろうが、偶然とはいえ、二十世紀初頭の日本と中国とに関しこのような印象をもっていたのだろう。

中国姫の復讐と閉鎖性は、現在の共産党によって組織化され、国家のあり方として完成した。

日本の一途で清純な女子は、欧米に利用され一九四五年に滅ぼされ、そして、現在その亡霊は変質し、友愛精神などと叫びながら、その辺りをさまよっている。

そうそう、この映画のよかったのは、幕間の舞台裏が映されていることだった、裏方が大急ぎで舞台を作り変えているその臨場感に変に感動した。また歌い手や指揮者のインタヴューも面白かった。彼らの人となりが出ていた。インタヴュアーの女性に漲っている積極性が、METのひいてはアメリカという国の自信を感じさせた。


  
  人気ブログランキングへ
  ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
    393939

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

冬のあぢはひ

素人短歌五首啓上仕候

寒さとは何を言ふのか寒さとは 
   身を引きしむるほどよき刺激

より高く昇ればさらに見えてくる
   町の成り立ち人のおもはく    

大寒とこよみは告げどわがこころ
   燃えるものあり春日を生きむ              

梅の枝赤みを増せばほのぼのと
   あたりの空気動きてみゆる

水仙のあまたの顔を寄せ合ひて
   何を話せるたれの噂か


ありがとう

  

  ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村 

  人気ブログランキングへ

 

テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

天皇とは

一人の生身の人間が、超越的な観念の対象とされる不合理は、もともと世界中にあった。今でも王を戴く国は、程度の差こそあれ、そうである。しかし、日本の天皇は男系が百二十五代続いてきたことが際立った特徴だ。

一般参賀で皇居に集まっている人々を見ると、さながら女王蟻を巣の中心に置き、働き蟻が延々とした道のりを整然と行き来している様を連想する。日本という国は、蟻や蜂のいわば本能的社会と似ているような気がする。ここではすべての個体が平等ではない、少なくとも一個体は例外である。

ところで西欧に人間は例外なくみな平等だという考えが生じた。生まれながらの階級の撤廃であり、もちろん現実には個体差があってその完全な実行は難しいにしても、頭の中では王侯貴族も平民も金貸し業者も〈同じ人間〉であるという思想が芽生えた。この〈同じ人間〉とはいったいどういう意味であるか、その定義はじつに困難だ。

小生はこの平等思想の発生はやはりキリスト教においてであって、そしてその発端の刺激を与えたのは、あの福音書のイエスの教えであったと思う。
一つだけ例をだせば、例えば百匹の羊のうち一匹が迷ってどこかに行ってしまった。羊飼いは九十九匹を抛っておいて、迷った一匹を探しに行った。つまり、九十九匹は問題にならないのであって、迷った一匹のみが問題なのだ。つまり、神は迷った一人のみを気にかけるのである。そして、迷った一人とは私であり、あなたであり、彼であり、彼女であり、・・・すべての個人なのである。この徹底した、根源的な救済思想、個人個人が神に救われるという点において、人はみな平等であるが来たのではなかろうか。

そうして人々がこの思想の後をぞろぞろと信者となって歩いていくうちに、その集団の中にこっそりと悪魔が紛れ込んだ。この悪魔は外見は信者そっくりなので、いつ紛れ込んだか誰も分からない。そしてその影響力というか感染力はとても強く、誰が最初の悪魔であるかも判らない。

悪魔とはじつは復讐の鬼であって、叫ぶ「人は平等であるはずだ。したがって強い奴を倒せ。美しい奴を倒せ。金持ちを倒せ」と。いつしか悪魔に賛同する信者が圧倒的多数になった。人々は万人平等と口で唱え、その意味は上に出る者を引き摺り下ろせということになった。ついに平等思想が平均化という神を拝む宗教ー社会主義や共産主義という宗教が大きな力をもつようになった。不幸にして学校では学業や運動の優勝者はもみ消されるような〈いびつな〉影響を蒙った地域もでてきた。

 しかし、さすがに人類は進歩して、そのような平等思想は悪魔に誘導された悪平等だとして、見直されるようになってきた。
だが、長年の思考習慣は完全には消し去られることはない。しかも平等思想の根底に宿っているあの根源的な炎は消えることがない。だから、その定義が困難な〈人はみな平等〉が生き続けている頭脳の人々から見ると、(われわれももはやそうかもしれない)どうしても日本の天皇は理性的には理解できない。

いまふとローマ法王のことが頭に浮かんだ。ちょっと天皇と似ているような気がするが、全然違う。ローマ法王は神を守る職業集団のトップである。大学教授と同じように力と選挙で選ばれる。天皇は職業ではなし、血によって決定されている。

世界史を大局的に見て、ハンチントンではないが、世界を幾つかの文明圏に分けることができるだろう。日本は日本一国でとても特殊な文明圏を成している。

日本文明に比較して、西欧文明は、理性的にやはり一段進歩しているように感じる。それは個人個人の心にある超越的観念が集団の秩序を維持しているように見えるからである。それは我彼のうんざりするほどの長期間に及ぶ軋轢から生じた、いわば普遍的(と小生には思われる)な方式であるように見える。もちろん、リスクも大きく、悪魔の反撃をうけたり、暴力を用いたりする必要が生じる。しかし、なんとかそれらを乗り越え、少しずつ進歩していく可能性を秘めている。
それに引き換え、日本民族の秩序維持能力は、より優れている。それはいわば生物学的・本能的であり、天皇という存在をいわばスケープゴートにして、ここに超越的価値をおき、それで秩序を守ってきた。この構成員全員による無意識裡の共同謀議が千五百年以上続いてきたのである。

日本人はもともとの性格が、他の文明国の人人より、意識的に教えられなくても、秩序を守る方向に働きやすい、というのも、民族の秩序形成方法が、原始的な生物学的に深いところから来ているからである。教えられなくても、電車に乗るとき自然に列を並び、街にゴミを捨てず、契約を守る傾向が強いのだ。

しかし日本民族のこの生物的本能的な秩序維持方式は、今後世界の軋轢の中で、上手く機能していくだろうか。
明治まではよかった。いや最近まではよかった。しかし、ものや人の出入りが頻繁になるにつれ、価値や生き方の異なる諸文明がさらに激しくぶつかりあうだろう。日本民族はこの修羅場を乗り切っていかなくてはならない。
さてさてこれからどんな風になっていくか。




人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

           ありがとう

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

大和魂とは 4

大和魂という言葉が、われわれの多くに戦争のイメージと結び付けられるのは、やはり戦争中の軍部やマスコミの喧伝のゆえであるのでしょう。
 
 ここでまた基本事項を確認します。

今は平和時ですが、戦争時であれば、勝たなければならないというムードが国民の間で盛り上がるでしょうし、そうでなければいけません。政府もマスコミも国民も、やる気がなければ負けますから、初めからしないほうがいいですね。とにかくやると決まったからには、全員一丸(挙国一致)となるよう政府やマスコミは国民を一時的に洗脳しても、ムードを盛り上げねばなりませんね。やりたくない人はやらなくていい、なんて優しいことを言っている場合じゃないですからね。
 しかし、この雰囲気作りは、べつに戦争時のみならず、いま平和時でも、われわれが常に職場で経験していることではないでしょうか。戦闘状態にある組織は全体主義のほうが上手く行く。

 ついでに横道に逸れますが、もし自己の属している組織が不正を犯していると知ったとき、多少のことなら目をつぶるでしょうが、それが多くの人に迷惑をかけていると知るならば、例えば大塩平八郎のような人が現れて、告発するでしょう。それはどこの国でもみられうるでしょう。しかし、ただ己一個の問題としてどこまでもこれは正しいのだろうかと問い続けていく姿勢はキリスト者のものです。もちろん日本に限らず偉い仏教僧でもそういう人は居たでしょうが、罪(自己欺瞞)という強力な武器を梃子として自己自身を弁証法的に追及するのはキリスト教本来の姿勢であると小生は想像するのです。
 
 話を大和魂にもどしますと、資源の乏しい日本は対米戦争において、どうしても短期決戦で決めていきたかった。国民一丸になって大国米国に立ち向かっていくには、有効な標語を必要とする。
 いまバレーボールの試合で、応援団が、激しく、「頑張れニッポン、バン・バン・バン」とやっていますね。大人しい小生は見ていて恥ずかしいような気持ちになるのですが、まあ選手を鼓舞するには、標語やリズムが効果的なんでしょうね。
 「鬼畜米英」「神国日本」「撃ちてしやまむ」「欲しがりません勝つまでは」等。伝統ある祖国を守るためにわが身を挺するという意味においてはやはり「大和魂」が相応しい感じがしますね。戦争当時のマスコミ等の残響がわれわれの大和魂のイメージにまだ残っているのでしょう。そうして、そういう言葉の広がりというか概念は、また世が変われば変わっていくのだろうと思いますがね。

    *

 倒幕のエネルギーとなった大和魂とまことの道の源泉に遡ろうとする大和魂とが一つになって、明治期の日本の国際的独立のシンボルとしての国家神道の裡に棲みついたのではないでしょうか。

 その後は、陛下自身どのようにお感じになっておられるか知る由もないが、われわれ国民は、戦時においても平時においても、大和魂を神道に、そしてその祭主である天皇にその源泉をもつ、と感じて生きる国民となった。そして結局そういった宗教性の中に道徳観念をも取り込んで、ついに真善美の究極の観念としての天皇およびそれを守るべき力を指す言葉となった。

 そういった物語を長い時間をかけて創り上げてきた日本人。この物語の非論理性こそ、日本人の生の根源である。つまり天皇、生身の人間が一個の観念であるとは、それこそ絶対矛盾的自己同一。この矛盾を平然と生きている日本という国の面白さ。しかし、こういった矛盾は厳密には日本に特有のものではない。キリスト教においても、イエスは神であり人である。三位一体など理屈で考えていても永遠に解らないものだ。民族の夢の根源は理性を超えている。

 その点、ユダヤ教とイスラム教は論理的にとても明晰だ。唯一の超越的な神がある。そしてモーゼもイエスもモハメッドもすべての人間と同じく人間であるに過ぎない。
 
 そして、今ふと思いついたが、天皇の矛盾的存在は、皇太子のあり方をめぐって、現在も大きな問題を生み出している。
 つまり、天皇は、人間として!どうあっても人格者であらねばならないという意見。

そして一方、天皇のこの世的な存在根拠は万世一系にあり、他国の王様や大統領と違い、人格を云々するのはお門違いだとする意見。

小生は、どちらも正しいと思う。北畠親房は天皇が誤ったことをすれば、お諌めすればよいといった。そうだけれども、大正天皇が大好きな小生としては、変わった人格の人でも、それはそれなりに好いところが発揮できればいいとも考える。だから皇太子は暖かく見守られなければならないと思う。これ自己同一的絶対矛盾(笑)


888



人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

大和魂とは 3

 ついでに初期には大和魂という言葉がどのように使われているか、ちょっと調べてみました。 
  
 小生も『源氏物語』を読んでいたとき、大和魂という言葉が出てきて、アレッと思ったことを思い出します。 
 「乙女」巻で、源氏が息子の夕霧の元服をさせ、学問の必要性を述べた部分です。
 「才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」という一文です。
 これは才(ざえ)というのは学問。つまり知識・理論。これに対して大和魂はそれを生かす手腕とでも言いましょうか。

 『今昔物語』で、善澄という学問のある人の話で、この人の家に強盗団がやってきた。善澄は縁の下でじっと息をひそめていた。強盗団が物を奪って家を出て行ったとき、彼は腹立ち紛れに、「お前らの顔は見た。検非違使に訴えてやる」と、怒鳴った。すると強盗団はで「見たな!」ってことで引返してきた。彼は大慌てでまた縁の下に隠れようとするが、頭を打ったなどして逃げ遅れ、強盗団に捕まって殺されてしまう。

「善澄の才はめでたかりけれども、つゆ和魂(やまとだましひ)なかりける者にて、この心幼き事を云て死ぬる也とぞ、聞く人に云ひ謗られける云々」
つまり、学才はあるが思慮分別がないということですね。

『大鏡』時平の話。もちろん菅原道真が主人公ですが、時平のことを、あさましき悪事を行ひたまへりし罪により、この大臣の子孫はいなくなった。しかし、やまとだましひなどは優れていた、とあります。道真が才ある人であったに対して、悪事をした時平のほうが、上手に政治を行ったということです。

『大鏡』道隆の話。筑紫に中国の賊が攻めてきた。大宰府の次官隆家は軍事についてはちんぷんかんぷんであったが、周辺の軍人達をすばやく召集し、大宰府内の文官まで巧みに組織して、見事賊を打ち破った。この隆家は大和心かしこくおはする人であったという。
つまり、急場を上手にしのぐ、融通が利くなどということですね。

 だいたいのところ、対比的に言うと、才が知識、理論、決まった方策。対して、大和魂は事に当たってケースバイケースで処理しうる能力のようですね。

『源氏物語』においては、紫式部はよく物事を対比的にとらえていますね。
例えば「絵合」巻において、しみじみとした古いものの味わいvs華美な新しい発展。業平の反出世的みやびvs天上人への志向の賛美。要するに〈あはれ〉vs〈をかし〉。これはそのまま、物語が展開していくなかで、歳とともに離反していく光源氏vs頭の中将の性格対比論になって表れているし、あの春秋優劣論は有名ですね。しかし、紫式部は、どちらかを排撃することはなく、それぞれがそれぞれにおいてよい、それぞれが必要なのだ、という。
       *

 結論として、このころの大和魂は、事物を処理するにおける柔軟性の意と考えられていた。

 そして、そのずーっと後、宣長は、大和魂を物に感動する心の動きとした。これは彼のキーワード〈もののあはれ〉と言いかえられる。 ここに彼の『源氏物語』の影響大なるを想像します。
宣長は紫式部の〈あはれ〉をさらに敷衍して、情緒的なもの、感情の動きとしてとらえ、さらに式部の対比的用法で、概念の鮮明化を図ったのではなからうか。すなわち大和心vs漢心(からごころ)という図式です。


39 39 39



人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

大和魂とは 2

 小生は、何の疑問もなく、「大和心」と「大和魂」と同義語として考えていましたし、今でもそう考えています。しかし、両者のイメージは少し違う。大抵の人もそうでしょう。それで、歴史に無関心な家人に、それらの言葉から受けるイメージを尋ねたら、後者は戦争と結びつくイメージだと語った。かく言う小生も、なんとなく「やまとごころ」というと〈たをやめぶり〉、「やまとだましひ」というと〈ますらをぶり〉って感じがする。まあ、大体がそのように使用されているんでしょう。それはそれとして・・・、

 唐突ですが、基本事項の確認をしておきます。
人間とは二足歩行をし、食べて寝てうんこして、という生き物か? ノーである。
人間とは観念を生きるものであり、理想をもたずにおれない生き物である。
そしてまた、
国家とは国境で囲まれた単なる土地であるか? ノーである。
われわれが国を守るというとき、それは端的に文化を守るという意味である。
日本の文化の最たるものは天皇である。

 このことは、共産主義者以外の日本人ならほぼ理解できると信じる。

 スカイラインV35さんのご指摘、日本人の戦争時における心情を表すものとしての大和魂とは、吉田松陰の

 かくなれば かくなるものとしりながら やむにやまれぬ 大和魂 

であるとは、同感の至りです。
 
 宣長の大和心がたをやめぶりとすると、これはますらをぶりでしょうかね。根っこは同じであろうし、相補うことによって、より感情の動きということが強調されますが、またずいぶんと違う方向をむいていますね。

 それにしても吉田松陰がどうして大和魂という言葉を使ったのか、と考えるとやはり水戸学ですね。いまの小生の知識では分かりませんが、吉田松陰→水戸学→南朝正統論→北畠親房と連想されます。親房は、主著において〈やまと〉なる国柄を詳述し、皇国の何たるかを説いてやまない。・・・ 想像するに、南北朝の戦いのときに初めて、天皇というものの存在理由およびその本質がもっとも先鋭に問はれたのではなかったか。

 で、水戸学は、ついに尊王倒幕のエネルギーとなって戊辰戦争になだれ込んでいく、さらに想像をたくましくすれば、長州の明治天皇擁立で南朝復活を果たした。

〈やまと〉が現実の行動に迫られたとき大和魂になったのでしょうか?
それが水戸で朱子学の影響を強く受けて動的になったのでしょうか?
 





人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

888(パチパチパチ)


 
 

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

大和魂とは?

 大和心とは何って訊かれたら、わが国の歴史に関心のある人なら、まず宣長の

 敷島のやまと心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

という歌が浮かんでくるでしょう。小生もそうです。つまり、やまと心とは、桜を見て美しいと思う心だ、ということです。むりに色々な解釈を施すこともできましょうが、素直にこの歌の姿そのものを感じれば、花を見てああ美しいという感動そのものではないでしょうか。

 以前、靖国神社の遊就館に入ったら、他のいくつかの歌に混じって、しかし直ぐこの歌が目に飛び込んできました。そして何となく違和感を覚えた。そして、この感じは小生が近代史に暗いからであろうか、とも考えました。そして、その感じはそのまま小生の心の内に沈んでしまいましたが、大東亜戦争の話を読んだり聞いたりするときに、いつも浮かんでくるのです。

 戦争中、軍司令部は大和魂は敵の物質主義より高級だとかいうような、まったく非精神的な精神主義を振りかざし、兵士を鼓舞した。とくに、ミッドウェー海戦の敗北以後は、日本軍はだんだんと現実を直視した戦略を立てることよりも、かすかな希望が熱望となり、それがついに幻想を生むようになった。

 ガダルカナルの戦いにしろ、インパール作戦にしろ、敵兵は日本兵の銃剣をもって機関銃の前に身を晒す白兵攻撃に驚嘆している。どう見ても、日本兵は戦ってるのではなく死に急いでいる! 武士道とは自殺することなの?と思ったのではなかろうか。
 インパール作戦を固持し続けた、悪名高い牟田口中将は、幹部を集め訓示した、兵器や食料がなくても、腕や脚がなくても、戦え、日本男児には大和魂がある。日本は神の国であるではないかと。

 なぜ戦争になると、大和魂がこういう事になるのか、ずっと疑問だった。

 敷島、大和、朝日、山桜、といえば、誰もが特攻隊や戦艦の名称を連想する。どうしてか、日本人は救国の最終根拠を大和魂とする民族だとしか言いようがない。桜を見て美しい、というのと、敵陣に竹やりや爆弾を抱えて突っ込んでいくのと、どこでどう結びつくのか。
 
 三島由紀夫が、たぶん『文化防衛論』だったと思うが、日本文化とは茶道、華道、柔道、などのみならず、戦争の仕方まで含む日本人の行動様式のすべてが日本文化だというようなことを書いていたと記憶する。死に行く兵士の鉢巻に七生報国と書くのも、特攻隊に敷島隊とつけるのも、出撃前に皇居を遥拝したり、和歌を残すのも、日本文化には違いない。

 しかし一方、戦争は冷徹な理論であり、分析と行動であり、勝たねばならないものであり、たとえ負けても国家滅亡に陥る前に負けねばならないものである。

 ヒトラーだったか、ゲッペルスだったか、誰か忘れたが、芸術も政治であるという言葉に対して、政治も芸術だ、と言った。
 なんと不穏当な言葉であろう。なんと魂をとろかすような危険なロマン主義的言辞であろう。
 滅亡への憧れとしか言いようがない。

 戦後の日本は、〈あの日本〉であろうか。
 いったい国家とは何か。なんでもかんでも永く生き延びればいいのか。
 そして・・・美しいものの滅亡ほど陶酔させるものがあろうか。

 小生はもう分からない。


  

  人気ブログランキングへ

 ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


 また応援のほどよろしく。

テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

正月

年の変わり目、小雪が舞う中、満月の光がじつに幻想的でしたね。
元日の朝の雪景色もめずらしかったですね。

あけぼのや 国旗はためく 雪のうへ

餅を焼いて、ご馳走を食べて、新聞見て、部屋をちょっときれいにして(いまごろ)、
親戚が来て従兄弟たちとトランプして、年老いた叔母達が食べ過ぎないように注意して、トイレに立つときは支えてやり・・・
何十年と続いている新年の定期行事は終わり、そして火が消える。

人生はかくも短しと思ふ今宵一月三日



今年もよろしく

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。