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時事川柳

「時事川柳十連発」・・・英訳付き

○ ほんたうに 分かってゐるの おぼっちゃん
Can you really understand , you a greenhorn ?

○ 豆鉄砲 くらって平気 不思議な目

What strong and mysterious eyeballs he has !

○ 八方は 美人にならぬ 塞がるよ

Everybody’s friend , everybody’s enemy.

○ 友愛は 怒り引き出す 手立てかな

The empty friendship will only provoke the anger of friends.

○ 国民が 選んだのよ あの人を

It is we the Japanese people that have chosen him.

○ 日本人 誇りをもって 生きたいが

I have hoped and hoped for long years to be proud of my country.

○ 五月晴れ 鳩が飛び交ひ 平和さう

Fluttering of the doves on a clear day seems very peaceful .

○ 憲法も ディズニーランドも アメリカ製

Thanks to USA , we can have the earthly paradaise.

○ 手当くれ 道路もタダだ いい国だ

I love this country because of the child benefit and free of expressway.

○ ボケてても 楽しみたいよ いつまでも

Anyway it’s the best to live long merrily like a dog !



 ヘンテコな英語でごめん(ぺこり)・・・どなたか直してください



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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

万葉巻19

この巻の始まりは、

4139 春の園 紅にほふ 桃の花
     下照る道に 出で立つ娘子
 
 あの正倉院にある樹下美人図を思い出させる、じつにほのぼのとした明るい情景の歌である。あるいはルノワールの絵を連想する人もいるかもしれない。ここには暖色の幸福が漲っている。

 そして終わりは、

4292 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり
     心悲しも ひとりし思へば

 ああなんという憂鬱であろう。空はたしかに晴れてはいるが、しかしその青のなんと閉ざされた空間であることか。

 大伴家持という人の近代的憂鬱。藤原勢力に敗北していく大伴一族。抵抗するすべもない嘆き節。政治的敗北にともなう詩の衰退。

 思い返せば、『万葉集』は、巻一の巻頭を飾る雄略天皇の実にすがすがしい、率直、力、雅、神話的な源泉から溢れる詩情を持って始まり、巻二十の大尾を飾る家持の沈鬱な歌(あらたしき年の初めの初春の・・・)をもって終わる、一つの壮大な物語ではないか。

 そしてこんなことを想像する。
 いつの日か、いまわれわれが「インカ文明展」とか「古代ローマ展」を観るように、後世の人々は「日本展」を観るであろう。

「日本展―神々の国」。入ってすぐには、日本文化の最大特徴としての天皇の説明が書かれ、続いて歴代天皇の御製と事績が、明治天皇の御真影、大正天皇、昭和天皇、そして皇族の御写真が飾られ、滅亡の機縁となった大東亜戦争関係の写真や遺品が並べられ、戦後の猛スピードの変化の写真が貼られ、ガラスケースには、縄文土器や信楽焼から清水焼、輪島塗などの伝統工芸品、『古事記』『万葉集』『源氏物語』から戦国時代の武人や文人の書、浮世絵、昭和二十年の特攻兵士の手記、そして最後に美智子皇太后の和歌集が飾られている。

 そして、映像コーナーでは、能・歌舞伎などの伝統芸能のさわりが上映されており、アジア人が白人に勝った奇跡「日露戦争」、特攻隊の出撃風景、日本の田園風景、神社仏閣、桜や紅葉の名所が、映し出されている。
また、日本庭園を模した茶の湯コーナーで口を潤すこともできる。

 そこで萩焼の茶わんから茶をすすりながら、物珍しいものを観た満足感を顔に表しながら、A氏はつれあいに言うであろう、(もちろん英語で)「滅んだのは残念だけど、それでも島国だったから、あんなに長く古代的な文明が続いていたんだろうなぁ。変質した漢字文化とは言え、日本人はほんとうに言葉遊び好きで平和な民族だったんだな・・・そして近代日本は不思議な文明国だったんだ。」そして退屈そうに付け加える、「まあ、よく判らん点もあるが、なかなか優れていたところもあるんじゃない」と。
 そして出口の売店コーナーで富士山と桜の絵ハガキの二、三葉を買って、外に出る。明るい日差しが照りつけ、木々の緑がA氏の目をうばう。さっき観たものはすっかり頭を去って、つれあいに言う「昼飯どこにしよ」。


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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

英会話の必要性

『日本語が亡びる時』のなかで、著者は英会話の重要性を指摘している部分がある。著者はアメリカで日本文学の講師でもあるようで、政治経済あらゆる分野で日本人の英会話能力の低さをひしひしと身にしみて感じておられるようである。

 太平洋戦争が始まる直前の緊迫した折衝が行われるなか日本側外交官らの英会話能力の悪さにアメリカの要人たちは驚いていたという。そして、いま現在、英語を母語とする英米人はもとより、英語に堪能な外国人によって、近現代史を語り創られていくのをみると、隔靴掻痒のもどかしさを感じておられるようである。
 もちろん営業分野しかりである。どうどうと英語で外国人に渡り合える日本人がなぜかくも少ないのか、そのことがいかに国益を損なっているかと。

 だからといって、英語を第二国語とする必要はない、という。国民によって任された政治家や各分野での一部の人たちが、できるようになればよい。そのためには学校や学校外での英語教育はどうあるべきか。

 それはそれとして、われわれが教えられてきた世界および日本の近現代史がいかに間違っていたか、国内ではというか、インターネットにおいては、だいぶん議論されるようになってきたけれど、国内での情報交換だけでは、どうしようもない。多くの人がそう感じていると思う。これを諸外国語で発信していく必要を、とくに国際語となりつつある英語で、しっかり発信してく必要を感じていると思う。

 しかるに我が国政府は、そのような人材を育てようともしないばかりか、そもそも国家の目標すらもっていないように見受けられる。日暮れて道遠しの感を否めない。国家がそのような体たらくであるならば、民間から発信するしかない。・・・というようなことで、外国語で発信し始めている人たちがいるようだ。

 小生はもう諦めているけれど、まだ若い人なら、これから英会話ぺらぺらになって、どんどん外国に飛び出して、どうどうと日本の立場を主張し、英語で論文を書きまくってもらいたいと思う。英会話は、外国人と仲良しになってパーティに参加し一緒に写真をとって喜ぶためだけにあるのではないのですぞ。
 

 しっかりした目標をもってがんばって!

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国語

 『日本語が亡びる時』を読んで、思いだしたことがある。それはもう20年くらい前のことではあるが、漢字仮名遣いに関して新聞に投稿したこと。おおよそ次のような内容であった。

 漱石・鷗外は言うに及ばず、戦後に活躍した川端・三島などの文豪も旧かなづかいで書いている。しかし文庫本などで新しく出されると、旧漢字は新漢字やひらがなに、かなづかいも新かなづかいに変えられている。そんなことをしてもいいのだろうか。文豪が著作した時そのように書いた必然性があったはずで、作品を生み出さない出版社が勝手に変えていいものだろうか。

 今の学生は漱石が読めないと聞いたことがある。いろんな意味があるにしろ、今の出版社が、誰でも読めるように!判りやすい言葉に変えてしまうから、原文にあたった学生は難しく感じるということもあろう。文部省も似たような発想をしているのではないかと危ぶむ。まことに小さな親切、余計なお世話ではある。

 戦前の人たちは、いまの人がそうであるように、別に苦労せず小説や新聞を読んでいたであろうと想像する。どんな人でも生まれて育つうちに活字を読むようになるのは自然なことであって、それはコンロで火をおこして炊事をしている時代の人たちが電子レンジがないから不便だと感じたりすることはないのと同じことである。

 どんな人でもアメリカで生まれ育てば英語を読めるようになる。漱石・鷗外がそのまま本屋に並んでいれば、それを読む。余計なことをして読みにくくしているのは誰なのだ。

 明治時代と敗戦後に、漢字廃止論がけっこうまじめに検討されたらしい。もし、それが実行されていたら、一部の研究者をのぞいて誰も漢字を読めなくなるだろう。

 御役人は何を考えているのか。国語簡略化などは国民の生活を真に考えた発想ではない。それは、たんに通信の合理化のためではないか。本末転倒はもう御役人の得意芸である。

 前にもふれた漢字、ひらがな、かたかなの複雑な混淆こそ、他国語に翻訳不可能な微妙な陰影を蔵してわれわれを豊かにしてくれる。それが日本の文化だ。一字一音の表音(厳密にそんなものがあるとしたら)に合理化したら、とりあえず通信には便利だろう。しかし、そのとき1300年かけて作り上げてきた日本の精神の豊かさは亡くなるのだ。

 honmatutentoo


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『日本語が亡びる時』

久しぶりに最近出された本を買って読んだ。水村美苗著『日本語が亡びる時』

 いま日本語の文章を読んで心をときめかせる日本人がどれだけいるであろう。この文章の言い回しのなんと絶妙なこと、なんと繊細な陰影に満ち溢れていることか、もっとこの美に浸っていたい、と本を読んで感じる日本人がどれくらい居るのであろう。と思うことが時々ある。

 今や、科学論文は英語で書かなければ話にならないし、政治経済の現場では英会話が必須である。そのうち文学も英語で書くような時代になるかもしれない、そうすると世界に冠たる「日本文学」も消えてしまう。そういった危機感をアメリカ在住の小説家である水村氏は強くもっておられる。

 水村氏は断定して曰く「文化とは〈読まれるべき言葉〉を継承することでしかない」。
 しかし現代日本の為政者は〈読まれるべき言葉〉を教育の現場から消しつつある。

 「中国の文化大革命は一党独裁のもとでおこったことである。クメール・ルージュの虐殺も長年にわたる植民地支配、それに続いた腐敗政権、さらにはヴェトナム戦争の波及効果のせいでおこったことである。しかし、日本は戦後五十年のあいだ、平和と繁栄と言論の自由を享受しつつ、知らず知らずのうちに自らの手で日本語の〈読まれるべき言葉〉を読まない世代を育てていったのである。〈書き言葉〉の本質が読むことにあるのを否定し、文化というものが〈読まれるべき言葉〉を読むことにあるのを否定し、ついには教科書から漱石や鷗外を追い出そうとまでしたのである。そして、誰にでも読めるだけでなく、誰にでも書けるような文章を教科書に載せるという馬鹿げたことをするようになった。」

 千三百年に及ぶ日本人の書き言葉の工夫によって、漢字・ひらがな・カタカナの複雑な混淆。明治から昭和初期にかけての文豪らの西洋語との格闘から生まれた近代文学すなわち「国語」。

 「日本近代文学は、西洋語の翻訳から新しい日本語の〈出版語〉を生むため、そして、その言葉で〈西洋の衝撃〉を受けた日本の〈現実〉について語るため、日本語の古層を掘り返し、日本語がもつあらゆる可能性をさぐりながら花ひらいてきた。日本近代文学を読む習慣さえつければ、近代以前の日本語へさえも朧気に通じる。」

 水村氏は、日本の文化を守るためには、「日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである」と再三主張している。
 
 日本語の書き言葉の、世界の他に例を見ない絶妙さについて例えば、こういう例を挙げている。

 「ふらんすに行きたしと思へども
  ふらんすはあまりに遠し
  せめては新しき背広をきて
  きままな旅にいでてみん。

 という例の萩原朔太郎の詩も、最初の二行を

  仏蘭西へ行きたしと思へども
  仏蘭西はあまりに遠し

 に変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよと頼りなげな詩情が消えてしまう。

  フランスへ行きたしと思へども
  フランスはあまりに遠し

 となると、あたりまえの心情をあたりまえに訴えているだけになってしまう。だが、右のような差は、日本語を知らない人にはわかりえない。

 蛇足だが、この詩を口語体にして、

  フランスへ行きたいと思うが
  フランスはあまりに遠い
  せめて新しい背広をきて
  きままな旅にでてみよう

に変えてしまったら、JRの広告以下である。」

 水村氏の言う〈読まれるべき日本語〉に接しない世代が増えてくると、この辺の感覚がだんだんと鈍くなり、いっそのこと、英語で書こうが日本語で書こうが、意味が同じならいいのではない、となろう。だが、そうなったら〈日本文化〉は終わりである。


  

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万葉巻15・16

 『万葉集』巻十五は全体として物語の流れがあって分かりやすく読める。大きく分けて二つの部分からなり、前の部分は遣新羅使節の航海途上で創られた歌からなる紀行文学である。

 難波津(大阪港)から瀬戸内海、北九州、壱岐・対馬を経て新羅へ向かう。航海は予想を超えて長引き、しかも外交は失敗に終わった。使節らと都で待つ妻との逢い難さ、相思う気持ちから連想的に、後半の中臣宅守と狭野娘子との贈答歌に移る。
 宅守は越前国に配流。都に残る娘子との間で交わされた歌は六十三首にも及ぶ。

 万葉歌人では、概して女性の方が情熱的、繊細にして大胆。与謝野晶子系が目立つ。というか、だいたい男性がなんか水っぽく軟弱だ。草食系男子とか言うけれど、我が国では今に始まったことではない。古代からそのようであった。
 狭野娘子の歌
  君が行く道の長手を繰り畳ね
  焼き滅ぼさむ天の火もがも 3724

  我が背子が帰り来まさむ時のため
     命のこさむ忘れたまふな 3774  

          *

 『万葉集』全二十巻のうち、第一巻から第十六巻までがいわば本体で、一旦ここまでが完成され、十七巻から二十巻までは大伴家持周辺の作であり、時代的にも新しく、後で付け加えられたものとされている。 

 ということは、この巻十六は最後に残った雑纂という感じは否めない。題詞にも「有由縁并雑歌」とある。作歌事情が付されている歌も多く、また雅とは反対の露骨で猥雑な狂歌からまるで意味のない超現代歌まであって、考えようによっては、その広がり、新しい領域への可能性に満ち満ちている。連歌・俳諧への意志はここに胚胎している。
 
  一二の目のみにはあらず五六三
    四さへありけり双六のさえ 3774  
 (人間の目は一つか二つ。それなのに双六の目は五六三四なんてのがある。面白いなぁ双六の目は)

 からたちのうばら刈り除け倉建てむ
  糞遠くまれ 櫛造る刀自  3832
 (からたちの木を切って倉をたてよう。 櫛作りのおばさんよ、うんこはあっちへ行ってしてよ。)

 童ども草はな刈りそ八穂蓼を
  穂積の朝臣が腋草を刈れ  3842
 (草を刈らずに穂積さんのわきを刈ってやれ)

 我妹子が額に生ふる双六の
   牡の牛の鞍の上の瘡  3838
 (妻の額に生えた双六の牡牛の鞍の上のかさぶた)

 これは題詞に「無心所著の歌」つまりまったくナンセンスな歌と書いてある。こうなると、音楽でいえば、ジョンケージの『4分33秒』であって、芸術の極点にして否定。創作の発展的解消である。
 言語芸術は万葉で始まり万葉で終わるといえる所以である。


  
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竜馬たち

歴史と力
 最近漫画本のおかげでけっこう歴史に関心のある若者が増えているときく。また今年のNHK大河ドラマが竜馬の話であって、土佐はもちろんのこと、竜馬に関係した土地はこぞってアピールして、竜馬ブームをかきたてているらしい。
 竜馬の人気の秘密は、なんといっても彼の性格の実に素直でいて、現実的な判断力と無私な行動力、そして若くして死んだ、ということではないだろか。

 明治維新で名を残した多くの人が活躍したのはまだ30歳前の若者であることに、誰もが驚く。あの時の歴史を多少でも知る者は、時代の動きが若者の行動力を必要としたように感じるであろう。誰それがどうしようとじっくり考えてどうなったというようなものではなく、いわば日本という生き物が危機に瀕して、救いの手を求めていたところに、一団の素直でまっすぐな若者たちが、それを知って飛んで行ったように見える。彼らは余計なことを考える暇もなく、あまりにもぴったり時代の要求に嵌り込んでいった。
 もし、彼らが、行動する前にもう少ししっかり日本や欧米の歴史を勉強しよう、なんて言っていたら、百年たっても維新は成し遂げられなかったに違いない。
 あの時の日本が必要としていたのは、行動であって知識ではない。基本的な知識はすでにあった。さらに何を事細かに知的探究をする必要があったろうか。
 
 政治の表舞台から徳川政権を除去したのがよかったのか悪かったのか。そんなことは誰にも判らない。というより、歴史にイフはない。なるようになっただけだ。じっさいこれしかない。しかし、じっさいこれしかないと言っても、なおわれわれはあの時のことを思い返し、ああだこうだと言いたくなる。そして当時の人たちの苦楽がいよいよ身に沁みて感じられる。それが人間と言う生き物なんだろう。
 
 己一個の人生を振り返っても同じ思いだ。あのときああすればよかったこうすればよかった、そしてまたああするよりほかになかった・・・。何度思い返しても、ますますどうしようもない自分が、逃げようもなくはっきりしてくる。

 己個人には意志というものを感じるが同時にどうしようもない性格というものをも感じる。共同体においては、政策を酋長が決めようが、民主的な手続きで決めようが、結局やはりその性格(無意識)が顔をだす。性格は人種的風土的に決定され、長い間に培われてきたもので、われわれの深いところに隠された力であろう。

 しかし、その力はあくまで無意識的であって、火事場のクソ力という言葉があるように、火急の時に今まで思ってもいなかった力が発揮されることがあるから、予めわれわれの性格はこうだからと決めてしまって、意識的に己を閉じ込めることはちょっとお角違いで、むしろ性格とはあくまで回顧的に感じられるものであるにすぎない。

 とっさの判断と行動を必要とする場面は、われわれ日常でも偶にある。そんなとき熟慮をしている暇はない。しかし、後で思い出すと、やったことが冷や汗ものであっても、思いのほか上手くやった、普段の自分ではなかなかできないのでは、と思うことがある。われわれにはきっと自分では気づかない潜在的な力が潜んでいるにちがいない。

 


    

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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

熱田神宮舞楽

 五月一日よく晴れ渡った空の下、大木の緑に覆われた涼しい空間で、舞楽が行われた。

 竜笛、鉦鼓、笙、篳篥(ひちりき)などが並ぶ西楽所。その前庭にひときわ目立つ大きな桃形のけばけばしい太鼓、そして一辺が9メートルという舞台には、朱の欄干が施されていて、北側中央にのみ幅一間ほどのきさはしがある。高さは約1メートルほどで舞台から黒っぽい緞帳が垂れている。

 庭の仕切りいっぱいに観客が息をひそめて待っている中、演目の説明がスピーカーから流れ、それが終わると荘重な音楽が流れ、幔幕の一端から舞人がゆっくり現れ、砂利の上に設えられた通路を通って、きさはしを上って立つ。あるいは舞いながら上る。

 演目は、舞台を祓い清める意味の舞楽「振鉾(えんぶ)」でもって始まり、『桃李花』『登天楽』『央宮楽』『新靺鞨(しんまか)『胡蝶」『抜頭』『還城楽』『長慶子』。主に平安時代に創られた舞楽曲であり、唐楽・高麗楽あり、黄鐘調、双調、壱越調、太食調あり。その違いはまだ小生にはよく判らんけど(笑)

 演目によって異なるが、舞人は一人ないし四人、鳥甲(とりかぶと)をかぶり、かさね装束、袍の右肩をぬぎ、鉾を持って舞う。あるいは天冠をかぶり、面をつける。

 とにかく平安のみやびを堪能した。『胡蝶』の四人の若い女性はみな美しかったが、いい歳のおっさんのひた面は・・・ごめんなさい、もし美しい若者が舞ったら素晴らしいことだろう。あの物語の光源氏も、並居る貴人たちが見守る中このような舞台で青海波を舞ったことだろう。女官たちはうっとりとしてながめ溜息をもらしたであろう。
 
胡蝶


 
 『還城楽』は、説明書きによると、玄宗皇帝が乱を平定し、夜半に帰城した後に創った曲『夜半楽』とも、また蛇を好んで食べる胡国人が蛇を見つけて喜ぶさまを舞にした『見蛇楽』とも。小生は、「千秋楽は民を撫で、万歳楽には命を延ぶ・・・」で有名な能『高砂』のキリで〈還城楽〉という言葉だけはよく知っていたので、一度見たいと思っていたのだが、天狗に似た滑稽なお面にちょっと驚いた。
還城楽


一句 五月晴れ 赤っ鼻が 宙を舞う

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新芽の力

 今年の四月は急に寒くなる日が多かった。やっと本格的に暖かくなってきた。観葉植物を入れておいたビニールハウスも撤去せねばならない。そしてまた今年も蓮の栽培に挑戦だ。昨年宇佐神宮からもらってきた種を数個、頭を削って水の中に浸す。一週間ぐらいして芽を出したかと思ったら、ぐんぐん伸びる。

 ガラスコップに入れてあるから、新芽の成長がよく分かる。昨日は朝から夜までの12時間くらいで1センチ以上伸びた。昨夜から今朝までは2センチくらい伸びている。そして思った、1時間で1.5ミリメートルくらい伸びている、何という増殖スピード、顕微鏡で見れば休みなき細胞分裂・増殖の現場を見ることができるであろう、これは癌細胞と同じだ。

 思えば、今これからの暖かくなる季節は、あらゆる木の芽がそうなのであるが、典型的には藤の蔓やタケノコなどが一日に何センチと猛烈な勢いで増殖していく様が目に留まる。いったい一日に何兆個の細胞が生まれているのか。しかも、これが至る所で!

 一句 春昼や いつのまにやら 葉の茂り

 春の日のこの生命力! 地上のかくも旺盛なタンパク合成力はどこから来ているのか。おそらく地球外惑星においても同じ力が働いているのであろう。全宇宙にみなぎる物質に働きかける力。

一句 春山はうましあしかびひこぢの神

 タンパク合成を制御しているのは何らかのホルモンとか酵素であろう。いつぞや素人考えで、タケノコなどの増殖旺盛な新芽をとくに若い時に沢山食べれば、そこに含まれるホルモンなども摂取でき背が伸びるのではなかろうかと思って遅まきながらよく食べたことがある。いま考えれば癌になりやすくなっただけではなかろうか、とも思う。 

増殖よりも秩序形成能だ。秩序すなわち他の細胞との協調がなければ器官を創れず生体ができない。
 そこには何らかの目的があると、われわれはどうしても思いたくなる。

 
 宇宙に遍在する力に
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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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