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戦争と和歌

『戦没者遺詠集』を読んでいて我が国の和歌の伝統に思いを馳せた。幾つか偏愛的にピックアップしてみる。
 山田平八 享年24歳
君のため捨つる命は惜しまねど心にかかる峯のむら雲

入営して戦地に赴く兵士が、故郷の方の山であろうか、山山にかかっている雲の美しさ・あやしさに心を奪われている、その剛毅と詩心と共存。その態度のノンシャランな美しさに、小生心を奪われる。

 加藤啓一 神風特別攻撃隊 享年21歳 

うぐひすも春風吹かば鳴くものをなぜに此の身は春を待てぬや 

これから出撃というときになんと明晰な自意識をもてるものだろう。

散りて行く我が身なりとは知りながら蝶ぞ恋しき春の夕空

 この蝶が断然すごい。蝶は恋人、親、あの世の誰か、何にせよ、〈蝶〉でなければならない。

菅野繁蔵 新風特別攻撃隊 享年22歳
出て征く今日の我が身をかへり見て大和乙女の微笑ぞ知る

出発の日にこれまたなんという少年らしい初々しい日常的な自意識だろう。

木村義任 陸軍特別攻撃隊 享年22歳

こんにちの戦の空に身を挺すいやしき身こそ捨つるときなれ

文学趣味を離れて素直に詠めばなんと明晰豪胆。

柴田禎男 陸軍特別攻撃隊 享年21歳

君が代のやすらかなりせば鄙に住み身は花守りとなりけむものを

21歳とは思えない。返って決意のほどがうかがわれる。

山田二郎 硫黄島にて戦死 享年24歳

寝つかれぬままに幕舎をうちいでて仰ぐ今宵の月ぞ清けき

月のさやけさこそ不易。己の生き方はいかならむ。

平野亨 海軍少佐

ひたすらにまちわびし出撃の朝ぞ光は四方に輝く

歌の姿はますらをの輝きそのもの。人麻呂の「ひなみしの皇子の尊の馬並めてみ狩り立たしし時は来向かふ」を直ちに連想。

 みな、当然のごとく祖国を思い、己の立場について悲愴にならず平常の素直さと率直さを保ち、危険な状況を前にしてなんとノンシャランであることかに小生はうたれる。

 そもそも、和歌はスサノヲ命から始まったし、『万葉』巻頭を飾る和歌は、あの荒魂の権化雄略天皇御製である。 荒魂からみやびが生じ、荒魂とみやびは共存し、おそらくその源流を同じくしているのじゃないかな。

たけきもののふと和歌。自分の生死についてさえ無頓着な力と単純明快な美しさ。和歌は元々そのようなものであって、後に広がってさまざま感情が絡みつくようになったのではなかろうか。
 



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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

よもやま話

 職場にて。あるお客が製品を求めた。それでこちらは、お客の希望にもっとも合致するものを奨めた。お客はこちらの説明にいったんは納得したが、なんとやらんすっきりしない様子でいる。
 一度場をはずし再び来たそのお客は、そちらのお話はよく解ったのだが、聞くところによると、その製品はかくかくしかじかの点で良くないと聞いている、やっぱりその製品は止めておく、別のにすると。
 もちろん、お客が物を選ぶのだからそれでいいが、きっと後悔するのでは、と思った。
 
 お客が帰った後、他のスタッフとの話。

小生「どうして人は噂を簡単に信じてしまうんだろう」

yさん「ほんとねえ。だいたいマスコミがいい加減なことを言うから・・」

小生「人はみんなマスコミの奴隷だね」

yさん「ほんとに、うちらも他のことはなんにもわからんから、マスコミの言うことを信じてしまう」

小生「この前あったけど、選挙だって、ほとんど実情なんて分からん人たちが、まあわれわれもそうだけど、投票するんだからね」

yさん(はげしく目を輝かせて)「そうそう。選挙なんてみんなもっともらしいことを言っている。なんかよく分からんから、もう行きたくない。誰でもいいから専門家が勝手にやってくれればいいわ。」

小生「うん。良く解った専門家に任せておきたいな」

yさん「選挙に行かん人はかしこいわ」

小生「だれも行かなくなったらどうなるのかな」

yさん「えー、どうなるだろう」

小生(しばし考えて)「立候補者の届け出順に当選ってことになるんじゃないの」

yさん(笑いながら)「それはもう早いもん勝ち。一票も入らないのに当選って、そんなのあるんかなぁ」

 (他のスタッフたち二人の会話に耳をそばだてて、にやにやしている)

yさん「でも、誰も行かんなんてないでしょう。必ず選挙大好きという人たちがいるから。」

小生「そうだね。組織票が物を言う。日教組とか労働組合とか創価学会とか・・・」

yさん「そうなると彼らの天下ね。なんかちょっとこわーい」

小生「そうなったら、今のような生活ではなくなるだろうことは想像できる。中国の属国になるような気がする。でも、とにかく日本人がそれを選んだのだから、別に文句をいう筋合いもない。」

yさん「そうねぇ。でも実際のうちらの生活はあんまり変わらないんじゃないかなぁ。」

小生「そうかもね。・・・ただ、よりいっそう人々の頭の中は金銭至上主義で占められ、そのための競争が熾烈になり、われわれは中国共産党へ貢ぐためにより汗水流さんならんようになるんじゃないかな」

yさん「それはいやや」

小生「その実態を知らなきゃいい」

yさん「知らなきゃいいけど」

小生「何も知らず、何も不平を言わず、それが一番の幸せ。政治の専門家に任せとけばいい」

yさん「そうそう。何も知らんのが幸せ。でも働いた分だけの収入が欲しいわ。」

小生「でしょう・・・」

(他のスタッフたち、仕事の手を休めて、軽蔑的な目つきでわれわれを見つめる)

          幕



暇な職場とお感じでしょうが・・・
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テーマ : それでいいのか日本国民 - ジャンル : 政治・経済

住吉三神

 神功皇后はスミノエ三神の加護により新羅遠征を成功させる。そのさいの軍船の導きとして、その荒魂(あらみたま)を、守りとして和魂(にぎみたま)を礼拝したとある(『書紀』)。

 荒魂は攻撃的な霊力、和魂は守りの霊力という。おかげで新羅遠征はスムースに運び、皇后は、事前のお言葉通り、敵国への残虐行為などはせず新羅王を服従させ、朝貢させることに成功する。どういうわけか高麗、百済も、倭(日本)に適わぬとみて、朝貢することになったとも。帰るさ新羅国王の門に杖を立て、スミノエ三神の荒魂を祀った。

 帰国して、まず山口県の穴門(あなと)、今は下関市になっている地に荒魂を祭り、これが住吉(スミノエ)神社。以後瀬戸内海には多くの住吉社が創られたと聞いている。


 ところで、面白いのは、朝鮮最古の史書『三国史記』新羅本紀によると、ちょうどその頃(紀元四百年すこし前)、新羅軍が倭人(日本軍)を上手く攻略した話がもっぱら。『記紀』との記述と大いに違う。
また、今は中国領、当時高句麗であった広開土王碑文の記載は、百済と新羅は高句麗の属国であって朝貢させていたが、倭が横取りした(391年)・・・・新羅に満ち溢れていた倭軍を高句麗軍が徹底的にせん滅した。

 今と同じ。歴史認識の溝は深いというけれど、そこには偏狭な国家的欲望がついて回るから当たり前だね、一致の不可能は。

 また、朝鮮の『三国史記』は1145年に高麗王が撰したもので、これは中国や日本の資料などを集めて作ったもの。もともと、朝鮮には『記紀』より古く『百済紀』『新羅紀』『高句麗紀』などがあったらしいが、何せ朝鮮半島はしょっちゅう戦乱下にあって、残念ながらほとんどが消失してしまったらしい。今でもあそこは北と南で戦っているし・・・。



       
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

禊ぎ

 住吉(すみのえ)三神が気になって、イザナギ命が黄泉国(よみのくに)に居るイザナミ命を見、そこから脱出するところをもう一度なぞってみた。
 
 イナザギは、国づくりがまだ終わっていないから、もういちど現し世に帰ってきて、とイザナミに言う。イザナミはありがたく思い、「ちょっと待って、黄泉国の神様に訊いてくる」と言って、奥に行く。しかし、なかなか帰ってこないので、イザナギは櫛の歯を一本取って火を灯して見ると、驚いたことに、イザナミの死体が腐ってウジ虫が湧いて、体中に〈雷神〉が生じていた。
 
 イザナギは、怖くて逃げようとするが、イザナミは「見たな~」と言って、黄泉醜女(よもつしこめ)らをけしかけて追いかける。逃げるイザナギは、御鬘(かづら)を投げるとこれが山ブドウになった。追手がそれを食べている間にどんどん逃げる。がなお追ってくるので、今度は櫛の歯を投げるとタケノコになった。追手がそれを食べる間にまた逃げる。今度は、雷率いる軍団を追手に遣わす。イザナギは刀を後ろ手に振り回し逃げる。
 (トムとジェリーみたいで面白いですね)

 とうとう、黄泉国と現世との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の麓に来る。そこで、イザナギは三個の桃を投げつけると、追手は逃げ帰った。最後にイザナミ自身が追ってきた。イザナギは巨大な岩を坂の中央に置き、その岩を挟んで両者は対峙した。イザナミは「よーし、これからは、現世の人を一日に千人殺す」と言うと、イザナギ「では、こちらは一日に千五百人の人を生もう」と言った。

 脱出したイザナギは開口一番、「あんないやらしい汚い国から帰ってきた、まず身の禊ぎをしよう」

 ここから禊ぎが始まる。持っているもの、杖、帯、袋、衣、袴、冠、左と右の手巻き、を投げ捨てる。とそれが次々と神になる。その神の名前が大事なのだが、省略する。

 『記紀』の神の名前は、それぞれのある作用(ハタラキ)を指しており、いわばこの現象世界の事物は実相世界のハタラキによってなるとは谷口雅春の語るところである。
 イザナミ、イザナギでも、「イ」というのは、生命(イノチ)のイ、生きるの「イ」、息の「イ」を表す言霊のもつ響きであろうし、「さ」というのは、サラサラとかサワサワとか、「触る」の「サ」、「さする」の「サ」、ものが触れ合うニュアンスをもつ言霊の響きであろう。
 「なぎ」は凪、一様にする、静かに平らかにする作用の言霊の、「なみ」は、細かく動く、刻みを入れる作用の言霊の響きであろう。
 というふうに、何何神というのは、それぞれのハタラキを表す。
 
 そもそも神話や民話というものは何なのか。それはわれわれが勝手に創るオモシロイお話とは違う。誰が創ったというようなものではない。自然に生まれてきたものである。遠い昔、それぞれの民族は〈自然〉と直に対話していたのではないかと思われる。その〈自然〉はわれわれ現代人がイメージする物質的自然ではもちろんない。そしてまたおそらくわれわれの思うたんなる心の世界でもないかもしれない。

 われわれ文明人は、一日24時間のうち99.99%を、生活に、つまり食べたり稼いだり人と付き合ったり・・・要するに何らかの有効性に意識を向けている。そして〈自然〉は、そのような意識に対しては、せいぜいその一面をむけるだけで、けっして秘密の扉を開かないのではないだろうか。
 
 われわれが日常意識している現象世界にたいして、ギリシャ人がイデア界を、近世哲学者が物自体を、宗教家が実相世界を、言ってきたのは故のないことではない。現象の向うにある世界、あるいは現象を成り立たしめている世界、あるいは現象がその世界のほんの一側面であるような領域を想定しなければ、どうもピンとこないようなことがある。自然現象といい、生物世界といい、われわれの日常の知覚や行為といい、問い詰めていけば、あらゆる問いがそうである。

 ベルクソンはうまいことを言ったものだ、「われわれは目を持っているにもかかわらず見ることができる」と。生活に浸りきっているわれわれの目は、ほとんど日常の有効性にのみ向けられている。だが、それを離れて〈真に観る〉訓練をしている人たちがいる。それがいわゆる芸術家という人たちだ。彼らは、己の目を功利性から遠ざけ、知覚を深化させる。われわれは自然を見また自然もわれわれを見ているという、いわば自然との信頼を回復しようと日々訓練している。われわれは、彼らの作品を通じて、彼らの訓練の幾分かを分有し〈自然〉に参入しようとする。

 宗教家が実相観入というとき、それとよく似た事情が起こっているのではなかろうか。そして、神話に接するわれわれもまた〈実相観入〉に導かれているのではなかろうか。『神話』を読むとき、われわれは単に現象世界のお話ではなく、あの領域からの諸力を感じるように誘われているのではないだろうか。
 
 したがって、非常に根源的な領域の力に関しては、世界中には似たような物語があってもおかしくはない。アダムとイヴの侵犯やイザナギとイザナミの覗き見などは、例えばメソポタミアやスカンジナビアにも似たような神話が仮にあっても、同じ人類であってみれば当然ではないだろうか、と思う。

 日本人であるわれわれは『記紀』を読むとき、そこで語られている日本語の言霊がいわば発している周波数に、こちらの心を合わせていかなければならないように思われる。だから神々の名前も、へんてこりんな名前が多くあるが、そうあらねばならなかった必然性があるはずで、読む者はそれをいちいち触覚的および聴覚的に探りつつ読まねばならないと思うし、物語の内容もただの物語ではなく、まさにそう語らねばならなかったある世界の諸力を受け取らねばならないと思う。

 閑話休題。イザナミの禊ぎである。身につける物を脱ぐに因って生る神々があった。
 そして水に入る。「上の瀬は流れが速いく、下の瀬は流れが弱い」、それで中ほどの瀬にお入りになって、すすきたまふとき、成った神は、八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)と大禍津日神で、これは黄泉国での汚穢による神。
 宣長は、ナはアに通じ、ゆえにナカ(中)はアカ(清明)であって、「いま禊したまひて清明くなりたまふ瀬なればなり」と言っている。
 
 次に禍を直すために成った神は、神直毘神(カムナホビノカミ)と大直毘神と伊豆能売神(イヅノメノカミ。次に、水底にすすぎたまふとき成った神、そして中と上に成った神に、それぞれ、底津綿津見神(ソコワタツミノカミ)と底筒之男神(ソコツツノヲノカミ)、中津綿津見神と中筒之男神、上津綿津見神と上筒之男神が出てくる。そしてこの筒の男神三柱が「墨江(すみのえ)之三前之大神也」。

 禊ぎとは、まず持っているものをことごとく捨てること。禊ぎは身削ぎである。余分な思いを捨てねばならない。そして、ちょうどよい流れの水で体を清めねばならない。一気に吐き出してはいけないし、あまり逡巡していてもいけない。とこう寓意的に解釈したいが、宣長によるとそれはさかしら心による強弁だということになろう。なにはともあれ、宣長は物と心を分離して考える思考をヒガゴトとして排ける。

 この後で、直毘がやってくる。平常に復する。復したら、水の底で、そして中ほどで、そして上で、さらにすすぐ。この住吉(スミノエ)三神は、底から一気に上がってはいけないので、順序を踏んでそそがなくてはならない。つまり秩序付けのハタラキをいうとは谷口説。
 ちなみに住吉三神は、清水のカミから、神功皇后の新羅遠征や遣唐使で助けてくれる航海の指針となる神となる。

 そして、この禊ぎの後、清浄な秩序が整ったからには、イザナギの目と鼻から、もっとも日本人にとって重要な、アマテラス大御神とスサノヲ男命、そして月読命が生まれる。
 


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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

梅雨幻想

不思議だな。
なぜこんなに規則正しく雨粒は
それぞれがまっすぐな線を描いて
落ちてくるのだろう。

それぞれの雨粒は
高い空の雲から
交じりあうこともなくまっすぐに
広さを競う家家の
屋根という屋根の上に
庭という庭の隅々までに 
細いブロック塀の上にも
公園の朽ちた落ち葉の上に
道端に捨てられた
ビニール袋の上にも
ところ構わず
落ちてくる。

かつて文月といえば秋だった。
夏の湿気のなごりある草草の中で
疲れた人たちは体を横たえ
星の降る夜などは
虫たちの声を聞きながら
先祖伝来の不可思議な呪文の
響きを感じ取っていた。

その響きはいかなる楽器をもって
鳴らしても決して表せないような
囁き、朗唱、振動、運動、そして
静寂。
縄文人たちがあの土器に表した
燃えるような宇宙の動きさながら
あらゆるものが、あらゆるものとの
交感を乱すことなく
幾重にも渦巻をなして
つねに動いている。
その静寂。
その音楽。

しかし今。七月の雨。
野にも山にも都にも
至るところに落ちる雨。
あらゆる所を浄化する
天の炎にも似て
山々のカミたちの
村々のカミたちの
怒りと融和。
それはまた誘い、
いつかまた行きたい、
あの静寂に触れうるところへ。



詩人面してこんなもの
書いて、ボケたんじゃない
かわいそうな奴だ
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仲哀記

 『古事記』の「仲哀記」において、仲哀天皇はいわば前座を務めるだけで、真の主人公は神功皇后そして副主人公は建内宿禰の物語である。

 天皇が(「日本書紀」では宿禰が)琴を弾き、皇后は神がかりとなって、その神が新羅征伐を奨めるが、仲哀天皇は神を信じない。すると神は仲哀天皇を殺すのである。いったいこの神は何なの、という疑問が湧く。

 そして、とりあえず仮葬するのみならず、ついでに大祓をする。すなわち人々が犯した罪を清めるのである。動物虐待、田んぼの畦や溝の破壊、汚物の撒き散らし、近親相姦、獣姦。

 するとまた先ほどの神の託宣は、神功皇后のお腹の子は男の子(応神天皇)であるよと。そして宿禰がさらに、このように託宣を下す神はどなたか、と訊くと、神は答えて「天照大神の御意志だ。また底筒男・中筒男・上筒男三柱(住吉三神)だ」と言う。

 『日本書紀』では、ちょっとニュアンスが違い、神はなかなか答えないで、さんざんはぐらかした末、やっと答える。が、もう一人、事代主神(オオクニヌシの息子)も加わっている。

 そこで面白いのが、底筒男、中筒男、上筒男の住吉三神は、神代のその昔、イザナギ命が、死んだ妻イザナミ命の黄泉の国での姿(汚い死体、とにかく日本人にとって死はケガレ)をこっそり見て、逃げ帰って、体を清める=禊ぎをするために川に入る。イザナミ命が川の底、中ほど、上のほうですすぐ時、それぞれの三神が生まれている。

 つまり、この住吉三神は、罪=ケガレを祓う時の神である。そして、住吉はもともとスミノエと読んだのは、スミノエとは清の江だからである。

 古代日本における罪とは、概して自然災害を含め、ともかく悪いこと(災い)を指すらしい(宣長)。

 そして、この神功皇后。この女性は、『日本書紀』のなかで歴代天皇と同等の地位を占める唯一の女性である。
 『書記』は語る、「幼くして聡明叡智、貌容は壮麗。父の王あやしびたまふ。」そうして、神の声を伝えるシャーマンでもある。新羅に攻め入るにあたっては、男装し、「みづから、斧まさかりを執りて、三軍に命令してのたまはく、『隊列を乱すな、私欲のままに宝を取るな、婦女に暴行するな、降伏してきた敵兵を殺すな、家族のことを考えたり逃げたりするな、・・・』
 すごい女傑だ。西にブリュンヒルデあれば東に神功皇后あり、って感じかな。
 しかもこのとき臨月だった。後の応神天皇を身ごもっていた。そして遠征が終わるまで、出産を遅らせた。こうなると女傑と言うより魔女だな。

 『書記』作者らは、神功皇后の巻を書くにあたって、アマテラス、卑弥呼を念頭に置いていたとも。あるいは、斉明天皇を、また、あるいは、持統天皇、元明・元正天皇を念頭に置いていたとも。しかし、誰がモデルであろうとも、物語の面白さには本質的に関係がない。


       
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梅雨風景

音もなき小雨にそぼつ槙の木に
      そろふ若芽のうるはしきかな


  我が家の槙は弱く、よく枝が枯れるので、それを切り落とすため形があまりよくない。しかし、思い切って捨て去ることはできなず、ずっと一緒に生活している。新芽が出るのは遅く、いつもこの頃。

わが門にふいと咲きたる槿(むくげ)花
      傘さす人ら気付かずに行く


雑草といふものなしといふ言を
      思ひだしをり梅雨の庭にて


  昭和天皇が野で草に手を伸ばされたとき、侍従が「それは雑草です」と言葉でお制しになった。天皇答えてのたまわく「世の中に雑草というものはない。みなそれぞれ名もある云々」と。


     
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プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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