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道徳とは何か2

 (続き)ここでこんなことを想像してみよう。何百万年前、地球上のあるところに類人猿の集団が居た。この類人猿たちはずっと昔に比べると餌を採取するためのさまざまな道具も発明し、大分知能が発達してきた。そこで、神様がいよいよ時機到来と考え、この集団に相談を持ちかけた。そして言うには、「君たちよ、君たちは大分賢くなった。これからは自分たちの知恵を大いに働かせて生きていく道があるかもしれない。これから二つの道を用意するから、どちらの道を行くかよく考えて、選択するのだ。一つは、今まで通り、君たちの生命を脅かす最大の敵である冬将軍から身を守るための毛皮を与えよう。しかし、それ以外の新しいものは与えない。もう一つの道は、寒さから身を守るための衣服を自分で作る知恵を与えよう。その代わり、今までの毛皮をそっくり返してもらおう。」

 そして類人猿たちは相談した。喧々諤々の議論の末、生きるに慎重なグループは今まで通りの毛皮をもらった。他方、知恵を選んだグループは、全滅のリスクはあるが成功すれば大いなる発展が期待できると考えた。かくて、前者が猿種になり、後者が人間種になった。

 かくして人間から毛皮が亡くなっていったのと、衣類を作る知能とは同時に起こった。毛皮がなくなったから、衣類を作る工夫が生じたというのでは、その間に長期に寒さが続けば全滅したであろうし、そもそも毛皮がなくなる必然性はない。

 しかし、必要は発明の母と言うではないか、危機にひんしてこそ新しい創造がなされるのではないか、という反論が後ろから聞こえてくる。そうかもしれない。実験的にhairless monkeyを創って、これらが自然の状態で衣服を作ることができるかどうか、ぜひ実験してみたいものだ。

  ウイルスは突然のいかなる環境の変化に対しても死滅しないように、たえず変異しているらしい。われわれのような大生物も同じことだ。ただその構造がものすごく複雑であって、何千年何万年という単位がかかるのであるが。
 
 何と考えようと、確かなことは、われわれ生き物の解剖学的生理学的行動学的構造とその変化は、われわれがどう意志しようと、どうにもなるものではない。それは〈生命〉という不可思議な力のなせる業のように見えてくる。ただ言えることは、あらゆる生物はこの世界で生きていくのに、いかにも上手に理にかなった方略を有しているということだ。

 道徳に戻ると、道徳は自然によって人間種に与えられた生き延びるための方略でなかろうか。だからこそ、なぜ人間は人を殺してはいけないのか、なぜ他人のものを盗んではいけないのか、その理由に窮するのだ。こんなにも人の欲望に反する掟が、あたかも定言命令のごとくどうしてあるのか。もちろん人間は掟を破る。破られるからこそ掟であるとさえいえる。それゆえ、知性ある人間は、自然が人間種に与えた掟のうえに、さらに法を作って人間自らの行動に拘束をかけ、集団の秩序を維持しようしてきた。


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日韓関係

憐れな韓国。おかしな日本。

 韓国が我が国に対しいつまでも泣きごとを言って、すねる、ごねるという態度をとり続けるのは、どうも解せない。
 こんな言葉が浮かんでくる―甘えの心理学。

 これ韓国人の気質なんだ。お葬式のとき女性らが大泣きしている姿が浮かんでくる。この気質を歴代の韓国大統領はうまく利用しているに違いない。
 
 こちらが良かれと思ってしたことでも、ちょっと気に食わないことがあると、すねる人がいる。子供の頃いじめられたと言って、大人になってから遇っても目をそらす人がいる。謝らないと言って怒る。謝ると、心がこもってないといっそう不機嫌になる。
 こういう手合いにたいして、どう付き合っていくかねぇ。

昔のことはもうええやんか。これからは手を取り合っていかないかんぜよ、と爽やかな言葉が吐けんもんか。
まっこと他国との付き合いは、むつかしいもんよのぉ。

 ユダヤ民族は、永いあいだ不毛の砂漠において周囲の強国にいじめられ続けて生きてきた。彼らは生き延びるために、良くも悪しくも知能を猛烈に発達させた。のみならず、いずれは最終的にはユダヤ民族だけが神に救われるという奇怪な幻想を生んだ。この幻想はあまりに強力で、どんなにばらばらにされても、世界がどう変わろうとも、決して消えることがない。ユダヤ人がかかる強固な信念を持ち続けていることは、われわれ日本人には信じがたいくらいだ。

 これほどではないにしろ、朝鮮民族も永らく周囲の強国にいじめられ続けたために、ちょっと独特の性格を形成するにいたったのではなかろうか。

 甘えの心理は自己喪失の一種と見える。つまり、他者との付き合いにおいて、時に自己を隠ぺいし、ある型を演出する。そのとき、それが演技であるなら巧妙な戦略だが、無意識に終始するならば自己欺瞞である。

何がどのように人の性格形成に影響するのか解らないが、人さまざまでいいではないか、とも思ういっぽう自己欺瞞は正しくないと感じる。

 ところで、その自己欺瞞に対して、他者がどういう風にふるまうのがよいのか。これが問題だ。つまり、朝鮮が徹底的に被害をこうむったという思い込みに対して、日本はどうふるまうのがよいのであろうか。

 これは、初めの問いに還る。何をしても不機嫌に喚く人に対してどう付き合うか。彼らは言う、あなたたちはいじめるつもりではなかったというが、われわれの立場になって考えてみよ、と。

 それに対して、はいはい、とご機嫌をとったとしたら、彼らはいっそう怒りを増すであろう。なぜなら、彼らは自己欺瞞に陥っているから。つまり二国の関係という現実を、すでに被害者と加害者という観念に置き換えてしまっているから。

 小生は思う、彼らに対しては一発ぶちかましてやるのがよいのだ。恐怖を与えるのだ、彼らの心を蝕んでいる悪魔に。そうするのが、彼らのためなのだ。彼らを愛しているのならそうすべきだ。と言いたくなる。
 
 しかし、日本はそうはできまい。欺瞞に満ちた生活を続けている息子に対して、おろおろして何もできない老婆のようになってしまった日本は。

日本は、ユダヤ民族と正反対で、豊かな自然環境で敵も少なく生きてきた。永い間の不条理な苦しみを体験せずに生きてきた。大らかで、自然との調和ある原始信仰をもち続けてきた。一国で生きていくのにはまことに快適であった。

ところが、青天に霹靂が降ってきた。産業革命を経た西欧諸国が来た。全く性格の異なった強力な彼らと付き合わねばならなくなった。おおらかなカミの国なんて、許してもらえるはずがない。後は誰もが知る、昭和二〇年まで一直線まっしぐら。

それから七年後、出獄してきた人のように、日本はおかしくなって帰ってきた。


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道徳とは何か1

道徳とは何かを考えてみた。

 まず〈それがないとどうなるか〉を第一に想像してみる。
 もし道徳がなければ、社会生活は円滑に進まないだろうと思われる。一番単純には、強いもの勝ちになるであろう。強いものが弱いものを支配する。強いものはしたい放題。気に食わない者は殺してしまえばよい。
 すると、この強者をねらう強者が出てくるであろう。さらにそれをねらう巧者が出てくるであろう。信頼はなく戦々恐々とした日々を送れねばならない。

 それが厭なら、人は他人に危害を加えてはいけない、とう法を作って、それを順守しなければならない。しかし、厭という者は弱者である。強者は法を嫌う。あるいは強者の支配に都合のよい法を作って、それを守るよう他者に強要する。
 すると、弱者が一時的に団結して、その支配者を倒そうとするであろう。倒した暁には内部分裂するであろう。そこからまた強者がのし上がってくるであろう。

 そういうわけで、終にはみなバラバラに、せいぜい家族単位で自活するしか道はなかろう。けっして集団として生きていくことはできない。文明はあるところで停止したままであろう。

 まあこれはもしもという想像である。現実の人間社会はそうではない。われわれは集団をなして生きていて、高度な文明を生きている。


 観点を変えてみよう。この地球上の生き物は、とにかく生き延びようとしている。種として個体数を増やし延々と生き延びようとしているように見える。ばらばらに生きている生き物もあれば、集団をなして生きている物もある。蟻は一匹の女王蟻を中心に完全な集団をなしている。その分業秩序は見事であり、あたかも全体で一つの生き物のようだ。

 ミナミゾウアザラシはハーレムをつくり、一匹の最強のオスが多数のメスに子を産ませ、それが強い集団を維持し、集団は長らく生き延びる。この種はそういう方略で生きている。

 お猿の集団も似たような生き方をしている。最強のボスは、餌もメスもまず己の自由にできる。しかし、集団に危機が迫ると身を挺して集団を守る。そういう責任感をもった強い猿がボスになって、集団は生き延びる。婚期が近付いたメスは他の集団に嫁ぎに行く。それが集団を維持する生物学的要請だ。(原始的な人間社会もそのようであったようだ。)これが、お猿という種が何時までも生き残るために採った方略だ。

 では、人間種はどういう方略を採っているか?
 人間は集団をなして生きるが、残念ながら、蟻のように生まれつき勤勉ではない。自ら進んで己に与えられた仕事をしない。でき得れば自分だけは楽をしたい、得をしたい、さらに他人よりリッチになりたいと思っている。そのために邪魔になる人間を抹殺したいと思う。そこで、どうしても集団を維持していくには、集団の構成員一人一人に働きかける掟を、生命は与えた。その掟はもちろん先天的な観念のように強く心に働きかえるものでなければならない。それが道徳というものではなかろうか。

〈人を殺してはいけない〉〈人の物を黙って盗んではならない〉・・・。それらは、人が生みだした掟ではない。天が、生命が、与えたものだ。あるいは言葉を代えれば、人間という種が、自ら生き延びるために採用した方略だ。




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蓮開花す

8月16日朝、ついに開花しました。
m 006   P8160247.jpg

夜はおおむね閉じてしまいます。 
 
8月17日(本日)さらに大胆に開花。
昨日の花が15歳の乙女とすれば、これは25歳の女盛りか。


m 018 P8170263.jpg



こちらも大胆になって覗き込むと、面白いことにおしべと花弁とは截然と分かれているのではく、連続しているように見えます。

印象を頭に叩き込むために、さっそくスケッチ。
P8170258.jpg

俵万智ふうに 
 そのうちに咲くと思っていたけれど
  ほんとに咲くとどぎまぎするわ

 

 8月16日というのが気になる

 送り盆 父母のたしかな 届け物

 亡き人の 志かな 蓮ひらく



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お盆

今日はお盆でお墓参りをしました。

3年前に亡くなった知人Tさんのお墓と、そのすぐ近くの、Tさんが生前(数年前)に、ある人のために立てたお墓と。じつはTさんの後半生はその人の再来(生まれ変わり)なんです。

Tさんは、小生が親しく交際させていただいた人の中で、もっとも不思議な、そして傑物でした。大正3年生まれ。東京で育ち、占いの命じるまま西に向かう。終戦後、多くの孤児たちを自ら育て、実の子供はいませんでしたが、母よ、救世主よ、と多くの人たちに慕われ尊敬されていました。ざっくばらんで、誰にも率直に親しく声をかけ、その上とても繊細でした。小生もずいぶん世話になり、またよく食事や旅行に誘ってくださった。とてもさみしがり屋さんでもあり、晩年は他人からあがめられることの孤独について洩らすこともありました。

Tさんは、昭和30年代に離婚し、数日間おかしくなったそうです。神がかりになって、入ったのですね、ある人が。そのある人とは山田梅次郎さんといって、昭和16年に亡くなった宗教家なんです。そして、Tさんは山田さん宅を突然訪問するのですが、山田さんの家人は「お待ちしておりました」と言ったそうです。以後、Tさんは宗教家と自覚し活動を開始したのです。

今日昼の暑いさなか、Tさんが書き残した墓碑銘をつらつら読んでいたのですが、その山田梅次郎さんは中山善兵衛という人の生まれ変わりなんだそうです。なんか気になって、帰宅して調べてみたら、その人は天理教の教祖の中山みきのご主人ではありませんか。そして、中山みきという人の生きざまを読んでいて、Tさんのそれが重なってきて、不思議な気持ちになりました。それに蒸し暑さも加わって、頭がぼーとしました。

Tさんの残した一句が浮かんできます。

流木に 過去など思ひ 夏の浜




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蓮の花

こんな嬉しいことはない。
蓮の花芽がでました。7月中にでなければ、今年はだめだとあきらめていた矢先、知人が葉の茂みの中に小さな花芽を発見してくれました。
小生、失意のうちにも、来年の実験計画を立てていました。すなわち、増えているであろう蓮根を小分けにし、肥料の種類、量、日光照射などの条件を変えて、栽培しようと。

嬉しいので、写真アップ。7月と今月8日と本日。たった一つの小さいものですが、小生にとっての今の宝です。

写真 155   写真 164   m 007

↑小さいバケツのは、宇佐神宮産種を今春に植えたもの。
花芽のある火鉢のは去年植えた鶴舞公園産種。

朝夕に水遣るごとに探す花芽(かが)
  深き淵よりつひにい出きぬ


蓮の花といえば、お釈迦さまが連想されますね。我が家の仏壇の引き戸にも蓮池が描かれています。この意味はいろいろな説がありますね。

美しい花はこの泥からこそ咲くことができる。人の住む世は泥である。われわれは生きるためにこの泥から栄養を取らねばならない。食べるために欲望のままに、この閉じられた世界で這いずり回っている。しかし、この世を超えた世界(価値)があることにかすかに気づいてもいる。あるいは、それを想定せずに生きることはできない。・・・


南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・↓↓・・・南無妙法蓮華経・・・

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生命の進化

 地球上の何億年の生物進化の話を聞くのは面白いですね。恐竜は体を大きくすることによって長く生き延びたとか、そのとき体が小さかった哺乳類は夜行活動ができるように聴覚を発達させて生き延びたとか、鳥類は体を軽くするためにその骨の構造を空洞したとか、魚類は速く泳げるために流線型になったとか。
 そればかりではなく、細胞の構造や機能、遺伝子の機能に至るまで、ことごとく合目的に変化し作られてきたようにみえますね。 

 昆虫と植物などは、それぞれ生き延びるための奇想天外の工夫、他類がああすればこうする、だましだまされ、戦略の傑作ぞろい。
 このごろは撮影技術の向上で、テレビでその様子が身近に見えておもしろいですね。

 で思うんですが、この例えばある種のコウモリは洞窟の暗闇に住んで超音波を発して獲物を捕らえるようになって生き延びた、と言う時、このような作戦を練り、このような機能、形態をとってきたのは、コウモリなのでしょうか。しかし一匹一匹のコウモリにそんな意志はないでしょうし、またそうなろうとしてもなれるはずはありません。それならば、その〈コウモリ族という生命の一団〉の意志というしか、ありませんね。
 
 そうすると、あらゆる生き物の在り様は、それぞれの種を背後から統括し推進している生命が採った、この地球上に生きるための方略の姿ですね。

 そして、今地球上で何万種類の生き物が居るかしりませんけどね、今居る生き物の種類より、かつて生存していて今は絶滅して居なくなった種類のほうが、はるかに多いと言うじゃありませんか。絶滅した種は生きるのに失敗したんですね。もちろん突然の環境の変化によるものだったかもしれません。

 そしてまた、今なお滅びつつある生き物もいるし、また新種も生まれつつありますね。少なくとも環境が変われば、それに即応した生物が生まれてくる。生命はなんとかこの地球環境で生き延びようとしているように見えますね。この絶えず工夫し動いている生命のダイナミズムには驚かされます。

 ところで、この生命の動きを思い描いてみると、どんどん枝別れをして成長してゆく樹木を思い出します。そうそう生物の系統樹というのがありますね。あの系統樹が絶えず激しく伸びている様を想像するとよいでしょう。

 例えば何百万年前類人猿が枝分かれをし、一方は人間に一方は猿属になっていったと考えられていますね。他のあらゆる生物が系統樹のどのあたりの位置を占めるか、形態的機能的に想像できますし、今ではDNAの解析によって、さらに厳密に分かってきているだろうと思います。

 すると、系統樹を源流の方へ遡っていけば、たった一つの種になってしまいますね。これは一体何だったのか。この生命が地球上に出現したのは。これは驚くべきことです。このことに一番最初に驚いたのは、たぶんダーウィンだったのではと思います。

 ダーウィンは、一般に「自然選択説」で有名ですね。つまり、生物は各世代において絶えずランダムに微小な変化をしている。そして、その変化したもののうち環境にもっとも適したものが生き残る、適者生存ですね。そして、それが何代も積み重なって、適者としての種ができる、というのですね。

 しかし、どうもそればかりでは説明がつかない。たとえば、キリンの首は長い、それはもともと馬みたいなのがいて、それがある地域においては、木の高いところにある葉を食べれるような首の長いのが有利だから、少し首の長いのが生じた、そしてさらにそれより長いのが、というふうに、何代も積み重なって、キリンができた、となります。しかしどこの地層にも、中間的な長さの首が出てこない。どうも微小な変化とは違う。キリンという種は、突然出現したとしか考えられません。

 しかも、考えてみるに、キリンの長い首を支えるためには、それを支える骨格全体も変化しなければならないし、脳に血液を送るべく、高い血圧を生じさせねばならないし、そのための心臓や血管もおそらく神経系もそれなりに変化しなければならない。となると、体のあらゆる部分が連動してうまく変化しなければならない。
 これはもう、全体がキリンをねらって組み立てられたとしか考えられません。となると、キリンやゾウなどのような大抵の特殊な形態を持った種は、あるとき一気に唐突に出現したのではないか、となりますね。

 しかし他方、ウイルスの素早い変異や抗生物質に対抗する耐性菌の出現などの、小さな変化は自然選択説でも説明できるかもしれませんね。

 ダーウィンは、人間は猿から生じてきたとして、特に宗教界から攻撃され続けています。しかし、『種の起源』では、彼は自分の説ではすべてを説明できないと言ってますし、生命が種となって枝分かれをしてきたのではないか、そしてそれを遡ればたった一つの源生命Xになる、ということに彼本人がいちばん驚愕していています、そこが小生にはとくに面白く感じます。宇宙における生命の神秘の前で、彼はあっと口を開けている姿が浮かんできます。彼の眼には見えたんですね、生命の躍動が。


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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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