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『古事記と日本人』

渡辺昇一著『古事記と日本人』再読。

『古事記』に表れた神話とゲルマン神話が酷似していること。明治維新の神道オンリーの方針は、用明天皇以来の皇室の方針に反対する偏狭さがあったこと。神代と人代を分かつのは、皇室の九州時代と大和時代における豪族との対応の違いであって、前者においてはいわば平和外交が主であり、後者は戦争と殺戮となること。などいろいろ共感したり、教えられ考えさせられることが多かった。

 また興味深かったのは、カントには祭りの概念が欠けている、という点だった。祭りは神様を喜ばせようとすることであり、芸能の起源である。われわれは、悦びのために存在していると言っても言い過ぎではない。しかるに、カントには勤労とか義務とかが最重要であり、これはプロイセン・ドイツの男性的原理の社会にふさわしく、プロテスタント的傾向もこれを支持する、という。

 この解釈に疑問を感じつつも、たしかにカントは人間の集団的陶酔の民俗学的ルーツの探求はしなかったように思う。というより、そのようなことは問う必要がなかった。彼にとって、快楽の感情の及ぶ範囲を正確に測定すればよかった。

 そしてまた渡辺氏は、国家についての二つの傾向がある。一つは国家の起源を超自然的要因に結びつける。もう一方は現世的な要因のみで成り立つ。だんだん、前者が少なくなって、後者のように考える傾向が増えてきている。啓蒙主義の後、アメリカは独立宣言を発表したら国家は成立。フランスは革命を起こし憲法を作成したら国家は成立。ソ連は言うに及ばず。これらは容易に大量殺戮に向かう、「日本はその起源が神話に基づき、その文化の中枢部はかつて啓蒙されきることがなかった。ここに日本が二十一世紀を生き抜く鍵があると言ったら超自然的すぎるであろうか」と書いている。

 欧米の国家観については、小生疑問があるが、渡辺氏の言う日本の文化の中枢部とはもちろん皇室のことであろうし、そしてこれが存在する以上、存在させている以上、日本人のいわば本能的な親和力、秩序形成力が保たれている、これなくば日本はニュートラルな弱小国になる、とも思う。
  (これなくてはいけないのですか、というレンホーの声が遠く聞こえる)

 しかし、そういう中心を持たぬ他国が、その良さを認めたところで、ではこれから持とうとして持てるはずもない。むしろ、その弱点を突いてくるであろう。近現代史を見てのとおりである。どこの国の人だって愛国心はあるし、個人的な信仰はもちうるし、政教分離を憲法で謳わなければならないほど宗教的だ。

 では、どうしたいいんだろう、日本。

     
   
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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

政治家とマスコミ

 先日の作家のKOさんの話。

・・・近年世の中を悪くしているのはマスコミなんだのよ。自分は政治家では小沢さんという人が好きなんです。というのはあの人は大物政治家だからです。もう最後のひとかもしれない。人々は、というよりマスコミは、政治家は巨額の金を不正に動かしてはいけないという。そういう政治家を断罪してやまない。しかし、吉田茂や鳩山(昔の)なんかは、もっと巨額の金を動かしていたよ。しかし、それは結局政治のために使うのだからいいんですよ。
 マスコミは政治家が何かやろうとすると、すぐ叩く、少しでも不正らしいところを見つけては、大きく報道して、邪魔をする。これじゃあ、政治家は何をやろうとしてもやれないよ。それなのに、マスコミは言う、このごろの政治家には大物がいない、と。
・・・

 小生は彼の言うことを聞いていて、なるほどマスコミとは大衆操作の略語なのだと、納得した。
 そもそも、いかなる職業の人であれ、その道における優秀さと、法律違反をすることとは関係がない。医者であれ教師であれ何であれ、極めて特殊な状況に直面した場合、その人に責任感があればある程、法を踏み外すというリスクを冒してでも、己の職を遂行しようとするであろう。そうして、そういう人に対して、人々は共感するであろう。
 
 人の心は、一方では法は守られねばならないと考え、他方法を破ってでもしなければ成し遂げられないこともある、とも思うものだ。人々が赤穂浪士の行為に共感すると同時に、彼らの処分にも納得するゆえんである。

 これを人間のダブルスタンダードと言うか。しかし、われわれの心には常にグレーゾーンがあるのではないか。小生はこれがなければ人間ではないと思う。

 政治家という職業は、あらゆる組織のトップと同じように、一段と規模が大きく、顕著である。狙った政策を実現するためには、人心掌握のためのあらゆる手練手管、巨額の金や場合によっては暴力すらも必要かもしれない。大変な心の広さ、融通無碍、そして勇気を必要とする仕事であろうと想像する。

 もし、坂本竜馬が長生きをしていたら、日本屈指の商事会社の会長になっていたであろう。その巨大な組織を維持発展させるためには、法に触れるところも出てくるであろう。ハイエナのように嗅ぎまわっているマスコミはここぞとばかり掴んで離さないであろう。竜馬会長が、マスコミに屈し、いかなる法律違反もしないようにという小心翼翼の人間だったら、まあ、そもそものはじめから明治維新もどうなっていたことか。

 しかし、だからと言って、目的遂行のためには法を犯してもよい、と言えるか。ノーである。なぜなら、じっさい誰でもが法を犯しうるからこそ法を作ったのが人間であるから。法を作った理念は、法に従って生きようということだったからだ。

 法は常に人心の紆余曲折に従って改正されなければならないであろう。だが両者は永遠に一致することはない。なぜならば人の心は善でもあるし悪でもある。人間は永遠にグレーだからだ。

 KOさんの話を聞いていて思った。もし小生が子供にマスコミって日本語で何と言うのって訊かれたら、それは「悪い心」っていう意味なんだよ、と答えてやりたい気持ちになった。 

  
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テーマ : いまのニッポン我慢ならん! - ジャンル : 政治・経済

能とシェイクスピア

 シェイクスピアといえば、先日、上田邦義氏の自作自演による英語能「ハムレット」を観、それについての講演を聴いた。
 そもそも、能とシェイクスピアなんて、まったく水と油でどう考えても混じり合わないと考えていたから、いったいシェイクスピア能とはどのようなものであろうと興味しんしんであった。

 上田氏は先に、自分はどうして英語能などというものをやり始めたかを語った。英文学の専門家として氏は戦後まもなくしてフルブライトで米国留学をされた。そのとき、すでにシェイクスピアの原文の美しさに捉えられると同時に謡曲の詞章の美しさにも捉えられ、シェイクスピアの作品の能化を考えておられたそうである。
 それでまずは、謡曲の節付け、謡い回しをもってシェイクスピアの詞章を謡い始められたそうだ。それをすこし披露されてから、能「ハムレット」を独謡独舞された。

 弱吟の「To be or not to be」でもって始まり、オフェーリアとの愛を回想する。このとき、「葵上」の手法で一着の衣が今は亡きオフェーリアを象徴する。途中で「To be or not to be」が強吟で謡われるのは、巧みだと思った。これは、そのまま、生死を超えるという意味合いで「Readiness is all」(肝心なのは覚悟だ)になってゆく。
 そして後段は、レイアーティーズの剣に倒れるハムレット。「人生は一瞬の夢」が強調され、「Flight of angels sing thee to thy rest」が繰り返され終わる。歌はもう「江口」のキリそのもの。これを聴いていると、ハムレットも普賢菩薩に救われるような感覚に襲われる。

 つまり、氏が述べるように、極端に簡略化されている。まあ、そうでなければ能にならない。

 これを観ていてなるほどと思った。これは能なのだ。じつにうまく能にしたもんだ。だがシェイクスピアではない。(当たり前か)シェイクスピアの悲劇には、エゴイズムをもつ人間のどうしようもない業、人生のどうしようもなさ、そしてけっして救いはない、というものを感じる。
 能にはそのようなものはない。どんな怒りに責めさいなまれても、最後は仏果を得るぞありがたき、となる。

 ところで、氏の講演はしばしば脱線されてのたまわく、「たかだか80年のあっという間の人生を、自分は美しいものだけを見て生きたい」「戦後日本政府が犯した大きな誤りは、非戦を誓い、諸国民の信義を信頼していくという素晴らしい平和憲法を外国にアピールしてこなかったことだ」と。
 なるほど、氏は、昭和天皇の皇太子時代の外人教師だった○○先生(忘れてしまった)に、氏自身ずいぶん影響されたということだ。そして○○氏は、戦後の天皇に平和主義を教えたとも。
  
 小生に言わせると、氏は空想的唯美主義の権化である。それがじつに素晴らしく日本的だと思われた。まさに氏にかかると「ハムレット」も美しい夢幻能になる。ここにはシェイクスピア悲劇の世界はない。

 憲法についてただ一点。たとえ空想的あるいは理想的憲法でも、これが自主憲法であればよい。氏が非難するところの、日本政府が世界にアピールしてこなかったのは、まさにこの憲法が外国人によって創られたという負い目があるからではなかろうか。
 いまからでも遅くはない。自主憲法を制定し、心理的に自立を果たすべきである。



      

             
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テーマ : 観劇・劇評 - ジャンル : 学問・文化・芸術

うつ病一歩手前

 このごろ夜よく目を覚ます。それがだいたい4時ごろである。そして、この世でとくに興味を引くものはあまりない、それどころか何をしても虚しいという思いがこみ上げてきて、胸苦しくなる。あっ、これではいけない、と考え、何か楽しくなりそうなものを心の中で探してみる。

 仕事、社会活動、読書、旅、出会い、宗教、創作、出家・・・。こんなときは何を考えても、結局は虚しいものだ、と思えてしまう。部屋の暗さがいかん、早く夜が明けないかな、と思う。日の明るさが、日常の活動意識を呼び覚ませてくれることを知っているからだ。

 そして、ここ何年か、座右の銘というか、繰り返し浮かんでくるマクベスの言葉が浮かんでくる。

 Life is but a walking shadow, a poor player,
  That struts and frets his hour upon the stage,
  And then is heard no more;
 It is a tale told by an idiot,
 full of sound and fury, signifying nothing.

 これをなんかおもしろく翻訳しよう、そうしたら気持ちも晴れるだろう、と考えた。

 ・・・人生は動く影だ。みんな下手な役者、自分の頭の中の人生という舞台で、大見えを切ったり、大真面目に悩んだりしている。   笑っちゃうよ!
君が死んだら、君のことなど誰も憶えていないこと請け合いだ。
 人生。それは馬鹿が創った物語、青春の華やかな乱痴気騒ぎ、あっと言う間に過ぎ去って、何の意味もない。・・・

 そもそも、思い返せば、小生が二十歳くらいの時、すでにやたら人生が虚しく感じられたものだ。そのとき、これではいけない、虚しく感じるのは、真にやりたいことがないということにすぎない、認識の問題ではなく活力の低下の問題に過ぎない、と自分に言い聞かせたものだ。

 今でもその考えは変わらない。活力ある人間は、人生が虚しいなどと感じている暇などなく何かに打ち込んでいる。会社を切り盛りしたり、異性を獲得するためにあれやこれやと画策したり、創作したり、スポーツをしたり、サークル活動をしたり、and so on.

 そもそも、人生は虚しいと感じる瞬間は、何事かをやろうとする意欲が減退するときである。それには、明瞭な原因がある場合もあり、とくに原因らしきものが見当たらないこともある。前者は急性であるが、日にち薬が有効だ。時がたてば自然に治る。しかし、これを繰り返す人は、やはり体質というか、そういう気質があるんだろうな。

 後者はどうしようもない。いくらこの世が意気消沈させることが多いとは言っても、全てということはない。まあ体質と言ってしまえば、そうに違いない。なんか生命が、その個体に力を与えるのを惜しんだ、といった趣である。

 それに引き換え、いつも元気溌剌としている人は、やはり生命力が漲っていると感じる。声も大きく姿勢もいい。そういう人が部屋に入ってくるだけで、部屋がぱっと明るくなるのを感じる。やはり人には人のオーラってものがある。

 昔いわゆる躁鬱病の友人がいた。そのとき驚いたのは、躁のときと鬱のときと、彼の肌の張りがまるで違うということだった。ある時、躁の彼に誘われて風呂屋に行った時のこと。裸になって大きい鏡の前で、彼はボディビルのポーズをとったり、格闘技の選手の真似をしたりしていた。このときの彼の肌のつやと張りが、まったく文字通り光り輝くようで、普段のくすんでたるんだ肌とはまるで違い、その隣にならんだ小生と見比べて、その若々しさに圧倒された。そのとき、いったい病気とは何か。病気が正常より健康そうに見えるのはなぜか、と不思議に思ったことが忘れられない。

 しかし、見た眼だけが美しくなればいいのだけれど、彼の行動はもう社会的規律を破って困った。調子が良すぎて一晩に何軒も梯子して借金だらけ、周囲はそれを抑えるのに難儀した。
 
 病気で不思議だと思ったことをもう一つ思い出した。関節リウマチの知人がいて、彼女は明日雨が降るよ、という。たしかに翌日は雨だ。これなんかは、病気が知覚を鋭敏にしたのだろう。

 なんにせよ、われわれは潜在的にいろいろな能力を有していて、普段はそれが抑えられているが、それがあるきっかけで、突然解発されるのかもしれん、まあ〈正常に〉生きるためには、正規分布の中ほどにいることが必要なんだろうな、と推測する。



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テーマ : 心と身体のケアを大切に! - ジャンル : 心と身体

対角線の数

先日、五角形の対角線の数は何本か、という問いがあった。小生は頭悪いので、描いてみないと解らんので、描いていたら、では六角形はいくつだろう、七角形はいくつだろう、では、一般にn角形の対角線の数を定式化できないものか、と考えた。

合計3時間くらいかかって解った。こんなもの、数学的センスがある人なら中学生でもすぐ解るだろうけど・・・。まあ、小生にとっては、この程度のこと考えるのが、程度に合っていて楽しいし、少しはボケ防止になるかもしれんて。

まず、やはり図を描く。
○四角形の場合。一つの頂点から一本の対角線が引ける。次に隣の頂点からまた一本の対角線が引ける。それでおしまい。
これを、1+1=2(本)と書く。

○次に五角形は、同様に、一つの頂点から2本、次の(隣の)頂点から2本、さらに次の頂点から一本。でおしまい。
これを、2+2+1=5(本)

○次に六角形を、同様に描くと。対角線の数は
3+3+2+1=9(本)

○さらに七角形の対角線の数は
4+4+3+2+1=14(本)

○8角形の場合
5+5+4+3+2+1=20(本)

こうなると、n角形の対角線の数Nはこうなるだろう
 N=(n-3)+(n-3)+(n-4)+(n-5)+・・・+2+1

これを前後ひっくり返すと
 N=1+2+3+・・・(n-4)+(n-3)+(n-3)

さて、似たやつ、どこかで見たことがあるな・・・
 T=1+2+3+・・・+t  これ、公式に表わせたはずだが・・・思い出せない
どうするか。ここで詰まった。しばらく諦めていた。ところがその三日後の仕事中、ふぃっと頭に浮かんだアイデアがこれだ!

こうすればよい。
 T=1+2+3+・・・(t-2)+(t-1)+t
これを前後ひっくり返して書くと

 T=t+(t-1)+(t-2)+・・・3+2+1

この二つの式を上下にピタッと張り合わして足すと
2T=(t+1)+(t+1)+・・・〈t個できる〉
=(t+1)×t =t(t+1) ゆえに
T=t(t+1)/2・・・ⓐ式とする。

とすると、
N=1+2+3+・・・(n-4)+(n-3)+(n-3)は
ⓐ式のtにn-3を代入し
N=(n-3)(n-2)/2+(n-3)
 =n(n-3)/2  という解が得られた!

では試しに、
n=5のとき、N=5×2÷2=5
n=8のとき、N=8×5÷2=20  おっ合ってるようだ。
n=10のときN=10×7÷2=35  これも合っていそうだ。
n=100のときN=100×97÷2=4850 ありえる。 

すごく嬉しいけれど、なんかもっと簡単にこんな式出来るような気もする。  

というのも、N=n(n-3)/2という式にじっと目を凝らすと、
三角形のときは、一つの頂点から隣り合った頂点に対角線を引くことは出来ないから、
nが3のとき0になる式 n-3 が含まれているに違いない。
つまり式は X×(n-3)となる可能性が濃厚だ。

そうすると、なんとなくn角形の場合、nがどんどん大きくなると、対角線の数も
さらにどんどん大きくなるから、n×(n-3)というのが式の中に含まれていそうな
気がする。とすると初めに図形に線を引いた手順を思い出し、1+2+・・・を
連想して感のいい人だったら、すぐ解を出せるかもしれない。
と思うと、なんか虚しい気もする。 


つれづれまるままに、日くらしPCにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ
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テーマ : どうでもいい報告 - ジャンル : 日記

晩夏の名残り

 それにしても、わが庭には、季節はずれというか、長い夏の残響が聞えています。
すべて今日の映像です


白い百日紅(さるすべり)              
PA100444.jpg

槿(むくげ)
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 月下美人は毎年、7月~9月にかけて、2~3回咲きます。こんな遅くに咲いたのは、初めてです。

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 かくも濃き白さを出すは一年(ひととせ)の
    しのぶこころのゆゑにぞありける

 遅れ来てほんの一夜の秘めごとの
     甘きかをりもあした消ゆべし


朝顔も今年は遅くまで花開いていますね。春に欲張って種を撒きすぎたので、フェンスが「花ざかりの森」となってしまいました。
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かぎりなく 夏のなごりを 尽くしをり

あの蓮は無惨にもかくのごとし
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 蓮折れて 一夏の栄華 そらに消ゆ


        
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         ありがとう

テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

超越的唯一神補遺

 今年の長い暑さのためか庭の景色が例年とは違う。庭では百日紅と槿がまだ花盛りなのに金木犀が香る。今夜この「寒露」に!月下美人が咲いた。庭でメダカの観察をしていると、まだまだ蚊に刺される。

 ところで、前回の小生の言い方は、なんかおかしいな。ブレーキが利かず停止線を越えていった感じだ。まさに〈超越的〉。しかし、この〈間違い〉はさらに考えさせられて面白い。小生の言い方だと、キリスト教のエッセンスは、歴史を否定し、文化を否定し、キリスト教そのものをも否定することになりそうだ。

 文化としての宗教(われわれがふだん宗教について話すときはこれである)というレベルでは、純粋な一神教は、ユダヤ教とイスラム教だ。キリスト教は理解不可能な三位一体があり、またマリア信仰も旺盛だ。なんかむしろぼんやりと多神的だ。
 
 イスラム教はその点とても明瞭な一神教だ。『コーラン』には、唯一の神がある、それには名は不要である、アッラーと言っておこう。イエスもムハンマドも預言者、すなわち人間であるにすぎない。神の教えを守って生きれば天国に行ける。天国とは「こんこんと絶えず泉が湧き、緑なす樹樹は陰をなし、甘い果物は食べたい放題、若い美女たちがいっぱい、抱きたい放題、しかも老いることがない、永遠の青春を与えられる」

 こんなところに行けるなら、小生だって自爆テロなどなんのその。
 このあまりにも具体的な天国は、しかし、昔ながらの生物としての人間のこの世的な欲望の投影だ。この教えは閉じられていて、超越的な契機を欠いている。

 もう一つの一神教であるユダヤ教。これも名前は要らぬ。ヤハウエとでも言っておこう。この神は圧倒的に強い神。父性の権化。この陰気で、秘密結社めいたユダヤ教徒は、その律法にがんじがらめになっていて、天国がちらつくその閉鎖性の中で、心理は屈折し、たえず内向してしまう。

 それを引きつだキリスト教は、やはり天国にいけるとはいうものの、天国とはどんなことろか決して明らかにしない。それどころか、それはぜんぜんいいところではないかもしれない。しかし、そこには何か〈開放〉の機運がある。そこに至る道はいばらの道かもしれない。それでもいいか、と問われているような気もする。

 新しい神キリストは、信者が創る教会を憐れみの心をもって見つめるだろう。やはり彼らには文化が必要なんだ。彼らには政治が必要なんだ。しかし、キリストは、迷わぬ99匹を置いてでも、迷った一匹を探しに行く。徹底的に反政治的なるもの。それは宗教であって、しかも宗教の域を超えている。

 小生は何ゆえキリスト教が、当たり前だと思われている人間社会を超えるような、超越的契機をはらんだものではないか、と言いたくなるのは、まさにそのことをキリスト教文化圏に生きた後に実存哲学者とよばれる青白い熱血漢たちに、そのことを示唆されたからである。




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なんかなー

テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

超越的唯一神

 キリスト教でいう神は、小生は絶対善の究極的観念のようなものだと思っている。だから、キリスト教は諸宗教の中で極めて道徳観念と結びついている。平たく言えば、自然と調和し、自然を崇める、大昔から世界の至る所にある自然宗教とはずいぶん趣を異にし、いわば進化している。ここで変化と言わずに進化と言った理由は、おいおい述べよう。

 宗教は人間の心を救うものだ。宗教はもともと、我々の生存を脅かすもの、われわれの不安から、われわれを救ってくれるものだ。
 明日の食事を獲得できるように、森の神、海の神に祈りをささげる。試験に合格できるように、霊験あらたかな神にお願いをしに神社に参る。病気が治るように、シャーマンを通じて祖霊に祈る。
 
 宗教とは別に、われわれは集団生活をする生き物として、善いことと悪いことの区別を知っている。しかし、状況が複雑になるにつれ、またわれわれの個人的欲望が増大するにつれ、何がいいことで何が悪いことか判別が難しくなってきた。それで紀元前の大昔は、たとえばユダヤの律法のように、とにかくいくつかの文言に書き表した。そして、神の命令ということを付け加えれば、その文書に権威づけができる。
 この時点で、つまり人類が誕生してからずいぶん後になって、道徳(善悪)と神とが結びついた。

 イエスが、ある時出現する。彼は善悪について逆説的ともいえる、極端な行為と言葉を残したと後の弟子たちが語っている。
 彼が語ったという言葉の一つ。私に付いてくるなら、すべてを捨てて来なさい。すべてとは、財産のみならず、肉親も、一切の持ち物も、今まで信じていた思想も、ということだ。イエスの弟子に語ることはすべて実行不可能なことばかりである。
 しかし、ここから、われわれの絶対的善の神観念が生まれてくる。これを基準にしてわれわれは善悪を考えることができる。
 
 道徳は、あるいは善悪は、時代や地域や育ちによって異なる、とは言うものの、ここにおいて、それは己の考えを徹底しては疑わないという意味になる。その時代の道徳観念に従うことはむしろ易しいことだ。イエスは本質的な点で時の道徳に従わなかった。キリストは言う、一切の自己閉鎖性から自由になれと。これは神の声を聴けということと同義語なのであるが。しかし、これはとても難しいことだ。われわれは懐疑を止める。あるいは、換言すれば信仰を止める。

  そしてまた、われわれが、己の行為について、どうするのが最善か考えるとき、己の心に、つまり最善を知っている神に問い合わせる。もちろん、われわれは、なかなか最善を実行することが出来ない。実行できなくても、最善を知っている、あるいは心の中で探求することができる。しかし、どこまでも続けることはできない。われわれは探求を止める。あるいは信仰を止める。

 小生が言う「キリスト教のエッセンス」とは、そういうしんどい作業を続けることであり、完全に実行できる人はまずいないと思われる。しかし、このエッセンスは、いかなる教会組織とも関係がない。もちろん神父さんの中には、〈かなりの人〉もいるのであろう。が、また一般人の中にも、同じように〈かなりの人〉もいるであろう。西郷さんも〈かなりの人〉であったと想像される。

 この場合、神というのは、もちろん物理的実体はない。人間は物理的、生物的実体をもつ。それは、人間もまた動物だということだ。しかし、それは半分の真実だ。
 神はあるとき人間が創り出したものだ。何らかの必要があって。それは観念だ、と言いたいが、それにしては、何というか、生々しすぎる。
 比喩的にこう言えるかもしれない。それは数学のようなものだと。とこう言うと、プラトンのイデアになってしまうが。

 数学はこの世にあるか? ノーである。それは数学者の頭の中にある。(脳みそではないのよ!)自然数から実数へ、分数、無理数、虚数。この虚数というのは傑作だ。方程式の解にルートの中がマイナスになった。ではこれを i とつけよう。i はimaginaryの略だ。二乗してしてマイナス3となる数を√3iと表現しよう。なんで!と小生が叫んでもしようがない。数学者の頭の中では、数学が厳格な論理をたどって、絶え間なく拡張していく。彼らにとってはこれが嬉しいのだ。とろこで、このわれわれから見ると、数学者たちの勝手きわまりない数学世界が、現実の科学に何と役立っているのか驚く。この世にない数、どう想像していいか分からぬ虚数や複素数(a+√3iとはいったい何?)、これなくては、コンピューターやロケットが作れない。

 で、神もそのようなものだ。人々の頭の中に、これが宿るようになってから、つまり超越的唯一神の宗教と道徳が手を結んで以来、われわれの道徳が一段と精度を上げ、普遍性に近づけるようになったのだ。
 中世に秋が来て、素朴な信仰者が、実体化して考える神は、いずれ捨てられ忘れられる時がくるかもしれない。が、あの〈超越的唯一神〉はなくなるとは考えにくい。

 こうやって、我々人間は、顔形はさほど変わらぬとも、じつは進化している。




おいおい忘れちゃいけませんぜ
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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

道徳とは何か 5

 カントの示唆によって、小生がとても面白く感じることは次のことだ。

 道徳は人間種がこの世でより上手く生き延びていくために必要である。しかしそのためのみあるのだとするなら、動物における本能の役割を演ずるにすぎない。

 が、それ以上のものが人間にはある、それは快不快あるいは幸不幸などというものから隔絶された、いわば善悪の絶対的判定の追及ではあるまいか。そしてこの追及は、一般論としてではなく、具端的な己の心の態度として、己の心においてのみ為されるならば、小生はこれこそキリスト教の「可能性の中心」ではないかと密かに考えたくなる。

 すでに触れたように、カントは教会組織としてのキリスト教には関心を持たなかった。カントにとって神がまず存在するから道徳が措定されるのではなく、まずわれわれに道徳法則がいわば義務として備わっているからこそ神が要請される。まず初めに神がどこかに存在していて、天国だの地獄だのの恐怖や強制をもって善を為さしめることを嫌った。

 キリスト教の源泉の躍動は、むしろカントの方にあるのではないだろうか。利己心の塊であり、身勝手きわまる人間種に手を焼き、これをなんとか存続させようとする生命の方略は、あるとき神の命令として単純な〈言葉〉に表されたのだった。しかしわれわれの内なるもっとも基本的な法則が、しかしいつしか外部からの強制になっていった。

 われわれ日本人が西洋を知り始めた時、キリスト教の教えと危険を漠然とは感じてはいても、そのあたりの事情は解らなかった。明治時代が積極的に受け入れてきたものは、根源的躍動が薄まってほとんど忘れられてしまった、いわゆる〈キリスト教文化〉にすぎなかった。

 しかし、われわれが付き合い始めた十九世紀西洋は、啓蒙主義の播いた種が実を結び、行くところまで行った時代だった。神は人心掌握の悪魔と手を結ぶ。また科学技術が飛躍的に向上し、科学主義が人々の心を奪う。しかしいっぽう産業や戦争の規模が大きくなるにつれ、人々はその奴隷になることの不安を抱き始め、新たな宗教を求める。

 そういう向うから押し寄せるダイナミックな波に、とにかく浮袋をつけて乗ってきたのがわれわれだ。波を生んできた力と真に格闘することなく、またする必要もなかった。それは、われわれの置かれた条件、地理・歴史を顧みれば、当然である。われわれにはわれわれの問題があった。しかし、いま日本人にまったく新しい問題が与えられているように感じる。

 経験にかかわらぬ(誤解されやすい言い回しだ!)普遍的な絶対的善悪の追及。たまたま西洋で唯一神の信仰という形をとってきた、自然によって人間種に与えられた能力(道徳)のさらなる発展。これこそキリスト教文明の精華であると小生は感じる。がしかし西洋はこれ以上、問うことを止めたかにみえる。

 あるいは、あまりにも現世的欲望にまみれ、不安から逃れることができない人間のあり様に、もう一度問い直しを迫られているのかもしれない。しかし、人間種が人間種であるあいだは、けっして従来の問いは消えることがないはずだと思う。

 自然信仰や古い神々がいまだに息づいている日本人(本当にそうか?)が、西洋の問いを受け継ぎ、それに対する新しい突破口を発見できる可能性があるのだろうか。そう信じたいが・・・。希望的観測。



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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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