奈良見物 3
不退寺に着いたのは、日もだいぶん西に落ち、夕闇が背後からそっと近づいているころであった。門前は鬱蒼とした木々でなお暗い。門から本堂がすぐそこに見えるが、灌木の茫々たる茂みで、かなり隠されている。落ち葉が散らかり、あまり手入れはされていない様子である。あの末摘花が侘び住まいの荒れ果てた屋敷をいやでも思い出させる。
門は四脚門。左手に料金窓口があるが、このところ使用した形跡はなく、窓口はしっかり閉じられている。この寺はあまり人が訪れないのであろうか。荒れ果てた古寺とさえいえる。小生も業平ゆかりの寺というのでなければ、わざわざ寄らなかったかもしれない。
勝手に入っていくと、「石棺」を示す矢印のままに進むと、住職と思しき老人と中年婦人がいる。そこで料金を払う。縁側で焦げ茶色の猫が眠そうな目をこちらに向けている。
石棺は、大昔近くの古墳から運んで来られたものであるらしい。説明には「心ない草刈りの人らが鎌を研いた痕が沢山残っている」とある。しかし、昔の人たちにとって石棺がとくに貴重なものであったわけではなかろうに。石棺は石風呂に見えた。
本堂に入ると、さっきの老人が危なっかしい足取りで、急いで追ってきて電気を灯け、尊像などの説明を始めた。今まで何千回と客に向かって繰り返したであろう有り難い説明は、しかし小生の耳にはほとんど入ってこなかった。ただ、ここがあの業平が建立した、あるいは少なくとも一時は居たところだという思いが、胸の内に反響していた。
この本堂は古めいたしっかりした建物だ。庭正面から見直すとさらにはっきりする。そしてまた、所せましと生えている躑躅や椿が剪定を免れて茫々となっているのが、何となく似つかわしい。
古寺・・・業平の青春の恋物語、筒井筒の思い出は、謡曲『井筒』にあますところなく描かれた。
「さなきだに物の淋しき秋の夜の、人目稀なる古寺の庭の松風ふけ過ぎて、月も傾く軒端の草。忘れて過ぎしいにしへを、しのぶ顔にていつまでか、待つことなくてながらへん。げに何ごとも思ひ出の、人には残る世の中かな・・・」
そして、井筒の女は昔を想い、昔を演じる。
「今は亡き世になりひらの 形見の直衣身に触れて 恥づかしや 昔男に移り舞 雪を廻らす花の袖・・・ここにきて 昔ぞ返す在原の 寺井に澄める月ぞさやけき
「月やあらぬ 春や昔とながめしも いつの頃ぞや
「筒井筒 井筒にかけしまろがたけ 生ひにけらしな 生ひにけるぞや
「さながら見みえし ・・・業平の面影
「見ればなつかしや・・・
*
いったい今は昔とある古人は言ったが、昔とはなんであろうか。
過去とは何か?
年表を開けて、今は2010年だ、1945年は大東亜戦争が終わった年だ、794年は平安遷都だ、それらは過去のことだ、というとき、それは実は過去ではない。文字通りすべて同じ平面上にある現在だ。恐竜がこのあたりを練り歩いているところを想像しても、それだけでは過去ではない、現在の映像だ。
とすると、過去の過去たるところは何に拠るのか。それは「懐かしい」という感情にあるのではないか。
翻って今とは何か?
今という瞬間はない。それは微分学的観念にすぎない。「今何をしている」と問われて、「今は手を洗っている」というとき、今とは5秒か10秒くらいのことであろう。「今伊勢物語を読んでいる」というと、ここ一週間くらいのことであり、「今料理学校に行っている」というと、2、3年のことををさすであろう。つまり、今とは関心の領域を示す用語だ。
とすると、小生のように常に大昔のことを想っている人間にとって、今とは何か。むかし男ありけりの物語はじつに今に属し、そしてそれが懐かしいと感じるならば、そのゆえに確実に過去たりえている。昔が今によみがえるとは、そういうことではないのか。歴史に触れるとは何か。
懐かしいという感情。それは、あの時は二度と還ってこないという思いである。取り返しがつかないという思いである。
その時、年表の右から左に増える年号の無機的な羅列とは別に、それと垂直に交わる深みがあるのに気付く。それこそ、真の過去と現在とが交流する生きた歴史であり、自分がそのうちにあることに気づく。


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門は四脚門。左手に料金窓口があるが、このところ使用した形跡はなく、窓口はしっかり閉じられている。この寺はあまり人が訪れないのであろうか。荒れ果てた古寺とさえいえる。小生も業平ゆかりの寺というのでなければ、わざわざ寄らなかったかもしれない。
勝手に入っていくと、「石棺」を示す矢印のままに進むと、住職と思しき老人と中年婦人がいる。そこで料金を払う。縁側で焦げ茶色の猫が眠そうな目をこちらに向けている。
石棺は、大昔近くの古墳から運んで来られたものであるらしい。説明には「心ない草刈りの人らが鎌を研いた痕が沢山残っている」とある。しかし、昔の人たちにとって石棺がとくに貴重なものであったわけではなかろうに。石棺は石風呂に見えた。
本堂に入ると、さっきの老人が危なっかしい足取りで、急いで追ってきて電気を灯け、尊像などの説明を始めた。今まで何千回と客に向かって繰り返したであろう有り難い説明は、しかし小生の耳にはほとんど入ってこなかった。ただ、ここがあの業平が建立した、あるいは少なくとも一時は居たところだという思いが、胸の内に反響していた。
この本堂は古めいたしっかりした建物だ。庭正面から見直すとさらにはっきりする。そしてまた、所せましと生えている躑躅や椿が剪定を免れて茫々となっているのが、何となく似つかわしい。
古寺・・・業平の青春の恋物語、筒井筒の思い出は、謡曲『井筒』にあますところなく描かれた。
「さなきだに物の淋しき秋の夜の、人目稀なる古寺の庭の松風ふけ過ぎて、月も傾く軒端の草。忘れて過ぎしいにしへを、しのぶ顔にていつまでか、待つことなくてながらへん。げに何ごとも思ひ出の、人には残る世の中かな・・・」
そして、井筒の女は昔を想い、昔を演じる。
「今は亡き世になりひらの 形見の直衣身に触れて 恥づかしや 昔男に移り舞 雪を廻らす花の袖・・・ここにきて 昔ぞ返す在原の 寺井に澄める月ぞさやけき
「月やあらぬ 春や昔とながめしも いつの頃ぞや
「筒井筒 井筒にかけしまろがたけ 生ひにけらしな 生ひにけるぞや
「さながら見みえし ・・・業平の面影
「見ればなつかしや・・・
*
いったい今は昔とある古人は言ったが、昔とはなんであろうか。
過去とは何か?
年表を開けて、今は2010年だ、1945年は大東亜戦争が終わった年だ、794年は平安遷都だ、それらは過去のことだ、というとき、それは実は過去ではない。文字通りすべて同じ平面上にある現在だ。恐竜がこのあたりを練り歩いているところを想像しても、それだけでは過去ではない、現在の映像だ。
とすると、過去の過去たるところは何に拠るのか。それは「懐かしい」という感情にあるのではないか。
翻って今とは何か?
今という瞬間はない。それは微分学的観念にすぎない。「今何をしている」と問われて、「今は手を洗っている」というとき、今とは5秒か10秒くらいのことであろう。「今伊勢物語を読んでいる」というと、ここ一週間くらいのことであり、「今料理学校に行っている」というと、2、3年のことををさすであろう。つまり、今とは関心の領域を示す用語だ。
とすると、小生のように常に大昔のことを想っている人間にとって、今とは何か。むかし男ありけりの物語はじつに今に属し、そしてそれが懐かしいと感じるならば、そのゆえに確実に過去たりえている。昔が今によみがえるとは、そういうことではないのか。歴史に触れるとは何か。
懐かしいという感情。それは、あの時は二度と還ってこないという思いである。取り返しがつかないという思いである。
その時、年表の右から左に増える年号の無機的な羅列とは別に、それと垂直に交わる深みがあるのに気付く。それこそ、真の過去と現在とが交流する生きた歴史であり、自分がそのうちにあることに気づく。


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奈良見物 2
法華寺は正式には法華滅罪之寺という。光明皇后御願の総国分尼寺である。門をくぐると左手に大きな江戸風の鐘楼がある。そこを迂回すると本堂だ。しかし、「名勝庭園公開中」という看板につられるまま先に奥の庭園に入る。
入ってやや狭苦しい茂みを過ぎると、池を囲んで、松、泰山木などの常緑樹が散在する中、小さな紅葉が数本目立つ。風のない午後の陰りを、池を迂回するように歩く。静かだ。鳥の声以外に何も聞こえない。
池を三分の二周したぐらいのところに、二棟の平屋がある。その縁先から庭を眺めると、手前には池の続きの入組んだ水路があり、それを取り囲む人工的な柵の中に水仙のような菖蒲のようなつんつんした葉が密生している。その外側には躑躅と苔むした石組み、さらに向こうは常緑の林。
この庭園の一種雑然たる佇まいは、おそらく代々の気質の異なった人の手が加わったからだろうと感じた。
庭を出て、本堂に入る。尊像が並ぶなか、中央の扉は閉じている。ここに入っておられる国宝十一面観音菩薩は、あの慈悲深い光明皇后の噂を伝え聞いたインドの王様が、わざわざ仏師をインドから派遣して創らせたものだと言う。きっとあまりに有り難いものなのであろう。その右隣に新しい模造が立っている。模造とはいえ白檀の一木作の名品であるらしい。出入口のおばさんが、昨日まで特別開扉期間で開いていのだけど、あれ(模造)とほぼ同じものですよ、と言って、写真を見せてくれた。 一句
思ひ思ふ 扉のむこう 秋夕べ
本堂の右手後ろに「から風呂」がある。ここで光明皇后が手ずから千人の病人の垢をお流しあそばされたところだと伝えられる。不比等の娘さんであられる光明皇后が、父の住んだ地にこの滅罪時を建てられたそのお心、夫聖武天皇のご彷徨と大仏造営とあいまって、当時の政治的社会的状況はいかばかりであったろうと想う。
年表をひもとくと
729年 長屋王の変。
737年 天然痘による藤原四兄弟(不比等の息子)の死。
740年 藤原広嗣の乱。
741年 聖武天皇、国分寺・国分尼寺建立の詔。
749年 聖武天皇譲位。娘である孝謙天皇即位。
ついでにその後
757年 大仏開眼供養。
757年 橘奈良麻呂の変。
淳仁天皇即位。
759年 大伴家持、左遷された因幡にて『万葉集』の最後歌、あの沈鬱な「新(あらた)しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」を詠む。
760年 恵美押勝(仲麻呂)太政大臣になる。
764年 恵美押勝の乱。 一首
いつの世もあらそひあれど人々のふかき心もたゆることなし


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入ってやや狭苦しい茂みを過ぎると、池を囲んで、松、泰山木などの常緑樹が散在する中、小さな紅葉が数本目立つ。風のない午後の陰りを、池を迂回するように歩く。静かだ。鳥の声以外に何も聞こえない。
池を三分の二周したぐらいのところに、二棟の平屋がある。その縁先から庭を眺めると、手前には池の続きの入組んだ水路があり、それを取り囲む人工的な柵の中に水仙のような菖蒲のようなつんつんした葉が密生している。その外側には躑躅と苔むした石組み、さらに向こうは常緑の林。
この庭園の一種雑然たる佇まいは、おそらく代々の気質の異なった人の手が加わったからだろうと感じた。
庭を出て、本堂に入る。尊像が並ぶなか、中央の扉は閉じている。ここに入っておられる国宝十一面観音菩薩は、あの慈悲深い光明皇后の噂を伝え聞いたインドの王様が、わざわざ仏師をインドから派遣して創らせたものだと言う。きっとあまりに有り難いものなのであろう。その右隣に新しい模造が立っている。模造とはいえ白檀の一木作の名品であるらしい。出入口のおばさんが、昨日まで特別開扉期間で開いていのだけど、あれ(模造)とほぼ同じものですよ、と言って、写真を見せてくれた。 一句
思ひ思ふ 扉のむこう 秋夕べ
本堂の右手後ろに「から風呂」がある。ここで光明皇后が手ずから千人の病人の垢をお流しあそばされたところだと伝えられる。不比等の娘さんであられる光明皇后が、父の住んだ地にこの滅罪時を建てられたそのお心、夫聖武天皇のご彷徨と大仏造営とあいまって、当時の政治的社会的状況はいかばかりであったろうと想う。
年表をひもとくと
729年 長屋王の変。
737年 天然痘による藤原四兄弟(不比等の息子)の死。
740年 藤原広嗣の乱。
741年 聖武天皇、国分寺・国分尼寺建立の詔。
749年 聖武天皇譲位。娘である孝謙天皇即位。
ついでにその後
757年 大仏開眼供養。
757年 橘奈良麻呂の変。
淳仁天皇即位。
759年 大伴家持、左遷された因幡にて『万葉集』の最後歌、あの沈鬱な「新(あらた)しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」を詠む。
760年 恵美押勝(仲麻呂)太政大臣になる。
764年 恵美押勝の乱。 一首
いつの世もあらそひあれど人々のふかき心もたゆることなし


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奈良見物 1
先週末、橿原に用事があるついでに奈良見物をしてきた。今年平城遷都一三〇〇年記念ということで、奈良市は常に増して地域のアピールを行っている。
せっかくだから、平城宮跡に行きたいし、そこに行くなら、そのあたりの名所を、いろいろ回りたいし、ということで、西大寺駅でレンタサイクルを借りた。いつも家ではマウンテンバイクを乗っているので、このママチャリに乗ると何となく優雅な感じがする。飛ばす気にならないのがいい。折から天気もよく、暑くもなく寒くもなく、風も軽微だ。
一一月中旬とはいえ、今年はまだまだとくに寒いっていうほどの日はないので、今日のような日を小春日和というのは変なのかなぁと思いながらも、口をついて出てきた歌が「はーるの、うらあらあの、隅田川~」。
十分かそこらで秋篠寺到着。門前駐輪して入っていく感覚がカジュアルで気持ちいい。
さほど広くない参道の両側には萩の小枝が迫り出していて、初秋の小さな赤い花びらの爛漫を幻のうちに見る。そこを折れると木立のかげは苔の海。その細道を通り抜け、料金小屋をすぎると、明るい御庭が広がっていて、そのやや右手に本堂と思しき建物がある。所々に紅葉した木が背景の緑から浮き出ている。
堂内諸尊像を見る、と言うのも変な言い方であると感じられ、むしろこちらが見られている。仏像を見るときはいつもそうだ。薬師如来を中心に、創られた時代がさまざまな尊像が十体くらい並んでおられる。このように並べ置いた古人の心を思う。
この中でやはり伎芸天のちょっと首をかしげた優美な御姿が異彩を放っている。これすでに天平時代の作であるとすれば、われわれがいま不器用にも 宗教と美術とを分けて考えている、ある心の動きが本来単一なというか単純な不可分なものだと思われる。信仰と享受はわれわれにとって分かちがたいものなのだ。
本堂とは別の方角に、ちょっと変わった、むしろ近代的な一宇の堂がある。近づくとボランティアの男女が入り口でビニール袋を渡すので、靴をそこに入れきざはしを上る。堂内正面奥で解説が言うには、いつもは六月六日の一日しか開けないが、今は特別秘仏開帳期間で開けている、これは大元帥明王という尊像である云々。
この尊像は、全身真っ黒で、なんとも恐ろしい形相をしておられる。獣のようでもあり般若のようでもある憤怒の極致、怒髪天を衝くとはまさにこのことだ。筋骨隆々、蛇を肢体に巻きつけ、腕は六本、手には法具と武器を持っておられる。
キリスト教文明においては、右手に武器と左手に聖書を持つが、密教においてはさらに沢山の手に法具と武器を持つ。そして、金剛杵のように、法具はすでに武器である。もちろん仏教においては、戦闘ははるかに精神的な意味であろうが、解脱に至る道は非常な困難を伴い、尊法護持のためには超人的力を必要とするようだ。
この濃密な密教空間を去って、ママチャリはまた爽やか秋の空の下、平城宮跡に向かった。レンタサイクル所で、地図をもらい、しっかり説明をしてもらっていたおかげで、迷うことなく、あっという間に平城宮跡に到着。とはいっても、小生は裏の片隅から入っていたことになるが、守衛さんに道を聞いたら、この自転車が一番いいんだよと、えらく褒めてもらった。なんでやねんと思ったが、そのすぐ後で判った。
広い。あまりに広い。これは歩いて回れるようなところではない。南の朱雀門から北の大極殿を見ると、たいていの人は行く気が萎えてしまうに違いない。ましてや西の端にある資料館や東の端にある東院庭園もすべて見て回ろうとする人がいるだろうか。
小生は歩いている人たちを尻目に、軽快に風を切る。微かな優越感が胸をよぎる(こんなことで!)。しかし、お年寄りを見ると気の毒に思った。まして遷都一三〇〇年ということで、大挙してここを訪れ、あの酷暑の日なか長蛇の列をなしてイヴェント会場前で並んだであろう、お年寄りや肢体不自由の人たちのことを思うと、心が痛んだ。
一三〇〇年前、ここが日本の中枢だった。霞が関と皇居だった。とはいっても、これから国家をどのように創っていくのか、どのように体裁を整えていくのか、もっとも悩ましい、もっとも希望にあふれた、じつに熱い時代であったと想像する。
八世紀初頭。大宝律令七〇一年。平城遷都七一〇年。古事記編纂七一二年。養老律令七一八年。日本書紀編纂七二〇年。総理大臣は差し詰め藤原不比等。
梅原猛氏の説においては、本居宣長の『古事記』は超歴史的であり、永遠の神の道が説かれている、しかしそれは違う。津田左右吉の『古事記』は、六世紀の大和政権の成立過程で成った、天皇制確立のための神話制作であるが、それも違う。『古事記』はまさに八世紀の産物であって、それは過去の神話ではなく、当時の政治のこれからを担った書である。すなわち、新しい天皇制の確立(持統天皇→アマテラス、皇后から孫へ)と同時に、反抗者(スサノヲ系)の排除とその鎮魂の書であり、その為の祓(はらえ)こそ中臣祝詞(大祓)であり、これらと大宝律令は軌を一にしている、伊勢神宮(アマテラス)、出雲大社(スサノヲ)、春日神社(タケミカヅチ)に日本神祭の秘密がある云々と。
梅原学説は全体的にはなかなか精緻で説得的ではあるかもしれない。しかし、神話の政治的のみでの解釈には無理が多すぎるのではないか。『古事記』をこれからのヴィジョンを示している書とするには、小生に言わせれば、面白すぎるのだ。もちろんそれもあるかもしれないが、何かもっと無意識的な広がりがあるように感じる。また、宣長流に大事なのは政治機構よりも信仰の側にある。つまり、たとえば「天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神」を文字通りそのまま信じた〈こころばへ〉なのである。
つまり、日本のシステムはこのように創られてきたことの解明はむろん大事であろう。が、だからといって、そのシステムと日本人の根源的な〈こころばへ〉とは、また違う。そして、これからのシステムの改変が絶えず過去に問い合わせをしなければならないのは、この〈こころばへ〉ではなかろうか。
国家神道を創ることとはなんであろうか。奈良時代と明治時代。理想としの〈あの日本人〉と国家のシステム。
まあ、難しい話はさておいて、先に進もう。平城宮跡をあちこち軽快に乗り回していたら、すでに日は西に傾いている。自転車を五時には返さねばならない。返す先は奈良市の真ん中の近鉄駅近くのバスターミナル横に決めている。そこへ行くまでに途中、法華寺と不退寺に寄ろうと思っている。
つづく

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せっかくだから、平城宮跡に行きたいし、そこに行くなら、そのあたりの名所を、いろいろ回りたいし、ということで、西大寺駅でレンタサイクルを借りた。いつも家ではマウンテンバイクを乗っているので、このママチャリに乗ると何となく優雅な感じがする。飛ばす気にならないのがいい。折から天気もよく、暑くもなく寒くもなく、風も軽微だ。
一一月中旬とはいえ、今年はまだまだとくに寒いっていうほどの日はないので、今日のような日を小春日和というのは変なのかなぁと思いながらも、口をついて出てきた歌が「はーるの、うらあらあの、隅田川~」。
十分かそこらで秋篠寺到着。門前駐輪して入っていく感覚がカジュアルで気持ちいい。
さほど広くない参道の両側には萩の小枝が迫り出していて、初秋の小さな赤い花びらの爛漫を幻のうちに見る。そこを折れると木立のかげは苔の海。その細道を通り抜け、料金小屋をすぎると、明るい御庭が広がっていて、そのやや右手に本堂と思しき建物がある。所々に紅葉した木が背景の緑から浮き出ている。
堂内諸尊像を見る、と言うのも変な言い方であると感じられ、むしろこちらが見られている。仏像を見るときはいつもそうだ。薬師如来を中心に、創られた時代がさまざまな尊像が十体くらい並んでおられる。このように並べ置いた古人の心を思う。
この中でやはり伎芸天のちょっと首をかしげた優美な御姿が異彩を放っている。これすでに天平時代の作であるとすれば、われわれがいま不器用にも 宗教と美術とを分けて考えている、ある心の動きが本来単一なというか単純な不可分なものだと思われる。信仰と享受はわれわれにとって分かちがたいものなのだ。
本堂とは別の方角に、ちょっと変わった、むしろ近代的な一宇の堂がある。近づくとボランティアの男女が入り口でビニール袋を渡すので、靴をそこに入れきざはしを上る。堂内正面奥で解説が言うには、いつもは六月六日の一日しか開けないが、今は特別秘仏開帳期間で開けている、これは大元帥明王という尊像である云々。
この尊像は、全身真っ黒で、なんとも恐ろしい形相をしておられる。獣のようでもあり般若のようでもある憤怒の極致、怒髪天を衝くとはまさにこのことだ。筋骨隆々、蛇を肢体に巻きつけ、腕は六本、手には法具と武器を持っておられる。
キリスト教文明においては、右手に武器と左手に聖書を持つが、密教においてはさらに沢山の手に法具と武器を持つ。そして、金剛杵のように、法具はすでに武器である。もちろん仏教においては、戦闘ははるかに精神的な意味であろうが、解脱に至る道は非常な困難を伴い、尊法護持のためには超人的力を必要とするようだ。
この濃密な密教空間を去って、ママチャリはまた爽やか秋の空の下、平城宮跡に向かった。レンタサイクル所で、地図をもらい、しっかり説明をしてもらっていたおかげで、迷うことなく、あっという間に平城宮跡に到着。とはいっても、小生は裏の片隅から入っていたことになるが、守衛さんに道を聞いたら、この自転車が一番いいんだよと、えらく褒めてもらった。なんでやねんと思ったが、そのすぐ後で判った。
広い。あまりに広い。これは歩いて回れるようなところではない。南の朱雀門から北の大極殿を見ると、たいていの人は行く気が萎えてしまうに違いない。ましてや西の端にある資料館や東の端にある東院庭園もすべて見て回ろうとする人がいるだろうか。
小生は歩いている人たちを尻目に、軽快に風を切る。微かな優越感が胸をよぎる(こんなことで!)。しかし、お年寄りを見ると気の毒に思った。まして遷都一三〇〇年ということで、大挙してここを訪れ、あの酷暑の日なか長蛇の列をなしてイヴェント会場前で並んだであろう、お年寄りや肢体不自由の人たちのことを思うと、心が痛んだ。
一三〇〇年前、ここが日本の中枢だった。霞が関と皇居だった。とはいっても、これから国家をどのように創っていくのか、どのように体裁を整えていくのか、もっとも悩ましい、もっとも希望にあふれた、じつに熱い時代であったと想像する。
八世紀初頭。大宝律令七〇一年。平城遷都七一〇年。古事記編纂七一二年。養老律令七一八年。日本書紀編纂七二〇年。総理大臣は差し詰め藤原不比等。
梅原猛氏の説においては、本居宣長の『古事記』は超歴史的であり、永遠の神の道が説かれている、しかしそれは違う。津田左右吉の『古事記』は、六世紀の大和政権の成立過程で成った、天皇制確立のための神話制作であるが、それも違う。『古事記』はまさに八世紀の産物であって、それは過去の神話ではなく、当時の政治のこれからを担った書である。すなわち、新しい天皇制の確立(持統天皇→アマテラス、皇后から孫へ)と同時に、反抗者(スサノヲ系)の排除とその鎮魂の書であり、その為の祓(はらえ)こそ中臣祝詞(大祓)であり、これらと大宝律令は軌を一にしている、伊勢神宮(アマテラス)、出雲大社(スサノヲ)、春日神社(タケミカヅチ)に日本神祭の秘密がある云々と。
梅原学説は全体的にはなかなか精緻で説得的ではあるかもしれない。しかし、神話の政治的のみでの解釈には無理が多すぎるのではないか。『古事記』をこれからのヴィジョンを示している書とするには、小生に言わせれば、面白すぎるのだ。もちろんそれもあるかもしれないが、何かもっと無意識的な広がりがあるように感じる。また、宣長流に大事なのは政治機構よりも信仰の側にある。つまり、たとえば「天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神」を文字通りそのまま信じた〈こころばへ〉なのである。
つまり、日本のシステムはこのように創られてきたことの解明はむろん大事であろう。が、だからといって、そのシステムと日本人の根源的な〈こころばへ〉とは、また違う。そして、これからのシステムの改変が絶えず過去に問い合わせをしなければならないのは、この〈こころばへ〉ではなかろうか。
国家神道を創ることとはなんであろうか。奈良時代と明治時代。理想としの〈あの日本人〉と国家のシステム。
まあ、難しい話はさておいて、先に進もう。平城宮跡をあちこち軽快に乗り回していたら、すでに日は西に傾いている。自転車を五時には返さねばならない。返す先は奈良市の真ん中の近鉄駅近くのバスターミナル横に決めている。そこへ行くまでに途中、法華寺と不退寺に寄ろうと思っている。
つづく


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「水手」の語源
水手も水夫も〈かこ〉と読むことは知っていたが、なぜそう読まれるようになったのかは知らなかった。
先日『日本書紀』の第十巻「応神天皇」の条を読んでいて判った。もちろんそれは地名起源説話、つまり一つの後付け話であろうけれど。
「応神記」(古事記)は、応神天皇の事績につて、朝鮮との外交と交易以外、とりたてて話がない。それとて、母神功皇后の仕事の続きみたいなものである。大体の印象は、応神天皇はお酒が好きで終始起源がよろしい。ここはむしろ後継ぎオホサザキ命(後の仁徳天皇)への言及が多い。
日向(宮崎県)に、有名な美人がいることを応神天皇が御耳になさって、宮中に呼び寄せられた。そのとき、息子の一人オオササギがちらっと目にして、その美しさに激しく心を動かされてしまう。彼はとても率直だったから、この女性(髪長媛 かみながひめ)を欲しいという。そのことをお知りになった天皇は、この息子に媛をあげようとおぼしめす(なんと気前のよろしいことか)。そして親子で御歌の応酬をされて、めでたしめでたし。
「日本書紀」では、そこに別伝。
淡路島で御狩中の天皇が西の方を見られると、数十頭の鹿が海を泳いで、播磨の港に入っていく。(ここは今の兵庫県加古川市の加古川河口付近らしい)天皇のたまわく「どうして鹿がこんなに来てるの」。側近たちも不思議に思って、使者をやる。判ったことは、日向の諸県君牛(もろがたのきみうし)と言う人は朝廷に勤めていたが、歳をとって退職し故郷に帰った。しかし、朝廷を忘れることができず、我が娘髪長媛をたてまつる。そのために、大ぜいに鹿の頭付きの皮を着せて、天皇のおられるところに向かわせていたとのことであった。
天皇大いにお喜びになって、御船に引き揚げさせられた。それが着いた港を、時の人は「鹿子水門」(かのこみなと)と呼んだ。それが加古港と字を変え、また、船をこぐ人(水手)を〈かこ〉と言うようになった、という。
思うに、昔から加古川の河口に港があって、加古(かこ)を鹿子とも書けることから、そこに、日向から来た髪長媛を乗せた船がそこに到着した話がひっついて、このような地名起源説話が生まれたのだろう。
しかし、大事なのは説話を生む構想力があるということであろう。その本源は神話を生む力であり、物語を生む力であり、ひいては現代において小説を生む力につながるものと思われる。それはたんなる慰め事であるとは思えない。


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先日『日本書紀』の第十巻「応神天皇」の条を読んでいて判った。もちろんそれは地名起源説話、つまり一つの後付け話であろうけれど。
「応神記」(古事記)は、応神天皇の事績につて、朝鮮との外交と交易以外、とりたてて話がない。それとて、母神功皇后の仕事の続きみたいなものである。大体の印象は、応神天皇はお酒が好きで終始起源がよろしい。ここはむしろ後継ぎオホサザキ命(後の仁徳天皇)への言及が多い。
日向(宮崎県)に、有名な美人がいることを応神天皇が御耳になさって、宮中に呼び寄せられた。そのとき、息子の一人オオササギがちらっと目にして、その美しさに激しく心を動かされてしまう。彼はとても率直だったから、この女性(髪長媛 かみながひめ)を欲しいという。そのことをお知りになった天皇は、この息子に媛をあげようとおぼしめす(なんと気前のよろしいことか)。そして親子で御歌の応酬をされて、めでたしめでたし。
「日本書紀」では、そこに別伝。
淡路島で御狩中の天皇が西の方を見られると、数十頭の鹿が海を泳いで、播磨の港に入っていく。(ここは今の兵庫県加古川市の加古川河口付近らしい)天皇のたまわく「どうして鹿がこんなに来てるの」。側近たちも不思議に思って、使者をやる。判ったことは、日向の諸県君牛(もろがたのきみうし)と言う人は朝廷に勤めていたが、歳をとって退職し故郷に帰った。しかし、朝廷を忘れることができず、我が娘髪長媛をたてまつる。そのために、大ぜいに鹿の頭付きの皮を着せて、天皇のおられるところに向かわせていたとのことであった。
天皇大いにお喜びになって、御船に引き揚げさせられた。それが着いた港を、時の人は「鹿子水門」(かのこみなと)と呼んだ。それが加古港と字を変え、また、船をこぐ人(水手)を〈かこ〉と言うようになった、という。
思うに、昔から加古川の河口に港があって、加古(かこ)を鹿子とも書けることから、そこに、日向から来た髪長媛を乗せた船がそこに到着した話がひっついて、このような地名起源説話が生まれたのだろう。
しかし、大事なのは説話を生む構想力があるということであろう。その本源は神話を生む力であり、物語を生む力であり、ひいては現代において小説を生む力につながるものと思われる。それはたんなる慰め事であるとは思えない。


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「古事記伝ノ巻四」一面
伊耶那岐命と伊耶那美命、略してイザナギとイザナミと書きます。この御夫婦の神が交わられて日本列島をお生みになったことはご存じのとおり。しかし、その初めは上手くいかなかった。
淤能碁呂島(おのごろしま)において、イザナギはイザナミに「汝の身は如何に成るか」と問われる。イザナミは「吾が身は成り成りて成り合はざるところ一処在り」とお答えになる。イザナギは「・・・成り成りて成り余れるところ一処あり。だから、これを汝の合わないところに刺し入れて国を生もうと思う。いかが。」
イザナミ「それはいい」。イザナギ「じゃ、この天の御柱を回るからね。貴女は右回りして、僕は左回りするからね。逢ったところで結合ね。」
そう約束されて、回ったお二人。そしてばったりお逢いになる。イザナミ「あら、いい男!」。イザナギ「ああ、いい女! でも、女が先に言うのはよくないなー」と仰りながらもご結婚。
で、生まれた子は水蛭子(ひるご)と淡島。こりゃいかん、ってことで、流し去られた。
で、御二人の神どうなさるのか。
「ここに二柱の神、議(はか)りてのりたまはく、『いま吾が生める子よからず。なほ天つ神の御所(みもと)に白(まう)すべし』と詔(の)りたまひて、すなはち共に参上(まゐのぼり)て天つ神の命(みこと)を請ひたまひき。ここに天つ神の命もちて、ふとまにに卜相(うら)へて詔りたまはく『女の先に言へるに因りてよからず。亦(また)還り降りて改め言へ』と詔りたまひき。・・・」
つまり、お二人は天神つまり、一番初めに紹介されている天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下五柱の神神に、上手く子(国)が生めないのはどうしてか、訊きに行かれる。
ここを、宣長は、どんな事でも、自分勝手な解釈をせず、とにかく天神の命を聴き従う、この私心がない態度が道の大義というもので、このえらい二神すらそうであるから、ましてやわれわれ凡人が解らぬことを勝手に理屈をこねてはいけない、という。
ところが、天神もお解りにならないのか、占いをされる。〈ふとまに〉というのは、占いの一種らしい。〈うらへて〉は卜相(うらあへ)て、これも、天神すらこのように、解らぬことは占って神の御教えを受けられるものである。
分からんものは分からん!これが大事なのよ。
この話。そもそも男神より先に女神が先に言うのは女男の理に反する。それは、イザナギ・イザナミ以前から、ペアの神々はみな男が先に成りませるからだ。これ天地の初めからおのづからの理なりであって、「人の得測り知ることにはあらず」なんです。
分からんものは分からん!これが素直な心なのよ。
御二人が天神に訊きにいかれるとき、不良子(フサハヌコ)がどうして生まれてきたか、まだ御理解されていない。天神もお解りにならない。つまり、女神が先に言ったことと不良子が生まれたこととの因果関係がお解りにならない。
ところが、後の人は、占いの教えを知ってから、初めの行為の吉凶を云々する。あるいは、陰陽の理屈から、つまり初めに理があって結果をいう。今の用語でいえば、一般公式から実例を演繹する、ということになるのかな。こういうのを〈漢心(からごころ)〉として宣長は激しく排撃する。
また、御二人は悪いことと知っていながら、天神を敬うゆえにお尋ねした、とか、悪いことをすぐ改めたのはさすがだ、とかいう論は、そういう論が好きな儒者心だ、と排斥する。
ともかく、そのような理屈は、生きた現場に触れることはできない。ところが、上代の人々は現実に生きていたのであり、その生きざまは、まさに上代のコトバに表れているのであり、大和心はそこで躍動している。〈大和心〉は、宣長の徹底した言語実証主義から立ち現われる。


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淤能碁呂島(おのごろしま)において、イザナギはイザナミに「汝の身は如何に成るか」と問われる。イザナミは「吾が身は成り成りて成り合はざるところ一処在り」とお答えになる。イザナギは「・・・成り成りて成り余れるところ一処あり。だから、これを汝の合わないところに刺し入れて国を生もうと思う。いかが。」
イザナミ「それはいい」。イザナギ「じゃ、この天の御柱を回るからね。貴女は右回りして、僕は左回りするからね。逢ったところで結合ね。」
そう約束されて、回ったお二人。そしてばったりお逢いになる。イザナミ「あら、いい男!」。イザナギ「ああ、いい女! でも、女が先に言うのはよくないなー」と仰りながらもご結婚。
で、生まれた子は水蛭子(ひるご)と淡島。こりゃいかん、ってことで、流し去られた。
で、御二人の神どうなさるのか。
「ここに二柱の神、議(はか)りてのりたまはく、『いま吾が生める子よからず。なほ天つ神の御所(みもと)に白(まう)すべし』と詔(の)りたまひて、すなはち共に参上(まゐのぼり)て天つ神の命(みこと)を請ひたまひき。ここに天つ神の命もちて、ふとまにに卜相(うら)へて詔りたまはく『女の先に言へるに因りてよからず。亦(また)還り降りて改め言へ』と詔りたまひき。・・・」
つまり、お二人は天神つまり、一番初めに紹介されている天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下五柱の神神に、上手く子(国)が生めないのはどうしてか、訊きに行かれる。
ここを、宣長は、どんな事でも、自分勝手な解釈をせず、とにかく天神の命を聴き従う、この私心がない態度が道の大義というもので、このえらい二神すらそうであるから、ましてやわれわれ凡人が解らぬことを勝手に理屈をこねてはいけない、という。
ところが、天神もお解りにならないのか、占いをされる。〈ふとまに〉というのは、占いの一種らしい。〈うらへて〉は卜相(うらあへ)て、これも、天神すらこのように、解らぬことは占って神の御教えを受けられるものである。
分からんものは分からん!これが大事なのよ。
この話。そもそも男神より先に女神が先に言うのは女男の理に反する。それは、イザナギ・イザナミ以前から、ペアの神々はみな男が先に成りませるからだ。これ天地の初めからおのづからの理なりであって、「人の得測り知ることにはあらず」なんです。
分からんものは分からん!これが素直な心なのよ。
御二人が天神に訊きにいかれるとき、不良子(フサハヌコ)がどうして生まれてきたか、まだ御理解されていない。天神もお解りにならない。つまり、女神が先に言ったことと不良子が生まれたこととの因果関係がお解りにならない。
ところが、後の人は、占いの教えを知ってから、初めの行為の吉凶を云々する。あるいは、陰陽の理屈から、つまり初めに理があって結果をいう。今の用語でいえば、一般公式から実例を演繹する、ということになるのかな。こういうのを〈漢心(からごころ)〉として宣長は激しく排撃する。
また、御二人は悪いことと知っていながら、天神を敬うゆえにお尋ねした、とか、悪いことをすぐ改めたのはさすがだ、とかいう論は、そういう論が好きな儒者心だ、と排斥する。
ともかく、そのような理屈は、生きた現場に触れることはできない。ところが、上代の人々は現実に生きていたのであり、その生きざまは、まさに上代のコトバに表れているのであり、大和心はそこで躍動している。〈大和心〉は、宣長の徹底した言語実証主義から立ち現われる。


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北方四島盗られたり
昨日11月1日。日本中に衝撃が走った。
小生は仕事から帰り、夕食を済まして、9時のニュースを見ていた。と、ロシアのメドベージェフ大統領、国後島来訪の報である。小生は、強国が弱国を支配するのは当然であると自分に言い聞かせ、平静を装っていた。が心の中では葬送曲が鳴っていた。
おそらく、たいていの日本人はもうあの四島は還ってこないと内心思っていたであろうが、今回のような決定的な証明を見せつけられたからには、日本国民は、当分の間、どうしようもない、重苦しい雰囲気に包まれ続けるであろう。
その昔、三島返還、あるいは少なくとも二島返還で合意が可能との報道がなされたことがあった。しかし、我が国は威勢よく四島一括返還を主張して止まなかったという。しかし、これは本物のトラに対して張り子のトラが吠えているようなものであった。軍事あるいは資源などの強力な背景がなければ、 外交の勝利を収めることができないことは明らかなことは知っていた。この場合、日本は筋を通そうとしたのかもしれないが、明らかに現実的ではないことを知るべきであった。
ついでに言えば、このことは真珠湾攻撃を思い起こさせる。あのとき現実的な判断としては、米英の要求を呑むべきであった。すなわち、中国本土からの一切の撤退。そのほうが被害は少なかったであろう。
しかし、小生はそれにも関らず、あのときはやらざるを得なかったという意見に与する。日本としては、正しい筋を通すべきであったと思う。・・・ただ終わり方があまりにも悲惨であった。
しかし、国際政治とは正しい筋が通るところではない。しかも理屈は何とでもつけられる。なんともしようのない修羅場である。国連はどうしてあの五カ国が常任理事国なの、って吠えたところで、笑われるだけである。
戦後の日本は、あまりにも善良な国であろうとしすぎてきた。そして、それが自己欺瞞であるということに気がつかないできた。
日本国憲法序文にいわく「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。いったいぜんたい、日本は何を考えているのか。いや、何も考えていない。いじらしいというか、やけくそというか。・・・だって他国が創ってくれたんだもん。北方四島、竹島、北朝鮮による拉致。いったい誰が国民の生命財産を守ってくれようか。
この戦後の日本国憲法という黙示録が暗示している決定的な出来事の一つは、小生思うに、鳩山前総理の出現だった。〈友愛〉外交がいかに人々や他国の利己心を増幅せしめ、紛糾させてきたことか。しかも、あれだけ混乱させておいて、もう国政に口出しをしないと思いきや、陰でまだなんやかなや発言しまくっているそうな。この覚悟のなさ。倫理性の欠如、というより普通の人間的感覚の欠如。空想的観念的生物。戦後日本人の代表例。
要するに、トラブルや嫌だ。面倒は嫌だ。臭いものには蓋を。だれでもそうだ。だがそれが嫌なら政治家になるな。
だいたい人間言うことは変わっても、性格は変わらないものだ。国民性もしかり。
大本営発表というものがあった。今もある。嘘を嘘で糊塗し続けることである。
戦争当時、初めは少しの必要な嘘があった。それはよい。しかし、どうしたことか、だんだん嘘を埋め合わせるために一段と嘘を発明しなければならなくなった。これがどうしてか止まらない。
そして、人のよい八百屋のおじさんも、肉屋のおじさんも、学生さんも、戦場に駆り出されていって、持ったこともない銃をもって、敵の機関銃の雨の中を万歳攻撃していったのだった。そして大本営は発表する。わが軍の強力な攻撃の前に、敵○○師団壊滅。
今の政府の発表。諸外国は日本の平和憲法を時代を先取りした理想的なものである、自国も見習うべきものであると言っている。お互いに戦略的互恵関係を望んでいると言っている。日米安保条約があるから日本の領土は守られる。
そういえば、日露戦争時、英国は日本の見方をしてくれる。まあこれなどは、半分以上はそうであったと思うが、日本が弱体化することも望んでいたということも忘れまい。昭和二十年、日ソ中立条約があるから大丈夫だろう。終戦工作についてスターリンに打診しよう、これなんかは泣けてくる。日本国憲法以前から、育ちのいいわが日本国民は、諸国民の公正と信義を信頼して生きていたんだ。
その態度は麗しく、いいとして、信頼できぬときは信頼できぬとはっきり態度を示さず、ずるずると行くと、大本営発表となってしまうじゃないかな。 真面目も過ぎると、最後の最後は窮鼠猫をかむで、特攻だのなんだの、やけくそだ、身も心もボロボロになるまで、やってやろうじゃないか、となる。戦後は一転して、現実が何だろうが、平和憲法に殉死の覚悟。手のひらを返すとはべつに朝日新聞の特権ではない。大かたがそうなのだ。それはいい、ただあまりに極端なのだ。
穏やかで真面目で、しかし極端に走ってしまう我が国民性のなんと哀しいことか。
日本人はクリーンという言葉が何と好きな国民だろう。小生は希う、もっと常識的なワルでありたいと。
なんかとりとめのない話になったけど、
それでもそういう日本が大好きなのよ。↓↓

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小生は仕事から帰り、夕食を済まして、9時のニュースを見ていた。と、ロシアのメドベージェフ大統領、国後島来訪の報である。小生は、強国が弱国を支配するのは当然であると自分に言い聞かせ、平静を装っていた。が心の中では葬送曲が鳴っていた。
おそらく、たいていの日本人はもうあの四島は還ってこないと内心思っていたであろうが、今回のような決定的な証明を見せつけられたからには、日本国民は、当分の間、どうしようもない、重苦しい雰囲気に包まれ続けるであろう。
その昔、三島返還、あるいは少なくとも二島返還で合意が可能との報道がなされたことがあった。しかし、我が国は威勢よく四島一括返還を主張して止まなかったという。しかし、これは本物のトラに対して張り子のトラが吠えているようなものであった。軍事あるいは資源などの強力な背景がなければ、 外交の勝利を収めることができないことは明らかなことは知っていた。この場合、日本は筋を通そうとしたのかもしれないが、明らかに現実的ではないことを知るべきであった。
ついでに言えば、このことは真珠湾攻撃を思い起こさせる。あのとき現実的な判断としては、米英の要求を呑むべきであった。すなわち、中国本土からの一切の撤退。そのほうが被害は少なかったであろう。
しかし、小生はそれにも関らず、あのときはやらざるを得なかったという意見に与する。日本としては、正しい筋を通すべきであったと思う。・・・ただ終わり方があまりにも悲惨であった。
しかし、国際政治とは正しい筋が通るところではない。しかも理屈は何とでもつけられる。なんともしようのない修羅場である。国連はどうしてあの五カ国が常任理事国なの、って吠えたところで、笑われるだけである。
戦後の日本は、あまりにも善良な国であろうとしすぎてきた。そして、それが自己欺瞞であるということに気がつかないできた。
日本国憲法序文にいわく「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。いったいぜんたい、日本は何を考えているのか。いや、何も考えていない。いじらしいというか、やけくそというか。・・・だって他国が創ってくれたんだもん。北方四島、竹島、北朝鮮による拉致。いったい誰が国民の生命財産を守ってくれようか。
この戦後の日本国憲法という黙示録が暗示している決定的な出来事の一つは、小生思うに、鳩山前総理の出現だった。〈友愛〉外交がいかに人々や他国の利己心を増幅せしめ、紛糾させてきたことか。しかも、あれだけ混乱させておいて、もう国政に口出しをしないと思いきや、陰でまだなんやかなや発言しまくっているそうな。この覚悟のなさ。倫理性の欠如、というより普通の人間的感覚の欠如。空想的観念的生物。戦後日本人の代表例。
要するに、トラブルや嫌だ。面倒は嫌だ。臭いものには蓋を。だれでもそうだ。だがそれが嫌なら政治家になるな。
だいたい人間言うことは変わっても、性格は変わらないものだ。国民性もしかり。
大本営発表というものがあった。今もある。嘘を嘘で糊塗し続けることである。
戦争当時、初めは少しの必要な嘘があった。それはよい。しかし、どうしたことか、だんだん嘘を埋め合わせるために一段と嘘を発明しなければならなくなった。これがどうしてか止まらない。
そして、人のよい八百屋のおじさんも、肉屋のおじさんも、学生さんも、戦場に駆り出されていって、持ったこともない銃をもって、敵の機関銃の雨の中を万歳攻撃していったのだった。そして大本営は発表する。わが軍の強力な攻撃の前に、敵○○師団壊滅。
今の政府の発表。諸外国は日本の平和憲法を時代を先取りした理想的なものである、自国も見習うべきものであると言っている。お互いに戦略的互恵関係を望んでいると言っている。日米安保条約があるから日本の領土は守られる。
そういえば、日露戦争時、英国は日本の見方をしてくれる。まあこれなどは、半分以上はそうであったと思うが、日本が弱体化することも望んでいたということも忘れまい。昭和二十年、日ソ中立条約があるから大丈夫だろう。終戦工作についてスターリンに打診しよう、これなんかは泣けてくる。日本国憲法以前から、育ちのいいわが日本国民は、諸国民の公正と信義を信頼して生きていたんだ。
その態度は麗しく、いいとして、信頼できぬときは信頼できぬとはっきり態度を示さず、ずるずると行くと、大本営発表となってしまうじゃないかな。 真面目も過ぎると、最後の最後は窮鼠猫をかむで、特攻だのなんだの、やけくそだ、身も心もボロボロになるまで、やってやろうじゃないか、となる。戦後は一転して、現実が何だろうが、平和憲法に殉死の覚悟。手のひらを返すとはべつに朝日新聞の特権ではない。大かたがそうなのだ。それはいい、ただあまりに極端なのだ。
穏やかで真面目で、しかし極端に走ってしまう我が国民性のなんと哀しいことか。
日本人はクリーンという言葉が何と好きな国民だろう。小生は希う、もっと常識的なワルでありたいと。
なんかとりとめのない話になったけど、
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テーマ : このままで、いいのか日本 - ジャンル : 政治・経済
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