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『英語でよむ万葉集』

 『英語でよむ万葉集』 リービ英雄著を読む

 昔から詩の翻訳は不可能だと思っていた。小説は可能であろう、なぜなら小説の命はストーリーだから、ストーリーなら外国語に移せるであろう。学術論文、とくに科学の分野なら何語で読もうが〈同じ内容〉を受け取ることができる。

 しかし、詩の命は響きであり、リズムであり、要するに声に出して読むときの歌―音楽であるから。これを変えてしまうと、まったく別の新しい歌を創ることになる。

 だが、詩は厳密には音楽ではない。単語の一つ一つの意味、そしてその連続体の意味も、重要な要素である。そのため詩は非常に微妙ではあるが意味の世界でもある。

 われわれは『万葉集』に慣れてくると、ついついその歴史的・政治的背景や歌の隠された意味を探ったり、あるいは使われている言葉の統計的推移を考えたり、今の短歌の感覚から判断したりしてしまって、初めて万葉に触れたときのあのなんとも言えぬ新鮮な感覚、新しい言葉の世界というものを、ついつい忘れてしまいがちである。

 この『英語でよむ万葉集』は、もちろん半信半疑で手にしたのだが、読み進むうちに成るほどと合点した。というのは、作者は一つ一つの歌をどのように英語に出来るのか四苦八苦しているのだが、その手続きを読む小生は、あの初めての万葉、意味とも音楽とも言えないような、あの感覚を呼び戻したのである。

 作者はどういうつもりか知らないが、英訳作業に伴って見えてくるのは、何千年もの間、口と耳だけで豊かに生活していた人たちが、中国から入ってきた便利なしかし限定的で融通の利かぬ漢字を使用して、なんとか大和民族の歌を書き記そうとしたことだった。

 それは、たとえて言えば、われわれが知っている墨書の美しさを、便利なパソコンの規格文字だけで、なんとか伝えようと工夫しようとするようなものだ。それほど、あの何千年と口から口へと歌い継がれてきた神話的・自然的・生命的・直接的な精神を、ぎこちない記号で表すことの難しさがあったと想像する。もちろん万葉と一口で言っても、その最古の歌から最新の歌まで何百年という隔たりがあって、文字化の困難はだいぶん軽減していったであろうが。しかし、それと同時に、あの神話的な抒情は衰退していったが。

 まあ、そのようなことを漠然と想像した。一例を挙げよう。(原歌と英訳とその説明がセットになっている。)

 「 鳴呼見(あみ)の浦に 船乗りすらむ 少女(おとめ)らが 玉裳(たまも)のすそに 潮満らむか
  On Ami bay, the girls must now
  Be riding in their boats.
  Does the ride rise
  to touch the trains
  of their beautiful robes?

 ・・・・やわらかな、やわらかな、古代日本語の推測の動詞変化〈らむ〉と〈らむか〉を、〈~しているのだろう〉や〈~しているのだろうか〉と現代の日本語に訳しても、〈must be〉や〈are they doing?〉や〈Could they be doing?〉と現代の英語に訳しても、そのやわらかさは完璧には復元できない。
 想像された〈少女ら〉の精緻で夢幻的な動き、〈鳴呼見の浦に 船乗りすらむ〉を、

  On Ami Bay, the girls must be now
  Be riding in their boats

 と推測の英語で訳す。〈船乗りすらむ〉の美しさは出ない。しかし、〈船に乗って遊んでいるのだろう〉とか〈~違いない〉という現代の日本語にもそれは出ない。
 その〈少女ら〉の〈玉裳のすそに 潮満つらむか〉。現代の日本語では〈潮が満ちているのだろうか〉となるところは、英語で、

   Does the tide rise
  to touch the trains
  of their beautiful robes?

となる。Could the tide be rising? とか、I wonder if・・・と言い換えてもいいが、わざとらしい印象を与えるので、簡単な質問形式にとどめる。云々。」

 もちろん『万葉集』を英語に訳すことなどとてもできない、とあらためて思う。しかし、このようになんとか英語にしよとする努力のうちに、万葉を書き記るそうとした古人の困難な思いの何分の一でも、そして現代からみると新鮮な世界を垣間見ることが出来るような気がした。

 
       
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クリスマス

クリスマスは小生はどうも縁がないけれど、街に出るとイルミネーションが輝いて、音楽がなっていて、子供やカップルは楽しそう。

去年はクリスマスの起源について書いたから、何か他のことを書きたいが、妙案が浮かんでこない。

欧米ではクリスマスのにぎやかな祭りは、もとは自然の恵みへの感謝に関係する宗教行事から、それが長く続いて文化となったものだろう。新嘗祭やお正月のように日本の風土から生まれたものではないから、この日に国旗を挙げる気にはならないが、日本でも子供や商売人が、何かキリスト教に関係した祭りとしてわいわい喜んでやっているのはほほえましい。

日本でアメリカ嫌いの人は、おうおうにしてキリスト教徒が暴力的であると思っているような気がする。しかし、キリスト教は暴力を奨めているとは思えない。もちろん日本人よりアメリカ人の方が暴力に訴えることが多いらしいけれど。

キリスト教が危険と思う人は、苦悩深き青年が殺人をするから包丁が危険であると思うに等しい。詐欺が容易であるからパソコンは危険であると思うに等しい。そんな風に言えば、あらゆる人にとって、必ずあるものが危険と言える。事実、それらは危険である。人間がその使い方を誤ると危険である。しかし危険にするのは人間である。悪いのは人間である。

なべて世の物は、それがとくに高度な物であればある程、たとえば原子力のように、使い方によっては、それだけリスクが大きいものだ。

イスラム教やユダヤ教のようにある集団にのみ神の恩寵が下されるという信条は危険だ。しかし、キリスト教においては、開かれており、対象はすべての人人なのであって、これが最も高度であり、したがって最も危険である。

というのも、それはあらゆる閉鎖性にたいしても積極的に理解を求めてゆこうとするからである。しかし戦ってまでとはイエスは言っていない。

『新約聖書』はイエスの言行録であり、イエスの死後100年くらいに編纂されたものだ。パウロはまさか自分の書き遺したものが、永遠のバイブルに収められるとは思っていなかったであろう。

神というものを、別に人格神のように考えずとも、永遠に愚行を繰り返すわれわれが、考え続けなければならない〈正しい行い〉の指標として、たまたま例えば神という名詞を置いた、と思えばどうか。イエスの言行は、そのためのヒントであると考えればどうか。

     神といひ仏といふも世の中の
         人の心のほかのものかは          源実朝



              
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『回想の明治維新』4

 メーチニコフは、日本の植物の多様性もさることながら、日本人の顔つきや体型の多様さは、ほかのアジア人とは違う、どうもいろいろな民族の雑種ではなかろうかと言う。たしかに、日本列島は地理的には南から北から西から人々がやってきて、ここから出ていくことはできない、いわば、風の吹きだまりみたいな場所ではないか。ここが、いろんなものが混じり合う最終地点なのだ。この地理的特徴は人種の特徴を生みだすであろう。

 革命家と言うが、この書にはいわゆる革命家の言葉と思えないような言葉に満ち満ちている。

 「わたしが何よりも驚いたのは、その魅惑的な美しさにもかかわらず、日本の風景には、未開とか原始の匂いがまるで感じられないことだ。たとえていえば、それは幾世紀もかけて血となり肉となった文化の、良いも悪いも知りぬいた素敵な都会女の美しさであった。」

 人は外国に行くと、その固有の文化に驚くものである。メーチニコフは、高崎正風宅に呼ばれたときの驚きをこう述べている。
 主人がまだ帰宅していないのでしばらく待つように言われた。「見たところ主人の書斎兼応接間のようだった。部屋の調度類は純日本風でしかもごく質素だった。アメリカ製のロッキングチエアと皮を張った胡桃材の小さな机、それに二、三脚の椅子、これだけがわたしは今、日出国の有力な開花主義者の家にいることを物語っていた。あまりの落差に私は驚嘆した。ヨーロッパにいた時の彼らは大変な成り金のように見えたものだが、母国では全く昔気質の地主のような生活をしているではないか!
ここでわたしが昔堅気の地主などという表現をしたのには、それなりの理由がある。極度のあけっぴろげと単純素朴さという点で、わたしにはロシアのステップ地帯のある鄙びた地方の長閑な生活が思い出されたからなのだ。だがそれと同時に、ここには深く血となり肉となった幾世紀にもわたる文化の痕跡がとどめられている。たとえわれわれの尺度とはちがうにしても、無数の人目にはつきにくいディーテールが、この国の人々の知的生活のレヴェルを如実に物語っていたのである。」

 だがやはり、こういうことも書き洩らさない。
「高官の態度は非の打ちどころのないほど礼儀正しかった。懇切丁寧なほどだった。だがにもかかわらず、かれの応対ぶりは、同国人(その多くは、彼におとらず政府の重要なポストについていた)との交際で、後にも先にも出会ったことがない何かが感じられたのだった。」

 彼は「神道では正邪の観念は浄・不浄の観念に置き換えられる。不幸や病気、とりわけ死や死体との接触は不浄なものとみなされ、かくてある種の職業に携わる人々は社会から排斥されたカーストを生むのである。ひとたび穢れた死者は、不浄な物の〈払い清め〉の助けを借りて清められるのがふつうである。神道のいたって単純な儀式的側面は、この祓いあるいは浄化作用に尽きるといってもいい。」

 しかし、彼はブルーノ・タウトとは違って神社の簡素な美を理解しなかったようである。「もっとも有名な神社ですら、行ってみればなんのことはない、白木でできた全く粗末な納屋といった風情で、そこにはなんの美的要素も、建築上の特徴も装飾もありはしなかった。」

 「世界広しと言えど、日本人ほど演劇好きな国民はまずあるまい。・・・日本の戯曲は、例外なくメランコリックで、哀調を帯びた要素が加味されており、ロマンティックな色彩があまりはっきり出ているため、いわゆる悲劇(tragedie)とは異質だからだ」

「(歌舞伎の山場では)大きな音こそ出せないが、すべての三味線がいつもきまって静かで沈鬱な旋律を奏で、それが役者の声音と見事に調和して、独特の魅力をかもしだす。」

 まあ、いろいろと引用紹介したいところはあるが、きりがないからやめておこう。

この書の総体的な印象。

 彼は画家志望でもあったというにふさわしい目で、好奇心の赴くままあらゆる領域を観た。

 西欧の革命の概念を頭に、喜び勇んで明治革命を見に来たのだったが・・・。たとえば、大塩平八郎の乱には「みずからの人権を要求する・・・虐げられた人々云々」「下級武士たちの経済状態はますます悪化していって、無為徒食の生活を送っており、百姓たちを睨みつけていた」というような書き方をする。しかし他方、どうも日本の革命は日本独自の歴史の上に成り立っており、この国の歴史をもっとよく深く知りたい、と感じている。そのところが小生には面白い。


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『回想の明治維新』3

 さらに付け加えておかねばならないことは、維新のドサクサまぎれに、外国商人は日本から、「濡れ手に粟」の利を得ていることが彼の眼にはあまりにも明らかであって、日本人のお人よしに大いに驚いてもいる。
「実際のところ、この内戦時代(戊辰戦争)にはキリスト教世界の津々浦々から雲霞のごとくやって来たあらゆる種類の詐欺連中が稼ぎに稼ぎまくったいわば英雄時代なのだ。・・・かれらの道徳水準はきわめて低かったと認めねばなるまい。・・・専門など問題ではなかった。どのヨーロッパ人も、この遠い日本では、必要とあらば司令官にも教師にも、技師にも医者にも、砲術家にも財政家にもなれると、まともに思っていたのである。」
日本人の目には、ヨーロッパ人は誰でも何でも出来ると映っていたのであり、「かりにヨーロッパ人の機械技師が、たとえば医者の仕事を断った場合、それは俸給額が足りないからに相違ない」などと日本人は考えた。それほど、明治初年頃は、日本は西欧の文明を欲していた。

 「日本のいくつかの港が外国人に対して開かれたばかりの頃は、すべての物が純金の小判や銀の円に交換されるので、どんな取引も莫大な儲けとなり、このために信じがたいほどの多数の投機家たちがこの国にやってきた。」
彼らは、治外法権を利用して、売れ残りの商品に高額の保険をかけ、粗暴なサムライに喧嘩を売り込み、倉庫に火をかけさせ、自分がこうむったとされる損害の勘定書を日本政府に叩きつけて、大儲けをしまくった。

 メーチニコフには、日本人がじつにおとなしい人種だと見えた。彼は言っている、口論し合っている日本人の姿をついぞ見かけたことがなかった、ましてや喧嘩などこの地ではほとんど見かけぬ現象である。なんと日本語には罵り言葉さえないのである、と。


 当時日本を訪れた西洋人の例にもれず、彼も日本人の〈原始性〉にも大いに驚いている。大抵のこの時期の外国人が述べていることだが、肉体労働者は、褌一丁でいること、これは西欧人から見ると裸同然なのだ。

 「イギリスのお上品な淑女は、行く先々で、両手で目を覆い、顔を赤らめて『ショッキング!』と叫ぶ。東洋民族のなかでも際立っている日本人のこうした裸好きを私が初めて目にしたのはここ、横浜駅頭であった。」そして付け加える、こんな裸好きは、日本人は大陸から来たと言うよりマレー・ポリネシアから来た種族ではないかと。
 「目下のところ、文明開化をめざす政府は、こうした日本人の裸好きと執拗な闘争を繰り返している。政府は年頃の娘たちが街中をわれらが祖エヴァのような略衣で歩き回るのを禁止したし、公衆浴場では男湯と女湯をしっかり区切るように命じている。・・・これらの取り締まりが、日本の社会道徳になんらかの影響を与えるなどと思ったら滑稽千番であろう。どこの国であろうと、裸と道徳のあいだには直接の関係などありはしない。・・・日本人の裸好きは彼らの習俗の原始の純潔さの証明であり、そうした純潔さが、いまやあいついで上から課される官製の偽善によって消えようとしている。」
 服を着ている人間が、着ていない人間より品性が劣っているということはありえない。

そして彼は、日本の着物の美しさの延長として肉体労働者の刺青がある、つまり入れ墨は衣服なのだ、ということに気がついた。

 そしてまた、例にもれず、当時の日本人の識字率の高さと教育体制の完備、大衆が小説をよく読むことに驚いている。そしてこんなことを言う、「書物的知識と文化が国民の最下層にまで、血となり肉となって深く浸透している・・・しかし、わが西欧文明は、中国的東洋の難解な書物中心主義とは比較にならないほど、多面的で広範で、豊饒であることにわたしにもはっきりと分かる。だがその一方で、幾度となく、次のことを認めざるをえなかった。すなわち中国=日本的文化と比較すると、わが西欧文明は、早熟、跳ね上がり、つまり民衆の習俗と気性の奥底にまで深く根をおろしていない、なにか寄生的な兆候を明らかに示していると。」
 じつにそうなのであろうと想像される。中国のことはいざ知らず、日本は万葉以来、いかな辺境の地にあろうとも言の葉が絶えないのである。

 そして言葉は叡知を含んでいるものである。「はたして西欧の最先進諸国が、せめて初等教育だけでも国民の最下層にまで普及しようと真剣に考え出してから、それほど時間が経っているであろうか?・・・日本でわたしに仕えてくれた召使にとって、祖国ロシアの雑誌のコラムや誌上で多大な情熱と才能を費やしてその論証にこれつとめている理論的命題の一部など、とっくに自明の理であった。云々」
叡知は教養から生まれる。

 「大坂の一商人である加藤祐一と言う人は、同業者向けのパンフレットに書いている。『異国では神霊を授かった人や預言者が現れて人々に道徳と秩序を説いた。それでも日常生活では人々は狼のようにたがいに咬みつき合い、政治的、宗教的敬意の口実のもとに、言語道断な悪業の数々がなされたのだと言って、そうした人々の教えを無視した。

 それに対し、我が国には預言者も神霊を授かった人もいたためしがないが、それでもわれわれは仲良く平和に暮らしてきた。このゆえんは自然が優しく思慮深い母のように、われわれに接してくれたことにある。だが、自然は労働と熟慮という恵み深い必要性から人間を逃れさせるような無償の施しで、われわれを甘やかしたりはしない。だが、そのかわり自然はわれわれの労働に潤沢に報いてくれる土地と気候を与えたくれたのである。われわれの力と能力を、自然の恵みを耕すことに向けさえすれば、われわれの生存と幸福は、よりよく確実に保証されるというのに、一体なぜたがいに敵対したり競い合ったりするだろうか?』等など。

 これを書いた著者はバックルやアダム・スミスの名前など、もちろん一度も耳にしたことはなく、この国で初等中等学校のごく一般的な『社会教科書』(人間の徳)からくみ取ったのだ。・・・話を簡単にするために、ここでは日本でもっとも知られている学校的道徳の教えを一つだけ引くことにする。しかもこれは詩の構造というものをいささか読者に知ってもらうことにもなろうから。
マコト ダニ
マコトノ ミチニ カナイナバ
イノラズ トテモ
カミヤ マモラン 」

西洋人のエゴと宗教とに辟易している著者の溜息が聞こえてくる。

 貧乏な彼に与えられた東京外国語学校ロシア語の講座を受けもった彼は、一年半の日本滞在の後、体調を壊しスイスに還る。そして、この好奇心にあふれた漂流者は、この不思議の国、日本に関する本を渉猟し読みふける。本書(明治17年刊)に述べられている日本史の知識は驚くべきものだ。ザビエルを初め西欧人による日本論ももちろんのこと、『大日本史』『日本外史』を深く読んだのであろうと思われる。

 日本に福沢諭吉と言う人がいたごとく、ロシアにもこういう人がいたということを、小生は知った。


              
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『回想の明治維新』2

 メーチニコフは、大山巌との半年の付き合いで、「パリ大学でやっていたら四年間もかかる日本語の基礎」を習得でき、岩倉使節団がジュネーヴに姿を現した時は、彼らとの会話に苦労しなかったそうである。彼は、ただちに薩摩や長州の明治革命における立場を理解し、岩倉の老獪な人となりを見てとった。彼は、ランボーやシュリーマンのように、放浪力!と言語習得の才をもっていた。

 しかし、そういう彼でさえ、まず日本に来て、日本語の多様性に困惑している。中国語の文体とヤマト言葉との和漢混交体であり、各階層によって独特の話し言葉を使っているし、また男言葉、女言葉があり、それらが対象によってまた違った言い方をする。しかも日本人は話すとき表情に乏しいときている。

 入り口で言う「〈御頼み申す〉この決まり文句は、どんなヨーロッパ語にも翻訳できない。・・・これは〈おーい、貴方、わたしは参っておりますぞ!〉というほどの意味になる。…日本語というものは、ヨーロッパ諸語はおろか、たとえばタタール語やハンガリー語のような同じく膠着語と呼ばれる言語ともいかに異なっていることか・・・しばしば、単語と文章の間の境界線を引くことがまったく不可能にさえなってしまう。一つの単語がまるで別のいくつもの単語を吸い込む力を持っているかのようであり、しかもそこでは各構成要素が省略や変形をこうむり、凡ての品詞の意味の総和というよりむしろ総合したものが、全体の意味になる。それ自体まったくなにも意味しないか、あるいはまったく本質とは関係のない接頭語のしようが日本語では特徴的である。云々」

 明治維新の原因について、彼は、外国艦隊の来航や、また天皇や将軍の対外的処置などよりも、もっと内発的、市民的なものであると感じた。

「遠いアジアの諸民族や事件を見るとき、われわれはきまって因循や停滞といった烙印を押したがるものだが、こと日本の歴史にかんするかぎり、こうした烙印をおすことは断じてできない。少なくとも最近の数世紀をとってみる限り、この国の歴史は独自の進歩と発展を見せており、まさしくこうした国内生活の順調な流れがあったからこそ、この小さな帝国は、天保年間に非常に根底的な政治、社会上の変革を必要とする状態にまでたち至っていたのである。」

 天保と言うと、大飢饉、百姓一揆、それに清国アヘン戦争の報による内外の危機意識が生じたことは確かであろう。ちなみに天保元年に吉田松陰が生まれている。
メーチニコフは、頻発する農民一揆と、天皇権力の復活を推奨する『日本外史』の流布、とりわけ徳川政権側の者までがこれに賛同したことが、維新への一歩だと言う。

 しかしそのすぐ後で、またこんなことも言っている。
「日本にはヨーロッパ的意味での都市住民は、これまでいなかった。この国でプロレタリアートの役割を部分的に担ったのは、エタやヒニンのような虐げられたカーストの人たちだった。そして彼らもまた、自分たちの政治、社会的状況が時代の精神にそぐわないものだということに気付き始めていた。だからこそ天保時代に大塩なる人物は、武器を手にみずからの人権の承認を要求する数千人のこうした虐げられた人々をその指揮下に結集することができたのだ。」
 当時の西欧の革命イデオロギーの付会であり、歴史とはイデオロギーが決して近づけるものではない、ということをあらためて思う。

 しかし、コスモポリタンの彼の目は、すでに徳川時代は西欧を求めていたのは日本であるということがよく見えた。「要するにわが文明が完全武装の軍艦の姿をまとって日本近海に出没し、日出ずる国での市民権を執拗に要求するよりもはるか以前に、日本のほうがヨーロッパを目指していた」
 日本は徳川政権時代、鎖国をしていたと言うが、しかし、それは政権の安定維持のためであって、外国文明から目を逸らしていたのではない、長崎経由に限ってはいたものの、一部の下級武士たちは西欧事情とりわけ医学と天文学の知識を入手していた。
                        
                        
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『回想の明治維新』

 『回想の明治維新』メーチニコフ著 渡辺雅司訳を読む。

 この書は、副題に「一ロシア人革命家の手記」とあるとおり、超国家的な目をもった西洋人、しかしどこまでもロシアの魂をもった人が見た日本論である。十九世紀後半のロシアの革命家には、こういう人もいるのだろうか、という新たな感慨をもった。つまり、マルキシズムイデオロギーの仮面をかぶった一行動家ではあるが、そのじつ異国への憬れと、画家のような目をもって、その地の風土や民族、そして生活様式の詳細なルポライター。しかし、単なる報告者におさまらぬ探求者。

 この書を論ずる前に、ぜひとも作者メーチニコフという人の略歴を、訳者である渡辺氏の解説から引用しつつ、紹介したい。

 メーチニコフは1838年、ペテルブルグに生まれた。幼少時はひ弱だったが、長ずるに及んで不羈奔放な熱血漢となってゆく。15歳にしてクリミア戦争の報を聞いてじっとしておれず、義勇軍に参加しようとする。ペテルブルグ大学、およびその他の大学では学生運動のため、一年もたたぬうちに放校処分にあい、芸術学校(もともと絵が好きであった)、と東洋語学学校に入る。一年でアラビア語とトルコ語を習得、パレスチナ派遣団の通訳に採用されるが、上司とのトラブルで失職、流浪の身となる。

 アルバイトをしつつ、画家の修行をしようとイタリアへ。しかし、そこは英雄ガリバルディ率いる千人隊の解放闘争の真っただ中であった。
 これを見て、じっとしておられる彼ではない。ただちにスラブ義勇軍に身を投じ、各地を転戦。ナポリ開城に立ち会い、ヴォリトルノの戦闘で炸裂弾にあたって片足を失う。
 混成部隊にあって、英、仏、独、伊、西、露、波などの言語を自由に操り、通訳を買って出るかと思えば、小休止にスケッチブックを取り出す。
 
 これだけでも、すでに伝説的に面白い人物であって、事実『三銃士』で有名なアレクサンドル・デュマが、この男の噂を聞きつけて「小説」のネタにしたいとかでかけつけてきたが、メーチニコフはデュマを気に入らず断った。

 一年あまりの休養生活ののち、フィレンツェに移り、ロシアの急進誌に、論文を書きまくる。1863年、メーチニコフの講演を聞いたロシアの革命思想家ゲルツェンの耳に留まるところとなり、以後、親交をもち、さらに、イタリアにおいて、メーチニコフは、バクーニンを同士に結びつける。

 1865年にジュネーブに移り住み、インターナショナルロシア人支部の一員となって、動乱のスペインに乗り込む。次にバルカン半島の民族解放闘争に参加。
 こんな中でも、絶えず雑誌に寄稿はし続ける。もちろんロシア皇帝政府の秘密警察から目をつけられているから、祖国に帰ることはできない。

 1871年、パリ・コミューンの報で、急遽パリに。二カ月余りで敗北。ところがここで、極東の日本に革命が起こった噂を耳にする!このときの彼の気持ちたるやいくばくかであったろう。彼は書いている。
 「麻痺状態から目覚め、新生活へと雄々しく乗りだした国民全体の姿を目にするのは、詩情あふれる人跡未踏のうっそうたる密林や砂漠にもまして、気分を一新させてくれるものである。そして当時の日本には、こうした感動的で新鮮な光景を発見できるにちがいないと私は確信するのだった」 

 ただちにパリ大学で、中国語、日本語を短期集中で習得。ここのロニー教授の紹介で、ジュネーブの下宿屋を訪れた彼は、ここで欧州留学中の大山巌(日露戦争陸軍大将で有名)に会う。

 時は1872年、岩倉使節団が西欧訪問中であったのが、なんともはやタイミングが良すぎる。フランス語を勉強中の大山は、メーチニコフという友人が出来て大喜び。さらに、木戸孝允がジュネーブに立ち寄り、大山を介してメーチニコフと数時間の会話をもった。木戸は、メーチニコフの「スイス論」(小邦連合体制)を読んでいたので、これからの国家体制について話がはずんだことであろう。

 1873年、岩倉使節団一行は、帰途ジュネーブに立ち寄る。この機会をメーチニコフが逃すわけがない。高崎正風は書いている「6月17日、大山案内してロシア人メーチニコフを訪ふ。此人君主専治の政をにくみ、自国を去りて、ガリバルヂの共和党にかへし、・・・足部を射られて、跛となり、・・・人となり敏俊、英、仏、ゼルマン、イタリ、スペインなどの語を能くし、…日本学を学び、少しく談話をなす。音調はなはだ好し、実に一奇人なり」

 ロシアの密偵は、メーチニコフが日本の使節団と会っていることは知っていたが、まさか日本に行くとは、想像だにできなかった。ジュネーブから姿をくらますと、「パリに行き革命活動を続けた」と本国に報告している。

 1874年4月。メーチニコフは、大山から西郷従道宛の手紙をもって、マルセイユから出航。

 ときあたかも、祖国ロシアではナロードニキ(民衆主義)運動の盛りであった。ツァーと農奴の暗いロシアの歴史においてこそ、ヴ・ナロード(民衆へ)が生まれたが、革命家メーチニコフは、「アジア的停滞」の極東で起こった明治革命にも、そのような要素があるに違いないと見当をつけたのだった。

 訳者の渡辺氏は書いている、「幕末から維新にいたる日本の政治、社会状況を詳細に分析したメーチニコフは、明治維新内発説を提唱し、それを〈歴史上もっとも完全かつラジカルな革命〉と断定した。そしてこのような革命を可能にした背後の力として、日本人の身分的平等観念と進取の気性、無神論的傾向を強調した」と。

 彼にとっては、日本の産土の神や鎮守の杜の祭りは宗教ではないし、日本人の平等観念が西洋のそれとはその由来が異なるのではないかという疑問をもつにいたるであろうか。

そして、また一方、ちょうどこのころ、ドストエフスキーは、ナロードの土着的な心に打たれると同時にその退屈に居れない自分を見出し、一方インテリゲンチャの観念性と陋劣、革命に必須の欺瞞に憤怒し、ついにロシアのキリストを幻視する。
が、革命家にとって、そんなことは余計なことである。

                             続く


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『伊勢物語』

 『伊勢物語』再読

 人も知る、「むかし、男うひかうぶりして、奈良のみやこ春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。」・・・で、 さっそく、そこで目にした女に心を奪われ和歌を贈り、「昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。」という初段から始まる。

 じつに『伊勢物語』は、みやびの宣言の書である。男は京で高貴な女性を奪おうとして、見付かり東国へ逃れる。さまざまな女性に心ひかれ、子供のように無邪気な心でただちにアタックする。しかしまた大人びた人の情を知る男。光源氏そっくりである。

 業平も源氏もともに高貴な血筋であり、臣籍降下した氏の出である両者は、日本人の感性が生みだしたみやび男の典型である。源氏は若い時にちょっと中流風情と遊びはするが、彼の生活はほとんどが宮廷のなかである。作者紫式部が、いわば伊勢の荒削りのみやびを、その宮廷女性としての感性でもって洗練させ、ついにもののあはれとしての典型を生みだしたのであった。式部の長大で詳細な物語は、今から見ると異様なまでに美的関心に集中しており、伊勢が知らなかった仏教的諦念でさえ美に仕える思いとなる。

 それにひきかえ、伊勢物語におけるみやびは、はるかに土俗的であり、奔放であり、野趣に富んでいる。この歌物語は、あたかも業平の一代記のような体裁をとっているが、しかし業平以前の古歌をも含み、作者はどうやらさまざまな伝承歌を基にした話をも含ませたものであるという。

 業平は和歌を、恋しまた情が動いた数だけ歌ったであろうが、物語を書いたとは思えない。伊勢物語は当時のある文化意志をもった集団の手になるものであるかもしれない。なんにせよ、小生にとって面白いのは、この歌物語が当時の日本民族の明瞭な幸福の概念であるという点だ。

 妻の貞淑さにほだされて新しい女と手を切ったり、別れた女とよりを戻そうと連絡するが無視されたり、同僚の女と思うように逢えずしかしきっぱり別れられなかったり、またいい加減な気持ちで付き合ったり別れたり、男を求める年増女、落ちぶれた知人や上司を思いやって心から付き合ったり、出張の夜、逢う約束をするが接待の酒宴のために逢えず無念の別れをしたり、大胆に迫ったり、急に気が小さくなって思いを遂げられなかったり、厭味なジョークを言ったり、粋な計らいをしたり、・・・
要するに、昔ありける男は、悲喜こもごもの、現代なら週刊誌が喜びそうなエピソードを生きる。

 しかし、昔ありける男の物語は歌物語、つまり、話は結局同時に歌の素材でもある。そして、週刊誌とは違って、一途であり切実である。週刊誌の書きぶりは、その心は、他人事であり、悪意であり、蔑視である。そこには愛情がない。

 むかし男の物語は、いかなる過去の行為についても、愛情をもって眺める。いかなる状況に陥ってもそこに幸福を見出す。若い時は苦労を苦労と思わない、というようなものだ。

 そして、この永遠の青春は、終にこんなことをつぶやく。

思ふこといはでぞただにやみぬべしわれとひとしき人しなければ (124段)
 
 つまり、思うことを言わないで終ろう。自分と同じ気持ちの人はないのだから

 そして、有名な最後の歌(125段)

つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを

 何と単純で正直な一生。

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