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梅花

昨日は暖かく、一気に開花しました。梅開花1


蓮の泥かき分けてみると、立派な蓮根がありました。蓮根

株分けして施肥し新しい土を加え、この夏のさらなる開花を期待。
余った根を捨てるのもったいないから、欲しい人があったらあげます。

 我が家の梅は、枝垂れの紅梅です。見た目もいいですが、なんといっても香りがいいですね。しかし残念ながら、玄関あたりでは、すぐ脇にある沈丁花の強い匂いに消されてしまうのです。

それで、今年こそ沈丁花を離れた場所に移してしまおう、といつも思うのですが、なかなか思い切ってできない。というのは、この大きさの沈丁花は移植すると必ず枯れると庭師に言われているからです。この木はその昔、叔母にもらった大切な木なのです。

 そこで考えたのは、この木の枝を取って挿し木して増やして、それを他の場所に植えれば、この元の木を枯らしても、そのDNAは保持されるであろうと。で、実はこれすでに成功し、離れたところで二代目が育ちつつあるのです。しかし、なんかこの玄関脇の木を抜けない。・・・なぜだろう。この木がここにあることを叔母が喜んでいるであろう、と思うからです。

 いつぞや新聞で、『万葉集』には、梅を詠んだ歌は百首を超えるが、おおむね白い梅花を愛でていて、その香りについてはほとんど言及していない、ということが書かれていたのを、思い出しました。
 なるほどぱらぱらめくってみると、大宰府の役人たちが酒を酌み交わしながら、白梅の下でもっぱら友と遊んでは、散る花を雪のようだと愛でています。

 それで連想されるのが、菅原道真の「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春なわすれそ」が有名ですね。これが詠われたのは、たぶん紀元900年くらいのことでしょう。この〈にほひ〉は、匂い(香り)のことでしょうね。当時、にほひという言葉は、「紅にほふ桃の花」「朝日ににほふ山桜花」でおなじみのように、鮮やか、映えるなどを意味する視覚的表現、さらには人柄を表すことにも使われています。

 また、『古今和歌集』を調べてみると、梅花を詠った歌は、20数首、直接梅を詠ったのは15ぐらいでした。そして、ここではほとんどが、香りを愛でているのです。たとえば、
 
 色よりも香こそあはれとおもほゆれ
  誰が袖ふれしやどの梅ぞも  33

と、露骨に香りを賛美しているのもありますし、素性法師のなかなか心憎い歌、

 散ると見てあるべきものを梅の花
  うたてにほひの袖にとまれる  47

 これは、梅の花が散るところを黙って見ておればいいのに、取ろうとして触れてしまったばかりに香りが袖に付いて、いや~ん、もう忘れられないのよ、という意味です。

 奈良時代から平安時代への変遷。万葉の時代には、見た目のよさが、平安前期には匂いが、もっぱら関心の的となっています。150年くらいで、そんなに変わってしまうのですね。この違いはじつに万葉と古今の違いの象徴ですね。後者の方が技巧的になった、というよりも、上手く言えないけれど、万葉時代は、人々は概して犬のように明るく率直に直接的にものを愛でる。古今時代は、暗闇の猫のように貴族〈社会〉における、他者を意識した恋のゲームにふさわしい物の側面に敏感になっている。

 以来、われわれは梅と言えば、どちらかと言うと、「闇はあやなし梅の花」の感覚が勝っているのではないかと思います。

 そして話は飛んで、・・・

 昭和20年の春。忘れられない昭和天皇の御製があります。
 
 風さむき霜夜の月に世をいのる
  ひろまえきよく梅かをるなり

 昭和20年の春といえば、もはや敗色の濃霧の中を若き特攻兵士が死に向かって次々に飛び立った時です。陛下のご心中いかばかりであられたであろう。

 この御製が載っている本『昭和天皇のおほみうた』の著者は解説しています。

 「天皇には祖宗から享け給うた天下万民のすべてがその御肩の上に千鈞万鈞の重さで畏きことながら乗り申してゐる。・・・神前に咲きさかる梅は年ごとに変はらず馥郁と匂ってゐる。霜はしんしんと降りしき、寒月は皎々と冴えかへってゐる。われはその神の御前に一人立ち、国家万民の安全をただ祈りに祈ってをる、といふ御製である。しかし、ここでこころして拝さねばならぬのは下句を〈ひろまへきよく梅かをるなり〉と結ばれたことである。かかる非常危急の際に、〈みやび〉をこの御製に拝することに驚愕するのである。・・・上句の悲痛きはまりなき御表現が、一転して〈みやび〉の華と咲き、凛然不動に結ばれてゐる。」

 いかなる事態も〈みやび〉に転じうる国柄でありました。



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梅ほころびる

またこの季節がやってきた。歳とともに一年一年が速くなる。
とくにこの我が家の梅が咲くときは、朝と夕とはもうはっきり違っている、何とか時の経つのを押し留めることはできないかという焦燥感にかられる。こんなときは、小生には時間の経つ音が聞える。

久しぶりに写真と拙歌を披露。

梅1

枝枝のうす赤玉の鈴なりに 
 朝日のさして大気ゆらめく




梅3


老木に ぬっと芽の出る 雨水かな




梅2


またれつる梅の木の芽はほころべど はや散ることの憂ひ始まる



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観念の恩恵1

0とか無とかの周辺をさまよっていた時、われわれはなんと観念世界に支えられているか、ということにあらためて気付いた。

 幾何学の世界はすべてが明瞭にそうである。例えば点とか線とか。点は位置があって大きさのないもの。線は長さがあって太さがないもの。これらは誰でも明瞭に理解するにもかかわらず、厳密に描いた人はいない。たとえ頭の中でさえ描けない。

 直線とは真っすぐな線のことだ。これを考えようとするとわれわれは自然に空間を思い描く。光はまっすぐに走るように見えるが、決して真っ直ぐには走らないことを現代人は知っている。現実には光にも重さがある。それゆえ重力によって曲げられる。宇宙はいたるところに重力が働いている。それを科学者は、空間が曲がっている、と表現する。

 では、何に対して空間が曲がっているのか? それは、われわれの頭にのみ存在する空間観念=三つの直線からなる直交座標に対してだ。そしてこれがなければ、われわれは物理的現実を記述するのが困難である。

 民主主義という言葉がある。民主制の歴史とかロックだのホッブスだの、また難しい議論を離れて、民主主義が万人の平等を前提としているとしよう。では万人の平等とは何によって保証されるのか。それは、法の前での平等というかもしれない。

 では、その法とは何か。万人は平等であると法に書いてあるから、万人は平等なのか。そうであれば、もし法にそう書いてなければ、あるいはそのような法を掲げなければ、万人は平等でなくなる。きっとそうであろう。(実際そんな野暮なことを法に謳っているのかどうかしらないけれど)

 しかし、現実政治において、平等ということがありえるであろうか。というか、平等とは人によって規制が異ならない状態というなら、その実現は困難であろう。男と女、大人と子供がまったく同じというわけにはいかないであろうし、健常者と非健常者も同じ条件でというわけにはいかないだろう。法はそこに、いろいろな付加条項を付け加えなければならないだろう。

 無条件で万人は平等ということを具体例を持ち出して云々することはできない。しかも万人が、万人は平等である(べき)と口にするとなると、それは現実を超えた共通理念であり、個々の人間や集団を超えたある超越的絶対的観念―たとえば神というーに照らしてのみ、そういうことが言えるのではないのだろうか。

 もし、そういう絶対者をもたない場合、現実生活はどうか。われわれは、たとえば自分が自分であるこの感覚を他人に感じることはできない。絶対に他人と自分は違う。他者は外部にあり、自己は内部に感じる。ほかの人たちを数えることが出来るが、自分を数えることはできない。鏡を見ても無駄である。要するに他人と自分と同列に置くことはできない。人は生まれてからこのかた、他人と同じように振る舞うことを教えられてきた。それが社会生活というものだ。それで何となくうまくいきそうだからそれでいい。が、それだけのことだ。自分であることのこの感覚は、他人が居ることと共通では決してない。人は自分から外に出ることはできない。となると、万人の平等は、理論的に、そのような自と他を超えると想定される絶対的地平を必要とする。ここからのみ平等観念が、つまり例えば自他を超える超越神の前における平等が達成される。

 もし絶対的地平がなければどうなるか。
 それを欠いていた以前のわれわれは、こう言ってよければ、他者と共に生きることに専念するしかなかった。閉ざされた、いわばムラ社会内での自己滅却、無意識における闘争への恐怖、それを和らげる話しあい、駆け引きの中断、談合、絶えざる休戦・・・。

 欧米人と日本人と比べると、日本人は昔からなんとなく民主的であるし、いい意味で法治主義が苦手であるように見える。しかし、西欧化と都市化が進むにつれ、だんだん長所が弱点になってこなければいいが。
 
     
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無の発見

 仏教の教えと言うと、あまりに末広がりに広がって、何だか漠然として、小生の頭ではどうも掴みきれない。バラモン教やヒンズー教の広大な背景から生まれた教義は、一見相反するようなものが複雑に入り組んでいる。また、仏陀の千年以上のちには、日本でも新しい解釈による諸派が生じ、われわれは死ぬと僧侶に経を読み聴かされる。

 適当な概論書から想像するところによると、仏陀の教えのエッセンスは、何といっても〈無〉ということになると思われる。これは、猛烈な思想だ。何というか思想にならぬような思想だ。ゼロの発見がインドでなされたと聞いているけど、この〈無〉の発見もインドでなされたというのも、それと符合しておもしろい。

 人も知る、ゴータマシッダルータは、王子に生まれながらも、早くから病・老・死をいたく恐れ、この世は「苦」以外の何物でもないと思い込み、出家した。そうして到達した最初の発見が「無」ということだった。

 だが、「無」とは何か? こう問うことによって、小生はすでに躓いているような気がする。何故なら「無」ということを考えようとしているからだ。まあいい。そのまま考えることにしよう。

 「何もない状態」ということを、考えることが出来るだろうか。ノーである。まず、単純にこの物質宇宙を思ってみると、音もない、重力もない、光もない真っ暗な箱の中を想像しよう。これは無であろうか?
しかし、そこにはじっさい無数の素粒子が飛び交っている。またいかに箱が軽いとは言っても、それによる重力は消せない。その箱の重力の中心に位置しても、実は宇宙は永遠にじっとしていない。動いている。しかもそれは等速とは限らない。つまり重力は変わる。

 おそらく、現実には、この物質宇宙においては、「何もない状態」はないと思われる。では、観念の世界に飛び移って、今考えた素粒子や重力やらを、頭の中で消去してみよう。つまり〈ない〉と考えてみよう。その場合、われわれは何を思い描いているであろうか。あらゆる物がない世界を思い描いているか? ノーである。なんかしーんとした真っ暗闇を思い描いている。つまり、暗闇が「ある」のである。
 では、この暗闇を消してみてください。

はい、消しました。
おっと、そのとき何がありますか? 
何にもありません…。真っ暗闇も思考から消してしまいました。
じゃ、そこには何がありますか?
何もないですね。
ならば、「無」に到達しましたね。おめでとう。

 しかし、そうなると、それはまったく考えることができないあるものであり、・・・つまるところあるものですらない。もはや言葉だけだ。「何もない」や「無」は「ただの言葉」にすぎない。

 われわれの言葉はおもしろいもので、初めの経験を遥かに飛び越えて、経験できない領域に観念を拡張する傾向がある。

 この場合、初めの経験とは、われわれが無いという言葉を実際使う場面を思い出せばよい。

 たとえば、この部屋にはなにもない、と言うとき、それは、いま話題にしている物がない、あるいは関心のあるものがない、ということである。それは、在るべきものがない、つまり「在る」+「不在」=「無い」、つまり、「在る」<「無い」なのであって、この部屋にはなにもないというとき、「在る」-「在る」=0ではなく、必ず「在る」を前提にしていて、それに「不在」が加わるのである。

 現実問題として、「普段この部屋にはなにもない」とわれわれが言うとき、空気や光や暖かさがあるが、そのような物は問題にしていない、ということである。つまり、「在る」とか「ない」とかは、ただ関心を示す言葉である。

 では、超越的観念とでもいうべき「無」は・・・・?

 ところで、仏陀が語ったとかいう「無分別智」とか「無実体」とかは、現実の一線を越えた無に限りなく近いのか・・・。

 分別が無い知恵。われわれが普段口にする、大きいとか小さいとか、よいとかわるいとか、それらはわれわれが物事をそのように分けるから、そう言えるのであって、それらは実際分けられないものであるし、また相対的であって、自然の分節ではない。われわれの日常生活はあくまで便宜的なものだ。

 そんな区別は、いわば夢まぼろしであって、実は何にも無いのだ。ということは、実体とか分別とかは、無という大海に浮かんだ人工島のようなもので、無に支えられているということを知らなければならない。そのことを知った上で、普段の分別の知があるということを知らねばならない。

 このことに即して言えば、この世は無常であることを悟るには、無常でないものを何か指し示すことができないが、それを悟らなければ、この世の無常を知ることができない、ということになるか。

 無実体も同じだ。本来何もないのに、人は実体を云々する。しかし、その実体を語っている実態は無実体に支えられている。

 では、その「無」って何? 人は経験できないものの前では沈黙を守らなければならない(笑)


 なんか禅問答みたいになってしまったが、こんな言葉を思い出した。

 「あまりに現世的な人は、現世そのものすら理解することはできない」
(チェスタートン)



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『鈴屋問答録』

これは56項目にわたる様々な質問に本居宣長が答えた記録集である。その中で、南川という人の「神道を問ふに答るの中に陰陽の辯の内。」と題するものがある。
 おもしろいので紹介。

 「まづ世間には二つある物が多い。天地、日月、男女、昼夜、水火などの類だ。そのような二つある物の多いのは、みな陰陽の理だとしているが、じつは陰陽の理からそうなのではない。自然にそうなるのだ。
 そのゆえは、一つに一つを加えれば二つだ。また一つの物を割れば二つだ。それだから、二つの物は多くあるはずである。
 ところで二つの物より一つの物のほうが多いのであるけれど、人はそのことに注意しないものだ。人の身について言えば、耳目手足などは二つあるが、頭も鼻も口も臍も一つだ。もし陰陽の理あれば、万物ことごとく二つのはずだ。・・・
 さて二つである物は多くは反対の性質を持っているように見える。これも陰陽の理でそうなのではない。もともと二つであるということは、これとあれと異なるから二つであるというのだ。そうであるなら、二つである物は必ず、これとあれと異なるはずということになる。
 ところで、ただ二つの物であって、他の物を考えなければ、この二つの異なったこれとあれとは必ず反対ということになる。また必ず二つではないけれども反対するものに似た感じなら、強いて一対としてしまうことはよくある。
 とにかく陰陽の理ということは、もともとそうでないものを二つの物へ適応するために設けた仮の名である。」

 こういうところ、じつに宣長の面目躍如だな。宣長の思考には、どうも公式から演繹する方法に対する不信が感じられることが多い。

 この二つの物ということで連想してしまうのが、Bergsonの空間論だ。彼は最初の主著でこんなことを言っていた。

 〈二つの物は同時に同じ場所を占めることはできない〉という論は同義反復あるいは重複だ。というのは、〈二つの〉という言葉がすでに空間における併置の観念を含んでいる。

 それにしても、数はどうして出来たのであろう。小生の想像では、初めはものの多さの比較があったのではなかろうか。つまり二つの集合から一つ一つの物を対応させた。それを繰り返すうちに、いつしか個物の順序を表す言葉を与えた。一、二、三、・・・要するにこれ自然数。このとき、すなわち目の前の具体的な事物の名とは関係のない、順序を表す言葉を発した時、数というものの独立的観念に目覚めたのではなかろうか。

 空想をたくましくすれば、先ほどの陰陽の説ではないが、1よりも2のほうが、数として先だったのでは、とも思う。というのは、1というのは、英語でaのことで、べつに1と意識する必要はない。
 There is a pen. でいいのだ。oneとあえて言わない。ところが、テーブルに二つあることを表現するには、
 There are two pens. となる。このtwoに目覚めてからoneの発見があったような気がする。
 
 ちょっとうがち過ぎかな・・・・。
 逆に、そもそもの初めからaがすでにoneの観念を含んでいて、それが使われていくうちにだんだん oneの観念が希薄になっていったのかもしれない。だからaは不定冠詞と言われ、それは物そのものを限定するthe と比較すれば、抽象的数観念の名残をとどめているのではないか。

 まあ、そうだとしても、2 という数字は、なぜか、われわれの注意をとても惹きやすい性質をもっている。


 ちなみに、ゼロの発見はうーんと後の話であろう。

 ゼロ。これは難しい。なぜなら、われわれは物の存在しか知らないから。物の不在の観念は、存在のより後に決まっているし、数学上では引き算が生じてからだろうから。実用性からいったら分数より後のような気がする。

 それから、実数(マイナス)、無理数、・・・虚数・・・、数学の世界は、その論理に従ってどんどん広がる。



     
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澄み濁るをば神ぞ知るらん

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