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大発見 !

我が家から車でほんの数分の所に虫の集まる木を発見!


虫の木2 


虫の木5

虫の木3

クワガタの木4


かぶとも来い
くわがたも来い
大すずめばちも来い

ここは素晴らしい領域だ
ただで蜜がすえる

Oh, What a wonderful night !


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テーマ : 昆虫の写真 - ジャンル : 写真

勾玉考3

 ところで、本居宣長は、小生のように現物の勾玉の形や美しさに決して躓くことなく、―そういうことを宣長は〈私事〉と言うー例によって古代の文献において勾玉なる言葉がいかなることを意味しているかを徹底的に言語実証的に考究している。

 例えば―

 八尺ノ勾璁のヤサカとは弥栄(イヤサカ)ではと思うが、生き物ではない玉のごとき物に使っている例はあまりなさそうだ。漢籍には七曲がりの玉に緒を通したものがある、その七曲がりを引きのばせば、八尺になるから、それを言ったという説、あるいは八坂という地名のことを言ったという説は、どうもそういうことは考えにくい。勾璁は、古代遺跡からちょくちょく発見されるあの曲がった玉のことをさしているから、曲玉と言ったのかもしれぬ。しかし勾玉の勾を曲と解することは、あまりに漢字に捉われていて、古意から外れている。『日本書紀』にはそのような漢文風の誤解が多い。それに、しばしば発掘される曲がった玉など、一般なるものであって決して特に美しいわけではない。天照大御神からこの地へ降臨する神へ受け渡されることから考えるに、八尺ノ勾玉とは世に優れて美しいものでなければならない。文字(記号)に捉われなければ、勾(マガ)とはマカガ(目赫)をつづめた言葉で、目もあやな、美しく輝くという意味ではないか、曲がっているなんてとんでもない、云々。

 宣長の言語実証主義とは、例えばこのようなことであって、彼はいわゆるフィールドワークをした人ではない。言語以外の情緒的要素はむしろ余計なことであった。伊勢の松阪に居て、入手できるあらゆる文献を渉猟した。言葉・言葉・言葉。そこから彼は上代の人のこころを発見した。もちろん、その前に賀茂真淵との邂逅があったからではあるが。

 おそらく宣長にとっては、八坂の勾玉はそもそもの初め伊耶那岐命から天照大御神(この御名はすべてを隈なく照らす太陽の輝きでなくてなんであろう)に渡された首飾り、そしてこの世に降りる際ニニギノ命に伝えられ、久しく天皇家に伝えられている、類まれなる尊い玉であって、それが皇室に流れる明るさ・美しさの根拠となっているものだ。

 その玉を誰も見たことはないかもしれないが、あの物語を生みだし、信じ語り伝えてきたということは、上代の人々の視覚中枢が絶えずその輝きに照らされていたということにほかならない・・・。



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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

勾玉考2

 そもそもの初め、大火傷を負った伊耶那美命(イザナミ)は黄泉の国に行った、そしてそこから出てこれなかった境が出雲であった。そして、母のいる出雲に行くと言いに来たスサノヲ命に対して、アマテラス大御神は待ち構える、その時の武装として〈八尺の勾瓊〉(勾玉を通した玉飾り)をしている。この装飾はそれほど強い力をもっているのか、あるいはアマテラスの光り輝く威厳を示しているのか、ということであろう。

 そして散々罪を犯したスサノヲは出雲へ行く。そこでヤマタノオロチをやっつけて、後に名づけられる草薙の剣を得る。この話は、出雲は製鉄の拠点であったことを物語っているという説があるが、とにかくスサノヲは出雲の地に宮を建て、住む。そして、オロチから救われた櫛名田媛(クシナダヒメ)との間に生まれた子の子孫が、大国主神(オオクニヌシ)である。そして、オオクニヌシこそ、人も知る出雲大社に鎮座している神である。

 『日本書紀』一書によると、オオクニヌシが天界の神々に国譲りをしたとき言うには、「あなたがたの仰ることに従わざるを得ないでしょう。これからは、顕界はあなたがた皇孫(アマテラスの子孫)が治めてください。私はこの地から去って幽界を治めましょう」。そして八坂瓊(やさかに)を被って身を隠された。出雲歴史博物館の資料によると、この〈やさかに〉が勾玉であるという。とすると、勾玉は幽界での霊的な力を与えるものか。ちなみに同書には、「律令体制が進められる過程で、新しい古代国家にとって伝統的な玉は不都合なものとされた」と書かれている。

 そもそも玉は魂(タマ)を象徴するものであり、魂に対する感覚の変化は、玉に対する好みの変化を引き起こしたであろう。あの縄文の森林のような緑から、弥生時代の出雲の透明な淡い赤褐色への移り行き。たまたま出雲で瑪瑙が採れただけの事であるのだろうけれど、あの勾玉の形と言い、透明感と言い、色と言い、肌理と言い、それは孵化したばかりの透明な海の生き物の、その全身に赤い血潮が広がっていく様を彷彿とさせる。それは上代の人たちの生命感覚の変化とは言えまいか。そのような幻想に悩まされる。

 小生は思うのだが、水晶玉に多く見られるように、まんまるい球形だったらどうだろう。まったき球は完結のイメージを与えないであろうか。それは仏教的諦念あるいは休止による天上的平和を想わせる。勾玉のあの曲がった形は、小生をして運動の観念に導く。もちろん管形も、これがもっとも多い玉形だと思うが、球形に比べると、運動的ではある。が、それは直線であり方向が定まっているがゆえに、いわば予見可能であり生命的自由がない。勾玉の曲線は運動する生命の力、この世のわれわれにとっては思いがけない方向性、それはある見えない世界からの力であることを暗示する。

 要するに、出雲は幽界であり、そこからこそ、われわれ人間が生かされている顕界に対して、魂の圧倒的な力を振るい続けている。それを上代の人たちは、しかと感じていたのであり、いわばその証明としてあの形―勾玉をもっていたのではなかろうか。 
   つづく


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テーマ : 工芸 - ジャンル : 学問・文化・芸術

勾玉考1

 この二年くらい、時々頭に浮かんでくるものの一つに勾玉がある。とくにあまり色の濃くない透明度の高い瑪瑙のものがイメージとして浮かんでくる。今朝も夢か現かの境にそれが浮かんできた。

一昨年、出雲大社を訪れた時、その隣にある古代出雲歴史博物館で見た、それは美しい翡翠(ヒスイ)と瑪瑙(メノウ)の勾玉を忘れることはできない。出雲はすでに弥生時代から勾玉の一大生産地であり、―何と言っても出雲には〈玉つくり〉という地名があるくらいである―、今なお毎年、出雲から天皇家に新しく作られた勾玉が献上されていると聞いている。

 玉つくりで思い出したことだが、出雲に行くなら玉造温泉で泊まろうと思い、ネットで一番大きな温泉がある宿を予約した。大社などを観て、ようやく暗くなり始めたころ宿に着き、さっそく温泉に浸かった。たしかにプールのように大きい。誰もまだいない。気持ちも広々と大きくなってとりあえず泳ぎまくった。この温泉は、男湯と女湯の入口こそ別々であるが中はこのプールで一緒になっている。これは僥倖だと思い、のぼせないように岩の上で休憩。湯気の所々がライトで照らされた闇のなか、薄眼を開けて待つことしばし、おっ、女性方から誰か入ってくる。ゆっくりこちらに向かってくる。心臓が打つ。と、男側からも誰か来る。・・・なーんだ、おじいさんとおばあさんだ・・・。二人は小生の休んでいる岩のあたりに来た。暗いが顔は判る。無言であいさつをする。二人は並んで胸元まで浸かり、ぽつりぽつり旅の話を始めた。老夫婦だ。小生は洗い場に行って、またこの岩に来た。まだ二人は岩のあたりで並んでいる。ときどきおじいさんが小声で話をもらしている。・・・

・・・そのとき、じわりっと感動がやってきた。いったいこの老夫婦の、何と言うか、安らぎ感と言うのか、長年連れ添ってきた安定感、何事が起こってもぐらつかないような、一つの溶け合った根から生え出た二本の巨木のような、自然の大地にしっかり根をおろした安定感、これは何だ!というような感覚に襲われたのである。

 この安らかさ。あらゆる野心もあらゆる落胆もその前では恥じ入らざるを得ないような完たき自然的充足。一切の瑣末事の消去。小生は、謡曲『高砂』にいわゆる老松の伝説の由来が明らかにされたときに続く、あの有名な祝言「四海波静かにて、国も治まる時つ風、・・・」の根本義が解ったような気がした。

 その後、時を経て、その印象は、小生などがいくら憬れても決して近づけないような、しかし戒めの力の一点として記憶の中に座を占め、輝きを放っている。

 勾玉に話をもどそう。
 縄文時代にすでに人々は、動物の牙や骨あるいは粘土などを利用して、装身具を作っている。アフリカやアマゾンの土人など、新石器時代を生きているような人々がアクセサリーをしていることからも類推されるように、われわれを含めあらゆる人種が、言語を含め人間としての特徴を見せ始めたその時から、おしゃれは始まったと思われる。

 しかし、それはわれわれ現代人が言うおしゃれというばかりではなく、呪術的な意味、たとえば邪悪な物から身を守るという意味合いが強かったのではないだろうか。つまり、今の諸概念から言うと、もっと未分化な方略であったであろう。そして今でも、おしゃれをする自分の心理を分析してみると、いわばその残響を感じないであろうか。

 縄文時代には、耳飾りや首飾りと思われるいろいろな形のものが、遺跡から見つかっている。北陸地方では、やはり翡翠製のものが目を引く。弥生時代になると、大陸や半島の影響からか、1cmくらいの長さの管玉を連ねた形が多くなったようだ。

 弥生時代から古墳時代にかけて、出雲地方が圧倒的産地になり、したがってここで採れる碧玉、瑪瑙、水晶が中心的玉となって、豆形やそろばん形も多くなり、大和王権のあったと思しき地方でも生産されたが、ここは間もなく衰退したらしい。

 仏教が伝来したころ、大和王権は石製からガラス製や金属製を好むようになったらしく、律令制の整備と共にいわゆる古墳時代が終焉を迎える。それとともに玉の生産も終わりを告げたのであった。以後は奈良時代になって国家的祭祀や寺院の鎮壇に必要な物としてのみ(?)玉を使用したらしい。
 
 で、小生がもっとも気になるのは、あの勾玉の形である。縄文人から平城京までの、いろいろな素材や形の玉を、写真でつらつら眺めてみていると、基本的に現代のネックレスやブレスレットや数珠と変わらないのだけれど、ペンダントにあたる部分や所々のポイントは、やはり曲がった玉(勾玉)なのである。

 縄文時代にランダムにいろいろな形が作られたうち、生産拠点が出雲になるにつれ、この曲がった形が珍重されていったのではないだろうか。それは、出雲という土地と関係しているのではないだろうか。
 つづく


                
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テーマ : 工芸 - ジャンル : 学問・文化・芸術

象徴天皇

日本国憲法第一条。

 天皇は、日本国の象徴であり日本国民の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 いったい、この象徴とは何なのか。大日本帝国憲法第四条では、天皇ハ国の元首ニシテ統治権を総欖シ…であって、分かりやすい。以前から、元首に対して象徴とは軽くて抽象的な語であって、どうもイヤだな、しかし、戦争に負けてアメリカ人によって創られた憲法だからしょうがないや、と感じていたのだが、何十年とこの言葉を聞かされているうちに、洗脳されてしまって、このこの〈象徴〉が、返っていいのではないのかな、と思うようになった。

 それにしても、アメリカ人であってもどうしてsymbolなる語を使ったのだろう、と今更のように思って、皇室のことにお詳しいT先生にお訊ねしたところ、新渡戸稲造が戦前アメリカ人にこの語を使って説明をしたことがあるらしい、とのことであった。

 先日、新聞の切り抜きを整理していたら、平成16年11月の記事が出てきた。これによると、太平洋戦争開戦からわずか半年後の1942年6月、米国陸軍省心理戦争課の大佐が想起した〈日本計画〉と題する文書中に、昭和天皇を〈平和の象徴〉として利用するという文句があり、それをマッカーサー将軍は知っていた、という史料が、2001年に米国国立文書館で発見された、という。

 なんだ、やはりそうだったのか、とあらためて思った。

 昭和20年
 8月15日、終戦。
 9月2日、ポツダム宣言受諾。
 10月4日、マッカーサーが近衛に改憲を示唆。
 年末までに、4つの新憲法草案が出来た。
 昭和21年
 2月1日、毎日新聞が改憲に付いてスクープ。
2月2日、GHQ激怒。
2月9日、吉田、松本、白洲はGHQに案を提示。
2月13日、GHQ案の基本事項を呑まされる。
2月22日、折衷案。
3月4日、GHQ了承、徹夜で翻訳調整。
4月  、一般公開。議会にかける。

大急ぎで創られたかわいそうな憲法。

この忙しい中、GHQ民政局長ホイットニーから草案を渡された幣原総理は、「天皇は〈象徴〉である。シンボルであるといふ言葉が使ってある。憲法に文学者のやうなことが書いてあると大いに吃驚した」と書き遺した。同感だ。

公文書に「文学的語彙〈象徴〉」を入れたのは、しかし言い得て妙ではなかったか。天皇は、天皇であって元首でもなければ、皇帝でもない。外務省の皆さま、天皇をemperorと翻訳するのを止めてください。戦後、象徴というなんだか訳のわからない語彙で誤魔化してきたのは、かえって伝統的な、政治権力とは対極にある精神的権威、法の中に在っていざというときには法を超えるがごとき機動性を秘めた不思議な中心、を示唆しえる。そんな力・・・

その一。昭和20年8月、陸軍のみならず、一般国民、多くの青年たちが、最後まで戦おうという気持が席巻していた時、天皇がまずもって終戦を宣言し、多くの日本人を救った。(明治憲法よかった、よかった)

その二。この度の東日本大震災の被災した方々へのお言葉。「自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国の・・・努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います」。この自衛隊を第一にもってこられた深い意味を思う。自衛隊のトップは、他の国家公務員のトップと違って、天皇から認証されていないことになっている、しかし天皇の思いはそのような規定を超えている。(ざま―みろ、日本国憲法)

先日、津田左右吉の天皇論を読んでいたら、偶然にも象徴なる言葉が、しかも、昭和21年4月の論文に発見したのは、大いなる驚きであった。驚きとは他でもない、この昭和21年3月は、密室での憲法作作成委員らが、symbolなる語を翻訳していたまさにその時期であるからだ。津田博士は、そんなこととはつゆ知らず、己の歴史的に見た天皇観を、戦前および戦後の(つまりpro et contra)の、声高な天皇観に対して、象徴と呼んだのだった。

津田博士といえば、記紀の神代の物語は、これが書かれた時代の状況を基にした、天皇や有力氏の権威づけの物語だというような論者としか知らなかった。それで、戦前は天皇に対する不敬ということでさんざんに叩かれた研究者であった。ところが、この論文『建国の事情と万世一系の思想』を読んでみると、じつに我が国民がいかにして皇室を崇敬して止まぬ感情を生みだしてきたか、それが続いてきたからには正統と認めべきではないか、しかも皇室がいかに民主主義に合致するものであるか、縷々諄々と述べている。

「日本の皇室は日本民族の内部から起こって日本民族を統一し、日本の国家を形成してその統治者となられた」
「国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる」

昭和21年初め、訳の分からないアメリカ人と、日本古代史の碩学が、奇しくも用いた〈象徴〉という言葉。この言葉は、天皇が公文に納まりきれない御存在であることを象徴(!)しているのではなかろうか。




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