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西行4

    

そして、塚本氏は〈詩と真実〉の禁忌の領域に入っていく。すなわち塚本は若い時分の藤原定家に扮してこう独白する。

「歌つくりである僕の中のもう一人の歌よみが、いつも西行上人のやうに歌いたがってゐた、と言へば気障に聞こえようか。けれどもこの暗く微かな欲求は前衛グループの僕たちがみな無意識にもってゐたはずだ。僕たちの誰もがあの方のやうには生き直せないのと同様、樹立した歌風を毀すことはできない。」

「僕は自分のプロソディ(作詩法)に誇りをもってゐる。他の連中は妄信してゐる。そのリゴリズムと華美な禁欲主義の桎梏の中で、あの方の真実の告白、正述心緒の歌は、技術的な低さと無関係に、僕へのカタルシスとなり得た。」

「僕の信ずる短歌にくらべると上人の歌は、その多くが散文的だ。散文的なその歌い方のいかに短歌てきなことか。素朴で、人恋しい粉黛(ふんたい=化粧)なしの人間の歌のいかに懐かしいことか。」

「歌ふことのよろこびを知ってゐた、万葉以来のうたよみ、他人がさういふ時、ぼくは顔を顰めて鼻の先で笑ひもしよう。杉木立の点景ゆえに、僕の歌の紅の花も鮮やかに映じよう。けれども独りで沈思するとき、あるいは僕の負けだ、と心冷えることも稀ではない。いつの日か僕はあの方の歌をうとんじることがあらう。世界のちがひ、でかたづけることは僕の詩学がゆるさない。まずい歌は悪だ!」

「〈鴫立つ沢の秋の夕ぐれ〉これは傑作だ。皮肉ではない。僕の〈花も紅葉も〉にミクロコスモスがあるとしたら、この歌には人間がゐる。西行上人の自画像が、ひいては乱世に生きて、昨日を問はず、明日を知るべくもない人間の黒いシルエットが、逆光にくっきりと浮かび上がってくる。人は僕の歌をにくみ、この歌を愛惜しよう。そしてそのことは、僕の勝利であり、上人の作家としての真の敗北に他ならない。」

 この文を読んでいると、ふと三島由紀夫を読んでいるという錯覚に陥るのは小生だけではあるまい。思い返せば、三島も塚本も、絶対の言葉によってこの世を乗り越えようとした、あり得べき藤原定家を夢見て生きた。一方は、ついに言葉によって殺され、他方は死ぬまで言葉を不滅のアフロディテと崇めながら生き通した。

 塚本は他のところで、『新古今集』を定家vs西行の場と規定している。しかし、われわれは天才たちのドラマに煩わされないようにしよう。時には『新古今』の花園を逍遥して楽しもう、そして常に現実というわが家に還って来よう、しかしそのとき必ず微かに重苦しい気持ちが胸をよぎるのは、なぜであろうか。




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西行3

 大空は梅のにほひに霞みつつ
      曇りもはてぬ春の夜の月 (定家)

 かへり来ぬ昔を今と思ひ寝の
      夢の枕にほふ橘 (式子内親王)

 この『新古今』的な前衛的な妖しい花々の前では西行の歌は、概して素朴で、直接心から発する感じがして親しみやすい。だからこそ、『新古今』に置かれると、むしろ収まりが悪く感じる。やはりどうして彼の歌が『新古今集』にもっとも多く採られているのか、という疑問が離れないのである。

 かりに西行の歌が新古今的につまらないという観点に立てば、どういう風に見えてくるのであろう。難解で斬新なあまたの歌から推して現代の定家たらんとした塚本邦雄の諸評論を覗いてみよう。彼は生涯を通して反西行の立場を自認して憚らなかった。

 「〈鴫立つ澤の秋の夕暮れ〉にしたところで、〈心なき身〉という詞がいかにもかまととめいて私は嫌悪を催す。…〈心なき身〉の卑下自慢を上回る俗臭紛紛鼻もちならぬ似非世捨て人であることは歴然としている。」

 「〈願はくは花の下にて春死なむ〉は老優の切った下手な見得めいて嘔吐を催す。…西行の実録、逸話、伝説には、意味ありげでわざとらしく、殊勝に見えて実は気障っぽい言動が掃いて捨てるくらいでてくる。」

 ほんとうに西行の歌が先に下手たど思ったのか、伝説的な出家者の人気が先に鼻についたのか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということわざがあるけれど、もう西行の何もかもがマイナスイメージで塗りつくされている。よく引用される後鳥羽上皇の西行評「生得の歌よみ、不可説の上手」とは、えらい違いだ。

 さらに塚本氏は言う、概して平凡な歌が多いのに、多く採られているその故は、『新古今』は後鳥羽院によって造られた、濃淡、強弱、明暗の巧妙な配合からなる一巻の絵巻物であるから、西行の作は定家らの作を際立たせる緩衝剤にすぎない。美酒佳肴に飽きた通人がとどのつまりは一杯の水をこそ不変最高の甘露と称えるのだ。

ここまで言うのは、ちょっと偏見が過ぎるのではと言いたくなる。が、それには塚本氏なりの理由がある。

 『新古今』とは何か。新しい歌とは何か。塚本氏は俊成に成り代わって語るところは、「西行の人物と歌柄の野性を最大限に利用したいと思ふ。古今集以来の血族婚で畸形化した歌、惨憺たる自家中毒症状の歌の、毒を制する毒として。」「西行は直接体験を詩的経験より高いものと自負してゐるやうだ。私の逆説がかれには通じない。即物性の新鮮さは暗い心理の中で生きる、といふ逆説を。」


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西行2

     

小生の疑問はこうである。彼の歌は『新古今和歌集』に、どの歌人よりも多く採られている。しかし『新古今』の雰囲気と『山家集』の雰囲気とはかなり違う。しかし彼の歌が『新古今』に一番多く採られているという事実は、当時の編者らが西行の歌がよいと当然思ったからではないか。

 桜花夢かうつつか白雲の
   絶えてつれなき峰の春風 (家隆)

 春風の花をちらすと見る夢は
  さめても胸のさわぐなりけり (西行)

 まあ、例えばこんな違い。『新古今』の雰囲気とは言っても、一言では言えないくらい広いけれど、小生おもうに、『新古今』の技巧の向かっていく先は、歌が観念上のただの言葉遊びになってしまうぎりぎりの繊細さと巧みさである。たとえば、有名な定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり…」である。

小林秀雄は上手いことを言った、『山家集』を読んでいるとどうってこともない歌が、『新古今集』の中に置かれると断然光って見えてくる、というようなことを。良い歌なのかどうかはともかくとして、なるほど違って見える。この違いはすなわち、西行は世を捨てて山の中の庵で、花鳥風月の表現に心を燃やしたというような人ではなかった、非常に強い自意識の持ち主であった、そしてそれがそのまま歌になった、ということに他ならない。

ちょっと穿った見方かもしれないが、『新古今』の当時の歌人らは、自分たちの美学上の危機を西行が救ってくれるのではないかと期待したのではないだろうか。危機の行く先は、反動として遠く〈古今伝授〉という奇怪な暗い秘義を生むきっかけになったのではないか。

あの時代に、つまり12~13世紀に、西行のような思索家と、『新古今和歌集』のような美の爛熟とが出現したことを、小生は驚きの目をもって見る。ここで力をも入れずして天地を動かす歌の沸騰と崩壊とが起こったように感じる。


 
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西行1

  

いまNHKの大河ドラマで「平清盛」をやってますね。あれを見ていて、気になるのは、やはり佐藤義清(のりきよ)です。まあ、出家しちゃったから、あまり出てこないかもしれませんが。西行ってあんな人だったんだろうか、ほんとうに待賢門院への恋が出家のきっかけだったんだろうか、とかいろいろ穿鑿したくなりますね。

 ここでこんな声が聞こえてきます。「まあドラマなんて創りモノだからほとんどが事実ではない。」と。それに対して小生はいいたい、では事実はどこにあるか。当時書かれたものが、事実であると思うのは無邪気で人がよすぎる。古今東西、書かれたものは書かれたものにすぎない。それに人は本当に〈事実〉を知りたいと思っているのであろうか。

 リンゴが木から落ちた。もしこれが事実だとすると、なるほどこれは事実にすぎない。これが、どのような容態であるか、美しかったのか、死を連想させたのか、あるいは月の運動を連想したのか、要するに人の心がそれに関連してどう感じたかが面白いのではないか。ドラマが面白いのである。

 それに対して、そうだ人の心が事実なのだ、事実を知りたいというのは本心を知りたいということなのだ、と人は言うかもしれない。それには小生も同意しよう。ただ、人の心は〈本心〉があると言うにはあまりに微妙過ぎて、ゆえにドラマの良し悪しが生ずるのだ、と付け加えねばならない。

 それはそれとして、佐藤義清こと西行は、23歳にして妻子を捨て出家したのは、彼の心によほどのことが起こっていたはずである。仮に待賢門院との交情がきっかけになったとしても、それはきっかけであるにすぎない、彼の心中深く隠された思いが、出家(世を捨てる)という形をとったきっかけであるにすぎない。もちろん当時、〈出家〉するということはそうめずらしいことではなかったようだが。

ある女に惚れて妻子を捨てたというだけの話なら、今の世にもゴマンとある限りなく〈事実〉に近いつまらない話である。西行は出家後おそらく待賢門院には逢って!はいないだろうし、出家したと言っても、完全な僧侶になって仏事に専念したわけでもない。それどころか、鳥羽上皇や崇徳院の成り行きを気にかけ、かつての北面時代の一部の仲間たちとの交友を保ち続けた、という話を信じたい。

要するにあの当時、律令制が土地争いを治めきれず、武士が政治にコミットし始めようとする猛烈な変革期に政治から完全に心を離すことはできなかったであろうし、また当時は上皇も大臣もよき歌人でもあった。彼はたんに世の中が厭になって逃げたとは思われない。こういう歌を信じる限りー

  世の中を捨てて捨てえぬここちして
       都はなれぬ我が身なりけり

だから彼の表面だけを知って、じつに曖昧な奴だと思った人は当時から多かったであろう。しかし、じっさいに彼に会ってみれば、彼の心の中の何か強い確信めいたものに触れて、自分の彼に対する誤りに気付いた人もまた多くいたのではないかと思う。

彼ははまだ若いころから武士(とはいってもこの時代いわば在地武装農民、都においては貴族の番犬)の身分でありながら和歌を詠った。まだめずらしいことだ、彼には歌の天性の才があったのだろう。小生は、以前から彼の歌を読んでいて、これが上手い歌なのであろうか、とも思い、しかし、吟じてみてじつに自然に心に響くというか、何度も口ずさみたくなり憶えてしまうような歌が多いと思っていた。有名な―

  心なき身にもあはれはしられけり
        鴫たつ澤の秋の夕暮れ

西行と言えば月と桜と吉野山を連想するのが一般であるかもしれない。しかし、彼の歌に触れていたことのある人なら誰でも、単にいわゆる花鳥風月を愛でるというものとはちょっと違うなと、感じるのではないか。小生も漠然とそう感じていていたのだが、テレビで「平清盛」を見ていて、また西行についての疑問が湧きあがってきた。


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漫才1

A 「いやー、この前の震災は大変でしたなぁ。家が流された人はどうなってるんやろ」

B 「でも、まあみんながみんな同じ不幸を体験したというわけでもないやろ」

A 「と言うと?」

B 「いや、中にはな、家をなくして何だかすっきりした、って人もいるんやないやろか。」

A 「そんな人おるやろか?」

B 「例えば、捨てたいけれど、捨てられずにぎょーさんモノが溜まって困っとる人とか、修繕費がものすごくかかる壊れかけた古家をもっとる人とか、多額の借金証書がある人とか。」

A 「たしかに、そんなモン無い方がええわ。」

B 「そやろ。」

A 「そりゃ、震災に感謝せなあかんわ。」

B 「震災さまさまや。」

A 「さまさまと言えば、これはええチャンスとばかりにな、ドロボーが仰山でたらしい。中には泥に半ば埋まった人からバッグや腕時計を取ってった奴らがおるらしい。」

B 「そやがな。それを狙ろて、わざわざ遠くからやってきた奴らもおるらしいな。そりゃ専門家にとっては震災さまさまやろ。」

A 「世の中にはいろんな専門家がおるもんや。」

B 「でもなぁ、逆に普段なんにもせんような人が、知らん年寄り助けに走ったり、避難所で食べ物を分け与えたり、というような話も聞くでえ。」

A 「そやがな。いざという時、人はどういう行動にでるか、それが判らん。評論家はいろんなこと言うけどな、そう言う人らもいざという時どうするか、見てみたいわ。」

B 「そやそや。ゆーこととすることと違うのが人の常や。」

A 「いやまた、言う人は本気でそれを言うとるのかどうか分からん。」

B 「そうや。お気の毒に、とかいう言葉なんかそや。うちの隣の犬が死んだ時、おれは口ではお気の毒にとゆうてやったが、本心はあのうるさい犬が死んでせいせいしたと思っとった。」

A 「そやろ。おれも隣の娘さんに可愛いと言うてやったことがある。」

B 「世の中みんなそや。だからな、マスコミには注意せなかんで。」
 
A 「そうや。注意しとる。新聞にええと書いてあるなら、悪いということやないかと考えてみるし、悪いと書いてあれば、ええことやないかと考えてみる、それくらいの習慣はついとるで。」

B 「そりゃ、ええ習慣やわ。あんた、見かけによらん、ええ男やな。」

A 「その言葉に騙されへんで。おれは隣の娘と違うでー。」

B 「いや、これは本心や。疑いも行きすぎはあかんよ。」


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Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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