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後鳥羽院と定家3

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 ただ小生が気になるのは、『新古今集』の最多の九十四首の西行が、『新勅撰集』においては、十四首しか採られていないことだ。もちろん他の新古今歌壇のキラ星たちもかなり少なくなっているが、これほどではない。西行をあまり評価していなさそうなのは、定家とは時代が少しずれているためであろうか。このちょっとしたずれが、後鳥羽天皇をきっかけとして大きなずれとなったのではないか。

 定家が西行と会った文治二年(1188)、定家25歳、西行69歳。当時、遁世修行の身でありながら、政治的実力者らにも一目置かれ、不思議な外交力をもち、和歌を得意とし、それでいて一見飄飄とした自由人、西行。片や堅物のまだ下級官吏の定家。

 西行は自作のそれぞれを、俊成と定家に判詞を請うた。それは西行が定家を歌道家の人であり、また歌人としての力量を認めていたからだと素直に思いたい。

 法橋行遍なる人の報告(新古集巻十六)によると、定家に和歌の道に専念するきっかけは、と問うたところ、それは西行に会ったことだと答えたという。俊成にではなく、西行になのである。定家がその後どのような道に入っていったかはともかく、和歌の力の真髄を西行において直感したことが、小生には面白く、歌というものの出所をいろいろ考えてしまうのである。




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後鳥羽院と定家2

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 後鳥羽院は、和歌のみならず、小弓、競馬、笠懸、相撲、蹴鞠、水練などスポーツや、琵琶、白拍子舞、今様、鶏、囲碁、将棋、双六、など、まあありとあらゆる遊芸に喜びを見出し、それらの名人たちを身分に関係なく集め、競わせることをこよなく楽しんだ。

 水無瀬離宮における遊興の時の、この「専制的な文化的支配」王の上機嫌な声が聞こえてくるようである。いっぽう、和歌と出世のことしか念頭にないような定家は、そのくせ院の遊興には馴染めず、院の強引な享楽趣味にたいする苦々しい思いを、いじいじと日記に書きつける。

 承久二年(1220)、順徳天皇の内裏歌会で、定家が自分の不遇を訴えたとも受け取られるような述懐歌を詠んだ。このことがきっかけで定家は後鳥羽院の勘気をこうむり、しばらく謹慎蟄居させられた。

 もともと定家の家族には鎌倉方の縁者が多く、将軍実朝に『新古今』などを贈ったり、また求めに応じて実朝の和歌の合点、批評などもしていて、そんなこんなでどうも後鳥羽院と定家はだんだんそりが合わなくなっていったようだ。

 そして承久三年である。後鳥羽院は鎌倉の北条義時追討の宣旨を下すが、京軍はまたたく間に敗走。後鳥羽院は隠岐へ流され、結局その地で生涯を終えることになる。GHQたる鎌倉方の下、京に後堀川天皇が置かれ、文化は九条家によって監督される。定家は、あの恐ろしい祝祭熱狂的後鳥羽院と正反対の柔和で思慮深い後堀川天皇に安堵と喜びを感じた。

 後堀川天皇は、1232年、定家に『新勅撰和歌集』の撰進を命じた。が、間もなく不幸にも突然の崩御。が、九条道家は定家に編集の続行を命じた。ところが、道家はその仮奏覧本に後鳥羽院や順徳院らの和歌があまりにも多く含まれているのを見て、これ鎌倉方に見つかったら、ちょっとやばいのではということで、これらをすべて削除するように定家に命じた。

 この『新勅撰集』は、1235年に完成したのであるが、おそらく当初、定家が後鳥羽院の和歌をもっとも多く入れていたのであるからには、彼は後鳥羽院御製をそれだけ認めていたのであろう。じっさいには鎌倉を慮ってすべて削除された。そして入首歌最多は藤原家隆であることが、この集の傾向を想像させる。

 この頃の定家は、千五百番歌合当時は、歌人たちは自分で素晴らしいと思って詠んでいたが、今見ると、まったく尋常の歌とは言えない、自他の恥と言うべきだ、と日記に書き、また定家の息子為家の妻の阿仏尼は、後に定家は『新古今集』を「あまりにたはぶれ過ごしていた」と言っていた、と書き残している。

 他方、隠岐での後鳥羽院は、あの黄金時代の和歌をどのように考えていたのであろう。『隠岐本新古今集』で、多くの歌が削除されたが、新古今歌風を築いてきた歌人たちの歌を、その割には減らしていない、少なくとも定家の歌をとくに減らすようなことはしていない。あの時の輝かしい美を否定していない。

 隠岐に流されてからの後鳥羽院と京に居る定家とは、一度も連絡し合った形跡はないようだが、しかし、二人はこの長い期間を通じてお互いを高く評価し続けていたと思われる。

 そのような、田渕氏のお話でありました。


    
 

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後鳥羽院と定家1

 田渕句美子著『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』という本を読んだので、今回はこれを紹介しよう。

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 後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子として、治承四年(1180)に生まれた。この三年後の寿永二年には、平家一門は安徳天皇を伴って西海に渡っている。
 そして、後鳥羽天皇はわずか四歳で、三種の神器なしで即位した。

 十九歳になった後鳥羽天皇は、四歳の土御門天皇に譲位し、上皇になって、思いのままに羽を伸ばした。後鳥羽上皇は、何にでも興味をいだき、熱中する質であった。

 和歌に関しては、天皇時代に詠った形跡はなく、正治二年(1200)、二十歳にして近臣たちと歌を詠み始めたと思ったら、その夏には唐突に百首歌(歌合)を催すと発表。この『初度百首』の作者たちは、後鳥羽院その人をはじめ、親王、内親王、大臣、天台座主ら、様々な身分の者を加えるという画期的なものであった。

 ここで、後鳥羽院は家定の和歌に魅了される。たとえば、

 梅の花にほひをうつす袖の上に
    軒もる月の影ぞあらそふ

 馥郁たる香を放つ梅が夜の中に浮かび、その香が涙で濡れた袖に移り、そこに屋の軒端から漏れる月光が宿り、梅の匂いと月光がまるで競い合うかのように袖にうつり混じり合うのを「月の影ぞあらそふ」と表現した。人の生身の姿は消し去り、感覚を重層させる耽美的空間を作りあげた。このような歌に後鳥羽院は芸術的興奮を覚え陶酔した。

 これ以後、院は頻繁に和歌会を催し、院自身も猛烈なスピードで上達していった。一年後には、空前の〈千五百番歌合〉を催すに至る。歌合は一つのテーマに一対の和歌をおき、どちらが勝ちか判定する、右勝ちとか左よしとか、後鳥羽院は和歌で勝敗を判じる文句の工夫を凝らしたりしている。たとえばこんな判歌のかたちで、―

   六百三番 左勝

 なく鹿の声に目覚めてしのぶかな
    見果てぬ夢の秋の思ひを  前権僧正

    右 

 たづねても誰かはとはん三輪の山
    霧の籬に杉たてるかど    雅経

    院判歌

 のぶ夢つがつさめぬの月
    わたる山の々の秋風 

 つまり左僧正の歌が勝ちであると「しかぞよき(鹿ぞ良き)」と、フレーズの頭の語で言っている、しかも、元の和歌を、さらに展開させて詠みこんでいる。歌会を始めて二年もしないうちにこんな芸当を可能にした後鳥羽院の才やいかに。

 そうして、その半年後には『新古今和歌集』の撰進を、定家、家隆らに命じ、しかも同時に、頻繁に歌会を催している。和歌所には多数の書写役、校合係、目録作成係らがひしめき合い、食事もままならぬほどもう大変な騒ぎであったらしい。三年後、大急ぎで『新古今和歌集』奏覧、竟宴(竟宴とは、天皇親撰の宴を示す意味)

 しかし、何と!その明くる日から、さっそく後鳥羽院は『新古今』の切り継ぎ(改訂)を命じ、以後頻繁に行われる。和歌所の役人たちは、今のようにパソコンのない時代、このたび重なる切り継ぎには、うんざりしたことであろう。

 定家も日記『明月記』に後鳥羽院に苦々しい思いをぶちまけている。「仰せによりまた新古今を切る。出入り、掌を反すが如し。切継ぎをもって事となす。身において一分の面目もなし。…」こんなことが六~七年続いたらしい。


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後鳥羽院1

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 承久の乱(1221年)は、天皇が武士によって、つまり天皇家以外の者の手によって、流罪になった日本史上初めての例である。

 『日本史要覧』には、「後鳥羽上皇が幕府に摂津の長江・倉橋両荘の地頭罷免を要求」とあり、幕府はこれを拒否。武をよくする後鳥羽上皇は自ら創った軍団をもって戦ったが、負けて隠岐に流された。

『新古今集』撰進の院宣が下りたのは1201年(建仁元年)、その完成の竟宴が催されたのは1205年(元久二年)、しかしその後も後鳥羽院は切り継ぎを繰り返し、最後に成ったのは1210年(貞元四年)。和歌所に勤めていた定家は院の恣意に振り回されている様子を日記に書きとめている。

そして、隠岐への配流の身になったとはいえ、『新古今』再編纂の情熱は衰えなかった。後鳥羽院は約二千首を何度も何度も繰り返し詠むうちに諳んじてしまったという。そこでも切り継ぎは行われ、いわゆる『隠岐本』が成ったのは1235年(嘉禎元年)という。30年以上『新古今集』編纂に心を注いでいたというからには、われわれがそれを読むに際して、個々の歌もさることながら、やはり全体の流れや歌の配列、構成に注意して読まねばならいようであるが、小生はまだ通読してはいない。

一見、承久の乱で勝った幕府(北条氏)が政権を、負けた後鳥羽院が詩歌を取ったという、その後の日本の二元論的あり方の基が形作られたようにも見えるが、院自身は武の人でもあり、いわば古代的な〈まだ〉政治から離れられない時代の、あるいは離れたくない性分の人でもあった。

政治から離れ純粋詩に没入しようとしたのは藤原定家であった。丸谷才一著『後鳥羽院』によると有名な「紅旗征戎吾事ニ非ズ」という文句を彼は日記『明月記』に二回書いている、一度は定家20歳のとき、1180年(治承四年)、平清盛が福原遷都し、源頼朝が伊豆で挙兵した年であり、もう一度は60歳、承久の乱が起ころうという時だ。

後鳥羽院の和歌に、

 あはれなり世をうみ渡る浦人の
    ほのかにともすおきのかがり火

 という一首がある。これは、「あはれ」は「哀れ」と「阿波」、「世」は「夜」、「うみ」は「海」と「倦み」、「ほのか」は「仄か」と「帆」と「焔」、「ともす」は「灯す」「伴」「艫」、「おき」は「沖」「起き」「隠岐」を掛け、その重層性によって意味の複合体が生じている。肝心な点は、この歌は承久の乱以前に創られたことである。

 つまり後鳥羽院は、東の武士団が謀反を企てており、いずれ彼らと戦うことになっており、そして負けて隠岐へ流される、という予感をもっていた、と丸谷氏は言う。この話を聞くと、小生は、ロベルト・シューマンがまだ二十歳にもならないころ、自分がライン川で溺れ死ぬ夢を見たという話を思い出す。

 続けて丸谷氏は、院は「さきにまづ悲劇的想像力、といふよりもむしろ自分を悲劇の主人公に仕立てて楽しむ自己陶酔的な癖があったと思はれる。…彼は、心の奥で恐れながら憬れ、憬れながら恐れてゐた島で配所の月を見ることに成功するのである。」

 この観点に立てば、『新古今集』巻十八の巻頭に菅原道真の歌十二首を載せ、それを『隠岐本』でも削除しなかった意味が浮かび上がる。院は道真の悲劇に魅惑され、敗北を思慕していたのであり、これは定家の預かり知らぬところであった。

 丸谷氏の考察は、承久の乱は、関東vs京、あるいは武士vs天皇という意味を超えて、政治と文学とのかかわりあいを示唆してスリリングである。定家は、政治という現実に完全に背を向けることによって、徹底的に抽象的・形而上的美を目指す。後鳥羽上皇は、自身政治にコミットしながらも、政治すら詩の一素材であるように願って行動する。

 奥山のおどろが下も踏み分けて
   道ある世ぞと人に知らせん 1633後鳥羽院

 見わたせば花も紅葉もなかりけり
   浦の苫屋の秋の夕暮   363定家

 定家のこの歌を後鳥羽院は『隠岐本』では削除した。塚本邦雄は、このことについて院にたいする怒りを隠そうとしなかった。

 芭蕉は俳諧を夏炉冬扇のごとしと言ったそうだ。つまり詩は現実には何の役に立たぬもの、のみならず余計なモノだ。しかし、現実とは何か?

 ティラノサウルスがトリケラトプスを喰らい、雄と雌とが子孫を残すために大地を揺るがす生々しさが現実であろうか? 人間の生も、もし言葉が無かったら、現実とはそのようなものであろうか? しかし、そこには〈現実〉なる言葉すら存在しないのではないか。

 三島由紀夫があれほど憬れた切腹。首が飛んで血が飛び散った日、すなわち予定された〈昭和45年11月25日〉という日付が彼の最後の小説の末尾を飾る言葉でもあったとは。が、彼はあの瞬間〈現実〉を完成させたのであろうか。

 『新古今和歌集』はいろいろな問題を含んで豊富である。この歌集編纂に参加した歌人たちは、現実は言葉の側にあるという信仰を深めるために生きたのではないだろうか。




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西行5

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 まあ、とにかく、小生は、日本語がこのような危機を通過して、鍛え上げられてきたことを、日本人として嬉しく思う。小生は日本語を信じる。その広さを、しなやかさを信じる。もっとも他の国に生まれたわけではないから、他の言語は知らないけれど。

 日本語は歌を詠うには適しているが、外交には適していないと言うような人がいるが、小生はそのような意見には与しない。外交が弱いのは日本語のせいではなく、日本人気質と戦争で負けたためである。今や英会話が必要だと言うが、それは優れた技術を持った配管工が必要だという意味で必要なのである。現場の人は必要な技術を身に付けねばならない。

 日本語は論理を繰るには不適だという人がいるが小生はそうは思わない。そう言う人は論理の何たるかを知らない人だ。西洋の哲学者たちはよく知っていた。それに、日本語の不備を指摘して止まない人が、「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人が言った」というのと同じで、日本語の不備を日本語で上手に語っているのである。

 日本語に、我、僕、俺、私、小生、自分…などがあるということは、じつに細やかな話が出来るということではないか。もし、それが論理と関係ないというならば、論理は正確には数学に還元されるしかない。これこそ普遍的な言語である。


  
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