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本居宣長

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本居宣長という人には奇矯なところがまるでない。宣長が亡くなる前年に自分個人の墓のための場所を探しまわり、ついに山室山に決定、その形や背景の山桜の配置などにもずいずん気を配ったことは有名であるが、そのことは、宣長という人を知れば知るほど、自然なことだと感じられる。

宣長墓


 宣長の養子となった太平は、宣長という人は?と問われて描いた「恩頼」(みたまのふゆ)という、野菜のかぶらのような形の図がある。これには、まず世話になった人たちが葉っぱにあたる部分に書かれ、根のようなところに、古事記伝を中心として宣長の著書と門人たちの名が書かれている。かぶらを考えると上下反対の方がよさそうだけど、太平さんかぶらのつもりで描いたのではなのだろう、また世話になった人たちを下段に書くなんてことはできなかったのであろうと想像する。


恩頼


 で、世話になった人たちの中心に二柱、父と母が書かれ、その間に「御子守ノ神」、父は「父主 念仏者ノマメ心」、母は「母刀自 遠キ慮リ」と書かれている。まず、自分あるは父母のお陰であり、その父はきっと毎日仏壇に手を合わせているような、カミの道を知らぬ人だったけれど、それでも最高の恩人である、とする宣長の心がよく表れている。

 そうしてその次に真淵、契沖、景山、紫式部などは、よく解るが、次に定家、頓阿、孔子…とくる。やっぱり定家なんだなぁ、と感慨を新たにする。
 頓阿は名前しか聞いたことがなかったけれど、ぱらぱら調べてみると、和歌の二条派再興の人なんだ。そして、歌を読んでみると、豊富な本歌取りで前衛的という感じでは『新古今』的ではある。

 暮れなばと思ひし花の木のもとに
     聞きすてがたき鐘の声かな

なんてのがある。これを本歌取りというのかどうか知らないけれど、すぐ連想したのは、『平家物語』「忠度最後」にある、

 行きくれて木の下蔭を宿とせば
     花や今宵の主ならまし

である。討ちとられた兵の箙に付けられていたこの和歌を源氏の兵が発見して、これこそ有名な薩摩守忠度であると判った次第であるからこそ、この歌に込められた覚悟と花の幻影の広がりとが感じられる。

 ちなみに、忠度が都落ちに際して口ずさむ、「前途ほど遠し思ひを雁山の夕べの雲に馳す。」それを聞いた俊成は「いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへて入り給ふ」となる。

 頓阿の歌の、花を見ながら今宵はここで休もうと思っている矢先、ふと鐘の声が聞こえてくる、がこの鐘声のなんとよいことか、一瞬花のことを忘れて音楽の世界に入り込んでしまう。技巧を通り越してむしろ素直であるが、うーんなかなかいいなぁ。


それから孔子というのも驚きだ。もちろん宣長は中国の文献もしっかり読んでいたし、古のやまと心さえしっかり掴んでいれば、むしろ外国の書物も読んだ方がかえって日本の優れてところがよく判ってよい、というようなことも言っている。

「かの國ぶりの、よろづに悪しきことをよくさとりて、皇國だましひにつよくして、うごかざれば、よるひる漢ふみを見ても、心はまよふことなし…」(『玉勝間』)

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斎宮行き2


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 この斎宮の文献上の初見は、あの悲劇の大津皇子のお姉さんの大伯皇女(おほくのひめみこ)。『万葉集』の歌で有名ですね。163の題詞には「大津皇子薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮より京に上る時に作歌」とあります。

 それよりずっと前に、垂仁天皇の御代、倭姫命は、天照大神の御霊の誘導によって、さまざま経巡った末、伊勢国にその祠(やしろ)を立て拝祭した。『日本書紀』では、斎宮をたつとある。しかし、このときの斎宮は、大御神を斎奉る(いつきたてまつる)宮ということで、後の時代の斎王の宮と間違えてはいけない、と宣長は注意を呼び掛けている。(『古事記伝』十五之巻)

 で、結局いつから、斎宮があったのか。もちろん今の斎宮跡に初めからあったとは限りません。とにかく、伊勢神宮がいつからあったのか、一地方豪族が天皇家に負けたのか、記紀の物語の意味は、などといろいろ学者は考えますが、斎宮制度が終わった時は、はっきりしています。平家滅亡後(1185)及び、承久の乱(1221)以後とぎれ、後醍醐天皇の御代、足利尊氏が幕府をひらいた建武三年(1336)に完全になくなります。

 世の乱れ、そして武家政権によって古代的なるもが消滅していったのをを感じます。


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斎宮行き1

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 斎宮は三重県の松阪と伊勢の中程にある。ずいぶんだだっ広い野原のような公園になっていて、その一角に、平安時代の斎宮とおぼしき建築群の模型が造られている。その公園を突き抜けていくと森があり、その中に斎宮歴史博物館がある。

斎宮1
斎宮2


 ここのパンフレットには、「斎宮とは、天皇が即位するたびに選ばれて伊勢神宮に仕えた斎王(いつきのひめみこ)の宮殿と、彼女に仕えた官人たちの役所である斎宮寮」と書かれている。これはいつ頃からあったのか不明であるが、制度化されたのは、天武天皇の御代であるという。

 斎王は、未婚の内親王(天皇の娘)や女王(皇族)の中から占いで選定され、京で潔斎の後、5泊6日の旅でもって斎宮に到着。以後、天皇が代わるか、家族の不幸などがなければ、ここに居続けることになる。斎王は、いわば天皇の名代として、伊勢神宮に仕えるのであるが、普段の生活は都風であったらしい。

 昭和45年に始まった発掘調査によって、徐々に斎宮の全貌が明らかになりつつある。一昨年、平安時代後期の斎王の居所とおぼしき一画から、大量の土器が出土し、その中に「いろは歌」が書かれた破片が見つかったというニュースがマスコミを賑せた。

いとは歌1 いろは歌2


 一度斎宮に行ってみたいと思っていたおりから、4月29日その「いろは歌墨書土器」についてのシンポジウムがあったので、ちょうど季節もいいし、訪れた。四人の演者の語る所を、かなり不十分ながら簡単に紹介しよう。

◎この小皿の断片の墨書文字は、内面は「ぬるをわか」と、外面は「つねなら」または「うゐのお」または「ゐのおく」と読め、おそらく「いろは歌」の一部であろう。そうであるならば、ひらがなで書かれた「いろは歌」の最古の資料となる。11世紀後半~12世紀前半。

◎「いろは歌」は47文字を重複なく用いた歌であり、それは「手習い歌」であって、文字の習得や辞書引きとして用いられてきたのであろう。現存する最古の「いろは歌」は、1079年の『金光明最勝王経音義』であるが、それは万葉仮名(以呂波…)とカタカナである。木簡では12世紀後半以後のもので、カタカナ・ひらがな書きである。

◎紙より土器のほうが入手が容易であり、出土品は習書であろう。また『伊勢物語』69段にあるように、宴席などで器に墨書することはある。(以上s先生)

◎平安時代の平仮名資料には二種類あり、平安時代前半には、実用的な文書で使用されていた。平安時代後半に入ると和歌や物語などに使用されるようになった。今回の出土土器に書かれた書体は、実用的な書体と共通であるようだ。

◎この土器の墨書は、同じ文字を書いていたり、重ねて書かれていたりで、習書として使用されたと思われる。字体は、〈わ〉〈か〉〈つ〉〈ね〉〈な〉に関しては、平安中期~末期のものに一致する。逆に、初期の平仮名書きいろは歌の字体が分かる。(以上y先生)

◎源氏物語を考えるに、11世紀には紙は普及していたと考えられ、どうしてわざわざ書きにくい土器に書かねばならなかったのか。それは一つには筆馴らしのためではなかったか。

 ◎土器の底に番号をふるとすると、漢字なら一字でかけるが、平仮名で書くと、いろはの順で複数の字数がいる。漢字を読めない人のためにはこれがよい。(以上f先生)

 ◎11世紀末の文献では斎王に仕える女官制度は整備されていた。堀川天皇の御代の斎宮は善子(よしこ)内親王であるが、源氏物語の六条御息所ではないが、その母道子も斎宮について行き、女官を補佐。道子は、遠縁でもある藤原行成の書の流派を引く能書家であった。出土土器の内面でもっとも判定の難しい文字〈を〉は、伝成行の〈を〉の一つによく似ている。ひょっとして、これは道子あるいはその女官たちによって書かれたものかもしれない。(T先生)

 というようなことで、「いろは歌墨書土器」の出土はいろいろな想像をかきたて、今後さらなる発見が期待される。


  
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初夏の生活

毎年、気候が変わるせいか植物の生育が違う。我が家の庭では、今年はクレマチスの当たり年だった。もっとも施肥が毎年同じ時に同じ種類を同量与えているとは限らないので、気候のせいとばかりは言えない。


クレマチス
クレママチス

もう6月、蚊が出てきたし、クチナシの葉を青虫が食べに来ている。雑草取りが大変。しかし、ドクダミは、花を咲かせるとなかなかいいものだ。それから、そこらにあまりにもよく見かけるので名前すら知らないけれど(クローバ?)、このピンクの可憐な花がいい。朝顔もぐんぐん蔓を伸ばしはじめた。

どくだみ  クローバ?
どくだみ クローバ?



4月に種を落としたモミジも水をやっているといくらでも増える。アイスクリームの紙カップの中でも成長する。こうやって欲張って育てるものだから、月桂樹とモミジの苗木がいっぱい。これ盆栽にして定年後は金持ちの外国人に売りまくって生計をたてよう。

みみじ
もみじin icecream cup

4月以来、メダカが毎週のように卵を産む。これを別の水槽に別ける。成長を見守り、体長5mmくらい以上になったものを、また別の水槽に移す。それぞれの水槽に適した大きさの餌を作っておいてやる。水を少しずつ換える。見ていると切りがない。これも将来売りまくって家計の足しにしよう。あるいは佃煮にして食べよう。

めだか成魚  めだか稚魚
めだか成魚体長2.5cm 稚魚体長3mm

親のいるところは、日によく当たる所なので、水がすぐ緑色に濁ってくるので、毎日半分以上の水を交換する。憎たらしいほどよく餌を食べる。

孵化したばかりの幼魚とは言えど、泳ぐスピードは恐ろしく速いし、兎のように瞬間的に角度を変えれる。この時期は魚というより鞭毛類生物に見える。もう100匹は遥かに超えている。去年は水槽掃除と称していじくり回し過ぎて大量の幼魚を殺してしまった。要注意、要注意。


彫像と花
彫像とビロード草とドクダミ

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『美濃の家づと』

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これは本居宣長が、『新古今和歌集』の約二千首から選別し、それに評釈を加えたものである。おおむね、後鳥羽院時代の〈新しい〉歌人たちの一つ一つの歌の解釈や歌としての良し悪しを論じている。

『新古今集』からそれぞれの歌人のどれくらいの歌に言及されているか、数えてみた。多い順に、括弧内は新古今収録数。
摂政良経70(79)、慈円65(91)、俊成62(72)、西行56(94)、式子内親王45(49)、定家43(46)、家隆42(43)、寂連34(35)、俊成女30(29)? そんなことあるか。まあ、小生のこと、数え間違いは大いにあり、責任はもちません。

 西行が相対的に少ないですね。そうして、良い評価を得ている歌は少ない。もちろん中には良い評価をしてる歌もあります。たとえば、―

   降りつみし高根のみ雪とけにけり
      清滝川の水の白波

 「めでたし、詞めでたし、雪にきゆるといふと、とくるといふとのけぢめ、此の歌にてわきまふべし、此のけりは、おしはかりて定めたる意なり、水の白波、よき詞なり、此の歌にては、水のまさりて、波の高きさまによめるなり、云々」

 歌人たちの個々の歌に対して、それぞれ従来の解釈を批判したり、優れている点や駄目な点を指摘している。場合によっては、本歌を引いているだけのものもあるが。

 だいたい、高い評価を受けている歌は、定家、家隆、俊成、俊成女、有家のが目につく。宣長が「いとめでたし、詞いとめでたし」と最高のトリプルAをつけている歌が4つあった。そのうちの一つ、定家の歌は、―

   消えわびぬうつろふ人の秋の色に
     身をこがらしの森の下露 (1320)

 しかし、例の有名な「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」にたいしては、当たり前のことを言ってどうするの、今さら「なかりけり」と歎いてもしようがないよ、と一蹴。

 宣長は、歌人の生涯のあるいは作歌の紆余曲折には興味はなく、一首の歌そのものの姿に注意が行く人であって、この評釈集の中でもこんなことを言っている。

 「昔の名人と言われる人たちのでも、その歌がことごとく良い物とは限らない、悪いのもまじり、又よい歌にも疵もありうるので、たとえ人麻呂・貫之の歌であっても、良し悪しを、まあ及ばないけれども、考えねばならない、つねにそうしていると、自然と良き悪しきが解ってくるから、従来のいい加減な注釈などに惑わされることがなくなってくるよ。」



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澄み濁るをば神ぞ知るらん

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