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ディキンソン著『大正天皇』1

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この本を一読して、やはり外国人によって書かれたものだ、とまず感じた。それはつまり、大正天皇をその時代の国際環境との関連で見た点が明瞭に顕されている、ということである。

 著者はその時代の新聞や雑誌、本―もちろん海外のも含めて―からの引用をふんだんに利用している。著者によれば、歴史とは、その時々のメディアに表れたところのものだ、となろう。われわれが今もっているイメージは後で創られたものであることが多い。大正天皇はその最たるものである、と言いたげである。

 たとえば、いまわれわれは、大正天皇はその幼少年期に病弱だったと思っているが、実際はそれほどでもなく、少なくとも当時の一般国民は誰もそんな風には思っていなかった。

 じっさいのところ、鹿鳴館ではないが、皇太子嘉仁親王(大正天皇)は、日本の西洋化、そして近代化の先端的象徴として、見事にその役割を演じた。

 その第一に、明治23年(1889年)の立太子礼の儀式(嘉仁10歳)は、近代国家の施設を動員して全国民の前で挙行された。錦絵や新聞はその華やかさ、威厳、人々の感激を書き立てた。そして皇太子はただちに陸軍歩兵少尉に任官されるのであるが、これは19世紀ヨーロッパ国家の君主政体の伝統的なことであり、明治政府も以前からその線を決定していた。

 明治天皇が15歳まで江戸時代の伝統の中で、つまり京都の御所の中で女官に囲まれ、白粉をほどこされ奇怪な宮中言葉をお発しになられていたのとは、まったく違って、嘉仁皇太子は東京という都市にお生まれになり、その西洋化のただ中でお育ちになったことに、著者は注意を促している。

 嘉仁皇太子が九条節子(さだこ)と御結婚されたのは、ちょうど世紀の変わり目、1900年(明治33年)のことであったのは、とても意味深いものである。19世紀から20世紀へ、世界は新時代到来の期待に胸を膨らませたことだろう。

 このころ日本は、1895年、日清戦争での勝利、1899年、宿望であった不平等条約の放棄によって、いよいよ日本が国際法上、列強と肩を並べることとなった。「文明社会の士人たる恥ぢさるの体面を具へざる可らず」(『時事新報』1900年1月1日)

 結婚式は〈神前結婚式〉という新しい形式を初めてとったそうである。これはつまり結婚に神の前で誓う西洋を〈遅れている〉日本がその形式をとにかくもまねたものであろうと小生は想像する。「賢所の大前において、ご婚儀を行はせたまふ御事は、国初以来こたびを以て初めて」「両殿下の御装束は御一代に再び召させ給ふまじき御召し物に渡らせ給へば、御儀式のいと厳粛に尤も典雅なることと想ひ奉るにあまりあり」(『風俗画報』1900年6月1日)

それから洋装に着かえ、公の儀式に進まれる。嘉仁皇太子は陸軍少佐の正装、節子皇太子妃はドイツ式正装で皇居周辺をパレード。そこらじゅう国旗や提灯、電飾と飾門が設けられ、皇礼砲が響き、花火が上がった。婚礼を見るために鉄道を使って上京した人は10万人を超え、祝辞を送った人は15万人を超えたそうだ。

節子妃はフランス式正装に着かえられ、各国公使らを含む2200人ほどの饗宴。国内至る所で記念植樹や記念碑を建てられた。要するに、日本国民にとって大きな夢を与える大祝典であった。当時の発行部数最多の『萬朝報』には、陸軍少佐姿の皇太子とマン・ド・クールとかいうドイツ式正装の皇太子妃が、すごくかっこよく並んで描かれており、各々の下には、H.I.M. the Prince-Imperial Yoshihito と H.I.M.the Princess Imperial Sadako と書かれている。この正装と表示は完全に当時の〈世界標準〉なのである。(H.I.M.とはもちろんイギリス皇帝の呼び名His Imperial Majesty の略である)

忘れてはならないことは、この御結婚は睦仁皇太子(明治天皇)のときには、想像も出来ない国民的イベントだったことと、嘉仁皇太子はこの新演出の儀式を見事に演じられたことである。全国民感涙にむせんだほどかっこいい!のであって、病弱でちょっとおかしい人ではぜんぜんないのであった。


 
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大正天皇御製詩4

 
「夢遊欧州」

 春風吹夢臥南堂
 無端超海向西方
 大都楼閣何宏壮
 鶯花幾処媚艶陽
 倫敦伯林遊観遍
 文物燦然明憲章
 誰問風俗弁長短
 発揮国粋吾所望

「夢のなかで欧州に遊ぶ」

春風が吹いて南の部屋にまどろめば
思いがけず、夢は西方へとめぐる
大きな都の楼閣は何と立派なことか
花や鳥がそこここに春の光に映えている
ロンドン、ベルリンへと経巡って
文化や制度の素晴らしさを見物した
各国の風俗を訪ねて長短をあげつらうなど
誰がしよう
わが国の良いものを発揮することが
吾が望みだ


これも皇太子嘉仁親王の21歳の時の御詩である。明治天皇は、皇太子の西洋行きを認められなかったけれども、こっそり夢の中で行かれたことに拍手を送りたい。

ちなみに、小生は24歳の時にギリシャ、エーゲ海に、夢の中で行ったことがある。今まで見た中で最も美しい夢であって、紺碧の海は午前のやわらかい日の光で輝き、海と空との茫漠とした青白い境界に目を凝らすと、テーブルのような巨大な大理石の神殿が微かに見える。そこから金色の肌の女たちが次々にこちらに向かって泳いでくる・・・。

もちろん生涯忘れるどころか、年を追うごとに印象は強まり、古代ギリシャへの憧れに苦しめられ、五年ほど前にギリシャへ行った(パック旅行だけれどね)

もちろん小生は、この現実の旅行において夢とは全然異なる発見をしたのだけれど、夢は夢で永遠の憧憬があるのであって、むしろ現実を下から支えるものではある。また夢ほど強烈ではないけれど、空想もなかなかいい。夢は恩寵としか言いようがないけれど空想はいつでもできる。実際の旅行にはおよばないけれど、空想には空想の醍醐味というか味わいというものがある。時間も金も僅少の仲間たちよ、ぜひ空想を味わってほしい。

嘉仁皇太子の「夢遊欧州」は、実際に見た夢をそのまま漢詩にされたのだが、欧州は何と素晴らしいところであったか、そして国々によって文化がかくも異っているが、それは優劣の問題ではない、日本は日本の良いところを発揮すればよい、となる。明治34年の為政者たちにくらべて、なんと落ち着いた心意気であられたことか。




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大正天皇御製詩3

   
 
「明治32年、嘉仁皇太子21歳。沼津御用邸より軍艦「浅間」に乗って神戸の舞子の浜の有栖川宮別邸に向かわれた。10月19日、出航。その夜、軍艦は遠州灘を通る。折から満月が皓々と海を照らす。ここで生涯の名作が生まれる。

 遠州洋上作(遠州洋上の作)

夜駕艨艟過遠州  夜艨艟に駕して遠州を過ぐ
満天明月思悠悠  満天の明月思い悠悠
何時能遂平生志  何れの時か能く平生の志を遂げ
一躍雄飛五大洲  一躍雄飛せん五大洲
 
 夜、軍艦に乗って遠州灘を通れば
 空には明月が皓々と輝き、思いは広がる
 いつか、日頃の念願を果し
 世界へ雄飛したいものだ

 この詩は伊藤博文が色紙に書いて新聞に発表し、当時評判になった。」(石川忠久著『漢詩人大正天皇』)

 西川泰彦氏が伝える所によれば、皇太子には海外への御旅行を強く願望しておられ、時の東宮補導顧問であった伊藤博文に、御父明治天皇にお伺いを立てられたところ、それにはまずフランス語の習得が先決との仰せにより、皇太子は御熱心にフランス語習得に励まれた、とのことである。

 思えば、大正天皇こと嘉仁皇太子は、歴代天皇の中で、初めて外国とくに西洋に行ってみたいと本気で望まれた人であった。それは時代的に、ヨーロッパ諸外国の皇族、皇太子が遠く海外視察に出かけるようになったこととパラレルであり、それはまたわが国が西洋諸国と帝国化=近代化という点で足並みを揃えるようになったことを意味する。

 石川氏は、この御詩は皇太子の漢詩の先生であった三島中洲作「磯浜望洋楼」の影響があったのではないかと書いている。

 「明治6年、三島は、下僚を引き連れ、太平洋を望む楼上で詠じた。

 夜登百尺海湾楼  夜登る百尺海湾の楼
 極目何辺是米州  極目何れの辺りかこれ米州
 慨然忽発遠征志  慨然忽ち発す遠征の志
 月白東洋万里秋  月は白し東洋万里の秋

 夜、海辺に立つ高楼に登り、見渡せばどのあたりがアメリカなのか、思わず遠くへ行きたい心が湧き上がる、檻から秋の明月が皓々と東の海を照らしている。

 この詩は、明治の書生の心意気に合致し、当時喧伝されていたことでもあり、皇太子が自然に影響されたと考えるのは不自然ではない。広々とした海、そして皓々たる月を背景に、遠い世界への旅を夢想する状況は酷似している、また用語も共通する。
 
 皇太子の詩の出来ばえは、肩肘張らない自然の力が秘められている趣を感ぜしめ、師に勝るものがあるように思われる。」

 石川氏のこの意見を聞いて、何度も口ずさんでみると、なるほど嘉仁皇太子の御詩のほうが、展開が自然であり、率直であり、開かれていて、気持ちがいい。


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大正天皇御製詩2

『過目黒村』(目黒村を過ぎる)

 明治29年。大正天皇18歳(数へ歳)。三島中洲の手ほどきを受け始めた。

その年の5月18日、嘉仁皇太子(大正天皇)は、東京郊外の目黒村付近をご遊行のおり、西郷従道侯爵の別邸でお休みになった、とある。たぶん村に入って行かれた、すぐその時の印象ではないかと想像する。

 雨余村落午風微  雨余の村落午風微なり
 新緑陰中蝴蝶飛  新緑陰中蝴蝶飛ぶ
 二様芳香来撲鼻  二様芳香来たりて鼻をうつ
 焙茶気雑野薔薇  茶を焙る気はまじる野薔薇に

 
 雨余(雨上がり)が潤いの気を導き、これが後の芳香を準備する。村落の明るい昼には緑陰のコントラストが目に心地よい。微風にのって蝴蝶がゆっくり舞っている。その行方には野薔薇が咲き、微風はこちらに芳香を運ぶ。それは野薔薇の香だけではなく、どこかわからぬが村人が焙る茶の香も混じっている。
 
 石川忠久氏は、「特に構えるところのない自然な筆致でありながら巧みな句作りとなっており、恐らくは生得の才なのだろう。」「後半の二句に詩人のセンスが閃く。」と述べている。

 
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大正天皇御製詩1

歴代天皇のなかで大正天皇の断トツのものといえば御製詩の数である。

 二位が嵯峨天皇と後光明天皇の98首。ついで後水尾36、霊元25、一条23、村上天皇18、淳和16。あと22人の天皇が6首以下。

 では大正天皇は何首作られたかと言うと、1367首。これを断トツと言わずして何と言おう。

 大正天皇は自ら、漢詩はいいが和歌は苦手だ、というようなことを仰ったらしいが、御謙遜を、小生は大正天皇の和歌は好きだ。

 なんで、こんなにたくさんの漢詩を作られたのか、という疑問は野暮で、つまりお好きであられたからだ。そして、何よりも、東宮職御用掛となった三島中洲の手ほどきがよかったからだ。

 ときに皇太子(大正天皇)18歳。三島中洲67歳。お二人のコンビの良さは、御製詩にも散見されて、「じつに天の配剤の妙趣を感ぜしめる」と石川忠久氏は書いておられる。

 漢詩については、残念かな、小生はよく知らない。むかし学校で習った有名な漢詩の幾つかの快いリズムやイメージが断片的に残っているだけ、…、春眠あかつきをおぼえず、とか、西の方陽関を出れば古人なからん、とか、少年老い易く学成り難しチトウ春草の夢、青山ほっかくに横たわり白水東城をめぐる、カカン一個の酒われ歌えば月なんとかし、疑うらくはこれ地上の霜かと、国破れて山河あり、・・・

 思い出せば、いろいろイモヅル的に結構出てくるものだ。考えてみれば、わが日本の物語にはすでに漢籍が多々引用されていて、長い間に自然にわれわれの言葉の中に溶け込んでいるのであろう。

 漢詩についてよく知らないとはいえ、大正天皇について言及しようとするならば、これほど多量の漢詩をお作りになったからには、きっとここに天皇の御心が顕れているにちがいない、それをとにかく読まずして大正天皇について何をか言わんや。

 ということで西川泰彦編『天地十分春風吹き満つ』と石川忠久著『漢詩人大正天皇』を読んだ。これらを併せても300首に満たないけれど、先生方の解説がなければ小生は読めないから、まあいいだろう。

 口ずさみつつ拝読していくと、いろいろなジャンルの音楽を聴いているようで、気持ちがいい。漢詩として優れているかどうかぜんぜん判らないけれど、いいなと思うのを、まずは一首紹介。

 「春夜聞雨」春夜雨を聞く

春城瀟瀟雨  春城瀟瀟の雨
半夜獨自聞  半夜独り自ら聞く
料得花多發  はかり得たり花多く発き
明日晴色分  明日晴色分るるを
農夫応尤喜  農夫まさに尤も喜ぶべし
夢入南畝雲  夢は入る南畝の雲
麦緑菜黄上  麦は緑なり菜黄の上
蝴蝶随風粉  蝴蝶風に随ひて粉たり

西川氏の意訳の変奏。 春の夜更けに一人しんしんと降る雨を聞いている。この雨で明日はきっと晴れるであろう。そして農夫はきっと喜んでいるであろうと思うと、夢は日当たりのよい南の畑の上に行く。そこは、緑の麦、黄色い菜の花が辺り一面にあって、蝶が風のまにまに舞っている。

大正三年の御製詩。この年、シーメンス事件(三井物産と海軍首脳との贈収賄事件)が起こり、ねじれ国会の末、山本内閣辞職。第一次世界大戦参戦。

                        

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『古事記』雑感

 

今年は『古事記』編纂1300年記念とかで、『古事記』に関する雑誌、イヴェントなどを耳にする。小生も『古事記』は好きだから、『古事記』について何か言いたい。とは言っても、小生はただの素人、フツーの愛読者にすぎないけれど。

 何から語ろう。もし『古事記』ってなあに、と問われれば、それはとても面白い物語である、と答えたい。笑いと悲哀に満ちた物語。そして日本でいちばん古い物語。神話であり歴史でもあるけれど、とにかく古代日本人が創り上げ語り継いできた物語。

 小生の知る限り、古代文学を研究する先生たちは、口をそろえて、『日本書紀』に比べて、『古事記』は文学として優れていると言っている。小生も同感だ。その意味は、全体として統一した流れがあり、語り口が自然であって巧みであり、感動させる話が豊富である。『日本書紀』はいかにも中国文献の引用を読んでいるという所が多い。嘘ではないにしても、表現が漢文の決まり文句的なところが多い。しかし、両者とも所々に歌謡が入っているが、これがいい。何度も口にしていると、スルメを噛むように味が出てくる。

 とは言っても、この文が書かれた当時、今われわれが読んでいるように読まれていたかどうかは、もちろん判らない。なにせ全部漢字で書かれているから、また現在の読みとは違った読み方が真実に近いと言われるようになるかもしれない。少なくとも当時のイントネーションは想像することもできない。

 しかし、それでいいのだ。本居宣長以来、その時その時の学者らがこう読んでいたであろうというおおよその見解に従えばいいのだ、またそうするしかないではないか。変わっていけば、それはそれでいい。万葉集もそうだが、古代文学はそうやって歴史を通して変化し創られていくものだ。

 歴史学者たちは、いったい『古事記』は何のために書かれたのか、と問う。たとえば、天武天皇あるいは他の天皇、それとも藤原不比等のようなある実力者等が、彼らの権威づけのために書かせたのだ、という。しかし、小生に言わせれば、それにしては、つまり政治的な目的にしては、面白すぎるのだ。これは『ひょっこりひょうたん島』のように面白いのである。

 それでは、当時の人たちが面白い物語を創作しようとして書いたかというと、そんなことはないような気がする。序文の太安万侶が書いた真面目な説明を信ずるなら、それは絶対にあり得ない。各氏に残る言い伝えが間違ってきているから、今のうちに正しいものを残さねばならないと天武天皇がお命じになった、とある。

 いやこの序文は偽物である、実はだいぶん後で書かれて付けられたという説も真淵以来言われている。誰か有力な後の人が、天武天皇の名を借りてこの「古る事の記(ふることのふみ)」を正統化しようとしたのだとかなんとか。だいたい、律令国家形成期にあるいは中央集権形成期に、こんな内容の書を天皇か書かせるとは変だとか。しかし、例えば昔の梅原さんのように古事記の内容までも政治的に捉えるのはどうか。

 たしかに8世紀に入る前後、いろいろな意味でいわば国家の秩序を形作ろうとした動きが顕著であった。その最たるものは平城遷都ではないだろうか。そして712年に完成した『古事記』も律令体制の整備と共に、その次に大きな国家的事業だったと思う。しかし、大事なことは『古事記』の編纂そのことであって、内容が律令体制と合わないとかいうのは、おかしなことである。

むしろ、『古事記』は律令国家に抗して!とさえ言いたい。それほど、天武天皇あるいは編纂者は、civilizationを広く見ていたと考えたい。そもそも政治といっても古代政治であり、今の政治の感覚ではない。これからというときなのである。nationstateはfolkloreなしには存立しえなかった、のではないかな。

そして、わが民族はこれほどまでに面白いお話をコアとしてもっているのだ、と考えるとうれしい。別に権威ぶることも、正道ぶることもない、神々の世界はこんなにも楽しいし、滑稽であり、悲しく、ちょっと残酷である。イザナミの命が火の神を生んで陰部に大やけどを負って死ぬ直前に、反吐を吐き、糞尿を垂らす、このおしっこから生まれた神の子が豊宇気毘売(トヨウケビメ)の神であって、伊勢の外宮に鎮座されている。この神が天照大神にお食事を差し上げていると想像すると面白い。

まあ神代の物語をいろいろに解釈したくなるし、もちろんしてもいいし、またいろいろに想像できるところが面白いけれど、今の感覚で解釈しないように注意しなければならない。その点、やはり『古事記伝』に勝るものはないように思う。宣長によると書かれた当時ですらすでに、当時の言語で脚色されている部分があることに注意を促している。

『古事記』の登場する神および人物の中で特に魅かれるのは、というか面白いのは、かなりマイナーではあるけれど、少名毘古名(スクナビコナ)神。オオクニヌシが出雲の美保岬で、さて国をどのように作ろうかと思案していたところ、海の向こうから妙ないでたちの神がやってくる、この神は神産巣日(カミムスビ)神の指からこぼれおちた神だと言う。まあ、想像するに、兄弟たちの間での落ちこぼれなんでしょうな。一人でどこか遠くの外国にふらっと行って、奇異なというか斬新な格好をして、この美保岬にやってくる。神産巣日神は「オオクニヌシを手伝って、この国を作り固めよ」と命令する。しようがないからスクナビコナは手伝うが、途中放棄して、またふらーと常世の国に行ってしまう。厭き易く放浪癖があるんでしょうな。

一般的にもっとも人気があるのは、オオクニヌシかヤマトタケルだろう。それから軽皇子。まあ、勝者や天皇ではなく、負けた英雄に心ひかれるのは、日本的心性の元型か、あるいはどこの国の人でもそうか。




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