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ディキンソン著『大正天皇』5

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 1919年(大正8年)には、近衛文麿は「今日の日本は国際連盟の中軸たる世界の主人公として、利害相関せざる国の面倒まで見てやらねばならぬ地位に達し居るなり」と言い、1920年、原敬はパリにおいて「帝国は五大国の一つとして世界平和の回復に向かって努力するを得たり。」と声明を発した。
この年一月には、天皇は「平和克服の大詔」を発布され、わが国は、世界において「順応の途」を歩み、「万国の公是」に従い、「連盟平和の実」をあげることを国民に激励される。

 そういうことで、人々の頭の中で〈平和な大正時代〉の下には、世界の1等国の一員たる自覚と大正天皇とが結びついていたに違いない。では、どうして大正天皇は生涯病弱であられたというイメージが出来上がってきたのであろう。

 大正天皇が皇后とともに、公の場に御姿を現されたのは、1919年5月の東京奠都50年祭のときである。20万人ともいわれる人出の中、馬車の「両側に山のごとくしかも静粛に奉拝せる熱誠なる市民には特に御機嫌麗しく御満足にみそなはせられ」た、と新聞に書かれているが、じつはこの時すでに天皇は病魔に侵されていた。その前年の10月には天長節観兵式を欠席されている。

 以後少しずつ病気は進行し、1920年(大正9年)第1回ご病状発表から、1926年(大正15年)まで、計7回のご病状発表がなされている。御病気の内容については、詳しくはわからない。小生は、過労、天皇としての重責、そしてやはり山県ら周囲の権力者らの圧迫によるストレスが誘因となった、多発性脳梗塞ではないかと、今のところ疑っている。

 1921年10月、第4回ご病状発表のとき、天皇は御幼少時〈脳膜炎様の御疾患〉に悩まされていたと明らかにされた。どうもこれに後年尾びれが付いて、〈生涯ずーっと病弱〉説が定着したのではないか。いったい誰が何ゆえ、わざわざこの時に、御幼少時病気されたなどということを、発表に付け加えたのか。

大正11年の『大阪毎日新聞』んは「青山御用邸に御避寒中の天皇皇后両陛下には御機嫌いと麗しく」、崩御の年、大正15年でもなお「盆栽や活動写真などのお慰み、ラジオ、蓄音器」などを聞いておられるとあるし、『東京日日新聞』は「お熱が下がらず、皇后陛下予定を早め葉山へ」とある。

つまり、〈あの大正天皇〉のイメージは、まだ国民から離れてはいなかった。しかし、裕仁皇太子が摂政をおとりになり、それこそ本当に西洋に出発されるにつれ、〈あの大正天皇〉は裕仁皇太子にそのまま受け継がれていく。皇太子行啓においては、父天皇と同じような「平民的な御態度」に国民は感涙したと、新聞は盛んに報道している。


  
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八月風景

 常のことオリンピックの選手らの
    あの瞬間は美しかりき

 早朝の地下鉄のなか黙々と
    「日経」を読む若き社員ら

 十年で貿易額が倍増と
    嬉しくもなし楽しくもなし

 日本の大学院は不味いのか
    よけて通るよ世界の猫ら

 引越して何考へてゐるのやら
    いぢめ殺した生徒と親は

 竹島に行く勇気なき議員らが
    魚釣島に上りゆくみゆ

 お盆とは死者に逢へると聞きゐしが
    レジャー楽しみ遠く行く人

 盆明けの空にそびえる雲雲の
    そのま白さに堪へられぬわれ

 群トンボ 去って静かな夕ぐれの
    庭の大気のほの朱きかな

 人類の永遠のさがの剔抉(てっけつ)を
    こころにいだき女性記者死す

 信仰は危険なりともこれなくば
    蕭白もダヴィンチも描かざらまし



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ディキンソン著『大正天皇』4

     

「平和な大正時代」という観念を生みだした最たるものは、逆説的に第一次世界大戦への参戦であろう。これは何と言っても「史上初めて同盟国として外国の戦力と軍事行動をともにし」たことは、日本は、いじらしくも、何と誇り高い気持ちに酔ったことであろう。世界の一等国!大正天皇は外国武官たちに向かって「汝らますます奮励せよ」と励ましの言葉を述べられている。

 大戦勃発の明くる年、即位の御大礼が行われた。小生は、この年(大正4年)に発行された『御大禮記念写真帖』なる本を持っているが、目次に続いて、カラーの絵で「紫宸殿之御儀」次に「大嘗祭之御儀」それから巨大なおみこしのような「高御座」が、そして写真の最初を飾るのは「御束帯の天皇陛下」となる。解説の最初は「大禮の意義」について、その次「國體の淵源」…世界の列国中においてわが日本ほど上皇室と下人民との関係の親密なる国はない、古くは国家と書いて〈ミカド〉と読ませていたほどで、天皇すなわち国家である。…とある。

 そして、大礼では、日本史上もっとも多くの外国高官が参列し、大隈首相は「今回のごとく全世界の代表者が洩れなく集まったということはじつに世界の偉観で、わが国では空前のことであるが、東洋でもまた未曾有の盛儀である」と評し、海外でも大きく報道された。1918年にイギリスから英国陸軍元帥の名誉称号とともにガーター勲章を贈られて、重そうなマントを身に纏われた天皇の御写真を拝見すると、小生はどことなく不釣り合いというか、お似合いにならないような感じがするが…。

 東洋一といえば、1912年、東京駅が完成した。「これは最先端の建築材料を用いた、…三か所にエレヴェーターがついて、駅前の「行幸大路」には各4千燭光の光を出す〈東洋一の街灯〉が並べられ…東洋一の大建築」とうたわれた。今のスカイツリーみたいな国民的大興奮ですね。この東京駅は中央には皇室専用の出入口や貴賓室が設けられ、天皇のための駅でもあり、また公共施設でもあって、じつに「皇室と人民との接近」を顕著に示す建築物であった。

 そうして、第一次世界大戦も終わり、気が付いてみると日本は産業が大発展し、輸出は3倍に増進、交際収支は黒字化。「帝国日本はアジアの地域的強国から、初めて太平洋にも及ぶ大帝国となり、1915年の日清条約(対華21ヶ条要求)によって、中国における列強最大の権力を握るようになる。」
これはどういうことかというと、この時代「ヨーロッパの国々は次々と参戦し、日本においても戦争は広く歓迎された。」「いわゆる〈対華21ヶ条要求〉も20世紀初頭の世界において珍しいことではなく、日本は日清戦争以後列国が中国に対して求めたものを一括して要求しただけである。」

 このようなわけで、20世紀初頭、産業化にともなう大衆化の傾向に応じる、立憲君主の増大する儀式的役割を大正天皇は立派に果たした、と同時に西洋化・近代化を好まれなかった明治天皇は陰が薄くなっていったことを著者は強調している。

 
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ディキンソン著『大正天皇』3

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1912年、明治天皇崩御、そして嘉仁親王の践祚。『ニューヨーク・タイムズ』は一面全体で紹介、「嘉仁は日本の近代的精神に完璧に合致し、いろいろな意味のおいても父宮には達しえなかったヨーロッパの風習にそめられている」、その理由は、西洋式の東宮御所、洋装好み、一夫一婦制、身体丈夫でテニス好きな皇后節子など。『ウォールストリート・ジャーナル』には「陛下はアメリカの長老と親しく話し、両国間の親密な関係に触れ、アメリカについて深い知識をしめした」。

 明治天皇は明治初期の画期的な変化を熱望した。が1880年代からその願望から心が離れていった、というのも、明治天皇の日本の急進的な西洋化に対する〈違和感〉があったからだ、という意見を紹介した後、著者はそれはいわゆる世代交代であり、「明治天皇はいまだ統一前のいわば伝統的なアジア風の農業国家日本の産物であった」と書いている。

 当時のグローバルな状況から絶えず目を離さない著者ではあるが、日本独特の明治維新の意味や江戸時代の秩序、文化、教育などについての知見がやや欠けているように所々で感じるが、今はそれを措いておく。

しかし、「嘉仁(大正天皇)が儀式を嫌ったのは明治天皇と同じことであるが、大正天皇は性格的に20世紀初頭の国際的スタイルとぴったり合っているのは睦人(明治天皇)と大きく異なるところであった」と書くところは見逃せない。

大仰な儀式を嫌ったのは、明治天皇は質素倹約からだと思われるが、大正天皇はさらに大勢の人に取り囲まれることがお好きではなかったと思われる。また大正天皇は、お生まれになった時から西洋化の雰囲気の中でお育ちに成ったのであるから、役割をお果たしになれば国際的スタイルに合うのが当然である。むしろ嘉仁皇太子の御性格は国際的スタイルと何の関係もなかった、あるいはそれを飛び越えていたと、小生は言いたい。

 もちろん、天皇は個人ではなく公の御存在であり、著者の基本姿勢であるところの、歴史は人々の目に表れた通りのものであるとするなら、例えば、「嘉仁が、明治天皇の葬儀を除いて、天皇として参列した最初の国家儀式が大観艦式と陸軍特別大演習だったことには大きな意義がある。」とし、これは当時の立憲君主国の標準的形式であり、「嘉仁は立派な大元帥を演じた」ことになる。



  
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ディキンソン著『大正天皇』2

皇太子夫妻には4人の男子が生まれるが、側室を置かなかった大正天皇は、このことにおいても新時代を画する見事な天皇として国民に称賛されたはずである。そしてこの頃から普及してくるカメラも、子煩悩な皇太子の家庭を捉えていて、それは国民の目にも触れた。

行啓における皇太子の〈自由な〉行動は、国民に歓迎され、「皇室と人民との接近」が云々されるが、著者は、これすべて行啓計画者の仕組んだものだと書いているが、小生はそれはあまりにも嘉仁皇太子の〈人となり〉を消去した意見だと思う。すでに書いたが、大正天皇は生まれながらに非常に特異的な御性格であり、このことが、はからずも「皇室と人民の接近」を大いに前進させたと、小生は感じるのである。

 19世紀末、ヨーロッパでは皇族が世界を周遊するのは当たり前となっており、ロシア皇太子、ギリシャ王子、オーストリア皇太子が日本にも来航してきている。そんな折、嘉仁皇太子も世界を見てみたいという夢を漢詩に著されており、また「世界漫遊の歌」をとくに好んで歌われたそうである。

 世界漫遊はできなくても、嘉仁皇太子は史上初めて海外に行かれた。それは明治40年(1907年)の韓国行啓である。これは、韓国を保護国化した日本が、日韓関係を円満化するためであって、残念ながらその効果はよくなかった、という意見があるが、それは大した問題ではないと著者は語る。

 著者は書いている、「植民地における統治国への憤慨は当然であり、皇位継承者の日本史上初めての外遊にはより大きな目的があったように思われる。それは近代国家、そして、近大帝国としての日本の20世紀の新しいアイデンティティに焦点を当てることであった」。

 過去のあり方をやたら道徳的に批判したり、今の観点で過去を見ようとするような日本人にありがちな歴史家が多い中で、こういった当時の状況に身を置いてみる態度は気持ちがいい。当時の日本は、帝国主義―植民地という〈世界標準〉に日本的な仕方で従っていただけのことである。



  
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