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継体紀2

『継体紀』には相聞歌からなる話が一つ挿入されている。
あるとき、皇太子である勾大兄皇子(まがりのおほえのみこ)(後の安閑天皇)が、春日皇女と結婚しようとしたときに歌を読んだ。「月の夜に物語して、気が付いたら夜が明けてしまった。このとき歌を作ろうとする風流心が起こって言葉となった」と書かれている。

「八嶋国 妻まきかねて 春日の 春日の国に 麗(くは)し女を ありと聞きて 真木さく 檜の板戸を 押し開き 我入りまし 脚取り 端取りして 枕取り 端取りし 妹が手を 我に纏(ま)かしめ 真柝葛(まさきづら) たたき交はり 鹿(しし)くしろ 熟睡寝し間に 庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴くなり 野つ鳥 雉(きざし)は響む 愛しけくも いまだ言はずて 明けにけり吾妹」

春日の地に美しいよい女がいると聞いて、りっぱな桧の板戸を押し開いて、私が入って、女の衣服の下と上からはぎ取って、妻の手を私の身に、私の手を妻の身に巻きつかせ、抱き合って交わり、熟睡した間に、鳥や雉が鳴くのが聞こえる。かわいいとも言わないうちに、夜が明けてしまった。

これに対する春日皇女が応えて歌う、「隠国(こもりく)の 泊瀬の川ゆ 流れ来る…」で始まる歌が、皇太子の歌にぜんぜん対応しない挽歌(葬送の歌)みたいな歌なんで、武烈天皇の名の小泊瀬と継体天皇の崩御した場所のイメージとから、この歌が、不自然ながら、ここに入れられたのかなと思われ、おかしな一対の歌謡なんですな。

ところで、大昔から指摘されていることだけれど、この皇太子の歌は『古事記』によく似たのがあって、それはオオクニヌシが沼河比売(ヌナカワヒメ)に求婚するときのなかなか素敵な歌、

「八千矛の 神の命は 八島国 妻まきかねて 遠遠し 高志国(越国)に 賢し女を 有りと聞かして 麗し女を 有りと聞こして さ婚(よば)ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 太刀が緒も 未だ解かずて 襲(おすひ)をも 未だ解かねば をとめの 寝(な)すや板戸を 押そぶらひ 我が立たせれば 引こづらひ 我が立たせれば 青山に 鵺は鳴きぬ 野つ取り 雉はとよむ 庭つ鳥 鶏は鳴く 心痛(うれた)くも 鳴くなる鳥か この鳥も 打ち止めこせね …」

こちらの歌は、求婚していてもまだ何にもしてないのに夜が明けてきて、いまいましい鳴き鳥を打ち殺してやりたいと歌っているけれど、内容も使われている文句も『継体紀』の勾大兄皇子の歌とよく似ている。

また『万葉集』にも、もっと単純化された類似歌がある。

「こもりくの 泊瀬の国に さばよひに 我が来たれば たな曇り 雪は降り来 さ曇り 雨は降り来 野つ鳥 雉はとよむ 家つ鳥 かけも鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ」 (3310)

 要するに、妻問い歌謡の類型、こういうときにはこうい定型文句があったということなんだろう。

ただ、気になるのは、『継体紀』の始まりに、継体天皇の父は琵琶湖の西岸の地に居て、越国の三国にいい女がいると聞いて、使いを出して連れて来させて結婚し、継体天皇を生んだという話がある。これは遥かその昔、出雲に居る大国主神オオクニヌシが越国に行って妻問いをしたという話を連想してしまうではないか。

まあ偶然の一致かもしれないけれど、ひょっとして昔から、遠くから男を引き寄せるほどのいい女が越国の三国あたりにいて、それが伝説となり、いつしか人口に膾炙した歌謡となり、それが先にあって、物語や歴史に挿入されたとも考えてしまう。

 ついでに、その夜は残念に終わったオオクニヌシも明くる日の夜は思いを遂げることができた。オオクニヌシを部屋に入れなかったヌナカワヒメの返し歌―今はがまんよ、明日の夜はオッケーよ、という歌もなかなかいい。



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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

オオスカシバ

いつも8月になると、クチナシの葉が青虫に食われはじめます。もしそのまま放っておくと、たぶんクチナシは丸裸にされ、枯れてしまうかもしれません。それで、青虫には気の毒だと思いつつ、手でつまみとって、1~2の葉とともに、前の緑地に置いてきます。1シーズン(8~10月)で20匹~30匹くらいで、緑地に置かれた青虫は大きいものはそのまま成虫化するかもしれませんが、たいていは鳥の餌となるでしょう。

蛾1  蛾2
 

今年は、ふとこの青虫を観察しようという気が起こって、プラスチックの容器に入れ、毎日新鮮な葉を2枚くらい与えていました。とにかく食べること食べること、どんどん大きくなって、一日に40個くらいの直径3mmほどの糞をします。

ある日、青虫の色が茶色くなり、動きが遅くなって、これは死んでしまうのかもと危ぶんでいましたところ、糞や葉の断片を巻き込みながら繭をつくりその中でじっとするようになりました。これは蛹になるに違いない、ならばきっとすぐ羽化するだろうと期待していました。

が3  

ところが、待てど暮らせどいっこうに変化がありません。外から見るかぎり、小さく硬くしわしわになっているようです。こりゃ死んだかなと半ば諦めていて、部屋に置いておくのも汚らしいしと思って、玄関先に置いて、その存在すら忘れかけようとしていました。

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ところがです、昨夜ちょっとのぞいたら、蛾が容器の内壁にくっついているではありませんか。ついにやった!と感激の胸を押さえつつ、そっと部屋の中で開けて、写真を撮ろうとしたところ、ぶーん軽快な音をたてて、蛍光灯の笠に止まりました。繭の中には、文字通りもぬけの殻がありました。

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なんと美しい虫だ、ステルス機のような精悍な面構え、ツクツクボウシのような透明な翅。黄緑色の背中に赤い線、後ろの方は黄色、お尻に立派な黒い毛。じつに美しい。またどこかに飛んで行きましたが、部屋の中に居ることは確実です。

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明くる日(今日)探しに探してやっと見つけて、我慢できず捕まえて、写真を撮ってから、外へ放ってやろうとしました。

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ところが、逃げようとわが手の中でもがきずめにもがいたせいか、羽を動かしても、充分に飛べず、・・・しようがないから、折から咲きだした金木犀の花の蜜でものんで頑張れ、と花の上に置いておきました。さてどうなることやら。

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調べてみると、これはオオスカシバという名前の蛾でした。蛾といってもとてもきれいで、飛んでいる姿は蜂と見まごうものです。

思い返せば、8月ころわが家の庭で、これが飛んでいたことを思い出しました。そうそうたしかにこれです。たしかクチナシの木のあたりに停まって、あまりに美しく、蝶か蛾か蜂か、なんだろうと考え、とにかく写真をとろうと部屋の中に入った時、どこかへ飛んで行ってしまったのを思い出しました。
 
そういうことか、これがクチナシの辺りに居たのはそういうことだったのか、と納得。円環が閉じられました。来年は大きいゲージを買ってきて、大量に育ててとも考えますが、そのためにはクチナシを大量に増やさねばならず、挿し木で容易に増えますが、大量の植木鉢がいるし、やっぱり面倒かな・・・。

そうそう、青虫はだいたい5~6cmくらいになったら、茶色く変色し、繭をつくりその中でじっとします。そして3週間弱で、繭を破って(噛み切ることはできなさそうなので、押す力で破るか、溶かす酵素を出すのか)出てきます。そうして小生のようにいじくり回さずに、外に放てば花の蜜をホヴァリングしながら吸うのが見られるかもしれません。




 
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継体紀 1

 「武烈かくれたまひて皇胤たへにしかば、群臣うれへなげきて国々めぐり、近き皇胤を求めたてまつりけるに、…」(神皇正統記)とあるように、いかな不徳の天皇でも日本には天皇が必要であって、その存在は血統によって確証されるものである。

皇統の危機を感じた諸氏族の代表者らは、全国に皇胤を求める。そしてついに見つけだされた人が男大迹(おほどの)王つまり継体天皇であって、その場所は三国(いまの福井県)である。

そういうことで、継体天皇には謎がまとわりついていて、諸先生方の中には、『継体紀』は、「男大迹天皇、誉田天皇、五世の孫、云々」つまり、継体天皇は応神天皇の五世の孫である、という他の天皇紀ではありえない書き方で始まっている意味は、つまりこの五代というのが、じつは皇統ぎりぎり(つまり六代となると皇統をはずれる)で、かろうじてセーフである、そのようにしたのではないか、と言っておられる。

また、継体という名前である。継体は君主の位を受け継ぐこと、という一般的な普通名詞であって、これを天皇の諡号にしたのはいかにも不自然である。聞くところによると、なんでも奈良時代に淡海三船がつけたらしい。もちろん『日本書紀』が書かれたのはそれより何十年か前のことだが、そのときは男大迹天皇(おほどのすめらみこと)など和風の諡(おくり名)で書かれている。われわれが今読んでいる例えば岩波文庫の『日本書紀』はその何百年後の現代文に直されたものである。

井沢元彦氏も、すべての天皇は〈正統を継いだ者〉であるから、継体天皇であるにもかかわらず、何故この天皇だけに諡号に普通名〈継体〉をつけたか、それはむしろ、じつは正統な後嗣ではなかったからではないか、と言っている。そして、津田左右吉博士の指摘、「武烈天皇紀にある天皇のことを書いた所がいずれも主なる点は支那(中国)の書物から取られたので、その言葉その文字が殆んどそのまま取ってあるところがあります。…そしてそれは殷の紂王(ちゅうおう)らしい」ということから、殷の紂王に比定される武烈天皇を継体の前に置くことによって、じつはこのとき〈易姓革命〉が起こったのだ、と論じている。

あれこれの疑問を頭にもって『書紀』を読んでみると、なるほどこの天皇の足跡も変わっている。生まれは三尾という琵琶湖の西岸中程の所、育ったのは福井の三国、ここで大伴金村大連らに発見されて、天皇になってくれと懇願されるが、自分はそのような器ではないと「西に向かひて譲りたまふこと三たび、南に向かひて譲りたまふことふたたび」、中国文献まる写しって感じでしょ。そしてついに天皇になって、最初に都を置いたのが、58歳のときで、河内は淀川のほとりの樟葉、次にその南東の筒城、そして弟国という今の高槻市あたりに、そして大和(奈良県桜井市あたり)に入ったのがやっと20年後。
この間、継体天皇は、尾張、河内、越、近江…の諸豪族の娘を后にしている。琵琶湖を中心に、若狭湾、大阪湾におよぶ海湖水を制しする狙いがあったと思われる。

明くる年、筑紫の国造、岩井が反乱を起こす(岩井の乱)、朝鮮半島をめぐって、外交上の失敗が相次ぎ、諸豪族が緊張した状態にあった。


  
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武烈天皇

 

 武烈天皇は、『日本書紀』によると、快楽殺人をいたく好んだ人なのですね。それゆえ後世の人に不人気なんです。お父上の億計(おけ)すなわち仁賢天皇が崩御したとき、平群真鳥(へぐりのまとり)という大臣が天皇を倒して自分が権力を得ようとした。(ちなみにここのところの原文は、専摶国政、欲王日本)

 また時を同じくして、皇太子(武烈天皇)が結婚したいと思っていた娘を真鳥の息子である鮪(しび)が先に手をつけ自分のモノにした。それに怒った武烈天皇は側近の大伴金村連と謀って、真鳥親子を滅ぼしてしまう。このことは別にどうってことはない、たしかあの徳性すぐれた仁徳さんでも敵を殺していたのじゃないかな。

 天皇に正式に即位して后をもった武烈天皇は、皇帝ネロも参ったというほどの、日本人には珍しいほどの残虐ぶりを発揮しています。まあ、『書紀』は中国文献から引用しまくりだから、中国や朝鮮の皇帝がそうだったのかもしれないけれど。・・・

 好奇心から妊婦の腹を裂いて胎児を観察する。生爪をはがしてイモを掘らせる。人の頭髪を抜いて木のてっぺんに上らせてから木を切り倒して殺すを楽しみとす。池の水路に人を並べて一気に水を流し、流れ落ちてきた人をヤス(幾本かの槍がついたモリ)で刺し殺すことを楽しみとす。

 女たちを裸にしてオス馬と交尾させようとし、感じやすくあそこが濡れている女は殺し、濡れぬ女は奴隷とした。百姓らが飢えていようが気にせず、遊び人らを集めて、飲めや歌えの卑猥きわまりなき歓楽の限りを尽くした。

 あまりにも快楽を追求したためか、武烈天皇には子供ができなかったのです。それで次の日継ぎの皇子を探す必要が生じたのですが、これが問題だった。武烈の男兄弟はなく姉妹ばかり、父の弟のをけ(顕宗)天皇にも子供なく、その一つ上の代の男子は、例の雄略天皇に滅ばされている。雄略の子供の清寧天皇も子供なし。それで、うんと遠くの傍系を辿らねばならなかった。が、この次の天皇の話はまたにしましょう。

 己の快楽ばかり追求して、皇統を危うくしたことを責めるばかりに、こんな悪逆非道な話を『書紀』作者がでっちあげたのでは、と言う人がいますが。『古事記』には、もうこの頃は(仁顕天皇以後は)、とくにエピソードは書いてありませんから、武烈残虐物語はありませんね。

 小生は、かつて言ったように、天皇の中にはこのような残虐な人がいたと、正史『日本書紀』に書かれている事実が面白いと感じる。今の感覚から言うと、もし天皇をよき統治者である(天皇の正統性)と言いたいのなら、こんな中国風のオーバーな残虐表現を、事実その通りだとしても後の世に残すことはないのじゃないかな。『日本書紀』を撰上されたとき、元正天皇はちゃんと目を通していたとしたら、じつに舎人たちを信じ、またいいことも悪いことも正直に認めていたのだなと感心する。

 本居宣長は、天皇の悪逆非道な行いを臣下がどうして諫めなかったのだという問いに答えて、善くも悪しくも君の行いに臣下が口をはさむのは、古のよき道に外れている、下の者が上の者に善悪云々を言うのは漢心であって、それこそ世の乱れの元だ、たとえ悪君でも一代限りであるから、過ぎ去るまでじっと耐えればよいだろう、云々。例の、人生は波のごとくよい時と悪い時があって、それはもう神の為す業であってわれわれにはどうすることも出来ないものだから、と言いたげである。

 とにかく、国際上の付き合いの多い現今、天皇をはじめ皇室はみな道徳的に優れていなければならないとみな考える所であるが、われわれ下々がえらそうなことを口走るのが、災いのもとである。ちゃんちゃん。

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日本衰退

 いま中国市場をめぐって日本企業は大変な損害を被っている。政治の個々の策についてちんぷんかんぷんの小生が言うのもなんだけど、国際政治というものは、一筋縄ではいかぬ、法と秩序は至高のものではなく、むしろ法と秩序はいや力さえ利用される、修羅地獄であるように感じられる。ふと有名な文句が浮かんでくる、〈悪魔でさえ聖書の言葉を使って自分の正統性を主張することができる〉。まあ、人の世は根底はこんなものか。

 中国のデモに扮した暴動・略奪、交易の削減などは、国内事情および国益を考えた上での中国政府の方針だろうけれど、その裏ではフォルクスワーゲンやサムソンからの一筋の糸が引かれているのではなかろうか。かつてアメリカでさえ日本車の不具合をでっち上げたことがあった。巨大プロジェクトの受注競争では、賄賂はもちろんのこと酒女、嘘八百の風評のばらまき等あらゆる手練手管を駆使されていることが、小生でも想像できる。その昔、日本との交易を独占するためにオランダはポルトガルの〈野心〉を、幕府にどのように伝えたのであろう。

 紳士の国イギリスはアヘンを使ってさえ、国益を守ろうとした。今ではそんな露骨で下手な手段を使うことはないであろうが、逆にそれだけ手の込んだ手法を駆使していると思われる。明治の初めに国際政治のなんたるかについてはっきり警告を与えた諭吉つぁんは大したものだ。日露戦争においては、日本はロシアにおける共産革命を焚きつけ、厭戦気分を煽るよう間諜を送り込んで活動させた。

 あの時代の日本もなかなかのものであった。しかし、いま日本は外国に間諜を送り込んでいるのであろうか。もちろんそんなことは一市民たる小生が知る所であってはならない。しかし、〈民度が高い〉ことを誇りとしている日本人が、外国でどのようなロビー活動をしているのか、なんか心もとない。

 日本政府は、隣国のやり方に惑わされことなく、ゆっくり落ち着いて、あくまで法にのっとって対処すべきだと言う。小生はこれが口先だけのモノでありますように、と祈るばかりである。

 悪いこと、ずるいこと、汚いこと、恥ずかしいことをしてはならない。日常生活において、個人道徳として、ほとんどそうありたいとも思う。しかし、それも現実の運用となると、判断が難しい場合が多いではないか。しかも国際関係となると、法すら道徳すら時に応じて利用したり逃れたりできるほど自由でなくては、と思う。

 名著『戦艦大和の最後』にある有名な文句を、この文脈に付会しよう。「日本は進歩ということを軽んじしすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。破れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるのか、今目覚めずしていつ救われるか、俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか。」(白渕大尉 大和特攻作戦で戦死)

   
  
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