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万葉集 3314

つぎねふ 山背道を 他夫(ひとづま)の 馬より行くに 
己夫(おのづま)し 徒歩より行けば 
見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心痛し 
たらちねの 母が形見と 我が持てる 
まそみ鏡に 蜻蛉領巾(あきづひれ) 
負ひ並め持ちて 馬買へ我が背


現代語訳(絵文字入り)
 
山城ハイウエイを、近所の夫たち
ベンツだのレクサスだので出勤して行く。
でも私の夫は軽の中古で、下道を行く。
それを見るたびに泣けてくる。心が痛む。
そう言えば、母の形見のダイヤの指輪と大島紬があったわ。
これ二つとも売っちゃっていい車買ったらいいわ。


英訳

Each time I see my husband
Walks up on the road of sand
While other men go on horseback
I can’t hold the tears back.

I remember I have scarf and jewelry
That my mother left me.
For this large amount of money
Get a horse in exchange, Honey!


  

 

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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

オペラ周辺

先日、東京文化会館でウィーン国立歌劇場演じる『アンナボレーナ』を聴いた。約1時間半の第一幕が終わって25分間の幕間がある。いつもはトイレのあと館内でコーヒーを飲むが、今回は何となく気分転換に外に出たくなった。

 文化会館の正面から出てすぐ車道を挟んで上野駅であることは、行ったことのある人なら誰でもよく知っているところである。そのまさに車道の手前の歩道と文化会館の敷地との境界辺りに、ビニールシートを敷いて、その上で毛布にくるまろうとしている一人の老婆がいた。シートの脇には、小さな手押し車ときちんと揃えた白いスニーカーが目を引く。

 いったい何でこんな人通りに独りで巣を作っているのだろうと思った。そのとたんこの人に話しかけたいという誘惑から離れられなくなった。

 とにかく、ごつごつした石畳にビニールシートを敷いて、そこに直に寝ようとしているのが不思議である、しかもやせ細った老婆なのだ。

 「こんなところでいつも寝るの?」

 「そうだよ。ホームレスだからね」(声はしっかりしている)

 「こんな石の上に寝られるの? とても痛そうだし、冷たいんじゃないの? 下に敷く布団はないの? エアーマットひけば、痛くないし持ち運びもらくだし・・・」

 「ああ・・・そんなの高くて買えないよ。明日の食事すらおぼつかないのに。・・・(二枚の毛布のうち一つを見せて)それでも、昨日この毛布をある人がくれたんだよ」

 「こんな車も人も多い道路脇じゃ、うるさくて ゆっくり寝られんでしょう」

 「・・・」

 「あっちの公園の方なら、もっと静かで、下が柔らかいところもあるのじゃないの?」

「あっちの方にいると変な男がやって来るから・・・」

 (えっ? 小生は一瞬思った、この老婆を襲う奴もいるのか・・・あっ、そんな意味じゃないのか・・・)

 「なるほど、こういう所のほうが安全なんだ。」

 「そうそう。あっちは変なのがいるから。」

 「家が近ければ、布団の一枚もあげられるけれど・・・(そういえば、田舎の家を改装したとき、沢山の古い布団や毛布を、公園や川沿いに住むホームレスの人たちにあげたことを思い出した)。ちょっと遠すぎる」

 「いま仕事帰りなんかね」

 「いや今日は仕事は休み。世の中には空き家もいっぱいあるし、布団も余っている人もいっぱいいるのに・・・何とかならんものかねぇ」

 「世の中うまくいかんものだよ・・・とにかくうまくいかんよ」

  ・・・

 小生は、自動販売機のコーヒーを飲んでから席にもどった。第二幕が開いた。ところが、さっきの老婆のことがしきりに頭に浮かんできて、どうもオペラに集中できない。

舞台では、ヘンリー8世や王妃たちに扮するマイスタージンガーたちが、愛、名声、裏切り、罪、苦悩などのキリスト教文化圏的言辞をもって熱唱している。観客はたった3時間のために5万円以上も払って、今回はグルベローヴァ最後の公演とあっては1音も聴き逃すまいと息をのみ、芸術のもたらす喜びの限りを味わっている。

そしてこの会場のほんの100メートルも離れていない石畳の上で、あのお婆さんが「とにかくうまくいかんよ」と呟きながら毛布にくるまっている。このコントラストが、―もっともこのような情景はよく見るものではあるがー、なんとも小生の空想を掻き立てた。

有り余る豊かさを享受している王や王妃らが、苦悩に呻いていて、王妃は最後に発狂するが、冷たい石の上に寝ているお婆さんは冷静である。言うことは、両者ともに「うまくいかん」である。しかしいかに上手く表現するかに全神経を集中させている歌手たちから発せられる苦悩は、いわば純化されて、お婆さんの苦悩を遥かに超えている。もちろん歌手たちは、お婆さんのようなホームレスたちがわんさと居る現実を十分知っている。が、それがどうした。それどころではない。いや、それこそ詩の素材として必要だ。

それはちょうど、千載・新古今の時代に、戦乱や飢饉のために加茂川から漂ってきた死臭を嗅ぎながら、そんなことは先刻ご承知の内裏の詩人らにとってみれば、遥かに遠くを目指す自分たちの夢のほんの一部が実現されたにすぎない、といったようなものだ。

もちろん、観客は普通そこまで遠く夢を見ないにせよ、演者らが生み出してくれる詩に参与しようとする。しかし、観客に取ってそれは己の拙い夢を正統化してくれる幻である。舞台がはねて帰路につく。そこで路上に毛布にくるまっている老婆と小さな手押し車を見て、冷めかけた夢がすっかり冷めてしまい、なんと汚らしい光景だと思う。

そして社会は、この汚らしいモノを目の前から排除するように動いている。とくに文化国家となればなるほど、そういう傾向が強くなる。99パーセントの健常人からはみ出たもの、知恵遅れ、かたわ、気ちがい、乞食・・・そういったものを、そういう言葉すら差別用語として排除しようとする、じつに込み入った言い訳的中和化。

かなり昔は街中でも見られてものだが、この頃は病院、コロニー、施設なんかに入れられてあまり見られないようになった。さて、見苦しいものは排除されて街はきれいになった。しかし、それにともなって健常人は夢見る力が減少していった。薄っぺらなニュートラルな万人向きの美しい街。美しいとは言っても、けっしてあの秘められた美、至高の静謐、そういった領域はない。

ああ昔の、恐らく戦後しばらくそうであったかもしれないような混沌とした、極度の聖俗・清濁入り乱れた、危険でダイナミックな社会がやってこないものか・・・。そこでこそ新しい詩が生まれるであろう。・・・

まあ、このような取り留めのない空想が、払拭しても払拭してもやってきて、目の前の舞台も音楽もほとんど耳目に入ってくる余地が無かった。これで小生は3万円くらい損をしたものと思われる(笑)



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テーマ : art・芸術・美術 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『宮中50年』

坊城俊良著『宮中五十年』を読んだ。
  
 著者の坊城俊良氏は、明治35年、数え年10歳のとき侍従職出仕として明治天皇に仕え、その後貞明皇后に昭和26年5月17日皇后崩御の日まで、おおよそ50年側近として仕えた。

 明治天皇、昭憲皇太后、大正天皇、貞明皇后らの「日常つぶさに拝し得た、その仁愛に満ちた憂愁の御こころを、私はここに語りたいのである」と初めに述べている坊城氏は、しかし決してこの書を自ら喜び勇んで書いたのではない。むしろ、「序」をものしている小泉信三をはじめ多くの文化人や評論家、雑誌記者たちに焚きつけられて書いたと感じられる。

 というより、坊城氏はむしろ彼らのジャーナリスティックな期待を押さえ込むために筆を取ることを決心したように感じられ、小生にはその点が面白い。語り口は淡々としていて、自分がじかに触れたこと、そのとき感じたことのみを語り、余計な敷衍を行わないよう注意している姿勢がよく判る。したがって大部な本ではない。

 十代の坊城氏にとって明治帝はとくに印象深いようだ。「子供心に仰ぎみた明治天皇は、非常に厳格かつきちょう面な方で、一度言いつけられたことは二度とは言われず、聞き返すことはいけないことだった。そのかわり大きなお声で、ハッキリお言いつけになった。あいまいなことがお嫌いであった。その反面、とても思いやり深く小さなことにお気づきになった。私がその頃からだが弱く、痩せていたのをお気にかけられて、折にふれてはいろいろ御馳走をいただいたものである。新宿御苑でできた馬鈴薯などもしばしばいただいた。きちょう面な御性格の現れとして、御座所におかけになる掛軸や刀剣など、多数の目録をはじめ、書籍・書類の目録も大きなものを身辺に備えられ、ちゃんと御記憶されていて、どこそこにこれがあるから持って来いとお言いつけになった。事実その通り一度も間違いはなかった。」

 「私が15歳のとき、はじめて馬に乗れといわれた。このことあるを予期して多少の心得は用意していたので、どんな馬を与えられるかと思ったら、一番おとなしい、あまり動かない、安全第一の〈鬼石〉という馬に乗れと言われた。名は強そうな〈鬼石〉だが、おとなしすぎて面白くない馬だ。この馬に半年ばかり乗せられた。・・・その後にようやく、も少し鋭敏な馬に乗せられた。」

 「夜の、おひまで御機嫌のいい時には、大きなお声で琵琶歌を歌っておられることがあった。・・・声を張り上げて堂々とお歌いになるのだが、決してお上手だとは思えなかった。」

 「大帝は、暴風雨のときなど、奥御所の南向の戸・障子が今にも吹き飛びそうになって、弓のように反り返るようなこともあったが、私たち奉仕の子供を指揮して、あそこを閉めろ、ここを押さえろ、とおん自らいろいろ対策を施しになった。もっとひどい嵐のときなど、子供では吹き飛ばされそうになるのだが、お前はその戸を押さえておれーといわれ、一生懸命押さえていたこともあった。そういう場の陛下は、ちっとも苦にされているのでなく、むしろ面白がっていられるようにお見受けした。」

 まあ、こんな調子で、人間天皇の傍で接した人の思い出話を聞くのが愉快である。大正天皇に関してももちろん面白い。側近や拝謁者があると大正帝は、愛用の煙草を適当にワシづかみにして下賜された。そのようなお気軽な御親切を軽々しいと、伊藤公や山県公は申し上げるが、これこそ大正帝のいいところではないか、と坊城氏は述べる。初めて聞く面白いエピソードがいろいろあるが、切りがないから挙げない。

 「終戦後、占領政策の要請とかで、わざわざ〈人間天皇〉の御宣言があったが、私たちからいわせると、不思議でもあれば不可解でもある。大正天皇のごときは、もっとも人間的な、しかも温情あふるる親切な天皇であられた。」そして、総ての天皇は生まれた時から人間である。

 あとがきで、記者の角田という人が書いていることだが、角田氏が坊城氏に近代日本の悲惨と明治の精神に関連して話してほしいと頼んだところ、坊城氏は、きっぱり断って曰く、「最初に申し上げたように、私の直接知っていること以外は、付焼刃で申し上げることはできません。私は表御殿のこと、政治向きのことなど一切知りもせず、知ってもならぬ単なるお側仕えでした。その後に、いろいろ見たり聞いたりしたことはあっても、それは私の責任で申し上げることではない。」


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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

戦闘機乗り

先日、太平洋戦争研究家のK氏のお伴で92歳になるOさんを訪ねた。Oさんは戦争中戦闘機のパイロットであった。そのときの話を詳しく訊きたいと思って訪ねたのであった。Oさんは左脚が不自由であるほかは特に悪いところがなく、頭はまったく明晰なのに驚いた。そのお話。

 Oさんは、高等小学校2年就業の後、乙種飛行予科練終生となり、戦闘機のパイロットとなるべく3年ほど飛行訓練を積んだ。当時、戦闘機パイロットとなるコースに入るには親の承諾が要った。Oさんはすでに父は亡くなり、兄は養子に出ていて、Oさんは跡取り息子であった。それで係員はOさんにパイロットではなく整備士になることを奨めた。が、母は、誰でもいつかは死ぬものだからと言って、とくに息子の志望に反対しなかった。母は仏教の信仰に篤かったそうだ。

 Oさん自身は、体はとても小柄で148 cm しかなかったが、運動はとてもよくできた。そして、体の小ささをカバーするために運動能力に磨きをかけた。

 その後、広島、大分、横浜などの飛行部隊に専属し、実地訓練を積んだ。その時の日本の戦闘機は96式戦闘機というもので、操縦席の風防は前面だけだったそうだ。昭和18年だったか、いよいよ外地へ出発、上海経由でボルネオまで編隊を組んで飛んでいった。

 K氏の、いよいよ戦闘ともなると恐怖感はなったかとの問いに対して、Oさん答えて曰く、ぜんぜん恐くなかった、この戦争で死ぬはずだから、どうせ死ぬなら華々しく死にたいと思っていたと。

 ボルネオのバリクパパンでは、フィリピン方面からやってくるB24の爆撃にだいぶん基地が痛めつけられたが、Oさんたちは果敢に立ち向かい、Oさんは、自分が撃った弾で確実に一機は打ち落した、その時の感覚が忘れられないようだった。ゼロ戦は徹底した軽量化により運動能力が優れていたし、独りで乗る操縦席が体にフィットして操縦しやすかったそうだが、このときOさんが載っていたのは雷電という戦闘機で、これは1800馬力で20ミリ機関銃が4門ついていた。かなりの高度飛行が可能で上空から必ず反転して真っ直ぐにB24めがけて降りる、近づいたら機関銃を打ちに打つ。それに対して、敵機からの銃弾の雨あられが、眼前に展開する。

 昭和19年10月、Oさんの乗っていた戦闘機のエンジンに敵弾が命中、すぐさま基地に進路を向けたが、滑走路に着く前にジャングルに降りた、とはいっても、飛行機は破壊し、Oさんは一時気を失っていたそうだが、気発性の強いガソリンの臭いで気が付いた。これは危ないと感じ操縦席から離れようとしたが、左脚が動かない、どうやら付け根が折れたようだ。ということで、腕の力で脱出。操縦席から1メートルくらい下の地面に転がり落ち、しばらく這って機体から少し離れたところで呆然自失の態で空を眺めていた。こういった場合、十中八九ガソリンに引火して爆発するのだが、そうならなかったのはあまりにも幸運と言うべきだったと、OさんとK氏は口をそろえて言う。

 監視していた基地から即座に救護隊が駆けつけたが、なにせジャングルの中、容易には進まない。そんなに遠くない所なのに、ようやく見付けられたのが6時間後だった。木とパラシュートを切って作った簡易担架に揺られた時、はじめて患部に激しい痛みを感じた。つまりそれまではまったく痛みを感じなかったのだ。

股関節部が砕かれただけではなく、9本の歯が折れ、額から顎まで深い傷を負い、とりあえず、基地の医師に皮膚だけは縫ってもらった。もし、乗っていた飛行機がゼロ戦だったら、間違いなく死んでいたという。というのはゼロ戦の場合、目の前に操縦桿があって、これに顔面をぶち抜かれていたにちがいない。雷電の操縦席には防護版があって、これにうまい具合に顔が当たったらしい。それにしても、出血多量で死ななかったのが不思議だとOさんは繰り返した。

 そして、この年(昭和19年)12月28日病院船に乗って帰国の途に就いた。帰国してから、東京で名医による股関節の手術を二回受けたが、完治はしなかった。それで今なお左脚が右に比べて20cm短く、歩行がスムースにできない。

K氏が言うには、もしOさんの戦闘機が銃撃を受けず、無事に基地に戻れたなら、たぶんOさんの命は、逆に失われていたであろう、と言う。なぜなら、ちょうどそのころフィリピン方面において特攻作戦が始まっていたからである。

吉凶は糾(あざな)える縄のごとし。Oさんの母親は、昭和19年5月の名古屋空襲で、たまたま遅れて落された焼夷爆弾が家に命中し、亡くなった。子供を抱いて外に居た姉は無事だった。Oさんは戦後、結婚し、愛知時計に停年まで勤め上げた。そしてK氏の質問のままに、最後の階級は、軍人恩給がいくら、戦友会がどうのなど話していたが、まあそれはいいだろう。


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