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今年も終わり

 今年も今日で終わりだ。例年と違わず国内外でいろいろあった。  

 東北大震災で、鮮明に焼き付いているのは、津波でビルの上に大きな船が乗っかっている像だ。これは、もう早くに撤去されてしまったのかな。そうだとすれば残念だ。たしか2、3階建の白い建物の上に大きな船がでんと乗っているなんて、そうそうないことだ。あれを、そのまま残せなかったのか。崩れる心配があれば、補強してそのまま残し、周辺もろとも、地方自治体か国が買い上げて、震災記念公園とでもし、震災の一切を保管、研究、展示、イヴェント会場とでもしたら、世界中の誰もが一度は見に行きたいと思うのではないだろうか。まあ、そうならなかったのだから、あまりそういう発想の人が居なかったのであろうし、土地の所有者の都合もあったのだろう。

 原発の是非について、いろいろ議論がある。誰でも、あんな恐ろしいことを目の当たりにしては、原発なんてない方がいいと思う。しかし、これ急にすべてをなくせと言うのも、コスト、温暖化、製造業や生活にも支障が出そうだし、今きな臭いホルムズ海峡封鎖なんてことがおこればと考えると、現実的ではなさそうだ。

 で、小生が素人考えで思うに、効率は悪くなるが、万一の場合を考えて、原発を小さくし、いろいろな所に分散させてはどうだろう。福島でも4基あったけど、もし1基だけだったら、あれほどの被害はなかったのでは。いま敦賀に大地震が起こったら、琵琶湖全滅、京都に人も犬も居なくなり、阪神・中京工業地帯もアウト、となると日本アウト。しかし、1基だけだったら、そこまでならんのでは。…これあまり合理的ではないやろか。

 今月選挙で自民党の圧勝。それで、ようやく憲法改正が本格始動しそうだ。30年前なら国会で改憲を口にすることはタブー、一般人でも危険視されるという風潮だったが、時代も変わってきたなと感慨をあらたにする。
 それにしても、わが国独立(昭和27年)後、ただちに、あるいは高度成長期(昭和40年代後半)ごろでも、どうして自国民が憲法を作ろう、少なくとも見なおそうとしなかったのか不思議である。まあ、これが日本人気質というものなんだな。
 そこで一首

 をかしいと思ひながらも日本人
      止めぬ特攻 変へぬ憲法

 ただ、ずっと思ってきたことだけど、憲法改正と九条改正とはまるで意味が違うのに、それを混同して議論されることがあまりに多い、これが気に食わない。もし、日本人の多くが九条をそのままでいいとみとめれば、それはそれでいいと小生は考える。もちろん個人的には、現行では非現実だから変えるべきだとは思うが。
 憲法改正は、やはり自国の憲法は自国民が作るべきであって、そうでなかったと知っているからこそ、その負い目がわれわれの無意識に沈殿して、いつまでも対外的には自信がない、それが、もともと謙虚な日本人気質にわをかけて、諸外国も驚くほど自己主張をせず、国益を損じているのではないか。

 法についてよくわからんとはいえ、日本語は解る。現行憲法が外国製の憲法であることの最たる象徴は、その前文にある。だれでも一度はこの前文を、原文(英語)とその翻訳である日本語のとを読み比べてみるべきだ。

 そこで、自民党の日本国憲法改正草案を見た。たしかに、現行の独立国家日本にそぐわぬ、下手な翻訳調にも気が付いて、改正されてはいる。が、しかし、もうちょっとなんとかならんかと、恥ずかしながら柄でもなく、出しゃばってつい口出しをしたくなった。


「自民党御中。自民党の憲法草案の前文を読ませていただきました。これは五つの文からなっています。現行憲法の、くだくだしい、言い訳がましい、日本語としては最低のものより、よほどすっきりしていいと思いますが、いくつか引っかかるので、素人ながら、御意見いたします。

第一文は、いきなり日本国や国家という言葉はいかにも硬い、中国的であって、日本的ではありません、こうあるべきではないでしょうか、「日本は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国であって、・・・。」

第三文、現行憲法の翻訳調が残っているように感じます。たとえば「日本国民は、国と郷土を愛し、他者を尊重し、社会全体で互いに助け合うことを誇りとして、国を形成する。」とでもしたら、すっきりしませんか。

第四文と第五文はまとめていいのではないですか。たとえば、「われわれは、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ科学技術を振興し、また良き伝統文化を継承し、この国を末永く子孫に伝えるために、この憲法を制定する。」

前文くらい、気負わず、柔らかく、すっきり気持ちいいものにしたい、ではありませんか。」

 これで、今年も終わった。



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今年の動植物

年末になるといつもなぜか忙しくなる。師走とはよく言ったものだ。12月の行事ばかりではなく、今までしなければならなかったことでしなかったことに追いつめられてくる。皺寄せという言葉が浮かんできた。師走と皺寄せとなんとなく響きが通じる。〈しわよせ〉が〈し、はよせ〉のリエゾンしたものなら、師、早よせ!と、師走にひっかけられんこともない。ま、それはともかく。

今年、一年振り返ってみて、とくに印象に残ったことを。

1. 4月から10月にかけて、メダカの卵を400個くらい孵化させて、そのうち今とにかく魚として生きている数は約50匹。というと成功率12.5%。プロから見るとお話にならんだろうけれど、小生では今までで最高。

2. 叔母にもらった沈丁花が昨年の夏枯れた。その前、間一髪のところで挿し木(水に浸けた)しておいた幾つかのうち一本だけが、なんとか成長し続け、いま10センチくらいになっている。これには苦労した。というのは、水の中でなんとか根が伸びてきたのだが、それを土に移しかえると死ぬことは明らかだから、少しずつ何日もかけて土に入れた。つまり、まず鹿沼土を少しずつ水の中に入れ、根を土に馴染ませてから、そこに少しずつフツーの土を混ぜていき、それとともに水性栄養の濃度を増やしていった。いま現在、その植木鉢はほとんど普通の土で、他の植物より頻繁に水をやりつつ、―しかし冬に水をあまりやると死ぬ、このころあいが難しい、―ビニールハウスの中に入れてある。この冬さえ乗り切れば、と祈るばかり。

3. クチナシの葉につく青虫の正体を突き止めたこと。それは、夏にちらっと見た美しい蛾であったのだ。その名はオオスガシバ。これについては10月に書いた。


来年も頑張って育てます。


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和歌の始まり

いったい和歌はいつごろ始まったのだろう。あるいは、問い方を変えて、これが和歌だと定義されたのは何時なのだろう。いちおう公式見解は、スサノヲ命が歌った、

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 
     八重垣作る その八重垣を

 ということが、歌の始まりということになっています。これはヤマタノオロチをやっつけたスサノヲが出雲の須賀という所に、救った娘クシナダヒメと住むための宮を作った時の歌ですね。

 たしかに『古事記』では、「その歌に曰りたまはく、八雲立つ・・・」とありますから、これが歌と記載された最初なんでしょう。

 和歌の何たるかに、もっとも先鋭な意識を向けたのが『古今和歌集』の仮名序で、これ「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まる、おそらく、芭蕉の「月日は百代の過客にして…」とともに名文として高校の教科書に載っていて、たいていの日本人は知っているのでは?

 この仮名序の第二段落に、「この歌、天地のひらけ初まりける時よりいでにけり」とあります。これは、スサノヲ命よりもっと前の話、イザナギ・イザナミの二神が国生みをする時、「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」と言って失敗して、言い順を変えて言ったら大成功のお話がありましたね。この「なんとまあいい男!」「なんとまあいい女!」と言いあった、その二神唱和が歌の最初だということですね。宣長もそれに賛意を表明しています。

 べつに『古事記』には、歌ったとも唱和したとも書いていないですが、仮名序ではこれが歌だとしているのですね。おそらくその訳は、もう一度初めの段落にもどると、その最後に「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。」とあるところをみれば、イザナキ・イザナミ二神を惹きつけ合った言葉は、すでに歌であったと考えたのでしょう。

 しかし、引き続いてこう書いてあります。

「しかあれども、世に伝はることは、久方の天にしては下照姫に始まり、」

 下照姫は、アマテラス・タカミムイスビを中心とする八百万神連合軍が、地上のオオクニヌシを攻略しようとする時に出てくる姫。この姫が歌ったのが、

 「天なるや 弟たちばなの 項がせる 玉の御統(みすまる) 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴 高日子根神そ とうたひき。この歌は夷振(ひなぶり)なり。」と書かれています。



つまり、形はどうあれ歌である、ということです。これ『古事記』では6番目の歌謡となっていますが、『書紀』では2番目(一番目は、八雲立つ)となってますから、この仮名序は『日本書紀』をベースにしています。やはり『書紀』が正史だったんでしょうね。

 さらに続けて、

 「あらかねの地にしては、スサノヲ命よりぞ起こりける。ちはやぶる神代には、歌の文字も定まらず、素直にして、言の心わきがたかりけらし。人の世となりて、スサノヲ命よりぞ三十文字あまり一文字はよみける。」

 この31文字、すなわち57577の形式になって、〈コトバの心をわく〉ことができるようになった。そしてついに、

 「花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露をかなしぶ心・言葉多く、さまざまになりにける。」そして、それがかかわるジャンルは飛躍的に伸びていったと書いてあります。

 まさに、これが、この31文字が、その後の和歌を規定し、この規定によって、歌人は、物事の、それはまた心の、微妙深淵なる曲折を分別することができるようになった、ということでしょう。ここに、意(こころ)=事=言(コトバ)という思想の萌芽が見えるように思われませんか。

 しかし、いっぽう、この規定が発展するところ、ややもすれば逆に歌人の心を縛って、歌を硬直化させることになって、例えば〈古今伝授〉なる秘技が、とにかく有り難がられることにもなったですね。

 そういった時代が長く続いたのち、江戸時代に入って、ふたたび和歌というものにたいする反省が強く起こった。これについては、よく調べてから、また書きたく思っています。



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継体紀 3

 前にも述べたように、『日本書紀』は、「男大迹天皇(ヲホドのスメラミコト)は応神天皇の五世の孫、彦主人(ひこうし)の子なり。」で始まっているのは特異である。『古事記』でも、申し合わせたように、「応神天皇の五世の孫、ヲホドの命、いはれの玉穂宮に坐しまして、天下治めたまひき。」で始まっている。

 もう一つ、『書紀』で、変わっている点は、継体天皇が崩御したのは82歳で、西暦531年、そしてその直前に、安閑天皇に譲位したとなっているが、べつに安閑天皇の即位はその二年後となっていて、つじつまが合わない、また継体崩御43歳とある『古事記』とはあまりにも異なるという点で、多くの歴史学者の好奇を引き、さまざまな説が生まれている。

 大伴金村大連らが、大和から福井県の三国まで寒い初春のさなか、皇族男子とはいってもえらく遠い血筋のヲホドノさんを見付けだし、次期天皇に擁立しようとしたのは、じつに御苦労さん。雄略天皇の大殺戮のおかげで後の人は本当に大迷惑をこうむりましたな。

 ヲホドノさんは、とても落ち着いて謙譲にして慎重、品性もよろしかったように書かれているのは、前代の悪逆非道な武烈とは正反対よ、とのアピールか。しかし、そうすんなりとは天皇にはなれなかったようだし、即位してからも河内・山城あたりで遷都を繰り返し、ようやく大和入りしたのは20年後(78歳!)であることを考えると、オホドノ擁立派が、大和を取り巻く主要な諸豪族を説得するのがいかに困難だったかを想像させる。

 その間の事情は白崎昭一郎氏の指摘する次のことからも読み取れる。『古事記』武烈の条では、「武烈天皇崩御されて、日嗣の皇子がなかったので、応神天皇の五世の孫、ヲホドノ命を近江より上りめさしめて、手白髪命(たしからのみこと)に合わせて、天下を授け奉りき」とある。これはよく読んでみると不思議である。つまりこの文の主語は誰か? そしてまた手白髪命は仁顕天皇の娘さんである。つまり、この確かな皇女を皇后にするという条件でヲホドノさんを天皇にしてあげた、と読める。つまりヲホドノさんは、無条件で天皇になるためには皇族として血が薄すぎるということとも読める。

 他方こういうことも言われている。不思議な〈五世の孫〉の記載は、皇族の血を引いていることをでっち上げたための出鱈目ではない。この空白を埋める系図が存在する。それは『釈紀』(鎌倉期)の中にある『上宮記逸文』にはっきりと書かれている。この『上宮記』は聖徳太子あるいはその近辺の人が書いた、遅くとも推古朝までには書かれたものであるらしい。これはほぼすべての学者が認めているところであって、宣長も、『上宮記』の書きぶりはいたく古文のさまなり、この部分が引用され残っていたおかげで継体の出自がはっきり分かると大喜びである。

 継体天皇の時代、部下の不手際により、任那の6県が百済に割譲してしまい、また九州の豪族が新羅とつるんで朝廷軍をなやましたりして(磐井の乱)、政治的には安定した時期ではなかった。

 継体紀の継体崩御の年号のつじつまが合わぬことと、或る本(ふみ)に百済本記ではこう書いてあると余計なことが書かれているのは、―昔からそうだが―、親新羅派と親百済派との、次期天皇擁立に絡んで、闘争が続いていたことを示唆する。或る先生の説では、継体崩御後しばらく安閑天皇・宣化天皇(母は尾張系)と欽明天皇(母は手白髪命)との両朝併立があったとも。

 継体崩御後の二年間の空白は、宣長のような人によると、践祚を譲りあって決まらなかったのではという。まあそうであったにせよ、やはりその背後には諸派の力の均衡があったのではと小生は想像する。


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新聞の選挙公表

2,3日前の新聞を見て、ふと疑問を感じたので、新聞社に問うてみた。

「こんにちは。○○新聞社様。
毎日読ませていただいております。
貴紙12月5日の朝刊を一目見て気になることがありましたので、書かせていただきます。

まず第一面大見出しに〈12党混戦 最多1504人 「災後」問う衆議院16日投開票〉とその記事、そしてその横に「こんなに怖い選挙はない」とハッと読者の目を引く見出しの社会部長某氏の意見が書かれています。

その意見とは、党の主張をよく咀嚼せずに投票先(明らかに自民党を指している)を決めるのは危険である、なぜなら「先の大戦での教訓は二度と戦争をしてはならい、戦争に近付くことはいけないことだ」と書かれています。

つまり、憲法九条を変えるような党に投票してはいけないと、衆議院選挙の投開票のお知らせである第一面で、うたっているのです。これは、フェアでない、もし書くのなら社説として違う面に書くべきではないか、とそう感じたのです。

またそれ以上に、もっと根本的なことがあります。この記事を書いた部長は、先の大戦での教訓を戦争絶対忌避であるとしていますが、これはあまりにも独りよがりの意見で、例えば、単純な私などは、負けたのは弱かったからで、日本はもっと強くなるべきであるというのが教訓だと思っています。そうではありませんか。もし、あの戦争で勝っていたとしたら、いまごろマスメディアは戦争=悪とは言わないでしょう、むしろ正義の戦争は必要であったのだと書いているはずです。

あの戦争の教訓は、人により様々で、他にも、日本人は誤解を避けるべくもっと外国語に堪能であったならばとか、あの戦争はコミンテルンらによって画策され起こされたのだからもっと日本は情報収集能力を強化すべきであるとか、諸外国に向かってはっきり言うべきことを言わなかったから戦争になったのだとか、いろいろな意見があるのです。常に想定外のことが起こるこの世で、戦争反対だけ言っていても少しも向上しないと思う人も多いのです。

一方的に、〈教訓=戦争反対〉だけを当然のようにこの一面で書いているのは、選挙人たる国民に〈改憲=戦争へ=自民党はいけない〉との心理的誘導をたくらんでいるのは見え見えです。青色も赤に囲まれた場合と黒に囲まれた場合と異なって見えることを手品師は上手く利用します。国民をうまく誘導しようという態度は、戦前戦中のマスメディアのそれと同じです。国民愚弄の態度はまったく変わっていません。それこそ「あの教訓」は少しも生かされてはおりません。

この点につき、貴社のご意見を聞きたく思っています。」


しかしまあ、新聞が事実のみを公表しアンフェアであってはいけない、という決まりはないし、真面目に読んだことがないけれどたぶん『赤旗』みたいに正々堂々と偏っているのは気持ちがいい。



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澄み濁るをば神ぞ知るらん

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