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貞明皇后御歌5

1905年(明治39年)1月、実父九条道孝氏逝去。

   暮春
 くれてゆく春はとどめむすべもなし
    かたみのはなをいざをりて来む


 このころから節子妃の和歌数は増えてゆく。

   生駒艦の進水式に
 くろがねの大みふねさへみくににて
    造りうる世となりしうれしさ


 生駒は国産初の重油エンジンで動く軍艦、しかも1万トンを超える巡洋艦であった。つい先日の日露戦争での戦艦がすべて外国製で石炭式であったことを思えば、それはもう先端科学立国の仲間入り。今で言やISSへの物資補給を成功させた〈こうのとり〉みたいなもんで、他国の嫉みを買うこと間違いなし。

 偶然かもしれないが、この年、白人国で邦人移民排斥運動が起こりますね。

    海辺夕
 入日さすはまの松かげあまの子が
   ちちやまつらむあまたむれゐる


    白
 ふりかかるみゆきをはらふ宮人の
   小忌(おみ)の真そでに梅の花ちる
 
          鮮明ですね。


 しづけさを何にたとへむやり水の
   ながれもたえし山かげのやど
  
 
     秋夕
 くれてゆく空こそことに悲しけれ
   秋のあはれはいつとなけれど


 このころ『古今集』などをふたたび勉強しておられたのでは。

 明治40年

 夕日かげかたほにうけてあまをぶね
   かすむ波路をこぎかへるみゆ


   戦死者遺族
 かなしさを親はかくして国のため
   うせしわが子をめではやすらむ


 23歳の節子妃は、悲しみこそ私としての自己と公としての自己と峻別する理性を養ってくれることを知っておられた。



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貞明皇后御歌4

1901年(明治34年)5月1日の官報号外。

 「皇太子妃節子殿下、今二十九日午後十時十分、東宮御所ニ於テ御分娩、親王降誕在ラセラル。
  明治三十四年四月二十九日 
      宮内大臣  田中光顕   」

 御名 裕仁(ひろひと)。御称号 迪宮(みちのみや)。後の昭和天皇である。

 家々は〈奉祝〉の提灯を灯し、日比谷公園は花火の嵐。御養育主任は川村純義。そうして、迪宮は三年半川村邸でお育ちになった。

 1902年(明治35年)淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王、後の秩父宮誕生。

 1905年(明治38年)光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王、後の高松宮御誕生。

 この年の4月、皇太子夫妻の住居である東宮御所の隣に成った皇孫仮御殿で、三親王はお暮らし始めた。皇孫御養育掛長は丸尾錦作。母節子妃は子供たちと近くに住むことができるようになるも、同じ屋根の下で住むことはかなわなかった。

 時は日露戦争(明治37年)前後。皇太子夫妻は多忙な日々ではあったが、時には三人の子供たちといっしょに楽しい時を過ごすことはできた。そんなときでも将来の元首となりうる皇孫たちと、一般の母子のように、馴れあうようなことをしてはならないと節子妃は身を持するのであった。まだ甘えたくてしようがない年齢の子供たちはどのように感じていたのだろう。

 明治34年の、ドイツ人招聘医師ベルツは、日記に書いている、「東宮は、気遣わしいほどたくさん紙巻タバコをおふかしになる。五時、川村伯のところへ。この70歳にもあろうという老提督が、東宮の皇子をお預かりしている。なんと奇妙な話だろう! このような幼い皇子を両親から引離して、他人の手に託するという、不自然で残酷な風習は、もう廃止されるものと期待していた。だめ!お気の毒な東宮妃は、定めし泣きの涙で赤ちゃんを手離されたことだろう。…」

 ベルツの意見が当時の内大臣に影響したのかどうか知らないが、明治38年ころから、水曜日の夜は、両親が御養育所へお成りになり、土曜日の夜は三皇孫を御所に招いての会食をするようになった。そんな時も節子妃は、皇孫たちの行儀作法については一切口出しをせず、楽しげに眺めておられたという。食後のだんらんは、節子妃がピアノを弾き、皇太子が歌を歌った。皇太子は軍歌や世界漫遊の歌などを、大声で歌い、いつしか皇孫たちも自然にそれらを覚えるのであった。

 明治35年の節子妃の御歌から
   ベルツの25年間日本に居れるを祝ひて、
年ながくくすしのわざをおしへつる
   いさをおもへばたふとかりけり


    寒蘆
 浦びとやかりのこしけむかれあしの
   一むら岸におれふせる見ゆ


 明治37年の御歌から

   折にふれて
 風わたる庭のやり水見てもなを
    心にうかぶ海のたたかひ
    
            (日露戦争の海戦)

 明治38年の御歌から

   水鳥
 池水もこほりそめけむをしがもの
    羽ふきの音のさえてきこゆる



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貞明皇后御歌3

  

1900年(明治33年)5月10日、嘉仁皇太子と節子姫の御結婚。束帯姿の東宮殿下と十二単の節子妃は、賢所内陣にて玉串を奉じ、お告文を奏せられ、さらに皇霊殿、神殿に玉串をおささげになった。これ本格的な神前結婚式の嚆矢なり。

 伊勢神宮と京都御所などに巡啓し、東京へ帰られたお二人は、赤坂の東宮御所で新生活を始められた。めでたし、めでたし。ところが、節子妃がいくら九条家に育ったとはいえ、宮中はまったく違った世界であった。鉛のように重い伝統や習慣の空気の中を歩かねばならない。

 万里小路幸子(までのこうじゆきこ)という老女官が節子妃の御用掛になった。この老女官は英照皇太后(孝明天皇妃)と昭憲皇后(明治天皇妃)に仕え、宮中奥のしきたりの権化であった。気のお強い節子妃も幸子からの御小言にしばし頭を痛められたようだ。大正7年、83歳で幸子が亡くなったとき、「よくもあれほどまでに私をしつけてくれたものだと、ただただ感謝するばかりである」と節子は述懐している。そして一首、

 さみだれはいとども袖をぬらすかな
   ゆうふべの雲となりし君ゆゑ


 健康な節子妃と天真爛漫な嘉仁皇太子との生活は、円滑で喜びに満ちていたであろうと想像する。その証拠に次から次へと三人の男子が生まれた。嘉仁皇太子は、実の母が二位の局こと柳原愛子(なるこ)であると初めて知らされたのもこのころであったらしい。もし皇太子が並みの生活人であったなら、あまりにも大きなショックを受けたであろう。しかし、嘉仁皇太子は境遇的にも性格的にも、それで落ち込んでしまうというようなことはなかったと小生は想像する。そしてまた節子妃との生活が、あまりにもタイミングよく、皇太子の心の安定に好条件をなしたと思われる。

 この時から、宮廷は一夫一婦制となったと言われるが、皇太子が宮廷改革が必要だからそうしようとしたとは思えない。権典侍制度というのがあって、6名の女官が取り囲んでいたらしいが、そんなものは必要がなかった。それほどお二人は幸福であった。

 それゆえそのころの節子妃の歌はまだ少ない。

 御結婚後二年目の新年梅を歌う。

 梅の花かぞふばかりもさきにけり
  年のはじめの一日二日に
  節子妃

 新玉のとしの始めの梅の花
  みるわれさへにほほゑまれつつ 
皇太子


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貞明皇后御歌2

1888年(明治21年)、節子姫は、養家の大河原家から実家に引き取られた。その二年後、華族女学校の初等小学科に入学。学校では、一番小柄な方であったが、才気にあふれ行動的で、クラスの人気者になった。ある日、休み時間に笑い芸人の「オッペケペー・・・」という自由民権謳歌をとつぜん歌った。深窓のクラスメートはびっくり仰天した。このような、よく言えば明るく、物おじしない性格は、この後ずっと続いたのだった。

 またこれもよく引き合いに出されるエピソードだが、初等中学科に進んだ13歳の時、いつもの快活さには似ず、物思いにしずむことがあった。クラスメートが理由を訊くと、なんでも、通学路にある雑貨屋に色の透き通るような美しい娘さんが寂しそうに座っている、どうしてあんな美人がお嫁にも行かずに店で座っているのだろうと不思議に思っていたところ、巷のうわさで耳にしたのだが、彼女は、不治の病であるライ病に侵されているとのことであった、という。このささやかな、しかし深刻な経験が後に貞明皇后をして終生救ライ活動に専念させることになったのですね。

 1896年(明治32年)、中学科三年の夏休みに、皇太子であられる嘉仁親王の妃に内定した。もちろん御両人会ったことも見たこともないが、家柄と健康さえ満足であれば、それでいいのですね。じつはそれ以前に、伏見宮貞愛親王の第一王女禎子(さちこ)姫が皇太子妃の第一候補であった。禎子姫は色白の、気品にあふれた、いかにも深窓の令嬢であったが、どうも病弱であったらしく、最終的に外されたとのことです。

 1899年(明治33年)、嘉仁皇太子と婚約。節子ときに15歳。この報を聞いて、高円寺村の大河原夫妻は腰を抜かさんばかりに驚いた。そして、節子姫が残し置いた着物・玩具・調度品などを、この屋敷に置いておくのは申し訳ないと、そのすべてを九条家に送り返すか、浄火で焼いた。小生だったら、卑しい考えが起こって、お宝になるのではと一品ぐらいは手もとに残しておくような気がするが・・・違うね、お百姓とはいえ、心がけが。いや、だからこそ、九条道孝は娘さんをこの夫妻に託したんでしょうな。

 節子姫は「思い出の品がみんななくなったら、じじもばばも寂しいことでしょう」、と言って、和歌を色紙にしたため大河原家に贈った。

 昔わがすみける里の垣根には
   菊や咲くらむ栗や笑むらん

 ものごころ知らぬほどより育てつる
   人のめぐみはわすれざりけり


 節子姫、16歳。いよいよ東宮妃としてのきびしい教育が待ち構えていた。




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貞明皇后御歌1

 貞明皇后。と言っても、たいていの人はよく知らないだろうけれど、皇后と名のつくからには、たぶん明治・大正・昭和の皇后だろうと見当をつけるだろう。小生も五年くらい前までは知らなかった。

 要するに、大正天皇の奥方であって、つまり、昭和天皇の母君、ということは、秩父宮、高松宮、三笠宮各親王の母君であらせられた。しかし、いろいろ調べてみると、この方は、なかなかどうして、国母というにふさわしい深くて広い心であられたとの評判がもっぱらである。

 そして何より、生きた時代が明治・大正・昭和、しかも戦後を見届けてから、昭和26年に亡くなった。つまり日本が近代化を急ぎ成し遂げ、結局は欧米列強の前にひれ伏し、廃墟となった日本を、東京のど真ん中に居て見てきた人なんだな。この人はどのような心持で生きておられたのか。

 貞明皇后こと九条節子(さだこ)は、明治17年(1884年)、東京神田に生まれた。九条家と言えば、旧摂家であり、当時父の九条道孝は公爵であったが、生母は側室であったという。が、もちろん九条家の御姫様であったことには変わりがない。

 節子姫についてどうしても言っておきたいことは、この人は生後まもなく五歳になるまで他家で育てられたことだ。もちろんそういうことは珍しいことではないが、幼児のときの環境がその人の性格形成に大きな影響を及ぼすものであり、とくに節子姫の場合、おおなから村人によって育てられたことが後の貞明皇后のいわば野趣に富んだ、豪胆な性格を形つくったように感じられる。

節子姫は生後7日目にして、当時農村地帯だった多摩郡高円寺村の豪農である大河原家に預けられた。乳母のいる家を探し求めていた父道孝の、たくましく育つようにというたっての願いだった。大河原家の奥さんの〈てい〉は、生後すぐ赤子をなくし、母乳は有り余るほど出た。
 『貞明皇后』(主婦の友社)によると、中を取り継いだ近所の人との、こんなふうにエピソードが書かれているが、さもありなんと思われる。

大河原氏 「お公卿さまのお姫さまだって? そりゃ、わしのところのような百姓家では、勿体ないよ。それに野良が忙しくて、とてもかまっていられないしね」

 取り次人 「いや、先さま(九条家)では百姓家がお望みで、自分の子供同様に育ててくれとおっしゃるのだよ。箱入り娘扱いなら、わざわざ里子に出す必要はない。農家に里子に出して、乳母になる人の清潔な、健康なお乳をたっぷり吸わせ、世間の風にもあてて、強く逞しく育てたいというのが、そのお公卿さまのお邸の、昔からのしきたいというこどだよ」

 大河原氏 「ふうむ、そうかね。そういうことなら、おていにもよく相談してみなくちゃあ」

 取り次人 「ぜひ頼みますよ」

 そうして大河原家の人たちは、〈わが子のようにして健康に育ててほしい〉という要望だけをしっかりと頭に入れておいて、けっして特別扱いにはしなかった。また忙しい農家のことなので、たとえそうしようと思っても、そんなゆとりはなかったそうだ。

 節子姫は、そういうしだいで、大河原家や近所の子供たちといっしょに栗やモモを採り、トンボを追い、麦笛を鳴らしながらあぜ道を走るような生活を楽しんだ。乳母のていは信心深かったので、幼い節子も自然に神だなや仏壇の前でぬかずき経を口にするのだった。

 あるとき大河原夫妻がちょっとした口げんかをした。しだいに声が大きくなっていった二人を見つめていた節子は、とつぜんお膳の上の箸をとり、それで養父のあたまをぴしゃりと叩いた、二人はびっくり、我に帰り苦笑したそうである。

 このエピソードを読んでただちに思い出す人がいる。それは、小生の親しい知人であった故Tさんのことである。Tさんも幼少時に似たような体験をしたから。Tさんは、とても心の大きい人であった。同時に子供のように純粋なところも終生持っていた人だった。小生がある時どうしてもお金が必要だった時、二つ返事で一千万円を貸してくれ、借用書を書こうとする小生を諫めて、「そんなもん書かんでええ、無理せんでええ、返すのはいつでもええんや。」と言ってくれた。誰に対してもそうだった。

 また、Tさんは、通りがかった家の庭にえも言われず綺麗な花が咲いていた時、どうしてもそれが欲しくてたまらず、冷や汗をかきながら、「ごめん」と言って、その一つを黙って取っていくようなことが一再ならずあった。もちろん、税金を誤魔化そうとか、少しでも得をしようとかいう、ケチくさいことは無縁であった。こんな大きな人に出会うことができたことは、小生のこのうえない幸運だった。

 このTさんは、両親が駆け落ちをしてできた子で、生後しばらくして、母親の両親に預けられ、5歳まで、福島の田舎のおじじ・おばばの下で育てられたのだった。その時の暖かい雰囲気と、ついに両親のもとに引き取られ、祖父母と別れねばならなかった時の悲しみを、何度も語っていた。

 幼児時に両親と離れて、暖かい雰囲気に育ったからこそ大きな人間になれた、とは言うつもりはないけれど、それにつけて思うことは、今の親は自分の子供をあまりにも排他的に愛してしまい、自他の区別や規則をあまりにも重んじて、結局子供をがんじがらめにして、親子ともに小さくなってしまっていやしないか。
 




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