貞明皇后御歌9

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1910年(明治43年)
新年雪 御歌会始
としたちてけさめづらしと見る雪も
はつ荷車やゆきなづむらむ
御歌会始にこのような歌を詠まれたのですね。
新年待友
松のうちにこもれるやどの梅のはな
みに来む友もあらばとぞおもふ
芹
春はなほ浅沢水にそでぬれて
ねぜりつみてむこ(籠)にみたずとも
ねぜりは根芹で、浅沢水にあると決まっているのでしょうか、『金葉集』に、人心あさ沢水の根芹こそこぼるばかりにも摘ままほしけれ(前斎宮越後)という歌があります。
春風
すみれさく野路の春かぜをとめ子が
花のたもとをかへしてぞふく
この歌は、小生の好きな志貴皇子の歌、采女の袖ふきかへす明日香風京(みやこ)を遠みいたづらに吹く(万葉51)が陰画とすれば、陽画バージョンですね。
残水
里川のみぎはにのこる薄ごほり
ながれし冬をとどめがほなる
この年あたりは古今を読んでいるような気になります。
折にふれて
おもへども思ひぞなやむいかにせば
人のこころの安からむかと
人とは夫君それとも御自身の…しかし結局このように決意します、
まことよりほかの心をもたざれば
世におそろしきものやなからむ
竹田宮妃殿下のとひ給ひけるに
なつかしき君の来ませるうれしさに
先づ何をかといひまどひぬる
こういうことありますね。別のところでこうも歌っています。
冬夜閑談
たまあへる友をむかへてかたる夜は
冬ともしらぬのどけさにして
たまあへるとは、魂合へるつまり心が通じあう。ということは、逆に誰でもそうでしょうけれど、なかなか心が通じ合いにくい人が多いということになりませんか。では、それは、どういうことでしょう。
春曙
百鳥の声のきこえて春の夜は
かすみながらにしらみそめけり
尋花
たづね入りし山のかひなくくだり来て
思はぬ里の花をこそ見れ
夜春雨
おぼろよのかすみは雨になりむらし
更けておとする軒の玉水
花見
とりどりによそひこらしてゆく人や
花見るよりもたのしかるらむ
夕花
白くものおりゐるかとも見ゆるかな
ゆふべしづけき山のさくらは
9月24日
いでましのあとしづかなる秋のよは
犬さへ早くうまいしてけり
いでましとは、夫君が京都に行啓。皇太子は犬をとても愛玩されて、いろんな種類をお飼になっておられときく。
薪(まき)
あせあえてはらひし賤(しづ)のいたづきを
まづこそしのべもゆるたきぎに
あせあえるは汗が滴ること。いたづきは労働。貞明さまはこういう感性の人だったのですね。

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貞明皇后御歌8

1909年(明治42年)
雪中松 御歌会始
風もなくふる白雪をうけてたつ
松のこころやしづけかるらむ
橋本綱常の身まかりぬとききて
去年のくれあひしをつひのわかれとは
思はざりしをあはれ人の世
橋本綱常は陸軍軍医総監で、橋本左内の弟。この歌業平くずれ。
雪降らば訪はむと契りおきし人の来ざりければ
ゆきよりも人の心のあさけれや
日ぐらしまてどかげの見えこぬ
かなりの御怒り、来ないのは誰?
八十歳にまれる師の三島中洲の雪ふれる朝とくより教へにとて来たりければあたたかなるものにてもつかはさむとかと思ひて
いかにせばけふの寒さを老が身に
おぼえぬまでになしえらるべき
三島中洲は嘉仁皇太子の漢詩の先生。このころ夫君と一緒に詩作の教えを請うたのでしょう。立派な老先生と思いやりのある生徒。そうえいば、皇太子が20歳くらいのとき、70歳のこの老臣先生と布引の滝をみに行った時、皇太子の御詩に、「…われ時に戯れに老臣の腰を推す、老臣柿をくらひてわづかに渇きをいやし…」というのがあります。老先生にとって、皇太子は、恐れ多くも、かわいく無邪気な、そしてふしぎな詩魂をもった少年に映っていたのではないでしょうか。
暮春(一部漢字に変換、今後も同様御免)
惜しむかひなしとは知れどくれてゆく
春の空こそながめられけれ
空のうみ月のみふねのゆく方に
白なみなしてよするうきぐも
人みなはききつといふを時鳥
わがためなどか声をしむらむ
初秋風
このあした桐の一葉のちるみれば
はや秋風のたちそめぬらし
これ「目にはさやかにみえねども」の逆感覚を行く歌ですね。
逗子よりかへるみちにて
みちすがらなみだにくるるけふの旅
みこの一声耳にのこりて
人生とは切ないもの…。
ところで、この秋10月、ハルピン駅で伊藤博文が暗殺されます。真犯人は安重根ではなさそうですね。そして伊藤はむしろ融和派だった。それなのに安は韓国では英雄となってますね。韓国にとって、歴史の委細はどうでもよく、ただ日本要人を撃った。よくやった。となるんでしょうね。
冬夕
いでなむとおもふも寒き夕ぐれに
いとどふきそふ木枯の風
人のこころのいかにぞやと思はるるふしあれどわれだに思ふやうにはなりがてなるに
人の上をさのみはいはじわが身すら
わが心にもまかせぬものを
天使のような夫君と旧習墨守の女官たち、そして皇室を取り巻く公侯伯子男の妖怪たちの中にあって、節子妃はどのような心持ちでおられたのか。
神祇
一すぢにまことをもちてつかへなば
神もよそにはいかで見まさむ
こう歌うより他はないではないか。

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貞明皇后御歌7

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1907年(明治40年)から三年間、節子妃の御歌は多いが、このとき皇太子は全国順啓に多忙であった。原武史著『大正天皇』によると、
1907年は、5月10日~6月9日に山陰地方。
10月10日~11月4日に韓国~九州~高知。
韓国順啓は、もちろん伊藤博文の政略であるが、嘉仁皇太子はそんなことより、そこで遇った当時10歳であった韓国皇太子李垠(リギン)に関心を引かれ、同年12月に、李垠は日本に留学することになるが、以後弟のようにかわいがり、李垠のために韓国語の勉強をさえ始めた。
このエピソードが象徴しているように、総じて順啓という完全に政治的なる行程上で、完全に非政治的なる魂が自由に動いているようで、小生には面白い。それはちょうど、少年モーツァルトが、神童ピアニストとして父親にヨーロッパ中を猿回しのように引きずり回された様を想起せずにはおれない。
1908年(明治41年)、4月4日~19日に山口・徳島。
9月8日~10月10日に東北地方。皇太子御一家が写った絵葉書が大量に出回った。
1909年(明治42年)9月15日~10月16日に岐阜・北陸地方へ。
1910年 栃木・近畿・東海へ。
1910年 北海道・京阪神へ。
とにかく、だんだんと明治天皇の名代という色彩が濃くなっていくなかで、嘉仁皇太子は、息詰まるような順啓をこなさねばならなかった。この間、節子妃は、歌を歌うことによって皇太子の帰りを待った。
明治41年の御歌(つづき)
撫子
さびしさをしらず顔にもふるさとの
庭にほほゑむなでしこの花
朝蓮(はちす)
みつつあれどひらきもやらず花蓮
朝のこころのむすぼほるらむ
松風追秋
秋草はまだつぼみだに見せねども
松ふく風のおとかはりきぬ
折にふれて
名もしらぬ小ぐさことごと花さきて
山路の秋は春にまされり
東のくもたつ空ぞなつかしき
君がまします方ぞとおもへば
万葉ですね…。
浦擣衣(とうい)
うらなみにまぎるるほどぞあはれなる
きぬたの音のたえだえにして
水鳥
寒かりしよはのおもひもわすれけむ
朝日にねぶる岸のみづとり
雀
あさいする窓の戸ちかくむらすずめ
きてなく声をきけばはづかし
お若いですねぇ…。

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貞明皇后御歌6

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1908年(明治41年)
2月 日米紳士協定なるものによって、日本からアメリカへの移民禁止。4月、ブラシルへの初移民。西園寺内閣から第二次桂内閣へ。そして、西欧では、オーストリア=ハンガリー帝国~バルカン半島の不穏な情勢、という時代。しかしまあ、政治は政治。
野残雪
山かげの小野のささはらさらさらに
春とも見えず雪ぞのこれる
春曙
月影はかすみにきえて山のはの
花見えそむる春のあけぼの
藤
紫のいろなつかしき藤の花
かめにやささむかざしてや見む
人伝時鳥
みやこにはまれになりつるほととぎす
人づてなれどきくがうれしき
川辺蛍
夕立のなごりすずしき川風に
影も流れてゆくほたるかな
この時の作と思われる漢詩も作られています。貞明皇后はこの頃から大正三年にかけて、漢詩も手掛けられた。おそらく、夫君の影響でしょう。たぶん嘉仁皇太子が「節子よ、そなたも漢詩を作ってみよ」。節子妃「わたくしは、和歌は好きですけれど、漢詩などはとても難しそうですし、柄ではありませんわ」。嘉仁「心配するな。われが教えて進ぜよう。なに難しく考える必要はない。適当に作れば、後はわれか三島が手直しをするぞ。作れ、作れ」なんて、仲睦まじい情景が浮かんできます。
柳陰撲蛍(西川泰彦氏読み下し)
新月未だ昇らず楊柳垂る
群蛍聚散す野川の涯(みぎわ)
僮(しもべ)に捕獲を命じ嚢袋に満たしめ
帰りて詩書を照し昔時を思ふ
その昔、シナの車胤は、貧にして灯火の油を買えず、大量の蛍を捕まえその光で刻苦勉励、大成した。そのことを想い浮かべられたのですね。
たぶんこの時、御夫婦一緒に作られたのであろう。嘉仁皇太子の漢詩。
観蛍
薄暮水辺涼気催す
叢を出で柳を穿ち池台に近づく
軽羅小扇しばらく撲つを休めよ
愛し見ん熒熒(けいけい)去りまた来るを
こんな話が残っています。大正天皇に権典侍、命婦としてお側に仕えていた椿の局こと坂東登女子さんという人が語った話です。
「貞明皇后さまがおつむ(頭)がすごくおよろしいのに、大正のお上はまたもうひとつそれにしんにゅうをかけたほどお賢たったもんで、あの三島さんがあの、それこそどうか四書五経っていうですかあれをお上げんなるのに、もう素読あげなさる前にお読みんなるくらいお賢かったですわね。…賢いお方(貞明皇后)さんがおいつけんとおっしゃったくらいお上は天才的っちゅうですかね。お教えせんでもちゃっとお素読遊ばした…あんまりおつむさんが良くってお体がお弱っくあらしゃったんでしょうと思いますね。…」(『椿の局の記』山口幸洋著)


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