スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

本居宣長之奥墓

先日、うららかなある日、本居宣長の奥墓に参った。松阪駅前の観光案内所で自転車を借り、7Km余りの道を飛ばした。事前に地図でしっかり確認しておいたから、ほぼ迷いなく行けた。

 ままチャリを飛ばすこと約10分くらいで、市街が終わり、閑静な住宅街に入る。


住宅街


 そこを抜けると田んぼが眼前に広がる。春の空気の中を抜けるのは何とも心地よい。ときに懐かしい菜の花の匂いが漂ってくる。ときにクシャミもでるけどね(笑)

P3161741.jpg


 小さな村落を抜け、新しい広い道を横切ると、急に山道になる。けっこうな上り坂だ。ふだんからよく自転車に乗るし、これはまた電気アシスト付きだからこんな坂など平気の平左。

山道


 と、駐車場に着く。誰も来ていないようだ。駐輪して鍵を掛け、看板を見ると、この辺りの山一帯が「ちとせの森」と名付けられた公園になっているようだ。看板のすぐ横に宣長奥墓への道とある。

入口1


 石段を登っていくと、なんか息が切れてきた。省みれば、駅から休みなく一気に飛ばしてきたから無理もない。途中でお寺がある。そこの前のベンチでしばし休憩。茶がうまい。大きな杉が見事だ。人っ子ひとりいない。静かだ。

山寺  


 さらに、自然石が崩れて階段をなしているような山道を登っていく。あそこから15分と書いてあったが、ほんとにそれだけで着くだろうかという疑問が胸をよぎった。

入口2


 しかし、そこから10分くらいして、それらしい空間に出た。看板と大きな石碑が立っている。そこを上がれば、宣長大人の眠る墓だ。ここが山室山なのだ。踊る胸を鎮めつつ墓前に登る。

墓前1  P3161737.jpg


 おお、これが宣長の遺言なんだ。彫られている「本居宣長之奥墓」の字は宣長の直筆である。背後には、大人が愛して已まなかった山桜が一本ひょろっと伸びている。

奥墓1


 静かだ。おだやかな山風の音以外には何も聞こえない。ただ鶯の初な声が一回だけ聞こえた。

とにかくに、ここは明るい山の頂
大杉に囲まれて静かなる山の頂
空の美しさ風の心地よさ
遥かに見渡せば伊勢の海
眼下には松阪の家並みが模型のよう

老齢の宣長は自分の墓を定めるために
弟子たちを連れてあちこちの山中を
ずんずん歩いて行ったというが、それは…

 伊勢の海見下ろす山の静けさに
  なほ考へる上つ代の道


奥墓3

そして、この〈本居宣長之奥墓〉なる
文字のなんと美しいことか。
上手い字というのではない。
端正。癖のない清らかな字。

いにしへの直きこころをみつけたる
  人の書き様げにふさはしき
 

 ここに来て単純ということが最も深く
 複雑な心がいかに浅薄かがよく解る。

しきしまの大和の国のきよらかさ
  君ならずしてたれか知るべき



    にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

貞明皇后御歌13

 大正の御代となって、明治天皇の場合と異なり、行幸は軍事行幸をのぞいて皇后同伴となったというが、どうしてそうなったのか、いったい誰の意思によるものか、はなはだ興味のあるところだ。時代の要請―すなわち、マスメディア? 政府? あるいは天皇・皇后?

 青山御所から宮城にお移りになった新両陛下は、今までとは違った雰囲気でご起居することとなった。ここでは旧習が頑として支配していた。女官たちは三倍にも増え、萬里小路幸子のような年長女官は、立ち居振る舞い、話し方、眼の動かし方一つに至るまで厳しくチェックするのだった。

 29歳の新皇后は、そのような宮中の伝統・習慣は、そのまま受け入れようとしたようだが、また一方、明治天皇とは違ったやり方をしようとする大正天皇と歩調を合わせていこうとも心を配った。天皇家御一家が〈家庭の団欒〉を楽しむ時は、居合わせた女官たちもいっしょに楽しむことができた。

 大正3年の御歌から

    春雪
 降りつもる雪のしたよりとけそめて
   はるをささやく軒の玉水


    雪中松
 一つ松こよひは雪につつまれて
   冬の寒さもしらずがほなり


 この年(1914年)4月昭憲皇太后(明治天皇妃)崩御

    落花
 ふくかぜはさそひそめけりさくら花
   うつろふいろもいまだ見えぬに


そして、7月、第一次世界大戦勃発

    宣戦布告のありて後おこなはれける提灯行列を
 万代のこゑにぞしるきまごころの
   あかきほかげは目に見ざれども


    10月31日天長節祝日に我が攻囲軍の今晩より一斉に砲撃を開始しける由の号外をみて
 おほきみのみいつのもとに軍人(いくさびと)
   かちどきあげむ時ちかづきぬ

        みいつ(御稜威)とは御威勢のこと

    11月7日青島の陥落しける由をききて
 日のもとにたふときものは大君の
   みいつと神のまもりなりけり

   

  

  にほんブログ村 歴史ブログ 近代 明治・大正・戦前へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

貞明皇后御歌12

   養蚕をはじめけるころ(大正2年)
 かりそめにはじめしこがひわがいのち
   あらむかぎりと思ひなりぬる


 こがひとは蚕を飼うこと。貞明皇后といえば養蚕とくる、という人もいるのではないかと思われるくらい、〈お蚕さん〉に力を入れられた。幼いころ、あの武蔵野の農家で親しく触れられた蚕の感触は一生離れることはなかった。

 紀元前の大昔、中国で始まった養蚕は、まず西洋に伝わり、日本には2世紀ごろに伝わったらしい。まさにシルクロード。蚕は天の虫と書くほど貴重な虫だった。わが国では天皇もそれを重視し、いつしか宮中でも養蚕をするようになったのですね。雄略紀にも「天皇、后妃をして親しく桑こかしめて、蚕の事を勧めむと欲す」と書かれている。

 そして、明治の御代になって、昭憲皇太后(明治天皇妃)が宮中での〈ご養蚕〉を復活なされて以来、平成の現在にいたるまで、天皇に稲作があるように、皇后は養蚕を続けられている(皇后御親蚕)。

    蚕糸会に(大正3年)
 たなすゑのみつぎのためにひく糸の
   長き世かけてはげめとぞおもふ


 たなすゑの調(みつぎ)とは、辞書をみると、上代の物納税の一つとして、女子が織った布地・絹布を納めること、またその織物、とある。ちなみに、すでに『古事記』崇神天皇条の、有名な〈初国しらしし…天皇〉という文句の直前に、「男の弓端(ゆはず)の調(みつき)、女の手末(たなすゑ)の調を貢らしめたまひき」の記載がある。

 明治時代、生糸は重要な輸出品で、富国強兵の礎と言ってもいいくらいだった。ちょうどこの頃から大東亜戦争中にかけて、輸出はどんどん伸びていく。昭和になって生糸の貿易に関していくつか御歌もあるけれど、これらはいずれ後に紹介しましょ。今は一つだけ挙げておきます。

      養蚕につきて(大正12年)
 わが国のとみのもとなるこがひわざ
   いよいよはげめひなもみやこも



 ちなみに明治41年、養蚕と題した漢詩も作られています。西川泰彦氏の意訳を縮めて紹介します。

 畠一杯に柔らかい桑の繁茂するとき
 朝に夕に摘んで蚕の幼虫に与えます。
 飼養を一生懸命するかしないかが、
 後の糸の多少を決すことを知るべきです。

 さらについでに、同じく西川訳の変奏で、同じころの大正天皇の御製詩を紹介します。両陛下の目の付けどころの違い、いつもの如し。

    養蚕(大正元年)
  
 蚕の桑をとる乙女らが籬辺に集まっている。
 終日作業にはげみ夜も眠られぬほどである。
 その辛苦たるや他の同年代らと比べられぬ。
 彼女らは鏡に映る顔の衰を気にする暇もない。


  にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

貞明皇后御歌11

 1912年(明治45年)この年、東京市内に電灯がほぼ完全普及し、水力発電量が火力発電量を上回り、横川・軽井沢間で日本初の鉄道の電化が行われた。(HP『電気の歴史』)明治の暮らしの漠然とした暗い感じが、一気に明るくなるような話。

 この年の一月には、白瀬中尉が大苦難の末、南極大陸上陸に成功。出発時、無謀と散々非難されたそうだが、帰国後は拍手喝采だった。しかし白瀬は、後援会の義捐金横領の責務を負い、その返済に20年を費さねばならなかったとか。

 また、五月には、オリンピック大会初参加。もちろんアジア国で初参加。クーベルタン男爵の呼び掛けにより、嘉納治五郎団長以下役員二名、陸上選手二人が、シベリア鉄道でストックホルムに向かった。メダルなし。

 他国においては、清朝がほろび中華民国が成立。豪華客船タイタニック号が氷山に衝突し沈没。バルカン諸国が戦争に突入。

 それは、さておき。明治45年というと、日本人で知らぬ人はない。この夏は炎暑であった。7月20日、突然の官報号外〈聖上御不例〉のニュースが、日本国中を駆け巡った。「二重橋の前の広場には、ご平癒を祈願する臣子の群れがあとを絶たなかった。地方地方でも、産土の神の鈴の音はひっきりなしに鳴り響いた」。しかし、ついに7月30日崩御。御歳61歳。

 9月13日、大正と改元。青山葬場殿で御大葬。明くる日、御霊柩は京都伏見桃山の御陵墓へ。そしてその夜、乃木大将夫妻殉死。(壮言豪語の人はゴマンといるが、かくなる寡黙至誠覚悟の人は一人としてなし)

 誰でも、いつかはやってくると知っていながら、漠然とした不安に気がつかない振りをして生きている。そしてついにその日がやってきて、今度は自分が家長としての責任を果たしていかねばならない。もう後戻りはないし、覚悟をしなければならない。

 ましてや国家の長たる天皇皇后御夫妻になられた若い御両人のお気持ちたるやいかばかりであったろう。『貞明皇后』(主婦の友社)には、節子妃が後年にもらされた感慨が書かれている。

 「何と言っても、明治天皇さんがお隠れになったときほど、悲しく、心細く感じたことはなかった。…あのお偉かった明治天皇さんのお後を受けて、若いわたしたちが、どうして継いで行けることだろうかと、心配で心配でならなかった。」

 そして、「そのために節子妃は、神ながらの道を究めようとなさって、筧克彦博士をお召になり。その講義をお聴きになり、納得のゆくまで質問をくり返された。その結果、これでよいという確信を、はじめて得られたそうである。まことに大正の御代は、皇后陛下が、お弱い陛下を背後からしっかりと支えて、日本の女性らしく、目立たぬように内助の功をお積みになった時代である。」と書かれている。

 かくして、大正の御代になった。節子皇后は〈まつりごと〉の本義を悟られた。

 しかし、大正天皇には激務が待ち構えていた。1913年(大正2年)1月早々風邪をこじらせ、5月には肺炎にかかられ、これはかなり重篤であった。東京朝日新聞は「昨年御践祚後、政務御多端にあらせられるが為、遂に運動の御不足を来された結果ではないかと拝察される」と書いている(原)。

 この年の節子皇后の御歌

    寄天祝  天長節
 よろづよはかぎりこそあれかぎりなき
   そらにたぐへむ君がよはひは

    大正天皇の御誕生日は8月31日だが、祝日は10月31日とされた。

    采女のすがたをみて
 みまつりにふふむうねめのよそひみて
   しばし神よの人となりぬる
   
  朱と白の衣装に身を包んだ巫女たちが榊の枝を持ち鈴を鳴らして舞う姿には幻惑されますね

    禁中菊
 君が代をことほぐひまのかざしにも
    おるかみそのの白菊の花


    月前神楽12月15日
 こころありて月もさすらむ大神を
   なぐさめまつるみかぐらのには

      恒例の賢所御神楽祭の行われる日

   

 

 にほんブログ村 歴史ブログ 近代 明治・大正・戦前へ
にほんブログ村 

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

貞明皇后御歌10

 
        
      春閑居
 釜の湯の音よりほかの音もなし
   春しづかなる山の下いほ

   梅さくら何れかおもしろきと人のいふに
 時によりところのよりて梅さくら
   いづれをよしとも定めかねつつ

 しかし、この年、1911年(明治44年)は、節子妃の最大の危機の年だった。3月27日、葉山御用邸にて高熱を発せられる。腸チフスと判明。一時は重篤であらせられたが、5月には御回復、7月にお床払い。このころ年間死者数何千人という腸チフスに罹患するということは、とても恐ろしいことだった。

     声
 まよなかに子のなく声はつるぎばの
    身をきるばかり悲しかりけり

 が、しかし重篤な病にかかるということは、人によってはその後の健康を保証するようなものである。侍医の一人だった新井博士はこう語った、「…結局、あのご病気は妃殿下にとって、一種の天恵みたいなものでありました」

    明治45年 松上鶴 御歌会始
 白波のはままつの上にまふたづの
   つばさゆたかに見ゆるあさかな

 仙人をのせてかへりしたづならむ
   つばさをさめて松にいこふは

     折にふれて
 けふぞ見しむかしの人のうたひける
   かのこまだらの雪のふじのね

 むかしの人の歌とは、『伊勢物語』東下りに

 時しらぬ山は富士の嶺いつとてか         
     鹿の子まだらに雪のふるらむ


↓↓大切に残したい思う人はぜひclickをお願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。