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貞明皇后御歌17

1921年(大正10年)から崩御の年(大正15年)までの間は、天皇の心身がお仕事から離れていく過程であった。明治・大正と仕人として皇室に仕えていた小川という人が、当時の天皇の痛ましい姿を伝えている。

 「いつのときであったか、豊明殿で高官たちに御陪食をたまわったことがあった。…宴会が終わって、高官たちがぞろぞろと廊下に出てきて、陛下が奥にお帰りになるのをお見送りするために、並んで立っていた。いつもなら決してそういうことはなかったのであるが、高官たちの気持ちの中に、陛下が御病気だという観念があって気をゆるめていたのであったろう。あちこちで私語する話声が聞こえてなんとなくざわめいていた。そこへ陛下がお出ましになった。高官たちはさすがに話声はやめたが、いつものように自然に頭が下がらない。突っ立ったまま陛下を目送りするような始末である。そのとき、どうしてわたしが見たのか今でもよく思い出せないが、皇后陛下お一人が静かに頭を下げて最敬礼をしておいでになった。そこではじめて自分たちの失礼な態度に気づいた高官たちは、あわてて最敬礼をして陛下をお見送りしたのである。」(『宮廷』小川金男著)

 「当時、陛下の御病気がお悪くなってからは、何かにつけ皇后陛下は気を配っておいでになった御様子で、そういう公式のお席にもいつも皇后陛下がご同席になっていた。」(同著)

   1922年(大正11年)歌会始

 おほ海原なみをさまりてのぼる日に
   むつみあふ世のさまをみるかな


この年の春、節子皇后は天皇の御平癒祈願と前年の皇太子殿下の御外遊からの無事御帰還御礼のために、香椎宮、箱崎宮、大宰府天満宮、厳島神社に参拝の旅に出られた。

    香椎宮を拝ろがみて
 大みたま吾が身に下り宿りまし
   尽くすまことをおしひろめませ


 ここで神功皇后の霊力を一身に浴びられたこと、また大宰府にては菅原公の怨霊を和らげられたことも言うまでもない。

    大宰府神社にて御手植の梅を
 つくしがたふく春風に神そのの
   はやしの梅は香に立ちにけり


 またこの年、大隈、山県という御一新をなした藩閥の大物が亡くなった。山県が亡くなる直前、節子皇后は山県公に感謝の歌を送っておられるが―

    明治天皇御集、昭憲皇太后御集編纂なりて
上奏しける時御かたへに侍りし山県顧問の心尽しを
 ならびます神のみひかりあふぐにも
   まづこそおもへ君がいさをを


 小生はこの歌よりも前書きに注意がいく。明治天皇御集の編纂事業なったとき、傍らにいた〈山県顧問〉の心尽しに感謝されたのであった。では、山県公の政治家としてあるいは他の仕事についてはどうなのであろうか。それは解らない。しかしあの誰からも好かれない、あまつさえ嘉仁天皇にもっとも辛く当った山県公に対して、節子皇后はどのように感じておられたのか。それはそれ、これはこれ、と割り切って考えられていたのか。少なくともこの期におよんで、維新以来、彼なりにわが国のために働いてきた山県公を批判するお気持ちはなかったと思う。

 しかし、おそらく嘉仁天皇がもっと苦痛に感じたのは人の心の裏表であった。先ほどの小川氏の言の続きー

 「陛下のご病状が悪化してからは、ますます神経が敏感になられたということは前にも書いたが、陛下が御病気であるということから、女官のなかにはついうかうかと陰日向の行動をする者もあった訳だが、そういうことが陛下の神経をいたく刺激したらしく、しかもまた、陛下にはそういう行動が敏感におわかりになったらしく、そういう女官がお靴をお揃えした場合などには、陛下は決してその靴をおはきにならなかった。」

   1923年(大正12年)暁山雲 歌会始

 あかつきのきよき心にあふぐかな
   朝熊山の峯の白雲



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貞明皇后御歌16

1919年(大正8年)5月7日 裕仁皇太子成人式

    東宮の御誕辰に
 のびたちて千代のいろなるこの君の
   むかしの春をおもひいでつつ


 節子皇后は、わが子とはいえ将来天皇になる長男に対しては常に一歩下がって敬意を表していたようだ。そのためか母性愛の対象としては、腕白坊やの誉れ高い二男雍仁親王(秩父宮)に大いに向けられた。とはいっても決して狎れ合うといった愛情ではなく、爽やかで凛としたものだ。

 ちなみに、秩父宮殿下が陸軍幼年学校に入学されたとき(大正6年4月)の、皇后からのお祝いの手紙をここに写しておこう。

「明日より幼年学校へ御入学と承り一言申入候  申迄もなく御承知と存じ候も凡そ軍人たるべき学生は殊に規律を重んじ 厳かに校則を守り給はん事専一と存じ候 又克く教官の指導に従ひ一層の御奮励ありて 範を垂れ給はん事を切に念じ申候 ここに国家の干城たる第一階に登り給はんとするを祝して銃剣一口を贈り申候 
 古より吾が日本刀は男児の魂と伝へ承り候 諺に花は桜木人は武士と申習はし候 此の桜花爛漫の好時節に御入学相成候事転た感慨の深きを覚え申候 且は桜花と刀剣とまた将た其因縁浅からざるにや存ぜられ候 希くは常に血気の勇にはやり給はず 事に中りて能く精神を鍛錬し 細密なる思慮と寛容なる温情とを養ひ給ひ 仰ぎては
御父天皇陛下及び御兄皇太子殿下の御心にそひ 
伏しては弟宮達の為に好範を示し給ひ臣民衆庶の忠誠を奮起せしむべき御覚悟あらまほしく 神かけて願ひ申候
おもふこころの万分の一にと   かしこ
  四月八日    母より
 淳宮  御もとに   」

 このお手紙の御親筆がどんなに見事なものであるかを想像してみるのは楽しい。


 この年、第4皇子澄宮が着袴(ちゃっこ)の式をあげた。この澄宮(後の三笠宮殿下)は、大正4年の生誕つまり、節子妃が皇后になってから生まれた子である。それゆえ3人の兄たちとは違って、じかに母から教育されることが多く、古来の和歌を口づてに聞かされることが多かったという。

  この年から、

     夏灯
 かぜわたるをすのひまより灯火の
   影のゆらぎてみゆるすずしさ


    百合薫
 高殿のをすふきあぐる山かぜに
   さかりの百合の花の香ぞする


    秋水
 掬ふ手のうすらつめたくおぼゆるは
   水の心も秋になりけむ


 大正九年から

    海上春風
 葉山の海汐のひがたをゆく袖も
   かへさぬほどの春のあさかぜ


    こたび高松宮の海軍に志して江田島なる兵学校に入学給ふにさきだちて伊勢神宮にまうで給はむとするにいささか心におもふ事どもつらねてそのはなむけに参らす
 大神のみまへをろがみ誓ひませ
   おもひたちたることを遂げむと


 しかし、好い時はあっという間に過ぎ去り、苦しい時は長々と続くように感じるもの。

     落葉
 庭もりがいま掃き終へし坪のうちに
   たえまもおかず散る紅葉かな


この2年来、目に見えて天皇の体調は悪化の一途をたどっていた。初めは四肢の神経痛、そして運動失調、この頃は、気力を欠いた姿勢や表情が目立つようになった。1920年(大正9年)3月30日、ついに政府は公の御病状発表をするにいたる。

 この日、原敬は日記にこう書いている、「陛下御践祚以来つねに内外多事にわたらせられ殊に大礼前後は各種の典式等日夜あい連なり次いで大戦の参加となり終始宸襟(しんきん)を労せたまふこと少なからず御心神に幾分か御披露の御模様あらせられ且つ一両年前より御尿中に時々糖分を見ることこれあり昨年以来時々坐骨神経痛を発せられこれがため今春葉山御避寒中は政務をみそなはさるる外はもっぱら玉体の御安養を旨とせられ…」
 
翌1921年(大正10年)11月の宮内省発表「…御脳力の衰退は幼少時の時御悩みあそばされたる御脳病に原因するものと拝察することは、拝診医の意見一致するところなり…」との記事に対して、侍従武官四竈孝輔は反発し、「専ら御静養あらせ給はんとする聖上陛下に対し、何の必要ありてか此の発表を敢えてしたる、余はここに至りて宮相の人格を疑はざるをえざるなり」と日記に書いている。

また、皇太子はすでに久邇宮良子王女と婚約しておられたが、すったもんだ(王女の家系に色盲があることに関して、皇室、華族、政府、右翼を巻き込んだ、いわゆる宮中某重大事件―これでようやく山県公も失脚した)の末、御婚約確定の発表があったのも、また半年間の皇太子御外遊(3月~9月)の後、摂政就任について検討されていたのもこの年であった。

このような時、もっとも重圧がかかってくるのはむろん皇后陛下であった。この年、宮内大臣を拝命した牧野伸顕は日記に書いている。

「十月十一日 内大臣府にて松方侯に会談す。同日内府皇后陛下に拝謁、問題に付委曲言上。陛下にも已に御覚悟の色十分顕はれ。御言葉中に今まで新聞に奥の事が記載されざるは仕合せなりと仰せられたる由、平生御上の事につき如何に御焦慮あそばされ居るか伺ふに足る。但し進行上に付き御意見あり。

第一、 輔導を置くことは御不賛成なり。それは権力が自然輔導たる皇族に加はる事を恐るるの意味に於いて。
第二、 青山御所は不可なり。皇太子はかねて同所を御嫌なり。そのことは度々洩らし相成たるを以て今同所を御住居と定ることは面白からず。
第三、 御上は内閣の伺ひものを御楽しみに思し召すに付、何とか取扱上急にこの種の御仕事の無くならざる工夫はないか。要するに全く御仕事の無くならざる便法はなきか。…
以上大体の思召しを伺ひ得て大いに安心せり。」

国政と病気の天皇と二つながら援けなければならない。節子皇后はすでに覚悟はできていた。

翌年の秋の『牧野伸顕日記』にこうある。

「9月22日。両陛下拝謁。皇后様へ摂政殿下大演習、次いで四国御巡視のため神嘗祭は御代祭を願ふほか致し方なき旨言上したるに、御肯諾あり。且つ殿下には御正坐御できならざるにつき御親祭は事実不可能なり、今後は是非御練習の上正坐に御堪へ相成様致したく、昨年来ことにこの種の御務め事に御怠慢の御様子あり、今後は何とか自発的に御心がけ相成る様致したし、それも御形式になく御心より御務めなさるるよう御自覚なされたく望み居る旨御仰せあり。…」

皇太子の御成婚やいかに。

 「9月23日 皇后様へ拝謁。御結婚に御入用の宝石類の事につき言上、また女官人選につき御思召し伺ひたるに、東宮御内儀の根本義は如何相成るや、従来の純御所風にするか、あるいは霞が関の現状を基として洋風に則るか、それにより女官人選も自ら考慮すべし、自分の時は明治天皇様の御指図にて純日本式に御決定相成りたり、今日は全然旧式にも困難なるべく…」

    大正十年御歌会始

    社頭暁
 つたへきく天の岩屋もしのばれて
   暁きよし伊勢の神がき


 ちなみに同じ時の大正天皇御製。これが大正天皇の白鳥の歌であった。小生はこの御歌を口ずさんでこの詩人の透徹した自意識に感動せずにはおれない。

    社頭暁
 神まつるわが白妙の袖の上に
   かつうすれ行くみあかしのかげ



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『パルジファル』

METライヴビューイング『パルジファル』を観た。『パルジファル』を最初から最後まで通して聴いたのは、たぶん2回目か、3回目だ。普段この楽劇を思い出して浮かんでくるのは、いつも沈鬱な気分である。

 今回これを観て浮かんだ定式は、〈神はワグナーにこの作品を創る寿命を与えたのだ〉ということ。つまり、神とワグナーとの共作であり、もっと正確に言えば、共犯である。

 思えば、これはただの楽劇ではない。舞台神聖祭典劇と銘打ってあるのだから、なるほどなと思う。

 やはり、まず考えたのは、ワグナーは『神々の黄昏』で終わっておくべきだったのだ。あれで、あの英雄の死、そして女神の死で終わっておくべきだったのだ。それで、歴史は滅び、ワグナーの芸術の完結にもなったのに、と。

 だから、『パルジファル』は蛇足であり、あれからまたキリスト教の歴史が、西欧の歴史が始まるのかと思うとうんざりする。ニーチェならずとも、ワグナーはキリスト教の前にぬかずいてしまったと言いたくなる。

 まあ、考えようによっては、少年パルジファルは『神々の黄昏』で死んだはずの英雄の復活である。野心家ワグナーはどうしてもキリストを描かずには死ねなかったのかな。西欧はそういうものか。ときに西欧人は無神論を主張する、しかし主張せねばならないほど、彼らはどっぷりとキリスト教に浸かっていて、そこから抜け出せない。

 異教徒ですらないわれわれから見ると、これを大真面目に、深刻な顔をして聴いているのを見ると、時に吹きだしたくなる。ちょうどコンクラーベで選出されたローマ法王が、失礼ながら、あのイカの干物のような帽子をかぶって、何やら意味ありげな、神聖な!儀式をしておられるのを見る時のように。

 そうだ、なぜ笑ってしまうかというと、キリスト教はそこに倫理性を持ちこんでいるからだ。もっともだからこそ、そこにキリスト教の圧倒的強みも矛盾もしたがって弱みも存する。世界中にある単なる古代的宗教儀式なら、例えばわが国の新嘗祭のごとき儀式なら、それはそれで神聖であり、笑うべきことではない。

 幕が開いて閉じるまで、胸に傷を受けた王の苦痛が主調低音のように流れ、最後に「共に苦痛を分かち合える」若者によって癒されるこの物語の5時間にも及ぶ延々とした音楽の流れは、しかし、音楽的には新しい地平を開いたようだ。反ワグナー派のドビュッシーでさえこの音楽のとりわけ第三幕の美しさにほれぼれしている。『ペレアスとメリザンド』を創ったドビュッシーだと思えば、なんとなく分かる。そう思うと、以前よりは、この音楽は全体としてなかなか美しいのではないかと思いたくなるような気がしてくる。

 しかし、死ぬまでに、この曲をもう一度ちゃんと聴くだろうか。



   
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貞明皇后御歌15

この頃こんなエピソードがある。
 
 ある冬の霜の降りた朝、一人の少年が皇后の御休所の近くに佇んでいたのを一女官が見付けた。不審に思って、他の女官たちをよんで(この場所は男子禁制なのだ)、その少年を包囲し、取り押さえた。

 少年は年の頃十五、六歳くらい。女官の尋問に震えて答えた、「お情け深いと聞いている皇后さまに一度お会いしたく、なんとなくここへ来てしまった」と。この騒がしさが節子皇后の耳に入ってしまった。

 ところが、皇后はこの少年を不憫にがられ、「こんな冷たい朝、さぞ寒い思いをしたであろう。温かいおかゆでもさしあげましょう」とおっしゃった。

 このささやかなエピソードは、節子皇后の人となりをよく表しているだけでなく、むしろ皇室はどのようにあるべきかを明瞭に自覚されていたことを表しているのではないか、と感じる。

 1915年(大正4年)

     海辺梅雨
 あま人のかるもほす日やなかるらむ
    晴れまも見えぬさみだれの浜


 1916年(大正5年)

     貧民
 うゑになきやまひになやむ人の身を
    あまねくすくふすべもあらぬか


 皇后という立場になられて、筧博士によって〈神ながらの道〉ということに目覚めることによっておそらく、では現在人としての自分はいかにすべきかがはっきりしたのではないでしょうか。

 しかし、日々の重圧に耐えておられる天皇に、この年なんとなくお疲れが見うけられ、心のどこかに不安の影がさっと過ぎります。

    折にふれて
 すすはらひ果ててしづけき夕ぐれに
   あんらの木の実おつる音する
     
あんらとはマンゴーのこと。

 1917年(大正6年)1月、避寒のため葉山御用邸に行啓。

    2月9日のあさ雪ふりけるに
 くもきれて日のさしわたる庭のおもに
   ふりてはきゆる春のあわゆき


    南御用邸にて
 大庭のゆき間につめるつくづくし
   君がみかえりまちてささげむ
    
つくづくしとは土筆(つくし)のこと

    折にふれて
 浜づたひ貝ひろふ手にゆくりなく
    ちりかかりけり春のあわゆき

   この時、天皇と御一緒だったのでは。

    老人
 過ぎし世の事にあかるきおい人の
   のこりすくなくなるがさびしさ


    閑話
 たきもののかをり満ちたる窓のうちは
   かたらひ草の花もさきそふ


    閑居夢
 おきふしのやくらけき身のただならぬ
   ゆめにおどろく夜半もありけり


    渓菊
 みづかれしほそたにがはの岩が根に
   やせても咲ける白菊のはな


 大正7年 

    慈恵会に
 うつくしむさなけのつゆを民草に
   もるるくまなくそそぎてしがな

 
 明治8年軍医高木兼寛は英国留学中に、貧困者に無料で治療する施設の充実している事に感心し、帰国後15年「有志共立東京病院」を設立。皇室は6000円下賜。その後「東京慈恵会病院」と改称、皇后陛下の庇護の下、ますますその業務を拡張するにいったった、とのこと。

   病室にて後よりわが動作に目をとめて見る人の多きに
 ところせき身にしあらずば病む人の
   手あしなでてもいたはらましを


 この年、天皇の身体の不調はだれの目に明らかであった。10月、大正天皇は天長節観兵式を欠席された。

 冬の日、皇后は風に吹かれて落ち葉がたまっていく様子をみて、もはやどうにもならないと感じられていた。しかし、またそんなことばかり思って悩んでいてもしようがあるまい、と時々には思いきることのできる人であった。

     落葉
 こがらしにふきたてられて中空に
   あがる落ち葉のおもしろきかな



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貞明皇后御歌14

   

32歳の嘉仁皇太子が天皇に即位された年から、目に見えてお体に変調をきたすようになった大正7年くらいまでの国内外の状況にざっと目を通してみよう。

1912年(明治45年) 中国で清朝滅亡し、中華民国起こる。明治天皇崩御

1913年(大正2年)  大正政変(大正天皇陸軍に利用される)→軍部大臣現役武官制の廃止

1914年(大正3年)  シーメンス事件(三井物産と海軍首脳との贈収賄事件、ドイツの謀略か?)第一次世界大戦参戦

1915年(大正4年)  対華21カ条要求 戦争景気 *4月、大正天皇即位の大礼 *12月、第4皇子澄宮崇仁親王(三笠宮)誕生

1916年(大正5年)  大隈首相狙撃される  民本主義(吉野作造)

1917年(大正6年)  石井=ランシング協定(日本の中国対策についてアメリカの容喙) ロシア革命→ロマノフ王朝滅亡→日本の華族層に衝撃を与える。戦争景気→物価高→貧富の差拡大

1928年(大正7年)  シベリア出兵~1922(大出費)物価高→米騒動(越後一揆全国へ)革命への不安 寺内内閣総辞職→平民宰相原敬(初の本格的政党内閣)

 何時の時代も多事多難。大日本帝国憲法下での天皇は、真正面から政治に向かわねばならない。ところで、大正天皇はどういうお人かというと、もう何度も触れましたけれどね、公的な儀式などにはもっとも不似合いなお人だった。大隈公から見れば大正天皇は、失礼ながらかわいい繰り人形みたいなものじゃなかったのかな。堅物の山県公から見れば、ふがいないと言うか怒れてきて怒れてきてしようがない対象だった。

 原武史著『大正天皇』には、こんなエピソードが載っている。明治45年7月30日明治天皇崩御、ただちに新天皇が宮中正殿で朝見の儀で勅語朗読。しかし新天皇はこういう状況において、じっとし続けることが大の苦手である。後で、財部彪が日記に書くー(文字遣い変えますが)

 「朝見の節、天皇陛下の落ち着かれざる御態度は目下御悲痛の場合さることと申しながら、昨日の御態度については、涙滂沱たりし老臣もありたり」

また同書に、海軍大将山本権兵衛は、「今上帝の御代となりては恐れながら山県公如き人ある方が、国家の御為なり、然らざれば万々一御我儘にても募る事ありては甚だ大事なり」と語っている。政敵の山県を評価しなければならないほど大正天皇を〈でくのぼう〉であると口に出さんばかりである。

例の大正政変のとき、山本は「陛下の思し召しとは言へ、それは先帝の場合とは恐れながら異るところあり。自分の所信にてはたとひ御沙汰なりと出盧国家の為に不得策なりと信ずれば御沙汰に随わざる方かえって忠誠なりと信ずるを以て…」  

 こんな天皇の為にやっておれるか、という所でしょう。とても忠臣とは思えませんね。しかし、大正天皇とはそういう人だったのであり、そういう性格の(今ならA.症候群と名付けられるような)人が、あの時代にお生まれになった。他でもない大正天皇の御存在こそ、恐れながら、〈天皇すなわち日本文化の中心〉と〈国家というもの〉とそして〈人間の個人として生〉ということの関係および無関係の方程式を解くヒントだと小生は感じるのであります。

 そして大正天皇の妻となられた貞明皇后こそ、大正天皇をもっとも身近に感じられた人ではないでしょうか。

 大正3年の御歌をもう一つ

    池水鳥
 水とりもいのちのつばさきられては
   波なき池もすみうかるべき



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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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