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貞明皇后御歌20


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  1921年(大正10年)節子皇后は天皇の御負担軽減のために、宮内大臣、牧野伸顕に述べている。

 「日記などを見るに、京都時代(明治維新より前)は、只今よりよほど簡単であったと見ゆ、明治になり復旧なされたるもの多し、日記には祭事に付き、女官が代理したるもの少なからず、御代御代の中に御弱き方も入らせられそれが為右の如き取り計らひたるものと考へらる」(『牧野伸顕日記』)

 『昭和天皇』(原武史著)によると、節子皇后は、天皇とともに、葉山や日光の御用邸に夏や冬は御滞在のことが多く、いわゆる宮中祭祀には御熱心とはいえなかったが、しかし皇太子の御外遊ころから、それまで(明治になって)創られた伝統と見なしていたはずの祭祀に、皇后は積極的に関わるようになられた。

 さらに原はこう言っている、「その背景には、おそらく大正天皇の病気があろう。貞明皇后は、大正天皇が脳病に冒されたのは、天皇と一緒に御用邸に滞在し、祭祀をおろそかにしたことに対して、神罰が当たったからだと考えるようになったのではなかろうか。皇后が裕仁皇太子に〈信仰〉の重要性を説こうとしたのは、大正天皇と同じ過ちを繰り返させまいとする母親の愛情に根ざしていたからだとも言えなくはない」と。そうして、自らを神功皇后(夫である仲哀天皇は、神の教えを信じずに早逝した)になぞらえて、香椎宮を参拝されたのだ、と。

 何かこう言ってしまうと身も蓋もないように感じる。たしかに、皇后はこの頃から、皇統の何たるかをお知りになり、祭祀を大事にされ、あらゆる迷信もふくめて宮中の伝統を率先して守っていこうとお考えになったのであろう。また、日に日に衰弱してゆかれる天皇を目の当たりにして藁をも掴もうというお気持ちになられたのは無理もない。また、筧克彦博士から仲哀天皇の話を聞かされていたかもしれない。

 しかし、大正天皇が祭祀をおろそかにして神罰が当たったとは、本当にそうお感じになったのであろうか。そのゆえに香椎宮を参拝されたのであろうか。そうかもしれない。そうでないかもしれない。そうであるならば、むしろ、皇后とはいえ、そのようにお感じになった己の罪を責められたのではなかろうか。

 1925年(大正14年)御歌から

     春夜
 酔ひしれし人のとよみもしづまりて
   都の春も夜はしづけし


     習字
 むづかしとおもひながらも習ふまに
   もじの心も得られゆくかな


 筆とれば時のうつるも忘られて
   手習ふわざぞたのしかりける


 1926年(大正15年)御歌から

    寒月
 くまざさの上なる霜につめたさを
   かさねて月のふけわたるかな


    名所雪
 びはの海はうすきみどりにみえそめて  
   雪にあけゆく比良の遠山


    鐘声
 にぎはしき都にありてきけどなほ
   淋しかりけりかねのひびきは


    雲雀
 あさ月のかげうすれゆく大空に
   たかく上がりてひばりなくなり


 あの家持の「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」の欝屈した歌から取られたのだろうか。

 しかし、八月ほとんど歩行困難になっておられた天皇は、新設されたばかりの原宿宮廷駅から、ひっそりと葉山御用邸に移される。

      庭鶴  天長節
 吹上げのみにはの鶴の千代よばふ
    声おまし(御座所)まで高く聞こゆる


      秋霜
 ふじのねのいただき白く雪みえて
   みやこの秋に初霜のふる


 11月ごろから、天皇の平癒を願う人々の姿が皇居や神宮に見られるようになる。12月24日の夕ぐれ、突然に季節外れの雷鳴と豪雨が葉山御用邸を襲った。25日午前1時25分、天皇崩御。御遺体はただちに、御本邸に移された。早朝、屋根の上から、真白い鶴のような大鳥が飛び立ったのを見た、と女官たちは語り合ったという。

 

 
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『福翁自伝』

 久しぶりに面白い本を読んだ。この本を一言で要約することができる。それは、〈自分はこんな風な男で、こんな風に生きてきた〉となる。と言うと、「そんなの要約になってないし、すべての自伝はそういうものではないか」と言われること請け合いではあるが、なるほどそんな要約は何の意味もない、理屈としては。

 しかし、それは理屈ではないのであって、内容がどうこうというより、自分はこんなふうな人間だと静かに語る福沢諭吉の、しかし結果として時代に対して灼熱の思いが一個の作品からほとばしり出ている。それにつけ思いだされるのは、デカルトの『方法序説』であって、この序説は何よりも〈自分はこのように考えた〉という叫びであり、小生の耳にはまだその叫びがありありと残っている。

 〈自分はこんな風に生きてきた〉というのは、誰でも言うことができる。しかし、諭吉のその言には気負ったところが少しもない。ただ自分の気質に従って素直に、また時々の状況に応じて工夫を凝らして生きてきたら、こうなってしまった、と淡々と述べられていて、優越感や劣等感のかけらもない。

 じつに人は、生まれもった性質と子供時代の環境とからなるものだと感じる。生まれながらに身分が決まっていた江戸時代、諭吉の父は漢学をよくするも不本意ながら小役人に甘んじねばならなかった。末っ子であった諭吉には何とか出世しえる道として僧侶にしようとしたらしい、諭吉は父のその深い愛情を思っては、封建の門閥制度に対する激しい憤りを感じた。そして、自分はどうにかしてそんながんじがらめの世間を離れたいと思っていた。

 母はまた、人の上下をあまり意識することなく、誰とでも付き合えた人であった。中津の町に気ちがいの乞食女がいた。汚くて臭くて、着物はボロボロで、ボウボウの髪の毛にはシラミがいっぱい湧いていた。その女を母は、しばしば自宅の庭に座らせ、シラミを取る、そしてそれを石で潰す仕事を嫌がる諭吉にさせる、そしてシラミを取らせてくれた褒美に、その女にご飯をやる。そのような人であった。

 諭吉は子供のころから、神様や仏様がエライとも恐いとも感じたことがなかった。村人が崇める神社の中の石を取り出し、他の石を入れておいた。お祭りにその神社に神酒をあげて拝んでいる、彼はそれがおかしくてしようがない、「ばかな奴らだ」。それで、べつに神罰が当たるわけではなし、祟りがあるわけではなし。
 
 ちょうどペリーが来た頃、彼は長崎に行った。そこで偶然、オランダ語を知った。彼は語学に関して非常に吞みこみが速かった。それから、23歳にして大阪で緒方洪庵塾の塾生となって、オランダ語の書物を仲間たちと読みあさった。そこでは大酒を飲むとかとにかく若気の至りを尽くした。しかし、そこでの勉強は猛烈なもので、昼夜の区別なく、机に向かい、眠くなったらそのまま机にもたれるか、ひっくり返って眠った。したがって、ちゃんと布団に入って枕をして寝たことは一度もなかったそうだ。

 今のように、外国の本をそうそうお目にかかることはなかったから、新しい原書を誰かから借りることができると、それを塾生が分担して、大急ぎで書き写した。みな勉強に飢えていて、オランダ語の書物とみれば喉から手が出る思いであった。科学技術の本を読んでは、それを自分たちも実験しないではおれなかった。とにかく、みな西洋の知識を得るのが楽しくてしようがなかった。

 この自伝を書いた64歳の諭吉は、その若いころを思い出し、今の書生は勉強しても、自分の将来を、つまり出世することや金持ちになる方法などに心が向いているのではないか、それでは真の勉強はできないと思う、と言っている。

 25歳に江戸に出た。そのとき横浜に立ち寄ったところ、外国人の店の看板が読めない、どうもそれは英語らしい。今まで必死に勉強してきたのが役に立たぬとは、と落胆の極み、しかしこれからはどうも英語が必要な時代らしい、よしこれからは英語を勉強しようと、まず教師を探し、…後は推して知るべし。

 彼は、時の窮屈な封建門閥制度が大嫌いで、徳川幕府なんぞ早く倒れればいいと思っていたけれど、また、倒幕派のこちこちの尊攘派にもすこしも頼むところもなかった。明治になって、心おきなく翻訳著述など出来るようになって、時代が変わって結構だと言っている一方、新政府の役人たちも、裕福になって下の者を見下し、威張り散らしているのは、何の事はない、あの上士下士の時代と少しも変わっていないではないか、これじゃ文明開化はほど遠い。

 彼の有名な「一身独立、一国独立」という言葉は誤解されやすい。彼は、誰も偉いと思わぬ代りに、誰も軽蔑しない。『学問のすすめ』や『文明論之概略』もそれぞれいいけれど、その因ってきたる源泉の感情、他に代えようがない独特の風のような人格的味わいを知るには、『福翁自伝』に勝るものはないと感じた。



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貞明皇后御歌19

1923年(大正13年)1月26日、宮中某重大事件もすっかり落着し、摂政宮(裕仁皇太子)と久邇宮良子(くにのみやながこ)女王とはめでたく御成婚の儀と相成りました。

     桃花契千年
 もろともに千代を契りてさかえなむ
   春のみ山の桃のふたもと


 天皇の御容態がだんだん悪くなるなか、皇太子の責任の重さを誰よりも深くかみしめていたのは、節子皇后ではないでしょうか。それかあらぬか、この年は、筧博士の神道講義に触発されたごとき歌が目につきます。

    新年言忘 御会始
 あら玉の年のはじめにちかふかな
   神ながらなる道をふまむと


     以歌護世
 皇神の道のまことをうたひあげて
   栄ゆく御代をいよよ守らむ


     読史
 皇孫に天降りまさねとのらしけむ
   大みことばのたふとくおもほゆ


 もちろん、嘘はないはずですが、あまり面白くないですね、こういう御歌は。それよりやはり次のような御歌がいいですね。

     わか草ところどころ
 立ちまよふ霞ふきとく春風に
   むるむらみゆる野べのわかくさ


     春風
 よのさまもうち忘れつつ草つむと
   ほてりし顔に春風ぞふく


     琴
 少女子(おとめご)の弾く手妙なる琴の音に
   松の風さへ吹き止みにけり


     深夜春雨
 ねざめして嬉しとぞきくもえいでむ
   小草そだつる春雨のおと


     苔上落花
 きはやかに色あらためし苔生には
   ちりくる花もここちよげなり


 さむくふく夕べの風に菊つくる
   人のしはぶく声のきこえる


   ときにはこのようなことも 秋夜思親
 秋の夜の長きゆめ路にあひみむと
   恋ふる心をしりますか父


 思い返せば、明治32年、自分も周囲も婚儀の準備にたいへん忙しい中、父道孝は16歳の節子姫を世俗の見納めにと、とある料亭に連れて行ってくれた。そのとき、座敷に一人の美しい芸者が呼ばれ、三味線を奏でた。そっと目を閉じた道孝は、その音楽に合わせて口ずさむ、「梅にも春の色そえて、若水くみか車井の、声もせわしき鳥追いや…」部屋にはひたひたと妖艶な雰囲気が広がっていった。

 節子姫にとって、これは思いがけない出来事であり、この時の父の心づくし、恩愛を一生忘れることがなかった。御結婚後、宮中生活においても、ときにこの父の歌った端歌が頭から去らず、ふと口にお出になることがあったという。




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貞明皇后御歌18

1923年(大正12年)御歌から

     箒
 あさまだき掃きて清むる手ははぎの
   音はねみみによきものにして


     残鶯
 世はなれし山のみ寺をとひくれば
   のこる桜に鶯のなく


     峠松
 旅人をおくりむかへてひとつ松
   山の峠に幾世へぬらむ


     夏夜
 閨のうちの夜の暑さぞたへがたき
   昼はなかなか風も入りしを


 思えば、少し前までクーラーも扇風機すらなかったのだ・・・。そんな時代を想像するだけで、もはや小生苦しくなる。

     櫛
 黒髪もみづきはたちて見ゆるかな
   少女かざせる玉の御櫛に


小生としては玉鬘を盗み見たときの心の高鳴りが何時までも消えず、なかなか思い切れない源氏の悩ましい気持ちが解らんでもない。

     故郷虫
 ふるさとのまがきの萩をみむと来て
   かはらぬ虫のこゑをきくかな


     畑茄子
 畑もりのをぢのほほ笑みさもこそと
   おもはるるまで茄子のみのれる


 幼少時育ったあの農家を久しぶりに訪れた途端、あの時の一切が蘇ってきたのではないだろうか。

 ところが、この年、日本人なら誰もが知る関東大震災が起こる。9月1日正午前。ちょうどこの時両陛下は日光の田母沢御用邸に滞在しておられた。例年なら葉山に御滞在であるところ、天皇の体調を慮り、日光に御避暑とのことであったらしい。

 『貞明皇后』(主婦の友社)によると、御用邸も烈しい振動に見舞われ、棟柱のきしる音、物の落ちる音、砕ける音が相ついだ。平素、つつしみ深い側近の人たちも、大きな悲鳴をあげて、立ち騒ぐばかりであった。
 しかし、そのとき皇后、少しも騒がず、むしろ騒ぐ人々をお制しになって、まず、不自由な天皇のお手を引いて一歩一歩庭先の広い芝生に導かれた。そして、いそいで東京に電話をし、こちらは無事であること、また東京の様子を伺うように、侍従にお命じになった。
 ところが、時すでに遅し、電話は不通状態となっていた。ただちに、伝書鳩を飛ばすようお命じになった。今の時代なら携帯で即様子が見れるが、当時は、ましてや鉄道も不通となっては、その詳細が判るまで何日もかかった。じつはその日、東京市内では150余か所から火が上がり、7割が灰燼に帰しつつあり、90000人以上の死者が出ていた。

 そのときちょうど、大命を拝した第二次山本内閣は組閣難に陥っていた。ようやく大急ぎで組閣したものの、電燈も点かぬ蝋燭の灯りのもとで行われた故、地震内閣と揶揄されたという。それにしても、この前の東北大震災も、折から経験不足の内閣のとき起こった、重なる時は重なるものだ。

 一週間ほど経って判ってきたおおよその事に皇后は心をお痛めになった。しかし、心痛にひたっている暇はなかった。東京のみではなく、国民全体の不安を解消すべく、天皇に一日も早く宮城に御戻りいただかねくてはならないと考えるいっぽう、しかし御病状は一進一退、まだ暑いさなか東京御帰還はいかなるものか、だがまた、この危急時に天皇がいつまでも日光にどどまっておられるのはよくないことだ。結局、一刻も早く東京に御戻りしていただくことを決断された。

 9月29日、節子皇后は地獄のごとき被災地に足をお運びになった。じっさい皇后は上野駅から、そのまままっすぐに上野公園自治館内の被災者収容所へ。〈見るも悲し、いかにかすべきわが心〉というお気持ちであられたであろう。宮内省巡回病院、三井慈善病院をお見舞い、そのあくる日も諸病院へお見舞い、そして何万と横死者の冥福を祈り、かろうじて避難しえた人々のテントを廻り、慰めや励ましのお言葉をかけられた。

 燃ゆる火を避けんとしては水の中に
   おぼれし人のいとほしきかな


 生きものに賑はひし春もありけるを
   かばねつみたる庭となりたる


    震災のあとのことども見も聞きもして
 きくにだに胸つぶるるをまのあたり
   見し人心いかにかありけむ


      寒夜霰
 さらぬだに秩父ねおろし寒き夜を
   あれし都に霰ふるなり


 震災から12月半ばまで、被災者の気持ちを思い温かい服を着ることはできないと、女官らの勧めを断って、外出時は夏服をお通しになった、という。

 11月23日、摂政宮(皇太子)は天皇に代わって初めて新嘗祭を行われた。その時の母皇后の御歌、

    御深夜しに数よみしける歌の中に冬暁
 ねやの戸のひまもる風のつめたさに
   あかつきおきのたへがたきころ


 この年も終わりという、12月27日、特別議会の開院式に向かう摂政宮の行列に、一発の銃声が響いた。いわゆる虎の門事件である。犯人の難波大助は「革命万歳!」を叫んで車を追ったところを捕らえられた。彼は富豪の家に育ったが、共産主義アナーキストたちに心酔し、大杉事件・亀戸事件など共産主義運動家への官憲の非道な弾圧に憤激していた。

 せっかく繊細な心をもっていながらも、いや繊細であればあるほど、イデオロギーは人の心を理解しないということが往々にして解らなくなるものだ。

 避難者の身に水をそそぎて辛くして火を免れしめし警官の却りておのが身の焼かれて命失ひけるよしをききて
 まごころのあつきがままにもゆる火の
   力づよさもおぼえざりけむ


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『細雪』

この長編小説を読みながら思った。このような二家族、四姉妹の日常の生活風景、これといって大きな事件も起こらない、淡々とした日常的記述が、どうしてこうも面白く読めるのだろう、と。

 いや、大事件が起こらない訳ではない。姉妹の一人が大洪水にあって非常に危ない目に遭うし、このとき助けてくれた柄のあまりよくないカメラマンとが、耳の手術時の感染をから下肢に炎症を起こして苦悶のうちに死ぬ。また、一番末の、いわゆる跳んでる妹は、赤痢で死に瀕したりもする。が、それがまったく日常用語で淡々と書かれていて、読者もその〈話の中〉に参加している感じである。

 根っからの悪人も出てこない。しいていえば、末妹が、どうも男を利用して生活費を得ていた節がある。それを姉たちが感じて、ぞっとするが、「ねえ、こいやん、あんたなんか隠しとるのやない」ときく。それで充分なのである。

 谷崎の他の明確に意図されたようなエロス的観念作品とはどうも違う。他の作家にこのような小説があるだろうか。しかし谷崎は、もちろんこの大長編小説をも、充分計画を立ててから書いたに違いない。そうするとやっぱり凄いんやない。

 これは、昭和11年から16年の物語、戦争の足音がする時から戦争さなかであるけれど、背景というものを意識する必要がないほど、時代を生きている。その時代の風俗、感性、文化を生きている。富豪であったらしい父母の時代から零落してきているとはいっても、まだ余裕があるといえる四姉妹とその周囲の人たちが、婚期をとうに過ぎた下から二人目の妹の縁談話と、その間隙を縫って末妹のアヴァンチュール話が鏡のように対照的に映し出され、彼らの心の中で絡み合う。

 なぜこれが、面白いと感じるのか。別に文章が面白く工夫されているというわけではない。が、その時その時の状況での登場人物の気持ちに共感してしまうからで、それが大阪弁で語られているのが、この場合非常によく効いていて、それこそが重要な要素なのだと思う。

 この地方性と、当時の日常性、とは言っても、それは、美と切り離せないーたとえば、着物の色柄、食べ物、琴・三味線・仕舞などの芸事、花見―そして四姉妹の個性の典型が、普遍性を獲得している。

 緊迫しているはずの歴史の流れの中にありながら、非歴史的と言えるほど平凡な日常性に終始しているこの物語は非凡である。そもそも、この小説はこんなふうに始まっている。

 「こいさん、頼むわ。―」鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけてゐた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映ってゐる長襦袢(じゅばん)姿の、抜き衣紋(えもん)の顔を他人の顔のやうに見据ゑながら、「雪子ちゃん下で何してる」と、幸子はきいた。

『源氏物語』という作品が平安時代の宮中文化の粋であるとするならば、『細雪』という作品は戦前の日本文化の粋である。そして、読者であるわれわれの中にもまだその流れが枯渇していない間は、共感をもって読まれ続けるであろうと思った。


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Author:うたのすけ
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澄み濁るをば神ぞ知るらん

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