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貞明皇后御歌23

貞明皇后の三大事業として知られているものは、養蚕、燈台守への救援、救癩(ライ)でしょう。
 癩病は、現在ではハンセン病と言われ、わが国ではもうほとんど発病者がいない病気だけれど、いまだ有効な薬がなかった時代は、大変恐れられていた。

 感染力はそう強くないものの、いったん感染すると、たいていはゆっくり悲惨な経過をとって死に至る。全身のあらゆるところが少しずつ侵されてくる。とくに神経や皮膚を侵すので、知覚麻痺のために外傷が絶えず、多様な皮疹が出現し、場合によっては恐ろしい醜形を呈する。

 明治40年に、癩予防の法律が制定され、癩患者は、療養所に収容されることとなった。昭和6年の「癩予防法」によって、患者は一般社会から完全に隔離された所での生活を余儀なくされた。つい最近まで、昭和50年代までは、癩病と聞けばなんとか園に入れられるというような話が、かすかに小生の耳にも残っている。感染力は非常に弱く、有効な治療薬があるにもかかわらず、わが国は遅くまで隔離政策を取ってきたことで、世界から、そして人権団体から非難された。癩病の研究・治療に一生をささげた光田博士ですら、隔離や断種を勧めたということで、評価は分かれている

 とにかく、戦前は、そして戦後も、その施設に一度入ったら、一生を、たいていは長い一生をそこで過ごさねばならない。家族も噂や感染を恐れてそうそう面会にも来てくれなかったであろう。それだから、その閉じられた世界では、畑仕事をはじめ様々な労働があり、娯楽があり、場合によっては結婚もあった。

 こういう病に悩む人たちが隔離された所で生活を余儀なくされているということお知りになった貞明皇后は、非常に心を痛め、大夫に命じて施設の様子の調査をさせ、宮中の経費を節減してまで、様々な物品や修繕費などを下賜されること生涯に及んだという。

 それは、あの華族女学校時代の記憶がトラウマのように心の底に残っていたからかもしれない。通学路にある家でじっと外を見ている女性、どうしてあのような美しい女性が結婚もせず、毎日坐っているのだろう、という疑問、そして後で知った彼女の業病。このことが鋭敏な子供の心にどう作用したか。

  1932年(昭和7年)癩患者を慰めて
 市町をはなれて遠きしまにすむ
   人はいかなるこころもつらむ


 ものたらぬ思ひありなば言ひいでよ
   心のおくにひめおかずして


 見るからにつゆぞこぼるる中がきを
   へだてて咲ける撫子のはな


 つれづれの友となりてもなぐさめよ
   ゆくことかたきわれにかはりて


 そういえば、貞明皇后は光田博士のことをお知りになって、博士の情熱にいたく賛同された。その辺の事情について、出雲井晶という人の著書『天の声』で詳しく書かれている。この本は、じつに貞明皇后の核心というべきところを捉えているのではないかと感じ、畏れ入る次第であった。

 貞明皇后崩御後、三男であられる三笠宮殿下は、皇后さまの意思を継いで、癩予防・治療の組織の先頭に立って活躍された。

 ついでに『天の声』に載っていた、施設に暮らす癩患者の歌を紹介したい。(『ハンセン療養所歌人全集』より)

 泣くなよ。

 萎え果てし右手に結びしフォークも
   今は飯食むに重荷となりし


 春猫の恋する夜半を覚めており
   青春をもたぬ背を触れあう


 かぶら売りて何をあがなはむとせし病友か
   その翌朝息たえしとぞ


 足なえの妻も厠へ入らしめて
   待つときの間の深きかなしび


 つひにつひに母の臨終にも会へざりき
   初秋の空 蒼き遠きふるさと




 

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貞明皇后御歌22

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1931年(昭和6年)と言えば、満州事変の年。二年前の世界恐慌から、わが国は満蒙へと進まざるを得ず、そして二年後の国連脱退へと、慌ただしい時。

 しかし、皇太后は完全に覚悟ができていた。自分の立場、自分の為すべきことに徹しようと、腹をくくった。日毎〈お御影様〉に礼拝することの意味は何か。それは皇室を守るためである。しかし、それは明治政府が創った皇統ではない。同じことではあるが、年表のように無味乾燥な、連綿と続く天皇を守るためではない。

 それは、大正帝といういとも不思議な、純粋な人が天皇として現れた意味を問うことである。歴史家や政略家の尊大な見解のみならず、あらゆる周囲の人たちの小利口な誤解から、あの光を守るためである。むしろそれこそ天皇のエッセンスであると悟ったからである。誤解を恐れずに言えば、血統というものの深い意味を理解したからである。

 山川という主に明治帝に仕えた女官が、その著『女官』で、じつに意地の悪い口調で、節子皇太后は〈お御影さま〉の前で懺悔していた、と書いていたのを読んで、小生は、稲妻のように、その懺悔の真の意味を理解した。

 それが、節子皇后に御講進をした筧克彦の〈神ながらの道〉であるのかどうか、小生には未だよく解らない。しかし、それがどこかで歌の道につながっているような気はする。

      春埋火
 春寒み見るだにたのし埋火の
   紅にほふ花さくらずみ

    さくらずみとは良質の佐倉炭。

 朝風のはりさすごとく吹きつけて
   春のそのふに霜の花さく

     そのふとは園生、つまり庭。

     立夏
 瑞枝さすみどりの山を白雲の
   ひまよりあふぐ夏は来にけり


     梅雨難晴
 晴れなばと思ふあまりに鳴るかみの
   音もまたるるさみだれのそら


     机上月
 虫の音につくゑのしまを離れむと
   おきたるふみに月のさしくる

     机のしまとは、たぶん小さな机。

 淋しくも月は雲間にかくれけむ
   むしの音のみを庭にのこして


     朝露
 手にとりてめでまくもほし風冷えて
   白くおきたる萩の朝露


     外国語
 きく耳にそれとはわかぬ言の葉も
  かよふこころにうちゑまれつつ


     万葉集
 いそのかみふるごとながら新しき
   歌のしをりとなるはこのふみ

      しをり=道しるべ

 古の人のいたつきおもふにも
   あだには聞かじひと言をだに



  

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貞明皇后御歌21

    


東久邇宮聡子夫人(大正天皇の義理の妹)の回想によると、「大正天皇さまが、葉山でお崩れになった時、わたしは、その場に居合わせたのですが、天皇がお崩れになると、時を移さず摂政宮さまが天皇のお位におつきになったわけですが、それと同時に節子さまは、これまでの皇后の席をさっとお下りになって、その瞬間から皇太后になられました。そのご進退のあざやかさは、ほんとにお見事というほかはありませんでした」(『貞明皇后』主婦の友社)

 そして、明くる昭和2年2月7日、新宿御苑の葬場殿で御大葬が行われ、節子皇太后は宮中から青山東御所にお移りになった。さらに、3年後の昭和5年5月に、皇太后のために新しい御殿が造られ、これは大宮御所と呼ばれるようになった。

 大宮御所には、皇太后の思召しによって別棟として拝殿と御影殿(みえいでん)が造営された。御影殿というのは、絵に堪能であった入江為守(ときに皇太后宮大夫)に大正天皇の在りし日のお姿を描かせた肖像画〈御影さま〉を、部屋の正面に掲げたからである。以後、ここで皇太后は一日も欠かさず、四方の神様と御影さまを御礼拝された。

 御影さまのご前には、季節の果物やお水、お菓子、献上物、そして日々の新聞を供えられていた。御起床の後、「ご洗面、お髪あげのあと、朝食はおとりにならず、わずかに梅干しと白湯を召しあがるだけであった。そのあとすぐに衣服をお正になり、御影殿にお入りになりなるのであった。」そしてお昼近くまで、端坐したまま長時間、皇太后は御影さまに向かって、国内外の出来事などを語っては、ご祈念なさり、あるいは観音経や時には御詠歌を誦しておられたとも。

 河原敏明氏によると、「貞明皇后は大正天皇崩御のあと、生涯喪服のような黒一色の、ロングドレスを着用しつづけた。また、毎朝二、三時間は必ず天皇の霊を祀る〈御影の間〉にこもり、日々の出来ごと、宮廷の消息などを生きる人に対するよう、声をあげてご報告するのが日課であった。」そして、それは貞明皇后の第四皇子崇仁親王(三笠宮)には実は双子の妹がいたが、男女の双子は縁起が悪いとして、ひそかに遠く奈良の寺にやり、尼僧にしてしまった。彼女には作られた戸籍と名前が与えられ、後年華道の師匠としてのみ、時々は僧院の外に出ることがあったという。節子皇太后の御影さま御祈念の裡にはこのことに対する懺悔もあったのではないか、と示唆している。(『天皇家の隠し子』)

 そして、この方、格調高い尼寺(歴代門跡は皇女か王女である)で生涯を過ごされたこの方は、河原氏の執拗な追及に最後まで屈せず、三笠宮殿下の妹であることを否定され続けたそうですが。まあ、俗世に生きるわれわれが、俗世を断ち切った方の御心をあれこれ忖度しも、無駄であること、つまり見当違いになること間違いなし。いずれ、われわれ世俗的人間の助平根性が明るみになるだけですな。

 1928年(昭和3年)~30年(昭和5年)から

     春窓
 窓の戸を立ちてひらけばまちけりと
   いはぬばかりに梅が香の入る


   五月のはじめ古き御代御代のみかどの大御筆を拝みて
 現世のわづらはしさをよそにみて
   み筆のあとに一日したしむ


     首夏風
 こがひしてほてりし顔をひやさむと
   いづればすずし初夏の風


     捨子
 ひろひあげてはぐくむ人のなさけこそ
   すてし親をもひろふなりけれ


     鳥
 御影どのに仕へまつらく思ふらむ
   みはしにちかく小鳥きにけり


     俚謡
 ひなびたるふし面白く村々の
   昔がたりをうたひつたふる


     富
 世の人にひろくたからをわかつこそ
   まことのとみと言ふべかるらめ


     虹
 よびかくる童の声に空みれば
   かけわたしたり虹の大橋


     女郎花
 薄ぎりのきぬぬぎすてしをみなへし
   おもはゆげにも見ゆるなりけり


     江辺鷺
 のりすてし葦間の船に立ちながら
   入江の波を鷺の見つむる


     神をいのる
 大神によごとまがごと聞え上げて
   清き心にみさとしいのる


     歌会
 をりをりの花に紅葉にうたむしろ
   開きてこころのぶるたのしさ

     むしろ…歌会などをする場所

     旅
 あがた人こころ尽くして迎ふれど
   むくいむすべもなき旅路にて

     あがた…地方、田舎

     古渡雨
 川しもに橋のかかりてさびれたる
   古き渡りの雨の夕ぐれ

       渡り…渡し場

     心
 清くあれうつくしかれと願へども
   にごりやすきは心なりけり


     法律
 定めては又あらたむる人の世の
   おきては何れまことなるらむ


   大正天皇神去りましてより一千日に満ちたる日、
花卉(かき)といふことを
 御影どのにうたひ上げたる言の葉の
   花なつかしく千代もかをらむ


     同じ日たばこを
 身のつかれ心のなやみやはらげて
   たばこは人によきくするなり


 そういえば、大正天皇はヘビースモーカーであられたと思う。

     読故人書
 ふる人のま心うれしわがために
   かきのこしたる書ならねども


     秋田
 ゆたかなる色こそみゆれ雨かぜも
   時にかなひし秋の田のもは


     身
 うまるるもまかるも神のみこころと
   さとれば安し世をすぐすにも



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『椿の局の記』

山口幸洋氏の『椿の局の記』は、大正天皇・皇后のもっともお側近くに仕えていた女官の思い出話で、天皇皇后の日常を臨場感あふれる言葉遣いでかかれている。

 大正天皇は漢文の素読に長けていて、漢詩をつるのも非常に速いのを目の当たりにして、この椿の局が驚いたことを以前に紹介したけれど、ほかにも面白いエピソードがある。

 この椿の局の父が鎌倉に住んでいた頃の話。葉山(御用邸)へお供した時、大正天皇は局の父が鎌倉に居ることをよくお知りになっていて、あたくしに「ここからならおでーさん(父)とこ近いだろ、おでーさんた所へ行ってきたか」と仰せんなる。「はい、まああの近いでございますけれど、まだよう参りませんでございます」ったら、「こういう近いとこ来た時、皇后さまにお願いしていくといいよ」って仰せんなる。そういう所までお気つけて頂いてね「ありがとうございます」言うと、またしばらくすっと、「行ったか」っと仰せんなるです。で、「まだよう参りません」って。今度は「どうして行かないのか」って仰せん、「こんなに近いところまで来て、どうして行かんのか」って仰せんなってね、その内に父が拝謁に上がったもんで良かったんですが、また何べんもおたずね頂くんですよ、…」

 このよく気が付いて、しつこいところが、じつに大正天皇らしく、小生思わず笑みがこぼれてくる。

 また大正天皇はとてもおちゃめだった。夕ご飯前にちょっと時間があって、侍従や女官たちが、廊下で御膳が出てくるのを待っているあいだ、大正さんが、「おお、まぶしいぞ、ライトを消せ」と仰る。それは、侍従の何とかさんと、お医者の何とかさんの頭が禿げて光っていることを言った、とか。

 また、天皇は犬が大変お好きで、沢山の大型犬を飼っておられた。それをいっぺんにぱっと放す。女官たちは、きゃあきゃあ言って逃げまとう。それをとても面白がられた。

 お上は、甘いものはあまり召しあがらない、ただ葛だけは召しあがる。そのようなお菓子をみんなに下賜くださるのがお楽しみでした。…あたしはもう、たんと頂くもんで逃げると、手えつかんで下さるもんで逃げて行くわけにもいかなんだ。あんまり下さると、皇后さまが「お目目近目」だもんで、こんな目えして御覧遊ばされるから「お上、もうそれで結構でございます」って言って逃げて行くようにする。(お上は)逃げて行かんようにギャーッと手をつかんでならしゃる。ごちそうでも山のように下さるんですよ。

 御膳召しのおりお給仕の時は、なるべく陰へ陰へ行くようにしてるんですが、お皿持ってこいって言って下さるんです。(お持ちすると)持っている手をがっとおつかみになって、御自分さんのそばから逃げて行かんように押さえて、つかんでならしゃるです。…そうしてお皿いっぱいもうこぼれます言うくらい積んでいただくわけ。そうすると皇后さまがきゅっとごらん遊ばしてんのが、…こう変なお目目でごらん遊ばされるんですね。一時はちょっと御機嫌が悪うてちょっとあのヒステリーみたいにおなり遊ばしたことあるんですよ。

 お上に、あまりに馴れ馴れしくされたときは、皇后さまはとても恐かったみたいだが、それ以外の時は、とても優しくしていただいた。「あんなに今恐ろしいことをおっしゃってならしゃたおみ口で、又こんなにかばって頂いてもったいないと思って、申し訳なかったんと思うと、もう涙が出て、お傍に出られなくなるんです。」

 牧野伸顕をはじめ、周囲の人たちを感嘆させるほどの聡明な方であられた節子皇后も、女性であることには変わりはない。

       観蓮(大正12年)
 なやましき夜半をすぐして池水の
   すめるこころに蓮の花見る

 お上が椿の局にあまりに馴れ馴れしくするので、皇后に遠慮して、権典侍(お側仕え、明治以前なら側室のこと)から命婦(奥の事務方のような仕事)に移してもらうようにしていただいたそうだ。

 大正天皇はとても心やさしい人で、昭憲皇太后(明治天皇の妻、大正帝の実の母ではない)をとても大事にしていた。「階段の、お自分さんのミヨ(足)がお悪いのに、御自分さん後ろ向きにお階段のおしたへお下り遊ばして、お手手こうお持ち遊ばしてね、…「お危のうございますよ・・・」って仰せんなって、おいたわり遊ばすんですよ。そうするとあの昭憲皇后さま、お涙ためて「恐れいります」いわしゃって、うんとにお美しいですね、・・・。

 ふつう天皇はたとえ母に対してでも、そのようにしないが、大正天皇は、そのような習慣に縛られることはなかった。

また、大正天皇は仕事にはとてもご熱心で、たとえお食事中でも、仕事上の(政治の)面会などがあれば、自らすぐ執務室に足を運ばれた。相手を待たせるか、来させるかすればいいものを、…と椿の局は不思議に思った、と。

また、新嘗祭や月初めの御神事を行われるさいの、じつに繊細きわまりない清めの準備があるのには驚かされる。このような不眠不休の作業が常に行われていることをわれわれは知らない。

 「おやすみの日はあらしゃいませんよ。日曜なんて私らのとこの国ではないんです。…だからみんな大祭やいうて遊びに行ったり、長長なって(寝て)らっしゃると、もったいない、お上はお休み遊ばされない、御寝も遊ばされんで御自分が神様の御用遊ばして、国民のために遊ばされるのに、人民は粗末な気持ちで居るって、あたくしがいつも怒るんです。」

 大正天皇は葉山の御用邸で、1926年(大正15年)12月25日に、お亡くなりになった。その年の8月10日、天皇は皇居から車で原宿宮廷駅に運ばれた。その時の様子。

 「だいぶお悪いというので葉山へおともする(お連れする)ことは、よくわかって頂いたんですが、お自動車へね召さすとき、「いや」っと仰せんなった。お自動車が分からんようにお庭の方へ自動車廻して、お庭玄関からずっとお入れしたの。おいたわしい、そんな拝見して、そんなにまでもお連れ申さんかてええのにって、あたくしとか宮内大臣、それこそ食ってかかるっちゅうか、けんかずくでね申しあげたことあります。何かきっとどっかで相談あったんでしょうと思いますね。

 自動車へは(お上を)そのごと(そなまま)じゅうっとお入れしたんですもんで、(立った格好で)おズボンを見えさすのに、こういう風にお抱えして、ほいでおミヤ(足)へおズボンこうしてあげたですもんでね。途中でまたおチョーズ(小便)がおいでんなりたいといかんからって、お袋あげてね、だから地獄の責苦ですわ。もったいなくってね、なぜそういうこをしてお連れましなきょならんのか、皇后様、良いっていうこと仰せんならなかったです。侍従さんもみんな反対、入江さん(侍従)はじいのかみ(おじいいさん)でしたが、(その反対に対する)御返答伺ってないまま、お連れまししたんだって仰ってました。…」

 「葉山の御用邸は澄宮様(三笠宮)のおややさん(赤ちゃん)の時に御別邸ならいしゃったとき出来た御別邸ですもんでね、お詰めするのにも人の寝るとこも、坐るとこもないくらい、御殿としちゃあ狭いとこです。…あたしたちも注射さしあげられるようにちゃんとしました。お側にお注射器を揃えて、消毒してお戸棚置いてみんな入れて用意してはりましたでね。…皇后様は、崩御んなるまでお召(着物)をお解き遊ばす間もなしで、お側離れずずっとおつき遊ばしてました。…でも御寿命ですからね、お若いときからおつとめ一途に、ただもう御無理ばっかし遊ばされて御体力がお弱りんなったのがご病気の始まりだったし、秩父宮様が「人事をつくした」って仰せになった通りでしたと思います。・・・


    

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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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