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貞明皇后御歌25

 

1933年(昭和8年)といえば、2月に日本が国際連盟を脱退。その後の事実を知っているわれわれには、もう2・26事件、日中戦争の足音が聞こえてくると言ってしまいたくなるときではある。しかし12月には、めでたし、明仁皇太子(現今上天皇)がご誕生。

     寄道祝
 人の世に栄えて久しうつくしく
   あやにたふときすめ国の道


 さきにほふ春の花より美しき
   手わざのみちのいやさかえゆく


  昭和9年 社頭雨 
 神そのはしづかにあけてみやしろの
   朱(あか)の玉がき雨にけぶれり


 虫のこゑあふるる庭に大空の
   星よりおつる風のつめたさ


 1936年(昭和11年)2・26事件 ベルリンオリンピック 日独伊防共協定 
 この年、貞明皇后で忘れてはならないのは、全国の灯台守に、金一封を下賜され、それでもってラジオ受信機を200台を辺鄙な灯台に設置することができた。その時お添えになった御歌。

 荒波もくだかむほどの雄心を
   やしなひながら守れともし火


 守る人やいかにさびしき霧ふかき
   離れ小島のともし火のもと


 船まもるこころのひかりさしそひて
   海原とほく照らしゆくらむ


 そもそも貞明皇后と灯台守との出会いは、大正12年5月のことであった。御病気の天皇のご看病で葉山御用邸に滞在中、三浦半島周遊をされた。そのとき半島の先端にある観音崎灯台を御訪ねになった。この灯台は明治の初めに建てられたわが国初の近代的灯台ということで有名であるらしい。

 このような辺鄙な場所に皇后が来訪されて、当時の吉岡台長は感激し、灯台守の生活についていろいろお話になった。灯台守という仕事の孤独や辛さをお知りになったからには、なんとか助力をしなければというお気持ちが、それ以後去ることはなかった。

 ちなみに、2006年(平成18年)、五島列島の女島灯台が自動化されて、日本からいわゆる灯台守が消えたそうだ。

 昭和12年 冬眺望
 一まちにつづく野中のかれくさに
   うすき日さしてながめ淋しも


     社頭虫
 みやしろになく虫の音は神楽にも
   たぐふと神や聞こしめすらむ

     たぐふ=寄り添う、呼応する

    たばこといふ題をよみける折に
 大御手にとりて臣らに賜はりし
   御かげしのびてたばこを見つむる

    
 つねに何かにつけ大正天皇の面影が浮かんできたのでしょうが、それを直接歌われることはめったにない。大宮さま(貞明皇后)は、この頃は宮中のしきたりを守らねばとお考えであったようだが、他方つねに新しいことや、海外事情を知るのがお楽しみであった。

 ご自分ではついに外国に行かれることはなかったが、次の歌はこの年に英国に訪問された秩父宮殿下、妃殿下をお思いになった歌である。

    海外旅行
 新しく知る楽しさのおほからむ
   日数かさぬる外国の旅


 御国たみいたるところにいそしみて
   さかゆくさまを見てかへらなむ



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メダカ日記

4月4日、蓮の土変え、根の間引きをするため、昨年からいるメダカを数えると、約70匹。これらを4つの鉢に分ける。

4月7日、大量の卵が藻に付着しているのを発見。ただちに、これらを取って、水槽に移す。

4月13日、孵化した稚魚発見! 毎日たくさん産卵する。

4月17日、稚魚28匹となり、日毎に増える。以後、毎日30個くらいの卵を取る。それらを入れるプラスチック容器を大量に集める。

5月1日、孵化数100匹はるかに超える。

5月15日、もう収拾がつかず。5月2日までに孵化した200匹くらいをまとめてたらいに入れる。これらが、ぜんぶ育ったらどうしよう・・・と不安がつのる。

     稚魚


5月27日、稚魚少し死んでいる。その後、毎日少しずつ死んでいく。これなら増えすぎないだろうと、むしろ安心する。

6月5日、たらいに入れた第一期生(5月1日までの卵から孵化したもの、大きいのは長さが1cmを超えている)を、彼らの親がいる火鉢に移す。すると、どうだ、親は稚魚をがぶがぶ食べる!・・・結局生き残ったものは、たった4匹!
うっかりしていた、めだかは非常に貪欲なことを忘れていた! しかし、後の祭り。

     めだか火鉢

餌をやると、激しく寄ってくるところ。

よって、第二期生以後は、平均 身長7mmを超えたら、親のいる鉢に戻そうと考えた。予定日を8月1日と定めた。

7月3日、ところが・・・、大失敗をしてしまった! 毎日、鉢の水を足すため、また冷やすために、水を補ってやるのだが・・・、この日の朝、一期生を戻した火鉢のメダカが全員死んでいる! ちょろちょろでも一晩水出しっぱなしだったんだ。30匹以上の大殺戮、しかもこの中には最も美しい斑入りもいたのに!
それで、急遽、予定を変更して、第二期生をこの火鉢に全員(約30匹)入れた。

その後も、いろいろアクシデントがあったが、続きはまたにしよう。

とにかく、今年いままでに強く感じたことは、

① メダカの成長は、個体によってそのスピードに大きな差があるということ。

     メダカ大小


およそ100匹いたら、一カ月くらいすると、一番大きいのが一匹・・・これを小生はKINGキングと呼んでいる。それからそれに準ずるのがいれば、それをQueenと呼んでいる、その次のクラスがだいたい数匹いる、これを太守Viceroyと呼んでいる。
つまり、100匹のうちいち早く大きくなる(1cmクラスしかも太い)が5~6匹がいる。なぜか、他のものはなかなか大きくならない。まだせいぜい5mm、そして細い。

②それから、100匹いても、いつの間にか、20匹くらいになってしまう。たぶん死んで、あるいは生きたまま、Kingたちに食われてしまうのだろう。

結論として、メダカも、あのタラコやカニの卵のように、大量に産卵して、そのうちの例えば5%が生き残れば、種が生存し続けるという方針なのだろう。残りは、食われる運命にあるのか・・・。


ついでに、庭にいる虫
 
 
  いらがたち



先日咲いた蓮

  P7141964.jpg  はすとて



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貞明皇后御歌24

養蚕と言えば、古代から皇室は養蚕に関係していたし、1871年(明治4年)に昭憲皇后が御所内で養蚕を復興され、それを引き継がれた大宮様(貞明皇后)は、御結婚以来51年間にわたって養蚕を続けられた。

とはいっても、貞明皇太后は義務として養蚕をしておられてのではない。根っからお好きだったと思われる。蚕をお手に取り「おこさん、おこさん」と言って、頬ずりされていた、とか、大正2年には宮城内に養蚕所を、本丸跡に三千坪の桑畑を造られた。外出から帰られると、何はともあれ、お蚕さんと対面されたとも。

以前に紹介したと思うけれど、大正2年の御歌

    養蚕をはじめたるころ
 かりそめにはじめしこがひわがいのち
    あらむかぎりと思ひながむる


 大正12年4月30日有泉助手とともに養蚕所にて
 一年は早くも過ぎてわがこがひ
    わざまたはじむべき時は来にけり


 同5月5日
あたたけく晴れたる空に心よく
  おちゐてけふは蚕もねむるらむ


 同6月3日養蚕所4号室にて
いとなさにおくれぬといふ床かへを  
 たすくるほども楽しかりけり

   襷鉢巻して頑張っておられる姿彷彿


1932年(昭和7年)になると、明治の終わりごろには、清国を抜いて世界一位に輝いた生糸生産ではあったが、恐慌後生糸価格も暴落し、養蚕業界は大不況に陥った。この年の御歌―

 よきおきて選びさだめてこのわざに   
  なやめる人をとくすくはなむ


 何事もさかえおとろへある世なり
  いたくなわびそ蚕がひするひと


 国民のたづき安くもなるむ世を
  ひとり待ちつつ蚕がひいそしむ


 外国のひとのこころをみたすべく
  よきまゆ糸のとりひきはせよ


このころから日本の人絹織物の輸出が躍進し、いずれ諸外国から輸入制限措置をとられるようになる。

昭和20年、大日本蚕糸会総裁であった閑院宮戴仁(ことひと)親王が薨去し、昭和22年その後継者に大宮さま(貞明皇后)が推挙されるのであるが、そのとき、大宮さま曰く「陣頭に立って本当に働く総裁なら引き受けてもいいが、飾りものの名誉総裁ならお断りする」と。そうして、自ら率先して汗水流し養蚕にいそしまれたとのことであった。




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丸山古墳

たしか去年の夏ごろ、テレビで「NHKスペシャル 知られざる大英博物館」というのをやっていた。明治時代に英国からやってきたガウランドという人の古墳調査と彼が集めたコレクションの話で、内容は詳しくは思いだせないが、当時まだ日本人自身が古墳研究にさほど関心がなかったのであったが、ガウランドは写真を撮ったり、厳密な計測をしたりして、本格的な研究をしたのだった。

 そして、最近この人の残した研究資料をたどって、日本の研究チームが古墳群を詳しく再調査しはじめ、その成果から古墳時代はいかなるものかを明らかにし始めた。そのテレビ番組の内容が本として出版され、知人が貸してくれたので読んだ。面白かったのでこれを書きたい。

 それにしても、大英博物館というのは、世界中の古い物がいっぱい地下の収蔵庫に眠っていて、それらの多くはまだ未調査だというから驚きである。つまりこれから新しい発見がなされうる宝の山である。さすがかつては日の沈まぬ大英帝国だったんだな。ガウランドが英国にもちかえった日本の古墳時代の物は1000点以上におよぶらしい。おかげでこれらからさらに解ることがあるだろうし、いずれわれわれの目に触れる機会もあるだろう。

 ガウランドのおかげである!それにつけて思うのは、つい最近、長崎や津島のお寺から仏像が盗まれ、韓国政府は、犯人の韓国人を擁護して、これはもともと韓国の物だから返さぬと言っているとか。われわれ日本人には理解できない発想だ。日本人のお陰で、あの仏像は美術品としてまた信仰の対象として大切に守られ続けてきたのであって、もし韓国にあったままなら、毀されて捨てられていたに違いない。日本に対して「ありがとう」というべきである、というのは外交感覚がちょっと変な日本人的発想か。

 ロゼッタストーンも、英国人が持ち帰り、トーマスヤングやシャンポリオンの研究のお陰で、解明され、エジプトの歴史が解明されたのであり、大英博物館に大切に保存され、かつ世界中の誰の目にも触れられるようにしてあるのは、結構なことであって、その発見当時はまだ存在さえしなかったエジプト政府がそれを返せと言うのも、ちょっと首をかしげてしまう。

 それはさておき、ガウランドという人は、明治政府が貨幣鋳造のために雇った技師の一人で、明治8年(1875年)、大阪造幣寮の化学兼冶金技師という身分で3年の契約で来日した。が、じっさい日本に滞在すること16年に及んだのは、古墳調査に捉えられてしまったからだ。彼が調査した古墳は400ヶ所を超えるという。

 彼が集めたものは古墳からの出土物、陶棺、須恵器、鏡、馬具、埴輪などであるが、何よりも貴重なのは、彼が撮った写真や非常に正確な測量図や調査メモであって、そのおかげで、古墳のどの位置に何がどのように置かれていたかがわかる。その中でも、彼がとくに詳しく調査したのは、奈良県橿原市の丸山古墳であった。

全長310メートルの前方後円墳で、日本で6番目の大きさである。どうも6世紀後半に造られたもので、つまりいわゆる古墳時代の終わり、前方後円墳としては最後のもので、宮内庁によると〈天皇や皇族の墓の可能性がある陵墓参考地〉となっているらしい。

一般に前方後円墳のばあい、後円部の中心の位置に墓室があって、そこに棺が置かれているが、当時墓室に入り測量できたガウランドの精密な図面によると、この丸山古墳では、どうも墓室は墳丘の中心からだいぶんずれているのだ。なぜか? これが大いに疑問だった。しかし、もう墳丘の入口は判らないし、宮内庁が柵で囲み立ち入り禁止になっている。

 ところがここに大事件が起こった。ときは平成3年(1991年)、雨などにより、墳丘の一角に穴が開いた。その穴に入って遊んでいた少年が石室まで入ってしまい、そこの情況を親に報告した。親もさっそく石室に入り写真を撮った。翌朝の新聞に、一般人が天皇のかもしれない墓の写真を初めて撮ったとの衝撃的な記事が載った。入口は宮内庁の柵より外側だった。この事件によって、宮内庁をはじめ専門家による丸山古墳の調査が始まった。

3Dカメラなど最新機器を駆使して判ったことは、ガウランドの測量の正しかったこと、つまりこの古墳は従来の伝統とはかけ離れた墓室の位置だった。しかも石室は、28.4m×4.1m、日本で最大の石室であって、中に石棺が二つ、石棺の形から推定するに、すこし時代も違っているらしい。そうすると、これは欽明天皇(在位539~571)と堅塩媛(きたしひめ)の墓と考えた方が、時代的にも、大きさからいっても、また『書紀』の記述とも合って、いま宮内庁が欽明天皇陵としている檜隈坂合陵(ひのくまさかあいのみささぎ)は間違いではないか、と考える学者が増えたらしい。もっとも、それ以外の『書紀』の記述からは、やはり檜隈坂合陵が合っている。

とにかく、巨大前方後円墳がこの丸山古墳でもって終わりになったのはなぜか。それは、石室の位置が墳丘中心部とずれていることに関係する。

以前は墳丘の中心から竪穴を掘って(垂直に掘って)、そこに石棺を納め土をかぶせていたそうだ。しかし、この竪穴式からだんだんと横から堀り進めて、中心部に石室を造りそこに石棺を置くという横穴式が、中国から朝鮮を経て日本に入り、6世紀にはいり日本でも横穴式が爆発的に流行してきた。中国や朝鮮は塼(せん)というレンガで石室を造った。ところが、日本は独特で、自然石を重ねて造った。しかし、だんだんと石室を大きくすると同時に、利用する石も大きいものとなっていった。するとどうしても、横穴から大きい石を入れるのが困難になってくる。

丸山古墳のごとき大きな古墳では、もはや中心部に巨大な石を運ぶことができなかった。つまり、グローバルスタンダードとなった横穴式と日本独自の巨大石の室とを一致させる限界を遥かに超えてしまい、ガウランドやその後の調査の通り、かなりのずれが生じたのだった。この時以後、日本人はどちらかを捨てる二者択一を迫られたという。結局この新旧の対立の結果、350年に及ぶ日本独自の一つである巨大前方後円墳が捨てられた。そして行き着くところは、…蘇我馬子の墓が思い浮かぶ。

このころ、日本に仏教が入ってきて、大きな時代のうねりがあり、中国には隋という統一国家が生じ、これまた仏教と律令制度とを強力に推し進め、日本はその余波をまともに受け、遣隋使へと連なってゆく。このことと墓の在り方と関係があるのだろうか。

それにしても、東アジアで竪穴式から横穴式に変わっていったのはなぜだろう。つまり、石棺を入れるだけの狭苦しい墓室を日常の部屋のように広くしようとしたのはなぜだろう。ちょうどエジプトの王たちの墓のように、広い部屋に副葬品を置いたりしたのは? そこで生死感、死後の世界観の変化が起こったのだろうか?

そうしてまた、巨大な石を組み合わせるという日本独自の技術とから、そのずっと後に発揮される城の見事な石組を、小生は連想してしまうが、どうであろうか。先日、再建された本丸御殿の一部公開を見に行った名古屋城、あの石垣の石の組み合わせ、石接の見事さには感心した。


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