スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

伏見院御製

 第92代、伏見天皇。とは言ってもかげが薄い天皇ですね。せいぜい日本史の記憶がよい人は、ああ、鎌倉時代の、あの持明院統と大覚寺統との皇統争いのさ中の天皇だな、と思いだすぐらいでしょう。

 そうなのですね。保元の乱(1156年)の遠因をなした白河上皇いらい、天皇親政はなくなり、上皇が治天の君となって政治を行うようになっていたのでした。

 『風雅和歌集』(1349年)にある伏見天皇御製

 わが国にまたあともなし二返り
  八隅(やすみ)知る名を世に残す人


 わが国にこんなことはまたとない。二回にわたって統治することとなった私。八隅知るとは統治するという意味です。伏見院は7年の間隔をあけて都合17年も統治権をもつことになったのです。

もとはといえば、伏見天皇のお祖父さんである後嵯峨天皇が、優柔不断と言うか、二人の皇子のうち、長男である後の後深草天皇よりも、弟である後の亀山天皇に思い入れがあったために、亀山の皇子である後の後宇多天皇を春宮(皇太子)に指名し、後は知らん、以後は鎌倉幕府にまかせる、なんて態度をとったものだから、皇統が二つに分かれてしまった。

 この二皇統、いわゆる持明院統と大覚寺統は、以後じつに変則的な天皇と上皇の組み合わせが続き、後に後醍醐天皇にいたって決裂し、南北朝の時代に入ります。持明院統は北朝となり、大覚寺統は南朝となります。

 この持明院統と大覚寺統は政治での敵対関係だけではなく、和歌の流派としても敵対するのです。それが京極派と二条派なのですが、それぞれの代表が京極為兼と藤原為世、それぞれ藤原定家のひ孫にあたります。藤原為世率いる二条派が本家でもあり、歌学においても保守本流といえましょうか。

 1310年、『玉葉和歌集』成る。ときに伏見院48歳。京極為兼59歳。この京極為兼という人物は大胆不敵であって、そのため敵も多かったらしく、二回も配流の憂き目にあっている。

 『徒然草』153段に、為兼が六波羅に牽かれて行くのを見た日野資朝が目にして、「あなうらやまし。世にあらん思ひ出、かくこそあらまほしけれ」と言った、と書かれています。

 この為兼が率いる京極派の作歌原理は、心の動きに忠実に表現する、そのためには雅俗新旧、どんな言葉を使ってもよい、とする。いっぽう二条派の藤原為世は、すべての点において『古今和歌集』の風を学ぶべきであり、京極為兼は歌の心をしらぬ心ばかりを先にして、言葉を飾らず、節探らず、姿もつくろわず、ただ実正を読むべきだとして、卑俗におちている云々と攻撃して止まない。

 『玉葉和歌集』は、伏見院の念願の勅撰和歌集で、撰定委員四人の中に京極為兼と藤原為世とが居たものだから、ひと悶着あるのは必定ですね。結局為世が降りたのです。それで、『玉葉集』は京極派和歌集であって、従来の和歌集にならべれば、ずいぶん異彩を放っているのですね。

 小生から見ると、『新古今和歌集』というあまりにも華麗な美の球体から抜け出すことが出来なくなって、息が詰まってきた歌人らが、そのごくわずかな綻びから脱却しようとして見付けた道だったように思われます。

 『あめつちの心』岩佐美代子著 から、その綻びを見つけました。それは、『玉葉集』に入った定家の歌―

 秋の日のうすき衣に風立ちて
   ゆく人またぬをちの白雲


 秋の薄日の中、旅衣を風に吹かせて寒げにゆく人、その人を取り残したまま、風にのってどんどん行く手はるかに遠ざかってしまう白雲―。言葉づかいも、動的なイメージも斬新ではありませんか。

 こういうのびのびした感覚。古典主義絵画が知らなかった印象派の筆使いを思い起こしませんか。ここに京極派の風を感じますが・・・。

 この歌から伏見院は作っていますー

 山風も時雨になれる秋の日に
   衣やうすきをちの旅人 
『風雅集』

 こちらは、旅人の気持ちに移入しようとしていますね。

 ついでに伏見院御製を幾つかひいておきます。

 なびきかへる花の末より露ちりて
   萩の葉白き庭の秋風


 しなやかになびきかえる萩の細枝。こまごまと咲いた花の先端から露が散りこぼれて、萩の裏葉が白く見える。ああなんて美しく吹く庭の秋風だろう。

 雨のおとの聞ゆる窓はさ夜ふけて
   ぬれぬにしめる燈火(ともしび)の影


 しとしとと雨の音の聞こえる窓辺に、燈火に向かっていると、夜が更けわたって、雨でぬれるわけでもないのに暗く沈んだ色になる燈火の光よ。

 田の面より山もとさしてゆく鷺の
   近しとみればはるかにぞ飛ぶ


 ・・・真っ白いから近くに見えて、実は目をこらして見るとはるか遠くを飛んでいるのだなあ。

 いたづらにやすきわが身ぞはづかしき
   苦しむ民の心おもへば


 やはり天皇ですね。ただ安らかに歌を詠んでいらっしゃったのではありませんね。


  
 

  にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『古事記』編纂

今年の式年遷宮は、えらくメディアが騒ぎ立てて、おかげでお伊勢さんも大繁盛、けっこうけっこう。天照大神も何のこっちゃと、またこちらをそっと覗き見したいとおもほしめしたのでは。

あの神韻縹渺たる遷御の儀。あ~ぁ、その場に居あわせたかったなぁ。一ヶ月くらい前、見物できないかと電話で訊いたら、その夜は誰も入れません、とのことであった。しかし、じっさいは、三千人の特別参拝者が見守ったとあるじゃないか。この時ばかりは、政財界の大物とか有名文化人とか多額の寄付者とかが羨ましかったなぁ。小生おさない時分から何の才なく怠け者で、出世できなかったのが運の尽き。

 ところで何故20年ごとに新しい宮を建てるようになったのといえば、持統天皇がそうお命じになったとか。ある先生が仰るところによると、そのころすでに法隆寺は建っていた。それは新建築で、礎石の上に建っている。ところが、神宮はあえて旧様式の掘立柱だ。わが天皇家は最高神アマテラスの子孫である、蘇我氏や物部氏や大伴氏や・・・そんじょそこらの豪族とは違う、最も古くから伝わる高貴な氏族である、と宣言するには、古い様式で立派な宮を建てる必要があった。しかし、この柱の根は腐る、ゆえに20年ごとに建て替えよと。

 ほぼ権力を掌握し、大宝律令、平城遷都を終えてもなお戦争や革命がないとはいえない。力によらずして、権威でもって権力を確実化しなければならない。『古事記』が書かれなければならなかった所以であったと。

 なんじゃ『古事記』はそんなものかと言うことなかれ。天皇家の正統性を否定する者に対して、小生は言いたい、それならあれに匹敵するような作品を作ってみろ、と。

 日本には縄文の昔から、いろいろなお話が伝わっていたであろう。それらを基としてあのような物語を創ったその作話術、創造力、これは文化を生きるべき人間に備わった最高の威力、すなわち権威ではなかろうか。

 『日本書紀』が編纂されのが、『古事記』の8年後ということに、小生は意味を感じてならない。『日本書紀』の、少なくとも〈一書に曰く〉が多く見られる神代の部分、あるいはもっと後の部分まで書紀は『古事記』の創作ノートなのではなかろうか。

 一作品が出来上がってしまえば、それまで集めた多くの基礎資料は捨ててもいい、とは思えど、やはりもったいない、これも残しておけ、として残ったのが『書紀』の、少なくとも前半のような気がする。だからこそ、『書紀』は『古事記』研究に大いに役立つんだ。と言えば言いすぎかな。・・・仏教伝来の欽明天皇以降の『書紀』の充実に対して、『古事記』はあまりにも素っ気ないしね。


 

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

貞明皇后御歌29

1945年(昭和20年)5月24日に、東京の芝、品川、大森、荏原などの城南地区に、明くる25日に、麹町、麻布、四谷などの山の手に、爆弾、焼夷弾の雨霰。当時宮内省総務局課長として現場で働いていた筧素彦氏は、この時の皇居の模様を詳しく書き遺している。(『今上陛下と母宮貞明皇后』)

 「全宮内職員は永年に亘って有事に備え、消防夫を兼任している位のつもりで空襲による火災に備え、設備も器具も衆知を傾け、訓練も永年に亘り真剣に実施してきた。それにも拘わらず、一個の焼夷弾も落下しない宮殿を、一瞬の間に猛焔に舐め尽させてしまったことは、まことにまことに申し訳ないことであり、…」と書いておられる。

 つまり、直接宮殿に焼夷弾が落ちたのではなく、晴天続きで乾燥の極に達していた宮殿の桧材に、周辺の大熱気による熱風が吹きつけ、正殿の廂に火が点いた、それがまたたく間に廊下を伝わって、宮殿全体を燃やしつくしてしまったらしい。

 筧氏は書いている、「俗に〈焦眉の急〉などというが、宮殿の焼け落ちる時の熱さは正に眉が焦げる思いであった。また、あの正殿と豊明殿の銅板葺きの大屋根が炎に包まれて焼き落ちる一瞬の、縁は黄金色に輝く緑色の大火焔の美しさには呆然たる思いであった」。

 「この夜、赤坂の大宮御所もまた無数の焼夷弾の直撃にあって全焼、皇太后陛下(貞明皇后)は危機一髪のところでお文庫(防空室―御殿からはお庭伝いに坂を下りた所にあった)に御避難になった。」

 この時までは、皇太后は大宮御所にお住まいであったが、いざというときには、二か月前に急遽作られたトンネルを通って、御文庫(地下防空壕)にお移りになることになっていた。したがって、この時以降は狭苦しい御文庫での御生活となった。

 ある女官の語る所によると、御文庫では、皇太后は、空襲で死んで逝きつつあるであろう多くの人たちの冥福を祈るために、経机に向かい端坐して、地蔵尊像や念仏文字の朱印をいくつもお捺しになっていたと。

 天皇(昭和天皇)は、空襲警報が鳴るたびに大宮御所の皇太后の身を案じられ、侍従に「おたたさま(母)は御文庫にお移りになっただろうか」と下問され、その確認を待って、御自分も宮城内の御文庫に御動座なさったという。また一方、皇太后も天皇皇后の御身を非常に案じておられたことは言うまでもない。

 そもそも、貞明皇后は、まだ妃殿下であるときから、御長男は将来の天皇となる御身たることゆえ、裕仁皇太子殿下には一歩距離を置いて接しておられた。しばしば、秩父宮殿下以下のお子様たちには母親らしい愛情表現をなされたようであるが、御長男とは気が合わなかったとか何とか言う人たちが、昔も今も同じようにいるが、そうではない、天津日継ぎの皇子に対する態度は母親のそれであってはならないのであって、子供だから大事なのではない。距離を置くとは敬意を示すということである。

 皇太后は、天皇へのお使いを仰せつかわすとき、御使いに対しても天皇へのご口上を仰るときには、御使いに向かい、かならず御起立されて、一区切りごとにお辞儀をなさって、御言葉を述べたという。ましてや、御使いから天皇のお言葉を聴かれる時の御態度も推して知るべし。

   終戦の年 雅楽 明治節
 千年へしもののしらべもすすみたる
    御代にいよいよ栄しめなむ


 小生は、この御歌に充実した御覚悟を感じる。方法は異なるとも、目指すところは昭和天皇と同じである。

天皇は天皇で、戦後復興のために御自分の役割を御自覚され御邁進になったことは、映像などでもわれわれのよく知る所である。そもそも8月9日、ポツダム宣言の発表を受けて、吹上御苑の地下防空壕内で開かれた御前会議。鈴木首相、東郷外相、米内海相、阿南陸相、豊田軍令部総長、梅津参謀総長、平沼枢密院議長、その他4名が列席。

 一億玉砕をもって最後の一矢を報いるか、ポツダム宣言を受け入れて降伏するか、意見は分かれた。そして、「陛下、何卒思召しをお聞かせ下さい」

 「ならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同感である」。

 一瞬の静寂。そして誰からともなく、涙とともに押し殺した声は、すすり泣きから号泣へ、全員の肺腑から流れ出たのであった。

 しかし、大事なことは、陛下の締めくくりの御言葉であった。「こうして戦争をやめるのであるが、これから日本は再建しなければならない。それは難しいことであり、時間も長くかかることであろうが、それには国民が皆一つの家の者の心持になって努力すれば必ずできるであろう。自分も国民と共に努力する」。

 昭和21年1月1日 新日本建設に関する詔書 天皇人間宣言 こんな茶番をされてまで…しかし、皇太后の御歌
    
     松上雪 御会始
 そのままの姿ながらにおもしろく
   降りつもりける松の白ゆき
 

 ゆく道をうづみてつもる雪なれど
   しるべの松はかくさざりけり



   

  にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

古事記神話

西條勉著『古事記神話の謎を解く』を読んで

 文化人類学者によると、世界の神話には、いろいろの類型があるという。そして、古事記のなかの様々な話は何何型の話型だと。
 
 たとえば、スサノヲが八俣の大蛇をやっつけてクシナダ姫とむすばれる。これは、ペルセウスがアンドロメダを食わんとするネプチューンをやっつけるギリシャ神話を彷彿とさせる、これ怪物退治譚。

 アマテラスが岩屋戸に隠れたり、山幸彦が竜宮に行ったりするのは、異郷訪問譚。イザナキが禁止された死体を覗いたり(オルペウス譚)、山幸彦が豊玉姫の出産を覗いてしまうのは、禁室型譚。オホナムチが死んでも再生するのは通過儀礼で、スサノヲから娘を奪うのは難題婿型。

 まあ、他にもいろいろあるのだろうが、昔からずーっと話されていた原初的な挿話(浦島太郎の話もそうであろう)を、巧みに利用して面白い物語にしたのが『古事記』であって、その意図は、新しく誕生した日本という国にふさわしい神話を創りだすことだった、というのが本書である。

 それだから、『古事記』は、奈良時代の初め発表された当時、フルキコトノフミではなく、最新編纂物語であった。これが書かれて〈日本語〉が始まった、それ以前の言葉は〈やまとことば〉であった。〈やまとことば〉で話されていた話を一部は利用し、一部は新しく創作して、〈書き言葉〉で物語として定着させたことは画期的だ。

 著者は、『古事記』はストーリーのためのストーリーであって、本来の神話としては、合理的でいわば出来過ぎている、そこに一貫してつらぬかれている思想は、中国の王権思想だ、と語る。

 それは、天子受命の思想であって、つまり天は有徳者を統治者とする、儒教思想である。しかし中国とは違って、それを起源化し神話化した、つまり固定したんですな、万世一系として。

 ついでにいえば、著者は、イザナキ・イザナミの国生みの初めに、先に声をかけたのがイザナミであったから失敗したという話には、儒教の影響がある、という。この説には小生うーんとうなってしまった。まあ、狩猟採集の時代には男が優位であったのはないのか、と呟いたけれど。

 で、ともかく、細かい話はめんどうで書かないけれど、もともとヤマト神話の空間は、水平的であったが、この創られた〈日本神話〉においては、垂直型になったという。

例えば、葦原の中つ国は、もともと葦原水穂国あるいは瑞穂国、つまり稲作によい湿原地だったのが、天界と地下界との中間、つまりこの地上世界のイメージで置き換えられた。また、黄泉の国が、山の方から地下世界に、理想郷である海の彼方は天界にされた。要するに、水平表象が垂直表象にイメージの転換が行われた、という。

なぜそうしたか。それは先ほど言った天子受命、つまり最高神から天皇が続いていることを創り上げるためである。万世一系というシステムは日本独特らしい。日本が皇統を続けてこられたのは、王権の起源がはっきりと述べられているからであるという。だから、『古事記』の核心部分は、天孫降臨神話である。

さて、そうだとして、これをどうとらえるか。肯定的に捉えるのと、否定的に捉えるのとは、まるで意味がちがってくる。否定的にとらえれば、戦後しばらく風靡した説、権力者が自己正当化のために創った薄っぺらい隠喩物語と切って捨てるということになる。

まあ、いまどきそんなことを言う人はいないだろう。少なくとも『古事記』の表記法が示す如く、当時の人々がいかに国語というもについて、その危機について、今のわれわれが考え及ばぬほど深い問題意識をもって書かれたか如実である。

そして、後世のわれわれは、あの面白い物語―御先祖たちが国家の急務で創らねばならなかったあの面白い物語に、乗るか乗らないかが、問われていると強く感じた。





にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

テーマ : 神話と現象 - ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。