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弥勒菩薩

 先日、京都東福寺あたりに紅葉狩に行ったついでに、太秦の広隆寺に有名な弥勒菩薩像を見に行った。以前から一度は見たいとは思っていたが、雑事の山中で道を失い、行きそびれたいた。たまたま『日本書紀』の推古紀を読んで、これがひょっとして聖徳太子が持っていた仏像かもしれないということを知って、おしりに火がついた次第であった。

 京都をよく歩く知人に訊いてみると、一度行ってくるといいよ、でも仏像はうす暗い部屋の遠くに安置されているので、よく見えないよ、と言う。それで、小生の頭には、広隆寺は小さい寺で、人気のない暗い小さなお堂の、向こうの方に、漆黒の仏具に囲まれ、すきま風にゆれる蝋燭の火にかろうじて照らされながら、一人ぽつねんと坐しておられる姿が思い描かれていた。

 ところが、行ってみると、広隆寺というのは聖徳太子ゆかりの寺として、仁王が守る堂々とした楼門のある寺で、境内は思い描いていたよりもうんと広いものであった。そして弥勒菩薩は、新霊宝殿という大きな建物のなかに、数多の仏像たちと並んで、その中心に坐しておられる。

 なんかドキドキする胸を押さえながらこの建物の中に入った。たしかに、内部は薄暗くしてある。しかし思ったより近くから見れるし、はっきり見える。仏像は十二神像、四天王像など、飛鳥から鎌倉時代にかけての傑作群だ。これほどの仏像群がそろっているのは、小生の知っている範囲では、奈良の興福寺と大宰府の観世音寺だ。

 仏像と書いたが、あやうく作品と書くところだった。すばらしい作品と言って何がいけない、とは思うのだが、仏像には作品と言いにくいものを感じる。なんでやろ、と考える。

 やはり、そこに仏が宿っている、そして仏とはわれわれを救ってくださるものだ。その仏像は向こうから差し出されている力の象徴と感じるからじゃないのかな。

 いっぽうそれは人に似せて作られている、だからそれを作品と感じないのではないか、とも考えられる。しかし、人とは何か。われわれは人の顔や姿を見て何を見ているか。それは、その人との感情的関係、好意的か敵対的か無関心か、そしてその人はどのような気持ちで生きているかを見ている。われわれは他人を、景色を見るようには見ていない。

 弥勒菩薩半跏思惟像の前に立って思う、何をこの菩薩は考えているのだろう、人を救おうなんて全然考えていないように見える、何か自足した感情、あの世からこの人間喜劇を眺めて面白がっているように見える。もちろん悲哀はない、ましてや侮蔑もない。否定も肯定もない。どこまでも安らかな乳児の眠りのような・・・。

 このような仏像を造った工人が、1400年くらい前に居たのである。いったいこの工人はどんな人だったのだろう、と小生はしきりに想像をめぐらした。

 きっと、朝起きては製作所に向かい、たんたんとノミをふるい、昼にはお弁当を食べ、同僚とよしなしごとを話しあい、笑いあい、夕方には家路に着く。家族との団欒があったかどうか、大酒のみであったかどうか。百済人か二世か、あるいは日本人だったのか・・まあ、そんなことはどうでもいい。

 ただ確実に言えると小生が思ったことがある。それは彼の信仰は単純なものであった、ということだ。彼の頭と手、想像と創造との間に、何も余計なものは介在しなかった。彼の信仰は、頭に思い描いたものと、ノミを持つ手の感触との微妙な調整以外の何物でもない。

 もちろん、菩薩像は彼の思い描いたものである。しかしそれは恣意的なものではない。それは向こう側からやってきたものだ。彼は忠実に実行しさえすればよい。彼は信仰についてまったく余計なおしゃべりをする必要のなかった人だ。


  

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テーマ : 宗教・信仰 - ジャンル : 学問・文化・芸術

仏教伝来

 わが国へ仏教伝来の初出は、『欽明紀』の13年に、百済の聖明王が臣下のヌリシチケイを遣わして、欽明天皇に贈った〈釈迦仏の金銅像一体・幡蓋若干・経論若干巻〉を献上したという記事。

 そこには聖明王の解説も付いていて、曰く、この仏法は諸法の中で最高なのよ、難しいですよ、周公や孔子様だって知らないものなんだ。すごいでしょう。でもね、これを極めれば、悟りを得て浄土にいけるっちゅうぐらいだから、何でも思いのままよ。インドから伝わって、いまや朝鮮半島では大人気なんだ。

 これを見て、欽明天皇は欣喜雀躍、「おお、なんと素晴らしい教えなんだ! だが、これほどの物をわが国に導入するについて、臣下たちに意見を聞いてみるわ。」

 てなことで、蘇我稲目は、「もはや国際スタンダードになっている仏法を入れなければ、わが国は立ち遅れるよ」と、導入に大賛成。他方、物部大連尾輿(おおむらじおこし)や中臣氏らは、わが国は古来から八百万の神々を祀っている、外来の神様を拝むなんて、罰当たりな!」そして、蘇我氏vs物部氏の抗争が露わになる。

この崇仏派と排仏派との争いは、要するに外交がらみの政治闘争なんだけども、肝心の欽明天皇の優柔不断というか、何かすきっとしない態度が、気になるね。

『欽明紀』は、百済・新羅・高句麗の外交駆け引きと戦争の話ばかり、百済と新羅に挟まれた任那も巻き込まれて、結局うまいこと新羅に取られるけれど、まあ、昔から朝鮮人は賢いねえ、それにひきかえ日本人はおっとりしているというか、国際情勢に疎いというか。

百済が再三わが国に軍事的救援を頼みに来ているのに、欽明天皇はのらりくらり、何らかの政治的意図があってその御態度であればまだしも、どうもそうであるとは思えない。しかし家ではどう過ごされているの。皇后である石姫のほかに妃が四人。子沢山でいらっしゃる。失礼ながら数えさせてもらったら、記載されている子供だけで25人。そのうち側近の蘇我稲目の娘さんの子が20名。

こりゃ、将来不穏だね、蘇我氏の勢力が強くなるのは当然じゃない。次の敏達天皇苦労されますよ。

百済の聖明王が、仏像や有り難い法をわが国に献上したのも、もちろん王が篤い仏教信者だったけれど、深い政治的意図があってそうしたに違いない。当時の中国・朝鮮半島の緊迫した政治状況を知るに及んで、その意図が分かった。為政者のだれが善意だけでモノを贈るか。管直人じゃあるまいし。

梅原猛著『聖徳太子』を読んでいて、欽明紀に関する胸の中のモヤモヤが消散したな。

そして、欽明天皇が、蘇我稲目にこころみに仏像を安置し拝ましめた、ところが、疫病がおこり、広まった。物部・中臣連合は、それ見たことかと喜んで、天皇に仏像を捨てましょうと進言、欽明天皇「よきにはからえ」。

その後も疫病が、おそらく天然痘だったらしいけれど、続いたんだね。結局、欽明天皇も、次の敏達天皇もそれに感染して命をおとすのだけれど、立場によって理屈は何とでもつけられる。仏像を拝んだのがいけなかった、他方仏像を捨てたからいけない。

面白いのは、あれほどの仏教熱烈導入者の蘇我馬子が後に疫病にかかったとき、どうしたか。まず占いをしてもらったのだね、直接仏に縋ったのではなく、古来の占いでね。


  

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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『エフゲニ・オネーギン』

 METライブ・ビューイングで『エフゲニ・オネーギン』を観た。歌手たちはMETで今をときめく名トリオらしく、申し分なかったとの評判であった。

 小生は何より舞台演出がよかったと思う。背景の林がロシアを、チャイコフスキーを強く感じさせた。森というほど鬱蒼としていず、つまり木々は大きいのだが、間引きをしたのか自然にそうなったのか知らないけれど、木と木の間隔が広く、比較的明るい林って感じ、これがよかった。広大な原野と林これがロシアだと思った。

 幾人かの召使がいる比較的裕福な家庭の屋敷が、こういう広々とした林の近くに点在している。ここに住む人たちは、毎日のように林の空気を吸いながら散歩し、読書し、木を眺める。親しげな眼差しを太い幹から高い枝に、そして風に微かに揺れる葉に向ける。梢の先には空がある。この空の明るさはロシア人たちの憧れの象徴だ。

 いつもチャイコフスキーの音楽について、小生は個人的な思い入れがあって、つねづねどう考えたらいいだろうと思い悩んできた。チャイコの音楽には、いろいろな空想や思い出がまつわりついて、妙な言い方ではあるが、いい音楽なのか悪い音楽なのか、判定ができないでいた。

 ちょっとこういうことに近いかな。太宰治の作品は、小生は若いときに読んで共感するところが大いにあったが、むしろそれゆえにと言ったらいいのか、嫌いになった。小生は太宰は嫌いだと公言していた。しかし、ある年齢になって、なかなか古風でいい感じだと思うようになった。しっかり読み返したわけではないけれど。

 チャイコは、なんでか子供の時からよく耳にした。青年期は好きで何度も聴いた。しかし、まもなくとてもセンチメンタルな感じがして、チャイコ好きを恥じるようになったんだな。しかし、いつしかまたなかなか面白い、ロシアの伝統音楽が充満しているのではないかな、と思うようになった。

今回、『オネーギン』を聴きながら、一言でチャイコを評するとしたら、どう言えばいいだろう、と考えていた。そして思ったのが、ロシア的な憬れと諦め、という言葉がでてきた。そうだ、19世紀のロシアの作家たちの根底にいつも流れていた問題、ロシア人の崇高と陋劣、ペテルブルグと農奴、観念としてのヨーロッパと血に流れるスラブ、この極端な二面の和解しようのない共存。

幕間で指揮者のゲルギエフへのインタヴューで、かれはこう語っていた、「チャイコフスキーのこの音楽は、全編美しい、感傷的なものは全然ない・・・」と。小生はまったく不意を突かれて納得せざるをえなかった。〈すべて〉が美しいのだ。

それから、タチアナの拒絶されたオネーギンの最後の言葉に、自分は悲惨な運命だったというようなことを述べる。ほんとだ、彼もまた、オセロと同じように運命を生きたのだ。そう思うと、ここが音楽と小説との違いかもしれないが、ドストエフスキーの言うタチアナの倫理的勝利などは問題にならない。

ゲルギエフはまたこんなことも言った、旧ソ連時代、学校では『オネーギン』を暗記させられた、そしてこれが大いに役立っている、と。いや、びっくりしたな。偉大な国民的詩人の作品を暗記させるとは、わが国の教育よりずっと立派じゃないか。

オネーギンは叔父から受け継いだ遺産で生きる高等遊民だし、タチアナは公爵夫人になる。二人とも働かずとも生きていける身分だ。しかし、おそらくプーシキンの詩文に表れたロシアの魂は、政治体制はどうあれ、ロシア人にとって必要なものだった。ソ連時代の文化をよく知らずに馬鹿にしていたことは間違っていたな。


    

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兼好法師和歌1

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『兼好法師集』にこんな詞書のついた歌がある。

 東へまかり侍しに、清閑寺(せいがんじ)にたちよりて、道我僧都にあひて、秋は帰りまでくべきよし申侍りしかば、僧都

 かぎりしる命なりせばめぐりあはん
   秋ともせめて契りおかまし


 返し(兼好)

 行くすゑの命を知らぬ別れこそ
   秋ともちぎるたのみなりけれ


 25歳くらいの兼好が、一説によると失意の東下りの際、清閑寺に立ち寄って道我僧都(19歳)に会って交わした歌。兼好が来年の秋にまた寄るからねと言ったところ、僧都は

 もしいつまでの命と判っていたら、再び会うのは秋にしようと約束も出来ましょうが・・・。

 それに対して兼好さんは答える、

 いつまでの命か判らないからこそ、秋に再会しようと約束するのです。

 これちょっと見ると、どうなるか分からない明日を頼みにするなと言うのは、むしろ兼好さんの方じゃないかと思われますね。

ここでは、兼好さんこう言いたいのでは?

 しかし、若いお坊さん、君の言うことは正しいと思うよ、でもちょっと固いんじゃないの。人生は理屈じゃないよ。理屈は普遍的だけれど、〈現実〉はこの瞬間しかないのだよ。それでさ、この現実の瞬間を楽しもうじゃないか。また会うと約束する、それを頼みにすることは、今という瞬間を楽しむことだよ。その時になって当てが外れたら、それはその時のこと。当てが外れることはよくあることだということが腹に入っていれば、べつにそんなに歎くこともあるまいて。

 べつのところで、兼好さんこんな歌も。

 たのもしげなること言ひて、立ち別るる人に

 はかなしや命も人の言の葉も
   たのまれぬ世をたのむわかれは


 おそらく人間は生きていく以上たのまざるを得ないようにできている、だからかな、はかない生き物なのだな・・・。ひるがえって、たのまぬ生き物は、はかないということはない。

 ちなみに、兼好さんは、『徒然草』160段で、この僧の道我という人は古い正しい言葉遣いを知る人として紹介している。


       

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Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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