『背教者ユリアヌス』
辻邦生著『背教者ユリアヌス』を読んだ。あまりに期待し過ぎていたせいか、ちょっと期待外れであった。というより、小生が勝手に描いていた伝記小説とはだいぶん趣が違っていた。
この小説、というより物語と言いたいが、これは何よりも文体に特色があって、読んでいる途中で、ふっと、作者はホメロスを目指していると感じた。それは、言い回しだけではなく、主人公のローマ皇帝をして古代ギリシャへの憧憬の権化と描いているからだ。
彼は生まれつき詩人の魂をもち、人間と自然に対して鋭敏な感性の人であり、いつしか古典文学や哲学に傾倒していった。そんな彼が、不幸にして皇帝になるべき血筋の人であったのだ。
彼が生まれた4世紀のローマ宮廷は、コンスタンティヌス大帝亡きあと、百鬼夜行の巷であり、疑心暗鬼から肉親相殺し合うといった状況であった。ユリアヌス自身も幼いころから、隔離されていて、自分もいつか殺されるという不安を生きていた。
ちょうど鎌倉三代将軍、源実朝とよく似ている。実朝も生まれながらの詩人であり、まったく非政治的な、生まれたばかりの小鳥のような純粋な魂が、自分もまた殺される運命にあると知りつつ、将軍にならされざるをえなかった人であった。『金塊和歌集』に散りばめられた美は、それを読む人から見れば、いわば実存的な悲しみにあふれている。
よく似た星の下に生まれたユリアヌスは、しかしリアリスティックに生きなければならないことに気付く。それはローマ皇帝として戦うべき敵が眼前にあったからだ。一つはローマを脅かすガリア周辺の部族と東方のペルシャである。これに対しては、どうしても武力を必要とする。
ユリアヌスは言う、「ローマの寛容とは、ただ敵や異民族を放置して、その無制限な横暴を見て見ぬふりをすることではない。もしこの寛容の背後に寛容をもたらした精神の火が燃えていないのなら、それは無責任の傍観にも等しい。」
もう一つの敵は、キリスト教である。コンスタンティヌス大帝のキリスト教公認以来、ローマの権力中枢にキリスト教の手垢が付き始めていた。ユリアヌスは、彼らの非寛容、出世欲、冷血、欺瞞の渦巻く空気の中で育った。彼はどうしてもキリスト教徒が好きになれなかった。
「私に言わせれば、ガリラヤの連中の愛しているのは神じゃない、自分なのだ、自分だけなのだ。自分が救われたいのだ。自分が救われれば、ローマなどはどうでもいいのだ。ローマの秩序も制度も道路も水道も・・・」
ユリアヌスは、その反動として、いにしえのローマの神々の世界を、自然そのものが神の息吹であるような世界への信仰を深める。作者辻邦生は、何度も何度も、それを叙事詩として描いている。
辻邦生は、この作品において、主人公をとおして、人間を信じようとしている。それはどういうことかというと、人間を好いものだと見ようと意思している。それはまたどういうことかというと、人間は教義以上のものだということである。
世には、真実在だの、善いことだの、人生の奥義だのについて言われた、あるいは書かれたものが数多あるであろう。しかし、人間は、それ以上の者である、と作者は言っているように見える。
この本には、自然の描写がやたらに多い。繰り返し言葉を換えて、例えば、コンスタンティノーブル(いまのイスタンブール)の王宮から見える景色、北風の香、その暖かさや冷たさ、眼下のボスポラス海峡のさざ波や逆巻く波、木々や雲の変化など。これらは、みな神々の恵みなのだ。そして人間も。古のローマの神々の恵みなのだ。
ユリアヌスのリアリズムは、ローマという理念があってこそなのである。


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この小説、というより物語と言いたいが、これは何よりも文体に特色があって、読んでいる途中で、ふっと、作者はホメロスを目指していると感じた。それは、言い回しだけではなく、主人公のローマ皇帝をして古代ギリシャへの憧憬の権化と描いているからだ。
彼は生まれつき詩人の魂をもち、人間と自然に対して鋭敏な感性の人であり、いつしか古典文学や哲学に傾倒していった。そんな彼が、不幸にして皇帝になるべき血筋の人であったのだ。
彼が生まれた4世紀のローマ宮廷は、コンスタンティヌス大帝亡きあと、百鬼夜行の巷であり、疑心暗鬼から肉親相殺し合うといった状況であった。ユリアヌス自身も幼いころから、隔離されていて、自分もいつか殺されるという不安を生きていた。
ちょうど鎌倉三代将軍、源実朝とよく似ている。実朝も生まれながらの詩人であり、まったく非政治的な、生まれたばかりの小鳥のような純粋な魂が、自分もまた殺される運命にあると知りつつ、将軍にならされざるをえなかった人であった。『金塊和歌集』に散りばめられた美は、それを読む人から見れば、いわば実存的な悲しみにあふれている。
よく似た星の下に生まれたユリアヌスは、しかしリアリスティックに生きなければならないことに気付く。それはローマ皇帝として戦うべき敵が眼前にあったからだ。一つはローマを脅かすガリア周辺の部族と東方のペルシャである。これに対しては、どうしても武力を必要とする。
ユリアヌスは言う、「ローマの寛容とは、ただ敵や異民族を放置して、その無制限な横暴を見て見ぬふりをすることではない。もしこの寛容の背後に寛容をもたらした精神の火が燃えていないのなら、それは無責任の傍観にも等しい。」
もう一つの敵は、キリスト教である。コンスタンティヌス大帝のキリスト教公認以来、ローマの権力中枢にキリスト教の手垢が付き始めていた。ユリアヌスは、彼らの非寛容、出世欲、冷血、欺瞞の渦巻く空気の中で育った。彼はどうしてもキリスト教徒が好きになれなかった。
「私に言わせれば、ガリラヤの連中の愛しているのは神じゃない、自分なのだ、自分だけなのだ。自分が救われたいのだ。自分が救われれば、ローマなどはどうでもいいのだ。ローマの秩序も制度も道路も水道も・・・」
ユリアヌスは、その反動として、いにしえのローマの神々の世界を、自然そのものが神の息吹であるような世界への信仰を深める。作者辻邦生は、何度も何度も、それを叙事詩として描いている。
辻邦生は、この作品において、主人公をとおして、人間を信じようとしている。それはどういうことかというと、人間を好いものだと見ようと意思している。それはまたどういうことかというと、人間は教義以上のものだということである。
世には、真実在だの、善いことだの、人生の奥義だのについて言われた、あるいは書かれたものが数多あるであろう。しかし、人間は、それ以上の者である、と作者は言っているように見える。
この本には、自然の描写がやたらに多い。繰り返し言葉を換えて、例えば、コンスタンティノーブル(いまのイスタンブール)の王宮から見える景色、北風の香、その暖かさや冷たさ、眼下のボスポラス海峡のさざ波や逆巻く波、木々や雲の変化など。これらは、みな神々の恵みなのだ。そして人間も。古のローマの神々の恵みなのだ。
ユリアヌスのリアリズムは、ローマという理念があってこそなのである。


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転生3
そもそもわれわれは、観念の世界に住んでいるというより、じっさい異界にも住んでいるのである。
こんな例を聞いたことがある。ある人は全く学んだことがない言葉を、あたかも催眠術にかかったように、話すことがある。通常の意識においては、その言語を理解することがないにもかかわらず、である。しかもその話は出鱈目ではなく、ちゃんと筋が通った話だそうだ。
そんなことがあるとしたら、その人のそのときの脳の状態はどうなっているのだろう。発話のもっとも根源的な脳の部分は、いったい何所と繋がっているのだろう。
デカルトは、精神界と物質界とは、脳の中の松果体ってところで、繋がっているとした。デカルトほど厳密に考えない近現代脳科学者は、脳内の神経ネットワークの発火現象が知覚や感情すなわち精神であると漠然と思っている。しかし、そんなことはかつて一度も証明されたことがない。
以前にも書いたことがあるけれど(2010年8月『お盆』)、小生の親しく付き合っていた知人Tがいた。T氏は宗教家であって、数年前に亡くなったのだけれど、生前自分はある人の生まれ変わりだと言っていて、亡くなる前に、T氏自身の名前の墓と前世の人の名前の墓を造らせた。
T氏は、テレビドラマの新島八重のような、素直で率直で大胆かつ繊細な魂の女性であった。そんな人が、昭和30年ころのことだけど、連れ合いの放蕩無頼についていけず…ついに自殺を何度か試みたのだけど、なぜか死なない。とうとうおかしくなって、大声で町を走り…今でいう統合失調症に、なってしまった。その後、自分の中に神様が入った、かくして自分は宗教家の道を歩み始めたと言っていた。
この神様が入ったということだけれど、じつはそれは、戦前に活躍していた宗教家で、昭和17年ごろだったかに亡くなった山田梅次郎氏(の魂)が自分に入ったのだ、と後で聞いた。
つまり、これが転生と考えられるなら、人は死んだ後でなくても、生きている時でも、脳が極度の変調をきたしたとき、あるいはニュートラルの状態になった時、今の言葉では初期化されたというのか、ふっと他の魂が入ることがある、ということにならないか。
パラレル・ワールドなんて言葉を聞くけれど、われわれは、なぜかこの物質世界において生きなくてはならないが、自分という意識を生きている世界は物質界ではない。のみならず、全く時空を異にするとは限らない並行した意識界があって、なんかの拍子に、ふとそれと交わることがある。そんな気がする。


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こんな例を聞いたことがある。ある人は全く学んだことがない言葉を、あたかも催眠術にかかったように、話すことがある。通常の意識においては、その言語を理解することがないにもかかわらず、である。しかもその話は出鱈目ではなく、ちゃんと筋が通った話だそうだ。
そんなことがあるとしたら、その人のそのときの脳の状態はどうなっているのだろう。発話のもっとも根源的な脳の部分は、いったい何所と繋がっているのだろう。
デカルトは、精神界と物質界とは、脳の中の松果体ってところで、繋がっているとした。デカルトほど厳密に考えない近現代脳科学者は、脳内の神経ネットワークの発火現象が知覚や感情すなわち精神であると漠然と思っている。しかし、そんなことはかつて一度も証明されたことがない。
以前にも書いたことがあるけれど(2010年8月『お盆』)、小生の親しく付き合っていた知人Tがいた。T氏は宗教家であって、数年前に亡くなったのだけれど、生前自分はある人の生まれ変わりだと言っていて、亡くなる前に、T氏自身の名前の墓と前世の人の名前の墓を造らせた。
T氏は、テレビドラマの新島八重のような、素直で率直で大胆かつ繊細な魂の女性であった。そんな人が、昭和30年ころのことだけど、連れ合いの放蕩無頼についていけず…ついに自殺を何度か試みたのだけど、なぜか死なない。とうとうおかしくなって、大声で町を走り…今でいう統合失調症に、なってしまった。その後、自分の中に神様が入った、かくして自分は宗教家の道を歩み始めたと言っていた。
この神様が入ったということだけれど、じつはそれは、戦前に活躍していた宗教家で、昭和17年ごろだったかに亡くなった山田梅次郎氏(の魂)が自分に入ったのだ、と後で聞いた。
つまり、これが転生と考えられるなら、人は死んだ後でなくても、生きている時でも、脳が極度の変調をきたしたとき、あるいはニュートラルの状態になった時、今の言葉では初期化されたというのか、ふっと他の魂が入ることがある、ということにならないか。
パラレル・ワールドなんて言葉を聞くけれど、われわれは、なぜかこの物質世界において生きなくてはならないが、自分という意識を生きている世界は物質界ではない。のみならず、全く時空を異にするとは限らない並行した意識界があって、なんかの拍子に、ふとそれと交わることがある。そんな気がする。


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転生2
また、こんな風にも考えられる。
これもずいぶん前に読んだ大川隆法氏の本だが、ここにあった、カフカは荘子の生まれ変わりだ、という文句に、ニヤっとさせられたものだが、またカントはプラトンの生まれ変わりだという文句を見て、これには考え込んでしまった。
プラトンは、われわれの見ている世界は影にすぎない、真実在は見ることができないと語った。しかし、そう語ることによって、つまり影を通してであってもじつはわれわれは真実在に触れている、と小生は解したいのだが。
有名なイデア論。点は位置があって大きさのないもの、線は長さがあって太さがないもの、と頭では理解している。われわれは、こんなものを生まれて一度も見たことがない。それにもかかわらず、幾何学を解くとき、紙の上に鉛筆でもって点や線を描きながら、それを見たこともない点や線として捉えている。すなわち理想的なイデア(観念)の世界を、頭の中で考えている。
老若男女、すべての世界中の人が、決して見ることができることがない観念の世界を共有している。われわれは直接触れることができない世界を考えながら生きている。
こんな当たり前な生き方を不思議と感じ、幾何学はどうして客観的実在性をもつか、また、われわれの経験はどうして可能か、を徹底して問うたのはカントだった。彼は、われわれは、時間・空間という、先天的な(経験に先立つ)形式を通してしてしか物事を認識できない。われわれは、この形式を通してしか物事を認識できない。われわれは物自体(真実在と言い換えてもいいだろう)を直接認識することはできない、となる。
まあ要するに、言いたいことは、二人ともわれわれの認識できる範囲とか、生きている領域を問題にした。そしてその問題を生涯考え続けたとしよう。
そういうことからたまたま連想したのだけれど、もし人間の生が、食べて寝て排便して性交することが、その本質ではないとすれば、同じ問題を生きた二人の人間は、たとえどんなに時空を隔てていたとしても、その二人は生まれ変わりだと言えるのではないか。


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これもずいぶん前に読んだ大川隆法氏の本だが、ここにあった、カフカは荘子の生まれ変わりだ、という文句に、ニヤっとさせられたものだが、またカントはプラトンの生まれ変わりだという文句を見て、これには考え込んでしまった。
プラトンは、われわれの見ている世界は影にすぎない、真実在は見ることができないと語った。しかし、そう語ることによって、つまり影を通してであってもじつはわれわれは真実在に触れている、と小生は解したいのだが。
有名なイデア論。点は位置があって大きさのないもの、線は長さがあって太さがないもの、と頭では理解している。われわれは、こんなものを生まれて一度も見たことがない。それにもかかわらず、幾何学を解くとき、紙の上に鉛筆でもって点や線を描きながら、それを見たこともない点や線として捉えている。すなわち理想的なイデア(観念)の世界を、頭の中で考えている。
老若男女、すべての世界中の人が、決して見ることができることがない観念の世界を共有している。われわれは直接触れることができない世界を考えながら生きている。
こんな当たり前な生き方を不思議と感じ、幾何学はどうして客観的実在性をもつか、また、われわれの経験はどうして可能か、を徹底して問うたのはカントだった。彼は、われわれは、時間・空間という、先天的な(経験に先立つ)形式を通してしてしか物事を認識できない。われわれは、この形式を通してしか物事を認識できない。われわれは物自体(真実在と言い換えてもいいだろう)を直接認識することはできない、となる。
まあ要するに、言いたいことは、二人ともわれわれの認識できる範囲とか、生きている領域を問題にした。そしてその問題を生涯考え続けたとしよう。
そういうことからたまたま連想したのだけれど、もし人間の生が、食べて寝て排便して性交することが、その本質ではないとすれば、同じ問題を生きた二人の人間は、たとえどんなに時空を隔てていたとしても、その二人は生まれ変わりだと言えるのではないか。


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転生1
転生ということを人はいつ頃から考えるようになったのだろう。時間ワープの話、浦島子(浦島太郎)の物語と同じように、〈ずっと昔から〉人々は、夢や生まれ変わりの話を好んでしていたのだろう。
転生を主題にした文学と言えば、平安時代の『浜松中納言物語』がまず浮かぶが、読んだのはずっと昔で、内容も複雑で忘れてしまったが、主人公の父だったかの生まれ変わりが、唐にいると聞いて、その人(まだ子供だったかな)に逢いに行って、話が展開したように漠然と記憶する。
そして、夢と転生を主題にした4編からなる物語『豊饒の海』を書いた三島由紀夫は、この作品は『浜松中納言物語』を典拠にしたと明かしている。三島のこの物語の三人の主人公たちは若くして死ぬのだが、彼らが転生者である証拠は、脇の下にある三つのホクロである。
この身体的特徴。小生はある時から、〈あざ〉という身体的特徴が、とても気になっていた。
先日、テレビで現代科学でも説明がつかない不思議な現象シリーズというのを見た。ユリゲラー、霊的怪奇現象や予知能力っていうのをいろいろやっていた。そのなかで、アメリカのヴァージニア大学だったかで、世界中の生まれ変わりと思われる例を集めて研究している先生がいる。
そこで紹介された一人の子供は、その前世の記憶の圧倒的な確かさから、どう考えてもある人の生まれ変わりとしか考えられない、という。この先生の前任者である今は亡きイアン・スティーヴンソン氏がこの研究の先駆けで、氏は世界中から多くの生まれ変わりと思われる例を集め紹介している。
(『前世を記憶する子供たち』)
20年くらい前の話だが、小生はこの本を読んで興味をそそられた。氏がこの本で言うには、前世を記憶すると思われる子供は、前世においては早死にした人であることが多い、しかも交通事故とか非業の死を遂げた人が多い、生まれ変わりの信仰がある地域に多い、その子供たちは体にアザがあることが多い、そして言葉を巧みに話せるようになる3・4歳ごろに、以前生きていたという土地や人たちのことを話し始め、10歳くらいには、もうそのことを口にしなくなる云々。
じつは小生、仕事の関係で子供の体を見る機会が多いので、イアン先生に手紙を書いて、いったいそういう子供は、どのようなアザが多いのか尋ねた。ひょっとしてという期待があったからだ。先生はご自分で発表された論文を送ってくれた。
いま一度これを読み返してみると、それはあからさまな転生の話ではなくて、妊娠中の(とくに妊娠初期の)女性が現実にあるいは夢で、他人の身体的障害(大怪我のような)を見た場合、とくにそれに対して恐怖の念に襲われた場合、生まれた子供に、同様の障害が生ずるという趣旨である。
Maternal Impressions:母親の心的痕跡とでも訳すべきか、過去の50例の報告の分析とイアン先生自身経験した最近の2例についてでは、皮疹としては、赤あざと黒アザが多いみたいだ。先生自身の経験例は皮膚の小さな凹みと指の欠損であった。
だが、妊娠中の母親の心的影響と前世の死ぬ直前の心的影響とでは、だいぶん話が違うようにも思える。胎児の器官形成が始まる非常に初期の段階での母の強い恐怖の念と、非業の死に臨む人の強い恐怖の念と。後者の方がはるかに時空を隔てている。
しかし、またこうも思う、人とはこの世の物質法則に納まるものだろうかと。


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転生を主題にした文学と言えば、平安時代の『浜松中納言物語』がまず浮かぶが、読んだのはずっと昔で、内容も複雑で忘れてしまったが、主人公の父だったかの生まれ変わりが、唐にいると聞いて、その人(まだ子供だったかな)に逢いに行って、話が展開したように漠然と記憶する。
そして、夢と転生を主題にした4編からなる物語『豊饒の海』を書いた三島由紀夫は、この作品は『浜松中納言物語』を典拠にしたと明かしている。三島のこの物語の三人の主人公たちは若くして死ぬのだが、彼らが転生者である証拠は、脇の下にある三つのホクロである。
この身体的特徴。小生はある時から、〈あざ〉という身体的特徴が、とても気になっていた。
先日、テレビで現代科学でも説明がつかない不思議な現象シリーズというのを見た。ユリゲラー、霊的怪奇現象や予知能力っていうのをいろいろやっていた。そのなかで、アメリカのヴァージニア大学だったかで、世界中の生まれ変わりと思われる例を集めて研究している先生がいる。
そこで紹介された一人の子供は、その前世の記憶の圧倒的な確かさから、どう考えてもある人の生まれ変わりとしか考えられない、という。この先生の前任者である今は亡きイアン・スティーヴンソン氏がこの研究の先駆けで、氏は世界中から多くの生まれ変わりと思われる例を集め紹介している。
(『前世を記憶する子供たち』)
20年くらい前の話だが、小生はこの本を読んで興味をそそられた。氏がこの本で言うには、前世を記憶すると思われる子供は、前世においては早死にした人であることが多い、しかも交通事故とか非業の死を遂げた人が多い、生まれ変わりの信仰がある地域に多い、その子供たちは体にアザがあることが多い、そして言葉を巧みに話せるようになる3・4歳ごろに、以前生きていたという土地や人たちのことを話し始め、10歳くらいには、もうそのことを口にしなくなる云々。
じつは小生、仕事の関係で子供の体を見る機会が多いので、イアン先生に手紙を書いて、いったいそういう子供は、どのようなアザが多いのか尋ねた。ひょっとしてという期待があったからだ。先生はご自分で発表された論文を送ってくれた。
いま一度これを読み返してみると、それはあからさまな転生の話ではなくて、妊娠中の(とくに妊娠初期の)女性が現実にあるいは夢で、他人の身体的障害(大怪我のような)を見た場合、とくにそれに対して恐怖の念に襲われた場合、生まれた子供に、同様の障害が生ずるという趣旨である。
Maternal Impressions:母親の心的痕跡とでも訳すべきか、過去の50例の報告の分析とイアン先生自身経験した最近の2例についてでは、皮疹としては、赤あざと黒アザが多いみたいだ。先生自身の経験例は皮膚の小さな凹みと指の欠損であった。
だが、妊娠中の母親の心的影響と前世の死ぬ直前の心的影響とでは、だいぶん話が違うようにも思える。胎児の器官形成が始まる非常に初期の段階での母の強い恐怖の念と、非業の死に臨む人の強い恐怖の念と。後者の方がはるかに時空を隔てている。
しかし、またこうも思う、人とはこの世の物質法則に納まるものだろうかと。


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