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昭和の日

祝日はもちろん国民の祝日であって、それぞれ国によって違う。国民の祝日はみなその国にとっての意味がある。今日は昭和の日だ。昔はなかった。わざわざ昭和の日という祝日を創ったのは、昭和という時代が我が国の歴史においていかに重要な時代であったかを、国民があらためて思う日にしようとしたからではなかろうか。

 昭和という時代は、わが国建国以来もっとも長く、かつ苦難に満ちた時代、だからこそ国民全員がもっとも固く結束し、また離反した時代であった。そして日本という国柄をもっとも国民が深刻に考えた時代であった。

 だから、今日はテレビなどでわが国の建国の歴史や昭和という時代、映像が沢山残っている父母や祖父母の生きた時代の特集番組などをやっていると思ってテレビ欄を探したが、ぜんぜんそれらしい番組はない。小生ははっと息を呑んだ。ない。不思議だ。

 戦後すでにして、明治節は文化の日に、新嘗祭は勤労感謝の日に、端午の節句は子供の日にというふうに、なんか漠とした定まらない名称に変えられてしまっている。あたかも自らの歴史を羞恥し、祝祭日をただの休日にしてしまおうとしているかのようだ。

 だから、わが国の子供たちは、祝日というと、スマホゲームしたり、家族旅行したり、要するにただの休日だと思っている。彼らを養ってきた祖先たちの苦難や夢を思うことなく、受験やゲームに熱中する猿たれと教え込む。豊かな生活とは今現在のモノや金のある生活だと思わされている。

何のための祝日か。

 


  

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テーマ : 政治・経済・時事問題 - ジャンル : 政治・経済

以和為貴

聖徳太子の憲法十七条は、「和をもって貴しとなす」から始まる第一条、ついで「篤く三宝を敬え」から始まる第二条、それから「詔(みことのり)を承りては必ず謹め」から始まる第三条。

 ほとんどの日本人が知っているこの言葉は、むかしから日本人論によく引用される。つまり、日本人にとって、普遍的な心の問題よりも、天皇よりも、まず何よりも和が大切なのだ。そして、小生の見るところ、この和の精神は、いまでも日本人のこころの奥深くにある鉛の錘のように、表面がいくら荒れていても、結局はここに収斂する。

 それは、聖徳太子がそう言ったから、そうなった訳ではなく、太子が活躍したずっと以前から和という言葉で表現されるような精神的態勢が日本人には強かったのであって、太子が初めてそれを定式化したのだろう。そしてまた同時に政治の現場においては、憲法にそう謳わねばならなかったほど、当時の役人らは、徒党を組んでは利己心丸出しといった、和からは程遠い状態であったろう。

小野清一郎氏によると、日本人は、有史以前から氏族的・家族的な社会組織を有し、その上に天皇の統治があって、それは血縁的な共同体の階層であり、それは和の生活であった。ところが人口増加、生産力の発展、大陸文化との接触などに伴って、血縁共同体の氏族的統制が弛緩し、遂にそれらは党的になって閥族勢力となって国家の統一を紊乱するにいたった。しかし、古き共同体的和が完全に失われたわけではなく、太子によって新たな自覚がうながされた、と言う。(梅原著『聖徳太子』)

その意見に対し、梅原氏は、縄文的狩猟採集民族が居たところに朝鮮半島からやってきた水稲農業と金属器をもった民族が征服しにきた。それは長きにわたる激しい戦いであった。和の精神は、この人口密度の高い島国での動乱において、征服者と非征服者との間に生まれた知恵であった、と言う。

そうかもしれない。ただ、ではどうしてあれほど長いあいだ戦乱時代が続いた中国やヨーロッパで、和を以て貴しとなす、という思想が前面に出てこなかったのか。

ヨーロッパには紀元後、キリスト教が起こったということが、大きな特徴ではある。が、小生が想像するに、日本の特殊性は地政学的要因が強いのではないだろうか。つまり、日本は極東である。古来、日本には文化はほとんど西からやってきて、日本で行き止まりであった。日本は、要するに吹きだまり、あらゆる文物の終着地点である。

つまり、ここからさらに別方向への抜け道はない。だから文化は、ここでいつまでも留まり、融合し、発展し、独自の展開を見せやすい。しかし、戦いとなると、どこへでも逃げるわけにはいかず、この狭い領域内で解決せざるをえない。完全に一勝者が他者を壊滅させるか、複数が話し合いで平衡を保つという解決方法に、どこよりも早く行きつく。中国やヨーロッパのような大平原なら、いくらでも逃げて再起をはかれるから、つまり半永久的にイタチごっこをやっておれるから、なかなかそうはいかなかったのではないだろうか。

で、まあ戦いは止めるという方向での話し合い=和という伝統が出来上がり、その中で、なぜか天皇に忠誠を示すという日本独特の形式が生じ、太子はそれを定式化したのではないだろうか。小生は、つい勝者としての天皇と言ってしまいそうだった。

ところで、今の国際社会において、日本流〈和を以て貴しとなす〉というのは、通用しない。日本の独自性は日本国内では有効だが、世界では通じない。国際外交は、〈話し合い〉とは言っても、騙し合い、その中には態のよい対話拒否も含まれる。そういえば、先日テレビで奥州藤原氏の番組をテレビでやっていたが、ある先生は、日本の外交がまずいのは、朝鮮(高句麗、新羅、百済)や中国(魏蜀呉など)の三国鼎立の経験がないからだ、と言っていた。つまり、すべての国は他の二国を己に有利なように、利用し、嘘の情報を流し、仲間と見せかけては、いつでも裏切る、そんなゲームのような外交と戦争による均衡の歴史を日本はもたなかったからだ、と。

日本人は、いかなるときも嘘を言ったり裏切ったりすることがとても悪いことで、恥ずべき、してはいけないように、どうしても思いたがる。だから、昭和14年8月独ソ不可侵条約が結ばれた時、平沼首相は「複雑怪奇」と驚きの言葉を発し、昭和20年8月のソ連の日本侵攻を日本人は条約違反として非常に腹を立てることしかしない。

まあ、それは言い過ぎだとしても、先日『ローマ人の物語』で有名な、イタリア在住の塩野七生氏が新聞に書いていた言葉が忘れられない、「隣国と仲良くしなければならないとほんとに思っているのは日本だけだ」と。

それはそれとして。

「和を以て貴しとなし」の後半は、「然れども、上和らぎ下睦びて、事を論ふにかなふときは、事理(こと)おのづからに通ふ。何事か成らざらむ。」つまり、平たく言えば、冷静に論じ合えば、理は通じるのだ。太子にはこの信念があった。だからとことん話し合うこと、それが和だ。話し合いを拒否して、表面だけつくろっても、それは和ではない。


  

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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

日本国憲法前文

今更ながらなんだけど。
初めて日本国憲法前文を読んだ時から、何かしっくりこないものを感じていた。日本語としても、素直でない、シャチこばった感じを受けたし、内容もなにか継ぎはぎだらけで統一がなく、何よりも誇らしい気持ちを欠いている。

福田恒存氏によって著された「當用憲法論」(昭和40年)を再読して、小生の懐いた感じの正体が分かったので、この論を紹介しつつ書いてみよう。

日本国憲法前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意、ここに主権が国民に存することを宣言、この憲法を確定する

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。

われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する

われらは、[いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると]信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ



まず、赤字で書いた部分は、こう書く方が日本語として自然ではなかろうか。

正当に選挙された(duly elected) → 公正なる選挙によって選ばれた
いかにも直訳。正当に選挙されたなんて、中国じゃあるまいし。


確定する(establish) → 制定する
研究社英和活用大辞典ではまず〈確定する〉とのっているな、たしかに。

排除する(reject and revoke) → 拒否する
排除するって、今までにあったものを取り除くというイメージでは?

欠乏(want) → 窮乏
欠乏って何の欠乏? とくになければ、窮乏から逸れ、じゃないの?

確認する(recognize) → 認める
まだ確認までいってないのじゃないの?



これらの誤りではないけれど、自然な日本語の文章としては変だなと思われるのは、おそらく素人の翻訳者が英文(The Constitution of Japan)を、辞書を片手に翻訳した為であろうと思われる。
他にも、例えば第一文の「わが国全土にわたって…」というのも、また第二文の「その福利は国民がこれを享受する」なんていうのも、なんかしっくりしない。

それから、全体に読点が多すぎ。文章の構成に関しては、初めの文章は長すぎる。緑色で示した〈〉が三つもでてくる。原文の直訳でなければ、こんな文章はなかなか書けない。
最後から二番目の文章も、「われらは[・・・・・・・]信ずる」の緑括弧が長すぎ、日本語としてはとても不自然な感じを与える。

水色で書いた「よるものであって」と「するのであって」は、主語と述語が、その後では変わる場合に使っている。五番目の文章の、「信頼して」の緑文字〈して〉というのは分詞構文のところ。いずれも出来るだけ忠実に翻訳しようとした賜物だと思われる。

とにかく、これは英和辞典を片手に慣れぬ英文を、急いでできるだけ原文に忠実に翻訳した形跡が見うけられる。

参考に原文(英文)も附しておきます。

The Constitution of Japan  (promulgated november 3, 1946)
We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the national diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this constitution.

Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.

This is a universal principle of mankind upon which this constitution is founded.

We reject and revoke all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.

We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.

We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth.

We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.

We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

We, the Japanese people, pledge our national honor to accomplish these high ideals and purposes with all our resources.


内容であるが、文全体に何か暗い卑屈なトーンが流れていて、これを作った人たち自身が本気で語っているような気がしない。

第一文から、下線の部分「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに」なんて出てくる。のっけからこんなケッタイなことを書く憲法が他の国にありや?

第三文の「これは人類普遍の原理」でありの〈これは〉は何を表しているのだろうか。それにしても「人類普遍の原理」とは大きく出たものである。これを書いた人は神になったつもりか。

第四文「これに反する一切の憲法・・・・を排除する」という、〈これ〉とは何か。普遍的原理を掲げ、したがってもうこれから先はない最高憲法だから、もはや憲法改正などはありえない、と言っているに等しい。
したがって、例えば九条を解りやすいように変更することもできず、その解釈について、手練手管の応酬でもって貴重な議会を空費し続けているのもむべなるかな。

第五文の「人間相互の関係を支配する崇高な理想を」とつぜんカントのような文句が出てくるが、もっとやわらかい言い方がないものか。まあ、翻訳だからしようがないか。一番笑えるのは、「諸国民の公正と信義に信頼して」という下りだ。まあ、これも政治用語と思えばいいかもしれないが、もし本気で信じ込む日本の子供がいたら罪な話だ。

第六文の「名誉ある地位を占めたい」に至っては、いじらしいというか泣けてくる。

第八文の「他国を無視してはならない」って威勢のいいこと言って、どうすんの。そんな覚悟あるの。極めつけは政治道徳って言葉だ。政治は嘘八百を駆使した技術であって、道徳とは対極にある。政治は道徳さえ利用する。Political moralityって誰が書いたか知らんが、こんな言葉を日本人に使わせやがって。

この憲法が作られた経緯はだいたいは知られている。要点は、作成時期は日本は占領下にあった、すなわち主権を喪失していた、と思わされていた。GHQが皇居の目の前の日本生命ビルに陣取り、日本に銃口を向けていたときであった。しかも、日本の主要都市は廃墟となり、国民は食うや食わずの状態であった。

のちに公文書で明らかになったことだが、連合国軍総司令部が憲法を起草したことを一般国民に知らしめないよう、このことについて触れるような一切の文言も検閲の対象であった。

昭和20年(1945)
8月15日 終戦
9月 2日 降伏~昭和27年(1952) 4月28日まで日本は占領下に
 10月11日 マッカーサーが幣原首相に改憲を指示

昭和21年(1946)
 2月3日 日本側草案を受け取ったマッカーサーは失望し、根本的に改めるべく民政局に指示
 2月13日 改正案を日本側に提示
  ・・・  国会で審議
 11月3日 日本国憲法発布
昭和22年(1947)
 5月3日 日本国憲法施行

驚くべき短期間で、しかもこの憲法を起草したアメリカのスタッフらは27人とか、かなりの素人ぞろい。そのうちの一人、当時22歳であった米国女性ベテア・ゴードン氏は、「日本国憲法はアメリカの押し付け憲法だ」という意見に対して、ずっと後にこう語った、

「人がほかの人に何か押し付けるとき、自分のものよりいいものは押し付けないでしょう。日本の憲法はアメリカの憲法より素晴らしい。世界の憲法のいいところを集めた歴史の叡知です。いい憲法であればそれでいい。誰が書いたかを穿鑿することは意味がありません。」

小生は開いた口がふさがらない。アホか、この人。しかも面白いのは、じつに語るに落ちるとはこのことで、「世界の憲法のいいところを集めた歴史の叡知です」。 歴史というものは、国民の分割できない精神の深い流れであって、その表現は内発的でなければならず、どこからかちょっと切り取って張り付けができるようなパッチワークではない。おたんこなす!

日本国憲法は、このような軽薄なスタッフによってつくられた、あまりにも表面的で軽々しい、実意のない文字の羅列なのだ。この前文を、「素晴らしい、生徒に暗記させよう」と言う日本の教師がいるそうだが、日本人もここまで感覚がおかしくなったのは、まさにこの憲法のお陰だと、あらためて感心する次第だ。 

そして、この憲法と対をなすものがあって、この両者がぴったり咬みあって、相乗効果を発揮している。この対をなすものこそいわゆる東京裁判である。もう今では世界の法律家が認めているそうだが、あの裁判は法的に正しいものではなく、ただ戦勝国が敗戦国を悪者にした茶番劇だった。 

東京裁判 昭和21年5月3日 ~ 昭和23年11月12日判決 

これによって、日本は世界的な悪者にされてしまった。おかげで、ハイエナのような国が、虎の威を借りて、「正しい歴史認識」だの「従軍慰安婦」だのと罵り騒ぐ情況が出現している。占領されるということ、7年間も主権を失うということの恐ろしさをまざまざと見る思いがする。

このことを考慮に入れてみると、日本国憲法前文の意味がはっきりする。

では判り易く超訳してみよう。

日本国憲法前文

「日本国民は悪い国民でした。戦争を起こして、多くの国に御迷惑をかけてごめんなさい。

 ぼくら日本はみんな悪い。聖徳太子からはじまって、紫式部も西郷隆盛も小野田中尉も、みんな悪者でした。ぼくらの祖父母たちは犯罪人でした。ごめんなさい。だから墓参りはいたしません。

 人類普遍の原理を教えて頂いたからには、心を入れ替えて、日本の歴史、文化、伝統を否定し、あなたがたのように立派な国になるように精進いたします。

 あなたがた、とくに国連安全保障委員会の常任理事国入りされている立派な平和主義の国々の背後を拝みながら進みます。ふつつか者ですが、どうぞご指導をよろしくお願いいたします。

このような究極の素晴らしい理想の憲法を作って頂いてありがとうございました。再拝」



結論:この憲法は大急ぎでアメリカ人が作った文章の直訳であって、戦勝国が無理やりわれわれの手をとって書かせた証文であり、こんなもの日本人はだれも心の底から信じていない。しかし改正しようにもできにくいような仕組みになっている。
独立国家が歴史も伝統も異なる外国人よって書かれた憲法をありがたくいただいているのはおかしい。よって、この憲法を一刻も早く廃棄し、日本人らしい、仰々しくない、素直な文章の憲法を作るべきであると思う。


  

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『嘔吐』

 ずっと昔読んだ本で、その後ほとんど忘れているのだが、しかしこころのどこかに残っていて、つまり何か気になっていて、ときどきふっと思い出しては、死ぬまでにもう一度読んでみたいと思う本がいくつかある。サルトルの『嘔吐』もそのひとつであって、ふとしたタイミングで、この本を読み返すことができた。

 やっぱり同じだ。昔読んだ時と少しも変わらない。掴みどころがない。しかし独特の不思議な印象を残す作品だ。しかし、このまま放っておくのも気持ちが悪い。ここでなんとかケリをつけてしまわなかったら、また気になっていつか読み返したいと思ってしまいそうだ。が、それは御免こうむりたい。

 どう言えばいいんだろう。とても詩的で、とても反逆的で、シニックで、ニヒリスティックで、ペシミスティックで、ときに鋭い独りよがりの独白。要するにめちゃくちゃだ。せいぜいよく言って、『地下室の手記』の二十世紀的亜流だ。だから、とても要約する気になれないし、どこといって引用する気にもなれないし、さらには批判する気にもならない。

 しかし…やはり、だからと言って、ここで放りっぱなしにはしたくない…この手記を残した半狂気の…存在恐怖症とでもいうべきロカンタンが、この二十一世紀に亡霊のよう現れる・・・

 そもそも、文字を書くということは恥をかくということであったはずだが、この今の時代、誰もかれもが、文字を書いてはそれを即座に他人に見せる、それも複数の他人の目にさらす、こんな芸当ができるのは、デジタル機器のおかげである。

 そのために、だれも文字で語ることにたいして羞恥を感じなくなっている。昔は女性が膝を見せたり、男性がそれを見ることに羞恥を感じたが、われわれはすっかり鈍感になって、よほどの露出に出くわさなければ心を動かさない。

 他人の目に書いたものをさらすことの恥ずかしさを失った者の心情やら煽情的報告やらたわいない論争、ちょっとした思いつきのごみ捨て場。中には、大舞台で見えを切っている気分でいる者を見るにつけ笑止千万を通り越して悲しい。

 「彼らはみなお人よしだ、なぜというに自分に満足しきっているからさ。」19世紀の小説家はそう書いた。ほんとうは、いやほんとうはなどという言葉は慎もう。われわれはとても弱いものだ。

いつも思う。あの大震災で、家々が流され、一つの村があっという間に大波に呑まれた、あの映像を見た時の、われわれの無力感。私は〈あの感覚〉に固執する。人はすぐ忘れる。「あの時の対応を反省しよう」とか「がんばろう東北」などというスローガンが、貴重な〈あの感覚〉を台無しにしてしまう。人は忘れるのではない。忘れたいのだ。

あらゆる反省、あらゆるスローガンは、一生懸命前を向いて走っている。前を向いて走っているつもりだ。なんのことはない、去年と同じ場所で同じことを言っているにすぎない。去年と、10年前と、100年前と同じことを。

相も変わらず人間の諸権利などという。中でも比較的新しい知る権利というのがもっとも滑稽だ。会社の部長がどこの大学出だとか、隣の娘が出戻りだとか、あるいは、政府の密約とか・・・。知る? すべて同じことだ。私は何も知りたくはない。

何だって? 政治はわれわれの生活に影響を与えるから、政府の密約は知らなくてはならないって。よろしい、それを言うなら、エネルギーや食のほとんどを輸入しているわが同胞。世界中の密約を知らなければならない。「グッド・ラック」

いっぽうで知る権利を言っておきながら、個人情報保護を言う。これを判り易く言えば、人は自分の知りたいことは知りたい、知られたくないことは知られたくない、ということだ。複数の人間がそう念じながら戦っているこの風景。おお神よ、憐れみたまえ。

そうして人は歳をかさねる。思い出がだんだんと多くなる。人は思い出す、昨日会ったあの女はいいお尻をしていたなぁ、あの湖畔で彼に抱かれたのはちょうど一年前のことだったわ。あの時はよく頑張って山登りをしたものだ。しかし、若い人が思い出づくりをしなきゃ、というのを聞いてびっくする。人生に先回りができると思っているのか。

それなら、思い出づくりをしようと考えていることも、思い出してしまうではないか。そりゃ台無しにならないか。そうではないらしい。うまいこと、いいとこ採りで思い出せるのだ。ということは、記憶は取捨選択をして創られるということだ。じつにそのようで、思い出とはつねに現在における創作である。人はつねに現在を生きる、創作をしながら。言葉を換えれば、夢を見ながら。それが上手いか下手か。

歩いている人を見て、彼はいま夢を見ていると思う。みな夢遊病者だ。彼らも彼女たちも、そしてあなたも。夢の中で動いている。上手いか下手か。でも実生活がるというが、それは夢だ。それなのに、さらに人は夢を見ようとしている。

たとえば、人は美術館に足を運ぶ。音楽を聴く。ひとは、芸術作品に何らかの意味を見出そうとする。何の意味を見いだせない自分を情けなく思う。バカバカしいことだ。そもそも絵画にも音楽にも意味などというものはない。意味が解るという人は、とんでもない勘違いをしているお目出たき人だ。

だから内心じくじたる思いをしている人は、あまりにも閉鎖的であり、そのため正直でない。芸術作品にはだまって向き合えばよいのだ。そこには、何の意味もない、色の塊やら音の交錯があるではないか。

自然も同じだ。なんの意味もない。動物も植物も。だから〈それ〉であり〈これ〉でしかない。この世のあらゆる事物は・・・。事物というのは、なにかわれわれの認識の限界を指す言葉のようだ。おっと人間も。何の意味もなく、この世に突然放り出されたのである、だれでも。そして自分でさえも。ただ、自分だけには〈そう考えている意識〉がある。だから、〈この考える〉が自分だ、と17世紀の有名な哲学者は言った。

しかし、この意識は、私がうっとおしく感じている諸〈存在〉からは、余計なものである。この余計者の意識は、なぜか、わたしが食べたり、寝たり、歩いたり、場合によっては、仕事をしたりする間も、余計者として在る。いわば〈非在の存在〉だ。このどうしようもない情況、これはときに苦しみになる。

 目の前に春の空が広がっている。うっすらと霞がかっているところもある。目を凝らしていると、小さく見える飛行機がゆっくりと動いている。あの小さな箱の中に百人の人が乗っているに違いない、そしてその中の幾人かは、ちょうど今こちらを眺めているのだろうと考えた。

飛行機の垂直尾翼と思われるあたりに、一瞬、太陽が反射して光った。そのとき、自分が〈余計者である存在〉であることを反芻していた私の心に、稲妻のように悲しみが走った。・・・

あるいはまたこう書いてもいい。

夕闇が落ちた。川の両岸にちらほらと灯りがともる。川面はまだわずかに残っている空の明かりを憂鬱そうに映している。なま暖かい風がかすかに頬をなでた。その感覚が私を、自分が世界のそして歴史の外にいると感じさせた。

あの黒々とした川縁の茂み。向こう岸の公園の木々の塊。その〈存在〉は溶けて広がり、私は吐き気を催す。私は倒れるまいとして、それらから目をそらす。いつしか私は早足で明るい街のほうに向かって歩いていた。

うす暗い蛍光灯に照らされた古い婦人洋装店の前を通りかかった。人はだれもいなかった。何着かの地味な色の服がつりさげられているのが見えた。あれも〈存在〉なのだ。しかし、その存在は、なにか〈非在〉ともいうべきものとの関係において、存在であるように感じた。そのときである、突然胸をえぐるような悲しみが走ったのは。

        *

こんな意識は、いつでもどこでもある。仰々しく存在恐怖症というまでもない。ごく日常的な意識だ。ただ、それを言葉にしようと思うと、じつに大変な作業だ。えんえんと繰り返されるシジフォスの石積みのように、ついには徒労に終わる、それこそ何の意味もない。結論がでた。

     

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