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遣隋使派遣

隋の出現は589年だけれど、この大国の出現は大陸はもちろん朝鮮半島をいたく刺激することとなった。ただでさえ、高句麗、新羅、百済の三国は戦々恐々としてスパイ合戦を延々とし続けているなかで、その影響は日本にも及ぼされる。日本の軍事力を当にしていろいろな貢物やスパイが入って来る。

半島から経典や高僧(高句麗からは慧慈、百済からは慧聡)そして技術者。金銀、珍しい動物まで、どんどん入って来る。おかげで、日本最初のお寺・法興寺を建てることができたし、また国産第一号の仏像(鞍作鳥作)を創って、そこへ納めることができた。

この文化イコール仏教という日本の情況の中で、聖徳太子は朝鮮半島よりも隋に目を向ける。政治的な意味合いももちろんあったであろうが、むしろさらなる仏教を取り入れようとしたためである。

太子は、隋は素晴らしい仏教国である、先代の皇帝(文帝)は転輪聖王と自称していたし、その息子さんの煬帝もよくできた人物で、若いころは天台智義顗と親交があったとも聞いている。この皇帝から直接仏教、そして理想的な政治をも学ぼう、との野心に燃える。推古十五年(607)、聖徳太子は小野妹子らを隋に派遣する。このとき持たせた国書について、有名な『隋書倭国伝』にはこうある。

 大業三年(607)、その王タリシヒコ使を遣わして朝貢す。使者曰く「海西の菩薩天使、重ねて仏法を興すと聞く。故に朝拝を遣わし、併せて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ」と。その国書に曰く「日出づるところの天子、書を日没むところの天子におくる、つつがなきや云々」と。帝これをみて悦ばず。鴻臚卿(コウロケイ)に謂ひて曰く「蛮夷の書、礼無きものあり。また以て聞こゆことなかれ」と。

 周知の通り、じつは隋の煬帝はそんな理想的な皇帝ではなかった。十年も経たぬうちに、高句麗に対して、個人的恨みからとでもいうような、大義のない、そしてとても大規模な、そのうえ実に下手な戦争をしかけて国を滅ぼしてしまった。そんな皇帝であった。

 だから、妹子から手渡された国書を読んで煬帝はこう思ったであろう。この倭という東の国の王はどういう奴だ、本気で仏教的理想を政治に生かせるとでも思っているのか。お目出たい奴だ。野蛮人のくせして、この俺に対して、日出づる所の天子、日没する所の天子に送るとは、どういうつもりだ、礼儀知らずというか、田舎者というか、純朴を通り過ぎて馬鹿じゃないの?

 梅原猛氏は、聖徳太子を平凡な百姓娘を貴婦人と思いこんで遇したドンキホーテになぞらえて曰く、太子のような高邁な理想に捉えられた人はれわれ凡人にくらべてとても騙され易いところがあると。

 周りの国が、隋に対して、臣下の礼をもって表(ふみ)を差し出すのに、太子は対等の関係を表す国書を出したものだから、隋は怒る。しかし太子はもちろん分かっていてやったと思う。われわれはこの様な国であって、これから貴国にいろいろ学ばせてもらいたい、と正々堂々と胸を張って言っている。この生一本が太子らしい。

 きっとむこうに着いた小野妹子はいろいろ苦労したのだろう。それでも、なんとか上手くやりおおせて、帰国するときは、答礼使の裴世清(はいせいせい)らを伴ってくる。隋としても、せっかくだから日本の情況を、そしてまた日本から朝鮮半島の情況を探りたいと考えたことであろう。

 ところで、この帰国は百済経由だったのだが、途中で大変なことが起こった。百済に滞在中、皇帝からの返書が、たぶん百済人によって盗まれてしまったのだ。小野妹子はものすごく困ったであろう。帰国して、危うく処刑されるところを推古天皇は、隋の使者らにこんなことを聴かれても困るといって、そっと妹子を許した。

この『日本書紀』に書かれている話は、事実ではないのではないかと、多くの学者は疑った。妹子にとって何よりも大事な国書が盗まれるなんてありえない、あるいはあまりにも無礼な内容であったので妹子が一人処理したのではないか、などと憶測する人もいる。

 しかし、百済はもっとも弱く、だからこそ諜報活動は徹底的していた。しかも、当時の東アジアの非常な緊張状態においては、国書盗難はおおいにありうるのではなかろうか。強大な隋と日本に何か好からぬ密約があったのではないか、と半島諸国がやきもきするのはよく解る。

むしろそれから百年後に書かれた『日本書紀』に、わざわざそのような嘘を書かねばならない理由の方が考えにくい。どうも、国書盗難の話は本当のことのように感じられる。

それにしても、朝鮮の人は日本からこそこそと大事な物を盗むが、それ民族的習慣なのだろうか。その後しばらくして、熱田神宮から民族の宝である〈草薙の剣〉を新羅の僧が盗んで日本から脱出しようとしたが、幸い剣の霊力でそれを阻止できた話がある。

 それから、新しい所では、昨年韓国人が日本のお寺の大事な仏像を二体盗んだのが発覚した、日本は返してくれと言っているが、どうなっているのか。これは、百済人のこの国書盗難事件と同じく、官民一体の策略のように思われる。


  

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頓阿法師詠3



頓阿は若い時から西行にあこがれていた。

西行住み侍りける相臨時といふ所に、庵むすびて思ひつづけ侍し

跡しめて見ぬ代の春を忍ぶかな
   その二月(きさらぎ)の花下かげ

西行が住んでいた所に庵をむすび、ちょうど二月の花の下で、西行の時代の春を忍んだことだ。
あの西行の辞世の歌「願はくは花の下にて春死なんその二月の望月のころ」を、読む人は必ず思いだし、頓阿もまた西行と同じ願いでいるということを訴えている。

しかしまた頓阿はまた西行や兼好にくらべて、はるかに〈真面目な〉僧であり歌人であったようだ。

正和のころ、二条入道大納言家、春日社に奉納せられし唯識論の歌に、実摂ニアラザルガ故ニ空花等ノ如シ

いつよりかむなしき空に散る花の
   あだなる色にまよひそめけん


わたしたちは、いったいいつより虚しく空に散っている花、そのような諸法に迷ってしまったのだろう。

   祝の心を

敷島のやまとことの葉むかしより
   つもるは君が千世のかずかも


昔より積もってきた和歌の言の葉の数は、わが君の長寿の齢の数のように限りないものだ。

頓阿という僧は、また吉田兼好と共に二条為世門の四天王として、和歌の道に生きた人として有名である。1289~1372というから、ずいぶん長生きをした人だ。だから誰よりも南北朝の動乱を長く見続けた人だ。頓阿の心の中では、足利尊氏と後醍醐天皇とは無限の言の葉のなかで、永遠の蜜月を送っていたに違いない。

         *

参考にした『頓阿法師詠』(岩波版)の解説にはこうある。

俗名は二階堂定宗、出家して頓阿と号した。正応二年(1289)~応安五年(1372)、亨年八十四。当時、浄弁・兼好・慶運らとともに、二条為世門の和歌四天王と称された。公武僧との和歌を介しての交誼も広く、『新拾遺集』の撰集作業にも参与するなど、二条派歌壇の重鎮的な存在であった。


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頓阿法師詠2


 

頓阿は83年という長寿をまっとうした。彼は老いについてこの様に歌っている。

   述懐

いつまでと思はざりせば世の中の
   憂きになぐさむかたやなからむ


 明日をも知れぬ我が身だと思うからこそ、憂さを慰めて生きておれるのだ。

偽りのあるならひにや人ごとに
   そむかれぬ世を憂しといふらん


人はみな出家しないくせに世の中を苦痛だと言っている。偽りばかりではないか人の世は。

すてしより惜しからぬ身のいかにして
   老いとなるまでつれなかるらん


世を捨ててからわが身を惜しいと思はないのに、無情にもなんでこんな老人となるまで生かされているのだろう。

かぎりあれば身の憂きこともなげかれず
   老をぞ人は待つべかりける


老いると、命の終わりももうすぐと思えるようになって身の憂さをそう歎かなくなる。してみると人は老いを待つべきものだなあ。

年も経ぬいまひとしほと思ひしも
   心に朽つる墨染の袖


仏道修行をいっそう深くしようと決意したけれども心のうちに怠ってから、もう長い年月が経ってしまった。

世を憂しと思ふばかりぞかずならぬ
   わが身も人にかはらざりける


自分だけは人と違うと心のどこかで思っていたが、何のことはない、そのことが人並みの証明。

ずいぶん老いについて覚悟を決めかねているというか、思索を楽しんでいるようにも見える。長生きをするとはこういうことか。


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頓阿法師詠1

頓阿法師(1289~1372)は後醍醐天皇より一歳若く、吉田兼好より6歳若かった人。そういう時代に生きた人。この人の和歌を紹介しよう。

 立春

たえだえに氷ながれて山川の
  岩こす波も春たちにけり


暖かい光を浴びて氷がところどころ溶かされて川は増水し、波がきらきら光っている。ああ春だ。


梅の花にほひや空にみちぬらん
    夜わたる月に春風ぞ吹く


 月がきれいな夜、爽やかな春風が吹いている。きっとこの大空いっぱいに梅の匂いが満ちているのであろう。

 真木の葉はつれなき山の下露に
   空ゆく月のかげぞうつろふ


 露が滴っても真木の葉は、そしらぬふりをしてぜんぜん色を変えないが、その下露に映った月の光は刻々と変化している。

  歳暮

ながめこし花より雪のひととせも
   けふにはつ瀬のいりあひの鐘


花の時節から雪の時節へ、じっと眺めてきたこの一年ももう今日で終わったのだなあ・・・、初瀬で鳴る夕暮れの鐘の音が、このしみじみとした感覚と溶け合う。

  恋

よそながらなるるにつけてなかなかに
   思ふ心をもらしかねつつ


友達としてだんだんと親しくなってくるにつれて、かえって恋心を打ち明けられなくなってきている。どうしょう。

まれにだに人もこずゑの玉葛(かづら)
   絶えぬものとはなに思ひけん


 稀にさえ逢いに来てくれなくなった人を、玉葛のように絶えないものだと、どうして頼みに思っていたのであろうか。


 

   



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