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仏像来入

キリスト像が描き始められたのと同じころ、仏像が造り始められた。パキスタン北部のガンダーラ地方においてである。その昔ギリシャのアレキサンダー大王の東征がこの地まで及んだ。その後ここで生き続けたギリシャ文化とインド発の仏教信仰の波とが出会った。

 それまでは仏教の信者たちは、仏陀を直接表すことができなかった。代わりに、ストゥーパ(塔)、菩提樹、仏足跡などで表していたようだ。他方、ギリシャ人は目に見えるものしか信じなかった民族だ。彼らにとって神々も人も美しく表現されるべきものだった。

 仏教の信仰とギリシャの眼との幸運な出会いによって、夥しい数のガンダーラ仏が生まれた。顔はやはり現地(パキスタン)の人たちの顔つきであるが、わずかに下がった瞼の下の目は永遠の静謐を湛えている。肩から流れる衣紋はギリシャ彫刻の女神のそれからきたともいわれ、束髪は仏陀の叡知のシンボルとも言われる。

 この仏像と僧侶たちは、人間の欲望の象徴である諸々の商品に伴って、シルクロードを東へ東へと流れて行った。仏教信仰は、仏像のもつ視覚的威力によって言語的障壁を乗り越え、アジア全域に広がっていった。

 多数の仏教書が漢訳されて東アジアに伝わったように、仏像もその地の似姿で作り変えられていった。そして日本に百済から初めて仏像がもたらされたのが、欽明天皇の御代538年あるいは552年であった。

 『日本書紀』には、欽明天皇は、仏法の素晴らしさをお聴きになって大喜びされていわく、「西のとなりの国(百済)がくださった仏像の姿はじつに端正だ。未だかつて見たことがない。われらも崇拝すべきであろう」と。

 それに応えて、蘇我稲目いわく「その通りです。世界の国々は礼拝しています。わが国も遅れてはなりません」。それにたいして、物部尾輿(おこし)たちいわく「いやいやわが国には従来からわが国の神々がおります。いま外国からやってきた神を礼拝するようになるとわが国の神が怒りましょう」と反対する。

 その後、疫病など祟りがあったりして、紆余曲折するが、587年ついに廃仏派の物部守屋陣営と崇仏派の蘇我馬子陣営との戦闘が起こる。このとき馬子軍に参加していた聖徳太子は、白膠木(ぬりで)を切って四天王の像を作り、「もしわれらを勝たしてくれましたなら、必ず四天王のために寺を建てます」と誓った。その御蔭もあってか、馬子軍が勝利する。

 この記事を信じれば、二つのことが分かる。一つは、もうこの頃には、日本人が木を切って四天王を作ることができるほど、仏像や工人が朝鮮半島から来て定着していた、ということである。

それからまた、太子ほどの人でも、初めは仏教信仰は、仏陀の解脱などとは遠く、やはり現世利益を求めた、この場合、戦争に勝たせてほしいと願った、ということである。あらためて思うに、いかなる宗教の発生も現世的な欲望というか、欠乏の不安からである。それはどうしても祈りの形式をともなう。

これ以後、馬子は尼僧を百済に留学させたり、法興寺建立を始めたり、精力的に仏教振興にはげんだ。

 593年、推古天皇即位。聖徳太子は摂政になるや、ただちに四天王寺を建てた。596年、法興寺竣工。しかし、不思議なことに、この寺の金堂に納めるべき仏像については、この時点での記載はない。

 605年、推古天皇は、鞍作鳥に命じて銅の仏像を造らせ、翌年完成する。これが国産初の本格的仏像のようだ。そして、これを法興寺金堂に納めようとするが、ちょっと変なことが起こる。

 「丈六の銅の像を元興寺(法興寺)の金堂に坐せしむ。時に仏像、金堂の戸より高くして、堂に納れまつることを得ず。ここに、諸の工人等、議りて曰く、『堂の戸を破ちて納れむ』といふ。然るに鞍作りの鳥の秀れたる工なること、戸を壊たずして堂に入るるこを得。」(『日本書紀』推古13年、605年)

 寺が建って9年もしてから、そのための仏像を造れっていうのもなんだし、なかなか上手く入らなかったというのも変だな。まあ、それはおいといて、この仏像は、どんなお顔をしているのだろう、どんなお姿なんだろう、と想像していたが、この仏像は法興寺(今は飛鳥寺という)のいわゆる飛鳥大仏であるとのことだ。

 ネットで沢山の画像を見ることができる。北魏の様式だとかなんとか専門家の説明もある。しかし、ただじっと眺めてみよう。これが1400年前の日本人がもっとも崇拝した姿なのだ。

飛鳥大仏


  

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初期キリスト像

人々は何ゆえ、またどのようにキリスト像を描いたのだろうか。

 ふつうキリストを描いた聖画像といえば、東方を思い浮かべるのが一般的ではないだろうか。しかし、一番初めのキリスト画像と考えられるものは、はるか西の国で発見された。

イギリスの南西地方、今はドーセットという州にHinton St Mary という村がある。この村は、1963年に偶然発見された古代ローマ時代の邸宅跡で一躍有名になった。壁はとうの昔に崩れ落ちているが、床のモザイク画が奇跡的に残っていて、これが何よりも雄弁にローマ時代のキリスト教を物語る貴重な資料として、いま大英博物館で保管・展示されている。

 すでに一世紀においてローマ帝国はその版図を最大限に広げていた。北はライン川からドナウ川流域、東は今のイラクあたり、南はエジプトから西へ、リビア、モロッコ、ジブラルタル海峡を超える。西はスペインそして海を渡ってイギリス(ブリタニア)に及んでいた。

 そして時は紀元350年。ローマのブリタニア支配の最後の世紀―ここ南西地方の黄金時代であったときに、このいわゆるHinton St Maryのモザイク画が創られたという。大英博物館のニール・マックグレゴール氏の語る所を聴こう。

 このモザイクは、ドーセット地方の石が素材となっている。最初の部屋の床に描かれている絵は、天馬ペガサスに乗った英雄ベレルフォンが蛇とヤギとライオンからなる複合怪獣キマイラをやっつけているところである。ローマ時代ではポピュラーな場面の絵である。

 その向こう側の部屋の床には曼荼羅みたいな絵があって、その中心円には一人の人物が描かれている。それがこれである。
 wikipedia
220px-Roundel_mosaic_christ_hinton_st_mary_british_museum_edit[1]



 この人物は、ひげをきれいに剃り、そのヘアースタイルと衣服は当時のローマのファッションであるという。つまり普通のローマ人様式だ。しかし、うしろにあるPとXという記号は、chi Rhoすなわちギリシャ語でChristの初めの二文字なのである。だからこの描かれた人物像はまずキリストと考えられる。

 当時、だれもキリストを見た人はいないし、どのような風貌の人であるかの文献も残っていない。キリスト死後300年経っているということは、キリスト教はユダヤ教からいわば分派したものだから、神の像を造ってはいけないという掟も、なお生きていたのではなかろうか。

 もし、この像を描いた人が、イエスはユダヤ人だったということを知っていれば、もっと長髪でヒゲもじゃの人物を描いたであろう。しかし、彼はそのようなことに注意を払わなかった。自分がふだん目にしている普通の男性で表すしかなかったようだ。ただこれがキリストを表している証拠には、背景にXPというモノグラム(文字図案)の飾りを描けばいい。

 そして、面白いのは隣にある二つの果物で、これはザクロである。われわれには解らないが、当時の人たちはザクロと言えば、すぐピンときた。これはギリシャ神話にあるぺルセポネが冥界の王ハーディスから貰ってその半分を食べてしまった物語の果物である。

 その半分食べてしまったことから、ペルセポネは一年のうち半分を冥界から地上に出てくることができた。その間は彼女の母デーメーテルが地上に実りをもたらす。その結果、春夏と秋冬という季節が生まれた。この神話が象徴しているのは時の循環、すなわち復活なのだ。

 つまり、このモザイク画の作者は、キリストの復活をギリシャ神話を利用して語っている。それゆえ最初の部屋にあった怪物退治のベレルフォンも十字架上のキリストの復活を、つまり死に対する生の勝利を暗示しているということが解る。

 コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのが313年。そしてこの当時、紀元350年ころのブリテン島の人々にとって、キリストはいろいろな神々の中の一つでしかなかったし、その表現はギリシャ・ローマ神話から採られたものだった。ここでは、異教とキリスト教の幸福な調和がある。

 ついでにいえば、ザクロの話は、恋人を探しに冥界に行ったオルフェウスや、酒神バッカスもr連想させるという。つまりこれも復活を暗示する。かくしてこのHinton St Maryのモザイク画は、古代世界のすべての希望、最も深い人間の希望を、すなわち死とはより大きな生の充溢のほんの一部分でしかないという思想を表している、ということにはならないか。
 
  

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政治音痴の弁明

小生は政治音痴だ。だから、このごろ集団的自衛権についての議論を聞いていると、何だか難しすぎて変な感じがする。

 同盟国軍がかくかくの場合、わが国軍が(あっ、そんなのなかったっけ)、どうすべきか、ああでもないこうでもないと髪を黒く染めた議員さんらが大真面目な顔を装って議論している光景は、じつにイヤな光景だ。

 あんな重箱の隅をつつくような議論から始めることがあるものか。地球の裏側であれどこであれ、同盟国が危険であると判断すれば、助けるのが当たり前ではないの。そうでなければ、同盟という言葉に意味がない。いやなら同盟など結ぶな、と言いたくなる。

 しかし、小生は空想家ではないから、同盟なんていとも簡単に破られるとも思っている。そんなこと古今東西の歴史を振り返れば一目瞭然、文明開化の21世紀に入って突然国際マナーが変わったとは考えられない。だから、ふだんから自国でしっかり守りを固めていなければならない。すなわち、間諜、偵察衛星、軍事訓練、防衛ミサイルの配備などは怠ってはならないのは当然ではないの。

 いや、今は昔と違う、他国には信頼の態度で接して行け、話せば分かる、という人が居るが、話しても通じないふりをする怜悧な集団は常にいる。そいつらからあなたたちを守ってくれているのは警察力だよ。しかし国連が当てにできると思っている人はウクライナか南シナ海に行ってくればよか。

 まあ小生、政治というものにちょっと不気味なものを感じるし、あまり深入りしたくないけれど、自分は国家に税金を払い、国家のシステムの上で生きているというくらいのことは、よく分かる。

 

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頓阿法師詠4

頓阿の時代の和歌は本歌取りが多い。本歌と並べて味わってみると、頓阿がどのような工夫をしたかがうかがえて面白い。


いく世しもあらじわが身をなぞもかく
    海人の刈る藻に思ひ乱るる
(古今)

 さのみなど花にそむらんいく世しも
    あらじわが身の老いの心を
 (頓阿)

 そんなに長く生きるわけでもないのに、どうして私は藻のように思い乱れるの(古今)、どうして花に心を染めてしうの(頓阿)


ほととぎす鳴きつる方をながむれば
    ただ有明の月ぞのこれる 

(千載 藤原実定)

ほのかなるただ一声もほととぎす
    なほ思ひ出の有明の空
 (頓阿)

 頓阿のは、ほんの一声だったけど確かに心に残った。しかし実定は、あれは空耳だったのか、いや有明の月の魔力か、という不安が尾を引いていて面白く感じる。

 五月待つ花橘の香をかけば
   昔の人の袖の香ぞする
 (古今 不知読人)

 思ひいづる昔も遠し橘の
   花散る風のゆふぐれの空
 (頓阿)

 古今、香によっていつもあの思い出に浸ることができる。頓阿、あのことからもうあまりにも遠く隔たってしまった。もう二度と還って来ない。この夕ぐれはあまりにも切ない。


 音もせで思ひにもゆる蛍こそ
   鳴く虫よりもあはれなりけれ
(後拾遺重之)

 飛ぶ蛍もえてかくれぬ思ひとは  
   しらでやさのみ音を忍ぶらん 
(頓阿)

 まったく同じ趣旨の歌であるけれど、頓阿のほうが線がはっきりしていていい。


 わが心なぐさめかねつ更科や
   をばすてやまにてる月を見て
 (古今)

 こよひしも姥捨山にながむれば
   たぐひなきまですめる月かな 
(頓阿)

 この古今の歌は、『大和物語』にある姥捨物語にある。この話は、信濃の国更科に男が住んでいた。この男の両親は早くに亡くなって、伯母さんに育てられた。しかし、寄る年波にはかてず、この伯母は腰が曲がって働けなくなった。男の妻は伯母が邪魔になってきたので、深い山の中に捨ててこいと男にいう。男は仕様がないから、伯母をおんぶして山中に捨ててくる。その夜の月はたいそう明るくきれいだった。それを眺めていた男は悲しい気分になった。そして詠ったー

 わが心なぐさめかねつさらしなや
   をばすて山に照る月を見て


 そして、山に戻って伯母を連れ帰った。その後はどうなったかは知らないけれど・・・。


 頓阿の和歌は、「九月十三夜、姥捨山の月を見て」という詞書がある。伝説的な姥捨山を旅中で見たのであろう。姨捨という残酷な行為と十三夜の月の光の類まれな美しさとの直結が、オスカーワイルド風の危険な魅力を醸し出している。


 

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Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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