『勝鬘経義疏』4

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『勝鬘経』は、敬虔な仏教徒の両親をもつ非常に聡明な勝鬘夫人が仏法の信仰への道を、仏の導きによって歩んでいく過程を、仏との対話(とはいえほとんど独白の形式で)書かれた経典である。義疏とは、経典の内容の解説のことである。
しかし、『勝鬘経義疏』を読めば、それはたんなる解説というものではなく、解説の形式を借りて、矛盾や繰り返しをすら意に介しない太子の思想が燃え出ているのを感じることができる。
『義疏』は、中国の僧たちの『勝鬘経』解説をほとんどそのまま典拠にしている、という研究者がいるそうだ。が、そうかもしれないが、そんなことを言っても別に面白いことはない。以前触れた『十七条憲法』が、儒教、老荘、仏教などの夥しい古い書籍からの引用からなるということを中国古典の泰斗は証明するが、それはもちろん、学問的には必要な研究ではあろう。しかし、われわれ一般人にとってはそれだけではさして面白くないのである。
人間の行為を外から分析しても、それだけでは退屈なだけだ。例えば、100メートル走を科学的に捉え、諸々の骨格、神経、筋肉などの経時的変化の詳細をいくら積み重ねても、各走者の独特の推進力は出てこないだろう。そして、われわれが感動するのはまさにこの力なのだ。
われわれは、『十七条憲法』を断片の組み合わせと見てはなるまい。いわば太子の思想という推進力の軌跡なのだ。外側からではなく、内側から見れば、『論語』からの引用と仏典からの引用とが矛盾するなんてことはないし、言ってもしようがない。そして『勝鬘経義疏』を書けた人こそ『十七条憲法』を創れたと感じる。

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『勝鬘経義疏』3
『日本書紀』の推古21年(613年)に、―この年は太子が『勝鬘経義疏』を完成した年であるが―、こんな記事がある。
太子が片岡山を通りがかったとき、飢えた人が道に倒れていた。太子は名前を問うたが、答えがなかった。太子は食べ物を与え、自分の着ている服を脱いで彼を被ってやり言った「ゆっくり休んで」と。そして歌を詠んだ―
〈しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥やせる その旅人あはれ 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ〉
明くる日、太子は飢えた人を見てくるように使いを出した。使者は帰って来て報告した、「飢えた人はすでに死んでいました」と。太子は大いに悲しまれ、その場所に埋葬し墓を作った。数日して、太子は近習に「あの飢え人はただの人ではあるまい、きっと聖人にちがいない」と仰って、ふたたび墓の所へ使いを出した。使いは帰ってきて報告した、「墓はそのままでしたが、空けてみれば屍はありませんでした。ただ服はちゃんと畳んで棺の上においてありました」と。そこでまた太子は使いに、服を取って来るように命じ、それを今まで通り着用した。人々は大いに驚いて、「聖は聖を知るということは本当なんだ」といよいよ畏まった。
後の人が尾びれを付けずにはおれなかったであろうこの話は、『日本霊異記』にも取り上げられているし、『万葉集』巻三の挽歌―
家ならば 妹が手まかむ 草枕
旅に臥やせる この旅人あはれ
が太子の和歌として載っている。
とにかく何より、『日本書紀』のこのあたりを担当した作者はよくぞこの話を残しておいてくれたと思う。
政治改革を断行してきた摂政皇太子が、道に倒れている乞食に食物と衣服を与えたという。これは驚くべきことであった。この記事を小生はとても面白く思うし、素直に信じられるし、またそうでなければ、『勝鬘経義疏』の迫力が半減する。


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太子が片岡山を通りがかったとき、飢えた人が道に倒れていた。太子は名前を問うたが、答えがなかった。太子は食べ物を与え、自分の着ている服を脱いで彼を被ってやり言った「ゆっくり休んで」と。そして歌を詠んだ―
〈しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥やせる その旅人あはれ 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ〉
明くる日、太子は飢えた人を見てくるように使いを出した。使者は帰って来て報告した、「飢えた人はすでに死んでいました」と。太子は大いに悲しまれ、その場所に埋葬し墓を作った。数日して、太子は近習に「あの飢え人はただの人ではあるまい、きっと聖人にちがいない」と仰って、ふたたび墓の所へ使いを出した。使いは帰ってきて報告した、「墓はそのままでしたが、空けてみれば屍はありませんでした。ただ服はちゃんと畳んで棺の上においてありました」と。そこでまた太子は使いに、服を取って来るように命じ、それを今まで通り着用した。人々は大いに驚いて、「聖は聖を知るということは本当なんだ」といよいよ畏まった。
後の人が尾びれを付けずにはおれなかったであろうこの話は、『日本霊異記』にも取り上げられているし、『万葉集』巻三の挽歌―
家ならば 妹が手まかむ 草枕
旅に臥やせる この旅人あはれ
が太子の和歌として載っている。
とにかく何より、『日本書紀』のこのあたりを担当した作者はよくぞこの話を残しておいてくれたと思う。
政治改革を断行してきた摂政皇太子が、道に倒れている乞食に食物と衣服を与えたという。これは驚くべきことであった。この記事を小生はとても面白く思うし、素直に信じられるし、またそうでなければ、『勝鬘経義疏』の迫力が半減する。


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『勝鬘経義疏』2
昔からいかなる部族にもその部族の神があったが、また大帝国をまとめるために新しい宗教を利用した為政者もいた。まず思い浮かぶのが、ローマにおけるコンスタンティヌス、イスラムのモハメッドや後のカリフ、古くはインドのアショカ王もそうか。
欽明天皇の御代に仏教が伝来してから数十年にして聖徳太子という人物が摂政としての地位に着いたのは、わが国にとってあまりに幸運であった。そういえば、その時はまだ国家というものはなかった。というか日本という国号もおそらく聖徳太子の業績の賜物であって、太子がまさにこのとき、国の統一のためには仏教を必要とすると感じたのも、またそのために大政治家蘇我馬子と軌を一にできたのも幸運であった。
太子は非常に短期間のうちに政治改革を行った。遣隋使派遣、小懇田(おはりだ)遷都、冠位十二階制定、憲法十七条制定、法興寺と金銅仏像制作、斑鳩宮に転居。勝鬘経や法華経の講義。目立った所だけでもこれだけのことを7年の間にやっている。(600~607年)
ところが、いつ頃からか聖徳太子は、仏教をたんなる国家統一のためではなく、本格的な思想の問題として取り組んでいった。すでに早くから彼の心を悩ましている問題があったからだが、それは、何故この世の中はこうなのか、そしてこの世の中でいかに生くべきかという問題である。仏教はその問題を考えるための格好の文脈を与えてくれた。
おそらく太子の目には、政治ではそう簡単に人の世は変わらないという思いが、痛いほどはっきりしてきたのだ。だからいつ頃からか、太子と蘇我馬子との間に隙間風が通うようになっていたのではなかろうか。馬子は、内面の思考に沈潜する太子がだんだんと疎ましく感じられるようになっていったのではなかろうか。


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欽明天皇の御代に仏教が伝来してから数十年にして聖徳太子という人物が摂政としての地位に着いたのは、わが国にとってあまりに幸運であった。そういえば、その時はまだ国家というものはなかった。というか日本という国号もおそらく聖徳太子の業績の賜物であって、太子がまさにこのとき、国の統一のためには仏教を必要とすると感じたのも、またそのために大政治家蘇我馬子と軌を一にできたのも幸運であった。
太子は非常に短期間のうちに政治改革を行った。遣隋使派遣、小懇田(おはりだ)遷都、冠位十二階制定、憲法十七条制定、法興寺と金銅仏像制作、斑鳩宮に転居。勝鬘経や法華経の講義。目立った所だけでもこれだけのことを7年の間にやっている。(600~607年)
ところが、いつ頃からか聖徳太子は、仏教をたんなる国家統一のためではなく、本格的な思想の問題として取り組んでいった。すでに早くから彼の心を悩ましている問題があったからだが、それは、何故この世の中はこうなのか、そしてこの世の中でいかに生くべきかという問題である。仏教はその問題を考えるための格好の文脈を与えてくれた。
おそらく太子の目には、政治ではそう簡単に人の世は変わらないという思いが、痛いほどはっきりしてきたのだ。だからいつ頃からか、太子と蘇我馬子との間に隙間風が通うようになっていたのではなかろうか。馬子は、内面の思考に沈潜する太子がだんだんと疎ましく感じられるようになっていったのではなかろうか。


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『勝鬘経義疏』1
親鸞は聖徳太子を崇拝していたという。『勝鬘経義疏』(しょうまんぎょうぎしょ)は小生にとってじつに難解な本である。二回読んでも理解したとはとても言えないが、あきらかにこれはすごい思想家によって書かれたものであることは分かる。
聖徳太子が仏典『勝鬘経』を講じたのは、推古天皇が鞍作鳥に命じて、例の国産初の金銅仏を法興寺に納めたのと同じ年、619年(推古19年)であった。
続いて太子は『法華経』を講じ、天皇から播磨国に水田百町を賜り、そこからの収益でもって法隆寺を建てたと聞く。
今あらためて思うことだが、今われわれが読めるわが国の本でもっとも古いのは『古事記』ではないということだ。太子が著した三冊の仏教思想書は『古事記』より古く、また法興寺や法隆寺建造は伊勢神宮より古いということである。
ついつい忘れがちなこの事実の意味するところは何か。民族は他者を受け入れ模倣して初めて己の何たるかに関する自覚と追求を可能にするということなのだろうか。
太子が三義疏を書いたのは当時の漢文をもちいたのであろう。『古事記』が書かれたのは、それからちょうど百年後である。
そして、『古事記』は、縄文・弥生の昔より祖先たちが育んできたいわゆる〈やまとごころ〉を表記するのに漢文を以てして可能であろうかという深刻な問題意識をもって書かれていることを、宣長が発見したのは、それからさらに千年後であった。
こうは言ってはいけないだろうか。聖徳太子という思想家が衝撃を与えたことによって、民族の無意識の深い古層が亀裂から顕れてきたと。


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聖徳太子が仏典『勝鬘経』を講じたのは、推古天皇が鞍作鳥に命じて、例の国産初の金銅仏を法興寺に納めたのと同じ年、619年(推古19年)であった。
続いて太子は『法華経』を講じ、天皇から播磨国に水田百町を賜り、そこからの収益でもって法隆寺を建てたと聞く。
今あらためて思うことだが、今われわれが読めるわが国の本でもっとも古いのは『古事記』ではないということだ。太子が著した三冊の仏教思想書は『古事記』より古く、また法興寺や法隆寺建造は伊勢神宮より古いということである。
ついつい忘れがちなこの事実の意味するところは何か。民族は他者を受け入れ模倣して初めて己の何たるかに関する自覚と追求を可能にするということなのだろうか。
太子が三義疏を書いたのは当時の漢文をもちいたのであろう。『古事記』が書かれたのは、それからちょうど百年後である。
そして、『古事記』は、縄文・弥生の昔より祖先たちが育んできたいわゆる〈やまとごころ〉を表記するのに漢文を以てして可能であろうかという深刻な問題意識をもって書かれていることを、宣長が発見したのは、それからさらに千年後であった。
こうは言ってはいけないだろうか。聖徳太子という思想家が衝撃を与えたことによって、民族の無意識の深い古層が亀裂から顕れてきたと。


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