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8月風景1

1 ominous lull

目の前の公園の木木の葉はまったく動いていない。それほど暗くもない、均一な曇り空の下、全き静止というのは不気味なものである。

 朝か昼か夕か明らかにしない。カラスの声が時おり、どこからともなく定期的に聞こえてくる。一面単一な薄明かりの空を見つめていると、霧に包まれた湖のような気がする。

 しかし空気は爽やかではない。むしろ蒸し蒸しした―、ちょっと息苦しくさせる大気だ。ひょっとして巨大な人工的な球体に入れられているのかもしれない。きっとそうなのだ。どうして今までそれに気付かなかったのだろう。

 この閉じられた球体の中で、気圧が上げられたり下げられたり調節されている。われわれはきっと大きな飼育器の中に生かされているのだ。その観察者はあまりにも大きくてわれわれの目では捉えることができない。

 いやその観察者から見ると、われわれはあまりにも小さいのかもしれない。ちょうどわれわれが蓮の葉に残った水の球体の中で動き回っている虫を観察するように。

 2

 しとしとしと、しとしと、しとしとしと
 心地よい雨のリズムはどこから来る。
 朽ちた古家の樋。
 錆びたトタン板の穴から明るい空が見える。
 古代人が見たような空が。
 今日はきっとよい獲物に恵まれる、
 祈りはカミに届く。
 藁屋のまん中に
 ごつごつした石で囲まれた神聖な
 中心、そこに揺らめく小さな炎。
 その炎に照らされた顔は、
 みな同じ、こちらを見つめる。
 瞳も口元の皺、おかっぱ頭
 まったく同じ、やおら、
 彼らは踊だす、火の回りを、
 強いリズム、緩やかなリズム、
 シャン、シャン、シャン、
 歌い、叫び、呻き、喘ぎ、
 旋回、跳躍、痙攣、失神―。


 夜が明けた。出発だ。薔薇のような空が心地よい風で送ってくれる、まだ見ぬ土地。

 3

 顔を洗って、口を濯いで、いただきましょう。
 朝はパンと紅茶です。
 青い縞模様のスーツに身を包んで、おっと髪形が崩れていないか、もう一度鏡を見てと。

 電車の中には、いろいろな人が居ます。
 黒いスーツに身を包んだ背の高い30くらいの女性。鼻が高くえらが張っていて、真っ黒な髪の毛を後ろに巻貝のように束ねています。この人は日経新聞に見入っています。

 リュックを背負った40くらいの男、口の周りにひげを蓄えて、じっと一点を見つめています。ぼさぼさ頭のTシャツをぞんざいに着た若者が長い脚を広げて坐って、携帯を器用に右手でぴこぴこしています。50くらいの二人のサラリーマンが、くたびれた表情で窓に見える景色や天上に目をやったりして、ときどきは何かささやき合っています。

 電車はカタコトとリズム正しく音を立てています。時折は、キーと耳をつんざくような大きな音を立てますが、たいていはカタ、コト、カタ、コトです。じつはある時これが、カタンコトン、カタンコトンと聞こえてきて、こちらの方が気に入って、それ以来、カタンコトンと聴くようになってしまっています。

今朝も、カタンコトン、カタンコトンと心の中で歌でも歌うように聴いていると、これが何故か連想的にロッコン、ショウジョウ、ロッコン、ショウジョウとなってきましてね、もうこれから離れられません。六根清浄、六根清浄、面白いでしょう。

 六根清浄って言葉をどこで覚えたか思い出せませんが、とにかく、この言葉を心の中で繰り返しているうちに、電車の中にいる人たちみんなが小声で「六根清浄」を唱えているように聞こえてきて、そう思うと黒スーツの女性も、Tシャツもおじさんらも表向きはあんな姿であるけれど、それは仮の姿であって、じつはみんな解脱しようと頑張って修行しているのだなぁ、ということが判りました。

 電車を降りて、急ぎ足に行交う人々を見ると、もうみな鈍色の衣を身につけた苦行僧のように見えました。

 4

  O.サックス氏の本にあった。

 眼球の疾患で生後間もなく盲目になった人が、50歳になってから眼の手術を受けた。
 彼はそれまで按摩で生計を立て、身の回りのことに何の不自由も感じなかったし、
 野球放送をラジオで聴くことをこよなく愛していた。
 が、周囲の人に勧められて手術を受けた。 

 手術は成功し、眼球の機能は戻った。
 で、彼は物が見えたか?
 案の定、he didn’t look at anything.
 彼の目に映ったのは光と色と動きとの
 無意味なぼんやりした混沌であった。

 この症例から判ること。
 われわれが当たり前だと思っている〈このような世界〉は、
 もともとそのようなものではなく、
 そのように人が創っている、と いうこと。

 5

 こんな曇りの日には
 いつものように言葉遊びをいたしましょ。

 Make haste slowly
 A wise fool
 An ugly beauty
  faultily faultless
  cruel kindness
  quiet noise
  ……
 
 
   

  

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8月15日 3

 

  戦ひを肯定したる我ひとり
   あくる日みなにいぢめられけり

 人の世は多勢に無勢かはりなし
   戦争中も平和のときも

 自然力われらの知力を超えるもの
   歴史の動きも人智を超える

 それゆゑにこの悲しさは人をして
   宗教科学芸術を生ましむ



  

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『勝鬘経義疏』5

しかし、『勝鬘経義疏』についてどういう風に語ればいいのだろう。小生にはこの混沌とした全体を上手くまとめて語れる能力はない、ということがはっきりしている。しかしここで最も重要なキイワードだと思われる〈如来蔵〉なるもにちょっとだけ触れてみよう。

 勝鬘夫人はこの世において初めて仏の声を聞くことができた、という。聞くとは理解するということであるが、ことさら聞くという言葉をつかうのは、精神の態度が大事なのであって、人は聞くためには己をむなしくするのみならず、聞こうとしなければならない。

 すると仏が現れる。夫人は仏を讃え、仏の救いを乞う。仏の言葉に夫人は理解を深めてゆく。最終的に〈一乗〉に目覚める。〈小乗〉は、ただ自己のさとりだけを求めて、他者を教化するということを避けるが、〈大乗〉は、自己がさとりに至ることを求めず、人々を悟りへ渡して救うことを第一とする。さらに〈一乗〉はさとりの諸段階を通り越してしまう。

 するとそこに如来蔵という理念が表れる。如来蔵は本来、深遠で超越的な清浄そのもので、われわれの認識の対象ではない、と思われるのであるが、実はわれわれの煩悩の中に隠れて存在している。煩悩の外にあるのではない。

 そして、ここにおいては煩悩を滅するとは、おそらく小乗で説かれた、自力のよる煩悩の壊滅、つまり有から無へという相対的なもの、時間性においてあるもの、ではなく、そもそも始まりも終わりもない、時間性を超えたものだ。

 もしこのとこを疑わないならば、如来蔵が露わになった姿の法身を見ることも確信できるのだ。法身とは真理を身体とする仏のことである。それは形はないが目に見えるものである。

 如来蔵とは、過去・現在・未来を超えたもので、生命そのもの、この宇宙における人間種の根底を流れる生命の源泉とでもいうべきものだ。それは、個や我あるいはその生死、輪廻を超えていながら、そこにおいてある。

 またこういう言い方もできる。(この世的な)生死は人々の心の中でさとりの原因となりうる。その結果、如来蔵の潜在的存在に目覚めるが、その目覚めは、じつは如来蔵によるものではないか。

 人々はなにゆえ、この世でこの時間において生きながらえているのか。なぜ苦を厭い、楽を求めるのか。それは如来像の道理ゆえである。時間は流れる。では何に対して流れるのか。

 草木には迷いがなく、人間は迷うものだ。このことは人間は悟りへの道を歩むという本性があるということだ。これを根底で支えているものが如来蔵なのだ。だから如来蔵は人間の存在価値を保証している。

 では、どうして如来蔵は清浄なものであって、迷い穢れの煩悩の中にあっても、生死に染まることがない、ということが分かるのか。なぜなら煩悩は数限りなくあり、ときには非常に巧妙であって、これが善これが悪と分別しがたいことがあるではないか。

 それは事象をどのように見るかによって異なってくる。個別的実体として捉えるか、実体はなく生滅変化があるのみであるとするかによって、見え方が違ってくる。こんなに微妙な心の世界をわれわれは決定することができるであろうか。できない。われわれは仏性としての如来蔵を信じるしかない。

 理解力があるとは、究極まで疑うことができるということであり、だからそのような人は仏の信仰に進むことができるのだ・・・

  

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Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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