スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『石上私淑言』2

   石上小漫談つづき  →  

 うたをどうして和歌って書くようになったのかというと、わが国には神代から〈うた〉を歌っていたのだけど、四、五世紀ごろからかしら、中国から書物がどんどん入ってきて、その中にはとうぜん詩もあったから、それと区別するために、日本の歌をわざわざ倭歌と書いたんだ。

 昔は、むこうの人らは、日本のことを倭(わ)と呼んでいたかもしれないけれど、われわれは〈やまと〉と呼んでいたから、倭歌って書いて、〈やまとうた〉と読んでいたんだ。忘れてはならないことは、倭歌という表記をするようになってから、やまとうたっていう言葉ができたってことなんだな。

 『万葉集』でも、たいていは歌とのみ書いてあるけど、『古今和歌集』は『古今歌集』って表記したらいいのに、もうその時代は、歌のことをなんとなく〈やまとうた〉って言う方がかっこいいと思うようになってしまっていたんだね。序文でも「それやまとうたは人の心をたねとして・・・」なんて紀貫之が書いているね、本当は「それうたは・・・」って書くべきなのにねえ。それにしても外国語が入ってくると、言葉って早く変わるものだね。現代でも、50年前はたんに流行歌と言っていたのが、今はわざわざJをつけてJポップって言うね。そのほうがカッコいいと思うのと同じだね。

 ところで、倭の字がいつのまにか和になったのはどうしてかって? どうもそれがはっきりしないんだな。いろいろ文献にあたって考えてみるに、おそらく孝謙天皇の御時、天平勝宝4年(752年…この年はまた大仏開眼供養の年でもあるね)11月~天平宝字2年2月らしいのだ。これは、国号として大倭国(おおやまと)を大和国と表記するよう詔命が出されたらしく、その後に、和歌という表記が一般的になったらしい。もちろんそれまでも、倭と書くべきところを和と書かれている物もあるが、極めて単発的で書き間違いとしか言いようがない。とても大事なことだけど、昔はコトバは音であって、文字は仮字だって感覚がまだ強かったことだ。

 ついでにいえば、日本という国号は、大化の改新で有名な孝徳天皇の御代に始まったんだ。それまではわが国では大八州(おおやしま)、対外的には中国がそう呼んだように倭の字をもちいていたんだね。

 いくら注意しても注意し過ぎることがないのは、たとえば『日本書紀』にこの様に書かれているからといって、はるか昔のことを文字通り(!)捉えてはいけないってこと、つまり『日本書紀』は720年当時のインテリが、その当時の漢文で(その字義で)書いているってことなんだ。

 もちろんそのことは学問には大いに役立ってきたけれど、歌には直接関係がないね。歌は歌うことに、5音7音のリズムで、音を引きのばしたり、抑揚をつけたりして、ふかく物のあはれをうったえることだからね。この歌があることのゆえに、わが国はすぐれた国なのだ。

 この、物のあはれって、中国でも昔は人のこころ素直で感じやすく、『詩経』にも、そのことがうかがえるけれど、早くからやたら頭ばかりが発達して、理屈っぽくなったり、立派な男らしいことがいいという風潮に染まって、物のあはれが消えてしまった。さすが孔子様はそのことがよく解っていて憂いていたよ。

 わが国も、書物が入ってきて以来、中国のようにどんどん悪くなっていって、奈良時代はもう終わっているよ。しかし、ここに歌があった。これによってわが国は救われたのだね。このことはどんなに強調してもしすぎることはない。

 歌には、あの国のような理屈っぽい難しそうなコトバは相応しくない。そのようなコトバが歌に入ると汚くなる。歌は聴いていて美しくなければならない。わが国の人々の心がどうしてなつかしく穏やかで素直なのかというと、そいういう歌の伝統が神代の昔から続いているから、わが国はカミの国って言うのよ。

 いまにして、かの国人は日本人がなぜかくも礼儀正しいか驚いているけれど、それはわが国には二千年もの歌の伝統があったからよ。物のあはれが分かるとは他人の気持ちが分かることでもあるからね。いくら力や制度で人々を規制しようとしても、それは無理な話で、汚い言葉や利己的な行為はいくらでもそのほころびから出てくるものだね。

 もちろん、日本人も外国の書物でかなり汚染されてしまったけれど、歌の伝統によって長く培われた心はなお幾分か残っているようだね。よかったね。

 うたのちから、あなかしこ、あなかしこ



      にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村   
スポンサーサイト

『石上私淑言』1

『石上私淑言』(いそのかみささめごと)ならぬ石上小漫談

 いったい歌(うた)とは何なの。それは深く感じたとき必然的に出てくる言葉なんだ。ああとかうーんとか、溜息なんかもそうかな。でもそれだけではだめで、どうして溜息が出るのか、聞いてくれる人がなるほどそうなんだと納得して同じように深く感じてくれないといけないよ。

 そのためにはそれを話す時の調子が物を言う。たとえば、人がある驚くべき状況を他人にうまく説明しようとするとき、身ぶり手ぶりのジェスチャーをしますでしょ、話の順序、声の抑揚を工夫しますでしょ。そう、まさに歌の発生はそこにあるの。

 まず、人が深く感じてそれを短い言葉で的確に表そうとすると、ある音を長くしたり、リズムをつけたりする、そのさい5音や7音の一纏まりがなぜか古来日本人には、心にすーっと入って来るの。もちろん4音でも8音でも、音や品詞や意味の続き具合によっては、5音や7音として捉えられるからそれでもいいんだけど。

 いくら物に感じたとしても、ただぶつぶつと独り言をいうように声を出しても、また本を読む時のように淡々と声を出しても、それは歌ではないよ。人に上手く聴いてもらうように、上手くあやをつけて歌わなければならない。そこに〈あはれ〉の深さがあらわれるの。

 前にも言ったけれど、もののあはれって、とにかく物に感じることなの。どんなことでもいいのだけれど、とくに恋しいとか悲しいとかいうときには〈あはれ〉は深いの。これは人間に特有の、第六の感覚みたいなもので、誰にでも備わっているけれど、敏感な人や鈍感な人がいるわねえ。

 たとえば、耳が聞こえない人は、雷が鳴っても恐がらないね、目が見えない人は虎や幽霊が出てきても恐がらないね。同じように物のあはれの場面に遭遇しても、あはれを感じない人は、歌も出てこないわね。

いつから人は歌を歌うようになったかって。それはもう天地が開けたときから、つまりイザナギの命とイザナミの命が「あなにやし・えをとめを」「あなにやし・えをとこを」って、おたがいに唱えあわれたときからって考えられるね。『古今集』の序にもそう書いてあるし、何と言ってもこのお二人の御唱和は、五言二句のよい響きの感嘆だもん。

「あな」っていうのは、甚だ切なるっていう意味で「あなかしこ」「あなたふと」なんていうでしょ。「や」っていうのも感嘆だし、「をとめ」は、妙齢の女性、「をとこ」は若い盛りの青年、最後の「を」は、~よ!ってことで、要するに「何て好い青年!」「何て素敵な女!」って感嘆なさっているのですよ。

ということで、神代の昔から「うた」はあったのだけど、「歌」という文字を「うた」ってコトバにあてがったのは、ずっと後のことだということを忘れないでね。

   

    

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

続きを読む »

『排蘆小船』

『排蘆小船』(あしわけおぶね)には、20歳代の宣長の新古今和歌集への敬服が正面切って述べられていておもしろい。

 日本人として生まれたからには和歌をつくらないでいては人生もったいないというようなことを主張し、そうして新古今の和歌の数々をいわば神棚に祀るがごとく毎日拝み味わうべきである、しかしあまりに素晴らしいので、決して直接に真似をしてはいけない、と言っている。

 新古今の歌に少しでも近づくには、新古今の作者たちの多くがそうであったように、古今、後撰、拾遺のいわゆる三代集をよく読んで、これらの歌を手本として創るべきである。新古今を直接お手本にしたり、ましてや張り合おうとしてはいけない。

 家定卿もいわく「和歌に師匠なし、旧歌を以て師とす」と述べているではないか。今(江戸時代)和歌は一見盛んで、また和歌の一分枝である連歌、俳諧なども盛んである、しかし平安のあの時代からはずいぶん衰えてきている。また、和歌の師匠たちは○○派だの何だのと家流を誇っているが、ろくなことはない。中でも有名な古今伝授というのは、それこそイワシの頭もなんとやら。

 この伝授というものは、東常縁(とうのつねより)という愚か者が後世を偽るために考え出したもので、秘伝と聞けば有り難がる大先生らがコロッと引っかかったんだな、今でも習い物には笑止千万がつきものですな。

 さて藤原定家がすぐれた歌人であったことは誰もが認める所である。そして、元俊・俊成・家定とすぐれた歌人がこの家からでたことから、一家流がすぐれた歌人を排出するものであると人々は思いこむ。しかし実際はさにあらず。定家は定家であるがゆえに名人、かりに他の家に生まれて修行したとしても名人であったにちがいない。

 しかし人の思い込みは強く、定家の流れを引く二条派が和歌の勢力をもった。それでいっそう歌道は衰えたのだ。このとき(鎌倉後期)政治騒動も相まって、二条派に対して京極派が新風を吹き込んだ。

 この京極派にたいする反発がじつに宣長らしくて面白い。「およそこの道、古今(ここん)を通じてみるに、この二集(玉葉集・風雅集)ほど風体の悪しきはなし。かりそめにも学ぶことなかれ。」宣長にしてみれば、これこそ新古今を直接真似ようとして、なかなかうまく行かず、思い切った角度から新奇さをねらった、じつに姿かたちの悪い、風雅の対極に位置するものであろう。

 これに較べれば、まだ二条派の方が正統なのである。こう語る宣長が、もし明治以降の短歌を、たとえば与謝野晶子の「その子二十(はたち) 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな」を耳にしたら、なんと言うであろう。

 歌を詠むとは、人情すなわち自分の思いを、古の歌人の真似をして詠むのがよい。人の心は時代とともに変わる。現代の複雑な、偽り多い心をそのまま詠もうとしても俗悪なままだ。俗悪な歌は実情ではない。いかに偽りが多くても歌は風雅でなくてはならない。古のたとえば三代集を手本として、自分の心を詠むように心がければ、だんだんといわば歌の姿を得ることができ、それすなわち実情を表すことができるのだ。

 歌は〈うたふ〉ということであって、長くのばしたり抑揚をつけて声に出すってことが大事だ。そういえば、どこかで読んだのだけれど、宣長は夜分一人でよく声を出していたらしい。たぶん古文書(いにしえのふみ)を読んでは、発音や抑揚をあれこれじっさいに声に試して考えていたのであろう。たぶんそうやって『古事記伝』は生まれた。
  


     

     にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村
  
プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。