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休職?

 12月25日が仕事の最後の日であった。事実上の退職なのだが、なぜか休職扱いとなった。また来年ひょっとすると仕事に復帰できる可能性が無きにしも非ずという、ボスの心遣いからであろうか。それにしてもいただいた立派な花束は、どう考えても退職を記念するものだ。

 こちらとしては来月の前半ならまだ手伝えるのだが、たしかにそれだけで辞めるのなら、今年いっぱいで辞めた方が事務的な処理は簡単であろうと思われる。

 25日、小生も気持ちとしてはもうここで仕事をすることはあるまいと思い、自分用の小さな引き出しの中身を全部捨て、ほかの私物も整理し、最後にネームプレートから名前を書いた紙を出し、シュレッダーにかけた時は、さすがに胸に迫るものがあった。

 ここでの22年の今に続く実感がふっと切られ、一挙にもう手の届くことがない〈思い出〉になってしまったという感じ。自分は透明人間になって、しかもその瞬間まだ自分がここに、いつものメンバーが共有している空間に、まだ居るという違和感。きっと自分の葬式において、棺桶に入った自分に意識があるとしたら、そんな感じだろう。

 しかし、その瞬間が過ぎたら、仲間とよしなしごとを言い笑いあえば、いつもの日常が蘇り、ふだんと同じように、「お先に」と言って車に向かう。しかし、車の中では「これが最後なんだな」と自問自答する。

 しばらく入院して休んでいたせいか、家に居ても、もうこれが普通のように感じられる。仕事からの緊張からは解放されたが、他の義務がホッとさせてくれない。これが自分に与えられた宿命だと観念する。


     

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『桜の園』

背景は19世紀末のロシア。大地主が代々住んでいた美しい土地(桜の園)を、時代の流れとともに手離さなければならなくなる話だが、舞台上では登場人物たちは自分が育った時代を夢の糧として生きており、彼らは皆その性格に応じててんでバラバラに勝手なことをしゃべっている。その不統一が、終わって見れば、じつは全体としてそのかけがえのない一時代を浮き出させている。

 ある地主は自分の土地に鉄道が走ることによって大儲けをする夢を見、振興の土地ブローカーはリゾート開発でひと儲けしようとする。桜の園を手離さなくてはならない女地主は裕福な育ちでおっとりとした人で、他人への信頼と愛情に満ちているばかりで、経済観念をまるで欠いている。

 最も歳をとった耳の遠い老人は言う、昔はみな面白く生きていた、旦那と百姓は心から結びついていた、農奴解放令がでて自由民になった連中ときたら勝手放題で、訳が分からん…と言う。みなこの老人のことをうっとおしく思っているが、多少は気にかけてはいる。

万年大学生は、人類の進歩を信じており、しかしロシアの現状は底辺の労働者らの極貧および道徳的腐敗、そしてインテリを口ばかりで何もしない偽善者、ロシアのすべてはアジア的野蛮と停滞、と非難する。しかしこの男もまた、頭をイデオロギーでいっぱいにして、一時代前までの地主はみな農奴性の賛美者で農奴をしぼれるだけしぼっていた、と憤慨する。

しかし、だれもそんな話は聞いてやしない。ただ彼を愛する最も若い登場人物は、かれの話にうっとりする。そしてこの愛する乙女は、彼とともに新時代を夢見る。彼は彼で、自分たちは恋愛を超越していると言っている。

桜の園を手離さなくてはならなくなった女地主に対して、この万年大学生は、すべては時代の流れで、きっぱり現実に目覚めなければならないと諭す。それに対して彼女は、あなたは人の心も本当の人生も見えていないから、はっきり物事を割り切ったように語れるのだ、そんな人には、彼女の昔の男に対してなお愛する気持ちや、この桜の園に結びついた子供時代の懐かしい気持ちが分からない、人の心を解さない変人だと非難する。

彼女の兄も一言居士だが、お説教を述べようとするたびに周囲から押しとどめられる。養女も執事も小間使、従僕たちも、みな対話してるのか独白しているのか曖昧模糊として、ときに脈絡なく話が飛ぶ。ひとはみんな自分の観念の中に閉じこもっている。いったい客観的な世界の流れなどというものはあるのか。

みなそれぞれ欠点あるいはこだわりをもっているが、悪人は一人としていない。それぞれの時代と性格を背負って夢を持ち、みな時代に流されて生きる。そして最後にこの桜の園の館からみんな居なくなる、ただ一人あの老人を残して。

病弱の老人は呟く、「わしのことを忘れていったな。・・・なあに、いいさ、・・・まあ、こうして坐っていよう・・・ほんとにお若えお人というものは! 一生が過ぎてしまった、まるで生きた覚えがないくらいだ。どれ一つ横になるか・・・。」

      

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『三人姉妹』

諦念という言葉をふと口にしたら、チェホフが浮かんできて、何十年かぶりで読みたくなった彼の戯曲。

 遅かれ早かれ幸福は未来にやってくるとみなが思っている。そういう登場人物の一人は言う「いったいロシア人は、高尚な物の考え方をすこぶるもって得意とする人種のくせに、実生活となると、どうしてこう低級をもって任ずるんでしょうかね?」。この疑問は、19世紀後半のロシアのインテリたちの誰もが大きな驚きをもって発した疑問だ。やがてロシア人の心と現実の行動との極端な乖離は絶望的な空想に走るだろう。

 また別のインテリは語る、「モスクワのレストランの大きなホールに座ってみろ。こっちを知った人は誰もいないし、こっちでも誰ひとり知らない。それでいて自分がよそ者のような気がしないんだ。ところがここだと、向こうもこっちもみんな知り合いの仲なのに、そのくせ僕は他人なんだ…一人ぼっちのよそ者なんだ。」彼はすでに20世紀のスマートな都市型人間ではある。彼らは個人主義の仮面をかぶって、やがてマスメディアによって動かされることになろう。

 なんやかんや言っても、やはり人生は謎だらけで、人生は辛いと言う人でも、やはり幸福であり、結局は肯定しているはずであり、千年経っても人々は同じように生きているだろう、と唯一語る登場人物がいる。この人物は終わりの方で決闘で殺される。

 この男は、三人姉妹の末の妹を愛している。しかし、彼女は愛というものを知らない。彼は彼女から愛を引き出そうとして言う、「じつにくだらない、じつに馬鹿げた些事が、ふとしたはずみで、われわれの生活に重大な意義を帯びてくるようなことが、時にはありますね。相変わらず下らん事だと高をくくって笑いとばしているうちに、ずるずる引きずられて、もう踏みとどまる力が自分にはない、と思った時にすでにおそい。」人生で肝心なものはわれわれの目に隠されている。そしてとても皮肉に展開するものだ。

 この田舎町に集まった人物たちはまた去ってゆく。モスクワでの生活という夢が消えた末妹を抱いて長女は語る、「(出発する兵隊たちの)楽隊はあんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聴いていると、もう少ししたら、何のために私たちが生きているのか、何のために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。…それがわかったら。それがわかったらね!」虚しい夢だ。


    


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『悲しき熱帯』

 これも死ぬまでに一度読んでみたいと思っていた本のひとつである。この本を読んで先ず感じたのは、二十世紀の洗練されたフランス人の人類学者の芳しい香である。それはブルボン朝の豪奢とルソーの怨恨と革命とボードレールをベースにした香りである。

 したがってこの本はこう始まる。
「私は旅と探検家がきらいだ。それなのに、いま私はこうして、私の海外調査のことを語ろうとしている。だが、そう心をきめるまでに、どれだけの時間がかかったことか! 私が最後にブラジルを去ってから15年が過ぎたが、そのあいだじゅう。私はいくどもこの本を書いてみようと思いたった。そのたびに。一種の羞恥と嫌悪が私をおしとどめた。いったい、なんだというのだ? あのたくさんのあじけない些事や、とるにたりない出来事を、こまごまとものがたる必要があるのだろうか。」

しかるに、われわれ一般読者が期待しているのは、些事や出来事からなる物語であって、小難しい人類学的理論ではない。そして著者は、そのことを十分心得ていて、こまごまとした些事を余すところなく語っているが、彼の育ちのよさを思わせる感覚の鋭敏が読者を退屈から救ってくれる。

例えばこんなくだりがある。
「ブラジルは、私の想像力のなかで、奇妙な構築物をうしろにかくしている曲がりくねったヤシの束のようなものとして描かれていた。そしてその全体は、香炉の匂いのなかにひたっているのであるが、この嗅覚の要素は、「ブラジル」と「グレジェ(ぱちぱち燃える)」という二つのことばから無意識に引き出された音の類似によって、ひそかにすべりこんだもののように思われる。この音の類似は、その後ブラジルについて多くの経験をしたにもかかわらず。今日でもなおブラジルを考えるときには、まずこげたにおいを私が思い浮かべる理由を説明してくれる。」

あるいは、
「大アンティル諸島というかなり特殊な背景においてではあったが、アメリカの町に共通してみられるあの洋装を、私がまず認めたのも、プエルト・リコにおいてであった。すなわち、どこへ行っても、建物が軽そうで、効果だの、通行人の関心をひくことばかりねらっている点で、いつまでも催されている万国博覧会かなにかに似ていた。」

あるいは、
「16世紀の人間の意識には、知識以上に本質的なある要素が、科学的な考察に不可欠の資質が欠けていた。この時代の人々は、世界のスタイルということに敏感ではなかった。こんにちでも、たとえば美術において、イタリア絵画の、あるいは黒人彫刻の、なにがしかの外面的な特徴はわかっても。意味を持ったその全体の調和のみえない粗野な人は、ほんもののボティチェリの絵と贋作とを、また中央アフリカのファン族の小像と市場で売られている安物とを、見分けることができないであろう。」

あるいは、
「この巨大さの印象は、アメリカに特有のものである。・・・これらの街路は街路であり、山は山であり、川は川でしかない。では、あの故郷喪失の感情はどこから来るのだろうか。それはただ、人間の大きさと物の大きさとの間の関係が、もはや共通の尺度がなくなるほどにひきのばされているということに由来している。」

まあ、いくらでも引用できるが、止めておく。

さて、著者はサンパウロからアマゾンの奥地へと進み、幾つかの未開の部族に接する。そこで幾つかの発見がある。そのなかで小生がとても面白く感じたところを紹介しよう。

カドゥヴェオ族というのがいる。著者が接したときにはすでに彼らは外来者と取引をすることに慣れていたのであるが。しかしだからといって彼らの伝統的な制度が無くなっているわけではない。この部族においては男が彫刻をし、女が絵を描く。そしてこの絵のデザインの際立った特徴は紋章学に通じる著者の心を捉えた。

とくに、女性の顔のマニアックな装飾、「繊細な幾何学モティーフとたがいちがいになった非対称形のアラビア模様の網」は、何のために、どこからその着想を得たのであろう。カドゥヴォエ族の女たちが迷うことなく描いていく、縦横の線、斜めの線、菱形、蔓草状、渦巻き、波状、それらの結びつきの多くのパターン。いろいろ過去の報告などを参考にして、著者はそれが他でもない独自の理由に基づくものだということに気が付いた。

簡単に言えば、この〈芸術〉には、社会学的機能がある。つまり個人に人間としての尊厳を与える。それからカーストつまり身分の序列を表している。この世襲の身分を保証するにはどうするか。異なる階級の者が結婚できないならば、半族間の結婚を義務化する。階級の非対称性と半族の対称性という矛盾の解決として女たちは夢を見はじめた。これがデザインなる。

この〈芸術〉は、「社会の利害や迷信が妨げさえしなければ実現しうるであろう制度を象徴的に表す方法を、飽くことのない情熱で探し求める一つの社会の幻想として説明すべきであろう。彼女たちは化粧で夢を囲むのだ」。

それから、この本の書名『悲しき熱帯』の理由となったナンビクワラ族について少し触れておかねばならない。著者はこの部族の生活につぶさに触れることによって、社会学上の新しい発見をなしたかもしれない。しかし、小生にとって面白いのは、著者がこの部族のあり方に非常に感動している点であり、その感動は小生にも伝わって、人間とは何かという疑問符をつきつけられるのである。

ナンビクワラ族の住んでいる地域は、とげとげの灌木が生えているだけの乾燥した貧しい土地で、一年の半分は雨が多い季節で、彼らは木の枝やヤシの葉で粗末な小屋を立てて定住する。そしてイモ、豆、トウモロコシなどを栽培する。これは男の仕事だ。この季の初めの神聖な儀式は、男たちが竹で作った笛を吹くのであるが、それは女がいないところでするという。
後の半分の乾いた季節になると、彼らはその小屋を放棄して、遊動の生活に入る。10人とか20人とかくらいの集団に分かれて、それぞれの全財産(ひょうたんの器、石、竹、紐、樹脂、貝殻、動物の歯、爪、骨など)を割いた竹でできた籠に入れて移動する。その間は彼らは採集生活にはいる。草木の実、根、ウジ虫、クモ、イナゴ、ネズミ類、蛇、トカゲ、蜂蜜など、食べられるものなら何でも採る。これは女の仕事だ。時には、強い日差しや雨を避けるためにヤシの葉を立てる。男たちは弓矢をもっているが、いい獲物はめったにない。採集物がとても少ない土地であるゆえに、少人数のグループに分かれて遊動した方が経済効率がよいという。

彼らは衣類はなく裸である。睡眠は裸のまま地面に寝る。彼らは砂の中で転げ回ることを好み、体は砂でまぶされている。乾季の夜は寒く、焚火の近くで、あるいは体を寄せあって寝る。昼間は水浴び、料理(イモや実を煮る)木の実や貝殻で飾りをつくる。ぶらついたり、頭の虱を獲りあったり、ワイ談や冗談を言い合ってよく笑い、いつも陽気だ。犬、鳥、猿を愛玩用として飼っている。夜が近づくと当番が薪拾い。そして家族ごとの焚火。おしゃべり、じゃれあい、夫婦は抱き合う。子供は一人か二人。それ以上はこの環境と移動生活には邪魔になる。

愛し合う二人は、人前でも抱き合って戯れる。しかし、この部族の場合、それが必ずしも性交というわけではない。それはむしろ遊戯的、感情的なたのしみであるらしい。彼らは全裸で暮らしているが、だからといって羞恥を知らないのではない。ただその範囲がわれわれとは異なるのだ。

それぞれの群れには首長がいる。首長は群れの方針(遊動の時期や方向の決定、周囲の群れとの関係など)について決定権と責任を負わねばならない。その代り、彼は複数の妻をもつという特権が与えられる。多妻とはいえど、家庭生活の単位としての本妻は一人であって、この本妻だけが、日常のこまごまとしたことをする。他の女たちは、いわば情婦、遊び相手なのだが、狩や偵察のときは首長について行く。

首長と成員のあいだには、それゆえ同意と交換とが成りたっているはずだ。首長は群れの成員にたいして気前がよくなければならない。仕事も多い、うまくやらねばならない、責任もある。だから、かの特権があるとはいえ、すすんで首長になりたがるものは少ない。しかし現実には必ず首長がいる。そのことから著者は発見する、元々こういった傾向の(公の責任という負担そのものを報酬と感じる)者が必ずいる、どんな〈社会〉も、そういった個人の差異を利用すると。

ともあれ、結論として、次の著者の言葉を引用しておこう。
「初めて荒野でインディアン(原住民)とともに野営する外来者は、これほど完全にすべてを奪われた人間の光景を前にして、苦悩とあわれみにとらえられるのを感じる。この人間たちは、なにか恐ろしい大変動によって、敵意をもった大地の上におしつぶされたようである。消えやすい火のそばで、裸でふるえているのだ。外来者は、手探りで、茂みの中を歩き回る。焚火の光の暑い反映でそれと見分けられる手や、腕や、胴にぶつからないようにしながら。
しかし、このみじめさも、ささやきや笑いが生気を与えている。夫婦は、過ぎ去った結合の思い出にひたるかのように抱きしめあう。愛撫は、外来者が通りかかっても中断されはしない。彼らのすべてのうちに、無限の優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、動物のそれのような満足を、人は感じとるのである。そして、これらさまざまな感情を集めた人間の優しさの、最も感動的で、最も真実な表現であるなにかを、人は感じとるのである。」

   長くなってすいません


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冬の到来

 早朝に窓を開ければ
 久々に冬の匂い
 両の鼻孔に入り込む
 この芳しい
 むかし懐かし
 幼時より
 慣れ親しんだ
 お手伝いさんの
 赤いしもやけの手が
 白い大根の漬物を切る
 その早朝の大気の香り

 しっとりと落ち着いた
 落葉散り敷く大気の中を
 ゆっくりと
 泳ぐように
 歩み出だせば
 鳥たちは身じろぎもせず
 こちらをじっと見つめている
 その暖かき眼差しは
 わが歩みをたすけ導き
 まだ見ぬ山々の
 霧ふかい台地にいざなう

 冷たい大気の無菌室に
 赤い太陽は
 足取り重く
 入ってくる
 いやいやながら
 氷のような雲の塊の
 後ろに隠れながら
 遠い異界から
 無邪気に放つ
 危険な朱色の光を 
 直視せず伏し目がちに
 礼拝! そして
 気にせず歩み続けよう
 冬の朝の匂いを忘れないように



        

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ソクラテスの弁明

  

S 人はなんのために生きているか? この問いが欠けている。
O いや、だれでもそんなこと考えている。
S 君の言うのは、肉屋はいかに多くの客に肉を買ってもらうかとか、月給取りはいかに多くの月給をもらうかとか、そんなことだろう。
O いや、そうとも限らない。肉屋はいかにいい肉を客に提供できるか、月給取りはいかに自分の仕事の内容を発展させていくか、そういうことを第一に考えている人もいる。
S しかし、彼らは他のことは何にも知らない。
O 他のことを知る必要なんてあるの。
S そこなんだ。人生で一番大事なことはなにか、彼らは考えようとしない。そこで私は彼らにそれを考えさせようとしてきた。
O それは余計な御世話だよ。
S だから私は嫌われる。だけどさ、私に言わせれば、それは余計なことではない。人間として生まれたら必須のことだ。
O では訊くが、君は何のために生きていると考えているのか。
S 何のために生きるのかを考えるために生きている。
O なんだそれは。抽象的な男だ。
S だから私はうっとおしがられる。分かりやすく言うと、いろいろ考えたのだが、結局、人はみな善のために生きるべきだ。
O 善とは何だ。
S 善とはよいことだ。
O よいことを善というのとちがうの?
S そうだけどね・・・あれこれのよいことのよいことたるゆえんの理念を善というんだ。
O そういうことにしておこう。それで何が言いたいんだ。
S 私は人に遭うごとに、善を目指して生きているかどうか尋ねる。
O おせっかいだね。そんなことをいちいち考えている暇人はめったにいないよ。
S しかし、なぜか若い人は、私の言うことに納得して、ついてきてくれる。
O 暇だからだよ。彼らも仕事をしなきゃならないようになったら、そんな善問答はしなくなるよ。
S 仕事をするようになってもついてきてくれる若者もいる。
O だから彼らの親たちは君を告発したのだ。君は若者を堕落させていると。
S 知っているさ。
O なぜ君はみながその人なりに善を目指しているのに、それにちょっかいをかけようとするのだ。
S 私がいろいろな人に問いかけて分かったことだが、たいていの人は善など目指していないよ。彼らが考えているのは効率だよ。
O そんなことはない。君のようにうまく理屈が言えないだけの人もけっこういると思う。
S 大抵の人は、自分が何をやっているのか知らない。そしてかなり老いぼれてきてからなんと、一番大事なものは金銭か知名という。
O ぼくは健康第一だと思うな。
S それは当然だよ。しかし、それは健康でないときの言うセリフさ。君こそ抽象的な男だ。私が言っているのは、健康であることを前提として言ってるんだ。で、金が一番大事だと言う人はまあいわゆる凡人といい、知名が一番大事という人を空想家というのさ。空想家の中でもいちばん厄介なのは知識人と言われるやからだね。政治家が知名を大事にするのは当然だが、いわゆる知識人は自分のことを知識人として名が通っていることを喜ぶが、じつは彼らは無知なのだ、そして彼らがいかに無知かをそれとなく教えてやっている私の親切が分からない。
O そういう人たちをほほえましいとして放っておけないの。
S 放っておいてはいけない、と私のダイモンが命じる。そして私はその命令をきかないわけにはいかない。だから私は嫌われる。
O 知識人がそんなに無知なの。ぼくには分からないな。
S 彼らの知識というものはたいてい専門知識にすぎない。あるいはもっと他のいろいろな知識を持った人もいるけどもね。しかし、それは世に流布したただのニュースだ。彼らは分かり切った事を互いに言い合って悦に入っている。彼らは知恵者ではない。何のためにそのような知識を持つ必要があるのか尋ねられたらだれも答えられないんだ。
O でも、人間っていろいろなことを知ること自体が楽しいのではないのかな。楽しんではいけないの。
S 楽しむのは・・・まあほほえましいね。だが、自分に対して嘘をつくことはいけない。彼らは自分を知恵者だと思い込んでいる。その誤りを正してやらなければならない。
O 知恵者でなければいけないの。
S 真の知恵者は善を目指すことで。・・・それは自分に嘘をつかないことが必要なんだ。
O 善、善って、君もしつこいね。
S いつもそうして私は嫌われる。しかし、私はどうしてもよく生きること、つまりいつも善に照らして生きるということだけど、これだけを何よりも大切にして生きるということを言っているだけなんだ。そして大事なことは、それを私一人で考えていてはいけない、どうしても他人と問答し、彼らにもそのように考えさせよ、とダイモンが要求するのだ。
O そんな生き方をしていると、君はどこにも居場所がなくなってしまうよ。
S だから妻にも嫌がられるし、まあそうなってもしようがない。ぼくは死ぬことを恐れてはいない。なぜなら死とは何かまったく知らないからだ。それをあたかも知っているかように語る人がいるが、嘘をついているとしか思えない。
O ちょとおかしいよ。死とは何か知らないから死を恐れないというのは。むしろ人は死について痛いとか、地獄とか想像するから恐がるのさ。知らないから想像してしまうのだよ。
S 想像にもとづいて結論づけるのがいけない。知らないことは知らないと言えばいいのだよ。ぼくはまったくいろいろなことを知らないよ。肝心なことは知らないことだらけだ。あの例の知識人は、なんでも知っているようなふりをしているけれど。考えないからそう思ってしまうのだ。
O なんとでも思わせておけばいいのじゃないの。きみも原理主義的だね。
S ぼくは人間の無知を暴いてやりたくてたまらないのだ。
O おせっかい病だね。君のような人間はどこか人里離れたところで一人で生活すればいいのだ。
S そういうわけにはいかない。ぼくはどうしても人と問答しないではいられないのだ。
O やっかいな男だね。


  S:Socrates   O:Ordinary man
 

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Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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