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神宮の祭

先日、伊勢神宮と春日大社とを取り上げた番組を見た。ここでは奈良・平安の昔より延々と続くお祭りが、じつに多くのお祭りが、密かに今なお全く同じ形式で続けられていることに改めて驚いた。

 一例をあげれば、日ごと神に供える新撰。米は専用の田んぼで古来の手法での田植えや稲穂取りを神官らが伝統の衣装を身にまとってする。塩も同様、専用の塩田で日を重ねて作る。海山の幸もきっと決まった所からのものであろう。

 また、神前に供える工芸品も昔ながらの手法・手続きで作られる。例えば織物は、その図面すら昔のものを、同じ素材の筆を作り、同じ顔料で、手で書き写すことから始める。毎回そうなのだ。コピー機がある現代の目で見るととても非効率的だ。手は機械ほど正確でもないから、ちょっとしたミスがあってもやり直さねばならない。

 しかし、あえて昔ながらの形式を踏むことによって、神への供え物を創るという気持ち、緊張感・努力感・喜びを体験できるのだろう。だからその形式は古くて新しいものだ。そう思うと、たとえば伊勢の式年遷宮というのは創造の源泉に立ち返ることなんだ、最も古くてもっとも新しい感情の源泉なのだと思う。

 現代では、われわれの住まいから日用品まで、すべてはいかに高級品でも大量生産品であって、われわれ日本人は、これらはみな偽物ではないか、どこかに〈本物〉が在るはずである、どこかに文化の中心が、オリジナルが、われわれの身の回りの品々が出てくる遠い源泉があるに違いないと信じているのではないか。

 〈手作り〉という言葉にわれわれが感じているニュアンスには、ちょっとそういったものがあるのではないかな。めんどうであるし、不確かでもあるが、真剣に時間をかけて作ったものには、作った者の心が込められていると感じている。神社の儀式には多くそれがそのまま残っている。


            


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佐野の渡り



藤原定家39歳、後鳥羽院への詠進百首のうちの一首

 駒とめて袖うちはらふ陰もなし
 佐野のわたりの雪の夕ぐれ  


本歌は万葉巻三にある長忌寸奥麿(ながのいみきおくまろ)の歌、

 苦しくも降りくる雨か三輪が崎
  佐野のわたりに家もあらなくに


 本居宣長は定家の歌を評して、「とてもよい。万葉の歌の、〈苦しくも降りくる〉と〈家もあらなくに〉という心を〈袖うちはらふ陰もなし〉と一言ではっきりと表現している。そのうえ、夕暮れという語でもって宿家がないことをも表している。このごろ、もっぱら万葉振り至上主義者がこの歌を悪く言うが、それは偏見というものだ。〈袖うちはあらふ陰もなし〉は苦しい心も家のない心も備わってとてもよく哀れがでているではないか」と書いている。

 まったくその通りで、また万葉の雨を雪と変えたのは効いていて、両者の歌を比べて見ると、その姿の違いは明瞭で、鎌倉初期の定家の歌は斬新で、スマートな芸術作品という感じがする。

 ところで、奥麿の歌った三輪が崎の佐野の渡りとは、今の新宮市三輪崎佐野の川の渡し場という。しかし定家の歌の佐野のわたりはどこのことだろうか。こう問うことは野暮ったいことのような気もする。本歌を離れた言葉は現実から遊離し、あるイメージだけを喚起するいわば表音文字となる。

 安東次男氏の本で知ったのだが、源氏物語の「東屋」で、薫が浮舟の仮の宿を訪ねるところ、

 「さののわたりに、家もあらなくに、など口ずさびて、里びたる簀子の端つかたに居給へり。・・・」

 当時、奥麿の歌は自然に口に出るほど有名であったのかもしれないけれど、すべての歌が頭に入っていた紫式部のことだから、この場面に相応しい歌として薫るに口ずさませたような気がする。

 そして、『新古今和歌集』においては、定家の歌の続きに、良経の「待つ人のふもとの道は絶えぬらん軒端の杉に雪重るなり」があって、両者を並べて見れば、


駒とめて袖うちはらふ陰もなし
     さののわたりの雪の夕ぐれ

待つ人のふもとの道はたえぬらむ
軒端の杉に雪おもるなり

 安東氏によれば、これは「王朝の恋から無常までの物語を、続きの歌で言い現した、・・・前歌は男で後歌は女の姿である。・・・これは宇治十帖の恋の結着をおもかげとした仕立てだということは容易にわかる」と言う。そして「浮舟」の巻で、雪深い山道を踏み分けて宇治を訪うた匂宮を連想している。たしかに、こう言われると定家の歌がまた新たな、まるで美しい屏風の絵を見ているような、感覚を呼び起こす。

 『新古今』が『源氏』を意識して編集されたということがあるのだろうか。まあ、それにしても言葉はイメージを蔵して人々をめぐり、日常言語の中にさえ伝統として生きる。いったいリアリティとは言葉の側にあるのか、事実の側にあるのか。


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初釜に出る

 昨日、初めて初釜に参加させてもらった。先月、家人に近所の茶道の先生宅に連れていかれて、そこで一服お茶をいただいた。その御縁で、初釜に招待していただいたのであった。じつは近年お茶を習う生徒さんが激減してきたらしく、それでまったく素人の小生も今回の初釜に駆り出されたというわけである

 それにしても、これはよい経験であった。まず場所がよかった。小さいながらもこの町では一番と言われている老舗の料亭兼茶会所だ。玄関を入る。大きな李朝の俵壺に南天が活けてある。昇る初日に瑞雲が棚引く。


        玄関

奥へ歩みを進めると実に古色を帯びた丸木や椅子がそれとなく置いてある。
 
椅子1 椅子2



 四畳半ほどの控室で待つこと半時。床の間の軸に「石をなげて羊をうつ、竹を削って千金をあたふ」?と読める賛、絵は茶杓。古い銘木を思わせる床柱はむろん、小生はとくに床框(とこがまち=前の縁)に目を奪われた。これは敷居(障子などの下の横木)を、そのままあてがったものである。この屋敷はそのむかし移築して造ったと聞く。きっとその時、この小部屋の床框にそのとき余った敷居の木を利用したものであろう、今ならそのようなものは廃材として捨てて顧みないであろう。この小部屋をしつらえた人の合理性と美的創造性は茶道に通じるものではあるまいか。

     小部屋床




 しばらくして、別室に呼ばれた。そこでまず煎茶を立てていただいた。床は寒牡丹が一輪、軸は「一花開天下春」、そして左上隅から柳の枝垂れ長く流し、その先は大胆にも床框をはみ出している。右隅に小さな木製の飾り物が置いてある。

     煎茶床の間


 一煎いただいた後、先生は全周に墨で文字が書かれた桐箱を出し、皆の前で、「今日はこれを○○さんに読んでもらおうともって来ました。」と言う。○○さんとは小生のことだ。これには困惑した。ほとんど解らない。最後の鉄齋筆というのだけは解る。小生は、とりあえず目を通し、それを皆に回した。

 どうしよう、先生がああ仰るのに何も言わないのは失礼だし、場を白けさせてしまう。しばらく先生と正客との会話。それが途絶えたとき、小生は意を決して「では、判るところだけ読んでみます」と言って、箱を再び手に取り、額と背後に冷や汗を感じつつ、「なるほど、これはなんとなく鉄齋の気宇壮大な心が出ていると感じます」と大きく出た。そしてところによっては漢字をそのままに、ところによっては意味を想像して、できるだけ声が小さくならないように注意して、適当に読んだ。もちろん、まったくお話にならないので。最後に「そんな感じかな。よく解りません。」と付け加えた。もちろん耳をそばだてていた客たちは〈皆目わからん〉という顔つきである。

          桐箱


 しかし、小生はそれでいいと思った。どうせみな分からないに決まっているのだ。ただ、恐らく先生だけは小生の出鱈目に気付いている、が小生は先生の茶人としての粋を信じたのである。茶の心は〈おもてなし〉に尽きるはずだ。それなら、先生は決して場を白けさせないように、またすべての客たちにイヤな思いをさせないように、上手にその場をフォローして下さると信じた。じっさい先生は上手く取りなしてくれた、と思った。

 それから、客たちは、水を打った路地(中庭)に導かれ、型の如く順々に蹲(手水鉢)のところで手と口を清め、別室へ入る。茶道に暗い小生は、できるだけ前の人の真似をして進むのみであったが、しばしば無作法をしたようだ。分かっても分からなくても、軸や道具を畳に手をついて左に右に鑑賞し、お茶碗が回ってくると一言、感じたことを口にする。
 
路地2  路地1
    

 ここでお酒と食事。濁り酒は美味しかったが、小生はあまり飲めないので残念であった。本来この場でこそいろいろとおしゃべりをするべきなのだと感じた。右となりは先生であったので、このさいと思っていろいろと質問したが、先生の声が小さくて、しかも小生の右耳の聴覚は悪いので、半分くらいしか聞こえず、適当に相槌を打たねばならなかったのが辛かった。先生が仰る、今ではお茶と言えば女性のモノみたいだが、もともと茶道は男性のモノだった。最近は大学の茶道部に入る人は居るのだけど、ほとんどは就職活動で辞めていく、卒業後女性もみな仕事に忙しくなるから茶道などやっておれない、時代が変わってきました。

 後で家人に聞いた話だが、昔は生徒さんが沢山いて賑やかだったが、今は招待しないと初釜が開けないくらになった。先生も昔ほど迫力がなくなり、少し記憶力も衰えられ、間違いもときにされるようだ。

 こういった話を聞くにつけ、今後茶道の世界はどうなっていくのだろうか、と考えざるをえない。自宅に茶室を設け、四季折々に相応しい大量の〈お道具〉をお持ちの先生方もそのうち居なくなる、その後は誰かこれらを受け継いでいく人は居るのだろうか。高価なものは骨董屋の餌食になり、ついには諸外国にばら撒かれてゆくのだろうか。学校を出てすぐ働く女性たちは、何のために仕事をするのか、むろん〈生きてゆく〉ため、そして仕事を通じて〈自分を向上させる〉ためであろう。がしかし、そのとき日本人が長らく育んできた〈おもてなしの心〉の故郷の喪失感を味わうのではないか…。


 食事の後、いったんその部屋を離れて、トイレに行ったり、庭を眺めたりする。そして再度、路地を通って、同じ部屋に入る。新しいお道具が用意され、軸は変わっている。そして、濃茶と薄茶。お道具拝見。最後に、ラウンジにてデザートとコーヒー。一部の人たちが先生のお道具をたたんでまとめている間、屋敷を一人あちこち勝手に眺めまわした。


            

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夢の浮橋

藤原定家の名作のひとつ

  春の夜の夢のうきはしとだえして
     峯にわかるるよこ雲の空


 新古今和歌集に散りばめられた美しい宝石の一つであり、古来ああだこうだといろいろな解釈をもっていじくりまわされている。誰でも好きな物について、いかなる評価や説明も虚しいものだとは知りつつ、それでもなお語りたくなるものだ。素人の小生でもそうだ。

 だれでも春の夜と聞けば、心地の好い空気を感じる。そこでの夢は甘いあこがれ、ゆかしい、心が惹かれるような夢、そしてそれがとだえるとは、その余韻がだんだん薄れていく、さらに追っていきたいような気持が微かにのこっていて、しかしそれを敢えて意識的に追っていこうとすると逆に遠のいてしまう、その微妙な気持ちを保ちつつ目をあけると、空にはたなびく雲がゆっくり動いている。山の端からまさにいま離れようとしている。

 むしろ、春の夜という薄明の意識、すこし目覚めてふと目に映った雲の動きが、かの甘くゆかしい夢を誘い出したのではないか。いずれにしろ、浮き橋はあの世とこの世とつなぐもの、そしてまた峯と空をつなぐものであり、雲は絶えず動いていくもの、つまり時間の象徴ではあるまいか。

 春の夜とは春の世、すなわちこの世であり、夢の浮橋は物語の終わりを、薫と浮舟の運命を、俗世と来世を、暗示する。そして、この世であれあの世であれ、すべての出来事は、空に描かれた劇にすぎない。空(そら)とは空(くう)である。

 この歌は連作であって、その直前の歌をあげておこう、これもなかなか好きだ。

    大空は梅のにほひにかすみつつ
        くもりもはてぬ春の夜の月



          

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花も紅葉も

 藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋のゆふぐれ」。この歌は三夕の歌の一つとして有名で、たいていの人が知っている。昔は浪花節みたいでふざけた歌でどこがいいのと思っていたのだが、いつだったかある日、これはすごい面白い歌ではないかという考えが頭をよぎった。

 何と言うか、この歌は『新古今和歌集』の新しさを評していて、またそれゆえにその先をいっている。いわばメタ認識の文学と感じさせる。あるいは形而上学的な、つまり、詩人は、パズルでもするように、言葉の論理的な組み合わせによって、新しい次元の世界を現出させることができるということの発見。ふと思い出したが、〈言葉の錬金術〉というのがぴったりくる。

 いや、あるいはまたSF的と言えるかもしれない。考えて見れば、われわれは古代より浦島太郎やかぐや姫の物語を好んで話していた。「猿の惑星」ではないが、いつもの海浜の景色を見たら、あれほどあでやかな景色がぱっと消え、信じられない灰色の世界になっていた。むしろそう受け取った歌人たちも居たのでは、とも想像できて面白い。

 さて一般的には、一見あばら屋しかない海浜の茫漠たる景色について詠ってる、ここに〈花や紅葉〉という言葉を入れることによって、一瞬われわれの脳裏に鮮烈な記憶を呼び出し、それが〈ない〉ということによって眼前の景色のいっそううらぶれた印象を強めている、と評される。

 そしてまたこの歌は、ときに指摘されるが、紫式部の『明石』にいわゆる「なかなか春秋の花、紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに…」の、海鳴りばかりの海浜のあはれを歌にしたとも言われる。

 しかしそれにしても、定家の歌はそのような独自のいわば抒情性を欠いている。それは一つには「見わたせば」という唐突な始まりにあり、そしてまた、〈花も紅葉も〉と〈苫屋〉との無礼な対比、無機的な直結にある。そして縁語や枕詞を援用せず「なかりけり」できっぱり断定する。向こう意気の強い25歳の定家のふとした勇み足か、しかしそれはその後の天才の運命を決したよう思われる。そこには西行の〈あはれ〉はまったくない。

 むろん伝統的な和歌としては失格かもしれないが、これを定家が狙ったと考えると、やはり非常に斬新な歌に見えてくる。むしろ歌という形式ならでは可能な新次元の発見と言えないか。西洋絵画史におけるセザンヌのように、いわばパーソナルな視点を離れたところの純粋な知覚世界の存在を、言語でもって垣間見せたとは言えまいか。

            *

 定家のこの歌は茶人たちにもてはやされたというところが、小生には面白く感じられる。『南方録』に曰く、

 「紹鷗のわび茶の心は、新古今集中、定家朝臣の歌に、

  見わたせば花も紅葉もなかりけり
     浦のとまやの秋の夕ぐれ

 この歌の心にてこそあれ、と申されしとなり。花紅葉はすなはち書院台子の結構にたとへたり。その花紅葉をつくづくとながめ来たりて見れば、無一物の境界浦のとまやなり。花紅葉を知らぬ人の、初よりとまやにはすまれぬぞ。ながめながめてこそ、とまやのさびすましたる所は見立たれ、これ茶の本心なりといはれしなり。…また宗易いま一首見出したりとて、常に二首を書きつけ信ぜられしなり、同集家隆の歌に

  花をのみ侍らん人に山ざとの
     雪間の草の春を見せばや

 これまた相加へて得心すべし、云々。」 ・・・

『千利休事典』によるとこのことを、「〈侘は清浄無垢の仏世界〉をあらわすと説いた利休は、紹鷗が定家の歌で侘びを表現したのに対し、なお加えて家隆の一首を取り上げて、自然界の伊吹の中に侘びをとらえることによって、遊芸からは程遠い精神的な働きを重視する草庵茶道の理論化を完成させたのであった。」と書いている。

 それにしても、利休はどうしてこの二首を並べて信仰したのであろう。一見家隆の一首だけでも充分であるように思われるが。紹鷗への敬意からであろうか。それとも、定家の歌という初動が必要だからであろうか。小生にはどうもそのように思われる。
 
 〈雪間の草〉に自足する心は、俗に在りながら俗ではない。この心を会得するには、いったん定家の錬金術によって、この分かり切った世を離れた真の自然界を垣間見る経験がなくてはならない、そして一たびその経験をした者は再びのこの世に還ってきたとき、いわば新しいヴィジョンを得る。彼は人の世を違った風に見、生きる。そんなふうに空想する。




     

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出雲旅行

生まれて初めて年末年始の家族旅行をした。足かけ三日の出雲旅行。足立美術館、宍道湖の夕日、出雲大社、日御碕神社、玉造温泉、松江城と堀川クルーズを楽しんだ。

 宍道湖の夕日

   宍道湖夕日




    寒風に逆らって見る夕日影
        しだいしだいに大きくなりぬ




     立ち騒ぐ湖面の波の散りぢりに
          光り輝く一筋の道



 出雲大社では、冷たい雨の降る中、オオクニヌシ神の数奇な運命を思った。この神が数々の受難を通してこの国の神になったこと、出雲の話が『古事記』神代の多くを占めること、そして、この地域はその昔、一大交易都市であって、当時は日本海側が表玄関であったことを考えたり、家族一緒に写真を撮ったり、拝殿前でここでは礼と拍手はいくつどうするのか話合ったり人に訊いたりして、落ち着かず、何をお祈りしたのか憶えていない。

 松江城堀川クルーズ(雪吹き付ける朝)

      堀川クルーズ
  


    雪の日に舟乗る客の居ることの
        船主の不審晴れて出発



      松江城
  

    冬の日に似合ふすがたの松江城
        古武士のごとく凛としてをり



     


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うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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